かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「出版不況」という表現が、問題解決を遠ざける

2020年06月14日 | 出版業界とデジタル社会

    ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール
   『もうすぐ絶滅する紙の書物について(CCCメディアハウス)

上記写真の本を載せましたが、私は紙の書物がもうすぐ絶滅するとは思っていません。大幅に市場規模が縮小することは間違いないことですが、無くなることは当分ありません。
 この写真を使用したのは、ただ表紙デザインが素敵で、私のホームページのタイトル・ヘッダーで使用しているので、問題提起イメージとして使用しました。


しかし、

 いまだに私たちの業界では、長引く「出版不況」により、書店数は減少し続け、書籍・雑誌の販売額も下降の一途・・・

といったように「出版不況」ということばがよく使われています。

このように、なんの悪気も悪意もなく、なんの疑問も違和感もなく使われているように見える「出版不況」という言葉ですが、わたしは明らかにこれは適切な表現ではないと思っています。

 

そもそも「不況」という言葉は、単に景気が悪い状態を指す表現の一種というよりは、好況・不況の景気循環の中で使われるニュアンスがあります。

さすがにこれだけ明らかな下降曲線が、1996年頃をピークにしてずっと続いている現状では、簡単に上向きに転じる時期が来るなどと思っている人は滅多にいないでしょうが、それでも「不況」という言葉で語ってしまうと、どうしても何が原因でこうなっているのか、何を解決すればこの「不況」が解決できるのか、といった具体的なことから目を背けることになってしまいます。
小さな出版不況なら乗り越えられたのでしょうか。大きな出版不況だから乗り越えられないのでしょうか。
問題は、そういうことではないはずです。


特に強調したいのは、今の「出版不況」といわれる下降線の数字の圧倒的要因は、出版界固有の問題というよりも、日本経済全体の問題が圧倒的部分を占めているということです。

確かに出版業界固有の流通改革の遅れ、デジタル化やネット市場の拡大、変化など、独自に解決していかなければならない問題はたくさんあります。
しかしそれにもかかわらず、数字が悪化している要因の大半は、国民の平均所得、サラリーマンの賃金が上がらず、可処分所得が下がり続けていることにあると思います。

 


この20年で国民の平均所得は120万円減り、サラリーマンが安定した仕事ではなくなりました。
こうした基礎所得が減ると最中に消費税をはじめとする公的負担も増加しているのです。

国民の可処分所得の減少は、当然出版業界ばかりにに強く反映しているわけではなく、小売業全体、飲食業、観光業、日本経済全体に及んでいます。

日本のほとんどの業界の1995年以降の数字は、この基礎の上に成り立っています。それを不用意に自分の業界特有の問題に還元してしまうことは、結果的に国民の分断をもたらし、根本課題の解決から国民意識を遠ざけることになります。

 

 


こういうと、自ら努力することをせずに、問題を他人のせいにしてしまう論理にも思われがちですが、まったく違います。

こうした国民共通の課題に立ち向かいながら、従来の産業構造から脱却するための業界固有の課題に取り組まなければならないからです。

国の財政構造、税のしくみ、世界の金融支配のしくみ、地方の自治能力、激変する最先端情報技術・・・等々

以上示したようなことは、国民全体のスタートラインの変更にかかわる問題で、個々の事業者の課題はこれとは別に、その後も存在し続けます。



より大きな要因となる問題に一つひとつきちんと向き合い、幅広い人たちが分断されずにつながり協力することでこそ、個別の事業体の小さな努力も実を結ぶことができるはずです。
(このあたりの問題は、「戦略の誤りは、作戦や戦術の成果では取り戻せない」といったテーマで詳しく書く予定です)

そして書店や出版業界は、何よりもこうした課題の実態を知ったり、解決の手がかりを学んだりする最大の情報提供者という地位を持つものです。

切実な課題の情報提供者であることに力を入れず、ひたすら消費拡大のための市場刺激策ばかりに走ってはなりません。

このたびのコロナ禍によって、世界全体が大きく揺れて、社会構造の変化も加速していくことと思います。安易に私たちに都合の良い社会がはじまるとは期待できませんが、確実に世界の危機は、より面白い方向への変化をもたらしています。

というのは、デジタル技術をベースとしたやロボット、AIなどの発達・普及によって、これまで以上に世の中は従来型の人間労働はいらなくなってきているからです。

それは、ただ私たちの仕事がなくなってしまうということではなくて、人間がしなくてもよいこと、そもそも不要な生産活動から解放されて、人間にとってより必要なこと、大切なことができる社会が加速的に進んでいくということです。

これまでどんな業界でも、売上数字を維持するためだけや、生活を維持するためだけの生産や販売があまりにも多い時代が続きました。確かに生活のために背に腹は代えられない現実があったかもしれませんが、それではなぜこれほどまでに世界には「カネ余り」の現実が進行し続けているのでしょうか。

もう必要なものはすべて揃っている時代です。

どこも業界の内側だけみていたのでは、この可能性に満ちた世界の未来は開けません。

学び考え続けること、試し続けることが約束された環境にある今、出版業界・書店業界だろうが、百貨店・スーパー業界であろうが、観光、ホテル・旅館業であろうが、製造業、第一位産業であろうが、私たちが「変革に必要な手段はほぼすべて持ちうるこれからの時代」には、何も問題はありません。

問題は、私たちの自由な暮らしと働き方をどう自らが組み立てるかということです。

明るい未来に向かって自由な想像力を思う存分に発揮していくために、本ほど手軽で安価なツールはないと思います。

 

 

 

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「見る」情報に駆逐される「読む」情報の復権

2020年05月12日 | 出版業界とデジタル社会

【ブックカバーチャレンジ 5日目】より転載

瞬時にしてネットで世界中に情報が拡散される現代、世界には「見る情報」ばかりが溢れて、「読む情報」はとことん駆逐される傾向が加速しています。

見る情報の代表であるテレビ番組に関わった辺見庸は、「わかりやすいメッセージを探ろうとし、物事を単純化する。テレビの作業はほとんどそうです」と述べています。

本屋や出版業界の「本の文化」を守ろうとする側からしても、こうした見る情報側のテレビやネットメディアに負けないためにも、よりわかり易い情報の見せ方を「進化」させ、タイトルの表現、表紙デザイン、文章の組み立て方をより簡潔にわかりやすくする努力が重ねられてきました。確かにそれは必然であったかもしれませんが、そうした努力が結果的に「見る情報」に限りなく擦り寄るばかりで、自らの強みであるはずの「読む情報」の進化や改善を怠ることになってきてしまったように見えます。

「民衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決める」
                     アドルフ・ヒトラー『わが闘争』

このブックカバーチャレンジも、「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ」であるとするならば、どうしてもこの「読む情報」との付き合い方を問わずにはいられません。良し悪しの問題ではなく「読む情報」の普及のために「ブックカバーを見る情報」を溢れさせる戦略だからです。

では、「情報」とは、どうあるべきなのでしょうか。

そうした「情報」の最先端でもあり、失敗の宝庫でもあるのが「戦時」の情報の得方、活かし方です。
一般にこの問題では『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(ダイヤモンド社、中公文庫)がすぐに思い浮かびます。本書を歴史的名著としてあげる人も多いようですが、私にはいまひとつピンとこなかったので、今回は堀英三『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』(文春文庫)をあげさせていただきます。

現代から振り返る太平洋戦史で、大本営について良いイメージで語られることはほとんどありませんが、本書は当時その只中にいた参謀が、組織内部のリアルな実態を見せてくれます。
大本営の中には、堀英三の所属した情報部の他に陸軍の大本営と海軍の大本営があり、さらには奥の院といわれる謎の領域があったと評していますが、読んでいるとなにか今の縦割り行政と自民党と官邸の世界を見ているような錯覚に陥ります。

そのような環境下で堀英三は、情報参謀としての仕事の困難を以下のように表現しています。

「戦争となると、お互いが命と国運を賭けて争うのであるから、相手の企んでいることを探ることは、勝敗の最重要事となってくる。

 ところが古今東西の戦争中の例を見ても、相手の意中を知る情報を百パーセント集めて、左団扇で戦いを進めた例は皆無である。これが戦争というものであって、実際の戦場では知りたい情報の半分にも見たない情報で、敵の意中のわからないままに、暗中模索の中で戦いを進めていることがざらである。従って、百パーセントに満たない空白の部分を、どのように解明し、処理していくか、これが情報の任に携わる者の最重要な仕事である。」

ここに記されている当時の実態を見ると、ウソや誇張の代名詞のように使われる「大本営発表」が、実際は現場の戦果が米軍のような戦果調査の飛行機を飛ばし写真撮影するようなシステムがなく、そもそも正確な戦果が大本営に伝えられていない実態があったことを知りました。

現代から振り返れば、あり得ないことばかりがまかり通っていたわけですが、それでも、現場サイドでは、不十分な人員や機器の中で知恵と労力を絞り出せば、整った体勢をもつ組織以上の成果を出すこともありました。

しかし、その成果こそが、判断を根本的に誤らせる結果になってしまいます。

「しょせん戦略の失敗を戦術や戦闘でひっくり返すことは出来なかった」

私がよく強調する実践重視の発想も、よくこの誤りを起こしがちになります。

これだけ優れた戦略知識をもつ堀英三でも、最も大切な戦略は見誤っていると私は思います。
国民の生命や財産を守るための国家や軍隊が、国民の生命や財産を犠牲にしてでも守る価値観を戦略の柱に据えていたからです。

戦略の誤りは、取り返しのつかない結果をもたらすだけでなく、戦術相互の対立をおこし、意図せずに敵の手助けもしてしまう危険については、最後の7日目のブックカバーチャレンジであらためて触れます。

 

情報に頼ってしまうときに、もうひとつ気をつけなければならないのが「知識」と「知恵」の違いです。

現代のように情報が台風のように吹き荒れているときには、身を低くかがめて「情報」の嵐は出来るだけ避けながら、より深く広く根を張ることこそ優先されなければなりません。

木に例えるならば、地上の枝や葉が「知識」であり、地下に広がる根こそが人類の歴史で積み重ねられた「知恵」であるといえます。

下の図は、かつて場違いの会議で資料として出してしまったものですが、地上からは見えない地下の部分にいかに大切なものがたくさん眠っているかを表したものです。


木のイラストを内部資料として作成するために利用させていただいたので、著作権のサインが入ったものを無断使用しています。


意識しないと見ることの出来ないこの地下の部分には、普段見ている木の上の部分と同等、もしくはそれ以上の大きさがあります。

地上の枝葉と同等以上のものが地地下の部分にあったとしても、それを見るには地上の枝葉を見る以上の努力をしなければ、それを見ることはできません。「見える」世界ではなく「読む」世界だからです。

この地下の「読む情報」は、同時に「歴史」であり歴史に積み重ねられた「知恵」でもあります。まさに読書の世界は、こちらの側にこそ重点があるはずです。

情報の嵐が吹き荒れる現代こそ、地中に深く広く根(歴史・知恵)を張れば、新しい知識ばかり追うことなく、揺るぎない安心と幸せを得ることができるはずです。
人間は、それを特別な努力をしないと見落としてしまいがちですが、自然界では元々地下から上に伸びて成長するものです。一時的に見失うことはあっても、ずっとそこに存在し続けていることは間違いありません。

それは、圧倒的部分が私たち人類や地球生命がすでに経験し、備えているものだからです。

 

 

 

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読書を自己目的化してしまうことへの危惧

2019年08月05日 | 出版業界とデジタル社会
以下は、「かみつけの国 本のテーマ館」に書いた大変古い文章ですが、
いづれ閉鎖するホームページなので、以下に転載しておきます。 
 
 
   本が読まれなくなった。
 本が売れなくなった。
 本屋の仕事をしていると、いたるところでこうした言葉が耳に入ってきます。
 
 もっとも売れない売れないといっているひとですら、それほど本を買って読んでいる時代ではないので、いわずもがなの感もある。
 もちろん、本は読まなくても立派な本を出版することは出来るし、たくさん売ることもできます。むしろ商売上では、読まなくては売ることができないと思い込んでしまうことのほうが害は大きいかもしれません。大手コンビニで成功している販売哲学によれば、作り手や売り手が下手に内容に関知することよりも、読者、利用者の需要を徹底して追いかけることの方がはるかに大事であることを強調しているのは決して間違ったことではありません。
 
 ところが、そこまで考え方も実践も徹底しない人に限って、誰かにもっと売れる本を作ってほしいとお願いするばかりであったり、誰かに本がどんどん売れる(読まれる)システムを作って欲しいとおねだりするばかりになっていることが多いようです。
 相変わらずなんでもたくさんつくり、たくさんおく、これまでの慣れ親しんだ方法が通用しなくなったと知りながらも、脱却できないでいる企業もあまりに多いのではないでしょうか。
 どう考えても、いまのままじっと待っていても、数年で良くなるような世の中ではないのに。
 
 
 こうしたお決まりの現状を見れば見るほど、こじつけといわれるかもしれませんが、本が読まれない(売れない)現実と、不況・デフレが解決する目処のたたない日本の現実は、根をまったく同じくした問題であると感じずにはいられません。
 
 
 それは、本が読まれない理由として、本以外のTVに代表されるメディアが発達したことなどがよく言われますが、本を読まずにTVなどの情報で済んでしまっている現状をみると、そうした理由だけでなく、目の前の現実に対する関心自体が薄れていること、問題を深くとらえることに意味を感じなくなってきてしまっていることの方が、より深刻な問題のような気がします。
 
 
 随分古い時代の例で申しわけありませんが、まだパソコンがMS=DOSをOSとして動いていた時代にデータベースソフトでdBASEⅢというのがありました。当時、コンピュータ書の知識もろくに無かった私は、このdBASEⅢ関係の本が突出してよく売れるのが不思議でなりませんでした。
 そんなにこのソフトは普及しているのだろうか?と疑問に思い、コンピュータ書の出版社営業の人に聞いて見ました。すると、かえってきた答えは、このソフトはそれほど普及しているものではないが、とても難しいソフトだから、本がよく売れるのだとのことでした。
 なるほど、と思いました。
 
 わからないから本を頼る。わかりにくいから本が売れる。
 これが基本なのではないでしょうか。
 
 これはなにもコンピューター書や実用書に限ったことではなく、ちょっと拡大解釈すれば、小説のたぐいであっても同じことが言えると思います。
 恋愛や家族のことなど人間関係やひとの心の問題が、誰にとっても容易にはわからないから、様々な他人の生き方を参考にしたり、励まされたり、共感したりする。ひたすら人間存在がわからないから、あらゆる本にたより、またあらゆる分野の本が売れていくのだろうと思います。
 人間存在に代表される、より難解、不可解、理不尽な問題ほど、ひとびとが本に頼るのはごく自然な姿だと思います。
 それなのに、本に頼る必要を感じないという日常生活とは、いったいどのようなものなのでしょうか。答えだけであれば、確かにTV、新聞・雑誌、などいたるところにみることが可能です。
 
 しかし、本を頼らないそれらの知識は、その多くが自ら選択した情報ではなく、川上から流れてくる情報を自動的に受け入れるばかりのものです。
        
 
 
 
 
 このことを、現実に流通している本の実態に即してみると、もっと強く感じます。
 私が以前、別の書店に勤めていたとき、あるお店の増床のために主要都市の大型店を見てまわった時に感じたことがあります。500坪1000坪の大型店といっても、結局はほとんどが「総合実用書店」ではないかといった印象をもったことです。
 
 
 とかく本について多くを語る読書好きの人びとは、どうしてもミステリーなどの小説を読む人達に集中してしまう傾向があります。ところが、現実に読書、本を読む人々の人口構成比は、実際に売れている商品の構成比からみれば、純粋な文芸小説類を読む人々の比率は意外に少なく、むしろ、日常の仕事や生活で必要になる様々な実用的専門書や実用的娯楽書のたぐいが市場の圧倒的多数を占めているのが実情です。
 
 ちょっと業界紙『新文化』に掲載されている、日販調査の「書店販売動向」のデータから、2003年6月の売上げ構成比だけをみてみましょう。
 
 ジャンル別売上構成比(%)      
分類 
平均構成比 
雑誌
37.2
コミック
19.6
児童書
3.0
実用書
10.4
文芸書
6.2
文庫
9.2
新書
2.0
学参書
3.2
専門書
5.7
その他
3.5
合計
100.0
    (2003年6月期)
 
 このなかで、いわゆる文芸小説といわれる分野の本は、文芸書の約半分未満と文庫の3分の2程度のもので、あわせても全体の1割程度。
 しかも、この調査は一般的な書店を立地別、規模別に104店のサンプル店から抽出したデータで、出版市場全体でみると、金額ベースでみれば、もっと比率の高い外売りルートの医学専門書や官庁・学校関係の販売データは含まれていないと思われます。
 
 このデータからも書籍販売に対する考えを、もっと文芸小説重点から改める必要を感じます。もちろん全国の書店の文芸書担当者が、いくら文芸小説が好きであっても、それに偏った仕入れや品揃えをしているわけではないことはわかります。
 しかし、話題にされる比率は、どうしても小説以外のノンフィクションや実用書の仕入れや販売管理については少なく、実際に棚を見れば、主要版元の常備品で埋められているだけの場合がとても多いと思います。
 
 
 
 実際の市場を支えているこれらの広義の実用書人口は、仕事で決算書についての知識が必要になった、友人の結婚式で冠婚葬祭の知識が必要になった、庭に植える花が枯れない方法を知りたい、コンピュータの操作がわからなくて困った、などなど、生活のあらゆる領域、場面の人びとに担われています。
 
 ところが、こうした需要はそれぞれの仕事や生活のさまざまな局面で遭遇する必要にせまられた手段としての読書であるため、それらの本を読んでいる人たちの間では、それが読書の時間であるという意識はあまりもたれていません。
 こうした実用的読書は目立ちこそしないものの、実際には、世の中のミステリーや文芸小説を中心に読書を考えているひとたちよりも、圧倒的多数の読書人口を担っているのが実態であるといえます。
 
 
 このことはもう一方で、先に述べた自分で考えるための読書よりも、より早く答えをみつけるための読書がものすごい勢いで進化している側面ももっています。書店の棚=市場の構造も、みごとにそのような構成に進化しているのも感じます。
 
 これは一概に悪いこととも言い切れません。
 とかくテレビなどの情報(じっと座っているだけで流れてくる「世間」の情報)に慣れてしまうと、「要は何なのか」結論がわかれば良いではないかといった発想が蔓延してきてしまいます。日常の多くのことがらは、スピード化と合理化の時代で、そうした手っ取り早い情報が多く求められているのも事実です。
 しかし、本が、競争相手であるテレビの「早くわかりやすく」の方にばかり歩みよりすぎ、本来、テレビにできない本の強みである「深くじっくり掘り下げて考える」部分を、どんどん放棄し続けてきてしまっている現実も忘れてはなりません。
 
 誰もがテレビのニュースキャスターやコメンテーターの言葉のオウム返しで、ある人を持ち上げ、翌日にはこき下ろす。
 こうした風潮が、日々目前に発生しているこれまでに経験のなかった問題に対して、自分で立ち向かえない個人を多く生み出してしまっているように思えてなりません。
 
 
 だれか早く答えを教えて!
 景気が悪いから仕方がない、会社が悪い、国が悪い、役人が悪い
 そして、誰も責任をとらない。
 いつも飛び交うのは、そんな言葉ばかりではないでしょうか。
「失われた10年」を限りなく延長し続けている原因は、この辺にこそあるのではないでしょうか。
 
 
 もし、今の日本と世界の深刻な事態に対する認識がほんとうにあれば、政治家や経済関係者だけでなく、もっと一般の多くのひとびとが、書店の棚から、国債についての本や税制に関する本、世界経済に関する本や戦争、宗教についての本、さらには企業経営についての本を、今こそむさぼるよに買って読んでいくのではないでしょうか。
 
 どの考えが正しいか間違っているかということよりも、まず、問題に食い込んでいく「気概」の方がなによりも欠落してしまっていると思います。
 今に至って、雑学、教養としての読書は、無いよりあったほうがましかもしれませんが、それだけではあまりにも無力であると感じずにはいられません。
 他人に答えを教えてもらう読書から、自分で答えを見つけ出すための読書が求められているのだと思います。
 
 
 
 
 
 もうひとつ、読書推進派の論調で気になるのは、読書することや知識を得ることは、無条件に正しいといった考えです。
 
 最近私が出会う本には、やたらと「本は読むな!」と書いてあります。
 道元を読んでも出てくるし、昔、気功を教わった先生からもしきりに言われました。
 
 まず、健康な体をつくらずにものを考えたって、いい結論がでるわけないだろう、と。
 
 体が思うように動かない人間が、頭でその矛盾を埋めようとすればするほど、良い結果はでない。健康な体をつくれば、考える前に体が動く。そして自然に良い結果がでる。
 「体は心の容器」であるから、心を問題にする前に健康な体を作れ!と。
 
 
 最近「情念論」にこだわっているお客さんがいて、いろいろ探しあてた古本を渡してあげようと思ったら、あげる前に人手に渡すのはもったいなくなってしまう本を見つけてしまいました。
 それは、中村雄二郎の『現代情念論』です。すでに文庫化されていました。
 
 「したがって、哲学にとって最大の敵ないし障壁は諸科学の細分化でも、技術の加速的な発達でも、政治の優位でもなく、活発で、自由でしなやかな否定を通して自己還帰運動を失い、凝結し、硬化した哲学者自身である。ある種の哲学者は文献学者のように精励であり、ある種の哲学者は科学者のように着実であり、また、ある種の哲学者は政治学者のように政治に対して見識をもち、ある種の哲学者は宗教家のように求道している。そうしたこと自身は大いに結構であるが、それだけに終始して事足れりとするならば、哲学者として怠慢といわなければならない。」
 
 「(略)わたしは上山春平が六年前に行った次のような提言に賛成したい。『学会にでるたびにユーウツになるのですが、わが国の学問のうちでも、哲学ほど共通の問題意識の欠けた学問はないんじゃないか、という気がします。僕は近世、君は古代。僕はカント、君はヘーゲル。僕はカントのカテゴリー論、君は道徳律、など等。テーマは果てしなく分裂します。・・・・・共通の問題意識がなかなか出てこないのも、いきた現実とまともに取り組む気構えが欠けているからじゃないか、と僕は思っています。各人がこれまで身につけた学問的知識は、いかに様々であっても、僕たちのぶつかっている現実の問題を解く手段(必ずしも直接その解決に役立たなくてもよい)としてそれを用いるつもりになれば、共通の問題意識がでてくるに相違ない、と思うのです。』」
 
 
 
 私自身何度か経験しているのですが、困難な問題にぶつかったとき、手がかりを求めてたくさんの本を買い込んで読むのはいいのですが、読んでいることだけで前に進んでいるような気になってしまい、どんどん読書量の時間は増えるが、自分のそのときの実態は、ただ目前の問題から逃げているだけで、勉強中であることを逃げ口上にしか使っていないのではないかということが多々ありました。
 
 そんなとき、いつも問題を解決してくれるのは、先に答えを見つけることよりも、およその見当をつけたら早く自分の手足を動かして走りだすこと。
 その方が常に、より早くもつれた糸が自然にほぐれてくると感じました。
             (参照ページ議論や分析ばかりしてないで「攻めてみよ!
 
 

 
 このような姿勢を、他方で、技術者や事業家は、昔から自然に身につけているように見えます。
 
                   <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=kamituke-22&o=9&p=6&l=as1&asins=4806117609&fc1=000000&lt1=_blank&lc1=0000ff&bc1=000000&bg1=ffffff&noImg=1&f=ifr" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe>
岡野雅行 著 『俺が、つくる!』中経出版(2003/02) 定価 本体1,400円+税
 
 未経験、未開拓の分野に挑む都合、膨大な文献などの資料にも頼りますが、そこで結果を出すには、自分の力を信じて自分の責任でプロセスを突き詰めるしかない。結果がでないときには絶えず仮説、理論を検証し、市場で通用する結果がでるまで、工程を突き詰めていく。
 
 いつまでも理論的に正しいか、可能かどうかにばかりこだわっていては、すばらしい成果はあげられません。
 
 それに対して、特に人文・社会科学系の研究者たちは、実験による明確な検証が難しいだけに、結果をだすために必要なスピードや個々の成果を確実に出すことにたいして、あまりにも無自覚、無責任であるようにみえます。
 まるで難しいことをいろいろやってるんだからいいだろう、とでもいうがごとく姿勢すら感じることもあります。

 
 セブンイレブンの鈴木敏文会長も、こうしたことを鋭く指摘しています。
 
「何か新しい事業やビジネスを始めようとするとき、人はとかく、“勉強”から始めようとし、それが正しい方法であるかのように考えられています。その場合の勉強とはどのようなものかと突き詰めると、結局、過去の経験の積み重ねをなぞる作業にすぎないことが多いのです。しかし、新しいことを始めるとき、最初に必要なのは仮説であり、仮説はそうした勉強からはほとんど生まれることはありません。
(略)
 われわれが常に心に銘じなければならないのは、前例のない新しいことを始めるときには、人の話を聞いても仕方がないということです」
 
 人が勉強しようとするのは、勉強すれば答えが見つかると思うからだろう。しかし、鈴木氏の言葉を借りれば、最初から答えがわかって行うなら、それは「作業」でしかない。あるいは、最初から挑戦を避けるため、勉強して「できない理由」を見つけようとする人間もいるかもしれない。誤解を恐れずに言えば、こうした考え方をするのは、「知能指数的な優秀さ」を持ったタイプに多いのではないか。  
  勝見明著 『鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」セブンイレブン式脱常識の仕事術』
プレジデント社(2005/01) 定価 本体1,238円+税
 
 
 そもそも、知識は実践のために不可欠なものですが、何を考えているかによってではなく、何を行なったか、何をなしえたかによって人は信頼されるものです。
 
 
 「学問」や「読書」を口実に、至るところでこのような事態を目の当たりにするにつけ、今、深刻な問題が山積しているこの世の中で、ただ「もっと本を読みましょう」といった言葉には、もろ手では賛成しかねる、ということをあえて言わせていただきたいのです。
 
 もちろん、学校などで行なっている読書の習慣づけや活字になれるための読書推進活動などは、教育の一環としてとても良いことだと思います。
 それから、若いときは無条件に膨大な知識を吸収できるだけの欲求、大きな胃袋があります。
 
 
 それはそれで必要なことですが、世の中全体では、「もっと良い本をたくさん読みましょう」といったスローガンではなく、
 「今あなたが直面している問題から逃げずに立ち向かいましょう」、
 「他人のせいにしないで自分のできることを実行しましょう」、
 「わからなければ立ち止まって真剣に考えましょう」
といったような言葉でなければならないと思います。
 
 
 そうすれば必然的に、自己目的化した読書よりもはるかにたくさんの本が、手段として必要になってくるのではないでしょうか。
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「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です。

2015年05月25日 | 出版業界とデジタル社会

 長野県には、読書村というのがあることを知りました。

 読書村と書いて、(よみかき)村と読むのだそうですが、
今は木曽郡南木曽町大字読書という地名になっているところです。

 是非いつかは訪ねてみたいところでしたが、2016年1月に、近くの本屋さんを訪ねることを兼ねて、行くことができました。

近くに「読書ダム」などというところもありましたが、町村合併で南木曽となってからは、残念ながら旧読書村を思わせるところはほとんどありませんでした。

読書小学校もあるようですが、なんて素晴らしい学校でしょう。 

 


この(よみかきむら)を勝手に(どくしょむら)と読み間違えてしまうことをみて、私は、はたと気づきました。

 読書とは、本来、書=本を「読む」行為のみをさすのではなくて、
 「読み書き」を一体のものとしてとらえたものであるのだと。

 

 私たちが読む本は、確かに誰かによって書かれたものを読んでいるわけですが、
誰かが書いたものを読むから「読み書き」なのではなくて、
読むことと書くことが一連の連続した営みであることが大事なのではないかという意味です。

 つまり、誰かが書いたものを読む、読んで(調べて)から書く。

 著者が書くために読む行為と、読者として読んでから書く行為は不可分のものであるはずなのに、
私たちはあまりにも「読む」ことに限定して「読書」をとらえてしまっています。

 これはなにも、ただ読むだけではなくて読書感想文や書評をもっと一生懸命書きましょう、という話しではありません。

 以前、「作文」という活動も、ただ文を書かせることにその意義があるのではなく、書き手(子ども)と読み手(教師や親)との「関係」の構築作業であることにこそ、その真意があらわれるのだという事例紹介を「この本の素晴らしさを伝えたい 飯塚義則『えがおの花』」の記事で書きました。
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c754bf80699238047309374ca1a6fa10

 

 

 長い説明になるとは思わずに書き出してしまいましたが、むかし私が気功を習ったときに、
気功の先生が、人は食べる(入れる)ほうにばかり気をとられているけれども、
大事なのは食べる(入れる)ほうよりも、出す方だ、とよく言っていました。

 まず、毎朝スポーンとウンコが出るようなカラダになっていなければ、
どんなに栄養を口からとっても吸収されるわけがないと。

 また、こんなことも言われました。

 体が思うように動かないから、頭で考えて無理に動かそうとする。

 思ったままに動く体が出来ていないところで本ばかり読んでいるから、
思うような結果がでずに、余計な苦労ばかりするようになるのだと。

 

 ・・・そういうことです。

 

 「読む」行為は、頭ですることです。

 「書く(調べる)」行為は、体と頭を使ってすることです。
  つまり、結構やっかいで面倒なことでもあります。

面倒だから出来るかどうかの問題ではなくて、面倒に感じること事態が問題であり、

その部分こそが、より多くエネルギーを費やす価値のある大事な部分であるということです。

そもそも「書道」の「書」などは、ただ書くというだけではなく、
その行為そのものが「道」を追求する行いであるという意味で、
大事な実践のプロセスであります。

もともと「読書」の「書」は、「書道」の「書」の要素も強くあったことと思われます。

そもそも、コピーや写真などの技術の無かった時代においては、本は「書き写す」ことによってのみ、普及し伝えることが可能だったわけです。

現代から見れば、それは印刷やコピーの技術がなかったばかりの効率の悪いことのように見えますが、本来は「書き写す」ことによってこそ、著者が伝えたい「情報」や「心」を自分の頭や胸のなかに取り込むことができたわけです。

この意味で振り返ると、現代の著作権論議は、情報化社会が進むにしたがって必然となる著者、制作者の保護を重視しているようでいながら、情報というものの性格のほんの一部の側面だけを保護する偏ったシステムに思えてなりません。

「書き写す」「印刷する」「コピーする」などの方法の変化は、原点である「書き写す」ことによってこそより自分のものとすることができる意義から振り返れば、積極的な読み手ほど「書き写す」「書き取られる」ことが必然であるからです。

 (これも考え出すと長くなるのでここでは深入りは避けます)

 

 本来、「読む」という行為のそもそもの動機は、ただ「学ぶ」「知る」といった教養や娯楽のためではなく、
なんらかの自分の直面した現実から発したものであるはずです。

たとえそれが純粋な娯楽の読書であったとしても、
またそれがたとえ現実逃避のための読書であったとしても、
読むことのリアリティをどこで感じることが出来ているかをみれば、
そのひとの何らかの今の日常のなかにある矛盾こそがその根拠になっているものです。

 

藤井孝一『読書は「アウトプット」が99%』(知的生き方文庫)という本もありましたが、
これは読んだ本の内容をまとめる、表現するなどということだけではなく、
日常の仕事や暮らしで表現し、行動するという連続性があってこその
読み書き=アウトプットのことを言っているわけです。

 

私は仕事柄、もっとどんどん本の紹介をしなければならない立場ではありますが、
次第に軸足が、本の紹介をすることよりも、自分が読んだ本を参考により多くのことを試してみること、
企画書をどんどん書いて提案することこそが大事になってきています。

本そのものの紹介よりも、テーマ中心に移り、それがやがて企画提案中心になり、
さらには「働き方」「学び方」「暮らし方」の再構築がメインになるにつれて、
あくまでもこれらの活動のバックグラウンドとして二次的な意味合いで本がくっついてくるようになってきました。

したがって本屋の仕事も、自分の仕事のなかではあるひとつの領域として続けてはいますが、
それが決して主目的になっていない今の姿は、あながち間違っているものではないと思っています。

「読書」は、単に本を読むだけの営みではなくて、読み書き実践の一連の連続した行為であるはずだからです。

 

 

関連ページ

序 「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

1、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書

2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です

3、数字が如実に示すネット時代に生き残れる業界の姿

4、もう一つの「不滅の共和国」 「野生」の側にある本と本屋の本分

 

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独立系書店の独立宣言

2013年05月23日 | 出版業界とデジタル社会


独立系書店の独立宣言



    与えられた固有の環境こそが最大の財産

 

これまで二十年間、すでに多くの中小独立(系)書店が淘汰されてきました。

今、残っている書店も、市場規模そのものが縮小する時代に生き残ることは、極めて困難な状況にあるといえます。

 残念ながら、これらの困難に立ち向かうべき業界の環境は旧態依然としており、あらゆる情報のデジタル化の加速とともに求められる業界体質の改善は、急務であるにもかかわらず困難なことばかりです。今の環境のまま、零細書店がこれらの状況に立ち向かうことはとても無謀なことであり、このままでの事業の継続は、合理的経営判断といえるようなものではないかもしれません。

 しかし、私たち独立(系)書店は、いかなる困難な環境のもとでも地域には、より良い本を求め続ける需要があり、読書の普遍的価値を信ずる人たちが存在し続けることも知っています。

 地域にそれらを求める声がある限り、それに応える商品とサービスの向上こそが、地域に生きる書店にとって最大の使命です。

それを怠ったまま、行政依存の街づくりや業界の体質改善を求めたところで、活気溢れる地域の再生をみることはありません

 真に自立した経営者は、

  時間がないから

  お金がないから

  行政や業界が悪いから、といったことを口実にしません。

 もちろん、言うべきことは言い、変えるべきことは変えるよう努力することは惜しみません。しかし、だからといって何々がないからできない、何々が悪いから出来ないといった言い訳は絶対にしません。

 いかなる環境においても、「与えられた条件」のなかでこそ、「独立」「自治」という言葉の意味があるからです。

 

お金がないからこそ、力が弱いからこそ、

知恵を出し合い、助け合うことが

真に独立した経営体(人)の選ぶ道です。

                        

 そもそも経営の一番の成功の秘訣は、「条件が悪いこと」です。

 なぜなら、条件が悪ければ悪いほど、そこに求められるのは「固有の」解決策であり、本来その「固有のもの」こそが「より強い競争力」をもつ経営にいたる最大の条件であるからです。

ひとが生まれ育った地域で自立して生きていくということは、まさにそうしたひとそれぞれの「固有な力」を、生涯をかけて発見して身につけていくことにほかなりません。

 年齢、性別、職業にかかわらず、わが身に起きたことすべてを積極的に受け入れ、それに立ち向かうことこそ、ひとが生きていくことの基本であり、同時にそれこそがひとを「読書」に向かわせる根源のエネルギーでもあると思います。

                                 

 

       今日一日の価値を高める

 

なにも世の中の変化のスピードは、現代になって急に速くなったわけではありません。

 遠く神代の昔からわたしたちは、季節の変化に応じて衣を替え、世代の交代にともないパラダイムの転換を体験し、人智を超えた災害などの危機に直面するたびに、その時代の人びとのなせる業すべてを行使して、あらゆる危機を乗り越えてきたのです。

たしかに今起きている新しい時代の変化は、わたしたちの感覚では及びつかない大きなものかもしれません。しかし、それらの太刀打ちしがたい変化をわれわれの感性の届くものに取り戻すことも、すべて私たちの一歩の決意からはじまるものです。

 つねにそれを実現する道は、自分の小さな今日の一歩からはじまることに変わりはありません。

それはすべて、日々の仕事、日々の生活のなかで起こり続けていることです。

 時には大きな戦略をたてて大規模な闘いをすることもたしかに必要ですが、多くの変革の条件はこの日々の生活のなかにあります。

 「今のテレビは、くだらないものばかり」と言っているその1時間(30分でもよい)を、日々のルーチンワーク以外のお店の変革のための1時間に変えるだけで、自分が食べていけるかどうかの最優先の課題の大半の問題は解決することができます。

 またその1時間を、より良い本を普及するための読書の時間に振り当てるだけで、本屋としての自信と誇りを、かなりの部分で取り戻すこともできます。

 残念ながら、このルーチンワーク以外の1時間の使い方がわからないという声を聞くこともあります。しかし、それこそ今あなたが立っている場所は何屋さんですかと聞きたくなります。経営の仕方、在庫管理や商品陳列から接客まで、お客さんから聞かれれば、こういう本があると探し出すのがあなたの仕事のはずです。

 このことは読書本来の姿ということからも強調されなければなりません。

知識や教養を溜めこむことより、自分自身が直面している問題に立ち向かうことこそが、学ぶこと生きることの核心部分であるからです。     

     

いやなら辞めるという権限も含めて、わたしたち一人ひとりは自分の行動に対して常に「全権」自らが持っているものです。

そのからだの頭のてっぺんから足の先まで、誰かから借りてきているものはなにもありません。すべて自分の意思によって動かされているものです。

 とはいうものの、売上げ、客数ともに落ちるところまで落ちてしまい、もうそれどころではない、ということもあるかもしれません。

しかし、多くの場合、その話もおかしいと思います。

売上げ、客数が下がったその時こそ、神様はその時間のある店内で、いままでその店でやっていなかったことを考え、実行するための時間をウインクして与えてくれているはずです。

 

「日々是好日」という言葉があります。

 残念ながら、「日々是口実」で生きている人と、日々自分が直面した現実と積極的に向き合っている人との間では、そのゴール地点の差は、いかなる学歴や肩書があっても追いつくことのできない天と地ほどの開きが生まれるものです。

 同時に、こうしたからだも心も「全権」自らが主人公と成りえた仕事は、「ワーキングプア」や「過労死」などといったことも無縁な、最良の健康法でもあります。

「日々是好日」といった一日の価値を高めることこそが、万能の方策につながるものと思います。

 

 

 「仕事」と「生活」を

      「生命のデザイン」として組み立てる

 

 市場規模そのものが縮小し続けるこの時代に、売り場面積の拡大にのみ頼ってきた企業は、これまでの零細書店以上の深刻な危機に直面します。

なぜなら、店舗の大型化で売上げを伸ばすこが出来るのは1年目のみで、多くの店舗は出店後間もなく売上げが下がり始めて、その固定費を縮小し続ける市場構造のなかで維持することは、零細書店の経営維持以上に至難の技であるからです。不採算店を整理するにしても、この方法は右肩上がりの時代でのみ通用した過去の方法であると言わざるをえません。

 それに対してわれわれは、地域の顧客情報こそが最大の経営資源であることを確信し、「規模の経済」から、「質(価値)の経済」への転換をいち早く目指すものです。

 もちろんそれはビジネスとしての「質の経済」を追求しているという意味で、決して安易な「反」市場主義を目指しているわけではありません。

交換のしくみを「市場の力」にのみに委ねる社会から、「生命(いのち)のデザイン」に組み替える生活者の営みとしての労働を追求していくということです。

 「質(価値)の経済」とは、本や顧客のデータ分析精度をあげることではありません。それは一人の顧客との出会いや要望、一冊の本との出会いと感動から出発するものです。

 また、生命(いのち)のデザインとは、決して環境問題のコーナーをつくればよいという問題でもありません。仕入れ方、陳列の仕方、売り方、コミュニケーション方法、さらには掃除の仕方などすべてにわたって表現される問題です。

 これは職場内のことに限りません。当然、地域や家庭の問題も含めてこそ「生命のデザイン」は成り立つものです。さらに突き詰めれば、人が棺桶に片足を突っ込むまでの生き方の選択の問題であり、決して定年後の年金生活にまでいかに逃げ込むかといったことではありません。

 もちろん個別の関係にばかりとらわれずに、ビジネスは一程度の量としてこなしてこそ成り立つものですが、目の前の本を求める一人のお客様に、どれだけ誤魔化すことなく大きな満足と感動を与えられるかこそが、すべてのビジネスの原点であることに変わりはありません。                       

この手間を惜しむものに明日の喜びはありません。

ここを避けていくら数字をいじっても、また高価なシステムを導入しても、決して真に独立・自立した経営には至れません。

 こうした一人ひとりが自分の手と足と頭を使う「独立(系)書店」こそが、地域に根差した経営を末永く続けていけるものと確信します。

 

地域が違えば、それぞれの地域での異なる売り方があります。

10人の顧客がいれば、10通りの売り方が求められます。

5人のスタッフがいれば、5通りの売り方を身につけることで、5つのタイプの顧客をつなぎとめることができます。

 こうした与えられた制約を具体的なかたちにしていくことこそが、強い競争力の源なのです。

 

 

  独立(系)書店」が地域で真に自立する日

 

「独立(系)書店(INDEPENDENCE BOOK STORE)」という表現は、おそらく資本の独立を意味しているのだと思われますが、なぜ「系」の字をつけなければならないのでしょうか?

 私にはどうもこの「系」の字がつく限り、自立した書店というよりは、従属、下請け、奴隷といったニュアンスの抜けきれない書店に見えてなりません。

ビジネスである限り「顧客」の僕(しもべ)であることは疑いませんが、そうであるならばなおさら、「版元の代理人」であることよりも「顧客の代理人」に徹する努力しなければならないはずです。

 市場が縮小したからといって、地域の顧客が消えて無くなるわけではありません。 いかなる小売店の場合であっても、地域の期待に応えることが売上げ増につながるのであり、売上げが下がるということは、来店される顧客の期待を裏切り続けているということに他なりません。

求められているのは、そうした期待に応えられる仕入れの「権限」と「能力」を持った小売店ということです。

問題は、「配本」ではありません。「仕入れ」です。

 

今、それらを実現するための制度上の不備はたくさんありますが、だからといって現状でできない理由はなにもありません。

 

なかなか信じてもらえないかもしれませんが、

パーソナル」、「ローカル」、「カスタマイズ」等のキーワードとともに

今、やっと「われわれの時代」がきたのです。

 

 不景気とはいえ、地域は実に様々な業種の人びとによって支えられています。

 

 日本全国にあるコンビニの数、およそ5万店。

医者の中でも最も多いといわれる歯医者にいたっては約8万。

意外なのは、全国にあるお寺の数、約7万5千。

理美容室にいたっては30万店以上ともいわれます。

他方、同じ医者でも眼科や産婦人科となると、1万を切る数になってしまっているようです。

 

私たち書店業界は、ピーク時がおよそ2万3千店。減少した今に至っては、約1万6千店程度(2013年5月1日現在 14,241 店)です。

 これらの数字を見比べると、実感的に2万を切ると、業種を問わず、一定の地域に存在しない業態が出てくることがわかります。たいていどこの町に行ってもある業種というのは、2万がボーダーラインであるといえそうです。

 とすると、大雑把な計算ですが、都市部へ数字の偏りはあるにしても、日本の購買力人口をおよそ1億人とみて、それを2万で割った5千人という数字が、業種を問わず個々の店の平均的な商圏人口ということになります。

 一店舗5千人の商圏で食べていくというのは、随分少ない数字に見えるかもしれませんが、世界レベルで考えてもこれは、つい最近までの標準的な数字でした。

 むしろ大事なのは、5千人商圏の千人程度の顧客相手で成り立たない商売というのは、そこにいる顧客が少ないからではなく、その地域の需要・要望に応えていないビジネスであると考えたほうがよいということです。

ビジネスである限り、立地を選ぶことは確かに大事です。しかし、顧客の要望に応えられない自分の店の問題を放置して、人通りの多い場所に移っても長続きしないことも明らかです。

 さらに、この「5千人規模の商圏」ということには、もうひとつ大事な意味も含まれています。

 これからの時代の地域づくりの原則を表した考え方で「アワニー原則」というものがあります。「人が歩いていける範囲内(半径600m程度)で、生活に必要なすべてのことが出来る街づくり」ということです。

コンパクトシティやスモールタウンといった類似の取り組みも広がっていますが、これはより普遍的な世界中どこでも通用する、生活者の自治単位として有効な考え方のことです。

 

この地域の自治能力の発揮できるコミュニティ単位を考えた場合でも、5千人商圏というのは、極めて妥当な数になっています。

お互いの顔が見えて、それぞれの地域風土の歴史、育った環境を共有しあえるコミュニティというのは、健全な地域社会を育てる条件でもあり、様々なビジネスをより濃い人間関係のなかで築いていくためにも、広い意味での社会資本を備えることにつながる大事な思想であるといえます。

 

個店の自立は、そうした単位での地域の自立と一体のものであるといえます。

 先にあげた「パーソナル」、「ローカル」、「カスタマイズ」とは、決して顧客管理データベースシステムの活用法のことではありません。

もちろんローコストでそうしたシステムを活用することも大事ですが、地域で生き続けるビジネスというのは、なによりもこうした5千人規模の顧客の要望に応えて、信頼を勝ち取っていくことに他なりません。

「規模の経済」から脱却した「強い経済」とは、まさにこうした思想に支えられたものです。またこうしたビジネスこそ、私たち独立(系)書店の強みが最も発揮される領域でもあるはずです。

 

それには今こそ、その問題解決の力を、版元や取次に頼ることではなく、地域の顧客の代理人に徹するビジネス、川上でつくられる「業界」ではなく、顧客とその代理人が築き上げる「業界」として構築しなおさなければなりません。

 

その主体に「独立(系)」などという表現は合いません。

 

今こそ、「独立(系)書店」と呼ばれる表現のなかから「系」の字が消えて、真の自立、独立した書店となるべきです。

私たちにとってはその日こそが、INDEPENDENCE DAY (独立記念日)なのです。

 

もうなにも問題はありません。

わくわくする仕事に不況はありません。

売り上げは必ずのばせます。

 

ひとつの街に一店舗、本のコミュニケーションの出来る店が切実に求められています。

 

すべて私たち自身が解決の鍵を握っているのです。

 

残念ながら、これからも多くの書店が消えていく流れは変えられないでしょう。

 

しかし、ひとつの街に一店舗、

本のコミュニケーションの出来る店をつくり

売上げをのばし続けることは可能です。

 

やっとわれわれの時代がやってきたのです。

 

 

 

 

 

        っているほうがよ     

     今日もこころ栄養

    1冊の





Hoshino Persons Project  

星野 上

(2009年11月 刊行の冊子を一部加筆訂正)


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面陳列用の簡易棚

2013年05月21日 | 出版業界とデジタル社会

以前、広島の同業仲間の本屋さんがどこかの学校でみたという面陳列棚。 
とても簡単な構造でできていたので、私も作ってみました。 

在庫削減は小売業にとって不可欠な仕事です。 
経営難からの対策だけではなく、顧客から見て魅力あふれる棚にするために大事な作業ですが、ほとんどの書店できれいで見やすく、管理しやすい面陳の方法は、残念ながらなかなか見られません。 

M書店のSさんが紹介してくれたこの方法は、棚一段単位ではなく、3段程度のスペースをまとめてきれいな面陳列にする便利な方法です。 

また、催事台などの陳列方法としても活用できます。 





ほとんど図面も書かずに、ホームセンターから板、角材を買ってきて切って固定するだけの作業です。 

 

材料 
30cm程度の幅の板     (300w ×13t × 910l) 3枚 
陳列の厚みをつけるための角材(25 × 40 × 910l) 2本 
底板            (60w × 14t × 910l) 1本 
側板            (45w × 14t × 910l) 2枚 

今回の試作は、材料の歩留まり優先で、長さを1820mmの板を半分にカットして使用しましたが、 実際には、店の棚の内寸幅にあわせて適切な長さにカットします。 



面陳用30cm幅板と角材を交互に重ねるだけの構造。 
私は 両側からビス止めしましたが、表のネジ穴が気になる場合は、木工ボンド接着でも強度は十分だと思います。 



棚の傾きにあわせて、側板の底の部分を斜めにカット 


裏から見た写真 



傾斜角度を固定するスタンド方式の構造にしようかとも思いましたが、無理にスタンド方式にしなくても、この構造で壁面に立てかけるだけでも十分使えると思いました。 


本をおいた状態 



学校では、塗装なしの木肌を活かしていました。 

私は、様々な場所での使用を想定しているので、塗装(チャコールブラック)してみました。




店舗全体に言えることと思いますが、世の中が右肩上がりでどんどん成長する時代は、次々に新しいものがつくられるので、色は新鮮さがアピールしやすい「白」ベースが多くなります。

ところが今のように右肩下がりの時代は、どんどん新しいものをつくることは難しいので、時間がたっても色あせせず、味わいを増す「黒」や自然素材の方が、世の中に受け入れられやすくなると思います。 

白や明るさばかりを強調する店舗から、黒や自然素材を活かした店舗に、できる限り変えていく工夫をした方が良いのではないかと思ってます。 

 





だいぶ前に、Sさんに紹介してもらっていながら、今回ようやく作る気になったのは、今度、家に「ワンワンbookcafe」(ワンワンは犬ではなく、ワンデイ、ワンテーマの意味で、一回にひとつのデーマで本を紹介したり近所のおばあさんとかと会話したりするカフェです)をオープンする予定があるからです。 

本の紹介だけに限定せず、地域の話題も含めた会話の映像をネット配信して、店内でもモニターで流せるようにする計画です。 

その映像の背景にこの棚を使用して、本を並べられたらと思いました。 

いろいろな使い方が可能だと思います。

 自宅のリビングで、本や雑誌をおく方法としても良いのではないでしょうか。

是非、みなさんも作って試してみてください。 



その後、いくつかのスタイルをつくりました。

一般的な形式は以下の構造のもの。

  

 

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数値目標偏重の危険性  メモ

2013年05月04日 | 出版業界とデジタル社会

 

 

そもそも私たちは、政府の掲げる成長戦略をとても信じることができない。

そこそこの結果が出だしているようにも見えるが、およそ信じていない。

そんな国民は意外と多いのではないでしょうか。

 

わたしたちの業界は1996年をピークにずっと下降線をたどっている。

抜本改革は簡単なことではないことはわかる。

だからこそ、まずはデフレ脱却こそ最優先課題だという。

「世間」の景気浮遊こそが、解決の糸口であると。

 

ん~~ん、

 

振り返ってみて欲しい。

「失われた十年」をようやく脱却したかに見えた1990年代。

多くの人は忘れているか、いや記憶にないかもしれないことですが、2002年から景気は回復軌道に乗り出しました。

それは「いざなぎ超えの景気拡大」とも言われた。

いざなぎ景気の57ヶ月に対して、70ヶ月という記録的な景気拡大があった。

そんなことが最近あったなどと国民のどれだけの人が記憶しているだろうか。

 

実態はどうだったか。

浜矩子は語る。

 

「あのいざなぎ超えの景気拡大過程において、果たして、どれだけの人々が好景気を実感したか。どれだけの人々に新たな雇用機会が提供されたか。どれだけの人々が幸せを噛みしめたか。戦後最長の景気拡大の中で、人々はむしろ格差社会化の進行に伴う痛みを噛みしめたのではなかったか。(略)思えば、ホームレスと化す人々の増加も、ワーキングプアという言葉の流行も、ネットカフェ難民たちの出現も、いづれも、リーマン・ショックがもたらした現象ではない。まさに、あの『いざなぎ超えの景気拡大』の時期から、根を下ろし始めた問題なのである。」

 

浜 矩子の「新しい経済学」 グローバル市民主義の薦め 角川SSC新書 (角川SSC新書)
浜 矩子
角川SSコミュニケーションズ

 景気拡大の数字がもたらしていたのは、所得の移転に過ぎなかったのではないか。

 

 

まずはデフレ脱却こそが、最優先の課題であるという経済政策の人々。

おそらくそれが今の多数派であることに間違いはないだろうと思われます。

私も、半分くらいは確かにそうだと思っています。

しかし、その先に行われることは、いつも騙されているのではないでしょうか。

国全体の数字を底上げするには、より影響力の大きい分野、企業の数字をあげることが先だという政策。(数字を出すためだけなら、おそらくそれは正しいだろう)

高額所得者が海外に逃げていかないような優遇税制にする方が、国の景気回復には大事。(目先の数字を出すためだけなら、おそらくそれも正しいのかもしれない)

 

でも、こうした政策の結果、世界でおきていることは、大手企業の史上最高利益の更新。

もちろん、ただ「大手」だから利益をあげているのではなく、それなりの努力を重ねた企業のみが利益をのばしているのはわかります。

個々の企業努力は大事ですが、国全体の数字、世界全体の数字でみれば、分母のベースは明らかに「金余り」こそが、底流の大きな流れ。

 

デフラ脱却の手だてをこうじるほどに、より利益の出しやすい海外へ円の流出を加速するのでは。

これらの結果、確実に進行してしまう「格差の拡大」。

 

財政再建のため、

景気回復のため、

まったく同じ言葉によって、まったく同じ構図のもとで、

使いたくもない言葉ですが「アベノミクス」は、過去の誤った方法論の上塗りをしようとしている。

 

株価の上昇や景気判断の上向きなどから、浜矩子の予測は外れた、1ドル50円時代の到来などはありえないなどを言っている人も多い。

でも、世界経済の基本構造の何が変わったというのだろうか。

強いアメリカの復活を標榜している都合、声高には言えないドル安誘導。

多くの国々がかつてないほど深刻な財政破綻と経済的行き詰まりの危機に直面し、その打開策として国内的な保護主義を強化するため、対外的には「自由化」をおしつけあう流れ。

アメリカが金とドルの交換を停止したニクソンショック以来、加速し続ける世界の「カネ余り」現象。

日本は「ゼロ金利」政策ベースによって、どんどん「円キャリートレード」で「おカネ」は海外へ出て行く。

それでも債券大国であり続けている日本の強さ。

 

こういうことを言い出すと、すぐに、あなたは経済成長そのものを否定するのか、と言われる。

とんでもない。

もちろん、今までのような経済成長は否定しますが・・・

 

「・・・・・新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人はいない。もしそのようなことをすると、革袋は張り裂け、ぶどう酒は流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば両方とも保たれる」(「マタイによる福音書」『聖書』)

 

産業革命から近代資本主義が発達して以来、今、世界ではどのような変化が起きているのか。

これから始まる未知の領域の答えを出すことは、確かに簡単なことではありません。

しかし私たちの暮らしを破壊し続けたこれまでの古いやり方を、やめること、脱却することをせずに、真の持続する成長と国民の幸せはありえないと思います。

 

常に辛口でズバズバ語ってくれる浜矩子さんは、えてして冷たい論客にみられがちですが、これほど血の通った経済学を明快に語れるひとをわたしは見たことがありません。

 

数字でものごとをより客観的に把握することは、決して間違いではありません。

数値目標を掲げることも間違いではありません。

しかし、社会の「価値」、人の「価値」を見ること、語ることのできない数字は、人間の学問ではありません。

大きな時代の変わり目の今、外してはならない大事な視点を、浜矩子さんは私たちに示してくれています。

 

  

成熟ニッポン、もう経済成長はいらない それでも豊かになれる新しい生き方 (朝日新書)
橘木俊詔,浜 矩子
朝日新聞出版
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モノの記憶

2010年04月10日 | 出版業界とデジタル社会
              

昨夜、テレビで『ALWAYS 三丁目の夕日』が放映されていました。
私は続編の方しか観ていなかったので、おかげで友人から聞かされていた話の流れがようやくつかめました。

それにしても、すばらしい作品ですね。

皮肉にも、この昭和30年代の懐かしい風景を再現するには、
現実の商品を集めてつくられたオープンセットのリアリティの力もありますが、
それ以上に、照明を使って撮影した後にフィルターをかけて当時の空気感(時代劇などでよく使われるようになりました)を出したり、
セットでは再現不能な景色を創りだしたデジタルCG技術のおかげでもあります。

随処で泣かせるその脚本や演技の力は言うまでもないことですが、
私たちは、あの昭和30年代の情景をみたときに、単なる懐かしさからくるものだけではなく、
なにかいつもそこに大事なものを感じ取ります。

ひと言でいってしまえば、貧しいけれども心の豊かさがあった時代ということなのかもしれませんが、
その違いが何なのかということについては、まだ私たちは答えを十分理解していません。

ただ私にはひとつだけ、この映画を観て再確認できたことがあります。
それは、モノを通じて残る記憶・情報というものの価値ということが、
ひと際重要な意味を持っているのではないかということです。


北欧などの福祉先進国では、高齢者が福祉施設に入居するとき、
それまでの家で使用していた家具類などを出来るだけ持ち込むようにするのが常識だといいます。
今まで暮らしていた環境と同じものがあるというだけで、ボケ防止につながるというのです。

都会で暮らす老人よりも山村で暮らす老人の方がボケにくいというのも、体を動かし続けているという違いだけではなく、
そうした昔と同じ景色がそこにあるといったことが背景としてあるように思えます。

こうしたモノを通じて得る記憶というものも、現実にはモノそのものに含まれる情報の量の差ということが
大きく左右するのではないかと思われます。

私たちが小学校の頃に使っていた木の机や椅子。
それは、野球板にするためビー球が転がるように溝を掘ったり、
奇妙な木目の皺にお化けの姿を想像したりしたものでした。

こうした板に限らず、石などの無機物からはじまる植物や動物などの自然物のなかに含まれる情報の量というものは、
その色彩や形状の豊かさだけではなく、言語化しえないたくさんの情報をも含んでいるものです。

それに対して、プラスチックなどの化学加工製品をはじめとした人工物から伝わる情報の量は、
プリント印刷された模様がいかにキレイなものであっても、そこから伝わる情報量というものは、圧倒的に少ないものです。

彫刻刀を当てても、微かな疵しかつけられない強固な合板とスチールの机、
それは耐久性を保証する合理的なものであることは間違いありませんが、
人の豊富な記憶と感性を支え育てるものではありません。

机や椅子、教科書やノート、それらは単なる機能を持ったモノであるだけではなく、
そのデザインンやフォルムも含めて多くの感情を私たちにもたらすものです。
もちろん現代では、優れたマーケティング情報に基づいたデザインでそうした満足感をもたらす商品がたくさんあります。

しかし如何なるすぐれたデザインのフィット感のある商品でも、自然物のもつ情報量には決して及びません。

こうした豊かな限りない情報にどれだけ囲まれているか、日々包まれているかということは、
文字、言語情報の量とは別の次元で、私たちの感性の大きな部分を占めています。

難しいことを考えなくても、こうしたことを私たちはすぐれた芸術作品に接するときに感じていることと思いますが、
このようなより「情報豊かなモノ」につながった記憶こそ、
私たちがまだ言葉に表現することはできない「豊かさ」を感じる大きな源なのではないかと思うのです。

このことがいくら「豊かさ」を支える大事なものだといっても、
それが言葉に置き換えられない情報である限りにおいて、
だから何なんだと問われると、返す言葉のない話になってしまうのですが、
今、ようやくこうした議論が出来る時代になったことだけは確かだと感じます。


最近、私たちの業界では、すばらしい仕事をされているブックディレクターの幅允孝(はば よしたか)さんが、
「週間読書人」のなかのロング・インタビューで次のようなことを言っていました。

「電子とかネット上の情報って、自分の履歴が蓄積されているようでされていないんですよね。
僕はネタに困ると本棚の前に立ちますが、そうすると忘れていたようでも、
そういえばこの本読んだ時にあんなこと考えてたな、などと思い出すことがある。
記憶の外部保存装置としても本や本棚は役立つような気がします。」

先の「三丁目の夕日」というなつかしい映像そのものが、どれだけデジタル技術によって支えられて作られたものか、
そのことを私たちは忘れてはなりませんが、
その先に私たちが表現するべき大事なこと、守るべき価値のあるものが、
ようやく共通のものとして見えだしてきたように思えます。



教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について
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補足 デジタル技術への抵抗感について

2010年04月08日 | 出版業界とデジタル社会
前に書いた「教科書デジタル化のゆくえと展望(1~3)」の記事は、おかげさまでコンスタントに検索にかかる記事となっているようです。
他の場所で補足として書いた以下の文も大事な内容と思われるので、あらためてこちらに記しておきます。



デジタル技術が生活にとって不可欠なものになることが避けられないことは認めながらも、根本的にデジタル技術というのは人間の感性にそぐわないものなのではないだろうか、といった疑問は根深くあります。こうしたやりとりをしていると、なぜか私がデジタルを擁護する側にばかりなってしまうのですが、私にも皆さんと同じような「デジタル不審」の気持ちはあります。

そもそも音楽が、アナログレコードからコンパクトディスクに変わったときに、私はCDには絶対に「魂」が入っていないと確信しました。その思いは今でも変わっていないつもりです。
これを実際に論証することはとても難しいのですが、多くの人が直感的にそう感じているのは、たとえ理論的に論証できなくてもあながち間違いでもないのではないかと思っています。ただ、今それを議論してもどうにもならない気がするので、問題の視点を変えて提起してみることにしてみます。

そこでわたしがいつも感じているのは、多くの人がデジタル技術に対する不審観を感じるのは、「お金」のもつ問題とその性質がとても似ているのではないかということです。

デジタル技術というのは、世の中のあらゆる情報を、それが音声であれ、文字情報であれ、画像であれ、動画であれ、すべてを0か1という二進法の記号の量の積み重ねに変換してしまうことです。
元来、文字と音声と画像とは、まったく異質な情報であるにもかかわらず、それを同質なものに置き換えてしまうのです。

頭でわかっても、まったく想像のつかない恐ろしい技術です。

これが「お金」のもつ性格とそっくりなのです。

お金も、農家が育てたお米と猟師が捕ってきた鹿の肉とはまったく違う質のものであるにもかかわらず、それを交換する必要性に迫られたときに、その異質な二つのものを同質の量(=お金)に置き換える役割をはたしてくれます。

「質」や「ものの価値」といったものは、それぞれ固有の性格をもつもので、もともと比較のしようがないのが実態です。これは人間も同じなのですが、唯一無二の固有の価値があるといいながらそれは、外部に比較するものを持たないとそれ自身では自分を表現することができないのです。
この問題に立ち入ると経済学の最もやっかいな問題の説明をすることになるので、ここで詳細の説明は省かせていただきます。

ただ「交換」という社会の必要性からのみ、そもそも比較の出来ない異質なものを、どこかで「等質」なものの「量」に置き換えることが必要なのです。
それが「お金」であり、情報の分野では「デジタル技術」なのです。

そうした意味で「お金」とは、そもそも比較の出来ない異質なものを等質なものに置き換える『人類の発明した偉大なる方便』であると思います。

これと同じ「無理」を技術的になしえた「デジタル技術」というものは、異質なものを同質なものにしている限り、人びとの心のなかには絶対に承服しがたい論理として疑念が残り続けるのは、やはり避けられないことだと考えられます。

いかなる経済的合理性や技術的精度があったとしても、異質なものを同質な量に置き換えてしまう限りにおいて、その根本においては絶対に承服しがたい気持ちが起こるのは当然のことと思います。

この問題の鍵は、人間社会というものが必然的に要求する「交換」という営みと、その地域それぞれや時代ごとの社会の性格がこの内容を決定します。

「お金」が諸悪の根源だと決めつけることよりも、その地域や社会に適した「交換」の在り方を問うことこそが求められているのではないでしょうか。

今、わたしたちは「お金」との関係では、地球レベルのグローバル化のもので、おそらくその有史以来の歴史のなかで行きつくところまで行きついて、ようやくその歴史の折り返し地点に立ったところなのではないかと思われます。

社会の発展とともに進歩してきた異質なものを同質なものに置き換えるという「人類の発明した偉大なる方便」に振り回されることのない正しいつき合い方を、やっと地球レベルで考えられる時代になった気がします。

この「お金」のことと同じプロセスを「社会のデジタル化」という問題は、私たちにものすごいスピードでつきつけているのです。

わたしたちの感覚がついていけないのは当然のことで、それは人間が健康な感性を失っていないことの証明でもあると思います。

しかし、わたしはそれを「お金」は悪い、諸悪の根源だと決めつけてしまうのと同じように敵対視してしまうことも、十分戒めなければならないことと思っています。

忘れてならないのは、日々自分自身がどれだけそれらの「お金」や「デジタル技術」にお世話になっているかということです。

自分がお世話になっていることを棚に上げてして安易にその欠点のみを非難してしまうのは、人間関係でも商売でもよくあることですが、これは重々気をつけなければなりません。

自分自身が嫌ならば、それを使わない権限も持っているにもかかわらず、お世話になりながらそれを非難する、これはいけないと思います。

わたしたちの日常にどっぷり浸み込んでいる「お金」や「デジタル技術」の恩恵にまず感謝して、その正しいあり方を考え続けることがわたしたちに求められているのではないかと思います。

なぜならば、敵対し憎むよりも、先に感謝し続けたほうが、相手のほうがこちらにやってきてくれるからです。

「人類が発明した偉大なる方便」であるお金と、
「デジタル技術」に対するつきあい方は、非人間的に暴走しがちな側面にばかりとらわれてはなりません。

むしろそれは、それ自身の姿を持たないものであるだけにその実態は、
自分たちの人間性の反映した姿であることを自覚して、うまく付き合えるようになりたいものです。


教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

モノの記憶
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無料で広がるビジネス「フリーミアム」

2009年11月17日 | 出版業界とデジタル社会
クリス・アンダーソン著『FREE』 NHK出版

どこかで聞いた名前だと思ったら「ロングテール」という言葉の生みの親で、私自身もブログで以前書いていました。

11月26日に発売の本ですが、本の発売に先行してネットで内容を公開するというもの。
(残念ながら公開期間は終了しました)

フリーミアム

この「フリーミアム」という言葉は、あるベンチャーキャピタリストの造語だそうですが、またしてもクリス・アンダーソンによって広まり定着するのでしょうか。

これは、95%の読者に無料の情報を配ることを、5%の有料の読者が支えるしくみのことです。

今でも無料サンプルを配ることで、顧客を獲得するビジネスは存在しますが、デジタル製品の領域では、そうした実費コストをかけることもなく顧客に近づくことができるのです。

内容を公開してしまったならば、もう買う必要はなくなってしまうのではないかと思いますが、実際に大半の人には買ってもらえなくてもかまわない。
ただ5%の人だけ買ってもらえれば採算はとれるという。

それは、自分の欲しい情報があるかどうかという顧客の信頼を得られないまま、高額な広告宣伝費をかけるよりも、確実にその情報を欲しているターゲットに届く広報・告知を行い、その情報が無料という低いハードルのおかげでより広い人々に周知でき、分母が拡大するので5%の有料客でも採算がとれるというもの。

web技術が進歩した時代ならではの発想です。

これは、様々な領域で既に始まっているビジネスモデルで、

メルマガ + ブログ + ホームページ + 出版 + 講演 + 契約

というスタイルの「情報ビジネス」として、もうかなり完成されたひとつの領域をなしています。

もちろん、これからすべてがそうなるわけではありませんが、決してこれが特殊なスタイルでなくなることは間違いないと思います。


私がしばしば、「情報は本来は社会の公共財」なので本来は無料、それを独占・秘匿する場合にのみお金が取れるということを書いていますが、無料のレベルから有料のレベルをまたいだ過渡期のビジネスとしてみることができます。

また本書のなかには、無料経済のゆくえや、非貨幣経済の社会では何が支配するのか、といった興味深いテーマに満ちた記述があります。


発売が楽しみです。


【追記】
これからこうした無料の情報が増えてくると、これまでの出版文化に比べて質の低下が起こるのではないかとの疑問が、うちの妻から寄せられました。

確かにその危惧はないわけではありません。
しかし、現在の紙情報の出版文化の世界でも、二番煎じの情報に溢れた質の低下は十分といってもよいほど起きています。
それに対してこうしたネットに公開される情報というものは、読者により多くの情報に接する機会を与え、適切な判断を下す材料を増やすことになっているので、必ずしもそれが質の低下の条件になるわけではないと思います。

いかなる環境のもとでも、質の良いものを流通させるには、新しい努力の積み重ねをしていかなければならないのではないでしょうか。
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教科書のデジタル化のゆくえと展望 その3

2009年10月25日 | 出版業界とデジタル社会
今や全世界にはりめぐらされたインターネットというインフラとその検索技術が社会にもたらした変化は、情報を所有することには意味がなくなる時代に入りだしている、ということなのではないかと思います。

情報は、「所有権」の時代から「利用権」の時代へ移行しだしたといえるのではないでしょうか。

かつては、どれだけの知識があるかは、どれだけの蔵書を持っているのかといった条件とほぼ同じような意味がありました。
ところがいまでは、パソコンに限らず携帯電話、さらに間もなく地デジテレビなどを通じて、どこからでも必要な情報にアクセスできるようになりました。
国会図書館の蔵書の中身ですら、世界中から閲覧できるようになるのです。

蔵書の量に等しいような知識の量だけを売っている学者は、もう食べていけないのです。

このことは、情報というものが本来持っている性格があらためて浮き彫りになったものだと思います。
それは、「情報」とは、それを独占・秘匿する場合にのみお金が取れるものであって、本来「情報」そのものは、まず第一に人類の公共財であるのだと。

これも説明しだすと長くなるので、詳細は著作権論議についての項でまた詳しく書きます。


ここで強調したいのは、このことが教育そのものにもこれから大きな変化をもたらすのではないかということです。


小学校までは、読み書き計算と遊びを徹底して身につけることが無条件に大事なことと思います。
しかし中学あたりからは既成の知識の体系を教え込むことには、意味がなくなる時代になりつつあるのだと思います。


早くからこのことに気づいたフィンランドでは、一定の年齢に達したら、既存の知識の体系を教え込むという教育は、はじめからせずに、子ども自身が興味を持ったことから学習させ、教師はそのサポート役に徹するということをはじめています。


既存の知識を社会人の基礎として教えることが大事だと言っていながら、多くの高等学校での日本史の授業は平気で近代まで、明治維新以降の歴史は時間切れで教わらないなどということが日常的におきていたり、これまで常識と言われた学説が簡単にひっくり返ったりするのを見ると、そもそもそれほど既存の知識の体系にこだわる意味もないのではないかと考えられるようになってきました。

しかも、子ども自身が興味を持ったことから学習させるということが、結果的に学力も世界一になる方法であったということが実証されたのです。
(福田誠治『競争やめたら学力世界一』朝日選書 2006)


そこにある程度の情報であれば、無理に覚えなくてもいつでもどこでも手に入る時代が来たとなると、こうしたフィンランドの事例に習うでもなく、これからの時代の教育目的自体が変わってこざるとえないと思うのです。

受験のための特殊技能教育に特化してしまった日本の教育を変える契機が、ようやく訪れた気がします。

答えを覚えることではなく、調べる力、問題を発見する力、それらの人に伝える力こそが、学ぶことの根幹であるのだと。
つい最近、総合学習などでそのようなことが提起されていましたが、現場の教師がすぐには対応できない現実がありました。

でもようやくそれを実現するインフラとともに現実のものとして教育現場でそれが受け入れられようとする時代が来たのを感じます。

デジタル教科書を、ただ今のキンドルのようなかたちで捉えても意味がありません。
これらはハードの問題よりも、
どのような教育がなされるのか、
現場の教師の自由な授業プランに応じて、
子ども自身の意欲や興味関心に応じて、
それぞれにもっとも相応しい方法が、たくさん用意されている時代がやってくるのだと思います。


教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

補足 デジタル技術への抵抗感について

モノの記憶
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教科書のデジタル化のゆくえと展望  その2

2009年10月24日 | 出版業界とデジタル社会
前回はデジタル教科書導入の方向へはたらくメーカーや出版社、文部科学省などの思惑と動きなどについて書きましたが、政権交代がおきたことで、学校教育そのものもこれから10年では、おそらく大きくかわっていくことと思います。

 私個人としては、検定教科書なんていらない、義務教育も社会が一定レベルになれば、受けない自由があっても良いと思っていますが、そこはおいておいて、もう少しここでは一般的な立場で発言します。

 私個人の希望的観測も含めて、変わりゆく教育のなかでのデジタル化がすすむことで教科書や学校教育の現場の姿がどのように変わっていくのかを、わたしなりに少し書いてみることにします。

 前回の記事を書いたときに、デジタルは「貧しい」、紙の質感を含めた情報の豊かさにはかなわないといった旨の意見がありました。
デジタル化がすすめば進むほど、アナログの良さが再評価されたり、部分的に復活することは大いにありうることと思います。

しかし、いろいろと議論が混交しやすいので難しいところですが、まず、今の紙の教科書であっても、原稿から編集、製版に至るまで、大半の作業はデジタルでなされている現実にはかわりないと思います。


それはデジタルでつくられた情報を紙に出力するか、ディスプレイに表示するかの違いであって、そこに起きている差というのは、第一に表現方法の差であり、使われる紙質、印刷のグレード、ディスプレイの大きさ、画面の見易さなど必ずしもデジタル云々が質を左右する決定的な理由になるものとは限らないのだと思います。


進学校での電子辞書の普及が100%に近いところまできていることにみられるように、他方で紙の辞書の再評価がおきているのは当然のことと思いますが、それは授業法の選択肢のひとつとして出ているだけであって、進学校の大半が紙の辞書に戻るというようなことは、もうありえないことです。


そこで、そもそも情報がデジタル化されることとはどういったことなのか、といったようなことから確認しながら話をすすめてみます。

デジタル化という変化がわたしたちの生活にもたらす変化を考えると、以下の主な特徴に要約できるかと思います。

第一は、あらゆる異質な音、映像、文字などの情報を、同質の記号に置き換え変換することができること。
第二は、そうしたあらゆる異質な情報をデジタル信号におきかえることで、どこへでも瞬時に移動・転送できるということ。
第三は、デジタル信号に変換されることで、膨大な情報をコンパクトに収納できること


なんか社会に果たす役割の特徴をみると「お金」と極めてよく似た性格のものであると感じます。
そのことはとても大事なことなので、おそらくまた別の機会に書きますが、こうした技術は、必然的に教育そのものも大きく変えるものだと思います。

まず第一、第二の特徴から言えることは、教科書、教材、辞書などあらゆる情報が既にデジタル化されていますが、このことによって、今は印刷された教科書や教材を全国に発送されていますが、すでに元情報がデジタル化いるので、各地区や学校で必要な印刷することも不可能ではない時代になったこと。
あるいは必要な箇所だけその都度現場で印刷して渡すということも不可能ではありません。

また元の情報を著作権などを保持したまま渡してもらえれば、教師の授業プランに応じて、自由に見やすいよにあるいは子どもがわかりやすいように再編集してわたすことも可能なのです。

その方法は、デジタルデータのまま子どもが持っている端末に送るのもよし、
先生が必要な部分を拡大カラー印刷して配布するもよし、
教室の大型ディスプレイ、もしくは電子黒板に写しだすもよし、

それらに自由に参考教材もリンクして組み立てられるのです。

大概一回の授業で使用する教科書は、1,2ページの範囲である場合が多いのではないでしょうか。
そうであるならば、1冊の本を持ち込むことよりも、その日の授業内容により集中して広げることの方が授業は魅力的なものにしやすいと思います。
見開きA3にまとめられた情報よりも、拡大・縮小、写真、動画などを自由に組み合わせたものの方が(もちろんすべてを使う必要なはく)
教師が自由に授業プランをたてられ(現状では自由でなく決めてもらった方が良い教師が多い時代かもしれませんが・・・)
そうした様々な授業プランを公開、共有することができたらどんなに面白いことでしょう。

そもそも、私は昔から疑問に思っていたのですが、一つの教科を20年も30年も教えていたならば、自分で納得のいく教科書をつくってそれを使いたいという先生がいて当然なのではないかと思うのです。

すべての先生がそうである必要はありませんが、ひとつの地域でひとりでもいて、それらをネット上に公開でもできれば、現場の先生が自分の授業で使いやすいものを自由に選べる。

そんなことができる時代であれば、当然授業風景そのものも、すでに予備校が実現しているように評判の先生の授業は衛星画像で自由に見ることもできる。
大事なポイントになるようなテーマの日や、その担当の先生の苦手な項目の日などは、名物教師の授業を大画面で受けることもできる。

デジタル化という現実は、すでにそのような授業風景のインフラを私たちに提供しているのです。


次に第二、第三の特徴からでる主にインターネット環境のもたらすことについて次回に書きます。


教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について

モノの記憶
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教科書のデジタル化のゆくえと展望 その1

2009年10月21日 | 出版業界とデジタル社会
同業者のみなさんの感想を拝見して、わたしたちは情報というものをただニュースリンクの紹介にとどまるだけではなく、きちんとその情報の持つ意味を整理して伝えないといけないのではないかと強く感じました。

そこで、タイミングは少し遅いかもしれませんが、うちも経営の4分の1を教科書に依存している店なので、教科書のデジタル化、電子ブックへの移行の見通しについての問題を私なりにこの機会に整理してみたいと思います。





1、現在、すでに起きている変化


 すでに紹介されていますが、今年アメリカで高校の教科書にアマゾンが開発した読書端末キンドルが導入されました。
 アメリカの場合、教科書版元の独占が進んでいるので、今回導入した大手三社で全体の教科書市場の6割を占めると言われます。


 このニュースは、日本でも衝撃的に伝えられましたが、にもかかわらずまだキンドルは英語版しか出ていないことや、日本のメーカーが過去、電子ブックで失敗していることなどから、日本で同様な変化が起きるのはまだ先のことになるかの憶測もされています。
 しかし、以下の項目で説明するような理由で、すぐではないといっても、それは決して遠い先のことでなく近いうちに必ず起きる変化であることも間違いがないのではないかと思います。


 電子ブックというかたちではなくとも、すでに教材のなかには印刷製本せず、ダウンロード版のみというものも出だしています。


 それと見過ごせないのは、教科書問題とはまったく別次元で実際の教科書取り扱い店が経営難に陥り、その業務を受け継ぐ場所がなくなる問題が多発している現実もあります。
 今、扱っている書店の延命・保護も大事ですが、外部からみると衰退しつづける教科書取り扱い店の延命を考えることよりも、「既得権にしがみついている業者」は、これを機会に整理してしまおうとの意見も時代の流れからすると無視できないものがあります。


 取り扱い書店と教科書取次ぎを除くすべての業界関係者が、教育現場、子供と父兄、版元などどの立場からもデジタル化することの方がメリットがあるとデジタルアレルギーの精神的な抵抗感以外は、世論の多くがまとまってしまう流れは否めないのではないでしょうか。



2、デジタル化の持つ意味への根深い誤解
 
 それでも、紙の良さはデジタルに変えられるものではないという意見は、教育現場でも根強く存在し続けます。
 事実、デジタル化が進めば進むほど紙ならではの良さの再評価も高まることも間違いありません。
 しかし、受験勉強などの学習方法の効率を問う分野ほど、その差は歴然と開いていきます。
 デジタル化とは、ただ紙の情報をデジタルに置き換えたコンパクトで便利なものということではありません。
 学習の方法が革命的といっても良いほど大きく変わるのです。
 既に電子辞書の普及は、英語学習において先生以上に正確なネイティブの発音で単語にとどまらず例文や問題まで生徒がいつでも聞ける環境になりました。
 昔の「アイ、キャノット、スピーク、イングリッシュ」などという先生はもう生徒からも相手にされない時代なのです。


 こうした音声機能とともに、画像表現や画面の拡大縮小機能、情報のリンク、ジャンプ機能、快適な操作性などの進歩にはこの数年を見ても目覚しいものがありますが、これらは今後日々さらなる進化を遂げていくものです。
 
紙の良さはあります。またそれゆえに残るものもあります。
しかしそれは、高価な特殊付加価値商品ということです。
圧倒的部分は、デジタル化することで、経済的でエコでもあるゆえに多くの人が恩恵を受けることができます。


3、出版社側の事情


 日本では光村教育図書が、デジタル教科書の開発をすでにすすめて商品化していますが、そうした開発を急ぐ最大の理由は、出版社自身の延命策としてなによりも有効であるからです。


 児童数の減少により市場そのものが縮小し続けるだけでなく、大判教科書の比率が増たり、カラー刷りページもどんどん増えていながら、 定価は簡単に上げることの出来ない今のままでは、出版社の自助努力の範囲ではとても対応しきれない現実があります。
 そこに紙の印刷と製本、物流のコストを省けるデジタル教科書は、版権製作料部分の純利益比率を上げても、 最終商品価格を下げられる競争力をつけられる有望な商品になります。


 これまで長い歴史のあるつきあいをしてきた書店に対して冷酷な発言をすることはできない立場ですが、こうした事情をみると出版社がたやすく書店を擁護できるわけではありません。



4、ハードメーカー側の事情


 電子ブックは、かつていくつかの日本メーカーが参入しながら失敗に終わった苦い経験がありますが、amazonのキンドルがアメリカで急速に普及したことで、完全に仕切りなおしがされたといえます。

 これまで普及の障害になってしたのは、
  1、コンテンツの絶対量不足
  2、液晶画面の見にくさ
  3、バッテリー寿命
 などがありましたが、すでにこれらの問題はどれも日本メーカーはその気になれば十分解決できる時代に入っています。


 さらに決定的なのは、電子辞書の普及で経験したことですが、児童・生徒へのこうしたハードの普及は、一般市場のヒット商品を産むことよりもはるかに「大きな市場に化ける」ということです。


 小中高の全校採用ともなれば、電子辞書とは比べものにならないほどの大きな需要が、一気に見込めるのです。
このことに気づいたメーカーが、文部科学省、教育委員会をはじめとした教育機関に相当な営業をかけることは間違いありません。
そして児童・生徒のそうしたデバイスの利便性を体験させたならば、さらに社会人への需要開拓の大きな布石になることも期待できます。


パソコンメーカーと、カシオやシャープなどが競って、これからamazonやMacの商品と開発を競いあう時代がはじまっています。




5、文部科学省、教育委員会など行政の対応


 一般にこれらの問題に対して行政は、保守的である場合が多いものですが、上記のような環境から各メーカーが競って営業をかけることが予想され、一部の先進的行政マンやその長がそれに気づけば一気に様相が変わります。
 本来であれば、教育現場でどのように活用されるべきか、しっかりとした現場との協議を経て決定されるべき問題ですが、過去のこうした問題の経緯から推測すると、トップダウン式にある日突然その決定がなされることもおおいにありえます。


 これはどのような可能性があるか推論の精度を争うよりも、まず、最悪の事態にいち早くそなえることを優先することが求められます。


5、当面の予測

 次回の教科書改訂は、すでに目前になってしまうので当然間に合わないと思いますが(ヘタをするとそれも・・・)、おそらくアメリカほど教科書会社の独占は進んでいないので急激でなないかもしれませんが、まず高校の進学校からデジタル教科書の普及がはじまることと予想されます。

既に電子辞書の普及率が有名進学校ほぼ100%に近い実態になっていることから、受験校であれば、デジタル化によるメリット、学習効率の違いに真っ先に注目すると思います。

その次に他の高等学校や中学校が続くと考えるのが自然ですが、この段階になると、もしかしたら徐々にということではなく、文部科学省などの行政判断によって、ある日突然、全国一斉にということも十分考えられます。


教科書のデジタル化が実施される前に、様々な教材類がデジタル化され、その利便性などが現場に実感されていくことと思います。

これが次の次の教科書改訂時期、つまり5年後までの間に大勢の流れは決まるのではないかと思います。

運良くか悪くか、最も長引くことを予想しても10年(2回の改定機会の範囲)はかからない話なのではないでしょうか。




教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について

モノの記憶
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市場規模で支えられる「国民文学」からの脱却

2009年01月26日 | 出版業界とデジタル社会

前に紹介した水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税
この本が、あまりにも多岐にわたって示唆に富んだすばらしい著作なので、数回にわたって本書を通じて考えたことを書いてみたくなりました。

 以前、アメリカドルの力が衰退したことで、世界の多極化が進行すること。
アメリカの圧倒的優位は無くなるものの、大国として、アメリカ、中国、ロシア、インドの優位とその覇権争いは残ること。
 日本はそれらの国々のような広大な国土こそ無いものの、生産力人口の規模などにおいては、先進国のなかでは1億人以上もいる国であることを考えると、日本が決して小さな国ではなく、もともと大国といってもよいほどの力を持っていることなどについて書きました。
  http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/5fbd81f2711d41f01c6a5aad127a9fc1

 この印象を、水村さんの著作では言語の問題を通じて、一層明確に感じることが出来ました。
 英語と中国語、ロシア語を除いたならば、世界中の様々な言語で、一億人以上が使用している言語は、いったいどれだけあるものでしょうか?
 植民地時代のフランス語圏、スペイン語圏を除いたならば、一億どころか、世界の国ぐにの圧倒的多数の言語は、5~7千万人以下の需要しかない国ぐにのなかで使われているのが実体のようです。

 それだけに、普遍語、公用語としての英語が広まるにつれて、それらの僅かな需要しかない国語、現地語は、いかに国家の保護のもとにおかれたとしても、多くの国では瀕死の状態にあるといえるのではないかと思います。
 この問題には、今回はこれ以上深入りはしません。
 今日は日本の問題に限定します。

 わたしたち出版業界が、1996年頃をピークとして、この10年間でおよそ二割、市場が縮小してきたこと、さらにこれからの10年でピーク時の半分以下にまで縮小することが必至であることを私はこれまで何度か書いてきました。
 ところが、この深刻な事態も、水村さんの本で世界の国ぐにの国民文学の実体を見ると、まだまだ贅沢な悩みであるように思えてくるのです。

 水村美苗さんは、英語の堪能な小説家として文学関係の国際会議に出ることが多く、そこで出会う世界各国の文学者、小説家の実態を現実に知る機会もとても多いようです。
 そうした国際会議で同席する各国の小説家は、国民文学作家として活躍する場合、その国の言語の使用者の数の大小にかかわりなく、自国の民族語を使用して書くことそのものを誇りとしている場合が多い。

 ということは、
 英語、ロシア語、中国語を除いたならば、
 世界の圧倒的多数の国ぐには、
日本が日本語の使用者を1億2千万人以上持っていることに較べたならば、
日本語の使用者人口の半分以下の規模の言語利用者しかない国ぐにであるとういことを再認識するべきだと知りました。

 主要先進国のなかでも、ドイツですら人口は8200万人程度、イタリアが5800万人、フランスが6800万人といった程度(いずれも旧植民地諸国は除く)で、圧倒的多数の国ぐには、日本の半分以下の市場規模です。

 生産力人口の規模を考えたら、日本の製造業以外の生産性がいかに低いかということを私たちはもっと自覚しなければなりません。

 今、国際的な不況で外需の落ち込みが深刻な問題であるといわれていますが、これまで経済発展に出来ることはなんでもしようとする姿勢自体は問題ではないとしても、外需に依存しなければ国が支えられないという発想は、これらの数字からいかに根拠のないことであるかはわかるのではないかと思います。

 つい経済問題に話が広がってしまいますが、世界の国ぐにの国民文学作家たちは、そのほとんどが、日本の半分以下の規模の言葉の通じる読者しかもっていない環境で活動しているということを知らなければなりません。
 半分とか3分の1どころか、世界に存在するあまたの少数民族からすれば、数千から数十万人しか、その民族の言葉が通じない社会で活動している作家も少なくないのです。

 日本のように、有名作家でなくとも、なんとか自国の言語で小説を書いて食っていけるなどという環境は、国際社会のなかではむしろ異例のほうの部類に属するのだと思います。

 こうした国際的な前提にたったとき、
もちろん、だから誰もが英語で書いたほうが得であるとか、国民に英語教育を徹底したほうが良いなどということになるのではない。
そもそも、潜在的な利用者、あるいは読者規模に左右される構造そのものに依拠した発想そのものが、「不合理」であると考えることが、これからの国民文学の復興を議論するうえでは大事なのではないかと考えるのです。

 3,000人しか利用者がいない少数民族の言語と8,000万人が利用している言語の間に、数の大小で優劣があるわけではない。
 このことは、比較的誰もがすんなりと理解してくれることだと思います。

 ところが、3,000人にしか読まれない小説と20万部売れた小説とを比較した場合には、
どうしてもそれは作品の力の差として受け止めてしまいがちなものです。

 これに断固、ノー!と言える社会のしくみや考え方が、これからの時代は大事になってくるのではないでしょうか。

 3,000人の市場では食べていけないから、外需を拡大するとか
 よりマス市場が期待できる英語圏に参入するとか、といった発想では、
そもそも世界中の国ぐには成り立たないのです。

 世界の圧倒的多数の国ぐにから較べたなら、はるかに有利な条件に恵まれた日本です。
水村さんの『日本語が亡びるとき』とは、だいぶ論点は異なりますが、日本語という1億人以上が利用しているメジャー言語の国の出版業は、ピーク時の半分以下にまで市場が縮小したとしても、世界の国ぐにの標準サイズにやっと近づいた程度の問題なのです。

たしかにこれから多くの書店や出版社が潰れていくことは間違いありません。
だからといって、やっていけないという理由にはならないのです。
「わたしたち」は、これからもやっていきますから。

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出版市場は、どのようにで縮小していくか?

2008年09月03日 | 出版業界とデジタル社会
このところ、名の知れた雑誌の廃刊、休刊が相次いでいますが、広告収入を当てにしている雑誌を筆頭に、出版市場の縮小化の傾向はさらに加速するばかりです。

この流れのなかで、一般読者は気づかないうちに徐々に馴染みの本が手に入りにくくなっていく。
たしかに、書店の数が減ってもネットで購入できるかもしれませんが、販売ルートの減少とともに、製作側の採算も加速的に難しくなっていきます。

ネット情報への依存が増し、書店に頼らない人も確実に増えていくでしょうが、日常的に本を読む人たちをめぐる環境が、気づかぬうちに大きく変わろうとしています。

それで、この本が好きな「普通の」ひとびとの環境とは、どのようなものなのか、
勝間和代さんがわかりやすい数字を引用していたので、それを紹介してみたい。


雑誌の市場:1.3兆円
書籍の市場:9000億円
(これは書籍・雑誌への一人平均の支出額は、月に1,000円に満たない)

この規模は携帯電話の5,000~6,000円に比べて圧倒的に小さいことがわかる。

それでも新書はよく売れていますが、新書のちょっとしたヒット書籍で5~10万部、
大ヒットで本のファンならほぼ題名を知っているというレベルで30~50万部です。
一方、『女性の品格』のように100万部以上売れる本というのは年に数冊、あるかないかです。

これはなぜかというと、どの年代も90%くらいの人が書籍を読む習慣があるとしていますが、実際に購入頻度を尋ねると、月に1回以下の購入頻度しかない割合が50%以上を占め、毎週本を購入するようなヘビーユーザーはわずか10%しかいないためです。

そうすると、成人人口は約1億人ですから、1億人に書籍を読む人が90%、
そのうち、ヘビーユーザーを10%とすると、

1億人 × 90% × 10% = 900万人
という潜在市場が出てきます。

さらに、このなかで漫画、小説以外のジャンルを買う人は10~20%しかいませんので、
大目に見て20%を掛けても、900万人×20%=180万人がおおまかな、本のヘビーユーザーの潜在市場規模になります。

10万部のヒットというのはヘビーユーザーの5%以上の市場シェアを目指すということなので、実はかなりハードルが高いのです。

     勝間和代『勝間流「利益の方程式」』東洋経済新報社より



この数字から見えてくるのは、
誰もが好きで買っているように見える本の市場の実態というのは、多くの人が想像しているよりは、かなり狭く小さいものであるということです。

私が何度となく書いていることで、これから10年で出版市場の規模は
ピーク時の半分以下にまでなるというその実態は、

縮小する大半部分は、現状の市場の3分の2以上を占める雑誌、コミック、実用書の分野で加速的に規模が縮小するということだと思います。

それに対して、純粋書籍ともいえるような領域は、ネット情報にも頼りながらも
はじめらか本ならではの高付加価値の情報も必要とするヘビーユーザーの比率が高いので
減少の幅は、他のジャンルに比べたら低いものであると思われます。

わたしたち零細書店は、ここにわずかな商機をみています。

平均的な書店は、売り上げの半分程度を雑誌とコミックに依存しています。
ところが、うちのようなタイプの零細書店の雑誌コミックの構成比は3割程度です。

書籍の構成比が、雑誌・コミックと比べて高くなるのは、
うちのようなタイプの零細書店と200~300坪以上の大型店です。

しかし、厳しいかな大型店ほど、市場規模がこれからピーク時の半分程度まで縮小していく時代には、相当な効率化して採算点を下げる努力をしないと経営を維持することはとても困難な時代になります。

なので、
残るは、うちのような雑誌・コミックよりも書籍の比率の高い零細書店。

もちろん、同じく市場規模の縮小する時代での生き残りですから、経営体力も一定度ないと持ちこたえられないでしょうが、それでも、大型店よりははるかに有利な立場にあるといえます。

この間経験しているころですが、周りの目上の競合店のほうが先に落っこちてくるのです。
そのおこぼれだけでも、零細書店にはかなりの恵みになるのです。
もちろん、それを受け入れる器を用意してあればのことですが。

出版市場そのものは、大幅に縮小していきますが、
全体に比べてこのコアの紙の本の部分は、減ることは間違いないのですが
他のジャンルに比べたら、それほど劇的な縮小はおきないのではないかと思うのです。

でもこのコアの市場のお客さんを相手にするのは、
これまでの取次ぎから送られてくる在庫をおくだけの書店は、退場してもらわなければなりません。

これからの書店はここをターゲットにした採算の取り方を考えるべきだと思うのです。
「そういう特殊な本は、大型店やネット注文にしてください」
ではなく、
「そういう本こそ、うちにおまかせください」
とならなければならないのです。

自分が市場の平均的な消費者だと思っている日常的に本を読む人たちの半分以上は、紙の本に頼らなくても他の媒体の情報で事足りるようになると思います。

しかし他方では、かなりのお客さんが、10年たっても
かといって近くにいい大型店がない、
ネットの注文、決済、宅配はいやだ、と言いながら
紙の本を求めて来るのではないでしょうか。

10年後には、
いまどき本屋なんて絶対に儲からないよといわれる時代になって
ありがたや、ありがたやと
この紙の本のコアのお客さんを相手にビジネスをしていたいものです。

そして20年後には
書籍に限らず、地域のひとたちの求めるあらゆる情報が得られる拠点として
新しい姿で生き残っていたいものです。

もちろん、いづれにしても険しい道のりであることに間違いないのですが・・・・
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