かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

数字が如実に示すネット時代で生き残れる業界の姿

2018年06月30日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

妻と車で移動している時や食事をしている時にいろいろ話していると、これまで知っていた情報が思わぬところでつながり、新しい発見に至ることがあります。

そんなことの一つで、今回、書きたいのは各業界の数字の比較のことです。

よく同業者と話しをしていると、本屋の数が減って大変だという話題になりますが、いつも数が減って大変なのは本屋に限ったことではないことを強調しています。

問題は数ではないのだと。

そのような数の変化を起こしている現実はどういうことなのか、それを問うことなしにただ数だけを増やしてもダメでしょう。また、粗利の高い低いの議論も同じです。

 

 

そこで、まず増減の問題を抜きにして業界の実態としてみたときに、よく引き合いに出させてもらうのが、「2万」という基礎数字です。

どんな業界でも、全国合わせたその業界内の店舗(事業所)数が「2万」を切ると、その土地にその業種の店がないという町が現れ始めます。

 

日本の人口を約1億と見て、

1億 ➗ 2万 = 5,000

つまり、5千人の商圏人口で成り立つビジネスを基本として捉えられないと、一般的な話にはならないのではないかと。

 

事実、いろいろな業界を比較してみると

本屋の数、ピーク時2万3千店が現在1万3千店程度に。 

他方、少ない、自分の町になくて不自由していると言われる業界の代表

  産婦人科の数  約5千

 

多いと言われる業界の代表例

  歯医者 約6万8千

  お寺  約7万7千

  コンビニ 5〜6万(未だ増加中)

この比較だけで、およその地域の多い業種、少ない業種の感覚はつかめるかと思います。

 

そこで私はもうだいぶ前のことになりますが、目安となる数字を
「80:20の原則」に従って以下のように整理してみました。

 

        私たちのMISSION

全国(1億の市場)どこでも最低限存在するサービスレベルを実現するために。

全国の小売窓口  5,000人の商圏人口

5,000人商圏の2割、約1,000人の来店客

1,000人のうち2割、約200人の固定客把握

200人の固定客のうちの2割、40人のヘビーユーザへ個別付加価値提供

つまり1,000人の顧客で成立つビジネスモデルが目標

 

残念ながら今振り返ると、これもあくまでも一般的なガイドラインの話で、決して答えにはなっているわけではありません。市場分析が決してマーケティングではないというのと同じです。

 

また、衰退を続ける商店街のことでは、少し前までよく使われていたネタで次のような例がありました。
 
全国どこでも衰退が止まらない町の商店街ですが、そうした中で、全国どこへ行っても唯一元気な業種があります。

それは何かというと、和菓子屋さんです。

他の小売店はどれも、日本全国どこへ行っても買えるものばかり置いている商売なのに対して、和菓子屋さんだけは、その町に行かないと買えない。
そこに行かないと買えない、これこそが小売業復活の鍵になるのだと。
 
ところが、これも過去の話になりつつあります。
そこに行かないと買えないレアな商品であっても、今はその多くがネットで買えてしまうからです。 
 
 
さあ皆さん、どうします?
 
ここからが今日の本題です。
妻との会話のなかで気づかされたことです。
 
 
先の業界ごとの事業施設数の比較には、その先のもっとずっとすごい数字の業界があります。
皆さん、それが何だかご存じでしょうか?
 
身の回りでお寺やコンビニよりも多い業界です。
 
そうです。美容室、床屋さんです。
全国にある理美容室の施設数は、先のコンビニやお寺の比ではありません。
 
なんとその数、およそ35万件
 
 
人口の密集地であるかなど関係なく、簡素な住宅地でも、山間の村落でも理美容室は衰えることなく存在し続けています。それが桁違いに多いにもかかわらずです。
 
ここでもう一度先の商圏モデルの図式に当てはめてみると、
1億の商圏を2万の店舗で割った商圏人口が5000人でした。
その1億の商圏をこの理美容室30万の店舗で割ったら、その商圏人口は、ざっと300(333)人です。
333人の商圏人口の約2割の来店客といったら66人です。
66人の2割の固定客と行ったらたった13人です。
 
この構造だけでもびっくりですが、こんな業態がなんで生き続けていられるのかといったら、
ネットの技術がどんなに進歩しても容易に代替しようがない
「前回はこんなでしたが、今日はどんな風な髪型にしますか?」
といった技術が週刊誌ネタの日常会話のなかで行なわれているからです。
 
この一番のツボは、一人ひとりのお客さんに合わせられるアナログ技術です。
 
もちろんネット・デジタル技術でもこれからビッグデータがどんどん蓄積されて
「この本を買った人はこんな本も買っています」 のようなデータが人工知能によって
「こんな髪型を好む方は、こんなような髪型もお似合いです」なんていう
一層気の利いたカスタマイズが可能になることと思います。

それでも、それをご近所ネタを含めた週刊誌トークの流れでお客の要望を引き出すなんてことは、
まだまだずっと先のことだと思います。
 
実はネット技術も、まさにこの方向に向かって進化し続けているわけですが、
言い換えればこの「一人一人に合わせたサービス」こそが
どんなビジネスでも共通したこれからの究極目標であることがわかります。 
 
 
これまでも、業種を問わず誰もが、できる限りお客さんの名前を覚えて、
一人ひとりに気をつかった対応というのは必ず考えているものです。 
ところがその善意の努力が、そのまま与える商品やサービスの質の差になっているかどうかは
また次元の違う厄介な課題です。
 
これを岩田さんの「一万円選書」は、システムとして実現したわけです。
 
多くの本屋さんが、岩田さんと同じことは自分にはとても出来ないと思われがちですが、
同じことではなくても、一人ひとりに合わせたサービスの仕組みみこそが、
これからの商売の避けることの出来ない王道であることだけは、わかっていただけるのではないでしょうか。
 
全国の理美容室は、失礼ながらそれほど深くマーケティングなどを難しく考えてサービスを実現しているわけではないと思います。
ただひたすら地域の一人ひとりのお客さんの要望に合った髪型、仕上がりを目指して、
そして満足のいくような会話を目指してサービスをしているに尽きるかと思います。
 
もちろん粗利の構造やリピート率の高いサービスの形態など、理美容室特有の条件はありますが、なぜ変わらずに生き残れているのかという基本はすべて同じです。

また、一人ひとりの要望に合わせたサービスさえ実現できれば、市場の規模など関係なく、
地域で生き続けることができるのだということも、この事例によって確信することができないでしょうか。 
 
コメント

「当事者意識」の欠落が本を殺す

2018年05月04日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

「一万円選書」で有名な北海道砂川市「いわた書店」の岩田さんのことは、
これまでも何度か書きましたが、
最近取材された放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」のことがネット上で
図書館や図書館司書の問題としてちょっとした議論になりました。

今回の岩田さんの番組、私はまだ見ていないので
この同業者の論議にすぐには絡めなかったのですが、
図書館、教育現場、この業界共通の問題として書いてておきたいことがあるので、
少し論点はずれるかもしれませんが、また短か~く書かせていただきます。


このたびネットで話題になったことの主な論点は、
本来、司書や教師の仕事であるはずの選書を本屋がすることについてのようですが、
わたしは、学校現場の図書館をめぐる深刻な実態以上に
以下のような問題をずっと感じています。

教師であろうが、図書館担当であろうが、司書であろうが、本屋でろうが、
確かに現場にいる限り、誰もが膨大な作業に追われて、
やるべき仕事に手がまわらないというのはどこでもみられる風景です。
 

でもそもそも何のために働いているのかといえば、

ただ給料のためという人も多いかもしれませんが、
その職業を通じて出会った困っているひと、
不自由している人の課題解決こそが職務であるはずです。


それが、その場に「担当」がいるかどうか、
その道の「専門家」がいるかどうかに
あまりにも問題がすりかえられてはいないでししょうか。

それは、たまたま自分が歩いていた場所の目の前に、ゴミが落ちていたときに、

そのゴミを見て「この場所の管理者はだれだ?」
「誰だ、こんなところに捨てるのは?」

と言ってそのまま通り過ぎてしまっているのに等しいことと思います。

いま目の前にあるのだから、自分で拾えばいいのに・・・


つまり、あらゆる仕事の現場で

当事者としての感覚の欠如、
当事者意識の後退が「仕事」の狭い捉え方の拡大とともに
深刻化しているのではないかということです。

まずそこに担当がいないからこそ、
目の前にいる自分が動くべきことでしょう。

「仕事」を与えられた「作業」をこなすことと考えている限り
こうしたことに気づくことはないのかもしれませんが、
近ごろ、教育現場の話を聴くほどに教育者の仕事ってなんなんだ!と
つい怒鳴りたくなってしまいます。

子どもたちのために、まず教師は職員室で闘え!と
言いたくなります。

教師が首をかけてでも闘わないから
子どもたちが死んでしまってるんじゃないのか。

教育委員会や校長の気の抜けた謝罪、弁明はそのあらわれでしょう。


司書云々にかかわりなく、現場の課題に応えるための「調べる力」
「選書能力」を自らの重要課題としないで、なんの教育があるのでしょうか。

そこが行動できれば、たとえ司書がいなくても
学校では個々の教師を通じて立派な図書館の活用が行われることでしょう。

現状に問題があるのであれば、それと闘う先生が学校のなかにいてくれるはずです。

 

以前、この場に書かせていただいた
「それはありません」の一言にすべてがある https://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c4837a00a6cff5350a9497de3d25a4bd
と共通したことなのですが、

モノとしての本を売る産業は確実に消えていきますが、
情報としての本を扱う仕事は絶対になくならないと確信している根拠もここにあります。


職種、肩書、立場などにかかわりなく

目の前で起きた問題に対しては、その場にいる人こそが
常に最大の当事者であり、それを無視して肩書きや専門性を言いだす人が
いつの時代でも社会をつぶしていくのだと思います。

こうした意味では、比較的どんな職場でも
社員よりもパートやアルバイトの方が、
常に目の前の問題に対しては「当事者意識」を持って
課題に対応できている傾向がある気がします。

肩書きにこだわるような職種、身分ほどなぜか
現場できていることへの当事者感覚は薄れていくように見えてなりません。 


ヒラ社員だろうが、パート、アルバイトだろうが、
専門外であろうが、畑違いであろうが、
その場でいま問題にかかわっている人こそ
常に最大の当事者であること

そして専門家でもなく、肩書もないようなその現場にいる当事者にとって

いつも最も身近で力になってくれる存在、

まさにそれこそが本来は何よりも「本」であると思います。

また、このことこそが、自由に飛び回り活用される「本」の
最大の生命線であるとわたしは信じています。

この核心部分を外した文化の殿堂かのような図書館など
私はこれからの時代には要らないものとすら思ってます。 


岩田さんは、目の前にあらわれた一人の顧客・読者とどう向き合うかを
顧客カルテを通じて実践されましたが、
誰もが目の前のひとつの課題にいまそこにいる最大の当事者として向き合うことを考えれば、
本屋だろうが、
教師だろうが、
司書だろうが
困ったことなど起こり得ないと思います。

そもそも自分こそが課題解決の最大当事者なのですから。

そこの担当者であるかどうかとか、専門家であるかどうかとか
自分にその能力があるかどうか、経験があるかどうかなどといったことは関係ありません。
やり方が上手いか下手かなどということも関係ありません。 


目の前のひとりの子ども、ひとつの現実、ひとつの課題に
精一杯向き合う姿勢ことこそが何より大事で、
それを抜きに安易にカウンセラーなどに頼ってしまうこと自体、
教育としてはアウトでしょう。

病気に苦しむとき、確かに専門医師は不可欠で頼りになります。
しかし医師を選んだり、その前後の健康管理は自分自身の判断に依存しています。

問題をかかえた一人の子ども、一人のお客、一人の取引先など
このとてもやっかいな相手に真剣に向き合った時こそが、
それまでの自分の能力とは関係なく
周りの風景がガラリと変わるときなのです。 

自分の判断そのものの責任を他人に預けてしまう人は
そのまま、自分の幸せも他人に預けてしまう姿でもあります。

またそれは同時に、問題を常に誰か他の人のせいにして
絶対に自分は変わろうとしない
目指そうともしない人の姿でもあります。 

こうした「当事者意識」の後退こそが「本を殺す」のだと私は思います。

どんな本が良いのか、教師や本屋や子どもや親たちが、
迷い悩み考えながら探す作業を抜きにして
誰かに頼んでただ買ってくるだけの関係で、
どんなに立派な設備で膨大な蔵書を置いたとしても
理想の図書館など生まれるはずがありません。

1冊の本の内容を正しく理解しているかなどということは関係なく
自分にとって大切な本、思い出深い本を語れないところに、
本当の「知」や「情報」の生まれる余地はありません。
ただのデータならネット上で十分間に合う時代です。

教科書第一、お受験第一に追い込まれた教育現場に
ここで何かを言ってもしょうがないことかもしれませんが、
なにかを感じること、考えること、調べることを二の次にした教育の
どこに未来の子どもを育てる希望を感じられるでしょうか。


少し今回はボヤキ気味ですが、
少なくとも、単なる文化教養にとどまることなく、
「知」や「情報」の真の力を信じるならば、

何が起きても最も困ったことは起こりえない
困ったことにはなり得ない業種が
本来の本屋、図書館などの情報にかかわる職業なんじゃないでしょうか。

ここが、「本」というものがただ現実逃避の道具で終わるのか
それとも、現実に立ち向かうための力になりうるかの
大きな分かれ目になるのだと思うのです。


私の場合、やや実用性に偏った本の見方をしているように捉えられがちなので
そうではないことのことわり書きを加えないといけないかと思っていた矢先、
「NASAより宇宙に近い町工場」で知られる植松努さんの講演映像を見て
https://www.youtube.com/watch?v=gBumdOWWMhY
本の持つ本来の力、教育現場の問題、まさにその通りと背中を押されました。


岩田さんから久しぶりに電話があったこともあり、
毎度、感情のおもむくままの乱文で恐縮ですが投稿させていただきました

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もうひとつの「不滅の共和国」  「野生」の側にある本と本屋の本分

2017年07月27日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

・・・と言うわけで、
同業者間の半年ほど前の話の続きです。
なんのことかって?自分でもよくわかりませんが(笑) 

「独立系書店の独立宣言」http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/cb2c95d367966a5fdb09f45880a4739f
「10年後に生き残る書店像」http://www.hosinopro.com/about1
などを書いてから、あれよあれよと言う間にもう10年は間近に迫ってしまいました。
その間、現実はさらに変化して、現象を見ると私の軸足も微妙に変わってきたような気がします。

まだ右肩上がりの余韻の残る時代は
「こうすれば売り上げはまだ伸ばせる」といった方法論に魅力がありましたが、
市場縮小時代が確実になると、売り上げが伸びようが伸びまいがそれらにかかわりなく、
「仕事のためにする仕事」ではなく、また「売上げのための仕事」でもなく、
「生きていることが仕事になる働き方」こそが、単に目指すべきことというだけでなく、
無視することができない不可欠の要素になってきたように見えます。

あらためて「独立系」という言葉にこだわって考えてみれば、
これこそが何も変わらない普遍の軸足であることも再確認できます。

最近、こうした考えをさらに深く掘り下げてくれている一文に出会いました。

その文章をより多くの人に知っていただきたく、以下に引用させていただきます。
菅啓次郎という詩人(翻訳家)の文章なので、わずかな引用でも著者にはシビアに見られるものと
考えられますが、とても内容が濃く凝縮された文章であるため、
一語一語嚙みしめて読んでいただきたく、多少のひんしゅくを買ってでも原文のままではなく、
勝手に改行をこまめにさせていただきました。
このような反則を犯してでも、より多くの人が菅啓次郎の本を読んでいただくきっかけに
なってもらえればと願うものです。 

 

 

効率よく利潤を上げることを最大の目的として動く貨幣の「共和国」に対して、
すべての書物を「共有物」とする第二の「共和国」は、
反響と共鳴と類推を原理として、いたるところで新たな連結を作り出してゆく。

そこでは効率や利潤といった言葉は、口にすることすら恥ずかしい。

人々は好んで効率の悪さ、むだな努力、実利につながらない小さな消費と盛大な時間の投資を
くりかえし、くりかえしつついつのまにか世界という全体を想像し、
自分の生活や、社会の流れや、自然史に対する態度を、変えようと試みはじめる。

きみもすでにそこに属しているに違いない書店の共和派は、
たったひとりの日々の反乱、孤独な永久革命を、無言のうちに誓っているのだ。

ただ本屋を訪ねつづけることが、彼/女の唯一の方法論であり、
偶然の出会いが、彼/女のための唯一の報償であり、
それによってもたらされるわくわくする覚醒感と知識の小さな連鎖的爆発が、彼/女の原動力だ。


 そして書店の「共和国」は、ドルを参照枠とするお金の「共和国」に、対抗する。

反乱を宣告する。

この理由も、また明らかだ。

後者が全地球的規模のひとつの「システム」であるのに対して、
前者は各地の新刊書店、古書店、学校図書館、地域の図書館、
個人個人の蔵書などと突発的に無限につながりつつ、
あくまでも不可算の「反システム」でありつづけるから。

世界を単純にまとめようとする力と、世界を分散させ見出された複雑さにおいて知ろうとする力は、
水と油よりも相容れない。


たしかに書店は、ある程度まで商業の論理にしたがい、システムの一部をなすだろう。

けれども本という物体には、どこか動物じみたところがある。

それは生まれ、飼い馴らされ、売買されることがあっても、
どこか得体の知れないところ、人の裏をかくところ、
隠された爪や牙、みなぎる野生がある。

そんな本という物体の流通の場をなす書店の「共和国」が、
だから森林や平原や砂漠や海岸に似ているのは、あたりまえだ。

本をあてどなく探すという行為がしばしば狩猟にたとえられることも、頷ける。

あとは、そうした本の(途方もない集合として見られた書物の)手のつけられない本性、
脈打つ根塊にひそむ想像への無数の芽吹きを、よく感じとりそれに対応することが、
個々の書店におけるローカルなミニ気候を決定することになるだろう。

その気候を、気概と呼んでもいい。


           (管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』左右社より)


 

つまり、もともと広大な荒野へ飛び出す魅力に取り憑かれたわれわれの側からすれば、
一つふたつの取次が無くなったり、一つふたつの大手版元が消えたり、
一つふたつの業界団体が消えたところで、「ギョーカイ」にとっては大問題かもしれませんが、
こちらの「共和国」にとっては、それほど大きな問題にはなりえないのです。

はなからその先に何が待っているかは想像もつかない広大な荒野に飛び出すことこそが、
自由溢れる「共和国」の側にいる本と本屋の本分なのですから。

見ることができないその先には、断崖絶壁があるのか、はたまたオアシスがあるのか、
あるいは竜宮城のような夢の世界が待ち受けているのか、ハーレムあるのか、
そもそも自然界では全く予測のつかない環境の中で生きていることこそが「自然」なのです。 

また「予測がつかない」と言ってしまうと、ここで生き抜く「野生的」なるものを、
ついオオカミやライオンのような強い肉食動物ばかりが勝つ姿を想像しがちですが、
現実の自然界の動物は圧倒的多数が草食動物です。

筋骨隆々のゴリラは草食ですし、象やサイも草食です。
そういうことだけではなく、度重なる地球生命の危機を乗り越えてきたのは、
爬虫類でありゴキブリであり、バクテリア・微生物たちであったわけです。 

この第二の共和国の側にある「野生」が意味しているのは、
必ずしも「強さ」のみによって表現されるものではなく、
むしろそれは、「単一性」や「均質性」といったものに対立する
「多様性」こそが本分なのだと思います。

「単一性」や「均質性」こそが、自然界の歴史では滅びる側の摂理です。

サバンナを生き延びる野生動物ほどの苦労はせずとも、温帯気候の中で生きている私たち人間は、
圧倒的な大自然の恵みの中で豊かに暮らしてきました。

それと同じく、私たち本屋も、その恵みである本や情報は、
決して枯渇する心配など不要なほどの豊かな恵みをもたらしてくれています。

さしあたって本が開いたからといって、突然その野生の本性をあらわし、
ページをパタパタ羽ばたかせてどこかへ飛んで行ってしまう心配はありません。
また、本から突然足が出て、ものすごいスピードで逃げて行ってしまう恐れもありません。

現代社会には「情報洪水」などという言い方もありますが、
そもそもこの大自然、宇宙にいる限り私たちは、絶対に汲み尽くせない「情報」や
果てしない「謎」の中で私たちは生きているわけですから、
私たちの側に存在する「不滅の共和国」への信頼が揺らぐことはありません。

大自然の恵みのなかで「野生」という本分を備えて
「多様性」や「はみ出す力」こそを生存の条件とする側に生きている私たちには、
どんな「ギョーカイ」側の大きな衝撃があったところで、ダメージは受けても
そもそも「困ったこと」などおこりえないのです。 

ちょっと暴論に聞こえるかもしれませんが、
長い歴史を見れば、これが必ずしも暴論ではないことに気づいていただけるかと思います。 

野生の大地に立っているからこそ、
数多の未知の世界についての本をあさるのであり、
社会の未来を知る手がかりを求めるのであり、
経営の本、営業方法の本、自己啓発の本
地域や歴史の本、人間関係や家族のあり方をえがく物語に
とめどなく惹き込まれつづけるわけです。 

切実に困った現実に直面している私やあなたこそが、
もっとも多くの本や情報を得ながらチャレンジし続ける
野生の本性を持っているわけですから。 

 

 

関連ページ

序 「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

1、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書

2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です

3、数字が如実に示すネット時代に生き残れる業界の姿

 

 

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「千回の法則」の要点メモ 持続する仕事 

2017年01月17日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
久しくブログの更新ができないままだったので、長い間まとめきれていない記事のポイントを
一度メモとしてアップさせていただきます。

それは、なかなかまとめきれずにいる「千回の法則」の分類です。

右肩下がりの時代になると、よく人から「それは散々やったけどダメだった」とか
「真面目に努力しているけどうまくいかない」とかいったようなことを聞くことがありますが、 

「散々やった」という時、実際にどれだけやったのかとその実態を聞いて見ると多くの場合、2、3回程度であることがほとんどです。
せいぜい「散々」=3+3=6回
または良くて 3×3=9回 といった感じです。

10回以上などというのは、ほとんど聞きません。
 
他方、真に努力している人というのは、初めから数回などというのは諦めるレベルではないと思っているので、まだダメだったなどと判断することなく、あたりまえのこととしてその先の努力につなげているのです。
 
何事も、千回のボリュームゾーンに至らないうちは、たいていのことがらはまだ「努力した」とは言えないものです。
 
はじめから「努力」ということのレベル設定のケタが違うのです。

要約すると、以下のようになります。
 
 

①、体験レベル 1回〜数回
   かけ替えのない貴重な体験、しかし自分ではコントロールの及ばない出会い

②、経験レベル 3〜10回
   既存のシステムであれば参加権が得られるが、うまくいかない場合は
   他人や社会のせいにしがちな学校のお勉強レベル

③、蓄積レベル 10〜100回
   ある程度、人に自慢したり教えたりできるレベルだが、まだ資産にはなっていない

④、自己化レベル 100〜1000回
   時には人からお金をもらえることもあるような能力の水準

⑤、社会的固有化レベル 1000〜10000回
   ビジネスモデルとして確立、または複数の千回プレイヤーが協力し合う関係

  「1万時間の法則」と言われるのもこのレベルから

⑥、唯一無二の芸術・職人レベル 10000〜100000回
   個人芸で食べていけるような水準。しかし保証ではない
   「かっこいい」「美しい」「感動」

⑦、生命のレベル 100000〜100000000回
   過酷な環境を生き延びるのに必要な自然界の摂理



音楽家、画家、職人、アスリート、研究開発などの世界で生きている人は、すぐに納得してもらえるのですが、一般のサラリーマンの世界では、優秀な人でもこのことを受け入れてくれないことが多いのです。

確かに失敗の許されない大企業とか、効率優先で結果のみを求められる社会では、この原則は受け入れがたいかもしれません。
 
おそらく、たちまち首切りの口実にされてしまうのがおちでしょう。

仕事は無駄な手間を省いてこそ利益が出せるのに、なんでそんな千回も1万回もしんどいことをしなければならないのかとも言われそうですが、こうした自らの独自性生みそだてる作業こそが、付加価値の源泉なのです。

①、②の場合は、正しいかどうか、損か得かが価値判断の基準になりがちなものです。

それに対して⑥、⑦に近づくほどに、面白いかどうか、美しいかどうか、楽しいかどうかに価値判断基準が移っていきます。美しいかどうかの価値基準に近づくほど理屈抜きで手間をかけるようになり、手を抜くこともできなくなるものです。

この道を選択する方が、

命をすり減らすようなストレスが多い仕事からの解放の道であり、
 命を燃やし輝かせるより楽しい仕事を獲得する道であること。

このことで、あきらめない働き方が出来ると同時に
 疲れない働き方・仕事をを獲得することができるということ。

より回数の多いプロセスに入りながらも、
 生命活動に一層寄り添う仕事になり、幸せを感じられるようになる

ということはここで確認しておきたいと思います。


 
 

「ほんとうに世界を変えるのは、権力や富ではなく、
また、数と力を頼む行動や声高な主張でもなく、
静かな持続する意思に支えられた、力まず、目立たず、
おのれを頼まず、速攻を求めず、ねばり強く、
無私な行為です。」

    ジャン・ジオノ『木を植えた男』 (こぐま社)

 

この「千回の法則」の道を選ぶことが、「参加」「所属」型の労働から、「つくる」こと、「創造」する労働への転換であるということの説明を次回にさせていただきます。


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100人を敵にまわしてでも立証したい「明るい未来」の話

2017年01月08日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

持続する仕事 (1/3)
100人を敵にまわしてでも立証してみせたい20~30年後の「明るい未来」 

(「どうして絶望的未来しか想像できないのか」シリーズ No.12)

 

そもそも、100人も敵をつくってしまうようでは、明るい未来などつくりうるはずがありません。

先にことわっておかなければなりませんが、この趣旨は、新たに敵をつってしまう以前に、100人くらいを敵にまわしてでも説得し続ける強い意志がいるといった覚悟の意味を込めたものなので、その旨ご了承ください。

とにかく新年は、明るい話をしなきゃダメでしょう。

 

確かに出版業界、書店業界どこも明るい話題などないと言われて久しい時代です。
新年にかわした挨拶のなかでも、
「これほど売れない時代がくるとは思わなかった」
「事業の縮小準備をすすめてます」
などの言葉が枕詞のように入るようになってしまいました。


繰り返しになるかもしれませんが、この厳しい現実をあまり紙の文化を守るための出版業界独自の問題とばかり考えてしまうと正しい解決の糸口は見失ってしまうと私は思っています。

ただ単に活字文化を守るビジネスが厳しいのではなく、「モノ売り」の世界全体が、小売業界であれ製造業であれ第一次産業であれ、日本国にとどまらず、先進国共通の問題として直面している課題だと思うのです。

そのなかでひとり「活字文化」だけが、もっと守られるべき存在であるというのではなく、今私たちが取り戻さなければならないのは、それらをひっくるめた現代社会全体のパラダイム転換にどう立ち向かうかということではないでしょうか。

いきなりそんな大風呂敷を広げても、目前の問題が解決できなければどうしようもないではないかとも言われそうですが、まさに「活字文化」を標榜する私たちこそが、そうした時代の大きな流れには逆らえないと嘆くことなく、根本から問い続ける勇気と責任を持たなければならないはずです。

これまで何度か、そうしたことを書き、また語る機会をいただいてきましたが、ここ10年ほどの間におどろくほど世界も変わってしまっているので、表面的な話は瞬く間に陳腐化してしまいます。

そこでどうしても仕切り直しを迫られることを感じたので、新たな切り込み口を考えていたところ、キーワードは
「持続する仕事」
といったような言葉になるのではないかと思えてきました。

 

その背景はまず第一に、これまでの世界のビジネスモデルが、その成長要因の大半が、その実態をみれば歴史上経験したことのない人口爆発によって支えられたものであり、それは長い人類の歴史からみればほんの半世紀ほどの極めて特殊なものであったということに気づき始めたことです。 

第二には、日常のあらゆるものが商品化されて、買ったものに支えられる生活になってから、地域の崩壊=暮らしの崩壊へと突き進む(これは今も彼らが願っている方向)流れは、この間に繰り返されるような延命策では絶対に解決しえない域に達してるということです。

第三は、これもブラック企業の問題が騒がれているなかで話すことが難しいのですが、「働く」ということが、「賃労働」の側面ばかりで見られるようになってしまい、人の本来の暮らしの営みとしての労働が見失われてしまったことです。
 不当な労働を廃することは当然ですが、大事なのは安易な労働基準数値の問題ではなく、わたしたちにとっての「幸せな労働」「豊かな労働」を取り戻すことこそが中心課題のはずです。

 

このような意味で私たちに今求められていることは、既存のレールの修復作業ではありません。

私自身、確かに10年前までは右肩上がりの時代の余韻があったので、「これをやれば」「あれをやれば」まだ売上を伸ばせる、といったような口調になっていましたが、ベースが完全に右肩下がりの時代になると、もうそうした各論では話が通じません。(もちろんまだ出来ることはあります)

これらの前提に立てば、求められる景気の回復策は、デフレ脱却のための消費刺激策ではないことは明らかです。

企画やイベントは大事でこれからも必要ですが、すでにそうした消費の刺激だけでなんとかなる時代でないのです。

だから政治家になんとかしてほしいとばかりに、専門家や権限のある政治家などに、1票の力だけで丸投げしてしまうこれまでの未熟な民主主義の実態が表面化してきたというのが今の社会のすがたなので、どうするかを考え実行するために必要なボールは、完全に私たちの側に預けられているということに気づくべきです。

専門知識の有無よりも、私たちがそれらの実像を調べ、聞き、学び、教わる主体であることが、従来の学校教育型の「お勉強」から「本を力」にした私たちの生きる力を磨くことを通じてこそ、可能になりはじめた社会が目の前に開けているのです。

このような意味で「働き方」「学び方」「暮らし方」の改革こそが中心課題の時代になったといえるのではないでしょうか。

だからこそ、「本屋の出番」だと私は確信できるのです。

もちろん、私たちの業界がさらに衰退し縮小していくことは間違いありません。
でも、これまでの貸本業界、CD・レコード業界、レンタルビデオ業界のように、完全に消え去ってしまうような絶望的危機をかかえた産業基盤でないことは、ものすごいアドバンテージです。

 

これからどのような時代がはじまるのか、

わたしたちの幸せな未来を築くにはどうしたらよいのか 

 

ネットなど断片情報で安直に得られる答えに依存せず、本の本領を本格的に発揮する時代がはじまったわけですから、私たちにとっては決して絶望するような困ったことがおきているわけではありません。

 

 

「悲観主義は感情で、楽観主義は意思の力による」  アラン『幸福論』

 

 

「不況」にあえぐ他の業界に比べたら、はるかに大きな使命をもち、社会に求められ続ける魅力的な業界にわたしたちは今もいるのだということをまず新年に強調させていただきたいとあらためて思うのです。

 

 

毎度、長くなってしまうので、次回にこの「働き方」についてのひとつの視点を続けて書かせていただきます。

「千回の法則」 要点メモ  「持続する仕事(2/3)http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/ad40dc5b16af2ccc0c8642d56dcf7c91

 

 

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「これをやればうまくいく」今どきそんな理屈はあてにできません

2016年03月15日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

教科書販売が始まったあわただしいなか、今日は来てくれた版元の営業さんと面白い話しの流れになりました。

たまたまお店というか、会社の内情が大変なことになっていた矢先であったので、

少しずつこちらの内情を打ち明けるうちに、

私の持論「千人を敵にまわしてでも立証したい明るい未来」の話しになりました。

これは、このBlogにもいつかきちんと書かなければいけないネタです。

そんなことを話すきっかけも、

もしかしたら今人気の大河ドラマ「真田丸」の影響があったかもしれません。

 

決まったレールの上でことがすむひと昔前のことならともかく、

なにごとも未知の領域にチャレンジしなければ未来は開けない時代です。

動き出せば必ず違う情況があらわれてきます。

また予想外の結果も出てきます。

事前に相手を説得する材料は必用ですが、出だしの提案はあまり大事ではありません。



情況が変わっても、結果が予想外でも、手を変えて、知恵を出し

「試し続ける意思」こそが一番大事なことです。


このことを理解してもらえないと、

こちらが自信をもって提案していることでも

「それをやればうまくいく」と安易に思われてしまうのが

なんとも歯がゆい思いにかられてしまうのです。


世の中の前提が、国の総人口や生産者人口が増えない時代になった今、

未知の領域に向かってチャレンジし続ける意思なしには、

いかなる正解もありえない時代なのだということを

肝に銘じておかなければなりません。



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どうして絶望的未来しか想像できないのか(10)早く教科書は捨てよう。

2015年04月13日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

毎年、3月、4月は、新年度にむけて教科書や教材の販売に追われる時期です。

学校への搬入作業をしていると子ども達が、新しい教科書を楽しみにしていて飛びよってくるのは微笑ましいものです。

ところが、しばしば教師用教科書や教師用の指導書などの入荷を必死に待っている若い先生の姿をみると、教科書を柱にした今の教育というものの圧力の大きさを感じてしまい、将来が心配に思えてきてなりません。

もちろん、それは現場の教師の問題であるだけでなく、教育の最終目標が「受験」になってしまっている旧態依然とした今の教育制度こそが問題であると思うのですが、それらに対していったい誰が闘っているのか、これも不安に思えてなりません。

そうした問題の根を考えると、教育現場の問題を変えるには、まず受験制度から変えることが一番なのかと思われます。
受験に受かるには、知識よりも、もっと考える力を身につけないと受からない現実ができれば、必然的に現行の教育内容も変わる。

話の順番ではこうなるのですが、世の中の現実を見ると、そんな発想をしていたのでは明らかに遅い!

世界はもうとっくに、そんなこと言ってられる時代ではなくなっています。



「ほかの人の成功事例をマネすることが、成功への近道だった時代がありました。
そうした時代には、決められた設問に正確な解を出す学習法が有効だったのは事実です。
しかし、ほかの人の成功事例をマネすることが、必ずしも自分の成功を約束するものではなくなったのが、いまの時代です。」
              畑中洋太郎『失敗学のすすめ』


この本が話題になったのは、もう随分前になります。

教育現場の問題でいえば、小学校までは、確かに「読み」「書き」「計算」に徹した教育が絶対重要であると思います。

しかし、中学以降になったら、今のような教科書中心の詰め込み教育をしていたら、もう世界の現実についていけない子どもを再生産するだけだと思います。

それは、わかっちゃいるけど変えられない?

・・・・・


ならば、少なくとも、私たちの世界だけは変えていきましょう。

先週のまちづくりの会合の場で、このことをちょっと話したのですが、私の言い方が下手なこともあってか、いまひとつ皆さんには響かなかったようでした。


今までは、教育の場でも社会でも、

1+2=?

3+4=?

といったような設問に対する答えを求めるのが普通の考え方に思われていました。   

今、自分たちにできることをコツコツ積み重ねていけば、それに応じてゴール、答えにたどりつける。

この場合、設問に対する答え、3や7がゴールになっています。

当然のことです。


しかし、今の世界の現実は、そうした発想以外の設問で動いていることが圧倒的に多くなってきています。

現代の設問はこうです。

1+?=10

4+?=10

3+4+?=10

答え(目標)の10にするには、どうしたら良いか?

3、や7が答えやゴールの相場であっても、10という目標にたどり着くにはどうしたら良いか?

これを考えていくのが現代です。


この場合、目標に到達する方法は、ひとつではありません。たくさんあります。

そこが先の設問とは大きく違うところです。

10に至るには。5+5でも、1+9でも、3+3+3+1でもよく、

さらには、3+4では足りない部分をどうするか、

それは必ずしも3を入れるだけではなく、

誰かに応援を頼む、

それはひとまず後回しにして、出来るとこからはじめておく、

など様々な足りないものはなにかをみつける活動があります。

 

こうした思考を育てるために教科書は要りません。

大事なのは、教科書よりも参考資料や情報を収集する力や、様々なことを試してみる行動力です。

 

会社経営でも、地域づくりでも、よく他所の成功事例を学びに視察などが盛んにおこなわれたりしています。

ナマの現場をを自分の目でみることは確かに大事です。

でも、それよりもはるかに大事なのは、それを参考にして様々なことを自分の環境に合うかたちでより多く試してみることです。

それは、下からの積み重ねを「出来ることからコツコツ」の発想も悪くはありませんが、
大事なのは、先に設定した「目標」に向けて試すということです。

このより多く「試す」ということが、公務員の立場であったりサラリーマンの立場であるとなかなか難しいと思われがちです。

しかし、どんな立場であれ、成功しているところをみれば必ず、その人の立場如何にかかわらず、それを成し遂げているものです。

 

かつての右肩上がりの時代であれば、地道な努力をコツコツ重ねていれば、そこそこの成果がついてきたものです。

ところが右肩下がりの時代になると、それではなかなか思うような結果には結びつきません。

適切な目標をかかげた努力のみが、必要な結果に至れる時代になったのです。

 

この辺の「目標」設定の問題と、正しい設問のたて方、より多く試してみる環境づくりは、どこでも粘り強く話し続けていかなければならないとあらためて感じました。


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本を燃やす!?(2014年改訂)

2015年01月20日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

不良在庫の処理について、あるお店にレポート出すので、思いつくところを少し書いておきます。

買い切り商品、返品不能の色褪せた在庫が、文庫、新書、児童書など、どこの店にも多くみられます。
「店に出しておかない限り売れない、減らない」現実は確かにあります。

しかし、売れ残りや色褪せた商品が、棚に並んでいることは、
 (1)、まわりの商品も古く見えてしまう
 (2)、棚回転が上がらない売り場になってしまう。
 (3)、店全体の商品情報密度と鮮度を下げてしまう。
などのデメリットがあります。


  店に出し続けるのと一気に処分するのと、どちらが得かは意見がわかれることもありますが、
これから在庫を減らして売り上げを伸ばす店づくりをするためには、これらの返品不能品を「火をつけて燃やしてでも処分する勇気」が必要です。
 さらに、ロスを抱え込まないためのコストをきちんと店が抱え込む覚悟は、そのまま店頭の商品をより大事にする姿勢にもつながります。

 ロスの発生、処分は、担当者レベルで決断することは確かに難しいので、5年10年その商品を店におく価値など、会社としての考えをはっきりさせ、決算棚卸し前に思い切って台帳引き落とし処分することをおすすめします。


 また、廃業出版社在庫などは、今後もより大きな版元の倒産などで大量に発生する可能性があります。
 これらの在庫を特価処分販売するときは、常設的なコーナーにはしないで期間を限定しておくことで、お買い得感も増し、棚が薄暗くなる印象も減少させることができると思います。


* この考え方を徹底できるかどうかは、より効率のよい顧客満足度の高い新刊仕入れの絞り込み決断にもつながります。

 「売れるかもしれない」、「売れるかどうかわからない」商品は極力おかず、顧客に明快な情報とメッセージを伝える棚にすることで、在庫のない商品があっても確実に「客注取り寄せ」になる店づくりにつながっていくものと考えます。

 このことは、「売れる本」のみ置くことを勧めることではありません。

 管理されていない本を排除することを強調するもので、売れ行きが悪くても「売りたい本」であれば、ただ放置することなく、それに相応しい販売、展示方法をとるべきだということです。

 


 ところで余談ですが、みなさんは本を実際に燃やしたことってありますか。

 本を燃やすなんてとんでもないことですが、どうしようもない古い本とかは、ちり紙交換にもだせず、古本屋でも値がつかないので、やはり燃やすという選択肢はあると思います。

 ところが、本というものは紙でできているものには違いないのですが、現実にはなかなか燃えないものです。

 ページが閉じた状態では、間に空気が入らないので、木よりも燃えにくいというのが実態です。

 それを燃やすには、紙を一枚一枚広げるという手間をかけないと、なかなか燃えないものです。一枚一枚開くことができれば、かなりのエネルギーを出します。 

 

 本を燃やすといえば、先になくなったアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリの代表作『華氏451度』(1953年)がありますね。 言論統制の危険性を、紙が燃え始める温度(華氏451度≒摂氏233度)をタイトルにしたものです。
 本を所有することを禁じられた社会を描いています。



 このことは、本というものがただ単なる紙の情報というだけでなく、実際にものすごい物理的エネルギーの塊であることも意味しています。

 1冊の本がもつ莫大なエネルギーを、私たちは読書とともに摂取しているのを感じます。

 

と思うと、「本を燃やす」という行為は、食の「安全」の代償に行なわれる家畜の殺処分と同じような罪悪感を感じますね。

 

           (2012年にアップした記事を加筆訂正致しました)

 

関連ページ

序 「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

1、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書

2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です

3、数字が如実に示すネット時代に生き残れる業界の姿

4、もう一つの「不滅の共和国」 「野生」の側にある本と本屋の本分

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「たて糸」を断ち切り、ひたすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

2015年01月18日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

前回は、読書の「たて糸」と「よこ糸」のことを書きました。

前の文を読んでいただいた方には、おそらく次に書くことはだいたい想像がつくと思いますが、
また長くなりそうなので、暇で死にそうな方だけ読んでください。

この半世紀あまりの経済は、ひたすら「たて糸」のしがらみを断ち切り、可能な限り、
あらゆるところから「よこ糸」をかき集めることで、めざましい「成長」を勝ち取ってきた社会
であるといえます。

この半世紀に限定すれば、それは正しいかどうかの問題よりも、
「そうすることしか出来なかった」現実があり、
その流れに乗ることがむしろ合理的であったとも言えます。

資本主義の経済社会がもたらす基本的な性格として、
お金が、しがらみに囚われずに、より移動しやすく、集めやすくなること、
商品も、しがらみに囚われず、より移動しやすく、集めやすくなること、
労働力も、しがらみに囚われずに、より移動しやすく、集めやすくすること、
さらには都合に応じていつでも切り捨てやすくなること、 
そのようにしてあらゆる「たて糸」のつながりを断ち切ることこそが、より大きな経済を
つくるための必須条件でした。 

こうした流れは、まさに「東京オリンピック」のころから、日本の隅々にまで広がりはじめました。

まず第一に、もともとあった何にも換えがたい自然景観などの資産を破壊し、
先祖から受け継ぐことで再生産し続けてこれた建物や土着の技術などを捨て去り、
さらには、暮らしや子育てなどの生活の知恵も身近なものではなくなってしまいました。

千年、万年、それどころか億の単位の年月をへて踏み固められてきた大地。
その上を半世紀にも及ばないほんのここ数十年の間に、私たちはコンクリートで蓋をしてしまいました。
コンクリートで塞がれ呼吸することのできない土の声を、私たちは聞くことができません。

そのコンクリートの大地の上で、生活に必要なあらゆるものは、かつて自分たちが持っていたもの
ではなく、外から買い続けることによってしか成り立たない社会をきずいてきました。
現代社会は、むしろそれを良いこととして目指してきた社会だったのです。

長持ちせずに、次々と買い替えてもらえる商品、飽きやすい商品を大量に供給することが、
経済発展の条件でした。 
それを疑うことはあっても、多くの経営においてそれはタブーでした。

まさに「東京オリンピック」のころから私たちはこの道を一直線に突き進んできたのです。



おかげさまで、どこの町へ行っても同じようなチェーン店が立ち並ぶロードサイドの景観、
地域づくりに至っても「◯◯カルチャーセンター」、「ふれあい◯◯」といった共通の
行政サービスがあふれ、かたちあるものばかりか、言葉や心の習慣までもが、
判で押したように同じ姿が全国津々浦々に浸透、定着しました。

背景には、技術革新や人口爆発があったものの、そこに「たて糸」のしがらみがあったならば、
決してあのような高度経済成長やバブル経済は起こりえなかったのではないかとさえ思います。

ところが、やがてバブルもはじけて人口減少社会になった今、
未だに、この「たて糸」を喪失したままで、「よこ糸」のみをかき集める経済成長を
期待し続けている人たちがたくさんいます。
今の政府頼み、行政頼み、業界頼みの発想は、どれもこの傾向を強く感じます。

なにごとでも徹底すれば、それなりの結果はついてくることとは思いますが、
長い歴史でものを考えれば、それはあまりにも目先の利益しかみない発想であることは
明らかです。

 

では、「よこ糸」のみに依存しない「たて糸」を活かす経済とはどのようなものでしょうか。

私はそれは、有形無形の「資産形成」こそを第一の目標にした経済だと思います。

「資産」というと、どうしても「お金」を貯めることのように思われがちですが、
「お金」が「資産」形成のプロセスで大事なことは事実ですが、「お金」ほどはかなく消えやすいものもありません。 
多くのお金持ちは、このことをよく知っていて、「お金」をいかに「資産」に変えるかこそ
最大の知恵の出しどころと心得ています。

私のような貧乏人には、如何なる資産よりも、さしあたっての10万、100万のお金ほうが
どんなにありがたいかと思ってしまいますが、たくさんのお金を長く持っている人ほど、 
恐慌や戦争などの度に、お金が紙くずになるリスクの高いものであることをとてもよく熟知しています。

まさに、こうした「お金」を「富」や「資産」に変えることの難しさを、私たちはバブルで経験しました。 

今、思えば・・・ですが、
あれだけお金があった時期に、なかにはいい思いをできた人もいたかもしれませんが、
日本の後世の歴史に残るようなものを当時の人たちは、ほとんど何もつくれなかったのです。
「土地」や「マンション」こそが間違いのない「資産」と勘違いしたのはバブルならではだった
かもしれませんが、ごく一握りの人でも、奈良や京都の寺院が千年を超えて日本人の
文化遺産として残っているように、なにか他のもので百年でも、千年でも残るような
「有形無形の資産」を少しでもつくったでしょうか。

「お金」が「お金」をうむときに、私たちは「資産」を何もつくってこなかったのです。
そればかりか、限りある貴重な「資産」すらもことごとく手放してきたのです。 


 

新しい「商品」=「よこ糸」を次々に生産してかき集めることよりも、
この「たて糸」である「資産」を形成することの方が 、長いスパンでものを考えると、
ずっと効率が良いことにそろそろ気づいてもよいのではないでしょうか。 

「資産」とは、単純にお金を貯めることではなく、長く生き続けて活用できる財産を
つくることです。

自分の胸のうちに残る資産。

子どもや孫に遺せる資産。

会社の経営を支える資産。

地域に根ずく資産。

これらは皆、自分ひとりの占有物になるのではなく、隣りの人と、子や孫たちと、地域の人たちと
共有しあえるものです。

先の東京オリンピックの頃までは、一家というと三世代くらいが同居することが当たり前の社会でした。

それが急速に、親子二世代の社会になり、今では単身、独居世帯の比率が急速に増してきました。

かつての三世代同居時代には、無条件に親は、子供に残せる資産を守り増やそうと、土地を耕し家屋敷を守りそだててきました。

それが単身世代が増えるに従って、自分自身や子供に資産を残すということは、すなわち「現金」をより多く残すことこそが優先されるようになってしまいました。

親が大切に守り育ててきた田畑や屋敷は、子供にとってはタダでさえも欲しくはない、現金であれば歓迎する社会になってしまったのです。

地域資産が疲弊減少するのは当たり前です。

もう一度、現金よりも信頼に値する「資産」とは何か、

真剣に考え直す必要があると思います。

 

こうした「たて糸」=「資産」をふやすことこそが、人が育つ真に強い社会をつくることにつながる
のだと思います。

 

 

 

では、書店にとって「たて糸」に相当する「資産形成」とは具体的に何なのかを
次回に書いてみます。

 

 

「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書 

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「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書

2015年01月10日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

同業者のなかでも、もっともお世話になってる友人のひとり、北海道砂川市の岩田さんの行っている『1万円選書』が、いまブレイクして大変なことになっています。

大変な話題になっていながらも同業者からは、そのレベルの高さからか「さしあたって自分にはマネできないから関係のないこと」かのように思われがちなところがあります。

そこで、そうした誤解をうまないために、より多くの人に「1万円選書」のすばらしさと価値、これからの書店に応用できるさまざまなヒントがそこに満ちていることを伝えたく、何回かにわけて思いつくところを書いてみます。

 


1、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書


誰が言い出したことか知りませんが、私は東京の「読書のすすめ」の清水克衛さんから聞きました。読書には、「たて糸」の読書と「よこ糸」の読書があるのだと。

今の新刊本屋の店頭の本は、ほとんどが
「よこ糸」の読書によってささえられている商品であるとい
えます。
つまりその多くが、時間とともに市場からも記憶からも消えていってしまう性格の本でなりたっているということです。
それに対して「たて糸」の読書とは、時間が経っても、時代が変わっても、変わることなく生き続ける古典のような本の読書のことです。

岩田さんの「1万円選書」が、ネットサービスの「この本を読んだ人はこんな本も読んでます(買ってます)」といった情報サービスと決定的に違うのは、読書の視点を「広げる」「変える」といったことの他に、この「たて糸」の視点がしっかりと織り込まれていることにあると思います。

この意味で「たて糸」の読書というのは、従来の解釈よりはちょっとだけ深い意味をもってきます。

「1万円選書」を紹介したあるニュース番組のなかで、岩田さんに選書のためにカルテ(読んだ本のリスト)を提出したあるキャスターが、岩田さんから
「あまりいい本を読んでいませんね~」
とあからさまに言われてる場面をみました。
おそらくハウツーもののビジネス書がズラズラとならんでいたのではないかと思います。

こう言うと、ハウツーもののビジネス書や自己啓発書でも、歴史的流れの「たて糸」をふまえた良い本は、たくさんあるではないか、と言われそうです。
ビジネス書の多くは、まさに売るためにはどうしたらよいかを真剣に考え進化し続けている領域なので、「たて糸」の知恵もたくさん取り込まれていそうなものですが、
個々の本の分析や評価の問題を抜きにしても、それが10年後、20年後に残るかどうかを想像すれば、だれもがおよその見当はつくと思います。
つまり、その本を読んで成功したビジネスそのものが、10年後、20年後にはほとんど無くなっているからです。

では、すでに古典となっている哲学や思想、文学、経済学などの本以外で、「たて糸」の読書になるような本とは、どのような本のことなのでしょうか。
『1万円選書』を紹介したテレビ映像のなかに、時々梱包包装している本がチラリとうつってました。

まず目についたのが、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)です。
おそらくこの本など、相当な人に岩田さんは売ってるはずです。
まさにこれこそ「たて糸」の本の代表です。 

 

この本の他でわたしが「たて糸」の本としていま思い浮かぶのは、
石牟礼道子の『苦海浄土』三部作です。
水俣病という現実を素材し取り上げていながら、安易に政治的断罪にはしることなく、そこに暮らす漁民たちの歴史や風土、民俗が見事に織り込まれています。

ふたりとも九州の熊本周辺で活躍されて交遊もあるので、この組み合わせではちょっと偏りすぎですか?
まあ、とりあえずの例としてですが、この二人の作家は、まだ読んでいない方がいれば絶対おすすめです。

考えてみれば、ロングセラーリストや古今東西の名著を紹介したものはいろいろあります。
それらに対して「たて糸」の読書としてもし本を現代の視点でリストアップしたならば、そうとうビシッとした本のリストが出来上がるような気がしますね。

そうだそうだと話がそのまま進めば良いのですが、

・・・ところが現実は、です。

それらの商品では市場が支えられないからこそ、棚から消えて、出版社の企画からも外されてきたのではないか。というのが、これまでの業界の常識です。

ひと際、日本の出版市場は、まさに諸外国と比べて雑誌とコミック、それと新刊依存度が高いので、圧倒的に「よこ糸」の読書によって支えられ牽引されつづけてきたといえます。

もちろん、すべての人がそれを良い事として選んでいたわけではなく、「たて糸」の読書を大事にしようと思っても、読みにくい、わかりにくいなどの要因とからんで「売れない」という現実が、「よこ糸」偏重を選択せざるをえなかったともいえます。

本の世界に限ったことではありませんが、右肩上がりに市場規模(人口)が拡大していた時代であれば、そのように「よこ糸」のみに依存していてもなんら問題を感じることもなかったかもしれません。
もし可能であれば、その「よこ糸」偏重でも長年育ててきた大事な財産ではあるので、まだまだ維持し残していくべきでしょう。 

ところが市場が縮小し続ける時代になると、これこそが縮小し続ける出版市場の首を自ら絞めている原因になっているということが逆に浮き彫りになってきているのです。

 「よこ糸」偏重では、これからの時代に「強い」社会は絶対につくれなくなってきています。

むしろ「たて糸」を強調したほうが、手間がかかるように見えながらも実は楽な時代になりだしていると思うのです。

 

 


そもそもタテ糸とヨコ糸は、なぜ両方必要なのでしょうか。

誤解されたくはないのですが、今の時代、「たて糸」が大事で、「よこ糸」は必要ないと言っているのではありません。

ここで強調したいのは第一に、ここ数十年の歴史があまりにも「よこ糸」のみに依存し、「たて糸」を放棄しつづけてきた異常性を問題にしたいのです。
「たて糸」の面倒なしがらみを出来うる限り断ち切り、より自由に動き回れる商品や人(労働力)を増やすことこそが、売上げ増のいままでの鉄則でした。
数少ない「成功?」モデルの超大型店の乱立も、実態はヨコ糸偏重の弱い経営体質のまま規模の拡大のみで数字をつけているにすぎません。

第二には、この「よこ糸」と「たて糸」をパーソナルな環境や意識にあわせて一本一本、手間をかけて織り込んで行く作業にこそ、読書の本来のダイナミズムと本のパワーを発揮するビジネスの面白さがあるのだということです。

わたしたちは、このような「たて糸」を意識することではじめて、昨日読んだ本すらも忘れてしまう新刊情報の渦のなかで、どんなに市場性の低い変な本であっても、その固有の価値を位置づけ意味あるものにして残し伝えつづけることが可能になるのではないかと思います。

一見「くず糸」のようなもの、均質さを欠いた玉のようなふくらみのある糸や「まだら色」の糸、それらは「たて糸」のなかに丁寧に一本一本織り込むまれるとではじめて、美しい風合いと生地の強さを生み出すことができます。
また、こうすることで、ただ消えて行く運命だった「よこ糸」を意味あるものとして末永く残すことも可能になるわけです。

 

 

 

「よこ糸」の「商品」をただ拡大生産して消費するだけの読書から、「人類の資産」である「たて糸」を活かして、そこに「よこ糸」を一本一本織り込む作業で、さらに私たちの「あたらしい資産を生む」ことができます。

そのような活動が書店を通じて、いま求められており、現実にあちこちで生まれだしているのではないかと思うのです。

もう少し別の言い方をすれば、読者を「消費者」としてだけしか見れない「よこ糸」のみの経営タイプ。

本をつうじて情報と情報、人と人をつなぐように、「たて糸」を織り込んでいくのがこれからの自分のなかの「資産」や地域の「資産」をためていく、地域に生き残る価値のある本屋の仕事であると感じられるタイプです。

それは、一書店員のパーソナルなそれぞれの視点を活かし、個々の読者のパーソナルな領域にも踏み込むこと、自分をさらけ出すことを恐れたり、個人情報云々を不要に気にすることなく踏み込むことでこそ、周辺にあまた存在する「沈黙の読者たち」を巻き込んでいけるようになるのだと思います。

それを知るにはこんな長い文章で語るより、できれば岩田さんと特定ののお客さんとの「顧客カルテ」を通じた具体的な生々しいやり取りを見た方が、はるかに説得力があるのですが、個人情報の問題と岩田さんの営業秘密の問題で、残念ながらそれはかないません。

例えば、ですが、

岩田さんは一時、孫が出来たころ、それはもう孫にベタベタで、わたしが遠くから見ていて、もう本屋の仕事など興味がなくなってしまったんじゃないかと思えるほどでした(笑)。

そんな岩田さんのところへ、最近、大好きなおじいちゃんを亡くしてしまった孫をかかえたあるお母さんから「1万円選書」の依頼が届きます。 
自分も孫が可愛くて可愛くてしょうがない立場なので、自分がそのじじに代わって孫へのクリスマスプレゼントとして本を選んであげます。

その孫のことを思って自分が1万円分、プレゼントの本を選ぶとしたら・・・

その孫へ亡くなったじじの思いを自分が代わりに天国から伝えてやるとしたら・・・

そんな関係がひとつひとつの出会いからはじまるわけです。

こんな仕事なら、能力の問題じゃなくて、
本屋なら、誰もがやってみたいと思うでしょう。 

 

岩田さんのように、どんな分野でも縦横無尽に本をセレクトすることは、確かに誰でもマネできることではないかもしれません。

でも、目の前にあらわれた一人の読者と自分がどのような関係をつくれるのか、本を通じて何が表現出来るのか、伝をえられるのかを考えることは、 日々の雑務から自らの天職の喜びを思い起こさせてくれる最高の財産につながることと思います。

「モノ」としての本を「消費者」に届ける毎日ではなく、記憶に残る体験としての本が地域に循環するような仕事、それは、ほんの少しでも出来ただけでどんなに素晴らしいことかと思います。 

 そんなようなことを岩田さんの「1万円選書」は考えさせてくれています。

 

また別の角度からいえば、自分自身にとっての「よこ糸」とは、他人との比較で見る世界であり、自分自身にとっての「たて糸」とは、昨日の自分との比較であるともいえます。
個人の生き方や経営の姿など、どんな場合をみても、自分を変えることを棚上げにしたまま他人との比較ばかりに走ってしまうのが常です。 
 

「たて糸」も「よこ糸」も、どちらも大事であることに変わりはありませんが、自分を変えることを棚上げにしたままいくら「よこ糸」をかき集めても、何かことを成し遂げことはありえないと思います。

本来は「読書」こそが、そうしたことを私たちに気づかせてくれるものに違いないと思うのですが。

 

 

 

 補足 

 古典を読むことの意義については言うまでもないことかもしれませんが、
最近出た本、
出口治明『本の「使い方」1万冊を血肉にした方法』角川oneテーマ 
で、この「たて糸」の読書にも通じる視点を得てとても触発されました。 


本文では終盤になって「資産」という言葉が出てきましたが、そこで、次回には、
「経営のたて糸とよこ糸」といったようなことについて書いてみます。

 

 

 

 関連ページ 

「たて糸」を断ち切りひらすら「よこ糸」のみをかき集めてきた時代

2、「読書」は本来、(どくしょ)ではなく(よみかき)です

3、数字が如実に示すネット時代に生き残れる業界の姿

4、もう一つの「不滅の共和国」 「野生」の側にある本と本屋の本分

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「それはありません」のひと言にすべてがある

2014年09月19日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

今回は、久しぶりに本屋の業界ネタです。

 

相変わらず書店の数は減りつづけていますが、市場縮小の時代、経費削減や売り場面積の拡大以外に数字を伸ばす手立ては、もはやなにもないのでしょうか。

唯一残された手立ては、個人の資質に依存するしかないように見えますが、あらゆる経営の原則からすればそれは「資質の高め方」に対するノウハウ不足こそが、本来はこの問題の核心であるといえます。ただ残念ながら経費削減の最大ターゲットが人件費である時代にこの問いは、多くの現場ではむなしいひびきにも聞こえます。

接客のマナーや品揃えのレベルが大事であることは言うまでもありません。

しかし、これまで考えうるあらゆる手立てを打ちながらも、市場縮小のスピードには追いつけないかのような実態がいたるところにあります。

時代の流れには逆らえないので、より早くあきらめ見切りをつけることこそが賢明な判断なのでしょうか。多くの事業者がそのような判断を下すこと自体は、悲しいことですが誤りであるとは言い切れません。

 

でも大事なのは、本が地域には欠かせない文化であるとか、情報こそ社会にとっては大事であるとか言われていながら、私たちのビジネスそのものが、「情報」ではなく「本」という「モノ」のビジネスからいつまでも抜け出せないままであることこそ、問題の核心であるのではないかと感じています。

デジタルの大波に翻弄される現状から脱出できるかどうかの鍵も実はここにあるのではないかと私は思っています。

 

本を価値ある「モノ(紙)」として物流管理の精度を上げることから、価値ある「情報」を扱えるビジネスへ至るには、これまでの売り方と何が違うのでしょうか。

こうした問いに、今騒がれている返品率や賞味改善の議論は、必要なことではありますが、決してそれに答えるものではありません。

 

わたしは、それらのあらゆる問いに対する答えが「それはありません」という、日常のひと言のなかにこそあると思います。

 

お客さまにとって心地よいサービスが大事なことは言うまでもありませんが、心地よい「情報コミュニケーション」の姿がいったいどのようなものなのか、まだあまりにもビジネスとして業界での問いかけが浅いと感じずにはいられません。

 

「ありません」のひと言の持つ意味

「モノ」の有るなしより大事な「情報」の有るなし=売り損じの恐怖からの脱出路

「自分の世界」と「お客の世界」が一歩広がる楽しさの体験のために

 

(1)、「ありません」と即答されることの不快

  問い合わせをうけた本が店になるのかないのかすぐにわかることは重要です。

  しかし、それが事実であっても即答で「ありません」と返事をされると、お客さん

 はとても不快に感じるものです。「ありません」の言葉とともに、お客さんとの関係

 を断ち切る対応になってはいないでしょうか。

  「お取り寄せになりますが、いかがいたしましょうか」

  「在庫状況をお調べしましょうか」

 などの言葉を続けて会話をつなげる気配りが大切です。


(2)、その本は、当店に置く意志はないというお客へのメッセージ

 「ありません」の結論は、必ずしも売り場面積や在庫量の差の問題ではなく、顧客

 との関係をこのお店はどうしたいのかという大事なメッセージを発しています。

 当店にそういう本の在庫はないので、

   「大型店へ行ってください」

   「図書館へ行ってください」

   「ネットで探してください」などの言葉があふれてます。

 

   「ではこの店は何だったら売ってくれるのか」

  というお客さんの気持ちを想像してみましょう。

 何かを期待してその店に来店してくれたお客さんの気持ちを少しでも裏切らない努力

 がないと、取り扱う商品の有無の問題ではなく、その店は確実に衰退します。

 

 

(3)「ない」という事実の不正確さ、情報の広がり 想像力の欠如

   商品をネットで検索してその情報が無かったからといって、それは必ずしも完璧

  な情報であるとは限りません。

   入力した情報の間違い、発売直前でデータが出ない、感じを間違えてる、等など

  検索情報モレの様々な可能性について想像力を働かせることが大事です。

  (検索ノウハウは、ネット技術の進歩も激しいのでメニュアル徹底が必要です)

 

(4)、「ない」情報こそ財産 ~情報の共有が力に~

  「ない」現実の次の行動

    �、速やかに仕入れる

    �、品切れ(注文受付中)などの表示を出す

    �、売れるかどうか迷うくらいなら、試しに仕入れてみる

    �、なぜ聞かれたのか、なぜ売れるのかなど従業員間で情報を共有する

 

(5)、在庫を持たずに注文に答えられる理想のビジネスの入り口を閉鎖

  「ありません」は大事な商機拡大のチャンスをどうみるかの入口の言葉。

   ないからこそ、取り寄せて販売できるかどうか、

   さらには、より少ない在庫でより大きなビジネスができるかどうかを決める大事な言葉

  になります。広告宣伝費にお金をかける以上の経営上の効果がこの言葉には潜んでます。


(6)、不可欠なネット古書取り寄せ代行サービス

   新刊が顧客の求める情報にマッチする領域は、どんどん狭くなりつつあります。

      新刊書ではカバーできない情報領域を、ネット古書仕入れの代行や図書館情報検索

   などのサービスと連携することは不可欠な時代になりました。

    地域の買い物難民、情報難民を誰が救うのか、それは地域の切実な課題です。


(7)、かつての「量販」こそ儲けの時代は終わったことへの認識欠如

            (量販で扱えないものは「ありません」の発想)

   「そんなことをしていたら手間ばかりかかって儲けにならない」

   よく言われる言葉ですが、手間をかけずに店にあるものから買ってもらう

   というのは、右肩上がりの時代のみに通用した過去のモデルです。

    そもそも手間をかけることでこそ、顧客の信頼を増し、さらには差別化を

   はかることが可能になるのであり、それこそが利益の源であることを思い出

   さねばなりません。

   

    「普通」ではないお客が市場を支えている、

    「普通」でないことでこそ、ギャラリー(観客)が増える。


    サービスのコストを顧客の側は意識しません。

   「そこまでしてくれるのか」という満足を得てはじめて、サービスがサービス

   としての効果あるレベルになるといえます。

 

(8)、事実より優先されるお客の満足と納得  ~情報の共有・共感~

  「ありません」のことばのなかには、お客さんとの情報の共有、共感につながる大切な

  鍵がひそんでいます。

   同じ「ありません」でも

    「それはどんな本ですか」

    「そんなに面白い本なんですか」

    「それは今なかなか手に入らない人気の本なんですよ」

   などの言葉とともに、その本に対する気持ちの共有につなげることが大切です。

   また、なぜその本が欲しいのかなどの情報が得られれば、お店の重要な情報源としての

  活用もできます。

   在庫のあるなし、調べた結果の正確な伝達も大事ですが、お客さんの店に対する満足や

  信頼は、それ以外の様々なことによって支えられています。

   説明している内容が、相手が納得、満足したものになっているかどうか、十分注意しな

  ければなりません。


        「お客さんの後ろ姿」がすべてを語っています。


(9)、まったく異業種の問合せであっても、どこへ行けば手に入るのか

  案内できるかどうかにそこの「地域力」があらわれる。

  本屋にはまったく関係の無い業種の商品問合せがあった場合も、

  「それはありません」ではなく、どこに行けば手に入れることができるのかどうか、

  案内できるかどうかは、商店街の力が弱まっている現在、とても重要です。

  本来、本屋は地域の情報がより集まる場でもあります。紙の本があるかどうか

  だけでなく、地域の情報があるのかないのかが問われています。

 

(10)、形式的な「良い」マナーより、声をかけられやすい店員をめざす。

   えてして忙しく店内を早足で移動している時に限って、お客さんから声をかけられる

   ことが多いものです。かしこまって 手を前にあわせてレジにじっと立っているよりも

  慌ただしく動いている店員の方がずっと目立ち、声をかけやすいようです。

   馴れなれしい態度には気をつけなければなりませんが、よりフレンドリーであることが

  のぞまれる傾向は小売業全体で増してきています。  

   年寄り、子ども、主婦、ビジネスマンなど、相手に応じた対応が大事ですが、それは

  なによりもお客さんが声をかけやすいこと、聞きやすいことが目的です。



 

以上のことから、不用意な「それはありません」のひと言に注意を払った「検索問い合わせ応対」に手を抜かない姿勢やノウハウがとても大事であるといえます。

 

それには日々、次のような努力を継続することが不可欠です。

 

・ 客数を増やすことは第一目標にせず、今来ている顧客の満足度を上げる

・ 取次、版元都合の無駄な配本、仕入れを減らす努力を絶えず行う

・ 店の需要を読み、もう一歩踏み込んだ積極的な仕入れ行う

・ 不要な在庫はおかず、情報を増やすために絶えず店頭商品の絞込みを行う

・ 在庫を絞ることでこそ、情報が増える。情報を増やさないと在庫は減らせない

・ たとえ売上げの伸びが落ちても、商品を入れ替える努力を怠ったら小売業は終わり

・ 在庫がないことが評価されることもある

・ 在庫を絞る力を得てこそ積極的な仕入れもできるようになる

・ 売り場面積を減らさず、在庫を減らす。効果的な面陳列を絶えず増やす

・ 「信頼」がうまれるともっと意欲的に在庫を絞れる

・ 「~がない」からこそ、わたしたちの仕事がある

 

 

 

 紙の本の市場が縮小し続けるだけではなく、人口減少時代に入り、成熟社会への移行とともに可処分所得の低下は、これから変わらぬ前提と考えなければなりません。

 そのような時代に、これをやれば売上げは必ず伸びますなどと容易に語ることはできません。

 様々なコストダウン、経営の多角化などあらゆる手だては必要です。

 しかし、本屋の看板を持った「経営の柱」が何であるかを見失ってはいけません。

 私たちは「本」をキーワードに集まる様々な人びとの期待にどのように応えるのか。

 それは、必ずしも「本」という「モノ」だけによって支えられなければならないという意味ではなく、そこに期待してくるお客さんと、どのような情報のキャッチボールがなされるかの問題です。

 私は、「それはありません」というひと言の言葉のトーンやニュアンスのなかにこそ、そしてそのあとに続く言葉のなかにこそ、この問いに対するすべての答えがあらわれているのではないかと思えてなりません。

 

          (失態を重ねた自分への戒めとして。2014年7月20日)

 

 

【ある日の会話】

先日、店に来たおばあちゃん。
水夫の本はないか?という。

水夫?
漁師じゃないですよね。
昔の海軍ですか?

こちらから質問をしても、なかなか受け答えが通じない。

どうやら、図書館対応レベルの話になりそうなのだけど、
運良く、他のお客さんも少ないので、もう少し聞き出してみる。

昔のカット集の絵のなかから探すような話なのかなと思い、
集文館のレトロなカット集を引っ張り出して見せてみる。

この辺で、おばあさん、自分の探している情報にたどりつくことが
どう表現するか、いかに難しいことなのかが少し気づきだしてくれた。

さらに話を聞いていくと、
どうやらバタヤンの歌に出てくるイメージを探しているのだという

では、と田端義夫を検索して昔のレコードジャケットの画像などを探してみる。

そんなことをしながらさらに話ていると、おばあちゃん
実は、バタヤンの「かえり船」という歌の踊りをひとりでやるので
それにあった衣装をつくりたいのだということがわかった。

なるほど。
しかも踊るのは、おばあちゃん一人。

これでやっと目指すゴールはどこなのかが見えた。

水夫の衣装として昔のセーラー服を探すのではなくて
バタヤンの歌バックで踊るための
「マドロス歌謡」の雰囲気を出す衣装がどんなものかがつかめれば良いのだ。

忙しいときだと、なかなか話をここまで持っていけない。
対応している間に他のお客さんが入って、
いかに話を要領よく打ち切るかとか、
面倒なことが顔に出てしまったりしてしまう。

ネット検索で出た画像をいくつか見せると、
おばあちゃん、詰襟の服になんかこだわってるようだけど、
ヨコシマのTシャツでも、十分雰囲気が出せることがわかってきた

パイプをくわえて、帽子をかぶって・・・

あっ!それポパイのかっこうだ。

なんとおばあちゃん、その帽子はもう持ってるとのこと。

ならば、あとはパンタロンだ。

それって白がいい?黒がいい?

そりゃ白でしょう。

5センチくらい裾を広げればいいのかね?

そんなもんじゃないですよ。
パンタロンの裾はこの靴の長さがすっぽり入るくらいだから、
生地の幅で考えたら10cmとか20cmとかですよ。

これでなんとか、全体のイメージはだいたい出来たようで
およそは納得して帰ってくれました。

大丈夫かな~?
おばあちゃん、踊りの発表の健闘を祈る。

店が暇だからこそ出来た応対でした。

暇なお店に、心から感謝。

                  ・・・だね。



「それはありません」のひと言の先を意識するようになると、

こうした小さなドラマがお店のなかでたくさん起こるようになります。

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酒に学ぶ経済学

2012年04月28日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

つくづく思う。

いい酒、高い酒を買うほど減るのが早い。

まずい酒を買えば、減るのが遅い。

したがって、まずい酒を買っておけば効率的かというと

残念ながらそうはならない。

高い酒を買うのが非経済的かというと

そうとも限らない。

ここに経済学の核心部分がある。

社会主義経済失敗の原因もここにある。

近代経済学、マルクス経済学、さらには様々な経営理論に優先する問題がここにある。

付加価値、顧客バリューをどこに求めるかということ。

面白いね~。

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本屋を併設した図書館の構想

2011年03月17日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
業界の人たちからは、なにを言いいだすかと叱られそうな話ですが、実は今、真面目に考えていることです。

ほとんどの都市部では、現実にはありえない話です。
それを前提に読んでください。

地方の山間部では、図書館がないばかりか、本屋もないという町がたくさんあります。

そうした町や村で図書館をつくろうという話が立ち上がったときに思いついた考えです。
現実には、行政の壁、業界の壁など様々な困難が予想されることです。
しかし、デジタル化の進むこれからの時代に地域に役立つ情報センター、公共の図書館とはなにかを考えた場合、小さな村の場合、ひとつの空間に必要な情報がすべて集まっていることの意義は、計り知れない効果があります。


図書館そのものも、これから新しく造られるようなものであれば、相当な新しいコンセプトで設計されなければなりません。

現時点で考えても、図書館そのものの課題もたくさんあります。

それだからこそ、と出てきた考えです。



図書館のなかに棚2本、もしくは5坪程度の書籍売場のコーナーをつくります。
取り扱いは、雑誌、コミックや学習参考書はのぞく書籍。
地域郷土関連の本が中心で、もちろん話題の本、ベストセラー本もおきます。

通常であれば、民業の圧迫になると反対されることですが、競合する書店は、外商で遠くからくる書店はあっても、その手間コストから反対される理由はそれほどありません。

本屋のない村の図書館ということで、貸し出しやリクエストを出すときに、もしそれを所有したいのであれば、あるいは順番待ちするのが嫌であるのならば、そのまま隣りのカウンターで注文することができます。

所有権の時代から利用権の時代に移ろうとしている今、その場で利用者自身がその選択が同じ場でできるメリットがあります。
 そのことで、批判の多いベストセラー本に偏った貸し出しから、図書予算を本来の図書館に求められる分野に予算をより集中させることが可能になります。

現代の「フリー」の考え方、無料の情報をより多く提供して情報の裾野を飛躍的に拡大することでこそ、有料の顧客を増やすことがが可能になることの立証する姿でもあります。


また、販売カウンターでは、貸し出しカードをそのまま販売のPOSレジに通すことで、購買履歴を残すことができ、地域の公共財に協力を申し出る会員には、その購買蔵書録が公開され、利用者同士の蔵書貸し借りのサポート機能も果たすことができます。

村民の個人蔵書が、村の図書館蔵書を補助するシステムができるということです。

個人情報公開に協力する会員は、図書館併設書店の本屋のPOSから図書館に蔵書のない本でも、村の誰々さんがその本を持っているか検索することもできます。

地域のひとたちのつながりを深めて公共情報の質を上げる相乗効果は、はかりしれないものがあるといえないでしょうか。



あくまでも、公共の図書館としてスタートするために、構想の実現には様々な困難が予想されますが、行政主導にならないしっかりとした図書館協議会をつくれるかが鍵です。
公務員の人事異動でまわされるような館長や職員ではなく、また実質的なスキルのない肩書きだけの司書を雇うこともない体制が、どのようにつくれるか、高いハードルがありますが、私はとても面白いことだと思います。

みなさん、どう思われますか?
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アジテーターとオルガナイザー

2010年12月12日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
以前どこかで読んだことです。
昔の左翼用語のイメージでとらえられがちな表現ですが、
「アジテーター」と「オルガナイザー」という言葉があります。
このふたつを区別する説明で、以下のようなうまい表現で説明されていたのを記憶しています。

アジテーターというのは、ひとつのことを10人の人に伝える仕事をする人。
オルガナイザーというのは、10のことをひとりの人に伝える仕事をする人。
というのです。

なるほどと思ったものです。
私たち本屋の仕事は、まさにこのふたつの方法をそれぞれ行うことが大事です。

あくまでもものごと原則は、1対1。
ハート・トゥ・ハートが基本ですが、それだけではビジネスになりません。
運動の輪も広がりません。

ただ有象無象のたくさんの本をいろいろな人に売るということではなく、
10人の人に伝えたいようなすばらしい1冊の本を見つけ出し、それを伝えること。

あるいは1冊の本の魅力が、10人に伝わるような売り方をすること、それが大事です。

本との出会いなど、まさにパーソナルなものです。
ひとりひとり、まさに千差万別の出会いによって成り立っているもので、私たちの仕事はそうした出会いに個別に対応していくことが求められています。
しかし、それをより多くの人にサービスとして提供して、ビジネスとしてそれが成り立つようにするには、ひとつひとつの出会いを個別の体験にとどまらせることなく、なんらかの仕組みづくりをすることが必要です。

それが、このオルガナイザーとアジテーターのふたつの方法論です。

特定のひとりのお客さんのためにすすめられる本を10冊選びだすこと。
児童書に興味のあるお客さん、
自己啓発書に関心の強いお客さん、
仏教関係に興味のあるお客さん、
海外のミステリー小説を読みあさるお客さん、
特に専門はないけれど強い読書意欲を持っているお客さん、
                          ・・・等など

あらゆる分野の顧客に対応することなど、普通の人間に出来ることではありませんが、店の一部のヘビーユーザー数人のこうした需要に応えること、またそうした見方をしながら日々の商品をみていること、お客さんをみていることが大切です。

うちのB型のパートさんは、こうしたことを実によくやってくれています。

時々、こんな本がよく売れたものだと驚くようなことがあります。
またこんな本いったいどんな人が買ってくれたんだろうと思うこともあります。
その本は、確かに2冊目が売れるようなことはまずあり得ない特殊な本かもしれません。
しかし、その本を買ったお客さんがどんな人かがわかると、その本の次に仕入れるべき1冊の本が見えてきたりします。

 ひとりのお客さんの指向やリクエストから10冊の本を導きだすこともありますが、
1冊の特殊な本を買ってくれたお客さの顔と名前を知ることで、それに続く10冊の本を見つけ出すこともあります。

 1冊の本を、文化として見るためにも、商品として見るためにも、このように
1冊の本を10人につたえるしくみづくり、
ひとりのお客さんに10冊の本を薦めるしくみづくりは
とても大事なことなので、日々心がけて、ブログやホームページ、メールマガジン、チラシニュース、POPなどで訓練し続けることが求められます。

現実には、1冊の本を10人の人へでなくとも、3人くらいの人の顔を想い浮かべるだけでも
日々そうした訓練が出来れば十分だと思います。
普通の相手であれば、ひとりの人へ薦められる3冊くらいの本を思い浮かべるだけでも、十分だと思います。

ただ「良い本」売るということではなく、売るためのこうした「エンジン」を持つことが、ビジネスとしてはとても大事なことです。
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どうして絶望的未来しか想像できないのか?(9)

2010年12月07日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
7、貫かれる80:20の法則

 前回、例に出したザルの目の数は、偶然の数字ではありません。

 かつて全国の書店数は23,000とも言われていましたが、今では16,000も切るかのところまできています。
 最近知った数字ですが、異業種で多い業界としてよく知られるのがコンビニで、その数およそ5万店。
 他に多いのとして知られる歯医者さんが約7万。
 意外だったのは、全国にあるお寺の数も75,000くらいあるそうです。

 他方、少ない業種として知られるのが、
今、社会問題にもなっている産婦人科などが1万を切っています。
眼科も少なく

 これらの数字を私たちの書店業界が23,000から16,000くらいにまで減ってきたことをあわせてみると、実感的に、全国で2万を切ると、いかなる業種でも、今、住んでするところにその業種がひとつもないという所が出てくるのがわかります。

 とすると、あらゆる業種で以下のようなことが言えるのではないでしょうか。

 日本の人口1億何千万だかのうち購買人口をおよそ1億と見た場合、
あらゆる業種のボーダーラインの数字2万で割ると、5,000人という数字が出てきます。

もちろん、都市部と山間部との違いはありますが、この
   1億 ÷ 2万 = 5,000人
こそが、あらゆるサービス業の標準的な商圏人口ということになります。
ずいぶん少ないように感じるかもしれませんが、この5,000人商圏という数字は、少し前の日本の普通の姿であり、世界的に見ても決して少なすぎるというほどではなく、ごく普通の数字であると言えます。

 私たちが見直さなければならないのは、この5,000人商圏の2割、つまり1,000人の顧客こそが、地域でターゲットとするべき顧客なのであります。
 そしてこの1000人のうちの2割、つまり200人程度の顧客こそが、実際のお店の売り上げの8割を支えているお客なのです。
 まずこの200人を、顧客台帳やなんらかの会員登録などできちんと対応することです。

 ここで200人の顧客を区別するということは、それ以外の客は売り上げ貢献が少ないから差別するという意味ではありません。
 この2割の顧客は、店全体の8割の売り上げを支えているだけでなく、この需要に答えること如何で売り上げを大きくコントロールすることができるという意味が大事なのです。
 残りの人たちは、店が独自な手をかけても、多くの場合その店にこだわる理由がなく、どこの店でも最寄りの店でよい浮気客が多く、店の努力よりもテレビなどの外部の影響を強く受けやすいひとたちだからです。つまり、多くの労力をかけても、売り上げを伸ばすことにはつなげにくい客層ということです。
 
 言葉は悪いかもしれませんが、この店側のコントロールの及ぶ200人と、そのなかのまた2割のヘビーユーザーの顧客40人こそ、何をしてほしいのか、どんな本を買いたいのか、徹底して追求するべきなのです。
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