昨日、田中優子『カムイ伝講義』をすすめたお客さんと夙谷のことなどをはなしていたら、そのお客さんは、「私はこういう差別とかの発想はまったくない」という。
差別する意識がないという意味ではなく、差別するという感覚そのものがないということなのです。
この本のなかでも、井原西鶴の『諸艶大鑑(別名・好色二代男)巻五に、長崎丸山遊郭に実在した太夫(最高位の遊女)金山の話が出てきます。
近くの集落に暮らす非人のひとりが金山をみそめ、三年をかけて準備し、金山のところに通うようになった。ついには他の客が気づき評判が立つのだが、金山はそのとき面桶、欠け椀、竹箸その他、非人のシンボルをさまざまアップリケにして着物に貼り付け、「世間晴れて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放った。金山の評判は高くなり、ますますはやったという。
どんな時代でも、こうした市井のなかに、まわりの目に一切動じないしっかりした人がいる。
差別してはいけないなどという正義感からではなく、どうして彼等が差別されるのか、そもそも理解できないといった人たちで、昨日のお客さんもそんな感じの方でした。
私も当然、差別そのものはおかしいと思いながらも、如何なる人が目の前にあらわれても絶対に差別する意識はないかと聞かれると、とても自信をもってこたえることはできない。
昨日の話では、差別の多くの実態は、人間差別でることよりも、職業差別を通じて現実社会には存在するもので、雇用の機会を奪われた身分、職業の変更を禁じられたところにその具体的差別の構造がうまれている。しかし、それは同時に、その社会で必要とされ不可欠な職業の存在を証明してることの裏返しでもある。そうした社会で必要とされる職業という観点から人々をみると、差別という発想はなくなる、などという会話をしたのですが、どうも説明がまわりくどい。
差別はいけないなどと説明をされるまでもなく、差別すること自体ありえない先天的な感覚が備わっている人のことを、もっと人間本来の姿として学びたい。
たしかにマザー・テレサのような人は滅多にいないかもしれない。でも、そうしたいかなる立場の人に対してもゆるがない接し方の出来る人がひとり、近くに立っていてくれるだけで、周囲の人々のこころは大きく変わる。昨日のお客さんは、そんなまわり中を明るく照らしてくれるような輝きを持った人でした。
ただし、現実には本人がそのつもりであっても、相手がどう思うかが大事なのがこうした差別の肝心なところです。
こちらがそのつもりはなくても、軽い気持ちで使った言葉や行為が、相手にとってはとても傷つくことであることは少なくありません。
簡単には忘れることのできない長い歴史を背負った過去をえぐられるようなことなど、個人的なトラウマを思い起こさせてしまったり、常にお互いのすべてを知っている関係ではないために、様々な行き違いは起こりうるものです。それだけに、公人、私人を問わず、麻生太郎のような発言は最も戒めなければならないことと思います。
その場にいる人だけでなく、自分の発する言葉や行いが及ぼすことや、聞いている人の気持ちへの想像力こそが、社会に対するその人の姿勢があらわれるものです。
差別をしないではなく「感じない」意識を、くれぐれも麻生太郎のような「感じない」無神経さと混同されないようにお願いします。
(余談)古事記・日本書紀と藤原氏の台頭以来、神や人に序列をつけることが当たり前かのようになってしまいましたが、それ以前の天武天皇や聖徳太子までの時代の日本は、原則、神や人に序列はつけない八百万神の世界観の時代でした。いつしか、そのような多元的な世界観が、過去のものではなく、日常の感覚となる時代が来ることを願っています。