かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

大切にしたいモノ・ヒトの文脈が生きる空間、朝陽堂

2023年03月20日 | 暮らしのしつらえ

10年くらい前になるでしょうか。私は、ある出版社の営業の方から、中之条の先にある原町旧道沿いに土間のあるお店があるという情報を聞いたことがありました。

その後しばらくしてから、それらしき場所へ車で行ってみると、通りから見ると店内に昔の商品陳列台のような平台が見え、その下に確かに土間らしき構造が見えました。

しかし、その時は車でちょっと徐行して覗いただけで、その様子は失礼ながら今も営業しているお店なのか確信が持てなかったので、そのまま立ち寄って確かめるまではせずに通過してしまいました。

 

そんなことはすっかり忘れていたとき、たまたま古民家を再生するプロセスをSNSでアップしている方を見つけました。

そしてその場所が、かつて立ち寄ることなく素通りしてしまった土間のある店であることは、またしばらく立ってから知ることが出来ました。

 

 

壁面などの構造を大胆にいじるアイデアも、よく考えられています。
改装後の西側壁面

 

 

かつては、このように長年にわたる遺産が山のようにあり、それらをただひたすら

片づけて、片づけて・・・

捨てて、捨てて、捨てて・・・

残すものを、

拭いて、拭いて、拭いて・・・

磨いて、磨いて、磨いて・・・・

 

それらをずっと繰り返すこと7年。

 

直近の4世代くらいの期間でも、家業や地域、家族の歴史や想い出が、たくさんのモノの中に蓄積しており、それらの選別はとても大変な作業です。

 

途中、出産で休んでいた時期もあったそうです。

都会の住宅と違って昔の広い屋敷のことですから、ものすごい量の作業であったことが想像されます。

なんとその片づけ処分作業のためだけに、軽トラックを1台買ったそうです。

 


でも、もっとも大切なのは、そうした膨大な片づけ作業を業者まかせにせず、ほとんど自らの手で行ったということです。
業者任せにせず自らが行ってこそ、そこにあるものの価値が見えてくるからです。

多くの古民家再生は、都会など他所に暮らす人が「買った物件」のアレンジか、他所から「移築した物件」をリノベーションするのが大半で、そこに元々暮らし住んでいた人が大規模にリノベーションすることは極めて稀なことです。

統計はありませんが、おそらく古民家再生の9割以上は、他所の人が買った物件か、他所から移築した物件であると思われます。

 

もちろん、物件により、予算により、人材により再生の仕方は千差万別であって当然であり、新しい店舗や宿泊施設など目的がはっきりしていれば、それ相応のことはしなければなりません。むしろ地元からすれば、いかなる理由であれ他所から新しい人が来てくれることは大歓迎であることに間違いはありません。

 

地元に暮らす人が自らの物件を自らの手でリノベーションする例がこれほどまでに少ないのには、それなりの理由もあります。

多くの古民家は、江戸時代から昭和初期までに建てられた家で、その構造は現代の食べて寝て余暇を過ごすだけの空間と違って、「生活の場」である以上に「生産の場」として造られていたという決定的な構造の違いがあります。

家の中でお蚕を飼ったり、同じ建物内に馬や牛がいたり、軒下にダイコンや柿を干したり、囲炉裏の廻りで藁細工をしたり、それは暮らしの場というよりはまず第一に「生産の場」であったわけです。したがって外との出入りはしやすく、お蚕のためには風通しが良くなければなりません。

そうした歴史条件の建物であることが、ただ構造が古いからという理由だけではなく、現代とは住宅の使用目的そのものが大きく違っていることを忘れてはなりません。それを生産活動をほとんどしない現代の暮らしに合うようにリノベーションするには、断熱、防寒など、相当の改装費用を覚悟しなければなりません。

それだけに、昔とは生活スタイルが変わってしまった家で、あえて暮らすことだけを考えたリノベーションする意義は単純には見いだせないのが普通かと思われます。

手間と経費をかけてリノベーションするならば、現代にあった生産の場として、宿泊施設や店舗、農家の母屋などとしてでないとなかなか活かせないのが実情です。

 

山口純音さん

そうしたことが、実際に山口純音さんにお話を伺うと、「良いもの」をたし算で増やしていくような従来の考え方と違って、たくさんのモノを処分したからこそなのでしょうが、残すものをどのような基準で選ぶかがとてもしっかりとしており、この空間にふさわしくないものはほとんど紛れ込んでいないことがわかります。

最近よく感じる30代半ば以降の世代に共通した特徴である、商品やモノの力だけに依存しないオーナーの世界観がとてもしっかりしているのです。
つまり、ただ「良いもの」のコレクションであったり、「売れる」ものの発掘とも違う、明らかにこの空間ならではの「文脈」が息づいているのです。

そうした朝陽堂さんの違いを、ただ純音さんの美大出ならではのセンスの良さであるとか、敬虔な信仰心に支えられた実直さのようなことに捉えられてしまうと(もちろんそれもとても大事な要素としてありますが)、私たちに必要な誰もがこれからの時代に求められている大切なことが、遠くの問題に押しやられてしまうような気がしてなりません。

実は、それを伝える表現やことばが見つからないばかりに、このブログを書き始めてから1年以上もの長い間、私はアップすることが出来ずにいました。

20年、30年くらい前までの時代であれば、そこそこの建築家やデザイナーに頼んで、また商品もそれなりのプロにセレクトやアドバイスをしてもらって揃えておけば、そこそこに素晴らしい空間はどこでもつくられていました。
ところが現代では、ただものが良い、センスが良いというだけのものは、スマホひとつで画像も豊富なテンプレートから選べて、そこそこのデザインで誰もが作れるようになってしまい、そうしたことだけでは大切な何かは伝わらない時代になっています。

私のような昭和世代であれば、世の中が右肩上がりで「成長」していった時代だったので、なんでもガムシャラに頑張ればそこそこの成果がついてくるものでした。

ところが30年デフレとも言われる右肩下がりの時代になると、ただより多くの人を集めたり、より多くの人に伝えたり、売ったりするだけでは、なかなか結果が持続しないものです。

そうした時代の変化にも対応した大切な何かを、朝陽堂さんは表現されているように思えます。

 

通常、こうした古い絵本は商品にならないものですが、
こうした古い「講談社の絵本」の看板がついて表紙を見せる陳列をすることで、きちんと活かされています。

同じ100円商品であっても、処分品の100円と付加価値、満足感を感じる100円の違いがあります。

 

その違いの第一は、先に書いた膨大な片付け作業を、ほとんど自らの手で行ったことに由来します。それらの作業も結果を見ると、私の勝手な印象ですが、なにか「指先の感覚」を大切にするような作業であったことがうかがえます。

何ごとも作業にはどんなに効率を求めるにしても、その絶対量というものにとても意味があります。
それが物質的なことであれ、精神的なことであれ、その基礎作業の絶対量を抜きになにかが創造的であることはありえません。しかも、その作業は単に几帳面ということだけでなく、まさに「指先の感覚」を大切にした作業でないと、このような空間は生まれないのです。その点が、外部のデザイナーや建築家まかせで造られたものとの決定的な差を生んでいます。

何十年、何百年という歴史の積み重ねのある空間で、残されたものや遺されたものを選別して活かすものを磨き、仕上げるには、単純な理屈や計算ではなく、まさに「指先の感覚」で判断を積み重ねていくことが重要です。

現代の暮らしでは、身の回りのほとんどのものが「買ってきたもの」で成り立っています。そこでつくられる暮らしは、ほとんどが選択された商品で成り立っています。商品の選択以外のことによる創造物というのは、極めて稀なものです。まさにそうした手作業の基本が、朝陽堂さんの空間にはあふれています。

古民家再生といった伝統や歴史を活かす活動であっても、このように徹底された事例は意外と少ないものです。

 

朝陽堂さん取材

 

youtube#video

 

これまで2回の訪問で、ドイツ人建築家、ブルーノ・タウトの訪問記録で1776(安永5)年建築とわかるこの空間の歴史は、とても簡単に語り尽くせるものではありませんが、本来は、どのような家でも100年、200年と歴史を積み重ねれば、そうした様々な固有の歴史浮かびあがるものです。

 

もう一つのポイントは、先のような作業によってこそ、空間とモノ、ヒトとの「関係の文脈」が、活きてくるということです。

現代の商売で個々の商品やサービスを売るには、商品やサービスの余計なノイズ(汚れ、個人的由来や義理や縁など)は可能な限り取り除き、より収穫された場所の泥などノイズを取り除いてこそ、取り引きしやすくなるものです。
どこでも作れて、どこでも売れることを目指す大量生産、大量消費にそうしたことは不可欠ですが、高付加価値を追求する場合は逆にモノにまつわるノイズこそが意味を持ってきます。
ノイズには当然、目には見えない微生物や細菌などの情報も含まれます。だから都会では嫌われます。

ただ、その固有のノイズを残すということは、一律にできない作業なので必ず余計な「手間」が必ずかかります。

世の中の軸足が変わったからこそ可能になった面もありますが、そのノイズを大切にする手間こそが、モノやヒトの文脈を活かす道につながります。

地域の歴史や伝統文化を保存するために、歴史郷土資料館のようなものが各地にありますが、どんなに歴史的価値のある展示物があったとしても、その土地固有の文脈が表現されていないと、せっかく保存陳列されていてもその歴史的価値はなかなか伝わってきません。

この「文脈」というものが朝陽堂さんの空間からは無意識のうちに伝わってきます。

 

 

その後の2階ギャラリー企画も、この空間ならではのセレクトで、他の場ではなかなか実現できない相乗効果を生んでます。

2022.4.14~5.1

作家企画展
 西島雄志 個展「神気」
 企画:gallery.studio.cafe new roll
 協力:内藤久幹(cdc.tokyo)

 

2021.11.3~11.21

作家企画展
「ヲリヲリヲ展」
現代美術家の小野田賢三と山極満博による二人展

なかでも、渋川市の六箇工房さんとのコラボは、
地域性もあり今後も定期的な開催が見込まれるすばらしいものに思えます。


2021.4.29~5.5

企画展01
ガラスと帽子 六箇工房
「階段を上って・・・展」

 

 

 

朝陽堂さんのこうした空間づくりは特別なことのように思われがちですが、「指先の感覚」を大切にしたような膨大な手作業でモノやヒトの文脈を活かすことは、決して特別なことではなく、これからの時代の主流になっていくはずです。

何ごとも無駄をはぶき、スピードや効率を上げることは大事です。でもそれらが価値を持つのは、より大切なヒトやモノにより多くの時間と手間を惜しみなく使うためにこそ行われるべきものです。

私には特定の信仰心のようなものはありませんが、こうした作業の積み重ねの中にこそ私たちに「共通の祈り」のようなものを感じさせてくれます。

世の中、誰もが努力はしているものですが、大切にしたいもののために祈り続けて、手作業を継続することこそが何か最後の大きな力となることを感じさせてくれます。

まったく予備知識なしで朝陽堂さんの空間に足を踏み入れても、その素晴らしさは十分伝わってくるかと思いますが、これからの時代に誰もが必要な大切なことを無言で語りかけてくれているようなこの空間の違いがどこから感じ取れるのか、ぜひ皆さんも実際に訪れて確かめてみてください。

 

 

 

 

建物の裏側に残るかつての土壁

 

 

一本の樹の蔭、一河の流れも、みな多生の縁

 

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新しいことは、説得、根回しよりも、先に形にしてしまった方が得

2023年03月15日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

昨夜は二十三夜でした。
月の出は、深夜1時半過ぎ。
その月夜野の夜とロサンゼルスの朝の対話おさらい整理。

何か新しいことを始めようとする時、予算の獲得や周りの人たちの説得には、常に大変な労力を要するものです。
大抵は企画書をつくり、説明する相手に応じて表現を練り込んで、発表時間の数倍の準備時間をかけるものです。
でも、それだけ手間をかけても、その企画が通るとは限りません。
なぜなら、多くの場合、その提案を聞く人は、それまで考えていなかったことを聞かされることが多いだけでなく、自分があまり興味のないことを聞かされる場合が多いからです。
企画提案というのは、そういうもので、そこで相手を説得出来ないようであれば、仕事は出来ないに等しいと言われ続けて来ました。

ところが、これを当たり前のことと思ってしまうのは、組織の論理。
組織の枠を外してしまえば、これまで企画提案の準備、説得にあてていた時間はすべて、実際の活動に取り掛かる時間として使えるようになります。

むしろ、企画書などの紙で一生懸命伝えるよりも、いち早く具体的な形をつくってしまい、それを見せた方がはるかに説得力があるものです。
実際には、提案する側も、具体的な作業を始めないと、その先にどういう問題かあるか分からないことが多い。
そうしたリスクを考えたら、大抵の経費は自腹をきってやってしまった方が得です。

ところが、組織の論理は、自腹というのは経費に計上されないコストだから正しいビジネスモデルにはならないと、ストップがかけられる。

こんな風景で、右肩上がりの時代にはかろうじて出来ていたことも、今はことごとく不可能な時代になってしまいました。

だからこそ現代では、より小さな組織で勝手に自腹を切ってでも(ほんとうの自己投資)やってしまうところの方が、いい仕事ができています。

この、まず勝手にやってしまう方法は、従来型組織でも結構効果があることが証明されています。
勝手にやってしまうと、必ず怒られますが、実はそこからが勝負どころです。
多くの場合、勝手に作ってしまったもののデザイン性が良ければ、かつてそれをやる意義はどこにあるんだとか、費用対効果はどうなんだとブレーキをかけていた人たちは、案外あっさりと認めてくれるからです。
つまり、企画段階で説得のために要した膨大な時間に、意味がないとは言わないまでも、少なくとも大半が実際には無くても済むことに労力を注ぎ込んでいたことが証明できるからです。
こうしたことの積み重ねこそが、従来型の組織体質を変える確実な一歩になります。

みんなでやる横並びの仕事など、もうほとんど価値をうめない時代になっています。
もちろん、事業規模にもよりますが、一人でもやり切る覚悟のある人が集める仲間こそが、チームを作ることができるのだと思います。

決して誰にでも勧められることではありませんが、自腹をきってリスクを背負ってでもやる価値のあることでなければ、そもそも自分の貴重な時間を使う意味などないないはずです。

これも必ずしも能力のあるなしではなく、生活の固定費が低ければ、恐れることなく誰もがもっと積極的に踏み込んでいける社会になると思います。
小さなチャレンジは、やったもん勝ちの世界。

月夜野タヌキ自治共和国は、そんな世界です。

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タコ壺化する言論 〜論争に発展しない社会の危険性〜

2023年02月20日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 以前、高校生が反応してくれたのには驚いたけど、現代は論争がとことん成立しない時代になってしまっています。
価値観や生き方が多様化したといいながら、それぞれの世界が完全にタコツボ化してしまっているのが今の実情。
 
最近、MMT論をめぐっての池戸万作と成田悠輔のやり取りが話題になっていましたが、本来、これからの経済を考える上で大事な論点なのに、それぞれの側が内部であいつらは全然わかっていないとヒートアップするだけで、真正面からぶつかり合う議論に全然発展しない。
 
 
 
おしゃべりの切り取り情報ばかりが拡散するという現代ならではの環境もあるけど、問題の重要性からすれば、お金の本質や積極財政か緊縮財政かなどは、専門家とジャーナリストと政治家と一般国民すべてを巻き込んで議論されなければならないテーマです。
それぞれが内輪だけで、あいつらは何もわかってないと言い張るのではなく、異質な相手とこそ、真正面から議論し合えることこそがこれからの時代はとくに大事なはず。
 
きちんとした論争になってこそ、それぞれの思い込みや立証不十分な点も見えてくる。
ただ対立を避けることばかりが、平和の条件ではない。 
フェアに闘うということは、戦いそのものが感情的になりやすいだけに、訓練や場数をふむことはとくに必要。
 
かといって昔の論争の方が優れていたかというと、現代以上に所属する立場、組織に依拠したポジショントークが多かった気もします。それでもタコツボ化する社会よりはマシなのではないでしょうか。
 
ほんとうの創造性を考えるなら、より異質なものと積極的に交わる姿勢を持ちたいものです。
 
イギリスのマーガレット・サッチャーは、There is no alternatives(TINA)ティーナという言葉を作ったようですが、国民を選択肢のない状態にもっていければ、為政者はその時点でもう勝ちだという。
「増税以外に解決策はない」
「財源がないのだから仕方がない」
「軍備を増強せずにどうやって守る」など。
 
社会の劣化は、論争が生まれないまま、他に選択肢がないかの意識状態になってしまうところからいつも始まる。
エリート層は「国民が受容し、屈服すれば」、自分たちは権力を維持できるとわかっている。
 

世の中が多様化することを良しとするのならば、より異質のものを拒否することなく、異論があるのであれば互いに真正面から議論できる環境を大事にしていきたいものです。
 
かつて日米開戦間際の陸軍参謀会議室の入り口で、ある参謀が辻政信に呼び止められ、「お前、この会議に同意するのか、しないのか。同意しないなら、会議したってしょうがない」と言われたのと同じ構図が、現代社会でもたくさんまかり通っています。
 
オープンな論争は、当事者以外にとても大切な学びの環境を与てくれるものです。
 
同質のものばかりの集団になってしまうと、それは生物学的にも、文化的にも、滅びる運命に至る。
 
 
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必ずしも本が主人公ではない読書会

2023年02月02日 | 気になる本

最近参加させていただいてる複数の読書会には、共通した特徴があります。

その第一は、30代半ば以降の若い世代が中心であること。
第二は、共通の課題図書を決めて、その本について語り合ったり、ビブリオバトル型とかではなく、参加者それぞれが持ち寄った本について自由に語り合うスタイルであること。
第三は、比較的少人数であることです。

といっても、いずれの読書もこれに強固にこだわっているわけではなく、結果的にそうした傾向を持っているだけです。

 

ただこのことが、従来多かった共通のテキスト講読型の読書会に比べると、参加者それぞれの本との個人的な関係、家族や恋愛、仕事や地域の関わり、育児や教育問題など、たっぷりと聞くことができるようになっています。
それは、ただ実用性においてばかりでなく、たとえSFや詩的空想世界に飛んで行ってしまう場合でも言えます。

そもそも読書は、極めて個人的な営みです。そのパーソナルなものを他人と共有するというのは、本来なら対極の関係にあります。
それが面白くてたまらないのは、面白い本の情報交換というだけでなく、異なる考えや生き方の人との出会いに醍醐味があるからです。
それをたっぷり味わうには、どうしても少人数であることが不可欠です。
また、無味乾燥な会議室などは使わずに、出来るだけユニークな空間であったり、屋外の自然空間で、さまざまなその土地固有のノイズを抱えて行うことも大事です。

本をより詳しく深く読むこと以上に、参加者それぞれのその本との関わりのノイズの部分の方が、意外と核心であったりするからです。

ここ数年で、従来型の書店ではなく副業型のブックカフェが急速に増えているのも、何か同じ背景があるような気がします。

私は読書というのは、知識や教養をためること以上に、その人が自分自身の直面している課題に立ち向かうエネルギーのあらわれであると思っていますが、最近は自然にそのような流れが広がってきているように見えて、とても嬉しく感じます。

もちろん、世の中にはいろいろなスタイルのものが幅広くある方が豊かな社会になっていけるものですが、右肩上がりの横並び社会が終わったおかげで、経済的には悲惨でも、何かとても良い流れが生まれているように思えてなりません。

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深い課題ほどわかりにくく誤解も生みやすいけれど

2023年01月30日 | 歴史、過去の語り方
久しぶりに異次元高校生の二人と遅くまで話をした。

日ごろ私は、大切な本を彼らか教えてもらうことも多い。
そこで、それぞれの推し本や萌え作家は誰かといった話題になり、いろいろ出し合った。
 
宇佐美りん
鈴木涼美
S・ソンタグ
ユク・ホイ
ドストエフスキー
ニーチェ  など
 
とりあえず #石牟礼道子 に勝る萌え作家はいないということに話は落ち着いたのだけど、振り返ると、そうしたところに名前の出る作家は皆、書いてることの1割もこちらが理解出来ないことが多い。
(1割も理解出来ないというのは、そこの3人のなかでは私だけで、彼ら高校生は、私よりずっと正確に理解して、記憶もしている(^_^;))
それにも関わらず、それらの作家の本で私たちは、たった一行にも満たない表現で、まるで世界が分かったような気になってしまう。
誤解を生んだり、正しく理解されていないことが多いのも、そうした作家に共通している。
では、表現が下手だから誤解を生んだり正しく読まれないのかというと、決してそうではない。
深いところを指し示しているから、容易には届かないのだ。

「大切なことは、そっちではない」
「行くべき方向はこっちだ」
と強烈なメッセージを投げかけるので、誰もが右往左往しながら訳もわからないままどこかに導かれていく。
歴史を振り返ってみると、芭蕉が旅に出るとき、ガイドブックも紹介映像もない時代、ひたすら先人西行らの短い言葉だけでイメージを膨らませ、そこまで行かずにはいられない気持ちを湧き起こした。

そのような力が優れた作家や思想家の文章に共通してある。
大事なこと、深い問題ほど、誤解も生みやすい。間違いも起こしやすい。
悲しい現実だけど、優れた人ほど影響力が大きいがために、誤解や間違った行動を導きやすいのも事実。
その最たる例が、マルクスである。

マルクス自身は、常に具体的歴史状況を精緻に記述しながら語っていても、後世の人々は安易にテーゼとして形式化してしまい、果ては独裁や虐殺にまで至ってしまう。
その種はマルクス自身によりものなのか、誤解・曲解する側が悪いのか。
 
他にダーウィン、ニーチェなども同じ運命をたどっている。
ドストエフスキーの深さもそうした類い。
 
日本では、折口信夫が鋭い直感からその論理の先にある世界を指し示してくれる存在として思い浮かびますが、凡人が容易にその全容を感じ取ることは難しい。
そもそも古くから折口学(縦書きで哲学)などと言われるほどだからw
 
でもそれでも行く価値のあるところこそ、恐れずに踏み込むべきなんだと改めて気付かせてくれたとても楽しい夜だった。
 
 
 

おかげでこの日わたしは、お金の起源が物々交換ではなく、借用書=負債に始まるというデヴィッド・グレーバーの『負債論』と、贈与による負い目こそが、贈与交換の核心であるとのマルセル・モースの『贈与論』。それと中沢新一の自然からの純粋贈与との関係を整理することができました。
 


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