かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

差別を「しない」ではなく「感じない」意識

2008年10月25日 | 「近代化」でくくれない人々

昨日、田中優子『カムイ伝講義』をすすめたお客さんと夙谷のことなどをはなしていたら、そのお客さんは、「私はこういう差別とかの発想はまったくない」という。

差別する意識がないという意味ではなく、差別するという感覚そのものがないということなのです。

この本のなかでも、井原西鶴の『諸艶大鑑(別名・好色二代男)巻五に、長崎丸山遊郭に実在した太夫(最高位の遊女)金山の話が出てきます。

近くの集落に暮らす非人のひとりが金山をみそめ、三年をかけて準備し、金山のところに通うようになった。ついには他の客が気づき評判が立つのだが、金山はそのとき面桶、欠け椀、竹箸その他、非人のシンボルをさまざまアップリケにして着物に貼り付け、「世間晴れて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放った。金山の評判は高くなり、ますますはやったという。

どんな時代でも、こうした市井のなかに、まわりの目に一切動じないしっかりした人がいる。
差別してはいけないなどという正義感からではなく、どうして彼等が差別されるのか、そもそも理解できないといった人たちで、昨日のお客さんもそんな感じの方でした。
私も当然、差別そのものはおかしいと思いながらも、如何なる人が目の前にあらわれても絶対に差別する意識はないかと聞かれると、とても自信をもってこたえることはできない。

昨日の話では、差別の多くの実態は、人間差別でることよりも、職業差別を通じて現実社会には存在するもので、雇用の機会を奪われた身分、職業の変更を禁じられたところにその具体的差別の構造がうまれている。しかし、それは同時に、その社会で必要とされ不可欠な職業の存在を証明してることの裏返しでもある。そうした社会で必要とされる職業という観点から人々をみると、差別という発想はなくなる、などという会話をしたのですが、どうも説明がまわりくどい。

差別はいけないなどと説明をされるまでもなく、差別すること自体ありえない先天的な感覚が備わっている人のことを、もっと人間本来の姿として学びたい。

たしかにマザー・テレサのような人は滅多にいないかもしれない。でも、そうしたいかなる立場の人に対してもゆるがない接し方の出来る人がひとり、近くに立っていてくれるだけで、周囲の人々のこころは大きく変わる。昨日のお客さんは、そんなまわり中を明るく照らしてくれるような輝きを持った人でした。

 

ただし、現実には本人がそのつもりであっても、相手がどう思うかが大事なのがこうした差別の肝心なところです。
こちらがそのつもりはなくても、軽い気持ちで使った言葉や行為が、相手にとってはとても傷つくことであることは少なくありません。

簡単には忘れることのできない長い歴史を背負った過去をえぐられるようなことなど、個人的なトラウマを思い起こさせてしまったり、常にお互いのすべてを知っている関係ではないために、様々な行き違いは起こりうるものです。それだけに、公人、私人を問わず、麻生太郎のような発言は最も戒めなければならないことと思います。
その場にいる人だけでなく、自分の発する言葉や行いが及ぼすことや、聞いている人の気持ちへの想像力こそが、社会に対するその人の姿勢があらわれるものです。

差別をしないではなく「感じない」意識を、くれぐれも麻生太郎のような「感じない」無神経さと混同されないようにお願いします。

 

(余談)古事記・日本書紀と藤原氏の台頭以来、神や人に序列をつけることが当たり前かのようになってしまいましたが、それ以前の天武天皇や聖徳太子までの時代の日本は、原則、神や人に序列はつけない八百万神の世界観の時代でした。いつしか、そのような多元的な世界観が、過去のものではなく、日常の感覚となる時代が来ることを願っています。

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地方(じかた)組合の提唱

2008年10月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
最近発売になった田中優子の『カムイ伝講義』(小学館)
半分くらい読んだところなのですが、とてもいいです。

タイトルから、不朽の名作『カムイ伝』の深いストーリーを読み解く本を想像しがちですが、どちらかというと『カムイ伝』に描かれている江戸時代初期の農民や海に生きる人々、武士や差別された人々の時代考証を大学の講義としてまとめたものなので、歴史の勉強のテキストとして読んですばらしい内容になっています。

宮崎駿の『もののけ姫』なども共通しているものですが、すぐれた作品はフィクションであっても、その背景描写がとてもしっかりしているので、現実にはありえない設定であっても、個々のリアリティからドラマの説得力が増すばまりでなく、その作品のテーマに対して観るものを、限りない想像にかきたてていくようになっている。


そんな感動のはなしは、そのうち本書の書評で書いてみたい。

今回は、そのことではなく、この本のなかに出てきた内容で触発されたあることについて書きます。

『カムイ伝』は一揆の描写がとてもリアルでダイナミックに描かれているのも特徴なのですが、本書では、その一揆が発生するきっかけとなることが多かった人間のことをとりあげています。

それは地方功者(じかたこうしゃ)といわれる者で、幕府の下級地方役人や諸藩の郡奉行など地方に精通した者のことです。

幕府や藩はこういう者を雇って巡見させて検見をはじめる。現地人管理者のようなもの。
この地方功者がはいると、必ず一揆が起こるとわれるほどの存在であったという。


このはなしは、本題ではないので、書評で触れるとして、私が興味をもたのは地方を(じかた)と読むことについてです。

今日、私たちは地方自治体をはじめ地方という文字を必ず(ちほう)と読んでいますが、この読み方には、
中央から見た地方、
中心から離れた田舎である地方、
といったニュアンスがとても色濃く染み付いています。

この意味合いが、地方自治体の自治の確立などといっていながら、中央から予算配分を変えてもらって実現するような、なさけない地方自治体のイメージしか出てこなくないことの背景になっているような気もします。

何度となく、今の地方自治体の「自治」の中身は本来の「自治」ではなく、ただの「行政」体ではないかといったことを私は書いていますが、議員や役人にお願いおまかせのシステムが「自治」など生み出せるわけがないのです。

こうした本来の「自治」という言葉の力を取り戻すために、この
地方(ちほう)を(じかた)と読む読み方がとてもふさわしいのではないかと感じました。

地の方、自分の今立っている大地にしっかりと自分の足を踏ん張って生きている姿がイメージできないでしょうか。
不満を言いながら期待に応えてくれない役人にお願いすることではなく、
金がなかろうが、組織力が足りなかろうが、
今自分の立っている場所で、自分たちの持っている力と知恵を寄せ集めて、困難を乗り越えていくことこそが「自治」の基本。

そうした意味で、中央に対する地方ではなく、
自分たちの立っている場所が、自分(わたしたち)のすべての起点、
という意味で「地方(じかた)」という読み方はすばらしいのではないでしょうか。

自治体に使う場合でも「地方自治体」というと固定的な機関のイメージになってしまうので、あくまでの自立した個人の連合という性格を強めるために、地方組合(じかたくみあい)といった呼び方がふさわしい。

現にわたしの地元では、防災体制つくりなどの本来、自治体が中心になって行うような取組みですら、行政とかかわりのない個人と日赤が協力して、行政とはまったくかかわりのない組織として話が進んでいるような例もあります。
といっても、実体は、わが自治体以外がみんな行政が参加していて、わたしたちのところだけ、個人が窓口になっている悲しい現実なのですが・・・
利根川流域で防災体制の連携を深めようという流れです。

世間は世間で、できることを是非がんばっていただくとして、
わたしたちは、世の中がどうころぼうが、勝手に『地方組合(じかたくみあい)』を育てて生きていく。


なんてのは、どお?
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働き方いろいろ 尾瀬の寅さん編

2008年10月19日 | これからの働き方・生業(なりわい)

わたしの知り合いのなかに「尾瀬の寅さん」こと原坊というニックネームの知人がいます。
このところ他の友人と話をしていると、なにかとこの彼の最近の生き方がすばらしいという話題になります。

この寅さん、文字どおりフーテンの寅さんのモノマネを特技としているのですが、全国にたくさんいる「ニセ寅」のなかでも、彼ほど寅さんの風貌だけでなく、生き方まで似ている人物はいないのではないかと私たちは思っています。

彼がそこまで至るきっかけは寅さんのモノマネであったかもしれませんが、彼が寅さんを演じることで自然につながっていった人の輪と、そのつながりで彼自身が気づいていたひととのかかわり、
これがとてもすばらしいのです。

特定の団体に所属して行うボランティアなどとは異なり、彼が出会うひとりひとりの出逢いを通じて、まさに寅さん流にその輪が広がっていくのです。

このことは、私のみた印象よりも、
寅さんのブログ(尾瀬の寅さん)
を是非みていただきたいのですが、
その旅先での出会いの足取りをみると、まさにそれは北は北海道から南は九州まで、フーテンの寅顔負けの旅を続けている姿がわかります。

なぜ、彼はそのように日本中を旅することができるのか。

そこには、現代の寅さんが実際になりたつだけの理由があるのです。

彼は、定職を持っていません。

このことが、様々な厳しい現実を彼につきつけてくることがあります。
「定職をもたないようなものに、うちの娘を嫁にやるわけにはいかん!」
とかね。

きっと他にも彼が口にはださない、つらいことはいろいろあることも想像されます。

でも、彼は生活にはそれほど困っていません。
なぜなら彼には、お金が必要になったら、とりあえず必要なだけ稼いでくる仕事のつてはあるのです。

もとは彼の家の家業からはじまっていることと思われますが、建設作業などの現場仕事でそれなりの経験を持っているので、各地からただの作業員としてではなく、現場を仕切れる貴重な人材として仕事の依頼がくるのです。

そうした仕事で、もし彼がその気になって働けば、時に1年間暮らしていけるくらいのお金は十分稼ぐことが出来るらしいのです。

しばらくブログの更新がなくて大人しいなと思ったら、千葉あたりの現場でしっかり稼いでいたりするのです。

はじめ彼に出会ったころは、わたしは特別問題がるわけではないので、彼も早く定職をもったほうが良いのではないかと思っていました。
ところが、彼が全国を旅しながら、すばらしいボランティア活動などをしている姿を見ると、この全国を旅してまわる自由な時間は、定職についてしまったらとてもすることはできない。今のかたちでこそ可能な生活であることを知りました。

本来、わたしたちの発想であれば、個人で会社を設立して、寅さんの個人事業としてそれらすべての活動を行ったほうが、社会的信用も税制上もずっと有利になるので、それをすすめたいところですが、そこはあくまでも彼は「フーテンの寅」。

それをやっちまったらおしめぇ~よ。

個人では太刀打ちしがたい厳しい現実あふれるこの日本のなかですが、こうやったらビジネスはずっとうまくいくなどというノウハウとはまったく縁のない領域で、彼には是非生き抜いてもらいたいのです。

映画のなかで、寅さんの恩師である散歩先生は、非人間的エリートを糾弾している次のようなくだりがあります。

「お前のような馬鹿はいくらしかってもしかり足りん。
・・・ただ、しかしだ、
俺が我慢ならんことは、お前なんかよりも少しばかり頭が良いばかりに、お前なんかの何倍もの悪いことをしている奴がウジャウジャいることだ・・・・
こいつは許せん、実に許せん馬鹿共だ、寅。」

現実の寅さんは、映画のキャラよりもずっと、おだやかな容貌でありながらものごとの本質は見抜く力のある頭のキレる人なのですが、そんな面は見せずに寅さんのキャラを日頃からずっと演じてくれています。

そんな彼を、わたしたち友人は、いつも応援してやりたいと思っているのですが、
かといって、経済的に自立する力のある彼に援助できることとはなにがあるでしょうか。

このように、ブログなどで彼のすばらしさをどんどん宣伝することくらいしかできません。
でもそれだけでは、せっかくの彼の魅力が、一見不安定な彼の生活を自信にまでたかめるにはちょっと足りない気がします。

そこで思いついたことがひとつあります。

寅さんが、旅先ですばらしい女性に出会ったり、
恋したり、案の定ふられたりするたびに、
これぞ寅さん!と
映画のマドンナの名前をとって
リリイ賞とか歴代マドンナの勲章を与えてやってはどうでしょうか。

失恋の回数を重ねることこそ、
君の勲章であるのだと(笑)

他の彼のあるファンは、
「寅さんを結婚させない会」などという大胆な意見も出していました。

といって歴代のマドンナもリリイ以外の役名はまったく思い出せないので、
人気順に吉永小百合賞、浅丘ルリ子賞、十朱幸代賞、太地喜和子賞、竹下景子賞、八千草薫賞、栗原小巻賞、松坂慶子賞、大原麗子賞と順番をつけておいて、
失恋の回数を重ねるたびに吉永小百合に近づいていけるというのは、どうでしょうか。

これなら、やる気(?)も起きる?

てなわけで、
みなさん、是非、寅さんのマドンナ勲章に参加、ご支援ください。


あとで書く機会もあるかと思いますが、わたしがこうした応援をしたいもうひとつの理由として、現代の「賃労働」という働き方は今世紀になって急速に普及した特殊なと労働形態であるということを、これから様々なテーマで考えていきたいと思っているからでもあります。

人生80年の時代、週休二日制の8時間労働で、20代から60代まで働いたら終わりというのは、自然と社会の生命の再生産の原則の合致しにくいのではないかと思うのです。

今の賃労働を軸に考えると働き方の幅は限られてしまいますが、本来、ひとりの人間が個人として社会の役にたって生涯働いていける姿というのは、もっと多様なスタイルが可能であるべきで、むしろ本来の生活者という視点にたつと、特定の能力だけを売るような賃労働というのは、社会の基本システムとしてはむしろ無理が多いとすら考えているからです。

そんなことも含めて、私にとって寅さんの生き方は、
尊敬すべき貴重な存在であるので、なんとか応援したいと思わずにはいられないのです。

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今どきの本棚考

2008年10月12日 | ・・・ったくアホな生活
3日間かかって夜中にゴソゴソやりながら、新しい本棚2本を部屋に据え付けました。
2本増やしたはずなのに…、
なぜか増やしたその日に全部、棚は埋まってしまった。
床に積み上げた本、棚の隙間においている本などだけで、2本分あったということなのだろうか。

今回は、これまでの最も廉価なスチール本棚が手に入らなかったので、木製の安い本棚に替えてみました。プリント印刷の木目であっても、たしかにインテリアとしてはこれまでのスチールよりずっと落ち着いた雰囲気にはなる。

でもこうした本棚のつくりというものが、様々な点で昔から改善されない欠点だらけであることを痛感させられました。


今回、購入したのは、最上部の天板部分をネジで高さ調節して天井に押し付け耐震構造で安定させられるものなのですが、量産品のコストダウンのために、ここまで手を抜かずにはいられないのかと首を傾げることが実に多い。

第一は、肝心な棚板の間隔を決定するダボ穴。
これが、棚の構造を強化するために固定位置の棚板が、均等に配置されると、その間に入れる棚板の枚数や間隔を、どう配分しても、単行本、文庫・新書の組み合わせがきれいに収まらず、実用性のない文庫も納まらないCDの高さの棚か、不要な隙間を意味無く残してしまうことにどうしてもなってしまう。

さらに、ダボ穴の間隔が広いことも、その調整を適切にすることを妨げている。

ダボ穴の間隔を詰めることで、穴をあける工程数が増えることは、たしかに工賃が多少でもあがることにつながり、経営上、可能な限り避けたいことは想像がつく。

でも、部品の数が増えることに比べれば、微々たるものではないだろうか。
実際に大量生産の品となれば、数銭の工賃アップでもばかにならないものかもしれないけれども、1センチの隙間でも調節して適切な高さにしたい私にとっては、この手抜きがもどかしくてならない。
これはスチールの本棚でも同じ経験をしています。


第二には、棚板の木口貼りの方法。
棚板の幅よりも、木口貼りの渕がはみ出しているばかりに、本棚を手前に引き出すたびに木口の角を引っ掛けることになる。
一度、二度ならともかく、数回繰り返していれば、必ず木口貼りが剥がれる原因になる。

これも、角の面取り作業の工程を省いていることでコストダウンをはかっているのだろうが、単純に本を手前に引き出す妨げになる構造というのは、本棚の基本性能レベルを損ねている。


第三は、今回の商品特有の問題。
耐震構造として天板の高さ調節して、天井に押し付ける構造になっているのですが、壁に本棚をぴったりはりつけると、たいてい下の幅木部分の厚みが本棚を壁から浮かせることになってしまう。
この商品は、その点をちゃんと考慮して側板下部のその幅木があたる部分が削り込んである。
ところが、天板の側は、そうした考慮がまったくされていない。

すべての家に共通するわけではないにしても、天井と壁の角に横木が飛び出している場合のことをこの商品は想定して造られていない。
私の家には、この横木の飛び出しがあるので、天板をまずその横木の飛ぶ出た部分の高さにあわせて固定して、手前に隙間が出来て浮いてしまっている分、本などを隙間材として詰め込んであらためて固定することをせざるをえない。

これは、天板の奥行き幅を、棚板の幅よりも少し狭めて、中心軸の位置を中央からずらして穴をあければ、板をすえる向きを変えるだけで、壁にぴったりの位置への固定する方法と、角を少し離した位置から固定する方法とが選択切り替えすることが出来る(図にしないとなにを言ってるかわからない?)。

この問題は、今回買った商品特有の問題ですが、第一、第二の問題などは、多くの安価な本棚に共通してみられる問題。

とりわけ第一のダボ穴と棚板の間隔の問題は、高価な本棚の場合でも同じ問題がみられる。
もっとも、業務用のずっと高額な棚ですら、こうした気のきかないことはみられるので、業界相場からは無理からぬ面もないともいえないのですが、本棚を使う文化として考えるととても悲しい、情けない。

日ごろ店の棚で、棚板の高さを一コマでも下げられる場所があれば、絶えず変える作業をしているものからすると、こうしたことはどうも黙ってはいられなくなるのです。

説明書には親切にフリーダイヤルの番号が記されていたので、
来週にでも電話してみるか。
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やっと部屋が片付く!(かもしれない)

2008年10月08日 | ・・・ったくアホな生活
なぜだかわからないけど、春頃から
まわりのホームセンターから安いスチール本棚が、完全に消えてしまった。

私がずっと探しているのはオフィス用のものではなく、家庭用の安いもの。
行った先々で問い合わせてみても、もう仕入れる予定はないという。

木製の本棚は、ある程度高価なものでないと、すぐに木口貼りが剥がれたり、棚板が曲がったりしてしまう。
かといってスチール本棚がいいわけではないのだけれども、コストを考えた実用性ではこれに勝るものはない。

普通の子どもが学習机の横におく本棚は、昔からこれと決まっていると思っていたのだけれど、いつのまにかその常識は変わってしまっているのだろうか。

私は、だいたい1年に2本のペースで本棚が増えていくので
見てくれよりも安いもので間に合わせたいのです。
ネットで探してもなぜか、オフィス用の奥行きの深いものばかりしか出回っていない。

そんなことでいつまでも買えずにいると
もともと足の踏み場もない部屋の収拾がさらにつかなくなるばかりなので、
今日、会社のロングバンを使っているついでにちょいとホームセンターに行って
今あるものから選んで買ってしまった。

750幅の高さ調節をして天井にまで天板を押し付け、耐震対策になっているもの(9800円)を2本。

これがけっこう重い。
車に積み込むときに、これをはたして4階の部屋までかついでいけるだろうかと不安になった。

とても抱えては上がれそうにないので、肩にかついで上ったものの、
2本を二往復して担ぎ上げたら、今は店の文庫本1冊持つのにも腕が痛い。

今夜、一気に据え付けて部屋の整理をしたいところだけど、
おそらく今日は無理かもしれない。

でも、これでようやく人を部屋に入れることができそうだ。

部屋が片付いたら、10人でも100人でも、
どうぞいつでもいらしてください
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