かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です。

2015年05月25日 | 出版業界とデジタル社会

 長野県には、読書村というのがあることを知りました。

 読書村と書いて、(よみかき)村と読むのだそうですが、今は木曽郡南木曽町大字読書という地名になっているところです。

この「読書」という地名は、歴史の古いものではなく明治7年に与川村(かわむら)、三留野村(どのむら)、柿其村(かきぞれむら)が合併したときに、それぞれの頭文字をとってつくられたとのことです。

 是非いつかは訪ねてみたいところでしたが、2016年1月に、近くの本屋さんを訪ねることを兼ねて、行くことができました。

近くに「読書ダム」などというところもありましたが、町村合併で南木曽となってからは、残念ながら旧読書村を思わせるところはほとんどありませんでした。読書小学校もあったようですが、なんて素晴らしい学校でしょう。 

この(よみかきむら)を勝手に(どくしょむら)と読み間違えてしまうことをみて、私は、はたと気づきました。読書とは、本来、書=本を「読む」行為のみをさすのではなくて、「読み・書き」を一体のものとしてとらえたものであるのだと。

 私たちが読む本は、確かに誰かによって書かれたものを読んでいるわけですが、誰かが書いたものを読むから「読み書き」なのではなくて、読むことと書くことが一連の連続した営みであることが大事なのではないかという意味です。つまり、誰かが書いたものを読む、読んで(調べて)から書く。

 著者が書くために読む行為と、読者として読んでから書く行為は不可分のものであるはずなのに、私たちはあまりにも「読む」ことに限定して「読書」をとらえてしまっています。これはなにも、ただ読むだけではなくて読書感想文や書評をもっと一生懸命書きましょう、という話しではありません。

 以前、「作文」という活動も、ただ文を書かせることにその意義があるのではなく、書き手(子ども)と読み手(教師や親)との「関係」の構築作業であることにこそ、その真意があらわれるのだという事例紹介を「この本の素晴らしさを伝えたい 飯塚義則『えがおの花』」の記事で書きました。
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c754bf80699238047309374ca1a6fa10

 

 長い説明になるとは思わずに書き出してしまいましたが、むかし私が気功を習ったときに、気功の先生が、人は食べる(入れる)ほうにばかり気をとられているけれども、大事なのは食べる(入れる)ほうよりも、出す方だ、とよく言っていました。まず、毎朝スポーンとウンコが出るようなカラダになっていなければ、どんなに栄養を口からとっても吸収されるわけがないと。

 また、こんなことも言われました。

 体が思うように動かないから、頭で考えて無理に動かそうとする。

 思ったままに動く体が出来ていないところで本ばかり読んでいるから、思うような結果がでずに、余計な苦労ばかりするようになるのだと。

 

 ・・・そういうことです。

 

 「読む」行為は、頭ですることです。
 「書く(調べる)」行為は、体と頭を使ってすることです。
  つまり、結構やっかいで面倒なことでもあります。

面倒だから出来るかどうかの問題ではなくて、面倒に感じること事態が問題であり、その部分こそが、より多くエネルギーを費やす価値のある大事な部分であるということです。

そもそも「書道」の「書」などは、ただ書くというだけではなく、その行為そのものが「道」を追求する行いであるという意味で、大事な実践のプロセスであります。

もともと「読書」の「書」は、「書道」の「書」の要素も強くあったことと思われます。コピーや写真などの技術の無かった時代においては、本は「書き写す」ことによってのみ、普及し伝えることが可能だったわけです。

現代から見れば、それは印刷やコピーの技術がなかったばかりの効率の悪いことのように見えますが、本来は「書き写す」ことによってこそ、著者が伝えたい「情報」や「心」を自分の頭や胸のなかに取り込むことができたわけです。

この意味で振り返ると、現代の著作権論議は、情報化社会が進むにしたがって必然となる著者、制作者の保護を重視しているようでいながら、情報というものの性格のほんの一部の側面だけを保護する偏ったシステムに思えてなりません。

「書き写す」「印刷する」「コピーする」などの方法の変化は、原点である「書き写す」ことによってこそより自分のものとすることができる意義から振り返れば、積極的な読み手ほど「書き写す」ことや「書き取られる」ことが必然であるからです。

 (これも考え出すと長くなるのでここでは深入りは避けます)

 

 本来、「読む」という行為のそもそもの動機は、ただ「学ぶ」「知る」といった教養や娯楽のためではなく、なんらかの自分の直面した現実から発したものであるはずです。たとえそれが純粋な娯楽の読書であったとしても、またそれがたとえ現実逃避のための読書であったとしても、読むことのリアリティをどこで感じることが出来ているかをみれば、そのひとの何らかの今の日常のなかにある矛盾こそがその根拠になっているものです。

藤井孝一『読書は「アウトプット」が99%』(知的生き方文庫)という本もありましたが、これは読んだ本の内容をまとめる、表現するなどということだけではなく、日常の仕事や暮らしで表現し、行動するという連続性があってこその読み書き=アウトプットのことを言っているわけです。

 

私は仕事柄、もっとどんどん本の紹介をしなければならない立場ではありますが、次第に軸足が、本の紹介をすることよりも、自分が読んだ本を参考により多くのことを試してみること、企画書をどんどん書いて提案することこそが大事になってきています。

本そのものの紹介よりも、テーマ中心に移り、それがやがて企画提案中心になり、さらには「働き方」「学び方」「暮らし方」の再構築がメインになるにつれて、あくまでもこれらの活動のバックグラウンドとして二次的な意味合いで本の重要性がくっついてくるようになってきました。

したがって本屋の仕事も、自分の仕事のなかではあるひとつの領域として続けてはいますが、それが決して主目的になっていない今の姿は、あながち間違っているものではないと思っています。

「読書」は、単に本を読むだけの営みではなくて、読み書き実践の一連の連続した行為であるはずだからです。

 

 もし「読書」に自信のない方は、ぜひ南木曽の旧読書村にある読書発電所(読書ダムもあります)へ行って、読書パワー充電のお参りをしてきてくださいw

ウィキペディア画像より

 


ウィキペディア画像よりトリミング加工

 

旧読書村に行った折には、是非一緒に寄りたい桃介橋

 

 

 

 

関連ページ

序 「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

1、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書

2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です

3、数字が如実に示すネット時代に生き残れる業界の姿

4、もう一つの「不滅の共和国」 「野生」の側にある本と本屋の本分

 

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濱田庄司と益子町 「民藝」から「暮らしのしつらえ」への道

2015年05月08日 | 暮らしのしつらえ

 

GWも終わり、世の中も少し静かになったので「濱田庄司記念 益子参考館」に行ってきました。

 https://plus.google.com/photos/+星野上/albums/6146453741012418017

(河井寛次郎記念館と同じく、写真を自由に撮らせていただけるのがありがたい)

 

私にとっては、民藝を牽引した人物のなかでも濱田庄司はいまひとつピンとくるものを感じられず、河井寛次郎記念館に比べたらずっと近い場所ににもかかわらず、これまで行く機会をもてずにいました。

それがこの間、グラフィック社から出ている『民藝の教科書』という全6巻の本を読んでいたら、自分の理解如何にかかわりなく見ておかないことには話しにならないと感じ、急きょ行ってきました。


 

すると・・・やはり、行って良かった。

京都の街中につくられた異空間、河井寛次郎記念館とは異なり、本来の自然空間のなかに必要な「しつらえ」が十分ゆきとどいていることにまず感動。
妻は、先の東日本大震災の甚大な被害から、ここまでみごとに復旧されたことに感動。
すばらしい空間でした。

でも、私はやっぱり濱田庄司の作品には、いまひとつ入り込めませんでした。
それがそのまま、陶芸のまちとして発展した益子町の奇妙な成功と衰退の同居状態のなかにあらわれているようにも感じられました。
創作作家への道ではなく、「民藝」としての陶芸を志して集まった多くの陶芸家達と一大観光地として発展させた努力も、まずはよしとする。
そのエネルギーに引き寄せられて集まってきて新しい作風を積極的に取り込んだ若手陶芸家たち、これもとてもすばらしい。
ただ、どちらかというと「民藝」の括りから自由であることでこそ羽ばたいている作家が多いようにも感じられます。

「民藝」ブームは、たしかにもう過去のものかもしれません。
でも、時代はいま「民藝」の再評価ではなく、根本的な問い返しを求めています。

その切り込み口がどこかに見えないかと期待して、今回益子へ行きました。


そもそも私にそう思わせたきかけは、益子町が刊行した「ミチカケ」という冊子です。

 益子のまちの人びとの暮らしを丹念に取材し、とても美しくまとめられた冊子で、第4号がこのたびでました。



この冊子を群馬の川場村のCafe de Clammbonさんで知り、陶芸作品のみで表現するこれまでの「民藝」ではなく、そこに暮らす人びとの生活のなかに息づいた「民藝」をもしかして再構築しはじめているのではないかと思ったのです。
これはまさに私が「月夜野」「みなかみ」という土地でこれから目指したいことです。

とんぼ返りで見ただけでなにがわかるかという程度のことですが、やはり実態はどちらかというとすぐれたアートディレクターの力だのみが実態で、なかなか幅広い運動として広がりだしているとはまだ言えないようです。

でも、その活動の規模は、私たちに比べたらずっと大きくうらやましいほどのものです。

お互いに、これから踏み出す世界の話しなので、コツコツと積み重ね続ける努力こそが大事であると思います。

新しい動きの片鱗をさがしたり、月のテーマがらみで使える陶芸作品をさがしたりしながら益子町をまわってきましたが、幸い大きな出費に至ることはなく、今日は写真の皿を1枚買うだけで済ませることができました。

途中、栃木から茨城をまたいだところで、ユニクロの下着を茨城土産(笑)に、買って帰ってきました。

観光や産業の振興以は大事であることは間違いありませんが、それ以上に暮らしの環境の「しつらえ」がいかに大事であるかを道中を通じてあらためて強く感じました。

そう思って振り返ると、日頃お世話になっている赤城村の陶芸家、松尾昭典さんhttp://kamituke.web.fc2.com/page152.htmlの作品の素晴らしさが、また「じわり」としみてきます。

 

コメント (2)
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奥山におのがまことを咲く桜 沼田市白沢の石割桜(カスミサクラ)

2015年05月04日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

 利根沼田地域の桜名所のなかでも、最も遅く咲くこの石割桜。

 これまで、何度か訪れてはいるものの、なかなかその開花時期に出会うことはできませんでした。

 はじめてこの場所を訪ねたときは、今のように案内の標識もあまりなく、この道で良いのかと随分迷いながら心細い山道をたどったような気がします。

 

 花の咲いていないときのこの木は、確かに石割桜として岩の間からたくましく伸びてはいるものの、その樹容からはそれほど華やかな開花時の姿を想像できるようなものではありませんでした。

 そんな石割桜を、今年はじめて満開の時期に見ることができました。

 2015年5月2日。

 実は今回は、開花時期の事前情報を確認して行ったわけではなく、第一の目的であった花咲の天王桜を見に行ったところ、予想外に早く花が散ったあとであったので日没まで少し時間があり、どの程度の状態か確認するつもりで寄りました。

すると、

 


 予想外に、ちょうど満開の時期。

ヤマザクラ特有の気品に満ちた見事な姿を見せてくれていました。

こんなに美しい桜であったとは思いもよらないものでした。

ちょうどヤマブキの花もいっしょに咲いており、絶妙のバランス。

 

 

    見る人のためにはあらで

       おくやまに

      おのがまことを

        咲くさくらかな


              読人不知 

 

  

 

 看板のデザインなど、もう少し直しておけば、これほど詩情あふれる銘木もないといえるほど素敵な空間になっています。

 まさに、桜シーズンの最後を飾るに相応しく、ヤマザクラ特有の落ち着いた雰囲気。

 ソメイヨシノなどの里の華々しい騒ぎが過ぎ去って、山の落ち着きある新緑の季節へバトンタッチするにはとても相応しい木です。
 

 

桜の放つ精気に打たれて魂がしんとなり、ひそやかにさざめいていた慎みなど、私たちは忘れたのだろうか。      (石牟礼道子)

 

 

 見た目通りこの木の種類はカスミザクラ(霞桜)。花柄に短い毛が生えていることから別名「ケヤマザクラ」。

 里の花が散ってから葉が出る桜と違って、ヤマザクラは花と葉が同時に咲きます。

 

 そのためか、もともと遅咲きのこの桜は三分咲きくらいの時にここに来ると、葉がもう出ているので、もう散ってしまった姿なのかと勘違いしてしまう人もいます。

 足元に花びらが落ちているかどうか、まだ、つぼみがたくさんついているかどうか、よく確認して見るようにしてください。

 

  

 

 この写真を撮ったときのように文字通りカスミがかかったように見えるのは、完全な満開の時期ではない方が美しく見えます。

 妻も私も里の桜よりもヤマザクラのほうが好きなたちですが、山桜は山の木々の間にまぎれて咲いている姿を見るのが美しく、なんらかの一本の桜の木を特定して鑑賞するようなことはほとんどありませんでした。

 そんなヤマザクラのイメージを、はじめてこの石割桜が覆えしてくれました。

 一度この霞桜の開花を見てしまうと、他の名の知れた桜の名所は、みな派手さばかりを競う芸も深みもない三文役者のように思えてきてしまいます。

 

 

 昔、この場所をさがしまわった頃に比べたら、案内の看板もたくさん出来てすべて舗装道路をはしってたどりつけるようになりました。 

 でも、この桜の良さを鑑賞するには、より多くの人が来れる利便性の向上よりも、この山桜のまわりの環境をきちんと保全されることが何よりも望まれます。

 

 

 この石割桜へ至る山道には、ちょうど満開の時期にはヤマブキの花が咲き乱れ、ウグイス、クロツグミなどの名脇役たちが交互に鳴き競い、行き帰りの道すがら、ひとつの絵物語りにひたるような夢空間が続いています。

 そこに、白ペンキで塗られたガードレールや道路標識、コンクリートの電信柱さえなければ、完璧な世界が開けています。

 

 まだ自動車の普及する前の時代、地元の人々が長い山道を歩いてここにたどりついた時の感動は、どれほどであったでしょう。

 そんなことを想像しながら、現代の姿を味わうだけでも、格別の空間として際立った存在感をこの場は持っているのを感じます。

 

 
 

このたった一本のヤマザクラのおかげで、春の慌ただしい花物語は、
静かな余韻を残して終わることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            おもかげは身をも離れず山桜

    心の限りとめて来しかど

                 『源氏物語』


  あの面影が私の体を離れずにいます、
          あの美しい山桜の面影が・・・

  心は、すべてそちらに置いて来てしまったのですが、 

 

 

 

 

 

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