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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

神の名を口にしてはならぬ  ~歌劇「モーゼとアロン」~

2020年12月19日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
「神の名をみだりに口にしてはならぬ」
モーゼの十戒に出てくる戒めの言葉です。

ユダヤ教、キリスト教のことは、ほとんど理解しているとは言えない私ですが、
多くの宗教の開祖は、偶像崇拝や教団を作ることを強く戒めました。

エジプト文明の神々に対抗する立場のモーゼは、権威を強く否定する身に育ち、神の名を口にした瞬間から、それは戦争をうみ、権威を振りかざすものに変質してしまうということを目の当たりにしていました。

そもそも神は、かたちのないものであり、言葉では言い表すことのできない「何者か」であることは、古来、文明圏を問わず世界の原初信仰に共通する考え方でした。
それが共同体の発展、古代国家の登場とともに一神教が生まれ、権威のために神々が利用されるようになりはじめます。
モーゼが生きていた時は、まさにそのような矛盾を背負った時代でした。

 
そのためモーゼの兄アロンは、形のないもの、言葉にできないものをどうやって人に伝えたら良いのかと、巧みに言葉を駆使してモーゼが行わない偶像もつくりあげてしまいます。
 
 
ユダヤ人でもあるシャーンベルグは、まさにこれを自らのテーマとして、この物語を最後の仕事として取り組みました。
十二音技法をはじめとする現代音楽の先がけをなしたシェーンベルグですが、この曲は電子音楽が普及するような時代にならなければ上演は不可能であろうと考えていたようです。ところが、時代は彼の想像よりもずっと早く進化しました。
 
かたちのないもの、言葉にならない何者かの表現は、宗教と芸術に共通する根本テーマでもあります。
 
     何ごとのおわしますかは知らねども、
          かたじけなさに涙こぼるる
                   西 行
 
最近、アフガニスタンの中村哲医師の活動に始まって、中東の歴史、ユダヤ教、キリスト教、イスラムなどの宗教や習俗などをこのところ集中して学んだので、何度か、聞いては途中で挫折していたこの難曲を、ようやく通して聴けるレベルになりました。
 
 
主題が明確に理解できるようになったら、今まで難曲とばかり思っていたものが、モーゼとアロン以外はほとんど合唱で語られてることなど、意外とシンプルな構造として聴けるようになりました。
 
 
シェーンベルグ 歌劇「モーゼとアロン」
指揮 ピエール・ブーレーズ
BBC交響楽団 BBCシンガーズ/オルフェウス少年合唱団
モーゼ:ギュンター・ライヒ
アロン:リチャード・キャシリー
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狭い車内で聞く狭い音楽 ジャズ編

2020年10月04日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

私は日常生活で車が不可欠な群馬県に住んでいる都合、年間3万キロ以上は走行しています。

したがって、車のなかで音楽を聴いている時間も多く、それは1日平均2時間といったところでしょうか。その時間の9割以上は、CDを聴いており、残りはFMを聞いています。

それが先月、急に車を買い替えることになり、おかげで待望の最新ナビを取り付けることができました。

今までのナビ画面では、田んぼの中や海の上を走行することが度々ありましたが、ようやくまともな走行が出来るようになりました。加えて嬉しいのは、はじめてSDカードにCDを録音して楽しめるようになったことです。

36ギガのSDカードにこれまで120~130枚くらいCDアルバムを入れましたが、まだ100枚以上は入るはずです。

 

 数週間、この作業をずっとしていると、持っているCDを随分と見直すことが出来ました。
 車の中で自分の聞く音楽と、SDカードに入れるもの入れる必要のないものの選別を考え、あらためて自分の音楽の好みを確認することもできました。

 ひと口に自分の好みといっても、この場合、車内という小さな空間で運転中に聞くにふさわしい音楽という意味です。家で聴くものや他所の店内やライブで聴くものの好みとは自ずと異なります。

 またSDカードに入れることで、普段のCDで個別に聞くのとは違って、アーティスト名や作曲家名、アルバムボックスタイトルなどで、通して流し聞きできる利点もあります。

 

 そこで、一番最初に始めたのは、大好きなエリック・ドルフィーとオーネット・コールマンのアルバムを片端から入れることでした。

 

 エリック・ドルフィーは、短い生涯で若いうちからのぶっ飛んだ演奏スタイルに極端な変化はないので、ただ自分の持っているアルバムの再確認で終わった感じでした。
 対するオーネット・コールマンは、長い生涯で幅の広い表現スタイルにチャレンジしているので、通して作品が聴けるというのは(まだ入れるのが精いっぱいで通して聴けてるわけではありませんが)、とても新鮮な発見もあり楽しいものです。

 

 あらためてプレイヤーとしてのドルフィーのスゴさ、コンポーザーとしてのコールマンのスゴさを認識しました。

 

 私のジャンルを越えた音楽の好みとしても、この二人は中軸をなすプレイヤーです。

 それに加えて黒人音楽として大事なのが、ちょっと飛びますがニーナ・シモンです。

 ジャズが黒人の音楽と言われながらも、どちらかというと黒人が白人社会へ入っての音楽という性格が強いので、意外とアフリカ系黒人のスピリッツを黒人霊歌のように前面に打ち出したジャズは少ないものです。その点、ニーナ・シモンは、ステージでの語りや動きなどを見ると、もっとも黒人によるジャズ・ボーカルの魅力を打ち出してくれているので好きです。

YOUTUBEの以下の映像に、そうした姿がよくあらわれています。

https://www.youtube.com/watch?v=8mL3L9hN2l4&t=853s

 ただ、車で聴く音楽という条件となると、私のニーナ・シモンコレクションの中からは2枚も入れれば十分かと思いました。

 スタンダードを歌う歌手として外せないダイアナ・クラールは、美人ながらあまりにも太々しいので、いまひとつキャラが好きではないのですが、ピアノタッチセンスが抜群なので、悔しいけれど車で聴くにももってこいのプレイヤーと言えます。

 

 ニーナ・シモンほどのブラック・カラーを打ち出した世界はなかなかありませんが、トラディショナルやオーガニック路線へ向かうと、ドン・チェリーがいます。

 ドン・チェリーも、方向性やキャラクターは大好きなのですが、車で聴く音楽となると2枚も入れておけば充分。

 この方向では、枚数の問題でなくアブドーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)のピアノと、ランディ・ウエストンの「ブルース・トゥ・アフリカ」ビックバンドバージョンとピアノソロバージョンは、何度でも繰り返し聞いて楽しめます。

 

さらにキャラクターで大事なのは、ミンガスです。

 下の2枚(片方はDVD)は、MINGUSというタイトルで全く違うものなのですが、どちらも超お気に入りのアルバム。

 ジョニ・ミッチェルの「ミンガス」とチャーリー・ミンガスのモノクロ・ライブ映像の「ミンガス」

 ジョニ・ミッチェルのこのアルバムをはじめて聞いたのは、おそらくFM放送で、その時の衝撃は忘れられません。
「いったいこのギターは誰が弾いているんだ?」
「こんなユニークでセンスの良いギタリストがいたなんて」
 アルバムメンバーのウエイン・ショーターのソプラノサックス、ジャコ・パストリアスのベースの腕ももちろんで、ほどなくジャコ・パストリアスが亡くなってしまっただけに、彼の限られた名演アルバムのひとつとしての評価が高いのはわかります。

が、このジョニ・ミッチェルのギターやボーカルのジャズプレイヤーとしてのレベルとセンスの良さは、どうしてもっと評価されないのでしょうか。不思議でなりません。

 チャールス・ミンガスに捧げられたこのアルバムが最高傑作であるとともに、そのミンガスが、そこまで尊敬される由縁も、この車で聞くにふさわしい音楽を絞っているうちになんとなく見えてきました。

 そして大元のミンガスといえば「直立猿人」とう代表アルバムが思い浮かびますが、個人的には、DVDで出ているエリック・ドルフィーを迎えたライブ映像が最高です。

https://www.youtube.com/watch?v=5STaUWmh9bw

 もちろん、エリック・ドルフィーファンゆえということもありますが、小編成でスケールの大きな曲を表現するということにおいては、マイルス以上にコンポーザーとしての才能を感じます。とりわけ「オレンジ色のドレス」という曲に顕著にそれは見れます。

 秋吉敏子、ルー・タバキン、ビックバンドも好きですが、車の中で聞く選曲となると、圧倒的にミンガスがいいです。クラシックも含めて、私の場合は、四重奏程度までの小編成、もしくはソロの音楽が好みなので、小編成でありながら大きなスケールの音楽を生み出すという面では、ミンガスが最高かと。

 

 このような好みから出る帰結なのですが、私が車で聞く音楽の中には、マイルスやジョン・コルトレーン、MJQなどは入ってきません。

 若い頃の初恋の思い出と重なるロン・カーターのソロアルバムも外れます。車で聞くには、なぜか、かったるいのです。それと妻には申し訳ないのだけど、ソニーロリンズは、初めから私の選択肢には入っていません。

 ジャズでコルトレーンやマイルスを外すなんてあり得ないことかもしれませんが、マッコイタイナーのピアノソロはなぜか残ります。ドロドロサウンドでも、眠くはならないし。

 ただ、定期的に聴きたくなるコルトレーンとエリック・ドルフィー共演のインディア、インプレッションズのアルバムは入れておきました。

 同じかったるい部類に入るものでも、アランフェス協奏曲だけは、マイルスとジム・ホール、MJQなどの演奏が一気に聴き比べられるので、入れておきました。

 ギタリストは、やはり小編成かソロでないと車内では合わないので、ジョー・パスだけは欠かせません。

 

 

そして、車で最も多く聴いているアルバム、私のナンバーワン!

 上の写真では、ジョン・マクラフリンやマハビシュヌ・オーケストラのアルバムがたくさんあるように見えますが、実はこれもFMで聴いたある忘れられないマハビシュヌ・オーケストラの曲があり、ただその1曲に出会うために片端から買ってしまったものです。結局、未だにその曲には出会えていません。

 でも、マハビシュヌオーケストラではなく、マクラフリン・トリオの演奏に出会えたことで、私の車内音楽世界は格段に楽しい日々となりました。

 トリオというと、アルディメオラ、パコデルシアとのスーパーギタートリオの方が有名ですが、そちらは、車で繰り返し聞くようなタイプではありません。

https://www.youtube.com/watch?v=Idy5E5UXCYs&t=2468s

(マクラフリン・トリオのアルバムは、写真のものともう一枚あるはずなのですが、現在行方不明)

 マクラフリンのアコースティックギターとそれをシンセ加工した独特のサウンドは、初めて聞いたときには、ギター、ベース、パーカッションの他に、誰がキーボードを弾いているんだと思ったほどです。
そして何よりの出会いは、パーカッションで参加しているインド人のTrilok Gurtu(トリロク・グルトウ)です。
 映像を見るまで、まさかこんな格好でドラムを叩いていたなんて夢にも思いませんでした。

 オレゴンにも加わっているのもうなずけますが、独特のサウンド作りの魅力もさることながら、ドラム、とりわけバスドラムのように聞こえるバスタムのキレの良い響きには、ずっと聞き入ってしまいます。たった3人で、これだけのサウンドを生み出してくれるというのも、車で聞く音楽として最高のもので、助手席に妻がいる時でも安心して流せるサウンドというのもありがたいところです。

 オレゴンのメンバーそれぞれのソロアルバムなどは、とても斬新で面白いのですが、前衛すぎて車で聴く気にはなれません。

 

 他に、セロニアス・モンク、山下洋輔のソロ、などのピアノソロアルバムが多いので、当然、キース・ジャレットのソロは、運転には聞き入りすぎる危険もありますが、よく聞いています。

 

あらためて要約すると

① アルバムが一貫したテーマや曲調で統一感のあるもの

② 大編成ではなくソロかトリオくらいまでの小編成のもの

③ バラード調のものは、概して眠くなるので繊細な表現を伴った作品に限る

そんな領域の選択で7~80枚くらい入ったでしょうか。

 

以上のような理由から、私が車で聞く音楽となると、不思議とビ・バップからクールジャズ、ハード・バップに至るジャズ王道の演奏は外れてくるのです。
だからと言って、それらの音楽が決して嫌いというわけではありません。

ただ車で聴くには合わないのです。

 

ここで、もう一つ気づいたことがあります。

車内という狭い空間の制約を強調しましたが、もうひとつの属性として、一人で聞く音楽と複数の人間、あるいは公共の空間で聞く音楽の違いというものを感じました。

私の好みのフリージャズは、好みの合った人とでないとなかなか安心して聞けないものですが、私は、マイルスやMJQがまったく聞けないということではなく、他人の家や公共の空間(ジャズ喫茶、飲食店店舗など)では、むしろフリージャズ以外の方が、自分自身も安心して聞くことができます。

実は、この辺にジャズを二分する重大な視点が含まれてます。
ちょっと文字で書き残すのは勇気がいるので、やめておきますw

とはいえ、32ギガのSDカードのおかげで、思わぬ深いところに入ることができました。

 

次回は、クラシック編を整理してみます。

 

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岩渕健二演出 読み語り芝居「父と暮らせば」

2016年08月24日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

 

 ヨロコンデぶっちさんから、この芝居の案内を頂いたとき、今思えば大変申しわけなかったのだけれど、ぶっちさんが様々な境遇をかかえながら頑張っている企画とは思いながらも、この芝居の内容がどのようなものであるのか、またぶっちさんのどのような想いで実現されたものであるかについては、あまり深く考えてはいませんでした。

ただひたすら、とても一生懸命頑張っているぶっちさんなので、なんとかその姿をみて応援してあげたいとだけの気持ちでいたのです。

このことが、芝居を観終えたいま、とても申しわけなく思っています。

優れた作品だから見に来て欲しい、

一生懸命練習したから見に来て欲しい、

仲間としては、ただそれだけでも行くには十分な理由でもあるのですが、

そうしたレベルではないこの作品に対する思いというものを、わたしは事前に十分読み取っていなかったのです。

 

もちろん、この芝居は、そうした意識はなくとも、ぶっちさんの前口上のつかみの巧さ。

花澤町子さんが登場する時の「命短し〜」のフレーズだけでウルっときてしまう歌の上手さから、

序盤からすでに予想を超える仕上がりの芝居であることが十分わかるものでした。

でも、伝えたいのは当然、そこじゃないよね。

 

 

それを、わたしが事前にきちんと理解できていたならば、

あるいは、チラシやネットでの情報が流れていたときに、

そうした思いが多少なりとも伝わっていたならば、

さらにどれだけ多くの人の期待が持たれた公演であったかと思わずにはいられません。

(前売り情報の期待が高いことは、かなり伝わったようですが)

 

 

8月15日までの間、毎年戦争を語り考える企画は数限りなく繰り返されています。

いつの時代になってもそれを語り伝えなければとの思いは、戦争を体験した世代が確実に減るとともに

切実さも増すばかりです。

でも、それをどう伝えるのか、

自分に何ができるのか、

との思いの間では誰もが未だに悩み続けています。

 

そこに井上ひさしが晩年投げかけたこの作品に、

ぶっちさんと花澤さんがどのような思いで取り組んだのかは、

作品を通じてこそ伝わってくるのもではありますが、

他方、事前にその意図がもう少しでも表現され伝えられていたならば

と思わずにはいられませんでした。

確かにそれは、チラシのオモテに

「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、

それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」

と書いてはあります。

 

その「おまいの仕事」をなすのは、演者だけではなく

そこに集まる観客一人ひとりも「おまいの仕事」をなすことが求められるのです。

 

それを今回、わたしが出来なかったことのお詫びとして、この文章を書いています。

 

 

音楽や芝居の表現力において、わたしはぶっちさんをとても高く評価しています。

そしていかに力量があっても、いかなる分野の仕事であっても、誰もが、

「なんでわかってもらえへんのやろう」

「なんで伝わりへんのやろう」といったつぶやきはともなうものです。

 

今回の公演のメディアの伝え方でも、まさにそうしたことがありました。

 

この度のぶっちさん達の公演などは、完璧なほどの表現を見せてくれているのですが、

こちらから見ると想像以上にすぐれていた芝居である分だけなおさらに

何がどこまで伝わっているのかという点から振り返ると、

「もったいない」成果に感じてしまうことがあるのです。

 

 

 

こうしたことはもしかしたら、プロデュース不足とも言えるのではないかと思いました。

一つの作品を見せるのに、それがボランティアや無料公演がふさわしいのか、

1000円の料金がふさわしいのか、2000円がふさわしいのか、

タイトルデザインはどのようなイメージが相応しいのか、

ぶっちさんのキャラクターを前面に押し出したような宣伝が良いのか、

作品の主題を強調した方が良いのか、

客席とフレンドリーな環境づくりが大事にするのか、

はては会場のトイレ清掃がゆきとどいているかどうか、

それを実現するにはどのようなロケーションが求められるのか、

などなど、一つ一つ詰める作業がとても大事で、

ひとりでそれをこなすのもとても大変なことです。

 

そうした作業は、どんな企画の場合でもキリなくあるものですが、

たとえそれを「そこまでやるのか」と言われるまでやり尽くしても、

「作品」は、完成したと言えるのかどうかはわからない世界があります。

 

だからこそ、まさに「おまいの仕事」をその時々でなしていくには、

自分自身の中で、またひとりひとり仲間の力でそれら細部を積み重ねていく根気のようなものが、

どんな仕事の場合でも確かに「やっかい」であるけれども

避けて通ることのできないとても大事なことであるとわたし自身も日々痛感しています。

 

そこを、単に「頑張っているから」で済ませるのではなくて、

「いかに伝えるか」のために、細部にわたってプロデュースする努力の積み重ね、

こだわり続ける監督の力量のようなものが、

福祉、教育、平和運動や日々の仕事のなかでも、どれだけ大事であるかということ

まさにそれこそ、井上ひさしが生涯を通じて考え続け問い続けてきたことでもあると思います。

 

もちろん、ぶっちさん、花澤さん、他のみなさんが相当この日に至るまでの議論は積み重ねてこられたものと想像することができます。

それだけに、この芝居を完結させるには、事前の準備・練習と当日の感動と、やりたくても出来なかったことも含めてその次の連鎖を目指すには最低3年くらいの繰り返しを通じて磨き続けることが、どうしても不可欠なのではないかと思えてならないのです。

誠に勝手な話で申しわけありません。

というのも、この「父と暮らせば」という作品が、数々の戦争を語り伝える文芸作品の中でも古典となりうる要素を強く持っているばかりでなく、二人芝居という形式が、様々な演出によって各地で上演されることを可能にし、より深く国民に浸透されることが想像されるからです。

 

 

 

妻がこの芝居の感想を二人で語り合っているときに、井上ひさしが晩年、娘に毎日何時間も伝えたいことを語り続け、すべてを伝えるだけではなく、あとは自分で考えることの大切さを言い残したことを言っていました。

井上ひさしが投げてくれたボールを、ぶっちさんと花澤町子さん、その他の協力してくれた皆さんがしっかりと受け止めて今回の素晴らしい公演に結実させてくれました。

この財産をさらに磨き続けていくことでこそ、皆さんの思いも、より確かなカタチになっていくものと思いますが、私も事前にぶっちさんの思いを受け止められなかった後悔を晴らす機会として繋げられたらとも思う次第です。



http://yorocondeb.exblog.jp/25892651/

 

 

 

 

 補足

こまつ座による、この『父と暮せば』の上演は、1994年の初演以来高い評価を獲得し、第2回読売演劇大賞「優秀作品賞」を受賞しています。

そうしたこまつ座の後に他の演出を試みることなど無謀にも思えますが、なんと宮沢りえと原田芳雄の共演で映画化もされてるらしいですね。
残念ながら私はその映画を観てはいませんが、宮沢りえの女優としての実力が見事に発揮された作品となっているようです。 

原作のあらすじについてはコチラ http://ameblo.jp/classical-literature/entry-11763850932.html

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意味は「つながる」のか。空間は「つながる」のか。

2014年10月27日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

10月25日に前橋の旧大竹レンガ蔵で行なわれた演劇、
劇団レレレレンガ 演劇公演「前橋出口」https://www.facebook.com/rerererengaを見てきました。 

ちょっと遅くなりましたが、雑感メモを以下に思いつくまま。

 

記憶はつながるのか

言葉はつながるのか

意味はつながるのか

道はつながるのか

時はつながるのか

そんなイメージがわいてくる演劇でした。


正直なところ前半部分は、もしかして既存の形式や意味、空間を破壊するだけのよくある前衛演劇なのかと、ハラハラ心配しながら見ていました。

それが、レンガの上をMさんが歩くシーンでいろいろ具体的な言葉があらわれて、
やっとその後の展開が想像、把握でき、おちついて見れるようになった次第です。

でも、それら如何にかかわらず、Nさんの発声、身体力はすばらしい。
舞台を引き締める力があるのを感じました。


最初の戸惑いは、あのレンガ倉庫という空間が、異空間の利用でありながら
あまりに立派な舞台装置になりきっていることに起因するようにも思えました。

この演劇は、本来は屋外こそふさわしい。
芝居する側と観客との断絶破壊の構図で進行するイメージの歪みが、
狙いなのかどうかはわかりませんが、
見るも側の意識にゆらぎを与えたという意味では成功だったかもしれません。

でも、様々に分断され、断ち切られた空間や言葉や意味が、
空間をつなぐ、
言葉をつなぐ、
意味をつなぐ、
道をつなぐ、
という方向に流れたのかといえば、
それはまさに前橋という街そのものが持っている特徴のまま、
個々の断片は
「つながりきらない」
ものであったと思います。

それは、前橋などの都市で行なわれるまちづくりイベントの特徴そのものであるとも感じられました。

シネマまえばし、
レンガ倉庫、旧安田銀行担保倉庫
アーツ前橋、アーツ桑町・・・

など、意欲的な文化空間やイベントを行っている姿は
私の住む田舎からみるととても羨ましいものに見えます。

既存の設備をどう活かすか、
衰退の一途の街中をどう活性化させるか
しかけてくれる人がたくさんいることも、とても羨ましい限りです。

ところが、それらが活性化し刺激として成功しても
何か「つなげる」ものが欠けているような感じがぬぐえない思いがしたのです。

同時期に行なわれている「まちフェス」のイベントマップをみていても、それは強く感じました。

その辺が、この芝居テーマの狙いだとしたら、
とてもうまく表現できていたような気もします。

 

かたや私の住むみなかみ町の月夜野では、
文化活動といえば、年寄の俳句、歌、和讃、大正琴などの趣味の世界ばかりです。

こちらの田舎のレベルでも、高齢化のもと隣近所は、
なかなか「つながらない」傾向は深まっており、
都会と同じ厳しい現実があります。

しかし、それでも月夜野の場合は、自然の景観が
高度経済成長以来、環境破壊が進んだとはいえ、
田園風景や山々の景色を通じて記憶や意味、空間を
間違いなく「つないで」くれています。

「景観」がささえているものではありますが、
それは自然の「命」がつないでいるものです。
自然の生命がベースにあれば、すべては無条件に「つながる」のです。

もちろん、決して今のままで「つながる」楽園というわけではありません。

でもここが、企画やイベント、文化創造や新たな開発によって
「つながる」努力を重ねながら、つながりが連続するのかどうかの不安をぬぐえない環境と、
自然と人間の生命の連続が「つなぐ」ベースにある環境との
決定的な違いになっているような気がしました。

言葉や意味、
人や記憶、場所など

「つなぐ」ために「商品」を媒介することでしか「つなげない」「再構築できない」都市文化と
商品化されることのない「自然の生命」を基盤とする田舎文化の違いを
今回の企画は考えさせてもらえました。

「商品化」がすべて悪いということではありません。
あらゆるものが「商品化」に依存することなく、
「暮らし」のつながり、「働き方」のつながりを再構築することは、
都会においては、田舎とは比べものにならないとても難しい現実があります。 

今、日本各地でアートの力で地域を再生する事例が増えており、
それはとても良い事で、私の地元でも是非、その方向でもっと頑張りたいと思っているのですが、
今見えている次の課題としてどうもこういったことが最近は気になります。

数年前から月夜野の地に定住するようになったせいか、
あらゆる問題をどうもこうした視点でばかりみてしまいがちなのですが、
私にとっては、個人的にとてもいい問題提起をしていただけた企画でした。

ご縁に感謝。

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映画「奇跡のリンゴ」と自然農法の明日

2013年07月05日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

映画「奇跡のリンゴ」を観てきました。

久しぶりの映画で、当然、わたしたちの会員カードも期限切れ。

1年あまり、これといった映画がなかったのもありますが、この作品は、縁遠くなっていた映画館に足を運ばせるだけの期待感がありました。

こういう場合、しばしば原作に比べて映画は、スピード仕上げによる粗さや脚本の手抜きなどが気になるガッカリ作品が多いものですが、今回は期待を十分上回り映画作品としての出来映えもすばらしいものでした。

ストーリーなど泣かせどころは予想どおりでしたが、それでも、わたしは打ちのめされ、また、大いに励まされた。

そして、奥さんの大きな支えがあったことは、読んだ本でみていましたが、あんな立派なお父(義父)さんに支えられていたことは、この映画を観るまで知りませんでした(涙)

 

 

映画化が決まってからなのか、私も知らない間に、木村秋則さんの本も「奇跡のリンゴ」以外にも随分たくさん出ていました。

 

「奇跡のリンゴ」幻冬舎文庫

「すべては宇宙の采配」 東邦出版

「奇跡を起こす見えないものを見る力」 扶桑社文庫

「百姓が地球を救う」 東邦出版

「ソウルメイト」 扶桑社

「木村秋則と自然栽培の世界」日本経済新聞社

「自然栽培ひとすじに」創森社

「リンゴの心」佼成出版

「土の教室」 幻冬舎

 

 

本もたくさん出て、すばらしい映画も出来て、自然農法の影響力もこれでかなり広がることを期待したいところですが、私が行った映画館には、私たち以外の観客は2組だけ。

 

考えてみれば、私が福岡正信の『わら一本の革命』に出会ってのめり込んだのは20年以上前のこと。

手元にある本をみると、初版は1983年。

その後、世界各国で翻訳されて、大きな流れとなっていくと思いましたが、有機農業との違いもあまり認識されないまま、予想したような広がりは長い間見られませんでした。

福岡正信の語る世界は、自然農法という農業の領域だけでなく、無為自然のタオ(老子)の哲学として、多くの人に衝撃的な根本哲学を示すもので熱烈に支持されたものですが、この30年もの間は、結局、広がり度合いをみると「異端」のままであった気がします。

それが、今、自然栽培のなかでもひと際難しい果樹のリンゴで奇跡をおこした木村秋則さんによって、ふたたび注目を浴びる機会を得たことは、長い時の流れをみると感慨深いものがあります。

時代の変化で、やっと社会がこうした思想を受け入れる器ができてきたような感じがします。

それでも、木村さんが10年近くの年月をかけてようやく答えをみつけたのが1985年。

大きなうねりとなって広がりはじめたものの、自然農法は、農業全体からみればまだごくほんの一部のこと。

 

著作や映画に感動した者の側からすれば、こんなにすばらしい世界なのにと思いますが、現実のまわりのリンゴ農家、その他のあらゆる栽培農家は、まだこの農法そのものを知らない現実もありますが、それを知っても切り替えには、大きな覚悟と実際に収穫を得るまでのリスクがあります。

すべての農薬を止めて、土の生命力を取り戻し、作物のまわりの環境とともに生命の循環が再開されれば、コスト、労力ともに大幅に減らして、より美味しく身体にも良い作物ができる。

これは、単なる新しい技術をひとつ導入するといった話ではなく、自然に対する考え方、農業に対する考え方を根本から、自然本来の姿に転換するものであるだけに、時間は当然長くかかるものです。

 

しかし一時の流行とは明らかに違うので、後戻りすることはなく、長い時間はかかっても確実にこれからは広がっていくものと思います。

 

早く結果のでるものは、すぐに廃れるものです。

かといって単純に、結果を出すのには時間がかかるというものではありません。

 

大事なのは、10年、20年後、さらには100年後のすばらしい未来を、

心に描けた人だけが、

さらに、その未来像に向かってあきらめずに頑張れた人だけが、

「答え」を得ることができるのだと思います。

 

ほんとに、いい映画でした。

みなさん、本も映画も是非、みてください。

 

 

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For Coltrane - Abdullah Ibrahim

2013年06月28日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

For Coltrane - Abdullah Ibrahim

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Abdullah Ibrahim & Ekaya - The Wedding

2013年06月28日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

Abdullah Ibrahim & Ekaya - The Wedding

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Abdullah Ibrahim Zikr

2013年06月28日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

Abdullah Ibrahim Zikr

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ディテールの記憶

2011年03月30日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評

数日前にラジオで断片的に聞いたことで、正確なことはわかりませんが、
とても印象に残った話です。

小さい頃にテレビで放映される映画を片っ端からみたその人が、20年だか30年だかたってから、その記憶にある映画を片っ端から観たという話。

テレビで放映されたような映画なので、まず市販のDVDなどでは手に入らないものが多く、ほとんどは違法な映像を入手してみたとのこと。

テレビ放映はCMの時間の都合もあり、かなりカットされている場合が多いので、再度観ると、結末そのものが違っていたり、こんな話だったのかと驚かされることが多いとのこと。

20年、30年前は、今とは放映基準が異なり、こんな映画を放送してよいのかと驚くような作品も多いとのこと。

自分の好みや嗜好で選んだ作品ではなく、放映されたものを片っ端から観るということが、かえってその当時の自分の個人的体験や情況の記憶が「トラウマ」のように染み付いているとのこと。

そうした様々なB級作品を、自己の体験にからませて深く読み解いているところが実に興味深い話でした。

「トラウマ映画館」という本が昔出ていましたが、その本の著者の話なのかどうか、まだ定かではありません。

そんな面白い話のなかで、この人が自分の記憶をたどるとき、「その作品のディテールを記憶していない感動などというものは、ただ過ぎ去ったその場限りの興奮にしか過ぎない」

といったようなことを言っていました。

映画を観ても、本を読んでも、いつも、たくさんの感動と興奮がありますが、それが何だったのか、自分でそのストー^リーなり、ディテールなりを語れないようなものは、結局、ただ一時の興奮だけで、それも意味が無いわけではないけれど、やはり時が経つと何も残らないことが多いものです。

今、読んでいる本ですら、
ここはスゴイなどと感動していながら、数ページも先に進むと
もう前の驚きや感動は忘れて、新しいページの世界におぼれてしまっています。

これは必ずしも「記憶力」の問題ではありません。
(時々、悔しくなるようなひたすら記憶力の高い人を見ることがありますが・・・)

自分にとっての価値を高められるかどうかの問題だと思います。

 

毎度、思いつくままの雑感ですみませんが、そんな気がします。

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春草とバッハ

2009年12月08日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
先月、明治神宮の宝物館とは別にある明治神宮文化館宝物展示室で、「菱田春草展」が前期・後期にわけて行われていたので、2回にわたってそれぞれを見にいってきました。


この明治神宮のある代々木の森は、春草終焉の地であると知りました。このことは、後にふれますが晩年の作品に大きな影響を与えています。

学生時代、日本美術を専攻していた私は、岡倉天心とその門下の大観、春草、観山の仕事にとても興味をもち、とりわけ春草は第一のお気に入りであったので、レポートを書いたりもした記憶があります。
ところが、今、改めて大好きな春草を現物や評伝などを見直してみると、私はまだ肝心なことを当時はなにも理解していなかったことに気付きました。

当時の私は、明治維新を迎えた日本が、西洋の文明と日本の文明の衝突をどのように受け入れ、順応または反発、あるいは同化していったか、といったテーマを岡倉天心を軸に考察することが中心テーマでした。
春草のとらえ方の本質的な部分がずれていたわけではありませんが、伝記のようなものは何も読んでおらず、論点は岡倉天心の関連で見ていただけだったので、肝心な個々の作品の創作の動機や経緯は、ほとんど理解していませんでした。


それが、ちょうど同時期に開かれていた国立博物館の「皇室の名宝」展で、日本美術史のいくつかの大事な作品を概観することもできたので、今回、岡倉天心と大観、春草、観山のなした日本美術史上の偉業をあらためて認識することができたのです。

明治期の日本画壇は、急速に流入してくる洋画の勢いにのみ込まれそうになり、存立の道を失いかけそうになる。
そのとき岡倉天心はフェノロサの助言のもと、日本美術の伝統の継承と革新に真正面から取り組みます。



五浦での様子

このときの天心とその門下の意気込みとその革新性が、当時の画壇や社会では受け入れられず、その力量の高さは認められながらも売れない画家として長い間、苦しい生活を強いられました。


横山大観「屈原」
この題材は、岡倉天心をモデルにしたとも言われる。
見ただけで余計な説明は不要だと思います。

天心らは、日本画と洋画の違いを平面性・直線性・様式性を中心とした世界と、立体性・曲線性・現実性を中心とした世界の対比として捉えていました。
そこに日本画の重ね塗りを避ける絵の具の特徴が加わると、上記の対比はより必然的なものとしてとらえられた。
(油絵具は同分子なので混ぜることができるが、日本絵具は岩絵具など分子が違うものが多いので、混合できない場合が少なくない。)

これは絵画にとどまらず、和服や様々な生活の対比でとらえても、「たたむ」文化として日本には平面性や直線性が浮き出ています。
西洋にも直線性はもちろんありますが、それはシンメトリーを基本にしたもので、日本のような構成美や様式美よりも機能美がベースであることが多い。


最近、ある知人が玉堂だかのスケッチの精緻さに感動していた記事がありましたが、総じて日本画家はスケッチの技術を磨いていながらも、それをそのまま作品には出さず、それを様式美に昇華することを目指す。
大観も、人から写実的な写生をしているところを見られると、あわててそれを隠すほどだったという。


さらにこうした技法の違いに加えて、日本画壇特有のテーマ、主題というものが加わります。
岡倉天心はこれにとても固執していました。

日本画がテーマにこだわることは天心に限らず、日本画界がずっと続けてきた伝統そのものなのですが、明治維新を経て近代化を推し進める日本で、その伝統文化の革新を考えるときでも、天心はそこにずっとこだわり続けていたようです。

大観、春草、観山は、橋本雅邦につき日本画の伝統、古画の模写を徹底して行い、身体に深く染みこませています。
しかし、そのなかで春草は絶えず、伝統を踏まえながらも、日本画の革新ということを先鋭的に問い続けていました。

春草の親友ともいえる大観は、常にそれを横で見て真似ていたともいえるほど、春草は常に革新的な試みをしていました。

それに対して観山は、もっとも天心に忠実に日本画のテーマを描き続けており、それゆえに3人のなかでは最も売れる作品を出していました。
自分の考えに忠実であったからか、売れる作品を描いてくれたからか、天心は観山をとてもひいきにしていたようにみえます。

というよりは、技術的に新しい試みを進めていく春草に、評論家の天心がついていけなかったという方が正しいのかもしれません。

これは芸術家と評論家の間でよくおきやすい齟齬のパターンでもある。
音楽や絵画では、それを言葉で説明する習性が強い評論家は、どうしてもそれを作品そのものの構図やエネルギーから読み解くよりも、勝手な文学的意味づけをしてしまう傾向が強い。
芸術への造詣はとても深い天心であったが、この点は残念ながら例外ではありませんでした。

こうした問題に関わらずとも、美術史・芸術史をみるならば、写実へ向かうベクトルと抽象へ向かうベクトルのせめぎ合いが、長い歴史を通じて
あるいは画家個人の内部の葛藤として、絶えずおきてきた経緯があります。
そこに様式というものが、どのように折り合いをつけさせるのか、春草ほど真剣にこの問題と格闘し続けた画家はいないのではないでしょうか。

光琳のような優れた造形美・構成美の伝統の歴史に、洋画が持ち込んだ写実性・立体性がどんどん食いこんでくる時代。
西洋の模倣だけで成り立っていた洋画界にくらべたら、日本画界での春草は遥かに厳しく新しい様式の追及を迫られていた環境がありました。

そうした試行錯誤の繰り返しのなかでも、目の療養を目的とした代々木への転居は、春草にひと際大きな転換をもたらしたといえます。
治療の甲斐あって弱っていた目が徐々に回復しだしたとき、春草には、目に入ってくる木々や葉っぱの一枚一枚をスケッチできること、それ自体が大きな喜びであったことと思われますが、それは同時に自然の姿そのもののもつ美しさに感動し、再発見する喜びにあふれていたことと思います。

日本の絵画や彫刻は、対象を写し取るために凝視してスケッチを重ねることはたしかにありましたが、それらの行為はあくまでも技術を磨くための手段であって、作品に仕上げるときは、先代や師匠の型の模倣が第一でありました。
春草の作品においても、その描画技術は高いものがありながらも、人物の姿、表情などはまったく写実的とはいえない古典の形式そのものです。
にもかかわらず周辺や背景の木々は葉っぱなどの自然描写は、妙に写実的表現であったりします。
しかし、それはあくまでも画題、テーマを演出するために計算しつくして配置したものにすぎず、それらの多くは人物の物語や心の動きを説明する補完物にしかすぎませんでした。


それが、代々木の森で歩き回り出会う木々や草花のスケッチを重ねるうちに、中国の故事や歴史人物のドラマなどに頼らなくても、自然そのものの形状、姿のなかにずっと豊かなドラマ、というよりは生命の輝きそのもののもつ豊かなリズムを感じ取ったようにみえます。
それが「落葉」の構想へ、自然そのものの描写を様式化する試行錯誤へと突き進んでいかせたのではないでしょうか。

それまでの日本画の歴史にある屏風絵などの構図の妙を凝らした自然描写から、やや写実に近づいた自然そのもののもつリズムを描くだけで、同時に人間の高い精神性をも感じさせる様式美を「落葉」で完成させました。




(この「落葉」は、今回展示作品ではありません)

わたしは、それをわたしの大好きなバッハとの共通性を感じるがゆえに、春草こそが美術史の頂点に位置する存在だと思うのです。
時間は逆行しますが、ベートーヴェンの強烈な意志、ブラームスの朗読調のロマン主義、ラベルやドビュッシーの印象派から、ワーグナーの情念まで、それを語るとき、多くは人間の心を主題としたテーマが主導して鑑賞してしまいがちなものです。
しかし、作曲という行為そのものの多くは、そうしたインスピレーションは確かに大事なものえはありますが、楽譜上の法則や鍵盤の法則の規制の上でのたんたんとした作業の積み重ねで成り立っています。
それをどうしても私たちは天心のように、つい文学的意味づけをして鑑賞してしまうのですが、バッハの作品の場合は、そうした主観による決めつけの入り込む余地のないような手法で、多くの作品が成り立っています。
しかし、わたしたちはそれにもかかわらず、バッハのなかにこそ、より普遍的な深い音の人間的感興を覚えます。

とりわけ平均律クラビア曲集や無伴奏バイオリンやチェロのソナタ・パルティータなど、それらは何の音楽かではなくお玉じゃくしの法則そのものなのです。
ショパンの練習曲などもそのたぐいですが、何々を表現したものではなくお玉じゃくしの法則そのものが、いかなる人間描写よりも深い感興をわたしたちにもたらしてくれます。

それは見るものの主観で対象を切り取ったような俳画の自然描写とも違います。

まさにこれこそが、日本画の特徴を最大限に生かしきった様式といえるのではないでしょうか。
ここまで断言して良いものかとも思いますが、今日に至るまで、日本画壇のみならず洋画も含めて日本美術界においては春草ただひとりが、その高みに至っているのではないかと感じます。

(「黒き猫」は今回展示作品ではありません)

これは昭和以降の巨匠と呼ばれる日本画界の人々の絵が、まったく理解できない私の偏った見方かもしれません。

でも、もしも春草が長生きしていたならば、「落葉」に続く作品を、バッハの平均律グラビア曲集や無伴奏チェロ組曲のように、現代の私たちすらも想像つかないような連作として仕上げていたのではないかとさえ思えるのです。


春草の描く「フーガの技法」が目に浮かんできます。









今回観られなかった「黒き猫」などは、来年国立博物館で開かれる細川家の名宝展でみることができる。
楽しみです。
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「皇室の名宝」展での収穫

2009年10月18日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
一昨日、八王子の親戚のところへ挨拶に行くついでに、東京国立博物館の
「皇室の名宝」展に行ってきました。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B01&processId=01&event_id=6890

学生時代からあこがれていた狩野永徳の唐獅子図屏風をやっと見ることができました。

実物の大きさに圧倒されるほどでしたが、細部の筆致は大胆、かつ意外と大雑把であることにも驚きました。
この屏風の大きさは、とても普通の家屋の寸法には収まらない。

何度も何度も図版で見てきた作品ですが、意外と大きいものであると頭にあっただけで、
これほどの大きさとは想像していなかった。

当然のことながら縮小された図版と原寸で見るディテールはまったく違う。

あまり時間をかけた作品とは思えない筆致でしたが、かといってこの大きさを一気に書き上げたような感じではなく、
構成はしっかりと計算しつくしたうえで書かれている。

それは安土城などの戦国の立派な建築物が短時間でつくられるのに似ている。
場数を踏んでいるものだけが成しうるスピードといった感じだろうか。

このスケールの「部分」と「全体」の関係は、圧倒的に「全体」が優先されている。

続いてみた伊藤若沖などの、細部へ細部へ集中していきながらの全体バランスとは対照的。

そうした比較では、これまで巧さばかりが鼻につくかの印象だった応挙の迫力は感動的だった。


隣りの本館まで含めて、日本絵画史を一気に概観することができた。

まったく忘れていたことですが、私は日本美術史が専攻でした。
特定のゼミ以外は、あまり授業に出た記憶がないので、とても人前で日本美術史など語れる立場にはない。

そうした知識がないがゆえの思い込みかもしれませんが、今回安土桃山から近現代までの日本画を一気にみてみると、
明治の岡倉天心門下の横山大観、菱田春草、下村観山の作品が、日本美術史上に特別なクサビを打ち込んだ存在として
その他を寄せ付けない価値をあらためて感じられました。

日本画檀の写実への指向と、全体の構図の伝統、日本独特のテーマ性など、日本画の歴史は、
明治の岡倉天心のときに頂点を極めたのではないかと勝手に思ってしまいました。

明治以後の日本画の主流は、東山魁夷や平山郁夫などに代表される
美しい「全体」が優先されて「細部」が消滅していく時代に入ってしまったような気がします。

その「全体」と「部分・細部」の両極が、鋭い緊張感をもって対立しながら、ひとつのテーマに構成されるのは、
明治期の天心門下にこそ、その頂点を極めたのではないかと。

大観は、やや長生きした分だけ昭和や現代に通じる作風が多く感じられますが、観山の作品を見たときにひと際
菱田春草と同じ時代の鋭い緊張感で精神性を押しだす技法を感じました。

もちろんどれが良いかなどは、ひとそれぞれの好みの問題でしょうが、永徳の唐獅子屏風を最初にみることができたおかげで、
日本美術史の思わぬお宝を再認識することができました。

無性に春草、観山の作品が見たくなった。

春草、観山の作品収蔵の多い目白の「永青文庫」に行こう。
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芭蕉座旗揚げ公演の感想

2009年07月13日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
7月11日(土)、
芭蕉座旗揚げ公演に行ってきました。

行く時、妙に渋滞がひどいと思ったら、なんとその日は前橋の七夕祭りでした。
中心部に近づくにしたがって車が動かなくなり、駐車場手前ですでに長い車列が見えたので、
急きょUターンして少し遠い駐車場に止めて、長い距離を歩いて会場に向かいました。
おかげで多少余裕をみて出たつもりだったのですが、開演ギリギリになってしまいました。

着くと早々に演奏がはじまり、わたしの心の準備は、まだ整っていませんでした。
なにせ芭蕉の「おくのほそ道」の世界を、語りの名手とメゾソプラノにピアノ伴奏といった組み合わせでやるというもの。
企画を知ったときから、大変興味深くも、いったいどんな風にまとめるのやら予想のつかないところがあっただけに、
早い時間に会場入り出来なかったことが悔やまれました。

早々にはじまった演奏の序盤の印象は、古屋和子さんの語りの力がとてもあるので、これは語りは語りだけで、
音楽は音楽だけで聞きたいという思いがしました。

ところがピアノの伴奏が入るにしたがって、その思いは次第に溶けて、作品の世界に徐々に入ることができました。
「その世界」とはいいながらも、曲は三人の作曲家によるものを交互につなげた構成。

どのような意図でこうしたのか真意はわかりませんが、
和の雰囲気、俳句の情景がとても分かりやすく納得できる箕作秋吉さんと清水修さんの曲調と、
いつも初めて聞くにもかかわらず安心してその高度な?(私にはそう聞こえる)構成力を魅せてくれる野澤美香さんの曲が交互に出ることが、
有象無象の耳が立っている会場に、ちょうど良い緊張感をもたらしてくれたように思えます。

何度となく言っていることですが、芭蕉など俳句の和の世界を表現するには、おたまじゃくしの数を極力少なくすることが大事だと思っているのですが、
今回は、総じて音符の数が多すぎるとは思いませんでした。(理想の「少ない」というほどではありませんでしたが)

でも三人の作曲家を並べてくれたおかげで、私には野澤美香さんの力を改めて知ることができたような気もします。
箕作、清水作品は、芭蕉の世界を描くとしたら、当然こうなるだろうと納得させてくれる見事な曲に仕上がっているのに対して
野澤作品は、俳句の世界をきちんとふまえていながらも、音楽を組み立てている面白さのようなものをいつも感じさせてくれるところに特徴があることを再確認できたからです。
伴奏、背景でありながらも、しっかりとした創作の痕をいつも楽しませてくれるのです。
かといって聞いている側は、技巧に走ったものを聞かされているようなイメージは出てこない。
ご当人は、書かされる苦しみのようなことを言っていましたが、実にいい仕事してると思います。

はじめて野澤さんにお会いしたときに、どんな作曲家に影響を受けているのか聞いたような気がしますが、それは、たぶん私の知らない名前を言われたので覚えていないのだと思う。
素人の耳で言わせてもらうと、いつもシェーンベルクやバルトークを聞いた時、現代音楽だからといってそういうのじゃなくてもう少し自然なところがどうして出来ないんだと思ったところが
野澤さんの作品は、いつも出来ているのです。

こうした力のある野澤さんを迎えていることから、この芭蕉座に対する期待は当然高まります。ただの芭蕉ファンによる芭蕉を愛でるだけの企画から、しっかりと」した現代の創作の領域に踏み込んだ企画としての価値が高まるのを感じるからです。

ただ、概ねねらい通りの構成は出来ていたものと思われますが、三者の異質なサウンドがやはり近すぎて、おそらく広いステージで三者の距離が離れていれば、もっと完成度の高いものに感じられたのではないかと思いました。

古屋さんの語りは、十分存在感もあるので舞台袖あたりにいても好さそう。
でも今、振り返ると、古屋さんの語りは、ちょっと上手すぎるのかもしれない。
磨き上げたNHKアナウンサーのような朗読表現に、琵琶の弾き語りの時のようなさびのある味わいが、もう少し欲しかったような気もする。

その点、野澤さんの曲には、ちゃんと味もついていた。

これだけ幅のある作品と、難しそうな山本さんの間を取り持って弾きこなしているピアノの中島章恵さんて、なんてすごい人なんだろう。
きっとピアノだけでなく人間の出来た方なんだろうなと想像がつく。

そして山本掌さんの歌。
これまで意欲的な創作を積み重ねてきて、前回の公演のときもいよいよ山本さんの道とスタイルが確立しだしたのを感じましたが、
今回はちょっと過去の階段を着実に上がってきたような前進が感じられるような雰囲気にはちょっと欠け、
芭蕉座全体の企画プロデュースに徹することで、歌そのものの磨きあげが少し足りなかったようにも聞こえました。

それは私が聞く回数を重ねたことで、こちらの要求が勝手に上がってきてしまったことによるのかもしれませんが、
独特の声を活かすところまで曲を歌いこんでいないような印象をちょっと受けました。
いや、あれは会場の音響のせいで私が勝手にそう感じてしまったのかもしれません。

といっても、今回はとても困難な事情をかかえての企画の断行であったことを思えば、
公演にこぎつけることができたことだけでも良しとするべきかもしれません。

でも、くどいようですが組長!やっぱりピアニシモですよ、鍵は。
極端な場合、ピアニシモを強調するところは、「歌う」ではなく「語る」になってでも、
ピアニシモを活かした表現をしてもらいたいと思うのです。

どうしてもそれが難しいというのならば、いっそ古屋さんに弟子入りして、
語り中心のなかに僅かな歌を挿入するくらいまで路線変更してみてはどうだろうか。
まあこれは外野素人の戯言ですが、
ともかくも旗揚げにこぎつけて、この頼もしいメンバーの力が立証された今回の公演はすばらしかった。
この道でこそ、と腹を決めてる山本さんの思いは十分伝わってくるものがあります。

次回がまた楽しみです。
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またも期待以上!クリント・イーストウッド作品

2009年02月25日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
昨夜、高崎イオンシネマへクリント・イーストウッドの新作
「チェンジリング」を観に行ってきました。

予告編では、いまひとつその作品の魅力が理解できなかったのですが、過去の作品からみてまず期待を裏切ることはないだろうと思って行ったのですが、まさにこれは期待以上でした。

1928年のロサンゼルスで実際にあった事件の話で、ある日、母と息子二人で暮らしていた家庭の子供が突然失踪してしまう。
しばらくして、警察から子供が見つかったとの知らせで対面してみると、それは別人。
それを自分の子供と認めない母親を、警察は精神病院に送ってしまう。
しかし、母親は諦めず、負けずに警察とも闘い息子を探し続ける。

事件は、思わぬところから衝撃的に解決の糸口が開けていくのですが・・・


つい最近、友人と監督としてのクリント・イーストウッドがいかにすばらしいかという話をしてきたばかりでしたが、この作品も
満足!満足!満点の期待以上でした!

脚本、映像、各登場人物の演技、音楽など、どれをとってもすばらしいのですが、事実に対するクリント・イーストウッドの目というものに、ほんと関心させられます。
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