かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

人やモノの文脈を断ち切る「お金」 (贈与 その5)

2022年04月18日 | 無償の労働、贈与とお金

以前このblogに、永六輔がラジオ番組で紹介した息子から母親への請求書とそれに答えた母親から息子に出された請求書の話を紹介しました。

後にこの話は、小学校3年生の道徳の教科書にも載っている有名な話であると知りました。

話の概要をあらためて記すと、

息子のだいすけが世の中のことが次第にわかりはじめると、母親のお手伝いを何かするたびに「せいきゅうしょ」を出すようになりました。

    おかあさんへのせいきゅうしょ

 ・ おつかい       100円

 ・ おそうじ       100円

 ・そろばんのけいこに行ったごほうび  200円     

        合計    400円

それをもらったお母さんは、一度は笑ってその額を支払うのですが、これが続くようになり、お母さんは困りはててしまいました。そしてとうとうお母さんは息子への請求書を出すことにしました。

   だいすけへのせいきゅうしょ

 ・ おまえが生まれたときにあげたお母さんのオッパイ  0円

 ・ おまえが育つあいだ買ってあげた服やくつ         0円

 ・ おまえがずっと食べてきた食事           0円

       合計                 0円

といったようなあらすじなのですが、道徳の教科書では、残念ながらオッパイの請求の表現は削除されてるばかりか、要約の仕方も説教臭くなってしまっています。

 

この話は、贈与論にかかわる大事な話でもあるので、いろいろな機会に引用させてもらっていますが、最近、このパターンとは真逆の事例があることを知りました。

それは、『シートン動物記』で知られる博物学者アーネスト・トンプソン・シートンが父親からの請求書をもらった話です。

シートンの父親は厳格なクリスチャンであったようですが、そのあまりの厳格さのためか親子の仲はとても悪かったようです。
それがなにかのはずみだったのかもしれませんが、父親はシートンに対してそれまでかかった養育費全部の請求書を送りつけたというのです。

まさに先の母子とは真逆の事例です。

そしてその先が、さらに凄くて大事な話になるのですが、なんとシートンはこの父親からの請求書を全額支払ったというのです。

つまり、シートンはその請求額を全額支払うことで、親子の貸し借りはすべて清算したということになり、大嫌いな父親との縁を絶ち切ることができたのです。

よく「金の切れ目は縁の切れ目」といいますが、それが親子関係であっても成り立つのかと驚かされる強烈なはなしです。

 

ところがこの話、お金の本質を語るうえでもとても大事なことが表されています。

金銭的な取引の関係というのは、その金銭の取引が終わった時点で相手との関係はすべて清算されるという本質です。

だいすけくんとお母さんの請求書のやり取り、シートンの父親とのやり取りは、親子で請求する関係が逆転しているものの、親子関係をお金の関係(請求書)で精算できるのか、それ以外の関係として継続させるのかという意味で、まったく同じ問題になっています。

わたしたちが日常、お金での売買が便利であるのは、その商品を買ってに支払いを済ませた時点で、お店や店員との面倒な関係は一切なくなることの便利さをかなり重視しているものです。

購入が終わっても買ってもらったことの義理や恩を残さなくてすむというのは、とても便利なことで、それこそがお金の取引が他の取引とは違う重要な部分であることを示しています。

それが、まだお金の取引が浸透していないような昔の田舎暮らしなどでは、商品を渡す側も、受け取る側も、常に人間関係の恩や義理が介在し続ける関係、よく言えば「暖かい」人間関係、悪く言えば「面倒くさい」人間関係が持続していました。

また日本ではあまりない習慣ですが、はじめから定価はあってないようなもので、値段交渉することが始めから折り込まれている商習慣は、お金のもつ冷たい取り引きに人間の暖かさと取り残すために必要なものとして定着しているのかもしれません。

 

 

人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、

まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。

            デヴィッド・グレーバー『負債論』以文社

 

つまり、こうしたお金そのもののもっている便利な性質が社会に浸透するにしたがって、人間関係の「文脈」が失われていくことは当然のことなわけです。

またお金の取引の世界では、この持続性をもてないがために、相手との取引関係を継続するため営業・宣伝活動に大変な手間をかけることがどうしても宿命となります。

さらに地域社会では、お金の関係で失われた「文脈」を、別の方法で取り戻す努力を独自にする必要に迫られるわけです。行政が補助金中心の支援に陥ると、「金の切れ目が縁の切れ目」に陥る危険が、使い方の定義いかんにかかわらずつきまとうことになります。

私たちは、お金をただ交換の手段としてのみ分析する経済学から、こうした社会学的な意味を不可分のものとして考えなければなりません。それを見落とすと、ベーシックインカムであろうが、地域通貨であろうが、何を大切にしなければならないのかを見誤ることになります。

世の中が便利になること自体は、否定されるものではありませんが、お金の便利さ一辺倒に傾く現実は、ひたすら人間社会から「文脈」を喪失させ、より高コストの社会をつくってしまうことにしかなりません。

誰もが感覚ではおかしいと思っている現実に対して、本来のあるべき姿をこれから百年くらいのスパンでどう取り戻していくのか、しっかりと考えていきたいものです。

 

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負債の網  お金の闘争史・そしてお金の呪縛から自由になるために

2020年10月03日 | 無償の労働、贈与とお金

世の中には、現行のドルや円以外にも、様々なお金の仕組みがあります。

本書は、人類史上でお金が生まれた経緯というよりも、近代社会で政府発行通過誕生の経緯、金融支配がどのように仕組まれてきたのかを、世界中の事例を紹介しながら、見事に解き明かしてくれています。

ここ数十年の間に、世界各地で起こる国家や企業の財政破綻は、借金が第一の理由ではありません。
負債の多くは、一時的な現象にしか過ぎません。

米ドル一極支配がどのように生まれてきたのか。

旧ユーゴスラビア、アルゼンチンなどが、どのように財政破綻に陥ったのか。

また私たちが知らない間に、巨額の負債を抱えていた国家が、どのように復活を遂げているのか。

自国通貨発行の意味、中央銀行の独立性を保つことの重要性など、国際通貨基金が公然と介入して貶めている実態を知ることができます。

 

大英帝国と新世界秩序帝国との間には目を見張るような類似点が見られる。主な違いは、英国王室はねらいの達成のために暴力を使ったのに対し、新世界秩序のエリートは金融テロリズムを基調といたという店である。また、大英帝国は、他国を植民地化し、天然資源を奪い、英国実業家たちの工場までそれを船で運ぶことによって建国されてきた。「赤コート兵」侵略の後で、地域文化はぼろぼろにされ、「より進んだ」英国式の生き方に取って代わられた。
 対して、ウォール街が支配する新世界秩序帝国は、他国を海外融資や投資で植民地化することによって建国されている。魚をしっかり釣り針にかけた後、新世界秩序の金融テロリストたちは栓を抜き被害者は何の前触れもなくいきなり乾いたところに宙吊りにされ助けを乞う。そこで登場するのが国際通貨基金である。かれらの救済レシピである民営化や貿易自由化を含む緊縮改革は、標的国の天然資源やその他の資源の強奪に相当し、これは新世界秩序のエリートたちの手にわたる。それは大英帝国がより粗野な方法で実現させたのと同じ結果である。
 (ボブ・ジョルジュビッチ『クロニクルズ』寄稿記事 エレン・ブラウン『負債の網』より孫引き) 

 

これまで破綻したどこの国家よりも多い、世界でダントツの1,000兆円にものぼる負債大国であるアメリカが、なぜ破綻せずにいられるのか。
 
かたや未だ対外純資産では世界一の金持ち大国である日本が、何故かくも没落し続けるのか。
 

大西つねき 講演資料より
 


金利を伴うお金で貸し付けをし、ある時急に引き締めを行い破綻させ、値崩れした資産を根こそぎ掻っさらう仕組みは、決してお金そのものの普遍法則ではありません。

世界に溢れている失業者、露頭に放り出されるホームレス、経営に失敗して自殺にまで追い込まれる経営者などは、必ずしも彼らの責任によるものではありません。

本来、経済活動を活発にするために機能するはずのお金が、実体経済の活性化よりも、ただお金を増やすことこそが第一の目的の時代になってしまいました。

「金余り」と言われるほどの時代であっても、より多くのお金を増やすことこそが未だに至上目的なのです。

2019年3月に出た本ですが、本来、世界中がコロナ過に見舞われている今こそ、お金があるべき役割を果たせば平和をもたらすことができるのだと教えてくれる1冊です。

上下二段で500ページにも及ぶ内容ですが、経済に関する本は巷に溢れていながら、これほど実践的で現実的な勉強になる本は初めてかもしれません。したがって、読むのにもとても時間がかります。
決して哲学や経済学書のような難解さがあるわけではありません。ここの説得力ある具体例に驚かされながら、それを飲み込み了解するのに時間がかかるという意味です。

1章1章が、1節1節が、あまりにも濃い本なので、twitterでひとつひとつの切り口を分けて紹介して行けたらと思います。

 


エレン・H・ブラウン著
『負債の網  お金の闘争史・そしてお金の呪縛から自由になるために』
那須里山舎  本体4800円+税

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どんな文明社会に暮らそうが、「野生」の真っ只中で今も生きていることに変わりはない。

2018年07月27日 | 無償の労働、贈与とお金
 
もうひとつの「不滅の共和国」  「野生」の側にある本と本屋の本分
・・・と言うわけで、同業者間の半年ほど前の話の続きです。なんのことかって?自分でもよくわかりませんが(笑) 「独立系書店の独立宣言」http://blog.goo.ne.jp/......
 

 

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寝るほど楽があらばこそ、浮世の馬鹿は起きて働く

2017年10月21日 | 無償の労働、贈与とお金

「稼ぐに追いつく貧乏はなし」

と云ふけれど、

 

 

 

寝るほど楽があらばこそ、

       浮世の馬鹿は起きて働く

 

 

これは決して皮肉ではなく、また世捨て人の戯言でもありません。

大真面目なはなしです。

 

世の政治家は、景気対策や雇用対策こそ大事というけれど、もう一度、働くことの意味、何のために働くのかを考えてほしい。

本物の贅沢は、知恵と時間こそを使い、お金はかからない。



ところが残念ながら多くの人は、それを「面倒くさい」という。

あるいはまた、買った方が安い、という。

 

 

と、当初はここまでの記事でしたが、タイトルのせいか妙にアクセスの多いページになってしまったので、もう少し補足することにします。

この「浮世の馬鹿は起きて働く」という皮肉表現の裏に私は、二つの意味を感じています。(あくまでも揶揄、皮肉表現としての話しですので悪しからず)

 

ひとつは、そもそも「働く」ということ自体が、人間の生涯生命活動の総時間から見ればほんの7%にも満たない時間であるにもかかわらず、どうしてひとは「働く」ことに生活のすべてがかくも従属させられてしまっているのか、ということです。

政府の言う働き方改革などというのは、そもそもどこを向いて議論しているのか、という話しです。

このことは
「経済活動よりも生命活動に信をおく社会」
 に書きました。

「稼ぐ」時間以外の「食う」時間、「寝る」時間、暮らしの諸々を「繕う」時間そのものが、「働く」ことを補完するための時間ではなく、それら自体が生命本来の創造的な核心部分の時間であるはずです。 

 

もうひとつは、「働く」ということの実態に関わることで、後段の

「本物の贅沢は、知恵と時間こそを使い、お金はかからない。

ところが残念ながら多くの人は、それを「面倒くさい」という。

あるいはまた、買った方が安い、という。」

部分に込められた意味です。

 

本来の「働く」という行為そのものは、子供を産み育てることに次いで人間の最も創造的な営みであるにもかかわらず、多くの「仕事」が、現金を稼ぐためであり

「やりたくもない仕事でありながら、それを失うことを恐れ、それにしがみついている」
    仕事は楽しいかね 

という矛盾を抱えているからです。

まるで労働報酬が「苦労」の対価であるかのごとく。

 

確かに「寝るほど楽」とまではいえないかもしれませんが、本来、創造性を発揮するべき仕事に対して、ただ組織(会社や業界)を守るためであったり、

自分のポジションを守るためであったり、 暮らしを維持するためだけの収入にしがみつくためであったり・・・・

それらをよしとしている人は少ないかもしれませんが、そこから抜け出るための一番肝心な「努力」や「思考」は、「面倒臭い」というのです。

未だに、教えられたことをそのまま学び、それをきちんとこなせる人間が高い評価を受けるような日本社会は、どんどん国際社会からは取り残されていく時代です。

こうした労働時間こそが、甚だ失礼ながら浮世の馬鹿が起きて働いている姿とつい感じてしまうのです。

 

こんなことを言うといろいろなツッコミも予想されますが、生命活動から切り離された経済活動に偏った現代社会文明がいかに進歩しても大自然からの圧倒的な贈与を前提にして成り立っている人間社会であることなどのことを前提に考えれば、必ずしも極論ともいえないこととは思えないでしょうか。

 

 

こうしたことを語るときによく引き合いに出す忘れられない話しをもうひとつ。

むかし永六輔があるラジオ番組で紹介したことで、正確な記憶ではありませんが、
およそ以下のようなことです。

 

ある母親の子どもが、もの心がつきだし世の中のことがわかってきたからなのか、 
毎日、母親の手伝いをするたびに、 
請求書を送りつけてくるようになった。 


    せいきゅうしょ。 

げんかんのそうじ、100円 

しょくじのあとかたづけのてつだい、100円 

朝のゴミだし、100円 

スーパーへのおつかい、300円 




これが、毎日のように続くようになってきた。 

そこで、母親はある日、その子どもに 
母親から「請求書」をあらたに送りつけることにした。 

 



    せいきゅう書。 

お前が生まれたときにあげた母さんのオッパイ、0円(タダ)。
 

お前がそだつあいだずっとあげているまいにちの食事、0円(タダ)。 

お前をがっこうにやるための服やげっしゃ、0円(タダ)。 

これから生きている限り、お前にそそぎつづける母さんの愛情、0円(タダ)。」 

 

 

これは単なる母親の愛情や教育の仕方の問題に限ったことではありません。

世の中は、こうした親から子への贈与の連鎖が、ずっと長い歴史を通じて行われてきたわけです。

それは経済活動とは違うというかもしれませんが、こうした贈与の連鎖でこそ、人類の長い歴史は経済活動も含めて成り立ってきたのではないかと私は思うのです。

 

 

 

本来は「働く」ということほど尊いものはありません。

でも、現代の賃労働が当たり前かのようになってしまったこの半世紀の労働形態が、
長い人類の歴史からみればいかにに特殊な姿であるかということはもう少し考えてみたいものです。

 

 遊びをせんとや生まれけむ

  戯れせんとや生まれ生まれけん

 遊ぶ子どもの声きけば

 わが身さへこそゆるがるれ

          『梁塵秘抄』 

 

 

生命そのものが遊びであり、戯れなのです。

GDP(お金のかかった総量)でしか人間の活動を見れない社会というのは、人類の歴史で見れば、ほんの半世紀ほどの間に普及した特殊な考え方です。

 

大自然の厳しさもあるのは事実ですが、

花のあいだを飛び渡る蝶、

木のうえで毎日楽しげにさえずる小鳥、

彼らのように、日々、自然生命は生きていけるのです。


そして、

仕事も、遊ぶように戯れるように働いてこそ、創造性も生産性も高まるものだと思います。

念のため、ここでいう遊びとは、現代の消費に支えられた遊びではありません。 

 

 

こうした世界観のもう少し客観的裏付けについては、まだ整理仕切れていませんが、

   「経済活動よりも生命活動に信をおく社会」 ご参照ください。

 

かくして、ものぐさ太郎である私は、

言いわけに忙しく、

仕事をしているヒマなどないのです(笑)

 

 

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ガムシャラ貧乏より、お気楽貧乏がつくる幸せ社会

2017年09月21日 | 無償の労働、贈与とお金

政策として、国民の所得が上がることは確かに大事なことです。

でも現実に多くの人々が幸せになるうえで大事なのは、すぐに所得が増えなくても、
今、この瞬間、瞬間、多くの人々が幸せを感じられるかどうかです。

何故ならば、いつの時代でも世界の圧倒的部分の人たち、9割以上は常に貧乏であるからです。

そのためには、ただひたすらガムシャラに働くことで得られる幸せよりも、
今ある条件のなかで幸せを感じられること、お気楽に生きていける暮らしの方が、
はるかに大事であると思います。

 

この意味で、わたし達が本来目指す社会は、よりお金のかからない社会です。

より多く消費することで得られる幸せよりも、

自らがより多く創造する側に立てる社会ということです。

 

それは固定費が低い暮らしの実現であると同時に、モノに依存しない暮らしのことです。

現代人の生涯支出のうち生存のために最低限必要な食費を除いたならば圧倒的部分は、教育、医療、住宅、車などによって占められています。

右肩下がりの成熟社会では、この部分を圧縮することの方が所得を上げることよりも、はるかに豊かさを保証することにつながります。

そもそも子どもの幸せのためと言いながら、お金を稼ぐために今いる子どもと一緒に食事をする時間や遊ぶ時間までを犠牲にして何になるのでしょうか。

そんな社会の手がかりを永崎裕麻著『世界でいちばん幸せな国フィジーの世界でいちばん非常識な幸福論』(いろは出版)は教えてくれます

 
 
最低限のお金がなくて、どうやって幸せになれるんだ。
 
健康不安や人間関係の悩みをかかえて、どうして幸せになれるんだ。
 
誰もがそう思うでしょうが、
 
ハイ。それでもカンタンに幸せになれます。
 
よ〜く考えると、本当に大切なことにお金はかからないものです。
 
 
 
関連ページ
 「貧乏神が神様であることの意味」
 
 「経済活動より生命活動に信をおく社会へ」
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貧乏神がそれでも神様であることの意味

2017年06月05日 | 無償の労働、贈与とお金

日々真剣に豊かな社会を目指して努力をされている人たちからはひんしゅくを受けるかもしれませんが、私は常々人が貧乏であることは必ずしも悪いことではないと思っています。

なにせ太古の昔から人類の圧倒的多数は、常に貧乏であったからです。

なぜか多くの人はえてして貧乏を自慢(自虐?)のタネにしていますが、この意味で、貧乏であることは何の自慢にもなりません。

私自身20代、30代には考えられなかったことですが、今ではむしろ積極的に貧乏でありたいとさえ思っています。貧乏であることによってこそ、人は鍛えられるものですが、それ以上に現代は、より多く稼ぐことによって加速される物心両面の貧困を散々見せつけられているからです。

 

たしかに、いったん貧乏神にとりつかれると、これから逃れるのは、なかなか容易ではありません。

 

でも日本文化にとりつかれたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、少し違う見方をしていました。


「そういわれましても、この中で私がよく知っているのは貧乏神だけなのです。この神様にはいつもお連れがおいでで、名を福の神と申します。福の神は色白く、貧乏神は黒い色をしておられます」

「それはね」と私は思わず口を出した。「貧は福の影だからだよ。つまりね、貧乏神は福の神の影法師なんだ。私はずいぶんいろいろな所を旅してきたが、福の神の行くところ、必ず貧乏神が付きまとっていた」

 

(略)たしかに貧乏神を追い出す手立てはなかなかないといわれますが、

『地蔵経古粋』という書物に、尾張の国の円浄坊という老師の話がございます。この方は加持祈祷の力によって、貧乏神を退けたそうです。 ある年の暮れの大晦日、円浄坊は弟子や他の真言宗の行者を集め、桃ノ木の枝を手に呪を唱え、その枝で人を追い出す仕草をすると、寺の門という門をぴたりと閉ざし、もう一度真言を誦したのです。するとその晩、円浄坊は不思議な夢を見ました。骸骨の坊主が一人、破れ寺の中でしくしく泣きながら恨みごとを言ってます。

「これほど長くお仕えしたのに、なんと酷(むご)いお仕打ち・・・・・」

その後、円浄坊は生涯、裕福に暮らしたそうです。」

         (小泉八雲『神々の国の首都』講談社学術文庫)


 

 

他方、似たような表現ですが、「貧乏」とは違って「貧相」であることは、無条件に避けた方が良いでしょうね。貧相神は、どうもいないようですから。

神さまだからこそ、やはり貧乏神はお付き合いの意味があるのです。 

不要な焦りや欲さえなくなれば、貧乏神はたくさんの大切なことを私たちに教えてくれます。

私が貧乏神と仲良くなって幸せになりたいと思う理由は、モノやお金をより多く消費することで得られる豊かさではなく、自らがより多く創造する豊かさを求めているからであり、その先にあるのは、より多く稼ぐことではなく、よりお金のかからない社会を根本では目指しているからです。

お金さえあれば解決するという安易な発想が、こころの世界だけでなく経済を含めた豊かさを生み出す本当の力を育てることを遠ざけてしまいます。

 
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地域をささえる様々な労働スタイル

2015年07月23日 | 無償の労働、贈与とお金
極端に「賃労働」か「ボランティア」に二分される現代の労働。

行政と話しをしていると、それは民間の営利企業だからダメ、非営利ならOKという話しによくぶつかります。

公的労働も、「公務員」の労働か「ボランティア」に二分されてしまう傾向がとても強いものです。

その思考パターンがNPOに対する考えにもうつり、お金を動かしてこそ事業という活動範囲をとても狭めてしまっています。

この思考の枠組みをなんとか取り外せないと、補助金頼みの地域活性化から抜け出すことはとても難しいのではないかと思います。

 

 

「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」

http://www.nhk.or.jp/ecochan-blog/400/215852.html

ちょうどこんな記事があったので、昔の働き方いろいろの抜き書きメモ(何かの民俗学の本だと思いますが出典わかりません)から以下に転記します。



1、個人では対応できない大規模労働 =「結い(エー)」

  労働力不足を補う賃金の介在しない労働の交換=貸し借り 田植え、稲刈り、屋根ふき替え、
 脱穀、
除草、桑摘みなど借りただけの仕事は返さなければならない
 「エーゲーシ」「エーガワリ」「結い(エー)」の関係を結ぶのは、実利ばかりではなく
 「ハリエー(張り合い)が悪いから」といった、一人で作業するのは寂しく、

  猛獣や毒蛇に会う危険を避ける 性格もあった。 

2、共同作業 =「モヤイ」

  数軒の家が共同で出資して、山持ちから薪炭材を立木のまま購入して、共同作業によって
 伐採し、マキとボヤに束ねて、それを自家用にし、また売却するような作業。
 総じて、利益は各人に帰ってくる。 

3、金を払うべきものを手間で返す =「テマガエ」

4、援助労働 =「スケゴー」

  労働に対する手当は出る 恒常的な雇用関係はない

5、半強制的な労働 = 「テンマ、オテンマサマ」

  江戸時代の無料人足のお伝馬からきている。
  上からの強制である場合が追い 多くは無償労働、義務人足 神仏祠堂の修理や屋根替え、
 道普譜、堰普請など公共の作業にあてられる傾向がある 

6、自主的な「出稼ぎ」労働 
  現金収入を目的に他所へ出る 
7、頼まれていない勝手な労働「オッカケ」

8、義務や責任観念の伴わないもの=「手伝い」「助けっこ」
 
9、家事・育児などの生活していくために欠かせない日常労働 

 

多様な働き方=派遣労働が増える実態を支持するものではありません。
 ここで求められているのは、必ずしも「雇用形態」の多様化ではありません。

 会社も、ふたつの方向で進化、脱皮していく。 
(1)、利益や市場をささえている幅広い環境にさらに積極的にアクセスしていく
(2)、個別労働の対価としての「賃金」ではなく、
(右肩上がり時代の思考)
    一元的な会社や特定の組織とだけの「雇用」支配・従属の関係でもなく、
  また、「仕事」で稼いだお金のみで成り立つ、「買う」ことで成り立つ「くらし」ではなく、
  地域の柔軟なつながりを軸にした多元的な関係=「くらし」の体系のなかに「労働」や
 「仕事」が包まれていく時代へ、再び組み直す。
 
先の9項目の働き方を、
営利⇆非営利、
公的労働⇆私的労働、
強制的⇆自主的
などの対比で図式化してみました。
 
 
 
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「暮らし」と「地域」をささえる様々な働き方

2014年11月15日 | 無償の労働、贈与とお金

現代は、極端に「賃労働」か「ボランティア」に二分される労働の時代です。

ようやくソーシャルビジネスが、急速に広がりはじめていますが、まだまだ実態は公的な性格が強い労働であっても、「公務員労働」か「ボランティア」に二分されてしまう傾向がとても強いものです。

また、考え方においては、「お金」「賃金」「雇用」だけが、労働の交換条件として支配する社会です。


それに対して、このたった半世紀以外の長い労働の歴史は、

賃金」や「雇用関係」だけに左右されない、とても多様な働き方によって地域は支えられていました。

 

これまで「結い」のような関係が見直されていることは意識していましたが、その「結い」以外にも、実にたくさんの「恊働」のかたちがあることを都丸先生の本を読んで知りました。

 

都丸十九一『消え残る山村の風俗と暮し』高城書店(昭和34年)絶版

 

上記本を参考に、通常の労働以外のスタイルを上げると以下のようなものがあります。


1、個人では対応できない大規模労働 =「結い(エー)」

    労働力不足を補う賃金の介在しない労働の交換=貸し借り

      田植え、稲刈り、屋根ふき替え、脱穀、除草、桑摘みなど

       借りただけの仕事は返さなければならない「エーゲーシ」「エーガワリ」

       「結い(エー)」の関係を結ぶのは、実利ばかりではなく「ハリエー(張り合い)が

      悪いから」といった、一人で作業するのは寂しく、猛獣や毒蛇に会う危険を避ける

      性格もあった。

写真は、福島県の大内宿の屋根吹き替え作業


2、共同作業  =「モヤイ」

         数軒の家が共同で出資して、山持ちから薪炭材を立木のまま購入して、共同作業に    

     よって伐採し、マキとボヤに束ねて、それを自家用にし、また売却するような作業。

         総じて、利益は各人に帰ってくる。


3、金を払うべきものを手間で返す  =「テマガエ」


4、援助労働  =「スケゴー」

    労働に対する手当は出る  恒常的な雇用関係はない


5、半強制的な労働 = 「テンマ、オテンマサマ」

          江戸時代の無料人足のお伝馬からきている

    上からの強制である場合が追い  多くは無償労働、義務人足

         神仏祠堂の修理や屋根替え、道普譜、堰普請など公共の作業にあてられる傾向がある


6、頼まれていない勝手な労働「オッカケ」


7、自主的な「出稼ぎ」労働

    現金収入を目的に他所へ出る


8、義務や責任観念の伴わないもの=「手伝い」「助けっこ」


9、家事・育児などの生活していくために欠かせない日常労働


もちろん、こうした分類だけで現実の労働が行われているわけではなく、田植え稲刈り、養蚕などの作業では「結い」の労働に新潟からの出稼ぎ労働も加わったりして、必要に応じて組み合わせて行われます。

 

 

 民俗学的な歴史表現で語ると、つい昔のつながりは良かったと単純に考えてしまう傾向もありますが、これらの多様な働き方そのものは、現代でも無くなってしまったわけではなく、こうした言葉は使われなくなっても、似たような作業は今でも行われています。

 

 

しかし、「雇用」と「賃金」を主軸にした労働観でみてしまう限り、どうしても昔の姿とは異なる「働き方」になってしまう傾向が強いのです。

その最たる例が、「多様な働き方」の保証、イコール「派遣労働」の増加にみられる、より「移転しやすい」=「売買しやすい」労働を増やす一連の政策です。


 よく誤解されやすいことですが、「多様な働き方」=「派遣労働」が増えるような実態を支持するものではありません。

  ここで求められているのは、必ずしも「雇用形態」の多様化ではありません。

 現代の、「より交換しやすい労働」「金銭で売買しやすい労働」へ一直線に進化する経済ではなく、地域性や人的つながりなどの制約もある「交換しにくい労働」こそ、価値が保持されるという、もうひとつの価値観の問題です。



  そのような時代になると、会社も、ふたつの方向で進化、脱皮していくことと思います。

  (1)、利益や市場をささえている、より幅広い環境にアクセスしていく姿勢

  (2)、個別労働の対価としての「賃金」ではなく、人間と自然の生命の再生産に必要な、

           労働報酬だけにとらわれない互恵関係の構築 

         (右肩上がり時代の思考からの脱却)



それは、一元的な会社や特定の組織とだけの「雇用」支配・従属の関係ではなく、

また、「仕事」で稼いだお金のみで成り立つ、「買う」ことで成り立つ「くらし」ではなく

   地域の柔軟なつながりを軸にした多元的な関係=「くらし」の体系のなかに

      「労働」や「仕事」が包まれていく時代へ、再び組み直すことを意味しています。


「賃労働」として「お金」で交換することがすべて悪いわけではありません。

あまりにも、「賃労働」のみに偏った労働観が今の異常な社会構造をうんでいるのではないかと感じるのです。

「お金」を使わなくても、豊かなくらしを実現できる様々な方法があることに気づくことが必要な時代になっていると思うのです。


今、長引く不況で経営が苦しいから、

 「そんな悠長なことは言っていられない」ではなく、

経営が苦しいからこそ、

より明るい幸せな未来を展望できる「労働観」や「生活観」を取り戻さなければならないのだと思います。


      

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日常のなかの「安心」

2014年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金

毎週日曜の朝は、月夜野から渋川へ向かう出勤途上、妻を渋川の家におくりとどけています。

この事情を詳しく説明するのはやっかいなので、ここでは省きます。

いつもその道は国道17号を使わず、景色の良い三国街道、高山村を通っていきます。

先日のその車中での会話、大事な話をしたような気がするけど、早くも忘れそうなので、記憶のあるうちに書きのこしておくことにします。

 

 

どこからどうなってこの話になったかは覚えていませんが、「石の上にも三年」のことに話がおよんだ。

なにがあっても「石の上にも三年」。我慢する意義を妻が語った。

多くの苦労を経験している妻は、それが自分の糧となり肥やしとなっている自負がある。

わたしも妻のそうした面は、見かけの華奢な体からは想像つかない内に秘めた強さのあらわれとして、とても頼もしく、また心強く感じています。

 

かたや私の方はといえば、これといった苦労はほとんど経験することなく、

困ったことがあっても、ほとんど自分の都合の良い方に流れる「運の良さ」のみに救われっぱなしで、この年まで「のほほん」と生きてきてしまった。

この話題、どうもこっちの分が悪い。

 

でもね。(形勢を立て直さねば)

同じ「石のうえの3年」でも、その過ごし方でまったく違ってくるんじゃないかな。

ただひたすら我慢して、しかめ面で耐える3年とでは。

耐える力を訓練する意義は間違いなくあるけれど、

それが良い方に活きるかどうかは気持ちの持ち方の問題が大きい。

 

3年間はその場を逃れられないと腹をくくり、すべてを受け入れ、

笑顔でいられれば、運命は間違いなく良い方向に流れる。

それが出来れば文句はないが、たしかに普通はなかなかそこまでは出来ない。

そうまではしなくても、自分の今を受け入れ、他人のせいにしないだけで

まったく違った価値の3年の過ごし方にはなる。

 

でも、まだ余裕があるときはそんなこと言ってられるけれど、

えてしてたったひとつのつまずきが、

まわりのなかのたった一人との関係のゆがみが、

自分の体のほんの一部分の不調が、

まったく違う世界に落とし込んでしまうもの。

 

たったひとつのことが。

 

冷静に考えれば、その問題以外の

残り99の問題はスムーズに運んでいるのに。

10人中9人との人間関係はうまくいっているのに。

体の他のすべての機能は健康にはたらいているのに。

 

問題がおきても、他の圧倒的部分は、問題なく動き、機能していると

気づくことができれば解決、回復への展望は持てそうなものだけど、

えてして誰もが、たったひとつのつまずきに、

すべてが不安、絶望の世界に入ってしまったかのように思ってしまう。

 

こころの動かし方ひとつで、人はなんとも逞しくも情けなくも変わりうるものだ。

 

車中での妻との会話は、だいたいこんなところまでの内容でした。

 

 

ふりかえってみるととても大事な話であったと思うので、ここから先は、その後の補足になります。

 

東日本大震災と福島の原発事故があってからか、自分たちの暮らしの「安全」や「安心」とは何だろうかといったことは、たしかにかつてなく意識するようになった気がします。

 

ちょっと言葉を整理してみると、

「安全」というのは、文字通り「全て」が保証されることを前提にした表現で、

「99%の安全」とはなかなか言わないし、これは説得力がない。

10分の1だろうが、100分の1だろうが、1000分の1だろうが、

「完全(すべて)」でないと「安全」とは言い切れないのがその言葉の特質。

 

他方、「安心」の場合は、数字の問題ではない。

 

先の安全の確率が、99%であろうが、97%であろうが、

60%であろうが、さらには30%であろうが、

「信頼」できるかどうか、「信じる」ことができるかどうかが鍵になる。

 

「安全」は「全て」かどうかの問題。

「安心」は「心」の持ち方、ありようの問題であるといえます。

 

多くの企業は、「安全」を保証するためにものスゴイ努力を重ねて、事故の「確率」を限りなくゼロに近づける努力をしています。

にもかかわらず、相次ぐ不祥事をみると、いかに高度な「安全」が保証されていると言われても、それを信じるに値する数字として額面通りに受け取ることはできない。

 

原発の安全性や放射能被曝の問題などは、まさにそれで、

どのくらいのレベルであれば安全なのか、どんな基準値を示されても、今のわたしたちに「安心」をもたらすものではありません。

低線量被曝の問題、日常あふれる他の発ガンリスクとの比較の問題も同じに見えます。

数値の確率を上げることは、もちろん必要不可欠ですが、それだけでは「安心」できない、「信じる」ことができない。「信頼」することができないまぎれもない現実があります。

近代社会は、あまりにも「安心」を数字や量だけにやよりすぎてきたように見えます。

 

数字、確率の裏付けがなければ安心できないのは事実であるかのようですが、実態をみると何か違うだろう、と思っていたところ、この気持ちをといてくれる表現に出会いました。

 

小林秀雄の『学生との対話』(新潮社)のなかに

「信ずるということは、責任をとるということです。」

「信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。

 そうすると人間は集団的になるのです。」

といった表現がありました。

 

かつてどこかに「信じる勇気」のことを書いたことがありますが、どれだけの裏付けがあれば、わたしたちは「信じる」ことができるのでしょうか。

「近代科学」という新しい宗教にどっぷり浸かって生きて来たわたしたちは、あまりにも数字と論理にたよることに慣れすぎたように思えます。

99%の確率なら大丈夫なのか、

96%では不安なのか、

99.9% 99.9999%なら安心なのか。

立証する論理の緻密さ、論文の不備のない完璧さこそが保証なのか?

 

 

どんなにこれらを突き詰めても、到達できないゴールがあることを、現代の多くの企業や組織が気づいていないように見えます。

 

それは「信じる」勇気と「覚悟」の問題です。

 

先の妻との車中での会話でみると

10のことがらの内、ひとつがうまくいっていないと不安になる心と、

10のことがらの内、9もうまくいっているのだから大丈夫だと思えることの違いです。

このふたつのギャップは、確率を上げることでは解決しません。

 

どんなに数値や論理を突き詰めても、

どこかで「信じる」勇気をもつこと、

「覚悟」を決めることを抜きには、「責任」をもった仕事には至れないのではないでしょうか。

 

確かに企業や組織にとってリスク管理はとても大事です。

でもそこで最も重要なのは「責任」の所在だと思います。

それが明確でないまま数字を突き詰めていても信頼には至れません。

 

 

ここに大きな思考と心の「飛躍」があることを多くの人は気づきません。

昔の人は「背負うこと」の価値、重みを知っていたのだと思いますが、

現代人は「背負わず」に、

ただひたすら「論証」することを大真面目に追求しています。

 

わたしたち見ている側からすると、「背負わず」にひたすら「論証」する説明とは、どう譲っても「言い訳」にしか見えません。

 

この話、通じるでしょうか。

 

「信じる」こと

「覚悟」すること

「責任」を負うこと

 

「安心」というものは、これらの意識を取り戻さない限り

今の社会にうまれるものではないと思うのです。

 

が、今の公務員や、経営難に追い込まれている企業の中の社員の姿をみると・・・

 

 

そういう私自身、

やはりサラリーマンという立場でいたときは、どんなに自由、勝手きままにさせてもらっていたとはいえ、この「責任」と「覚悟」、「信じる勇気」からは遠いところにいたことが、今になってよくわかります。

 

 

 

 

 

 

 

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肥料を与えないことで、根はより深くのびる

2014年03月26日 | 無償の労働、贈与とお金

以前、秋田だか山形の方で台風がきても倒れない稲をつくっている

おじいさんを紹介している映像をみたことがあります。

農薬や化学肥料ばかりに頼らず、稲の生態をよく理解しているその農家は、

水田の水を控えめにすることで、稲の根がしっかりとはるようになり、

稲穂が実った季節に台風が来ても稲が倒れなくなるのだという。

 

毎年、収穫シーズンにやってくる台風ですが、

最近では台風が接近したわけでもなく、ちょっとした強風で

稲が倒れている姿をよく目にします。

 

過保護で栄養過多な稲が増えることは、栄養が多くなるのではなく、

生命力のない植物が増えているということであり、

そうした食物の「豊かな」栄養って、

いったいなんなのだろうと思います。

 

福岡正信によってはじめられた「有機農法」とは異なる「自然農法」は、

こうした自然の「生命力」の真の姿を教えてくれます。

最近では、『奇跡のリンゴ』で知られる木村秋則さんなどによっても

広く知れるようになりました。

 

栄養、肥料を与えないことでこそ生まれ育ってくる自らの生命力。

そこには様々な微生物や菌の働きが欠かせませんが、

自然界の有象無象の生命の働きに生長を委ねるという環境で、

生産をコントロールするということは容易なことではありません。

 

ここが選択の大きな分かれ目です。

 

生命とつきあうということは、とてもやっかいなことです。

やっかいであるということこそがまさに「生命力」の証しなのですが。

現代の生産活動は、ほとんどこれを避けることで、

より「効率的」な生産をし、利益をうみだしています。

 

でも、これこそがもっとも大切な「生命力」から遠ざかる道であり、

より多くの「付加価値」からも遠ざかる道でもあるのです。

 

これは現代の

「食」の姿、

「教育」の姿、

「企業」の姿、

「経済」の姿、

「文化」の姿、

そのものですね。

 

 

 自分の内なる力で育ち、強い生命力を備えた作物は「発酵」へと向かう。

生命力の強いものは、「菌」によって分解される過程でも生命力を保ち、

その状態でも生命を育む力を残している。

だから、食べ物として適している。

 反対に、外から肥料を与えられて無理やり肥え太らされた生命力の乏しいものは「腐敗」へと向かう。

生命力の弱いものは、「菌」の分解の過程で生命力を失っていく。

だから、食べ物としてはあまり適していない。

         (渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』講談社より)

 

 

 

わたしは何度となく

「読書とは、決して知識や教養をためるためだけのものではなく、

読書という営みの本質をみればみるほど、読書とは、

自分自身の直面した問題に立ち向かうエネルギーのあらわれである」

と言ってきました。

 

より多くの栄養を得ることを目的とした読書、

それは必ずしも間違ったことではありません。

 

しかし問題は、そのレベルにばかり集中していても

何の疑問も感じなくなってしまっている、ということです。

 

大事なのはより多くの肥料(知識や教養)を得るよりも、

より深くへ根を延ばそうとすることです。

 

この流れは、少し前から教育現場に求められていながらなかなか変えられない日本の現実があります。

 

知識を多く与える教育よりも、子ども自身が興味をもったことを集中して勉強させた方が、

結果的に学力は向上するというフィンランド方式です。

 

まさにそれこそが、

真実を追究しつづけ、問いかける力であり、

「自分自身が直面した問題に立ち向かうエネルギー」です。

 

「知識」ではないこのエネルギーこそが、

一番の「発酵」の源であるのだと再認識させられました。

 

 

*** 参 照 ***

パン屋タルマーリー

   http://talmary.com/

寺田本家

  http://www.teradahonke.co.jp/

これは行ってこなくちゃいけないね。

 

 

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「幸せ」のコストを上げてはいけない

2014年03月13日 | 無償の労働、贈与とお金

いま、景気浮揚のために賃上げがどれだけ行なわれるか、

春闘を前にしきりにニュースで騒がれています。

長い間下がり続けた賃金が少しでも上がる傾向が出たのは良い事で、

これを機会に上昇傾向に拍車がかかることを期待しているかの報道があふれてます。

 

とんでもない!

 

世界を動かしている投機筋にとって好ましいのは、

株価が上がることよりも、変動幅が大きい事です。

 

世の中全体がこの流れに引きずられてきました。

 

グローバル化が進むと、事業の貿易依存度にかかわりなく、

為替変動による収益の変動幅がとても大きくなります。

すると企業は、利益を生んでも内部留保をためることを優先します。

 

大企業の内部留保の問題は、随分昔から指摘されていましたが、

内部留保額は一貫して増え続けていながら、

それでも企業にとっての「安心」にはまだほど遠い。

 

国民は、将来に対する不安が増し、

日本は貯蓄や保険に依存する比率が昔から異常な国際的高さであったにもかかわらず

益々それが高まる傾向にあります。

 

いまの日本は、「幸せ」のために、いったいどれだけの担保が必要なのだろうか。

 

 

かたや江戸時代の庶民の暮らしをみると、

あまりにも日銭しか持たないその日暮らしが目立ちます。

 

落語の世界に限らず、僅かな稼ぎを遊びで使い切ってしまったとしても、

多くの庶民は、決して現代のような将来に対する「不安」を感じることはありませんでした。

 

 

消費税が上がる事を待ち望む企業や、インフレ誘導による景気浮揚を期待する人びと。

それらの人びととはまったく違う方向にこそ目指すべき「幸せ」があることなど、

きっとマスコミは口が裂けても言えないのでしょう。

 

賃上げは、まぎれも無く良い事ですが、今の論調に

未来の「幸せ」を保証するような流れはありません。

 

昔にもどることが良いわけではありませんが、

決して「幸せ」のコストが上がるような社会をつくってはけません。

 

 

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Hoshino Parsons Projectのホームページを再開しました

2014年02月04日 | 無償の労働、贈与とお金
 
長らく閉鎖したままだった我が社(やしろ)Hoshino Parsons Projectのホームページを再開しました。

まだ完成してませんが、それは毎度のこと。

前のサイトは、引越でプロバイダ契約を変えたときに無料サービス終了とともに、移転することもせず
閉鎖したままになっていました。

今度はパソコンにインストールするホームページソフトではなく、WiXを使ってみました。
Web上のソフトなのでブログのようにどこからでもアップ更新できます。

「かみつけの国 本のテーマ館」のソフトは、もうなくなってしまった会社のソフトですが、
あまりにもデータが膨大なので、簡単に引っ越しができず未だに途方にくれてるところです。

それに比べると、このWiXは、時代の差をずいぶん感じます。
ページレイアウトが、画像であろうが文字データであろうが、実に自由自在にできます。

アップロードのスピードも早いので、とても助かります。

これでようやく、いくつものホームページやブログの関連と全体像をしめすことができるようになりました。
多くの情報が、関連外部サイトのリンクで済ませられるので、ここはまさにホームページとして
ビジュアルを多くしてコンセプト、イメージをまとめたものとして機能させられそうです。
 
デザイン性では、撮りだめした写真のなかに、そこそこ使えるものがあったのが一番助かりました。
 
 
 
Hoshino Parsons Projectは、「働き方」が変わる「学び方」が変わる「暮らし」が変わる
そんな時代に、暮らしの組み立てのなかに「仕事」や「学び」、「食」をとらえなおすことを目指しています。
 
 
どんな人間でも、いつでも完璧な舞台に立っています。
なのに現代人の暮らしは、それに気付かない。

自分の服を着て、自分の家に住んで、自分の仕事をする。

どんなことが起きてもすべて自分の舞台だ。

誰もが、自分を演じることができたら、どんなに幸せなことでしょう。
 


ちょっと漠然としていますが、
暮らしの風景のなかに、私たちの営みすべてが美しくとけ込んだとき、
多くの「幸せ」 感じられるのではないかと思っています。
 
『月夜野百景』も、そんなとりくみのひとつです。
 
 

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人類が発明した偉大なる方便「貨幣(お金)」

2014年01月11日 | 無償の労働、贈与とお金

過去に何度も話してきたことですが、検索しても出てこないので、

改めてここに、まとめて書いてみることにします。

 

それを「貨幣」と表現するのがよいか、「お金」と表現するのがよいか、迷うところですが、

「お金」とは、

人類が発明した偉大なる“方便”である

と思うのです。

 

それは、そもそも交換不能な「異質」なものを「等質」なものに置き換える魔法であるからです。

 

経済学の最もやっかいな基礎理論の部分なので、わたしがうまく説明することなど無理ですが、

社会のあり方や意識を大きく規定している原理でもあるので、経済学の基本説明としてではなく、

社会通念のひとつの解釈として語らせていただきます。

 

20世紀は、この異質なものを等質なものに置き換える技術が高度に発達した時代でした。

それは、「異質性」をとことん排除することで、どんなものでも、

より交換しやすくする社会を実現するものでした。

つまり、あらゆるものの価値=「質」を「量」=貨幣に置き換えることです。

 

これは、社会の社会たるゆえんの「交換」を前提とする限り、なんら間違ったことではありません。

 

ところが、より交換しやすいことばかりを追い求めるあまり、いつのまにか

「量」=貨幣の方が「質」=固有の価値(使用価値)よりも大きな力をもつようになってしまいました。

 

このことは同時に、「より交換しやすいこと」が「価値の低下」をもたらす側面もともないます。

価値の低下を補うためには、その固有の価値を上げることよりも、

より多くの「量」を交換することによってしか補えない社会が加速してしましました。

 

これは私たちには、困ったことのように映りますが、歴史の必然でもあり、

資本主義云々の評価の問題以前の、避けることのできない流れであったと思います。

 

ところが21世紀に入ってから私たちが目にする現実のなかには、

同じ原理の社会のなかにいながら、

より交換しにくいことでこそ価値が増す社会、

あるいは、交換しにくさを意図的に保持する社会が

徐々に目立つようになってきました。

 

商売は、より多くの人が来てこそ儲かるもの、

より人通りの多い好立地でこそ、大きな利益が保証されるものと言われてきましたが、

最近話題になる人気の温泉地や有名レストランなどでは、

あえて立地条件の悪いまま、

行きにくいところであること、

あるいは人通りの少ないことろに出店することなどが、

お店の付加価値を高め繁盛する条件になっていたりしているのです。

 

商品の場合でも、あえて売るために、どこでも手に入ることよりも、

「ここでしか手に入らない」ことを保持することで、

有名ブランドをつくり人気商品になるといった事例がとても増えてきています。

 

グローバル化そのものは、社会の発展では避けられない事実です。

問題は、グローバル化一辺倒で、ローカルが押しつぶされることです。

これからは、ローカルに徹底することでこそ、

真のグローバル化が実現できる社会がはじまるということです。

 

ここにきてようやく、

「質」は「量」によっておきかえられることが、

「質」は「量」によってしか表現されない時代に暴走した20世紀が終わり、

交換を前提にする限り「量」に置き換えることは不可避ですが、

「量」に置き換えるにしても、いかに「質」を保持するか、

あるいは「量」に還元できない「質」をいかに表現するかが問われる時代になりはじめたのです。

 

もちろん、量と質は不可分の関係なので、

決してどちらかに寄った方が正しいというわけではありません。

大事なのは、あまりにも、すべてのものが

より「交換しやすく」の方向にばかり暴走した時代が終わりはじめたということです。

 

このごとのはじめの大前提ですが、

そもそも「価値」とは、主観的なものであったはずです。

「価値」とは、固有のものであったはずです。

 

それが、いつのまにかその「主観的価値」すらも、

「量」=「お金」によってしか、 表現できないかの社会になってしまったのです。

 

今世紀に入ってようやく、安易に資本主義経済の否定ということではなく、

社会の経済発展の基本理論として、資本主義経済発展の必然としても、

ただ一方向に「質」を「量」に置き換える方向のみ「交換しやすさ」だけを追求する経済ではなく、

交換の前提である固有の価値=「質」をいかに「量」だけに還元されずに保持して、

スムーズな交換社会をつくりだせるかが問える時代になりはじめました。

 

わたしが、「お金」は、人類が発明した偉大なる方便である

というのは、そもそも「異質なもの」を「等質なもの」に置き換えることなど

原理上はありえないことを

「お金」という魔法が「方便」としてそれを為しているにすぎないので、

その矛盾は根底に常に存在し続けている上での話だということを確認、表現したものです。

 

言葉では、方便としてしか説明することのできない矛盾が存在する限り、

時代は、様々なゆがんだかたちでそれを調整し続けるもので、

これは決して数学的にはすっきりと解決することできない課題だと思うのです。

 

そもそも「価値」とは、「主観」的なもの

という当たり前の感覚を取り戻す人間社会がこれからようやくはじまるのだと思います。

 

わたしの関連ページ、かみつけの国 本のテーマ館 内

「質(価値)」は「量」によってしか表現しえないのだろうか。

http://kamituke.web.fc2.com/page128.html

 

 

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ビデオニュース 2013 09 07 東電に任せてる場合ですか

2013年10月31日 | 無償の労働、贈与とお金

ビデオニュース 2013 09 07 東電に任せてる場合ですか

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東電広報7/29 "原子力ムラ"仲間の記者クラブもダメ出し7/29テレビ朝日の質問

2013年10月31日 | 無償の労働、贈与とお金

7月の映像ですが、これだけ指摘され続けても変われない驚くべき体質。

 

東電広報7/29 "原子力ムラ"仲間の記者クラブもダメ出し7/29テレビ朝日の質問

 

こんな組織のもとでこれから燃料棒の危険な取り出し作業が始まると思うと、確かに日本から逃げ出したくなるほど怖さがこみ上げてきます。

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