かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

嶺公園の生態系を守り育てている大沢さんのこと

2014年03月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 前橋の嶺公園の水芭蕉が咲いていると知り、新入学シーズンの仕事も峠を超えたので、早速見にいってきました。

 

 

 

 

見事に群生している水芭蕉に感心して写真を撮っていると、その前を長靴をはいたおじさんが湿地のなかをガシガシを突っ切って歩いて行きます。

その服装から、ここを管理している人なのだろうとは思いましたが、ちょっとその動き方が、シャッターをしきりに押している人たちにはおかまいなく、あっちをほじくり、こっちの木を動かし、石を運び、水の流れを変え、並の管理人の動き方にはとても見えませんでした。 

その動きは、この場を熟知しているからなのか、慣れているからなのか?

おじさんが近くに来た時、ふと聞いてみました。

「おじさんがここはみな管理してるの?」

 

すると、おじさん、堰を切ったかのように、この公園の生態系を育てている苦労をいろいろ話してくれました。

帰り際に聞いたそのおじさんの名前は大沢さん。

 

大沢さんは、10年以上この湿原を育て守っているのですが、誰に頼まれたわけでもない自主的なボランティアです。

かつてはここの管理の仕事をされていたそうですが、これだけの水芭蕉群生地にまで育て上げるには、手をかけてきた様々な苦労があってのこと。 

確かに尾瀬の湿原ならともかく、これだけの群生地が自然に生まれたわけではない。

 

長い年月をかけて大沢さんが、石を運び、落ち葉をもり、生育の妨げになるシノを刈り、丸太を運び、水の流れを調整し続けてきたもの。 

ところが、これだけの水芭蕉群落を育てるには、水の流れをせき止めるようにしなければならないのに、せっかっく運び込んだおいた木を「誰か」が流れの向きに置き換えてしまう。

流れを止めておいた石を「誰か」がどかしてしまう。

 

大沢さんが、こまめに手入れをしに通わなければならないのは、どうもこうした環境づくりを知らない「誰か」との闘いの手間があるからでもあるらしい。

予算をとって造園業者から草木を買っただけの行政に、公園と名のついた場所でも、お金をかけて買ったものを育てる意識はなかなかないようです。

病気が発生したり、枝が折れたり、ゴミが増えたら、クレームがくるのですぐに対応しますが、何かを買うこと、業者に依頼すること以上に、「生命」を育てる仕事はどうも業務の範囲にはないらしい。

 

 

行政はどこも「花と緑の◯◯』などとスローガンをかかげて予算を振り当てますが、つくられた公園の環境を守り育てることについては、購入した草木を植えて剪定する以上のことには、ほとんど気がまわらない。

 そもそも生命は日ごろ手をかけることでこそ育つもの。

そうした仕事が人事異動、配置転換できただけの職員にはなかなか理解できない。

いや、実態は、経験が浅いから、専門家ではないから出来ないのではなくて、わからないのであれば知っている人に聞くなり自分で調べるなりすることをせず、そこにある「自然」を見ようとせず狭い業務管理の枠の仕事に終止していることにこそ問題があるのではないでしょうか。

わたしの街でも、つい最近、花にあふれた街作りの予算がついたばかりに、膨大な花を業者から買いつけ、町中に飾り付け、何を育てる間もなく、その後の維持費はでないからと期間がすぎたらすべて撤去などということがまかり通ったことがありました。

大沢さんの気持ちもよくわかります。

 

 

 

 

これだけ多くの人が訪れ、感動し、写真を撮ったりする空間ができるまで、どのような努力が必要なのか、大沢さんの積もる行政に対する怒りが伝わってきます。

もちろん、行政の側にもそれなりの言い分はあると思います。

でも、どこへ行っても、ほんものの仕事というのは、こうした大沢さんのような人たちによて支えられていることがとても多いものです。 

 

 

 

 

 

 水芭蕉群生地の近くには、カタクリも今見頃になっているというので、早速行ってみると、ここも大沢さんの長年にわたる努力で育てられた見事な空間が広がっていました。

 

 

教えてもらわなければ、ここには来れなかっただろう。

 

 水芭蕉の群生地よりも、むしろこちらの方がどこも絵になる美しさにあふれてました。

 

 カタクリというのは意外と丈夫な植物らしく、少し掻いてやると種が広がり群生地になるのだそうです。

よく見るとそれは木の根のまわりに広がっています。

大沢さんによると、カタクリは強いからといってどこにでも生育できるわけではなく、木の根の廻りは根が水分を貯えるので、そこに群生地が育つのだという。

ここも、あそこも、大沢さんが育てた経緯を語ってくれました。

 

 

さらに、ロープで囲われた群生地の周辺には、ポツンポツンと単独に咲いているカタクリがあります。

てっきりそれは群生地から種が飛んで来て広がったものかと思いましたが、大沢さんの説明でそれは前からあった自生種であるとわかりました。

よくみると群生地のものよりも大きくしっかりとしています。

なんとこの自生種は17年も生きているのだそうです。

 

 

ひとつ間違えば簡単に踏みつぶされてしまいそうな場所に、こんな可憐な花が17年も生き続けていたなんて驚く間もなく、大沢さんはそのカタクリのすぐ脇をふみ歩き、また次の作業場所へと移動していきました。

 

 

木を植えよう、花を増やそう、自然の景観を増やそうといった予算取りも確かにスタートの時点では大事です。

でも、もっと大切な「命を育てる」地道な努力の積み重ねのことを、私たちは大沢さんから学ばなければなりません。

 

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紙の辞書も必要ですか?(2013年版)

2014年03月27日 | 渋川の本屋「正林堂」
(これは、昨年書いた記事です。
入学シーズンになり、年々状況が変わるのでまた新しい視点で書かなければなりません)
 
 
今年のお店の学習参考書コーナーは、紙の辞書だけではなく電子辞書の出足も悪く、束ノートも勢いがまったくありません。
入学式以降に出遅れた分が動き出すことを願うばかりです。

そんな日が続くなか、久しぶりに辞典コーナーの前でじっくり商品を選んでいる母子に出会いました。
電子辞書を買っていただいたお客さんなのですが、何か紙の辞書の前で迷っているらく、しきりに店の人に聞いてみたらと
お母さんが娘を促しているような感じが伝わってくる。
(そんな時、すぐには声をかけず、娘さん自身が自分で聞きだすかどうか一呼吸置いてからこちらから声をかける。試験の答えを書けることよりも、問題にぶつかった時に自分で回りに聞けるかどうかこそが社会に出て大事なことだから)
その流れはどうだったかは、わからないけれど、何かを聞きたい様子ははっきり見えたので、レジから声をかけてみました。

するとどうやら電子辞書の他に、紙の辞書も買うべきかどうか迷っていたらしい。
そのお客さんとのやり取り、自分で話しながら昨年までの自分の説明の仕方とはだいぶ違ってきていることに気づいたので、ここにあらためて振り返ってみます。

まず、電子辞書の他に紙の辞書も買ったほうがよいのですか?という問いに対して、
昨年までなら、まだ「迷うくらいならば」紙の辞書も持っていたほうが良いと答えていました。

ところが、どうも昨年あたりから学校で紙の推薦辞書のリストも出さないところも出だしてきました。
進学校であれば電子辞書とともに、紙の辞書を買うのならお勧めはこれだとリストを出していたものですが、
次第にそれもなくなってきています。

先生方の間で、電子辞書に対しては未だに賛否両論ありますが、大勢は進学校ほど電子辞書の利便性を誰もが否定できない実態にあります。でも紙のページをめくってこそ、とか一部の試験には電子辞書持込は禁止でも紙の辞書なら持込可などといった例がまだあるので、紙の辞書も使い慣れておくべくだとかの理由もいくつかありました。

そのような説明で、電子辞書を使うけど、保険のように紙の辞書も買っておこうという流れが、昨年まではまだありました。

その時、電子辞書にはジーニアス英和が入っているので、どうせ紙の辞書を使うのなら別の辞書を持っていたほうが良いと、
ウィズダム英和やアドバンストフェイバリット英和などを薦めたりしていました。
でも、あまりにもジーニアス英和辞典の市場シェアが高いので、現実に他の英和辞典を使うのはかなり勇気のいることです。
以前、いろいろ迷ってある辞書を購入したのに、みんなが持っているものと違うというだけで不安になって交換に来たお客さんもいました。ちょっと残念でしたが、商品を選ぶ理由は様々なのでそれも仕方がないことです。
 ただ、日本中の商品市場がそんな流れに支配されてしまっているのは、とても寂しいものです。

 それは、必ずしも多数派に流れてしまう心理が悪いのではなく、多数の選ぶもの以上に自分の選択したものに魅力を感じられないこと、マイナーな市場側の売り手が、メジャー商品に対抗できる独自の魅力を伝えられないことにあるのでしょう。
 
 基礎の勉強をしっかりやるのならばベネッセの『Eゲイト英和辞典』や『全訳古語辞典』などは、とても良い辞典です。

総じて商品を選択する具体的な理由が、売る側、買う側双方に不足していることが多いのです。

そこで当店ではいつも、もし迷っているのならばこれがお勧めですと、たくさんあるリストの中から
その学校で進学を考えるのならばコレ。進学を予定していないのならばコレと
学校の推薦リストのなかからあえてお薦めを1点絞って表示していました。

昨年までであれば、それでそこそこの紙の辞書が電子辞書とともに売れていたのです。

ところが!
今年は紙の辞書コーナーは、ほとんど見向きもされないというのが実態なのです。
念のための保険代わりに紙の辞書も買っておこうといった昨年までの1割くらいのお客さんが、今年はほとんど現れないのです。

紙の辞書のお客さんがほとんど来ないので、もう迷うこともないのですが、それだけに
もしお客さんから「紙の辞書も必要ですか?」と聞かれたならば、どう答えるか、
かえって今まで以上に大事な問題になっています。

現実には、どんなに紙の辞書に独自の優れた面があっても、担当の先生がその魅力や活用法を伝える機会がなければ、
せっかく紙の辞書を買っても宝の持ち腐れになることは明らかであるからです。

そこで私は、今年からこう答えることにしました。

「紙の辞書もあったほうが良いけれど、それは教科の先生が決まってから買っても遅くはありません」と。

ある高校には、『新明解国語辞典』(三省堂)の大ファンの先生がいて、その先生が一言いうと生徒たちがどっとお店に『新明解国語辞典』を買いに来ることがあります。
たしかに読んでも面白い個性派の『新明解国語辞典』は、すばらしい辞典ですが、おそらく、その先生との出会いがなければ、買っただけでその魅力に気づくことはなかなかないものと思います。

他方、別の高校のある素晴らしい先生は、生徒たちが出来るだけ違う辞典を持っていたほうが授業は面白くなる、と言っていました。

つまり、先生方の魅力的な授業プランがあってこそ、それぞれの辞典は活きてくるのです。
そうした個々の授業プラン抜きに、電子辞書の他に紙の辞書も持っていた方が良いですよとは無条件には言えない時代になりました。

電子辞書と紙の辞書、どちらが良いかの問いに、現実はもう圧倒的に受験勉強を考えるならば電子辞書の方が便利と結論を出していますが、世間はそうでも、紙の辞書の方がこんなに優れていると頑固に魅力を伝える先生もあってしかるべきです。

みんなが使っているから、だけではなく、ほんとのところはどれが良いのか、おおいに悩んで選択して欲しいものです。
そのためのお手伝いが出来るように私たちももっと勉強しなければなりません。

ひと昔前と違って市場に出回っているもので、この辞典ではダメだなどというレベルのものはほとんどありません。
それだけに買うからには、より納得して満足できるものを自信を持って買ってもらいたいものです。

絵がきれいだから、文字が見やすいから、信頼できる先輩が薦めていたから、などなど。
どれも選ぶための立派な理由です。

「どれがいいかわからない」
まさに、その「わからない」こそが、学ぶことの肝心な第一歩であることを忘れないでいただきたいものです。

そのためのお手伝いが出来るかどうかこそが、景気の良し悪しに文句を言うよりも大事な本屋の仕事だということを肝に銘じなければなりません。

 
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肥料を与えないことで、根はより深くのびる

2014年03月26日 | 無償の労働、贈与とお金

以前、秋田だか山形の方で台風がきても倒れない稲をつくっている

おじいさんを紹介している映像をみたことがあります。

農薬や化学肥料ばかりに頼らず、稲の生態をよく理解しているその農家は、

水田の水を控えめにすることで、稲の根がしっかりとはるようになり、

稲穂が実った季節に台風が来ても稲が倒れなくなるのだという。

 

毎年、収穫シーズンにやってくる台風ですが、

最近では台風が接近したわけでもなく、ちょっとした強風で

稲が倒れている姿をよく目にします。

 

過保護で栄養過多な稲が増えることは、栄養が多くなるのではなく、

生命力のない植物が増えているということであり、

そうした食物の「豊かな」栄養って、

いったいなんなのだろうと思います。

 

福岡正信によってはじめられた「有機農法」とは異なる「自然農法」は、

こうした自然の「生命力」の真の姿を教えてくれます。

最近では、『奇跡のリンゴ』で知られる木村秋則さんなどによっても

広く知れるようになりました。

 

栄養、肥料を与えないことでこそ生まれ育ってくる自らの生命力。

そこには様々な微生物や菌の働きが欠かせませんが、

自然界の有象無象の生命の働きに生長を委ねるという環境で、

生産をコントロールするということは容易なことではありません。

 

ここが選択の大きな分かれ目です。

 

生命とつきあうということは、とてもやっかいなことです。

やっかいであるということこそがまさに「生命力」の証しなのですが。

現代の生産活動は、ほとんどこれを避けることで、

より「効率的」な生産をし、利益をうみだしています。

 

でも、これこそがもっとも大切な「生命力」から遠ざかる道であり、

より多くの「付加価値」からも遠ざかる道でもあるのです。

 

これは現代の

「食」の姿、

「教育」の姿、

「企業」の姿、

「経済」の姿、

「文化」の姿、

そのものですね。

 

 

 自分の内なる力で育ち、強い生命力を備えた作物は「発酵」へと向かう。

生命力の強いものは、「菌」によって分解される過程でも生命力を保ち、

その状態でも生命を育む力を残している。

だから、食べ物として適している。

 反対に、外から肥料を与えられて無理やり肥え太らされた生命力の乏しいものは「腐敗」へと向かう。

生命力の弱いものは、「菌」の分解の過程で生命力を失っていく。

だから、食べ物としてはあまり適していない。

         (渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』講談社より)

 

 

 

わたしは何度となく

「読書とは、決して知識や教養をためるためだけのものではなく、

読書という営みの本質をみればみるほど、読書とは、

自分自身の直面した問題に立ち向かうエネルギーのあらわれである」

と言ってきました。

 

より多くの栄養を得ることを目的とした読書、

それは必ずしも間違ったことではありません。

 

しかし問題は、そのレベルにばかり集中していても

何の疑問も感じなくなってしまっている、ということです。

 

大事なのはより多くの肥料(知識や教養)を得るよりも、

より深くへ根を延ばそうとすることです。

 

この流れは、少し前から教育現場に求められていながらなかなか変えられない日本の現実があります。

 

知識を多く与える教育よりも、子ども自身が興味をもったことを集中して勉強させた方が、

結果的に学力は向上するというフィンランド方式です。

 

まさにそれこそが、

真実を追究しつづけ、問いかける力であり、

「自分自身が直面した問題に立ち向かうエネルギー」です。

 

「知識」ではないこのエネルギーこそが、

一番の「発酵」の源であるのだと再認識させられました。

 

 

*** 参 照 ***

パン屋タルマーリー

   http://talmary.com/

寺田本家

  http://www.teradahonke.co.jp/

これは行ってこなくちゃいけないね。

 

 

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「幸せ」のコストを上げてはいけない

2014年03月13日 | 無償の労働、贈与とお金

いま、景気浮揚のために賃上げがどれだけ行なわれるか、

春闘を前にしきりにニュースで騒がれています。

長い間下がり続けた賃金が少しでも上がる傾向が出たのは良い事で、

これを機会に上昇傾向に拍車がかかることを期待しているかの報道があふれてます。

 

とんでもない!

 

世界を動かしている投機筋にとって好ましいのは、

株価が上がることよりも、変動幅が大きい事です。

 

世の中全体がこの流れに引きずられてきました。

 

グローバル化が進むと、事業の貿易依存度にかかわりなく、

為替変動による収益の変動幅がとても大きくなります。

すると企業は、利益を生んでも内部留保をためることを優先します。

 

大企業の内部留保の問題は、随分昔から指摘されていましたが、

内部留保額は一貫して増え続けていながら、

それでも企業にとっての「安心」にはまだほど遠い。

 

国民は、将来に対する不安が増し、

日本は貯蓄や保険に依存する比率が昔から異常な国際的高さであったにもかかわらず

益々それが高まる傾向にあります。

 

いまの日本は、「幸せ」のために、いったいどれだけの担保が必要なのだろうか。

 

 

かたや江戸時代の庶民の暮らしをみると、

あまりにも日銭しか持たないその日暮らしが目立ちます。

 

落語の世界に限らず、僅かな稼ぎを遊びで使い切ってしまったとしても、

多くの庶民は、決して現代のような将来に対する「不安」を感じることはありませんでした。

 

 

消費税が上がる事を待ち望む企業や、インフレ誘導による景気浮揚を期待する人びと。

それらの人びととはまったく違う方向にこそ目指すべき「幸せ」があることなど、

きっとマスコミは口が裂けても言えないのでしょう。

 

賃上げは、まぎれも無く良い事ですが、今の論調に

未来の「幸せ」を保証するような流れはありません。

 

昔にもどることが良いわけではありませんが、

決して「幸せ」のコストが上がるような社会をつくってはけません。

 

 

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木の葉が沈んで石が浮く

2014年03月11日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

    木の葉が沈んで石が浮く

 

アメリカの司法制度を評した言葉です。
    (佐藤欣子『取引の社会』中公新書)

 

 

物事の道理よりも、高い弁護士を雇う力のある者のほうが勝つ。

もちろん、すべてがカネで決まっているわけではないけれども、

映画などで知るレイプ裁判の事例などみると、あまりにもムゴい。


こうした社会観は、そのまま「銃社会」の論理でもある。

力で押してくる相手には、自らも武器を持って身を守る権利がある。

でも武器を持てないもの、カネを出せないものは

まったく立つ瀬が無い。


幸い日本には、そのような論理を受け入れるような文化はない。


でも政治を中心に、アメリカの国際紛争解決の手法

「木の葉が沈んで石が浮く」論理に日本が巻き込まれていく。


アメリカ国内の一部の産業への保護主義政策(TPP)に、

アメリカが引き起こす戦争に。

 


私たちは、決してそんな文化は持ち合わせていない。

 

 

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「批判」より「創造」にこそ、圧倒的なエネルギーをそそぐ

2014年03月08日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

自分のホームページhttp://hosinou9.wix.com/hproを整理していてつくづく思いました。

右肩上がりの時代であれば、とにかくいろいろコツコツと努力を重ねていれば、失敗成功を繰り返しながらも、なんとかそこそこの結果はついてきました。

ところが右肩下がりの時代になると、ただ真面目にコツコツと努力を重ねていたのでは、なかなか結果がついてこないのです。

私自身、つい最近まで強調していた「議論・分析ばかりしてないで攻めてみよ!」という言葉の説得力も急速に衰えてしまっているのを感じます。

それは「まだ努力が足りない」からそうなのだ、というのも決して間違いではないのでしょうが、必ずしもそうとはいえない時代になってきていることを肝に銘じなければなりません。

 

最近こんなようなことを人と話していると、必ずひっかかるポイントがあります。

それは、こんな厳しい時代だからこそ、今のヒドイ政治を打開(解決)しなければならない、という視点です。

いつも議論の噛み合わせが難しいのですが、今の様々な社会問題が深刻で、それらを政治的に解決することが不可欠であるとこに異論はなく、まったくその通りで私もそれが大事であると感じていることをくれぐれもご了解ください。

 

ここで私が引っかかっているのは、深刻な政治的問題が解決しない限り、今の自分の状態は絶対に変えられないかのように思ってしまう思考のことです。

さらにはその延長で問われることですが、今の政治のレベルの低さを、政治家や指導者の能力不足の問題としてばかり取り上げる傾向が強く、それも確かに深刻な問題であることには違いないのですが、もっと自分たちの側の「創造力」や「自治能力」の不足の問題をとらえ直す必要があるのではないかということです。

政治的解決は、社会的弱者の救済のためには、譲れない現実は確かにあります。

でも、これも書き出すと長くなるので、ここではそうした視点の重要さを気づくきっかけになったひとつのことだけを記すことにします。

 

時代のパラダイムが大きく変わろうとしているような時、私たちに何が大事かを考えさせてくれるいくつかの重要な本のひとつに渡辺京二の『逝きし世の面影』という本があります。

大事な本でありながら、この1冊のなかには至玉のポイントがあまりにも盛りだくさんなため、一文にまとめあげることが難しく、私にはブログなどでまとめあげることがずっとできないままになっています。

それだけに、テーマを分解して、それぞれの話題で取り上げるべきなのでしょうが、ダイレクトには難しいと感じている矢先に、ちょうど他の著作を通じて渡辺京二の歴史観を知ることができ、そこに現代に切り込むべき大事な視点を発見することができました。

 

それは、ちょっと挑発的な表現です。

「日本マルクス主義史学は本質的に市民主義的民主主義者であって、資本制と一度たりとも真面目に闘ったことがない」(渡辺京二『日本近世の起源』洋泉社MC新書)。

彼らが闘っていたのは「資本主義」に対してよりも、実態からすると「伝統的権威主義支配」に対する闘いであったのではないかという視点です。

 

真面目に闘っている多くの人たちから袋だたきにあいそうな言葉ですね。

でも、私にはとても納得できる表現に思えるのです。


渡辺京二は、一貫したある姿勢をもって従来の様々な歴史認識に対する疑問を投げかけているのですが、すでに影響力は衰えたかのようなマルクス主義的歴史認識の未だに教条として引きずっている歴史観には執拗に疑問を投げかけています。

これもよく誤解の元になるのですが、歴史を語るときその教義、理論は間違っている、その宗派は問題だなどと語る場合が多いのですが、いついかなる教義や信仰であっても、時代を経て教条化するところにこそ大きな逸脱が発生しており、もとの仏陀やキリスト、親鸞や道元、マルクスやレーニンなどが決して言ってはいないところの何々主義もどきや何々派もどきが多くのゆがんだ実態を占めているのが現実だからです。

渡辺京二が執拗に批判しているのも、特定の思想や心情に対するものではなく、そうした「教条化」した思考のことです。


そもそもマルクスが、労働者階級の解放をうたったとき、それは人間は「労働」によってこそ「全人格的成長」が可能であるという前提で語っていたはずです。

それが、働くも者の敵が資本家であるという構図が決まってしまうと、資本家こそが労働者の敵であるとばかりに「労働条件」の改善要求ばかりが闘争目標になってしまう傾向に陥ります。

労働条件の改善は、大事で不可欠なことに違いはありませんが、よく批判の矢面にたつ公務員労働者にみられるように、えてして「より働かないこと」「楽な環境を得ること」が目標になってしまい、組合運動といいながらも発想では、どう転んでも職場をひとつの有意義な労働環境にするために経営者と折り合うことは不可能な構造になってしまうのです。

効率を追求するのは経営者の視点、という思考枠から抜け出せなくなっているのです。


世の中が右肩上がりで、多くの労働は大量生産の効率追求でパイが広がっていったような時代には、社会的不公平が拡大するなかで自分の取り分を取り戻す運動は、大きな意味を成果があったと思います。

確かに格差が拡大している現代だからこそ、さらに深刻なこの構図があるともいえます。

でも、私としては、そのことに異論があるのではなく、やはり「それでは軸足が違う」のではないかと感じずにはいられないのです。

先の渡辺京二が挑発的な表現で、「日本マルクス主義史学は本質的に市民主義的民主主義者であって、資本制と一度たりとも真面目に闘ったことがない」というのは、資本制ともし真剣に闘うならば、資本制の打倒も大事かもしれませんが、今の資本主義社会のなかでの「豊か」でクリエイティブな労働の実現をはかることこそが、つぎの社会を準備する核心用件であることを気づかせるものであると思うのです。

マルクスも資本制の中でこそ、次の社会を準備する条件が育つことを明言しています。




 

20世紀の経済発展を経て、過酷な競争環境下におかれた私たち働く人びとは、一度、競争に敗れると近世江戸時代以上に、すべてを失い、なにも持たざるホームレスになってしまうような厳しい現実があります。

しかし、一歩目を前にすすめれば、それはそうした厳しい現実はありながらも、必ずしもすべてがアトム化された孤立した個人の時代ではなくなってきていることにも気づきます。


近代市民社会の発展や近代自我の確立などの言葉とともに、これまで必至に旧来の伝統しがらみや共同体からの自立した個人を目指してきたここ数世紀の歴史が、行くつくところまでいきついた感のある現代。

それまでの「所属」こそがアイデンティティの証しであった時代から、あらゆる所属やしがらみからも自由になりうる可能性を持った時代に移行しはじめました。

でも、それはすべてが孤立したアトムの時代かに見えるのは、歪んだ経済競争の現象面で露出しているからであり、21世紀の展望から見直すならば、個人が縦横無尽に所属を選択したり、あらゆる社会的つながりを創造したりすることも可能な時代に入ったうえでの「アトム化」であるといえます。

余談になりますが、この所属のアイデンティティを喪失したアトム化した個人が、現代ではネット技術などの力にもより、自由なつながりを創造することが可能であることは、同じネット技術のなかでもfacebookのようなものではなく、ローカル性を発揮できるmixiコミュニティ機能のようなものの方が、今は劣勢ではありますが有効であることを感じます。


21世紀に一旦「アトム化」した個人が多様なつながりを獲得することを可能にするもうひとつの要因、背景は、20世紀型資本主義が商品経済においては「多様」で「豊か」な社会を実現したようでいながら、価値観やコミュニティなどでは極端に単層化した社会を築いてきてしまったことの反動があるとも言えます。

『逝きし世の面影』の時代をみると、貧しい暮らしのなかでもなんと多様な職業があり、多層な社会構造があったかということに現代の私たちは驚かされます。

この近世の見かけの身分社会のなかにある労働の多様性に比べると、現代の労働は、あまりにも「賃労働」の枠のなかで単一な狭い労働観しかないことに気づかされます。

現代では「モノ」だけは豊かにあふれて、価値観も多様化したといわれながら、世の中全体の階層は進歩のあかしとして単層社会化が津々浦々まで徹底されてしまいました。

 

ここに私は、単なるガラガラポンや政権交代などだけでは決して解決しえない構造問題の深淵を感じます。

 


ここで言っていることは、まさに「起業家精神」のことでもあるのすが、これまでの起業、独立の多くは、所属する会社や組織から別れて同じ業種の枠内で独立するといった面が主流だったのに対して、いま求められている「起業」とは、これまでに無かったものを創出しなければ事業の継続は難しい時代背景のもと、本来のただの独立ではなくまさに真の「起業」こそが求められているのです。

これこそが、本来の働くものの労働力の全面開花への本質的な一歩のはずです。

 

たしかに、まだまだ安易な起業をしても容易にには報いられない現実があります。しかし、仮に今いる組織から外に飛び出さなくても、そうした起業の精神を今いる職場のなかで発揮できない限り、多くの企業は衰退の道をたどらざるをえないのも事実です。

もちろん、ひとりで大胆な企業内起業家を目指しても、多くはただリストラの口実を経営者に与えるだけかもしれません。

にもかかわらず私が強調したいのは、首をかけるような難しい仕事を今いる場所でできない限り、仮に独立、起業しても直面する問題は同じで、ふたたび乗りこえられない壁に直面することが目に見えているからです。

そんなことやっていたら、首がいくつあっても足りないじゃないか、ともよく言われます。

しかし、「首をかけるような仕事」とは、そう頻繁に起こるものではありません。

まさにそのような「首をかけるような仕事」に出会ったその時こそが、より重要な問題を解決する創造的飛躍の大チャンスであるはずで、またそれこそが「労働」の本来もつ創造力の発現機会そのものであるはずです。

「首をかける」ような価値ある課題に出会えたこと、まさにそれこそが「労働」にこそ価値をみる側にとっては、「素敵なこと」なのです。

 

右肩上がりで工業化に突き進む時代の論理にくらべると、これはとても面倒くさい労働を要求しているように見えるかもしれませんが、より自分の幸せを実現できる社会としては、こちらの方が本流であると思います。

しかし、残念ながらここまでの話は、着実に支持され広がっている考えながらも、現代では未だマイノリティーの考えであることに変わりはありません。

 

大事なのは、突出したイノベーションのことではなく、すでに破壊されたかのような日常の暮らしや働き方の「しつらえ」レベルの再構築「創造」の時代に社会全体が移行し始めているのではないかということです。

 


ブラック企業や労働者への様々な締め付けのどれをとっても私は弁護するつもりはありませんが、働く者が「働きたいだけ」働き、すべてのエネルギーを直面している問題の解決のために全力投球する権利こそが、本来は、働くものの第一の権利であるはずです。

こうした発想を、いま多数の人に安易に求めることはできません。

でも、確実に時代のトレンドはこちらに向かいはじめていると感じます。


「賃労働」の批判よりも「労働」の創造そのものを軸にした活動

「生活環境」の批判よりも「暮らし」の創造そのものを軸にした活動 

 

私のホームページhttp://hosinou9.wix.com/hpro にかかげたミッション

「今ある与えられた条件のなかにこそ、固有の解決策がある」

という目標は、政治的批判が先立ってしまうと、どうしても思考が途絶してしまう恐れが強いのです。

 


まわりに山積した社会問題は、どれひとつとっても片手間で解決できるようなことでありません。

政治的な取り組みにも、膨大なエネルギーと手間をかけなければなりません。

にもかかわらず、それ以上に思考と活動の軸足は、政治的な闘い以上に「仕事」と「暮らし」の再構築、創造にこそおかなければならないのではないかと感じるのです。

また、政治的な闘いの領域においても、これまで以上に伝え方、広め方の創造的革新が求められているのではないかと。

そもそも「創造」とは、今までになかったものを生み出す作業ですから、ちょっとなにかを学習しただけで出来るようなことではありません。そうした教育を一貫して受けて来なかった私たちに容易いことではありません。

でも、働くこと、学ぶこと、生きることの核心は、そこにこそあるのだということに、もう多くの人は気づきはじめています。


目の前に起きたことの解釈や批判に費やす時間よりも、圧倒的に多くの時間を、「わたしたち自身がこれから計画して起こすこと、試してみること」にこそ、時間と労力を費やさねばならないのです。

 


「息子やむすめたちに、努力に努力を重ねてふるさとを捨てさせるのは、もうやめにしたい。田舎に残った自分はだめだから、自分のようにならないで欲しいという自己否定は終わりにしたい。そうではない時代が、幕を開けつつあるのだから」広島県の最北部、庄原市の和田芳治さん『里山資本主義』より 

 

 

誰かを責めている場合じゃない。

さあ、自分たちではじめよう♪ 

    (映画「未来の食卓」のなかの子どもたちの歌)

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