かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

未来の仕事

2024年10月23日 | これからの働き方・生業(なりわい)

国政選挙も終盤になってきました。
いつになったら、失われた30年を取り戻せるような政策が実現されるのでしょうか。
いったい日本の何が変わってきたのか、政策が追いついていないばかりに政治への期待が持てずに、まだまだ無党派層が増え、投票率も上がらないように思えてなりません。

この #未来の仕事 という本、今から30年以上前に出た本なのですが、とても時代の変化を素早く見抜いていた本です。

今の巷にあふれる未来の仕事を語る本の多くは、AIやロボットなどテクノロジーの急速な変化にともない、世の中の産業構造がどう劇的に変わるかといった視点のものが大半です。
それに対して本書は、これまでの「産業社会型資本主義」が終わりはじめていることに注目して、社会構造や人々の働き方、人生観そのものがどう変化しだしているかという点を鋭く指摘しています。

今の政党政治は、それぞれの政党が経団連、医師会、労働組合、宗教団体など、利害団体の代弁者としての性格を色濃く持っています。
そのため、個々の業界利益を優先し、票につながる補助金型予算獲得にばかり終始し、業界間の対立構造がそのまま政党対立の構造になってしまっているので、失われた30年がもたらしている深刻な日本全体の共通課題を最優先にする抜本政策を問うことより、どうしても個別の業界利益を優先してしまいます。
確かに、自分達の業界をなんとかして欲しいという願いは誰もが持つものです。

ところが今の日本国民の多くは、昔と違ってどの業界団体にも所属しない働き方をしている国民の方が圧倒的に多くなりはじめていることに今の政治は対応できていません。
政治家の側は、それをただ組織率の低下、政治的無関心、政治意識の低さとばかり捉えています。

たしかに今の流れて非正規雇用が増えるのは、決して良いことではありませんが、時代の根本的流れを見れば、一つの仕事だけで一生生きていくというこの半世紀に急速に拡大したサラリーマン型雇用というのは、確実に減少の方向に向かいっています。生涯にわたってさまざまな仕事を同時並行に行う「百姓」型働き方、生き方がこれからの時代では多く当たり前ななろうとしているのです。

これは、雇用を守るという原則には反する思考かもしれませんが、人が豊かに働き暮らすという方向を考えれば、決して悪いことではありません。
そうした意味で、従来の産業型資本主義が終わりはじめている世界の流れを踏まえて、本書では「未来の仕事」を語っています。

このような意味で、今の沈没し続ける日本の現状をみると、災害被災地を含めて最優先されるべきは、補助金、交付金の獲得よりも「まず減税」です。
ただ息をしているだけでお金が消えていく暮らしから解放されて、国民がより自由に動ける環境、賃金アップよりも可処分所得の増加こそ第一の指標にする政治を行わなければならないことに気づきます。

もちろん官僚は、自分たちの予算を増やせる政策は積極的でも、自分たちの予算が減る政策は評価されない構造にあるので逆噴射構造は容易には変えられませんが、まさにそこにこそ国民による政治の力が問われるわけです。

アメリカの大統領選など、世界のどこをみても世界の二極化が加速しています。
そんな時代ほど、誰かひとりのリーダーシップによるガラガラポンを期待して、過激なことを言う人に一票を入れたくなる気持ちはよくわかりますが、こんな時代だからこそ結論を急ぐことよりも、きちんと根本がら考えるる方向での地道な努力こそが求めてられているのだと思います。

今この危機に直面して、遠まわりなことなどしている余裕などないとも言われそうですが、今ほど安直な答えや急激な変化を求めることが危険な時代はないと思います。

よって、ただ答えを知ることではなく、自分で考えることを基本としている本屋の未来は明るいのですw

#僕たちは地味な起業で食っていく

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珠洲市にみる急激な人口流出がもらたす課題 ~拡散する人びとをつなぐもの ①~

2024年07月15日 | これからの働き方・生業(なりわい)

2024年5月の連休明けに、2泊3日の日程で能登の被災地へ行くことができました。

ちょうどかねてから珠洲市と深い交流のあったロサンゼルスの友人が、仲間を集める機会をつくってくれたので、そこに合流させてもらうことにしました。

車に宿泊用のキャンプ道具一式と水だけを大量に積み込み、前回は海岸線選んで能登を走ったので、今回はできる限り内陸のルートを選んで珠洲市を目指しました。

すると、七尾市をすぎて能登半島の半ばあたりまでは、それほど酷い災害の現場は見ることなく、どこまでも美しい風景に見惚れながらドライブを楽しむことができました。

その風景は、ちょっと福島県の阿武隈山系の雰囲気に似た高い山のない丘陵地隊の合間に点在する田園風景で、ちょうど田植えのシーズンということもあり、実に穏やかに感じられる農村風景がどこまでも続いていました。

とりわけ感心させられたのは、どんな山奥に迷い込んでも住宅の屋根がほとんど黒瓦で統一されており、それが他所ではまず見ることのできない景観の統一感をなしていることでした。
てっきり私は地域で景観条例でもつくられて守られた姿なのかと思いましたが、地元の人に聞いたら、ここでは瓦と言えば黒いものだと昔から思っているだけで、他の選択肢はないからこうなっているだけなのだと聞きました。

それが、穴水町が近くなるあたりから、のと里山海道、能登自動車道などの高速を利用したこともあり、急に激しく崩れた道路を修復する箇所が次々と現れ、工事車両も慌ただしく走る姿を見るようになりました。
車のナビが古いので思わぬ山道に迷い込んだりしましたが、意外とそうした細い山道よりも山を切り開いてつくられた高速道路の方が激しく崩落したり地割れした場所が多数見られます。

それでも周辺の景色は、どこまでも美しい。
能登半島のこの穏やかな景色の奥行の深さ、これは日本列島の中でもそうあるものではないとつくづく感じました。

それらの印象が一変したのは、珠洲市に入ってからのことです。
珠洲市に到着したのは夕方。その日の宿泊予定の山小屋から晩飯の食材買出しの指令を受け、珠洲市内でスーパーを探して海側の裏道に入った途端に、被災から5ヶ月も経っているのにどうしてこんな姿なのかと驚くような、未だに手付かずの崩壊した家屋が次々と現れました。倒壊した家屋が、道路の半分を塞いだままのところろもあります。

そして、何よりも異様に感じたのは、高速道路では修復の工事車両が多数見られたのに比べると、この市街地の倒壊家屋はどこも、震災・津波のあった1月1日直後の姿とほとんど変わっていない状態があまりに多く見えたのに加えて、工事車両もほとんど見られない妙に静まり返った姿であることです。

この静けさは、一体なんなのだろうか。

東日本大震災後の東北の復興の姿とは、なにかずいぶん違うように思えてなりません。

その理由は、二日目に宿泊したシェアハウスのオーナーさんから聞いて知ることができました。

珠洲市の人口は、ピーク時には3万8千人くらいあったそうですが、今回の震災にあう前の段階で、1万数千人にまで激減していたそうです。
全国どこの自治体でも、人口減少問題は共通のことですが、ここの減少スピードは並のものではありません。

その結果、1万人くらいまで減ってしまった地域に、1万戸ほどの住宅があるのが珠洲市の実態だというのです。

こうした住宅の数に対する世帯数は、5,490世帯

つまり、放置された倒壊家屋の多くは、震災前の時点で住人のいない空き家が圧倒的に多かったということです。

地元の落合聖子さんがまとめた数字(「能登半島地震と原発」『創 2024年7月号』)によると、

珠洲市 現人口 11910(本州で2番目に小さい市)

全壊家屋  5329

大・中規模半壊(事実上の取り壊し)1534

半壊(治せても簡単ではない2281

準半壊・一部損壊(なんとか治せる)6031

世帯数5,490戸に対する被害家屋数の多さが異常です。もちろん、世帯数と家屋数が同じではないにしても、被害家屋数の合計が世帯数を大幅に上回っていることが際立っています。

 

日本中どこにでもあるような人口減少の姿は、この能登で復興がなかなか進まない現実の最も深い要因であると感じました。それと同時に、今の珠洲市や輪島市の姿が、この度の災害はあくまでも弱者を襲ったきっかけであって、そこで起きている現実は、日本中どこにでも起こりうる姿であることを確信しました。

そのような現実下では、上からのどのような復興計画が下りてきても、住民にはなかなか響かないものです。

もちろん、被災直後のインフラ復旧対策は緊急の対応が無条件に求められており、それらがまったく追いついていないことは別問題です。予算措置もボランティアの絶対数不足も早急に解決しなければならないことは言うまでもありません。

 

こうした珠洲市の現実を具体的にしれば知るほど、災害被害とその復興の大きな壁というのが、日本全国で起きている人口流出地方都市共通の課題であることを、まざまざと見せつけられています。

どこでも移住者を募集したり、関係人口を増やす試みがされてますが、人口流出の規模をみると、それだけではとても太刀打ちできない現実が見えてきます。

いま私のいる家の周りでさえも、東西南北5軒あった独居老人の家が、この2年ほどの間にたちまち4軒が空き家になりました。

能登半島地震後の今の姿は、災害被害地の問題だけでなく、どこにでもある地方都市の抱える方問題を浮き彫りにしている事例として、もっとよく知る必要があると感じました。

日本の家族形態の特色と、流出していった人々の都市型分散社会の特色、祭りや信仰の力による関係人口の力をもつ能登の独自性など、サードプレイスをキーワードにを次回に書く予定です。

 

 

 

 

 

 

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遊びをせんとや生まれけむ

2024年06月22日 | これからの働き方・生業(なりわい)

後白河法皇による『梁塵秘抄』で知られる今様の有名な一節

 

「遊びをせんとや生まれけむ」

 

無邪気な子どもの遊びに触発された気分を素朴にあらわした歌かもしれませんが、最近私はこの言葉には、とても深い大切な意味があると感じるようになりました。

 

それは、このところ仕事やボランティアなどの活動で、東へ行っても、南へ行っても、北へ行っても、いい仕事を追求しようと思えば思うほど、それを「仕事」や「作業」としてやっているようではダメだと感じることが多いからです。

「仕事」なのだから、スピードや効率、生産性や採算などをしっかりとふまえなければならない。

「ボランティア」「非営利」なのだから、お金はかけられない、技術が低いのはやむをえない。

などといったもっともらしい理由に、どうも納得できないことが多いのです。

 

相手が「世間」ではなく、自分の時間を使う自分の活動であれば、それが仕事であろうが、ボランティアであろうが、自分が目的を達成するためには必要なだけ、時間やお金などの労力をつぎ込めることこそが幸せの最大条件だと思うからです。

このことにあらためて確信をもつきっかけとなったのが、「遊び」という言葉です。

 

「遊び」には、そもそも「サボる」だとか、「手を抜く」という発想の入り込む余地は、ほとんどありません。

 

ただ、今やっていることに無心に集中している自分や仲間の時間の充足度がすべてです。

やりたいことであれば、お金がないなどという言い訳は考えません。

技術や能力がないなどとは考えず、必要なことは身に着ける努力を惜しまずします。

こうした発想に、

「仕事なんだから」とか

「ボランティア(非営利)なんだから」

といった発言はことごとく反します。

 

もちろん、妻子や従業員を養ったり、親の代から背負った借金を返すため一生懸命に働いている人たちや、思うような仕事にありつけず日々最低限の暮らしを維持するためだけに必死で働いている数多の人びとには、何をバカなことを言ってるのかといわれることもわかります。

先の「遊びをせんとや生まれけむ」の言葉も、しょせん天皇や貴族の余裕のある人たちのことだから呑気に言ってられるのだろうというのもわかります。

それでも、最終的にこの世に人として生まれてきた限りは、どのような幸せを目指しているのかと考えたとき、まじめに仕事や必要な作業をこなすことではなく、「遊び」こそを真剣に追及するべきではないかと思うのです。



私のホームページ「Hoshino Parsons Project」https://www.hosinopro.com/のなかでも、上の写真の本などは、かなり私のテーマの核心をなしています。


  ・デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店

  ・アニー・J・ゼリンスキー『働かないってワクワクしない?』ヴォイス

  ・泉谷閑示『仕事なんか生きがいにするな』幻冬舎新書

 

ただ仕事の能力のない者の言い訳にすぎないのではないかと言われても、否定はできません。

それでも、真剣にに「よい仕事」をしようとするならば、職務や予算の範囲内でとか、納期を守ってこそとかいった当然の責任の範囲内でしかものを考えられない限りは、「よい仕事」でも、自分の人生の満足できる仕事にはなかなか至りえないのではないかと思ってしまいます。

相手を非難する表現として「遊びじゃないんだから」と言われることもありますが、この場合は、責任を果たす真剣さに欠けていることを指すような場合が多いかと思いますが、私は、真剣な遊びの方がレベルは上だと思っています。

「真面目な仕事」や「真面目なボランティア」よりも、熱中する「真剣な遊び」の方が上です。

「遊び」の域に到達しないと、無条件に熱中するものにはなりえていないのではないかと。

もちろん、すべてで「遊び」に徹することなどできることではないかもしれませんが、少なくとも「遊び」の領域を目指すことを、安易に不真面目であるとか、仕事に真剣さが足りないからだなどとは思わず、大真面目に目標として考えていきたいと思います。

ましてや、遊びが一番の仕事であるはずの子どもたちが、塾やスポーツクラブなどでスケジュールびっしりの生活をするなんて、もっての他だと思います。 


人としてただ一度の人生を、この世に生まれたかぎりは、 


  遊びをせんとや生まれけむ




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これまであまり見られなかった頼もしい若い世代が、着実に増えている

2022年04月01日 | これからの働き方・生業(なりわい)
ほんと今の30代半ば以降の若い人たちと話していると、彼らがつくづく心強く見える。
ゆとり世代でハングリーさに欠けるとも言われますが、生まれた時から好景気を知らない彼らは、元から国家や組織をあてにしていない。

それは古い世代には、政治的無関心としか見えないかもしれないし、それも事実かもしれないけど、反面、やたら組織にたより多数派を形成すればなんとか変えられると考える大人たちよりは、ずっと大人の思考が身についているように見えます。
つまり、自分に出来ることをやるしかないという発想で、身の回りを着実に見つめているのです。
もちろん、私の接している彼らが多数派ではないかもしれませんが、明らかに今まではなかった傾向です。

起業、独立の仕方でもその違いが見れます。
我々の時代の独立、開業というと、会社員を辞めて既存の業界のどれかに参加するパターンが主流でした。しかし、今の若い世代には既存の業界で独立、開業するといっても衰退産業ばかりです。
ではなぜ起業するかといえば、既存のものでは満足できない自分の世界観を実現するためです。
改善、改良の努力は、どちらもしていますが、世界観を大切にしている点が昔と違います。

そこには、ひとつの会社に就職しただけでは将来が保証されない環境ゆえの副業当たり前の時代背景も大きく影響しているかと思います。

人との繋がり方が、デジタルネイティブには常時接続が当たり前なので、強いて固定的な既存のギョーカイや組織に頼る意味がないからなのかもしれません。
もちろん、いいねの数をやたら気にしすぎる子も多いですが。

もう一つの背景に、我々の時代は、文章で表現できなければ存在しないに等しいともいえたのが、
検索でヒットしなければ存在しないに等しい時代をへて、さらに今の世代は映像でイメージし表現出来なければ存在しないに等しいといった流れになっている気がします。

映像感覚のほうが、○○さえあれば、ではなく、かなり具体的にすべてのディテールまでこだわる必要が出てきます。

私はそこに、歴史の大事な転換を感じています。
#月夜野タヌキ自治共和国 の世界観の大事な柱、#数をたのまず という志向です。

団塊の世代を筆頭に、多数派を形成して数の力でこそ世界は変えられるとの発想よりも、一人ひとりの在りようのほうが大事とする側で、その在りようの説得力の方が、結果的に数の力に勝ることも多いものです。

これを人が何を「する」かの時代から、ひとがどう「ある」かの時代に歴史の軸足が変わったのだともいいます。

一見それは「保守化」の流れにも見えますが、いまの政治家の保守像とはまったく違う世界です。

今は、理学療法士と話す機会も多いのですが、「動かす力」って何?って問います。
昔、気功の先生に言われた言葉ですが「あんかの頭のてっぺんから、足の爪先まで、誰かに借りてきているものが一つでもあるのか?全権、あなたの意志が握っているものじゃないのか?」ってね。

確かに時に数の力も必要です。
でも、まずは自分ひとりでもやり切る覚悟が、基本です。
多くの人と繋がるのは、その次のこと。

 
動かす力だヤンマーディーゼル〜♪
って、右側のマー坊は涙浮かべてる。
 
未来は明るい!
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「独学」 自立・独立のための学び

2020年06月07日 | これからの働き方・生業(なりわい)

facebookでまわってきた  #ブックカバーチャレンジ の6日目より転載

ロングセラーの『エリック・ホッファー自伝』ですが、独学の価値を紹介する本として選びました。

独学といえば、南方熊楠を筆頭に、武満徹やさかなクンなど、たくさん紹介したいところですが、熊楠は大好きですが、あまりにも超人すぎること、武満徹は音楽の世界に限定されるかの誤解をされそうな点で、さかなくんにするか、エリック・ホッファーにするかで迷いました。

「迷うくらいなら両方とも」というのが日ごろ言っていることなので、いずれさかなクンについてはまた書く機会があるかと思います。

「独学」というと、得てして「公教育」からはみ出した領域の勉強のことかの印象もありますが、本来は「独学」こそが、学びの基本です。そして本来は、公教育においてさえ「独学」をベースに組み立てられるべきです。

エリック・ホッファーは、読書の時間を確保するために、その生涯のほとんどを港湾労働者など季節労働者として働きながら、完全独学で大学レベルの物理学、数学、植物学などをマスターしました。

やがて哲学者としても評価されCBCの対談番組で全米各地に知られるほどにもなりましたが、それでも港湾労働者の立場は変えませんでした。

そもそも学校に行っている間だけが「学び」の期間などと思ってしますこと事態がとんでもない勘違いで、世の中に出てからこそがホンモノの学びの始まりです。
また、この世と世界の奥深さから考えれば、余暇の時間だけ一生懸命学ぶなどというのではなく、一生涯を学びに費やすことすら、決しておかしいことではないはずです。エリク・ホッファーの生き方は、誰でも自分固有の価値を追求しようと思うならば、持ちうるすべての時間を使ってそれに没頭すべきだという励みを私たちに与えてくれます。

『魂の錬金術』というタイトルにも覗われるように、一貫した独学で身につけたものならではの、ほとばしるかのような言葉が、心に響きます。

その生い立ちから、ずっと数奇な運命のなかで生きた姿は、数々ある自伝のなかでも、読書や独学を真剣に考える人にとっては必読の1冊です。

         *************************

と、当初はこのような紹介で終らせるつもりでしたが、どうもこれでは「独学」の大切な何かが語られていないような気がしていました。

「独学」というのは、通常教育からはみ出した領域にあるものではなく、人が生きていくために学ぶという前提に立つならば、あらゆる教育機関によってなされる学びよりも、むしろ「独学」こそが基本的姿であるはずだからです。

たしかに幅広い知識や教養を身につけていくために、独学や読書が大きな役割を果たすことに異論はないのですが、もっとも大切なことはそこではないと思っています。

これまでのなんらかの業種や職種に参加して食べていくためだけの「学び」であれば、従来型の「学び」とそれに付随した「知識」「教養」でも十分であったかもしれません。しかし、これからの時代は、既存の業種や職種に参加、所属するだけではなんの保障にもなりません。大切なのは、そこに参加・所属する個人として、その人ならではの固有の能力をいかに発揮していくかということです。

それには、学歴があれば、資格があれば、良い会社に所属すれば、といったことでは保障されない独自の能力を、その都度、必要なときに絶えず学び身につけていくことこそが不可欠であるからです。

つまり、それはルーチン的資質を身につける「学習」の範疇の「独学」ではなく、生きている限り絶えず直面するその時々の課題に立ち向かう「学び」でなければならないという意味です。

そこには、同時に「自立」という課題も絶えずつきまとってきます。

どれほど習熟した「独学」や「学び」で得た資質があっても、自分の立脚する立場が学校や会社に依存するだけの立場であっては、たとえ大学教授のようなスペシャリストであっても、給料をもらう弱い立場をである限り、必ずしも自立した研究者となる保障は得られません。
いかなる仕事の場合でも、どこからお金をもらっているかがその人の立場をつくるからです。

そんな視点で振り返ると、わたしのもっとも影響を受けている哲学者の内山節さんは、生涯にわたって大学という立場にほとんど依存することなく独自の立場での研究を貫き、そのことによってまた内山さん固有の視点というものを磨き続け得たのではと感じます。内山節さんは、必ずしも自らの研究姿勢について多くは語ってはいませんが、これはただ内山さんの特殊な研究スタイルということではなく、とても大事なことであると感じます。

もちろん、すべての人がそうでなければならないということではありませんが、「学ぶ」ということの原点を深く考えれば考えるほどこのことは大事なことのように思えてきます。

今回のコロナ騒動でも、多くの人が見せつけられたことと思いますが、会社経営や、個人の生き方、地域のあり方でもまったく同じで、ひとつのものだけに依存、または所属してしまうと、一時的な安定は得られたように思えても長いスパンでみれば意外と脆いものであることがわかります。

むしろ自立とは、依存先を増やすことです。

それには未知の領域、未経験の世界について学ぶことが不可欠です。

目の前に次々と起こる課題に直面した時に、過去の経験や知識にとらわれることなく乗り越えて生きていくためには、必然的に幅広い知識や教養を身に着けることだけが第一の目的ではないということにも気づきます。

新しい現実に直面したその時こそ、「学び続ける」ことが、何よりも不可欠なことであるからです。

「生きる」ことと「学ぶ」ことは、そもそも同義語なのです。

 

 

 

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最高の贈り物「自由な時間」の使い方を知らない日本人

2020年04月30日 | これからの働き方・生業(なりわい)

「することがないから、宿題をもっと増やして欲しい」!?


こんなことを言っている子どもの方が多いのだと、店のパートさんの子が嘆いていた。
頼むから、そんなこと言わないで欲しいと。


ところが、大人の社会も同じ。
パチンコ店に人が殺到していたり、
休業対照にならない本屋で、時間潰しの本ばかりが売れていたり・・・

 


自由に使える時間という最高の贈り物を活かすことを教わってない日本の悲劇!


子どもに宿題を出すなんていう発想は、早くこの地球上からは絶滅させるべきです。


「生きていく」=「自分て学ぶ」ことという原則は、まず大人から始めなきゃ!

 

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「一抜けた」の成功論、幸福論が支持されない時代

2019年08月09日 | これからの働き方・生業(なりわい)

日本経済は、1995年頃をピークにして以降、長い停滞・下降期に入っています。

それは、ただ停滞・下降、デフレ期を続けているというだけでなく、それまでの「一億総中流」ともいわれた分厚い中間層が没落して、人口のボリュームゾーンは、ギリギリの中で生きている低所得層が中心の社会になってしまいました。

このような時代に、「平均」を示した統計データの多くは、私たちの実感にはそぐわないものです。

下図にみられるように、富士山型の中央が平均値にはならないからです。


上図のみなかみ町の部分は私の加筆です。

 

そうした時代では、高齢者に限らず若者までが、這い上がるチャンスを掴もうとして努力している間に、ちょっとした予定外の出費(事故や病気、失業など)がかさむと、再び立ち上がれないような致命的ダメージを受け、瞬く間に貧困層に没落してしまいます。

そればかりか、明日への希望、生きていくのぞみそのものを失ってしまいます。

 

東日本大震災のような災害時など、多くの被災者は家を失った人でさえ支援金・義援金含めても600万円くらいの支援しか受けられていません。

このような実態で「復興」などという言葉がどこから出てくるのでしょうか。

また、こんなときに、どうして東京オリンピック開催などと騒いでいられるのでしょうか。

 

  

 

 

 

 

このような時代では、もはや個人で努力した 「一抜けた」の成功論は支持されません。

 

経済に端を発した暮らしの破壊は、社会全体、さらには地球環境レベルで限界に達してしまっているので、右肩上がりの時代のように、多くの人がその「成功モデルに続け」といった期待は持てません。

むしろ生き残りのサバイバル環境にある人の方が多い時代になってしまっています。

圧倒的多数の人びとにとって、暮らしの底上げこそが必死の課題になっているのです。

 

子どもや孫たちの世代にツケを押し付けずに、明日への希望の持てる社会をいかにして取り戻していくかという、極めて政治的課題の解決に立ち向かわなければなりません。

 

というと、すぐに「消費増税やむなし」の理屈に思われがちですが、ここまできた日本が、そのような方法で幸せになれるはずがありません。

そればかりか、そのような思考こそが国民の貧困を加速させてきました。

 

 

 

 

こうした問題は、明らかに財源がないからとか、国の財政危機を解決しなければならないということではありません。

問題の核心は、GDP3位の「世界一の金持ち国家である日本で起きている異常事態」のことです。

 

外貨獲得が至上目的であった敗戦直後の日本と違って、バブル崩壊以後の日本は、ずっと供給に需要が追いつかない時代です。

そんな時代に国民が一生懸命働けば働くほど、貿易黒字が無意味に溜まり、そのドル建てのお金はただ「塩ずけ」にさせられるばかりです。

 

さらに使い道といったら、アメリカ国債を買うとか、高額なポンコツ兵器を買わされるとか、余剰農産物を買わされるとか、詐欺まがいの金融品を買わされるばかりで、いくらお金を稼いでも日本国内の富の蓄積に回されることはありません。

 

 

日本については財務省、その他についてはIMF資料より

 

このような世界一の金持ち大国であることが、アメリカから止まることなく圧力を受け、むしり取られ続ける根本原因になっています。

もはや貿易黒字を増やすことは、日本にとってなんのメリットもありません。

 日本人が一生懸命働けば働くほど、その富は国民の富としてではなく、アメリカにむしり取られるお金として、あるいはアメリカに貢ぐお金として使われるばかりに見えます。

この349兆円分は、日本人がタダ働きをしているも同然なのです。

 

低賃金、長時間労働でそこまでして稼いでいながら、暮らしの貧困は加速するばかり。

国際社会からは、そんな働き方で国際競争で勝とうなんていい加減にしろよと言われてます。

(このあたりの詳しい事情は、大西つねきさんの動画の数々をぜひご参照ください) 

 

だからこそ、今わたしたち日本人が抱えている課題は、右肩上がりの時代に言われていたような「一抜けた」の個別の成功法則ではなく、すべての人々が幸せになれるような社会を目指す、政治目標や課題の実践であり、 限界にきているこの国や地球の生存を守るために、子どもや孫たちの世代に受け継げる環境づくりが最優先になっているのです。

これは、まさにSDGs(だれ一人取り残さない持続可能な開発目標)が掲げている理念です。

 

先の参議院選挙で、女性装の東大教授である安富歩が、ただストレートに「子どもたちのために」を最優先課題にあげていました。

必ずしもその活動から説明十分とは思えませんでしたが、トータルな判断からすれば極めて正しいことだと思います。

もはや自分の事業の延命だけを考えればよい時代ではありません。

残念ながら、自分のことだけ考えていたのでは根本解決にならないのです。

 

確かに、それぞれの事業や暮らしは、世の中全体が変わるまで待ってはいられない切迫した事情がどこにもあります。それは私もまったく同じです。

「一抜けた」の論理ではなく、あんなやり方もあるのか、こんなやり方もあるのかと一人ひとりが、自分にあったこと、自分にしかできないことを見つけていかなくてはならないことにかわりはありません。

 

ですが、仕事でも日常でも同じですが、本来は大事なことこそ先にしなければならないものです。

つい誰もが、目の前のことばかりに追われて「忙しい」を口実にしてその大事なことを後回しにしてしまいます。

 

フィンランドの『人生観の知識』という高校教育の授業では、次のようなことが基本に据えられています。

「市民に知識を得る能力や動機、可能性がない場合、民主主義は単なる選挙権の行使に終わってしまう。養育と教育が、批判的に考える市民を育てることを可能にする。

 国家が組織的なプロパガンダを行う全体主義的な国では、国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない」

     岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』新潮新書

 

何事も小さなことを積み重ねていくことは大事ですが、一般会計100兆円だけの議論ではなく、塩漬け状態同然の対外純資産、349兆円のあり方や、国会審議の対象にならないばかりか、国会議員が要求しても明細が明かされない特別会計400兆円(重複会計を除いても200兆円規模)などをタブー視せず真正面から議論することなしには、もはや「国家経営」を考えることはできません。

MMT(現代貨幣理論)の登場などにより、ようやくお金の根本的な仕組みを含めた議論ができるようにはなってきましたが、いまの政治環境のままでは仮にMMTが受け入れられたとしても、国民の暮らしのためにならないお金がさらにジャブジャブ使われるばかりになってしまうのがおちです。

政局論ではない、もっと根本的な政治経済論議抜きに、これからの国民の幸せはありえないのではないでしょうか。

わたし個人が理想に思い描いているのは、お金をかけずに人がより自由になんでもできる社会なので、より多く稼いでより多く使うことを目標にしている多くの人たちには相手にされないかもしれませんが、今の日本のままでは出口が見出せないだろうということでは一致していると思います。

そもそも「お金」とは何なのかといった根本から、国家経営のあり方や人々の日常の幸せ像について、「民主主義が単なる選挙権の行使」に終わってしまわないためにも、ただ怒りに任せることなく新しい常識の渦を巻き起こしていきたいものですね。

 

 
·
 
怒るな 憤れ
 
怒りは 憎しみに変わるが
 
憤りは 義憤へと変じていく
 
 
怒りは常に 矛先が他者に向けられるが
 
憤りは常に わが胸のうちを顧みさせる
 
 
怒りに 身をまかせてはならない
 
愚かな為政者たちは しばしば 民衆の怒りを利用してきた
 
 
怒るな 憤れ
 
怒って 内なる 愛の火を
 
打ち消してはならない
 
 
             若松英輔 Twitterより
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「手間ひまをかける」の「ひま」の意味

2019年02月14日 | これからの働き方・生業(なりわい)

車のなかで妻にふと「手間ひまかける」の「ひま」ってなに?と聞いた。

つまり、「手間をかける」は普通にわかるけど、「ひまをかける」ってことはどういうことなのか突然理解できなくなってしまったからです。

すると、妻はあっさり、

「ひま」ってのは「時間」のことでしょ、という。

ああ、そうか。

わたしは納得して、話はそれで終わってしまった。

ところが、しばらくして私の最初の疑問は、そういうことではなかったような気が漠然と湧いてきました。

手間ひまかけるのひまが時間だとしても、手間とは違うものをかけることの意味が言葉には表現されているはずで、そこに何か引っかかるものを感じていました。

そもそも、妻に手間ひまかけるのひまってなんだと聞いた最初の動機は、今の世の中、手間ひまかけることがいかに大事かということの話と、それが大事たと思う自分は「手間」より「ひま」の部分ばかり十分にかけているよなと、冗談話にもっていきたかったのだということを思い出しました。

それが、あっさり妻に結論を出されてしまったので、当初の冗談話に持っていくことを逸してしまったわけですが、その冗談話の真意や背景も、「ひま」が「時間」であってはちょっと違うのではないかという気がしてならないのです。

そこでもう少し考えてみると、現代の「手間ひまかける」の「ひま」が「時間」だとしても、それが単純に「手間」の繰り返しや量を増やすことだけが「時間」の実態になっていることが問題として見えてきます。

ただ手間数を多くすることではなく、手間のないただの時間も大事な中身ではないかと。

私がそんなことを意識するもう一つの背景になる出会いが最近ありました。

地元で、農業を産業化しない百姓の真髄を極めている田村貞重さんの言葉です。

最近、親しくさせていただいている田村さんといろいろな農業談義を聞いていた時に、田村さんが「今の人は、待つということができないんですよ」といいました。

育ちが遅い、病気にかかる、甘みが足りないなどのちょっとした症状が出ると、今の人は、すぐに肥料を足したり、薬を与えたりしてしまう。

どうしてそのような症状が出ているのかを考えず、その後どのように発育するのかを注意深く見守ることもしない。

待てないんですよ。

畑の作物の話をしているのですが、そのまま子育て論を聞いているような錯覚に陥ってしまいます。

もう一度、

「今のひとは、待つということができないんですよ」

これがただ手数を増やすことだけが「手間ひまをかける」ことではないことであると感じた理由です。

これは、ただ「待つ」ということでもありません。

大事なのは、今ある状態が一目見ただけでは、どうしてそうなるのか簡単にはわかるものではないということです。一つの結果は、様々な要因が絡み合っていたり、目に見えないものが影響していたり、時間をかければ自然に解決する問題であったり、即断困難な背景が溢れています。

だからこそ、見守る、調べるなどの手間が必要になってくるわけです。

農業や教育・子育てに限らず会社経営・経済においても、すぐに結果が出るようなこと自体が怪しいのです。右肩上がりの時代であればベースが伸びていたので、ちょっとした努力をすればすぐに結果が出たような気がしますが、右肩上がりの時代かどうかにかかわりなく真の結果を求めるのであれば、5年10年は見守るようなことは必然であることと思います。

スピードそのものに価値がある現代では、真の原因や背景を探ることなく、結論を下してしまうことがあまりにも多いのです。

確かにスピードは大事で、何事も手間ひまをかければ良いというものではありませんが、少しはただ手数を増やすだけではない「手間ひま」をかけることを、もう少し心がけていきたいものです。

 

 

以上、サボるのが忙しくて、なかなか仕事をしている暇のない私の長〜い言い訳でした(笑)

 

 

 

たまたま目にした記事

日本薬剤師会会長が決意の告白「患者よ、クスリを捨てなさい」

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税の集め方、使い方の逆行した日本の公務員システム みなかみ町の例

2019年01月02日 | これからの働き方・生業(なりわい)

以下に書くことは、日頃お世話になっている町役場の皆さんを対象にしたことなので、とても言い難いことなのですが、地域がどうあるべきかを考えるうえで外すことのできない根幹の問題なので、あえて書かせていただきます。

 

まず、次の総務省発表のデータがあります。 

 

   この全国180位の分母は、1,741の市町村です。
  ちなみに最下位1,741位は長野県下條村で平均年収は386万円。

 

 

他方、みなかみ町の住民所得は、以下のグラフ推移に見られるように、なんと約240万円台です。

 

所得では240万円程度ということになりますが、これは給与などの所得収入がある人の平均値ということです。

これは1741の地方自治体の中では、1486位。(2017年総務省調査) 
 

ちなみに群馬県のサラリーマンの平均は

    平均年収:396万円  男性平均:426万円  女性平均:323万円
 

 全国レベルでは、次のようになります。

 

 

これに対して、地域のもう一つの実態を見るために、所得収入のない子供や病人なども含めた総人口で割ると、住民1人あたりの個人所得は次の表に見られるように、なんと96.6万円(2016年度)になります。
これには、収入のない人々とともに、先の公務員のような656万円平均の人たちも含まれています。

県内35市町村のうちでは30番目で、群馬県平均より31.2%少ないとのこと。

 

 

群馬県の最低レベルに位置する100万円に満たない所得の住民が、県下1位、平均656万円の公務員所得を支えているのです。

これは全国レベルのデータでも明らかです。

 

 

もちろんこうしたデータは、その数字の背景もよく精査しないと、必ずしも公平な比較にはならない場合があります。所得の平均値は地域の年齢平均の違いによっても大きく変わり、実際にみなかみ町職員の平均年齢が比較的高いという現実もあります。それでも順位の比較は、どちらかというとドングリの背比べのレベルで、あまり細かく意識しても所詮、目くそ鼻くそを笑う程度の差にしか過ぎない場合も多いので、あくまでも全体の傾向がどうなのかを見るべきです。

そうした誤差を加味したとしても、このギャップは大きすぎます。

平均650万円の公務員と個人所得平均100万円未満から240万円以下の住民の関係で、3倍ほどの開きがあるわけですから。 

 

常識では理解しがたい現実ですが、公務員給与の場合は、決して勝手気ままに給与水準が決められているわけではありません。ただ理由はともあれ、同時に一度上がった水準を下げることも確かに容易なことではありません。

 

でも、世の中の常識はまったく違います。

働くものの権利や福祉を守ることは大事ですが、そんな名目の法律があっても民間企業では、売り上げが下がり経営が苦しくなれば容赦なく賃下げはおろかリストラが断行され、どんなベテラン社員であろいうが、ある日突然荒野に放り出されています。

運良くリストラを免れたとしても、ある日突然会社が倒産してなくなってしまうなどということも珍しくありません。個人事業者であれば、莫大な借金を抱え込むことも避けられません。

 

公務員の場合、なぜこのような民間企業の実態とかけ離れた身分保障がされ続けているのでしょうか。

確かに今民間企業で行なわれているような有無を言わせないリストラが良いことであるとはいえません。そのようなことがない労働環境を公務員の世界では守られるべきという正論も確かにあります。

しかし、その公務員の給与を支えている納税者の所得水準を見たならば、この異常な乖離は、どんな理由をもって妥当性があると言えるのでしょうか。 

 

そうなってしまう理由のまず第一は、日本の公務員給与を決めているのが、同じ公務員で構成される人事院によって指針が決められていることです。

第二には、その人事院が比較材料としている民間の給与水準というのが、一部上場企業の給与水準になっていることがあります。(上場企業の管理職に比べたら低い水準になっているといいます)

バブル崩壊後民間給与は下がり続けており,官民の実際の比較では2倍近くの開きが出ていることを指摘する声があります。(人事院が出す民間準拠原則の結果自体がそもそも民間の実情に合致していません
しかも退職金を一般公務員でも1人3000万円程も貰っていることなどから,民間に比べて甘すぎる事例は枚挙にいとまがありません。

 

ここまで言われても、冷え込む消費の拡大のためには、いまや賃金アップが不可欠であり、その旗をふる立場の公務員こそさらに給与は上げていかなければならないと言った意見が常識のようにまかりとおっています。

事実、多くの公務員からすれば、先の人事院と自治労のフィルターを経ている限り、現状になんら疑問も感じていないことも多いのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

ここでみなかみ町の議論をあまり一般化したくはないのですが、国際比較で見た場合の日本の公務員の特徴を見てみたいと思います。

下の図は「公務員の地位の国際比較」ですが、縦軸に民間企業の平均所得を1.0とした場合の多い少ないを表し、横軸に就業者全体に対する公務員の比率を比較しています。

 日本が突出して、民間よりも給与水準が高いこと、それを就業者全体から比較したら、もっとも少ない人数で担っていることがわかります。 

 

では、先進国の公務員給与水準を比較してみると

 アメリカ 357万円

 イギリス 275万円

 フランス 198万円

 ドイツ  194万円

 カナダ  238万円

 イタリア 217万円

 オーストラリア 360万円

 日本   724万円

 

別の資料では以下のような比較もあります

  

 

この国際比較で際立った違いとなるのは、公務員数の問題です。公務員大国であるフランスと比べた場合顕著になるのですが、日本では総人口に対する公務員の数がとても少ない人数に成っています。その分、仕事が忙しくハイレベルの仕事をこなしているから給与が高くなる?他方、他の先進国では、日本より多くの公務員を使って住民サービスが行きわたるようにする考えです。

それと、何よりも納税者である住民の意識が高いので、公務員=パブリックサーバントとして、まず住民に対する奉仕者としての機能を強く要求され、また公務員自身がそうした意識であるからこそ、民間より給与が高いことはありえないと受け入れている面があると思われます。

しばしばこのデフレ期に、公務員の給与削減など経済を後退させるばかりだとの論調も聞きますが、大事なのは、公務員支給総額の減少や定数の削減ではありません。

 日本の場合、公務員支出を減らせということよりも、その配分内訳を高収入公務員の比率を大幅に下げ、その分、採用する公務員の数を増やすということです。

現在でも、同じ自治体で働く職員の間で、正規の公務員の非正規の職員との格差、あるいは関連外郭団体職員との格差の問題はよく指摘されています。
資格や昇給のシステム云々よりも、まず公共の活動に奉仕する同じ仲間としての待遇をもっと大切にするべきではないかと思います。 

そして公務員の数は、公共サービスの質を上げるためには、むしろ増やすべきです。

さらに点数中心の学力重視ではなく、各分野の専門家を柔軟に採用でき、個々の事業、プロジェクトに応じた採用体制をとることが優先されるべきかと思います。

 

 

 

 

 これらの問題は、国民の感覚としては多くの人たちでも共有されることだと思うのですが、現実にどのような場所でこれが問われているかというと、大半は、公務員労働者を代弁する自治労とのやり取りが中心になっています。公務員として働くものの立場、権利を守る主体としての自治労の役割が重要であることに異論はありませんが、これももう少し踏み込んで考えれば、これはちょっと違うのではないかという現実があります。

公務員給与を払っている一番の主体は、人事院でも政府でもなく、何よりも納税者たる国民であり、さらにはそれぞれの地方自治体の住民であるからです。

この住民の声が届くルートがない、行使されていないことこそが一番の問題なのだと思います。

 

 

そこで問題となるのは、行政の第一の監視機関でありまた、国民の代弁者であるはずの議員ということになりますが、そこに立ち入るとまた長くなるので、これらの背景にある次のような点のみ指摘させていただきます。

① 国や行政システムには、民間企業では不可欠である「よりお金を使わないこと」こそが利益の源であるという思考が一切はたらかず、「より多く予算を使うこと」「より多く予算を配分すること」こそが評価される仕組みが依然として続いている。
 (適正な支出であるかどうか、不正がないかどうかのチェックシステム=正当性の根拠はあります) 

② 本来、国民=納税者の代弁者であるはずの議員も、納税者全体の代弁者であることよりは、それぞれ票の源である有権者=国民の代弁者でなければならない立場から、それぞれ利害当事者のためにはより多く予算を勝ち取ってくることこそが評価につながるので、議員も「より予算を使わない」ことが評価される動機がない。

③ 住民のまちづくりの活動に関わっていて痛感しているのですが、同様に住民自身の側も、自分たちの立場の利害実現ということを考えると、より多くの予算を自分たちの側に持ってきてこそ目的が達成されるので、自分達のお金なんだから有効に使うというよりは、自分たちの方に回って来さえすれば満足となりがちです。

 

ここで大事なのは、必ずしも「節約」やケチることの意義を強調しているのではありません。

この先でもっと重要になってくるのは、よりお金を使わないことというのは、お金の問題だけではなく、その先には必ず、より知恵を働かせる必要が生まれ、より高付加価値なサービスや商品を生み出す思考に至れるかどうかということなのです。(念のため、それは学校の成績が良いかどうかは、ほとんど関係ありません)

それが予算の問題だけになってしまうと、民間企業では常識である「企画」や「計画」は立派であるはずなのにその先に起きる予想した「成果」が十分でない、あるいは思うような「売り上げ」が伴わない現実を、次にどう乗り越えるかということが意識されずに終わってしまうのです。これこそが「仕事」の内実を考えた時の最大の問題です。

この一番の原因は、「そこにオーナー(この場合は納税者)がいない」からということです。
住民は利益享受者であると同時に国や行政の最大のオーナーでもあるわけです。

(当初は、このことをメインに書きたかったのですが、それはまた次の機会とさせていただきます。) 

 

このような意味で、私は何か課題がある時に、それは「議員を通して是非」とか、「関係する筋を通して」とか、まず「多数派をつくってからもの言え」とか言われることがありますが、何の組織も権限もない一住民が発する言葉こそ、代議制異様に大切にされなければ民主主義の基礎であると思い、この場に書かせていただきました。
(もちろん、私も利用できるものであれば議員でも関係するその筋でも利用はしていますが、黒澤映画の『生きる』で、窓口をたらいまわしにされていた主婦の意見を、最後は一職員役の志村喬がなした姿こそが、本来の「公共」の姿であると信じてます。) 

 

さらに付け加えさせていただけば、私の立場は、このようなことを書いているからといって、住民の所得を今の公務員並みにもっとあげる施策をとるべきだとは考えていません。もちろん、住民の所得がより上がるようなことを否定するものではありませんが、優先すべきは、人口減少社会、デジタル技術の普及する時代を考えれば、たとえみなかみ町の今の平均所得240万円以下であったとしても、豊かに暮らせるような暮らしの固定支出の比率を下げる施策の方を優先すべきであると考えています。

多くの人にとって生涯所得をどんなに上げても、支出の圧倒的部分が、教育・医療・住宅・車・老後福祉で占められています。それ以外の娯楽・趣味などの支出分野は、相当なマニアにでもならない限り先の項目に比べたらたかが知れています。まさにこの分野の支出を公共の力で下げていくことこそが、豊かな地域を作るためには大事であると思っています。
生活費が下がることでこそ、より多くの人が創造的な活動により多くチャレンジし、たとえ失敗しても再起できるような、面白いこと、楽しいことがたくさん生まれる地域が実現できるのだと考えます。 

 

 

願わくば、税の集め方、使い方こそが、地域や国のあり方を決めていくのだと、従来の「横並び思考」から脱却して本来のあるべき姿を公務員の皆さんにも考えていただけたらと思い、あえて書かせていただきました。

 

 

 

 

 

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⑥ 点と点がつながり線になっても、安易に「面」にはしない

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⑨ 生涯をかけて学ばなければならない「お金」の使い方・活かし方  (準備中)

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#みなかみ町 #公務員給与 #住民所得 #公務員国際比較 #人事院問題 #自治労問題

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「雇用」より大切な「仕事」観

2018年12月28日 | これからの働き方・生業(なりわい)

地域の人たちと話をしていると、地域のどこに明るい未来があるんだ、雇用がないんだから若い人が増えるわけがない、といったようなことをしばしば耳にします。

いつも、「それは違う」と思っているのですが、単純に反論してなんとかなることではないので、その場では黙ってやり過ごすことが多いものです。

でも活字の上では、もう少しなんとか整理しておきたいと思いました。

 

まず、理屈の上での話ですが、

私は仕事や雇用に関しては、いつも次のような原則をイメージしています。

 

1000万円レベルの仕事の下には、100万円単位の様々な仕事が10個あります。

500万円レベルの仕事の下には、50万円単位の様々な仕事が10個あります。

100万円レベルの仕事の下には、10万円単位の様々な仕事が10個あります。

5万円レベルの仕事の下には、5千円単位の様々な仕事が10個あります。

1万円レベルの仕事の下には、千円単位の様々な仕事が10個あります。
 

もちろん、実際にはそう単純ではありませんが、このように捉えることができるのも間違いないと思います。
地域に仕事がないという問題を「雇用」の問題だけで捉えてしまうと、大事な仕事の内容や実態を見損ない、仕事を「参加権」や「所属権」の問題でしか捉えられなくなってしまいます。

確かに現代社会の多くの仕事は、賃労働型であるという意味で、その業種への「参加権」や「所属権」を勝ち得てこそ成り立つような仕事が多いことに間違いはありませんが、現状の仕事を改善することだけではなく、ゼロからはじめて千円の売り上げや利益を生み出すにはどうしたら良いかを考え、それがどれだけ難しいかということは、「所属」型、「参加」型の仕事に浸かっているとなかなか見えてこなくなってしまうものです。

このような意味で、年収300万、500万の仕事が得られるかどうか、起業する場合でも、年収500万、1000万のビジネスが立ち上げられるかどうかにこだわりすぎると、本当の持続可能な仕事の姿から遠ざかってしまうように思えてなりません。

ただ、悲しいかな厳しい雇用の現実は、非正規労働の増加とともに、望まずしてこうした数万から10万円程度の仕事の組み合わせで働かざるをえない労働形態を多く作ってしまいました。それも、従来の働き方を見直す良い機会になったと言えなくはありませんが、現実はとてもそんな風に褒められたものではありません。 

実態が、先の参加型・所属型の労働スタイルが分解されただけのことで、仕事を構成する小さな稼ぐ力がたくさん芽生えたわけではないからです。

 

多くの地方自治体では、大きな企業誘致に成功すれば、自治体の税収が大幅に改善されるだけでなく、まさに雇用も相当増えるかもしれませんが、ひと昔とは異なり大きな企業ほど、時代が変わっても長くその地に生き続けることは難しい時代になってきています。
大企業への依存度が高まるほど、「ある日突然」という事態に地方自治体が襲われる例は少なくありません。 

 

ですが、念のため書き足しておきますが、この逆の思考パターンも即効性だけを考えれば確かに否定はできません。
むしろ、売上を数パーセント伸ばす努力よりも、売上を2倍、3倍にするには、と考えた方が、今の延長上の思考から脱却するので、逆に容易い場合も少なくありません。
さらに、同類の低い売り上げ仲間同士の間で競い合うよりも、桁違いに事業規模の大きいところを相手に営業をかけた方が、たやすく売り上げを伸ばす確率が高いのも事実だと思います。 

 

大事なことは、1万円でも千円でも百円の仕事でもよいから、自らが稼げるネタを持てるかどうか、そのような能力や資産づくりを常日頃考えているかどうかということです。

こうした思考の欠落したまま、ただ「マジメに働く」「より多く働く」労働観が、国際水準から大きく遅れてしまった日本国民一人当たりの生産性の低さにつながっている気がします。

まさに、仕事=雇用と考えてしまうところに、ここ半世紀で浸透してしまった「賃労働偏重」の悲しい労働実態があります。

 

 

そしてこの話の先には、さらに大事なことがあります。

本来の「仕事」とは、「雇用」で語られるものよりも、自分の目の前の現実、目の前で起きている課題にこそほんとうの「仕事」は存在しているのだということです。

多くの人が、どんな仕事なら稼げるか、食っていけるか、安定した暮らしができるかを考えるのは当然ですが、会社の仕事を一生懸命、マジメに働いている人であっても、日常の目の前に起きた問題に直ちに対応することなく、それは自分の担当ではない、自分の専門ではないといって、避けてしまうことをよく見かけます。

以前「それはありません」のひと言にすべてがある に似たようなことを書いたことがあります。

 

一生懸命勉強して良い学校に進んで、資格を取って、良い会社に就職していながら、大きな組織の分業社会で働くようになると、「それは自分の専門ではない」「それは担当ではない」と思ってしまうことが、どうして多くなってしまうのでしょうか。

まさに「専門性」こそが、より高付加価値な仕事をなす条件であると。

微妙な違いかもしれませんが、現実には「専門性」を極める仕事ほど、その専門性を発揮するために「必要なことはすべてやる」という姿勢が徹底されているものです。

また現代社会は「競争社会」であるとはいいながらも、競争に勝っている組織ほど、その内部では勝つためのより多くの「協力関係」によって支えられているものです。

そこには、一貫してそれまでの経験の枠内では解決できない問題に対して、絶えず学び、調べ、試してみるというチャレンジがともなうものです。これは共通の目標に進んでいる「仲間」の間でこそなせるワザです。

そこにつながりが見えない組織間になってしまうと、「専門ではない」「担当ではない」「自分にはできない」といった言葉で、そのチャンスを排除してしまいます。

そのような例は、やはり所属・参加型の仕事をしている人ほど顕著になる傾向があるようにも思えます。

この姿勢の差が、付加価値生産力の大きな差につながっていきます。

課題に直面した個人であれば、本来逃げることができない課題が、組織が大きくなるにしたがって、解決主体が曖昧になってしまう傾向がありますが、その意味で有機的に動いている組織ほど、組織そのものが「大きな個人」として生きているとも言えるかもしれません。

かつて国民の8割近くが、農業を中心として個人商店や様々な分野の職人などの自営業者であった時代には、それぞれの事業主が自分でその時々に直面した課題に対して、程度の差こそあれ、当たり前のように自らが解決していく世の中でした。

能力があろうがなかろうが、常に自分が食っていくために必要なことは自分ですることが当たり前の当事者であたからです。

同じ構造が、今でも主婦にはあると思います。
今晩の料理をどうするか、冷蔵庫にある材料で何をつくるか、スーパーで何を買ってくるか、子どもが急に熱を出したらどうするか、反抗期にどう対処していくか・・・・等々。
無条件に自分ただひとりが、その場で解決していかなければならない課題ばかりなので、能力や資格があろうがなかろうが、その瞬間に極めてクリエイティブに自分で答えを出していかなければならないのです。

これが本来、仕事でもまったく同じはずなのに、こと会社や組織の「仕事」となると、スルーできるかのことばかりたくさん出てきてしまいます。

 

かつて、地域経済復活の切り札として「地域通貨」が流行ったことがありました。

特定の地域内でのみ通用するお金で、普通のお金のように利子がつかないため、長く持っていても得しないお金として、、より早く動く通貨として期待されましたが、なかなか普及はしませんでした。
これが普及しなかった原因は、地域通貨の意味そのものが伝わらなかったことや、地域商品券との違いがあまり理解されなかったことなどもありますが、一番の理由は、地域内で「私があなたに対して何がしてあげられるか」「あなたは私に何をしてくれるのか」といった関係の構築が不十分であったことではないかと私は思っています。

だからこそ「人材ネットワーク」のようなものを作ったというかもしれませんが、通常の経済ではその人材や能力、持っている商品やサービスを使うにはどうしたら良いか、それぞれが必死に広告・宣伝、売り込み・営業をやってやっと関係を作っているのに対して、ただ安い労働力として地域ネットワークに登録さえされればいいと安易に考えていた傾向もありました。

「仕事」や「地域経済」を担うもっとも大切なことを、まだよく理解できていなかったように思えます。

 「仕事」としてみたときにもっと大事なのは、他人から何か頼まれたときや、何か新たな問題に直面したときに、それが自分の専門でなかったり、担当ではなかったり、これまでの経験ではやったことがないことであったりしたときにこそ、能力を開発することです。

 調べ、学び、協力を得られる人を探しだすことを前提に考えれば、「それは自分の専門ではありません」といった言葉が出る前に、自分にできることを探さなければならないことに気づかなければなりません。

 

  

誰もが食べていくために背に腹は変えられないと、納得のいかないことであってもこなしていかなければならないのが「仕事」であると考えがちですが、こうした「仕事」の成り立つところの原点をもう一度考えてみれば、自分の目の前に現れた課題をそれまでの経験や能力に関わりなく解決していくことこそが基本であることに気づけるのではないでしょうか。

 

これからの時代の経済発展を、従来型労働の労働量や労働密度を上げることなく、創造的付加価値を増していくには、こうした脱所属・参加型の労働観を取り戻していくことが不可欠であるとわたしは思います。

そうした課題解決型の仕事は、まさに身の回りの地域にこそたくさん眠っているからです。

より多く稼ぐことをなんら否定するものではありませんが、ただ「より多く」「より大きく」だけを求めてマジメに働き続けると、気づかないうちに私たちの子や孫、子孫らのよって立つところのよすがを食いつぶしていってしまいます。

それは、先祖から代々受け継いできた家や土地を、子供達が「タダでも欲しくない」という社会にあらわれてきています。

これさえあれば食っていける、という構造よりも、足元の小さな稼ぎもとを一つ一つ発掘していく力の方が、一見、楽ではないかもしれませんが、子どもたちへ残せるものは、少なくとも失わずに生きていける道になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

仕事や働き方に関連するこのブログ内の記事

①  「千回の法則」の 要点メモ 持続する仕事(2/3) 

② 経済活動よりも生命活動に「信」をおく社会

③ 「秀才」を育てる時代が終わり、誰もが「天才」の時代へ

④ 生産の基礎単位としての「家族」 再録メモ

⑤ 寝るほど楽があらばこそ、浮世のバカは起きて働く

⑥ 税の集め方・使い方が逆行した日本の公務員システム みなかみ町の場合

⑦ 地域を支える様ざまな労働スタイル

⑧ オレの仕事は、俺一代

⑨ 企画・イベントよりも、まず競争力のある商品とサービス

⑩ 異常な人口爆発の時代が終わり、適正サイズに向かう日本

   

  点と点がつながり線になっても、安易に「面」にはしない

  生涯をかけて学ばなければならない「お金」の使い方・活かし方  (準備中)  

 

 

 

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ホントのようなウソ「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切」

2018年05月08日 | これからの働き方・生業(なりわい)

よくいわれる「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という表現。

仕事においても、子育てや教育においても、国際援助のあり方においても、とても大事なことであるかに思えますが、少し前から私自身、自分の仕事を進めるほどにこの表現に含まれる矛盾を感じていました。

これがまるきりウソと言いきってしまっては誤解を生むことになりかねないのですが、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」とのみ思い込んでしまうことの危険性はまぎれもなく存在するので、ここに書かせていただきます。

それが、以下の伊勢崎賢治さんの『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書)を読んでから、確信を持っていえるようになりました。

 それは、次の表現です。

 

こうして見ると、NGOって、かなりあくどい中間業者のように見えます。僕が見る限り、被援助者というのは権利意識も何も持ちえないくらい知能的に劣った人たちだ、というイメージを暗に作りたがるようです。

 その典型的な例が、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という言い方です。端的に言えば、発展途上国は援助依存体質が染みついてしまっているから、自立させねばならんという考えですね。

 勘違いもはなはだしいんですが、途上国の人々は、我々よりはるかによく魚のとり方を知っています。自分たちで自宅を建設したり修繕したり、コミュニティで共同して集会所なんかも自前で建設する。僕たちNGOに言われなくたてです。

 

 現実に大概の「魚のとり方」を教えられるようなかたちになってしまった原因は、多くの途上国援助が、先に植民地支配などの歴史を通じてその国が何百年、何千年とつちかってきた在来の生産・生活体系を破壊され、生活基盤の多くを外国から購入させられる仕組みになってしまったからです。

 魚のとり方を教えると言っていながら実際は、教え続けるいいお客さんであり続けることこそが、先進国の一番の利益であるわけです。

 

 この構造は、私のこれまでの仕事でも痛感させられていました。

 それは二つのことで感じていました。

  ひとつは、本を売るという仕事で、もうひとつは、同業者やホテルなどの業界のサポートの仕事をするようになってからのことです。

 これはまた別の長い話になってしまうので、今日はここまでにしますが、教えることこそ本業の教育の世界においてこそ、この原則は貫かれるべき問題です。

 

 切り込み口は、斜めから入っていますが伊勢崎賢治さんの活動は、これからどんどん注目されていくことと思います。

 

 

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オレの仕事は俺一代

2016年07月18日 | これからの働き方・生業(なりわい)

先日、近所の古書店Y書房さんに久々にお邪魔して、ご主人と本のことや働き方のことなど、たっぷりお話しすることができました。

そのときの盛り上がった話題のひとつが、これまで時代を築いてきた地域の郷土史家が相次いで亡くなると、どこの家でもその貴重な蔵書の処分に困っている例が最近とても多いという話でした。 

本来であれば、このときまず第一に考えるのは、図書館への寄贈です。第二に、古書店への売却、そして第三に、同業者など同じ分野の人への譲渡などが考えられますが、このところこのどれもが、なかなかスムーズにはおこないえない傾向にあります。

第一の図書館への寄贈ですが、残念ながら多くの公共図書館が単純には寄贈図書を歓迎しない傾向があります。タダで寄贈されるものであっても、その登録・管理の手間を考えると、本来はそんなことが理由になるはずもない価値あるものであっても、必ずしも喜んでは受け入れてもらえないのです。

公共図書館が、地域固有の情報センターとしての役割を発揮する方向に、行政機構のなかの位置づけができていない例が現状ではとても多いのです。

第二の古書店への売却ですが、これも同様に古書店もその土地固有の古書を力を入れて扱える店が激減してきています。残念ながら、チリ紙交換同様の処分しか出来ない場合が多くなっているのです。

ローカルな情報は、その土地を離れてしまうと、どんなに価値あるものでも結局市場価値はなくなってしまうからです。

第三の場合は、私的贈与や売却の問題になるのですが、ある郷土史家は、個人的に譲り受けてしまうと、あとで遺族との間で問題が発生することがあるので、絶対に受けないようにしていると言っていました。その理由は、邪魔になっているときは無料でも引き取ってもらいたいものですが、あとになって価値がわかったりしたものが出ると、遺族との間で大きなトラブルに発展してしまうことがあるからです。

ここでこれらの個々の問題に深入りはしませんが、いづれにしても価値ある個人蔵書をその本人以外が価値を認めて引き継ぐことは、極めて多くの困難がともなうということです。

この厳しい現実をよくみると、これは特殊な蔵書家に限った問題ではなくて、元をたどると本という情報のもつ性格そのものが、情報の価値としては本来、公共性の高い資産であるはずなのですが、現実の価値となると結局はその本の所有者個人の固有の文脈でこそ価値があるもので、その所有者の視点を離れても普遍的価値をもつ情報などというものは、そうあるものではないということです。

いや、すぐれた本であれば決してそんなことはないとも言われそうですが、つきつめるとこれは、蔵書というまとまりでなく1冊の本の価値で考えた場合にもこれは言えると思います。

 

かつて私は、職場でこの本は必要だから会社のお金で買って共有してはどうかと、何度か予算をもらって必要図書を購入したことがありました。

ところが、その後の実態は、その本の価値がわかる人は、たいてい自分の金で買う、あるいは自分で選ぶ。また、価値のわからないひとは、無料であっても読まない。

だからこそ、そこを橋渡しする媒介者の仕事が確かに大事なのですが、上記の基本は変わりません。

 

ここで気づいたのです。

 

機会を増やすために、より多くの蔵書をもち、また図書館などで共有できる環境づくりは不可欠で重要であることに異論はありませんが、より重要で力を入れなければならないのは、与えられる環境を使いこなし使い倒すような個人の側の問題意識や課題に対する個人の情熱のようなものこそ大事に育てられないと、どんなに豊な環境が与えられてもそこに生命が吹き込まれることはないとうことです。

その生命の本質を見ればみるほど、それは「公共」的価値よりも、まず「パーソナル」なものでなければならないということです。

かつての工業化社会を突き進む大量生産、大量消費の時代では、このパーソナルな価値は邪魔もの扱いにされることの方が圧倒的に多く、より均質なものでのレベルアップこそが求められていました。

でも、そうした時代はもう過去のものになりだしています。

総じて効率の悪い職人的仕事は、時代の流れについていけない過去のものとして見捨てられるのが常ですが、いま、ほんとうの価値の実現が問われる時代になりはじめると、製品の品質を高めることは不可欠ですが、その先にさらにパーソナルな体験や価値が積み重ならないと、ほんとうの価値実現には至り得ないことがみえてきたのです。

この意味で、さきの個人蔵書の処分という問題も、蔵書のもつ普遍的価値を保持するための図書館への寄贈や市場への売却、あるいは特定個人への譲渡も可能であれば必要と認めながらも、本筋では他人へは容易に伝え難いそのひと固有の文脈をともなってこそ、その本(蔵書)の価値は貫徹することができるのではないかということです。

ここから私は、

かつてはアウトサイダーであることの表明にしか聞こえなかった「オレの仕事は俺一代」という言葉が、アウトサイダー側の言葉ではなく、人の仕事を貫徹するならば、むしろ普遍的に求められる言葉なのではないかと思うようになりました。

一代限りで終わるような仕事は、成功者とはいえないようなイメージもありますが、ほんとうにそうでしょうか。

考えてみれば、よく商売は3代もつことは少ない、3代目がつぶすなどと言われますが、これは商売に限らずどんな分野でも共通していえることです。

3代以上にわたって安定した継続をはたせている例は、ごく一部の老舗企業や名家以外では、そもそも徳川家と天皇家くらいのものといっても過言ではないほど、例は少なく現実にはマレなことです。

だからこそ、安易な継承に期待することよりも、そもそも良い仕事や生き方をすればするほど、その仕事はそのひと一代であるべきだとはじめから覚悟すべきなのではないでしょうか。

2代目、3代目がつぶす以前に、創業者の破綻や失敗の数は富士山の裾野の広がりどころか、圧倒的な量の屍を累々と積み重ねているものです。

また、仮に末永く事業を継承することを考えた場合でも、それぞれの環境や時流にあった活動をその時代を生きる者として一代限りの覚悟と努力をすることこそが重要なのではないかと思うのです。

もはや時代は、一代限りの仕事や生き方を追求するほうが、付加価値も増し、結果的に事業継承だけに依存しない生命の継続がはかれる社会になりはじめているのだと私は思います。

 

自分の蔵書のゆくえ、自分の仕事の遠い将来のゆくえを考えると、なんとも儚い想いにもかられますが、先に「オレの仕事はオレ一代」と腹をくくると、自信ををもって自らの人生をより深く掘り下げていける気がします。

 

 

上記写真『俺の仕事は俺一代』は、藤原集落で暮す人々の生きざまをまとめた素晴らしい本で、私のお気に入りの1冊(絶版)ですが、このような視点で振りかえってみると、あらためてこれからの時代にも通用する評価ができる大事な本にみえてきました。

 

 

 

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「仕事」の罠

2014年09月26日 | これからの働き方・生業(なりわい)

 

 

 糖分、脂肪分、塩分、この三つが食品市場を拡大するオールマイティカード。
「人々は品物を見て、『糖分が多すぎる』とか『塩分が多すぎる』とか言うだろう。だが、それが消費者の求めるものなのだ。われわれが彼らの頭に銃を突きつけて食べさせているわけではない。糖分や塩分を減らせば、売行きが落ちる。そして競合企業がわれわれの市場を奪う。罠にはまったような状態なんだ。」

 これは、コンビニエンスな食品業界だけの話ではなくて、すべてのビジネスに言える。

 決してメーカーが銃を突きつけて「これを買え」と言ってるわけではない。
 その銃は今や消費者自身が自ら持って、自分の頭に突きつけているようなものだ。

 ほとんどの企業は、それを悪意を持ってやっているわけではない。

 これを買うかどうか、使うかどうかはすべて自分の意思だ。でもそれを買う、使うということは、確実に自分の命を縮め、暮らしを破壊し、地域を崩壊させる。
 文化の砦を称する出版業界ですら、これは例外ではないと思います。

「欲しがれ!」という経営者の叫び。
 それが、雇用をうみ、生活を守っている。

 それが間違いだとは簡単には言えない。

 でも生き延びるためには必要なこと、避けられないことと言っている「仕事」の論理の多くが確実に「生命」を破壊している。

 これは容易な闘いではないので、誰もがこの道へ踏み込むことを薦めることは出来ませんが、それは自分で自分自身の頭に銃を突きつけているのだということは、どうか知っておいて欲しい。気づいて欲しい。

 

 まだ読み終えていませんが、そんなことを考えさせてくれる本です。

 

フードトラップ 食品に仕掛けられた至福の罠

マイケル モス
日経BP社
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市民=消費者じゃない、市民=生産者であること、つまり・・・

2012年12月24日 | これからの働き方・生業(なりわい)
 
市民=消費者ではない。

まず、市民=生産者(創造主体)であること。


他人の作ったものを「買う豊かさ」ではなく、

自分たちがあらゆるものを「創りだせる豊かさ」

そんな時代が始まっている。


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    つまり、こういうこと。


    ニーナの演奏のなかでも特に好きな曲のひとつですが、このバージョンじゃなかったような気がする。
    youtubeでみつからないけど、これでも十分伝わるでしょう。

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経済成長がなければ幸せになれないのか

2012年09月26日 | これからの働き方・生業(なりわい)

タイトル表現の期待を裏切らない、すばらしい本でした。

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