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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

忽然と現れ忽然と消えた、利根の根利の根利山集落

2021年03月27日 | 「近代化」でくくれない人々
片品のKさんの情報で知った沼田市歴史資料館の企画、「足尾銅山を支えた根利山」をみて来ました。

この沼田市歴史資料館は、いつ出来たのか入ってみるのも初めてです。

 
この企画の根利山という集落は、足尾銅山の繁栄とともに十九世紀末に忽然と現れ40年ほどの歴史で忽然と消えた集落で、最盛期には三千人を超える人がこの山奥に暮らしていました。

 
沼田歴史資料館の館長さん手作りの索道ジオラマ
 
妻が以前、「根利」と「利根」を見間違えていましたが、根利という集落は現在もあります。
そして、根利は利根町(村)にあり、みなかみ町住民からしたら、あんなとこまで利根郡なのかと思うほど南に位置するから、やたらややこしい。
 
 
 
以下の写真は『幻の集落 ー根利山ー』財団法人水資源協会(平成15年9月刊)より
他の多数写真も企画会場で見ることが出来ます。
 
平滝文教場の運動会(昭和44年頃)
 
 
祭典風景(倉庫に作られた祭典飾り物)
 
 
荷倉峠より広河原を望む索道
 
 
鉄索のロープの運搬(大正5年)
 
 
すべて鉄骨ではなく木で組み上げられた
 
 
土橇の巻下げ装置(インクライン)
 
 
砥沢のスケッチ(籏光男氏作成)
 
 
 
 
 
参照リンク
 
 
 


 
若い頃この山域は、沢登りや縦走で何度か行き、私にとってもとても思い出深いところです。
 
登山口に至る林道は、平川沿い林道も栗原川沿い林道も行く時は通れても、帰る時は落石をどかしながら通らなければならないような道。

(地図のオレンジマーカー部分が私の通ったコース)
 
 
思い出の縦走は、平川から入り沢登りで皇海山へ、国境平にテント泊してる間は、一晩中テントの周りをシカの群れに囲まれ、なかなか寝つけなかった記憶があります。
時々、テントから顔を出してはバアーッと声を出して追い払うのですが、効果は一瞬のことで他に打つ手はなく諦めざるを得ませんでした。
縦走してみれば、この国境平一帶は樹木がなく開けた場所なので、確かにテントをはるには絶好の場所ですが、それはシカの群れにとっても同じで、あたかも周辺のシカがみな夜になるとここに集結するかのごとくでした。
 
三俣山、宿堂坊山と縦走し、4日目に錫ヶ岳の手前で下山する尾根筋を探すと、突然、幅1mほどに踏み固められた道が現れたので、林業作業用の道かと思ったら、なんとそれはシカの通り道。
いわば山の高速道路。
支道が縦横に走ってる。
どう考えても人間の作った道としか思えないほど綺麗に踏み固められているので、誰もがその獣道に踏み込んでいってしまうことでしょう。

尾根を下り林道を目指しましたが、地形図を分割コピーしてきた継ぎ目が途切れていて、現在位置から駐車場までの距離が分からず、ヘッドライトの電池が切れる夜中まで歩き通し、履物が沢登り藪漕ぎを想定した地下足袋だったため足の爪10枚すべて剥がす目にあいました。
この時の地下足袋は、裏にスパイクのついた営林用地下足袋で、道なき斜面をガシガシ登るには適したものですが、暗闇で岩がゴツゴツした林道で疲れた足が上がらない最終日には、わかっていながらも何度もつま先を岩にぶつけざるを得ない散々な目にあいました。これも今では若き日の勲章のひとつです。
縦走4日間、遠くに二人組を一度見ただけで、人間には全く会わずに自然と歴史を満喫できるとても素敵な山旅でした。
 
 
そんな一帯でかつては、ワイヤーケーブルの索道が縦横に走って盛んな林業が行われており、至るとこでそうした痕跡を見ることができます。
 
 
不思議と産業遺産のただ廃墟とは異なり、当時の人々の息吹が何か山全体から伝わってきます。
 
当時は、まだ「岳人」の根利山の特集記事は見ておらず、『足尾山塊の山』『足尾山塊の沢』などの今は幻の名著に触発されて行った気がします。
 
そんな山域のかつての姿を、今回の企画と資料で初めて概要を広く知ることが出来ました。
 
 
実際に登山道から外れた所まで行かなくても、この企画展を見るだけでも十分価値はあります。

企画は4月4日(日)まで。
 
 
 
【補足情報】
 
以前、知人のSNS情報で根利の集落に森林鉄道博物館のようなものがあることを知りました。
いろいろな森林鉄道の機関車や車両が展示されており、このような山奥によくこのような施設があるものだと感心したものです。

ところが、後に森林鉄道や鉄道博物館などのキーワードで検索をかけても、なかなかここの情報が出てきません。
どうしてなのかと根気よく検索し続けてみたら、ここが林野庁の林業研修施設の一部であることがわかりました。展示されている機関車などは、必ずしもこの地域で使用されていたものではなく、広く国内の林業で活躍していたものを集めて展示しているものでした。(その後、この地域で使われた機関車を簡単なベニヤ工作で再現したものが加わりました。)
 
林業で栄えた場所ならではの研修施設でもあるので、こちらもおすすめです。
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子持の眠り姫が受胎する瞬間

2021年02月27日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

以前「子持の眠り姫」(俗称)という、子持神社の参道から西側に見える山裾が、参道松並木からみると女性の寝姿に見えることを紹介したことがあります。

 

 

 

 

この参道から見る小野子山の山裾が、女性の寝姿に見えること自体は地元でもよく知られたことでした。

それが改めて注目されるようになったのは、この眠り姫が子持神社の参道を登るにしたがって、なんとお腹が膨らんでくるように見えるということを発見してからでした。

 

それを知っただけでも大興奮だったのですが、その話の先にはさらなる驚きがありました。

もしかしたら、西側に沈む月がこの眠り姫のちょうどお腹の位置に沈む瞬間があるのではないかという仮説を思いついたことです。

つまり、「子持の眠り姫の受胎の瞬間」です。

 

月の出月の入りをアプリで確認してみると、時期によるのですが、十五夜の翌日、翌々日ころ、明け方の月が沈む時、子持の眠り姫の寝姿の上に満月が沈むことが確認できました。
確かに月の沈む位置が、ちょうど眠り姫のお腹のところに落ちていく時期があります。

薄々想像はしていたものの、月の沈む位置の季節の問題と、眠り姫と月の位置関係で見る場所の問題があり、それを実際に確認するまでは至っていませんでした。

 

それがようやく2018年12月の満月の翌々日早朝、みなかみ町を朝早く出て渋川市に向かい、月の入り時刻は午前7時55分であったので、山の高さを考慮して1時間ほど前からスタンバイすることができました。

すると、

 

 

 西の空に雲が流れておりハラハラしましたが、雲の流れが早かったのでなんとかなるだろうと待っていたならば、ちょうど眠り姫の上に雲の下から月が でてきました。

 

 そのまま降りてくれれば、なんとか眠り姫のお腹に降りてくれるかと期待しましたが、降りた先は真下に位置するお腹より、もう少し上のオッパイの位置でした。

 

 

月の出月の入りマップで見てみると

 まだ冬至直後で、月の入り方角は小野子山方面になります。

 

しかし、のちに気づいたことですが、場所を変えればほぼピッタリの位置で見ることができます。

やはりできれば、子持神社の参道上で見れる位置を確認したいものです。 

 

また1、2月の満月直後の数日にもチャンスがあります。

 
 

そもそも、古代において祭礼、祈りの多くは夜を徹して行われるものでした。

西暦での暮らしが日常化した現代ではなかなか気付かれないかもしれませんが、伝統行事の多くにこうした習慣は最近まで残っていました。

 

そうした夜の祈りの中でも、1年のうちで最も夜の長い日(冬至)、この日から太陽のエネルギーが増していく日に祈り続け、その夜明けに、自然歴の上での生と死の転換、生命の授受が行われると言われます。
大嘗祭も天皇霊の授受がそのような場として行われているようです。

1年のはじまりは、西暦の1月1日に意味がないのは言わずもがなですが、旧暦の1月1日と共にこの冬至こそ、陰陽のリズムからは1年のはじまりにふさわしい日と見られていました。


(天皇の神事として謎の多い大嘗祭についてはこちらを参照 大嘗祭に秘密の儀式が・・・

 

こうした古来の月に関わる習慣のことを知ると、まったくの推測ですが、子持神社のこの参道の位置、もしくはこの東西のどこかの場所で、子宝を願う女性が満月の夜を徹して祈り続けて、明け方になりようやく東から太陽がのぼる時。

眠り姫のお腹に月が沈み、まさに感動をもって生命受胎の瞬間を見て祈りが成就されたことが想像されるのです。
 

私の勝手な推測にすぎませんが、古代の人々がこれを意識していなかったとはとても思えません。

関連ページ「年のはじまり、月のはじまり、1日のはじまりのこと」

 

 

なお、『子持の眠り姫』という呼称は、私たちが勝手につけたものですが、このストーリーと命名の由来については、『神道集』のなかの以下の記述に依拠しています。(『神道集』は、関東など東国の神社縁起を中心とした、本地垂迹説に基づいた神仏に関する説話集)

 

『神道集』第三十四 上野国児持山之事

日本国第四十代天武天皇の御代に、伊勢国渡会郡から荒人神として出現し、上野国群馬郡白井に保(保は律令制下の郷里の単位で、庶民開墾の私田の地)に神となって現れたのが児持大明神である。

その由来は、

 伊勢の阿津野の地頭に阿野権守保明という長者がいた。保明は子の一人もいないのを悲しんで、伊勢大神宮に祈願した結果、児守明神に祈願するとよいという指示があった。そこで児守明神に参籠祈願すると、七日の満願の暁、御宝殿の内から二十二、三に見える女性が現れ鏡をくれる夢を見た。

帰国後間もなく阿野保明の奥方は懐妊。やがて持統天皇の七年の三月中ごろ無事安産。取り上げてみると鏡のように曇りのない美しい姫君で、父母共に大喜び、児持明神から授かったので児持御前と名付けた。

 

 

 

 

そして1月21日(月) 十六夜の日に、ようやく眠り姫のお腹に入る月を撮影することが出来ました。

 残念ながら月の入りが8時頃であったため、太陽が上がってしまっているので、月の明かりが弱く微かにしか写りませんでした。それでも、子持神社の参道からこの受胎の瞬間が見れることは確認することが出来ました。

もう少し月の入り時刻の早い十五夜以前に再度撮影を試みてみます。

 

ほとけは常にいませども

うつつなるぞあはれなる

人のおとせぬあかつきに

ほのかに夢にみえたまふ

    『梁塵秘抄』より

 

 

2021年から幸いなことに叔母の家の犬の散歩当番がなくなったので、以前よりは撮影チャンスは増えましたが、天候や私の根性などの条件が折り合う機会がなかなかありませんでした。

それがようやく2月27日、雪が散らつくなかにもかかわらず西の空だけ運よく雲が切れて撮影することができました。

月の入り、6時26分

地平にかかる雲がわずかに遮っていますが、まさに受胎の瞬間です。

 


2月27日の月の出、月の入方向   月の入時刻6時26分、日の出時刻6時18分

翌日、もう少し南のお腹の上に落ちるチャンスを狙います。


2月28日の月の出、月の入方向    月の入時刻7時1分 日の出時刻6時16分

 

ところが、たった1日の違いですが、予想以上に月の入る位置は南にずれていました。

 

さらに追い討ちをかけるように、東からは太陽がのぼりはじめ、周囲はどんどん明るくなります。


ということは、改めて眠り姫が受胎する瞬間は、十五夜ではなくて限りなく満月の日に限られているのではないかと思われます。

つまり、旧暦・陰暦の新年、小正月の満月の日のみに見られる現象ではないかということです。

 

月の入位置の変遷

 

このことを確認するには、来月の満月の日、来年の旧暦12月(西暦2022年1月18日)満月なども比較してみなければなりません。

近く、より良い条件でこれらを撮影できたらまたこのページを更新させていただきます。 

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「無防備都市」と対極の無防備軍隊 〜中村哲医師が世界に示したこと〜

2021年01月01日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

ロッセリーニの名作映画『無防備都市』は、私には衝撃的な戦時下の悲劇的なシーンが強く印象に残るばかりですが、「無防備都市」という言葉のもつ意味は、まったく知らずに観ていました。

舞台は、ナチス統治下のローマ。
そこで活動するレジスタンスが描かれているのですが、おたずね者の指導者と、協力者の神父は、指導者のかつての恋人の裏切りでナチスに逮捕されてしまう・・・といった救いをどこに求めたら良いのだろうかというほどのストーリー。
この映画タイトルに対する私の印象は、厳しい戦時に対して、無防備な都市の姿くらいに考えていたのです。

当時のイタリアは、第二次世界大戦時、日本とドイツと三国同盟を結んで、米英連合国側と戦っていましたが、イタリアは自国諸都市への空爆が始まると、早々にムッソリーニを解任して、全世界に休戦を告げています。

この変わり身の早さは、ドイツや日本がその後の泥沼になっても戦い続けた姿からすると、イタリアの方が国民の正義感や平和嗜好が強かったというよりは、いささか失礼ながらも、あまりに軟弱すぎるのではないかと思われるほど早いものでした。それはのちに、ドイツと日本の間で、今度やるときはイタリア抜きでやろうぜ、と冗談話が交わされるほどでした。

でも、イタリアがこのようにいち早く休戦を告げた理由がどのようなものであったかということは、日本の景観政策の貧しさを追及指摘している井上章一の『日本の醜さについて』(幻冬舎新書)を読むことで初めて知りました。

またその理由は、木村裕主の『ムッソリーニを逮捕せよ』で、さらに詳しく知ることができます。
「戦争に勝つためではなく、それをやめさせるために全力をつすく。被害を最小限におさえる形で、イタリアの、いわば敗北を勝ち取ろうとする。そんな軍人の、どうどうたる姿が、この本にはえがかれている。」

イタリアがムッソリーニを解任して、休戦に至る経緯はちょっと複雑なので、もう少し詳しく補足しておきます。

日独伊の三国同盟を結んでいた枢軸国側ですが、三国の中でもイタリアは、国力、軍事力ともに弱い立場にありました。その国の弱さがムッソリーニ、ファシスト党の登場を生んだ背景でもあるわけですが、イタリアの場合、ムッソリーニの他に、国王とローマ法王という、3つのトップがいました。

始めのうちこそムッソリーニの勢いはあったものの、次第に国民の間だけでなく軍内部でも、この戦争はムッソリーニの戦争であって、イタリアのための戦争ではないといった空気も流れ始めていました。
そんなとき、1942年(昭和17年)に東京を初空襲したアメリカのドウリトル少将指揮下の爆撃機隊が、1943年にローマを爆撃します。

ローマは、カトリックの総本山ヴァチカンを擁することから、攻撃対象となるようなあらゆる軍事施設、兵力をおかない「無防備都市」の宣言を検討している最中のことでした。宣言によってローマが空襲されることはないだろうと、イタリア政府はもちろんローマ市民に至るまで等しく期待していまた。それだけにローマ爆撃は、ムッソリーニにもローマ市民にとっても青天の霹靂に等しいショックだったわけです。
しかも戦局は、ムッソリーニ周辺からも、ヒトラーに戦争からの離脱を伝えるべきとの声が囁かれていた時期のことです。

他方、連合軍はイタリア南部シチリア島からの侵攻を計画。総兵力16万、軍用車両1万4千、砲門千八百。これを海空軍の大部隊が援護。
「史上最大の作戦」で知られるノルマンディ上陸作戦が兵力10万7千です。それを遥かに上回る規模のものでした。
これを迎え撃つ軍事力はイタリアにはとてもないことから、休戦に持ち込むことはイタリアにとって不可避であったわけです。
ところが、先に休戦をしてしまうと、今度は国内にいるドイツが敵国となりイタリア全土がドイツの占領下となって連合軍と間の戦場と化すことになってしまう。

イタリアとしては、できるだけドイツにさとられないように、連合軍に対して休戦を伝え、いち早くドイツ軍を分断、敗走させるよう連合軍に協力することが最良の選択であると判断されていました。
そのような共通認識が広がる中で、ムッソリーニ逮捕を敢行し、敵である連合軍との接触を試みていたわけですが、戦時中の内部の動きの不統一や連絡の不備などがあり、計画通りにはなかなか進みませんでした。

結果、イタリアの裏切りを知ったドイツはイタリア全土を事実上の占領下に置き、連合軍と対峙することに。そのためにドイツは山中に幽閉されていたムッソリーニを救出するという離れ技を行い、イタリアファシスト勢力の復活を援助し、イタリアはムッソリーニとレジスタンの内戦状態となっていまします。
連合軍も、イタリア軍部からの助言で、ローマ以北に侵攻すれば、ドイツ兵力を分断して敗走させられる予定でしたが、予想外にドイツ軍がローマ周辺に集結しているとの誤報が原因で、想定外の長期の闘いとなってしまいました。

そんな軍事的にも、国の威信の上でも重要なローマが、刻々と変わる戦況の中で「無防備都市」となるはずであった目論見が崩れて、同盟関係であったときから必ずしも折り合いの良い関係ではなかったドイツが、完全な敵対国となってしまった直後の姿が、映画「無防備都市」の舞台であったわけです。

 

あらためて、なぜ「無防備都市」と言われるのか?

それは空爆に曝されるようになって、イタリアの歴史的建造物が無残に破壊される姿は、多くのイタリア国民にとって、耐えがたいことでした。
戦争による破壊が、その国民にとって耐え難いことであることに民族の差はないと思いますが、歴史建造物に対する思いは、やはりイタリアならではのものがあったようです。

そこでイタリアは、都市への空爆が始まるや否や、まずローマの非軍事化をはかり、攻撃対象となるような軍隊、軍事施設を一切おかない都市にしようとしたのです。それに本来は同盟国であったドイツも同意し、撤退していくはずであったのですが、ドイツ軍がそのまま駐留してし、寝返ったイタリアを占領下にしてしまったために悲劇が生まれました。 

 

 

ちょうどこの「無防備都市」という非軍事化政策のことを知った同じ時期に、アフガニスタンで活躍されていた中村哲医師の殺害という悲報が流れてきました。

実は、中村医師の危険なアフガニスタンでの活動スタイルも、この「無防備都市」と共通の考えです。

紛争地域での危険な支援の立場が、必ずしもこうすれば絶対に大丈夫などということが保証されるものではありません。
アフガニスタンをはじめ世界の紛争地域に入るには、ジャーナリストであろうが国際支援団体であろうが、必ず武装した兵士を護衛につけることが常識です。

しかし、中村医師が最も有効な方法としてとった方法は、自らの安全のためであっても武装はせず、中立の立場を貫くことであったわけです。武装すればそれ以上の武力で必ず襲われる。狙われれば防ぎようはない。
つまり、選んでいたのは「無防備都市」が目指していたのと同じやり方です。

実際に中村医師は、長年そのスタイルで身の安全を保つことができていました。

外部から来た人間としてではなく、現地で同じ服装や習慣内部に溶け込むことを第一にして、決して武装した護衛をつけることは考えませんでした。

さらに素晴らしいのは、中村医師の主宰していたNGOは、その活動資金に、いわゆる公的資金、政府、国連からの資金が一切入っていないことです。この資金の面でも中立性は担保されていたわけです。

それが最近になって、中村医師が狙われているとの情報が噂されるように変わってしまいました。

中村医師がアフガニスタンへの貢献を感謝され、2018年2月にアフガン政府から勲章を、2019年10月にはガニ大統領から「名誉市民権」を授与され、大統領とのツーショット写真が撮られて出回り、それまでに保たれていた中立性が壊れてしまったのです。 

国のトップから感謝されたのだから光栄ではないかと言われるかもしれませんが、国のトップというのは、中東などの紛争地域に限らず、先進国であっても特定の政治的な立場を持っているものです。それが、中東などの国ともなれば、言わずもがなです。

 

 

実は、これと真逆の構図からくる危険が、中東に派遣される自衛隊の姿にはあります。

軍隊を持たないことを憲法でうたう日本の自衛隊(戦うことを禁じられた軍隊)が、直接紛争には関わらないという建前で、「非戦闘的」軍人?が、純粋に中立的立場ではなく、露骨に米軍への肩入れを政府が表明したうえで、当該地域に派遣されてしまうのです。

中東諸国との関係だけでなく、何よりもアメリカへの絶対的支持を国際的に表明して、しかも使ってはいけない軍事装備を持ったまま紛争地域に入っていくのです。

敵の攻撃を受けないためにとられた「無防備都市」の思想とは、最も対称的な選択を「平和憲法?」の名のもとに国が行っているのです。

その異常な姿は

第一に、「平和」と当該地域の「安全」確保のための非戦闘的方法と言いながら、アメリカの意向には絶対に逆らわない政府の「軍隊」であることを国際的に表明して行動していること

第二に、派遣先の国々には、国連への協力であろうが、人道的援助であろうが、世界から見れば武装した軍艦や車両、小銃などの兵器を持った「軍隊」として対峙しているということ。

第三に、自衛隊の派遣先では、いかなることが起きても、軍隊を持たない国と規定されている「自衛隊」は、どんな不測の事故が起きたとしても、「軍隊」としての行動は禁じられていること。

こうした矛盾を抱えたままであるために、「軍隊」ではないという建前を通す自衛隊員には理不尽極まる環境を強いながら、まさに「無防備軍隊」としての姿で危険な紛争地域に派遣され続けているわけです。

この矛盾を放置したままの「護憲」「改憲」論議は、どんな現実的課題を語っても無意味であると私は思っています。

 

これを話すと友達をも失う恐れがあるのですが、日本にどんなに立派な平和憲法なり憲法九条があろうが、まず独立国として他国との条約を主権国家として自国の憲法の下におくことが出来ない限り、あらゆる憲法論議の前提は成り立たないものと思ってます。

日本が平和憲法を保持する条件も、まず「無防備都市」が成り立つ中立性と独立国としての主権の獲得が先で、その条件が欠けた「九条」は、「護憲」派の方々には申し訳ありませんが、どう考えても欠陥条文と言わずにはいられません。
かといって今の大半の「改憲」派は、もっと遠い立場にありますが。 

そして「戦うことを禁じられた軍隊」という自衛隊の法的矛盾をまず解決することも不可欠です。
また、安保のような軍事同盟を結んだ場合であっても、まず第一に主権国家としての憲法判断が他国の意思に優先されることを抜きにして「平和」を語ることはできません。

平和を獲得するには、必要な階段のひとつひとつ、どれを抜かしても勝ち取れるものではないので、時間はかかっても、はじめの一段からしっかり築いていく覚悟がまず求められます。
どんなに困難であっても、日本が正常な独立国としての立場を貫けることを目指さずして、どこに平和がきずけるというのでしょうか。

このことを抜きにして、これがあれば平和は絶対に守れるなどというものはない(九条問題を含め)と私は思っています。

 

映画「無防備都市」の意味と、中村医師の悲劇を思うほどに、ここは譲れない気持ちがあらためて強くなり、毎度未整理な文で恐縮ですが、書かずにはいられませんでした。

中村哲医師は、確かに最期は殺害という悲しい結末に至ってしまいましたが、殺害される直前までは(殺害されたときでさえ)かたくなに護衛の武装兵士をつけることを断わり続けていました。

中村哲医師のその行動こそが、あの世界一ともいえる危険なアフガニスタン国内で長年にわたって支援活動を続け、信頼と実績を勝ち取ることができたのだということを忘れてはなりません。くれぐれも、中村医師が身をもって立証してくれたのは、あんな危険な地域にいれば結局こういう結末になるのだということではありません。「中立」(特定の立場に立たないというだけではなく、政府からの金銭的物的支援・援助も受けない)、「非武装」(護衛のためであっても武装兵士をつけない)という前提が壊れた瞬間に、長年積み重ねてきた信用や安全が崩れてしまったのだという現実です。

確かに非武装という選択は、大変な勇気のいることです。
ただちに安全を保障するものではないので、決して安易に他人にすすめられるものではありません。
それでも、武器を持って守り戦うことに比べたら、あらゆるこちらの権利の侵害を想定したとしても、双方の死傷者の数は間違いなく減らすことができることは間違いありません。

くれぐれも誤解のないよう繰り返しますが、中村医師が身を持って示してくれたのは、決して「九条」なり「非武装」や「中立」の法律や概念さえあれば、自動的に平和が保証され守られるといったようなことではありません。互いに異なる文化に対する相互理解、人的・文化的・経済的交流を築く人びとの「行為の積み重ね」によってのみそれは保証されるのです。幅広い人びとが中村医師の平和活動への貢献は評価してくれていますが、この点を見落とさないよう願うばかりです。

もちろん簡単なことではありませんが、この中村哲医師の行動こそが、世界がどのようにして戦争のない平和な社会を築いていけるのかという難題への大事な道すじを世界に示してくれたのだと私は思います。

 

 

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補足 アフガニスタンでの非合法武装組織解体プログラム

 

アフガニスタンにおける様々な国際支援活動で日本はどのような活動を行なっているのでしょうか。紛争地域への支援では、自衛隊派遣の仕方や医療活動ばかりがニュースになりがちですが、他に行われている大切な取り組みのことをひとつ紹介させていただきます。

国連ミッションで通常行われる平和構築活動は、「政治的な役割と、軍事的な役割(国連PKO活動や国連警察活動など)の双方を指揮、コントロールする」ことにありますが、アフガニスタンでは、アメリカが国連の枠外で「不朽の自由作戦」を展開してしまっているため、この方法は取れませんでした。

そのため、「アメリカがアフガン軍の再建をリードし、ドイツが警察の整備を指導し、イギリスが麻薬対策をリード、イタリアが司法改革を担当し、日本が武装解除を担当する」といった国際分業のかたちになりました。この方法をとると、国連の権限が弱いことや各ミッションの連携が取れないなどの弊害が生じます。

しかし、制約がありながらもアフガニスタンでの地方軍閥の解体プログラム「非合法武装組織解体プログラム=DIAG」は、世界のこれからの非武装化活動を考える上でも、貴重な経験を積んでいます。
「非合法武装組織解体プログラム=DIAG」は、国家の根幹的な治安機能を回復するために必要な「武装解除」「政府改革」「警察改革」「司法改革」「刑法改革」の5つの要素で構成されています。そして日本が中心となって「武装解除」の分野の指揮をとっていたのが、先に紹介した『国際貢献のウソ』の著者、伊勢崎賢治さんです。

 

長い戦争の歴史を持っているアフガニスタンでは、国土の多くが4,000〜7,000メートル級の山々に囲まれていることもあり、地方ごとに様々な軍閥勢力が点在しています。

したがって、広い国土をひとつにまとめること自体がとても難しいのですが、にもかかわらずタリバンは急激にアフガニスタン全土にその勢力を拡大しました。
短期間に勢力を拡大できた最大の理由は、アフガニスタンの貧困です。
背景には、隣国パキスタンがアフガン領内を通過する天然ガスのパイプライン計画が立ち上がり、その遂行のためにタリバン勢力をお金で支援したことがあります。

「タリバン兵士が420人いるとすれば、そのうち400人は、1ヶ月100ドルの給料をタリバンからもらうために働いている兵士です。パキスタンに支援され、イデオロギーのために戦っている核となるグループは20人にすぎません」

そこでDIAGの活動は武器の放棄だけではなく、その後彼らに仕事を与えることをセットにして武装解除の取り組みを行うようにしました。もちろん、タリバン勢力の強いアフガニスタン南部では、まだ対話すらも成立しない困難な環境にありますが、北部では十分とは言えませんが徐々にその成果が広がりつつあります。

戦争が常態化したようなアフガニスタンではありますが、それだけに意外と「もう戦争は終わらせたい」と願う国民や、「国連がバックについているなら信用する」といった国民も多いものです。
しかしそれも当然のことながら、そう容易いものではありません。

信頼を手がかりに武装解除を進めるのですが、現実には武装解除と引き換えに約束した復興開発プロジェクトが、「計画がなかなか実行されない」、「予算が足りない」などの自体が起こり、そのたびに「騙された」「裏切られた」などと言われるはめになってしまうのです。

実は、この点こそが平和構築のプロセスではとても大事なことです。
計画は着実に計画され実行され続けることが不可欠です。組織が大きくなれば、なかには汚職や裏切りがはびこる危険も伴います。
まさに中村医師はこうした期待を裏切らない信頼の積み重ねにこそ最も気を配っていたと言えます。
また日本の場合でも、どんなに平和憲法があろうが、そのもとに一つひとつ信頼を得られる行為の積み重ねがなければ、たったひとつの裏切り行為があっただけで、その理念も支援活動も台無しになってしまいます。
このようなことは、こうした武装解除の活動に限りませんが、計画や理念の正しさ以上に、それを信頼してもらえるような行為の積み重ねこそが、何よりも大事なことです。

国際社会のなかで、かつては多くの信頼を持っていた日本こそが、それを裏切ることなく更なる信頼の行為の積み重ねをしていきたいものです。

    (参照 東大作『平和構築 ーアフガン、東ティモールの現場から』(岩波新書)

 

 さらに、中村医師の名誉のために付け加えますが、こうした平和構築に繋がる中村医師の姿は、世界平和のためにはとても重要な示唆を与えるものに違いありませんが、中村医師自身にとっては、より多くの命を救うための強い意志からすれば、あくまでも命を助ける活動に付随した必然行為の一つにすぎません。
 あえて極端な言い方をすれば、法律も理念もいらない、あの小柄な風貌からは想像つかないほどただひたすらに強い意志を持って、その貫徹のためには強盗さえしなければ手段も選ぶなと強弁するほどの精神に支えられていたことこそを忘れないでいただきたいものです。

 

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コロナに始まりコロナで終わった1年で見えたこと

2020年12月31日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
2019年にインフルエンザにかかった患者数 2000万人(推定)
     インフルエンザで亡くなった人の数  3571人
     他の病気も含めて亡くなった人の数 13000人
 
2020年にインフルエンザにかかった患者数 約700万人
     インフルエンザ死亡者数については年末時点で激減しているという情報のみで具体的数値はまだわかりません
   新型コロナ患者数       5万人
     新型コロナで亡くなった人の数 不明
     他の病気も含めてコロナで亡くなった人の数 3000人


こういう数字は、統計の取り方で誤差がある前提として見なければなりません。しかしそれを加味しても、明らかに今年は新型コロナのおかげ(他の要因もあったとしても)で、インフルエンザ感染者、死者ともに激減しました。
 
2020年は赤の太線   横軸は週               国立感染症研究所     
 
 
新型コロナに伴う人の外出自粛、営業短縮などにともなう不況は、これからますます深刻化を増すのではないかと思われますが、本来、新型コロナの怖さで重視べきは、ほとんど医療機関内部の問題であると思います。
基礎疾患のある人が感染した場合、症状の急変スピードがとても早いことが最大の特徴なので、医療水準は決して低くないといわれる日本でも救急医療体制の異常に遅れた現状が事態を深刻化しています。

すでに市中感染の段階に入ってしまっているようですが、それでも欧米の水準に比べればまだマシな方です。
にもかかわらず、なぜ日本はこれほど景気回復の遅れ、国民の経済ダメージが益々深刻化し続けるのでしょうか。
それは、政策の優先順位こそが誤りの最大原因であると思います。
 
元々、救急患者のたらい回しなどが問題になっていた日本です。
在来のベッドをコロナ用に転換して、空きベッドを確保しなければならない現状が、他の医療を圧迫しているだけでなく、病院経営そのものを大きく圧迫し続けています。
本来は、そこにこそ、国の財政支援は集中すべきでしょう。

そして根拠のない過度の自粛は控えて、経済を回すことだと思います。
経済支援は、業界団体を中心にするのではなく、最底辺の人たちから支援すべきです。
様々な経済支援対策が確かに大事ですが、順番からすればまず医療支援体制の確立が先と考えます。
どうか政策決定は、対処療法ではなく優先順位を明確にしてから行ってもらいたいものです。
 
大型病院=総合病院=高齢者最後の行先になってしまった日本の医療体制は、この機会に、大型病院の主な役割を他の医療先進国のように、救急医療中心に変える時に来ていると思います。
国や行政機関もまったく同じ問題ですが、上から下まで、同じスタイルの規模の差ではなく、規模に応じた役割分担をもっと明確にすべきかと思います。

日野原さんなどは、早くから総合病院は各専門医の間を検査でたらい回しにしていくのではなく、受付段階で総合医のような立場の先生が適切な診察手順を判断すべきだと言ってました。しかし、本来はそれこそ身近な地域のかかりつけ医がすべきことのはずです。
スウェーデンでは、確か70年代くらいから、地域医療を軸にすえて診療所がまず地域の患者を看る体制をつくりました。それは日本のお寺の檀家制度のようなもので、診療所で受け持つ住民の数で医師の基本報酬が決まる仕組みなので、薬や治療手数を無闇に増やす動機そのものがありません。風邪をひいたくらいでは、薬も出してもらえないほどです。
 
高福祉高負担の北欧では、効率を上げてなお行政コストを下げるため、
国は経済保障、
県は医療サービス保障、
日本の市町村にあたるコミュニティは生活サービス保障
といったすみわけができてます。
 
今後、コロナに限らず未知のウィルスは、毎年のように出てくる時代です。
早急に今の対処療法的政策をやめて、抜本的な医療をはじめとする国の枠組みを作り変えていかなければなりません。
 
こういう話しをすると必ず出てくるのが「財源論」です。
しかし、常にそうした場で出される「財源論」は、国でも企業でもほとんどの場合がウソです。
何事でも大事なところにお金をまわすのが仕事であり、そこにお金を引っ張ってくるのが仕事だからです。財源論の大半は、「その問題はそれほど重要ではない」という本音の別表現にすぎません。
事実、ヨーロッパでは、この緊急事態下では、国の予算の財政規律(プライマリーバランス)を求めることは除外することを真っ先に国会で決議して事態の対応にあたっています。
 
そうした判断は、決して日本で出来ないことではありません。
難しいことだからわからないのではなく、過去の事例や他国の事例に学ぶ姿勢が欠けているだけです。
 
社会の枠組みを変える議論を、上の方の人達へのお願いではなくもっと私たちの間で活発化して、対処療法に追われることのない明るい日本をサッサと築いて行きましょう(^^♪

 「政治に無関心な人民は愚かな政治家に支配される」
             (古代ギリシャの格言)

日本で元々遅れている救急医療体制が整備されれば、今回の新型コロナもワクチン頼みではなく、それほど過度に恐れるようなものではないことがわかると思います。
 
といっても、オリンピックは早く止める決断すべきと思ってますが(^_^;)
 
慌ただしく無理にまとめまてしまいましたが、
どうぞ皆さま、良い年をお迎えください。
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神の名を口にしてはならぬ  ~歌劇「モーゼとアロン」~

2020年12月19日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
「神の名をみだりに口にしてはならぬ」
モーゼの十戒に出てくる戒めの言葉です。

ユダヤ教、キリスト教のことは、ほとんど理解しているとは言えない私ですが、
多くの宗教の開祖は、偶像崇拝や教団を作ることを強く戒めました。

エジプト文明の神々に対抗する立場のモーゼは、権威を強く否定する身に育ち、神の名を口にした瞬間から、それは戦争をうみ、権威を振りかざすものに変質してしまうということを目の当たりにしていました。

そもそも神は、かたちのないものであり、言葉では言い表すことのできない「何者か」であることは、古来、文明圏を問わず世界の原初信仰に共通する考え方でした。
それが共同体の発展、古代国家の登場とともに一神教が生まれ、権威のために神々が利用されるようになりはじめます。
モーゼが生きていた時は、まさにそのような矛盾を背負った時代でした。

 
そのためモーゼの兄アロンは、形のないもの、言葉にできないものをどうやって人に伝えたら良いのかと、巧みに言葉を駆使してモーゼが行わない偶像もつくりあげてしまいます。
 
 
ユダヤ人でもあるシャーンベルグは、まさにこれを自らのテーマとして、この物語を最後の仕事として取り組みました。
十二音技法をはじめとする現代音楽の先がけをなしたシェーンベルグですが、この曲は電子音楽が普及するような時代にならなければ上演は不可能であろうと考えていたようです。ところが、時代は彼の想像よりもずっと早く進化しました。
 
かたちのないもの、言葉にならない何者かの表現は、宗教と芸術に共通する根本テーマでもあります。
 
     何ごとのおわしますかは知らねども、
          かたじけなさに涙こぼるる
                   西 行
 
最近、アフガニスタンの中村哲医師の活動に始まって、中東の歴史、ユダヤ教、キリスト教、イスラムなどの宗教や習俗などをこのところ集中して学んだので、何度か、聞いては途中で挫折していたこの難曲を、ようやく通して聴けるレベルになりました。
 
 
主題が明確に理解できるようになったら、今まで難曲とばかり思っていたものが、モーゼとアロン以外はほとんど合唱で語られてることなど、意外とシンプルな構造として聴けるようになりました。
 
 
シェーンベルグ 歌劇「モーゼとアロン」
指揮 ピエール・ブーレーズ
BBC交響楽団 BBCシンガーズ/オルフェウス少年合唱団
モーゼ:ギュンター・ライヒ
アロン:リチャード・キャシリー
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