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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

多数派という意識こそが差別を生む

2025年07月10日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

毎年、サクラの季節になると、どこもかしこもサクラの話題一色になります。

私自身も毎年、何箇所かの一本桜の開花情報を頼りに出かけることはとても楽しみにしています。

ところが春は、サクラばかりでなく、たくさんの花々が一斉に開花するときです。華やかさでは桜に劣るかもしれませんが、限りないほどたくさんの美しい花々をこの時期には目にすることができます。決してそれらの花々は、桜の脇役として咲いているわけではありません。

それぞれが掛け替えのない役割をもって、太陽と土と風と虫たちとの絶妙の共演バランスのうえでタイミングをはかって開花しているものです。


確かに日本人がサクラに対して特別の感情を持ち、それを愛でる長い歴史と文化を持っているのは素晴らしいことです。菜の花畑やダイコンノハナの群生をベースにした桜の花の美しさも格別のものがあります。

でも、これほどまでに桜一色になってしまう季節に咲いている桜以外の他の花々は、どうしても桜の圧倒的存在感に押されてしまうものです。それは決してサクラが悪いわけではありません。

圧倒的多数の存在そのものが、無意識に少数のものを圧迫してしまう関係にあるからです。それを通常、多数の側は意識しません。

 


自分たちが多数になることによってのみ、「正義」が実現できるかの従来型発想の図

 

ニッチという言葉があります。

ビジネスでよく使われる言葉で、隙き間産業、隙き間商品などに対して用いられる言葉ですが、このニッチという表現が生物学では「生態的地位」と訳されることを知りました。

 生物学でニッチは、「適応した特有の生息場所 (生態的地位)」のことを指す。生物は、種が生きていくために適した環境を求めるが、同じエリアに多くの種が存在する場合、生存競争を勝ち抜くか、エリア内で棲み分けをすることで、それぞれの種を存続させる(例:同じエリアで日中は昼行性のワシが活動し、夜間は夜行性のフクロウが活動する)。このように、その種に適応した生態的役割や位置のことをニッチと呼ぶ。

つまり、すき間などの少数、弱者の立場を表すというよりは、それぞれの存在固有の地位を表すという意味です。

ニッチをこの生態的地位とする解釈からは、ビジネス用語として用いられるニッチの隙間のような、それぞれの個体数の多い少ないといったイメージはなくなります。少数、あるいは希少な側にいるからニッチなのではなく、それぞれの個体が持つ固有の立場、条件こそ意味があるということです。

ニッチとは、隙間にある希少な存在、少数者ということではなく、それぞれに固有の立場であるとみると、多数派、あるいは少数派という数を軸にした分け方そのものの意味が消えてなくなります。

多数派であるか少数派であるかの問題ではなく、
それぞれの「あり様」こそが大事であることを図式化したもの

実は、最近、そうした多数、少数の力関係を示す典型的ともいえる歴史的な逆転劇起こっています。

ローマ帝国の誕生以来、長い間あたり前のようにまかり通っていた欧米中心の白人社会が、アメリカやヨーロッパの国内に移民が大量に流れ込む時代になってきたことで、それぞれの先進諸国内で白人社会が必ずしも多数派とは言えない環境が急速に広がりはじめました。

はじめは奴隷として自ら増やしてきたアフリカ系黒人に加えて、ユダヤ難民、肌の色を問わない戦争難民、イスラム系移民、中国、日本をはじめとするアジア系移民など、いつの間にか、欧米諸国のどの国を見ても、必ずしも白人社会がもう多数派とは言えなくなる変化が加速しています。

1976年にはアメリカ国民の81%が白人のキリスト教徒でした。
WASP(White Anglo-Saxson Protestant)や トランプ時代のMAGA派(Make America Great Again)の求める姿はは、たしかに実態としてありました。
それが今の白人比率は43%にまで減り、白人の熱心なプロテスタントはわずか17%にまで減っています。

また、かつてG7の先進諸国が世界で占めるGDPの割合は7割近くもありました。
それが今では、G7の占めるGDP比は5割を切り、今後も間違いなくそれは下がり続けます。それは、もともと世界の人口比で見れば、白人社会などというのは3割程度の少数派にしか過ぎないという現実を確認するだけのことなのですが。

こうした変化によって、これまで長い歴史の間、当たり前のように思っていた欧米白人中心の社会観というものが、いつの間にか自国内での立場が少数派になりはじめていることに気づき出したのです。それが必然的に巻き返しを求めるエネルギーとして移民差別やナショナリズムの台頭などの姿として現れはじめたわけですが、トランプ現象などもその典型的な現れです。

社会や政治に対する関心が薄れて、投票率は最早議会制民主主義が機能しているとは言えないレベルになると、個々のマイノリティーの声に耳を傾けることよりも、より刺激的な保守発言の方が票を集めやすくなってくるものです。そうした変化、加速する対立が今後どのようになっていくか、私には分かりませんが、他方で、こうした変化には世界史的に見て今までには考えられなかったようなものの見方の変化をもたらしてくれていると思います。

 


それは、長い歴史の間ずっと常識と思われていた欧米白人社会の常識(=「正義」)が、とたんに揺らぎはじめたということです。

常識の側とか正義の側とかいった問題ではなく、今まで常識と思っていた立場が、その内容の真偽の問題ではなく、ただ少数派になったというだけで、根拠を失い、ただそれだけの理由で自分たちが圧迫や弾圧を受ける側になっていると気づいたことです。つまり、欧米白人社会が、理念上の平等を目指すかどうかに関わりなく、社会の中で自分たちがただ少数派であるというだけで必然的に不利な立場におかれ、様々な圧迫、迫害を受けることになるのだと、千年、二千年単位の歴史レベルではじめて気づきはじめたのです。

マイノリティーの人々の置かれてきた立場というのは、彼らに対する偏見や差別をなくして平等な社会と築きましょうなどという理念では解決しがたい、絶対的な少数側の不利を抱えている現実に、はじめて自ら白人社会の側が向き合うことになったのです。

 


ここに至ってようやく私たちは気づきはじめました。

少数者は、多数派になってこそ「正義」が実現できるものではないということを。

多数決で過半数をとりさえすれば、それで合理性を得たと判断できるものではないということを。

 


私たちは、性的マイノリティーや少数民族、あるいは身体障害者に対して、「差別することはいけません」、「平等でなければならない」といった感覚だけで接しがちですが、先のことを振り返ると、差別が起こる圧倒的な部分は、マイノリティーに対する様々な偏見よりも(もちろんそうした偏見も大きな問題としての実態もあります)、自分たちがただ多数の側に立っているという勘違いに端を発していることが非常に多いことに気づかされます。

これまでそんなことを言ってもほとんど説得力はなかった時代が長く続きましたが、欧米白人社会の地位の低下を彼ら自身が体験することで初めて、政権交代や革命などによる変化以上に、本質的なことを人類が学ぶことができているように思えます。

そもそもそれぞれ固有の価値を持つ生命体は、いついかなる場合でも数の問題や多い少ないで解決できるようなものではありません。それは多数決を単純に否定するという意味ではなく、社会という複雑な利害関係を調整する一つの「方便」や「知恵」として多数決はあるに過ぎず、それを絶対視してしまいうような「民主主義」観こそ克服していかなければならないということです。

 


決して春になると一斉に咲き誇るサクラが悪いわけではありません。

白人社会が悪いわけでもありません。

人間だけに起こる、自分たちの側だけが「常識」であり「正義」の側に立っているかの勘違いこそが、無意識のうちにマイノリティーに対する圧迫、差別を生んでいるということです。

社会そのものが、ある程度の均質性を前提とした横並び社会では、何を「する」かの比較で優劣が決まっていました。それが価値観の多様化とともに多極化した社会では、何をするかではなく、人びとはどう「在る」かに軸足を置くようになりはじめました。

異なる価値のもの、数値化が難しい質の問題を不特定の人に説明することは、そもそもとても難しいことです。それを数や量に換算することでこそ、それが可能になるものです。しかし、数や量に安易に変換することのできない質や価値というものを、私たちは面倒くさがらずに、よりあるがままに受け入れる努力というものを決して怠ってはなりません。どんな個体でも、数の問題ではなくそれぞれが固有の生態的地位を持っているということに今ようやく気づける時代になりはじめました。

 


日本社会の政治、経済分野の後退現象はまだまだとどまることがないかもしれませんが、世界史的な変化として今、こうした変化に少なからぬ人びとが気づきはじめたことが、私には嬉しくてなりません。

本当の民主主義に近道はありません。

必要な、より遠回りすべき価値のある道のりが、やっと見えて来たところです。



 #ニッチ #生態的地位 #マイノリティー #少数派 #多数決

 

関連ページ 差別「しない」ではなく差別を「感じない」意識 

      心強い1%のリアルな力

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宝くじで当てた1億円の使い道

2025年03月23日 | 夢日記 (手は届かないけど観念だって実在なんだから)
宝くじで1億円が当たってしまいました。

あまりにも運が良いので、半分はその時隣りにいた友人に、幸運を呼び込んでくれたお礼として分けることにしました。

残りも自分で持っているとすぐ使ってしまうので、相方に3000万を預けることにした。

残りから1000万は、最初に就職してお世話になった非営利団体に寄付することにした。

そんなことをしていたら、相方と些細なことから今まで経験したことのない喧嘩になってしまって、すっかり気持ちが凹んだ。

せめて1日くらいは気を取り直して豪遊しようと、いいもん食って帰ろうと店を探すも遅い時間のためかラーメン屋しか開いていないので、味噌ラーメンに片っ端からバターやコーンなどをトッピングしてビール飲んで帰った。

ただ、その時住んでいるのは汚い長屋で、住民はなぜかハナ肇とかがいるクレージーキャッツのメンバー。
まずはここから立て直さないことには始まらないなと、残りの金はこのメンバーに分け与えるしかないなと分けることにした。

結局、手元には何も残らなかった。

まるで夢のような1日だったなと、口に夢という言葉が出たとき、これは夢だと気づいて目が覚めました😅

ただいま午前2時半。
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急速に浸透する生成AIをどう受け止めていますか?

2025年01月23日 | 出版業界とデジタル社会

2024年から一挙に広がりはじめた生成AIの世界。
身の回りで慎重論も多いなか、その進化スピードのあまりの速さに追いつかんがために、ガンガン喰らいついていく人もたくさんいます。とりわけビジネスの世界では、その導入レベルで大きな差がつくことは間違いありません。

私も、多少の問題はあっても、この進化スピードを考えれば多くの問題はみるみる解決されていくものと考え、技術にはついていけないものの、考え自体は積極導入派です。

仕事ではまわりのスタッフに、まずはプロンプト知識などは気にせず、とにかくどんどん使って馴れてもらうようにスマホアプリの活用を促しています。

 

そこで、慎重派の人たちに向けてこれまでの流れを整理してみると

1,とてつもなく優秀な社員が入ってきたことはわかるが、その能力をわが社でどう使ったらよいのかわからない段階。

2,とりあえず使ってみて、時々とんでもない答えが返ってくるのを何度か経験すると、思い通りの答えの帰ってこないほとんどの原因が、自分のAIへの指示の仕方が具体的でないことに起因していることに気づきます。
 このことは、とりもなおさずAIに具体的な指示ができないということは、人間(従業員)に対しても具体的な指示ができていないことと同じであると気づかされます。

3,現時点で生成AIがかかえている諸問題も、この1年での進化スピードを考えれば、新しいアプリが次々と登場することにみられるように危惧される問題以上に、解決し前に進んでいくスピードの方がはるかに速い。

4,あまりにも急激で大きな歴史的変化であるかに思えますが、産業革命などと何が違うのかと考えると、それはルターの宗教改革に近いものだとわかります。
 それまで教会の中で神父さんをつうじてしか聞けなかった神の言葉が、グーテンベルクの印刷技術の発明にともなう聖書の普及とともに、いつでも誰もが手元の聖書とともに神の言葉を聞くことができるようになりました。
 まさに今の生成AIの登場はこのような歴史的出来事なのではないかと。

5,人間がするべきことは何かという根本的な問いに対しては、多くの情報を収集・分類・整理することはどんどんAIにまかせても大きな問題はなく、むしろ人間がすべき大事なことは、それらの情報をもとにした「決断」と「行動」であることを再認識させられる時代。

6,AIによって生産性が上がるのであれば、人間が本来もっとするべきこと、経済活動よりも生命活動に重点をおく暮らしが可能になるはずで、それは必ずしも趣味や余暇の世界ばかりに生きるという意味ではなく、もっとも神秘に満ちて謎の多い「人間」や「大自然」そのものにエネルギーを注ぎ込むことが活発になる社会といえるのではないでしょうか。

 

AIがどんなに普及しても、人間が本来するべきことを考えれば、人間のすることがなくなるなどということは、まったく私は考えられません。

もちろん今まで行っていた多くの作業で無くなるものは多いと思いますが、最も大切な決断と実行の部分を考えれば、恐れることなくAIはどんどん使ってかまわないことと思います。

先のフジテレビ経営陣の2回目記者会見の姿をみて一層、人間の行うべき「決断」の大切さ、それを理解せずに作業や調整に留まる仕事に追われるだけかの姿は、経営者に限らず自律した人間にとって何が大切なことであるか、改めて痛感しました。

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AIの急激な進化にこれからどう向き合うか

2025年01月04日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

新年明けましておめでとうございます。

 

2024年は、メジャーリーグでの大谷翔平の進化スピードに、ひたすら驚くばかりでした。

他方、昨年たった1年でのchat GPTに始まるAIの進化、普及のスピードにも驚かさせ続けています

通常の物事の進化、発展スピードは、倍々ゲームで増えても驚くのに、AIの進化スピードは、100×100×100×100・・・といったようなレベルで進歩していきます。

大谷翔平の進化スピードでさえ、私たちの感覚はついていけないほどなのに、AIのこのスピードが理解できるはずがありません。

ところが、数学的思考に慣れている人たちは、この次元の違う世界を記号で理解します。

地球上の感覚だけでなく、宇宙の世界レベルを日常把握しているからです。

地上では、近くのものは大きく、はっきりと見えて、とおくになるほど小さく霞んで、やがて見えなくなるのは、数十から数百キロの世界。

それが宇宙では、数万キロどころか、数億、いや何万光年といったスケールが日常世界。

これはとても地上の私たちの日常感覚では、ついて行けません。

 

でも、冷静に考えると地上の日常世界でも、この次元の違う世界を目の当たりにして感じることができる時が身近にあります。

それは、夜の星空。

 画像はイメージです。

地球上の日常では、頑張っても数百キロ先くらいしか見ることが出来ないのに、同じ場所で夜になれば、数万から数百万キロ先の惑星ばかりでなく、何万光年先の星や銀河までが、肉眼で見えているのです。

夜空で点にしか見えない星が、太陽よりはるかに大きな恒星だったり、巨大な銀河の塊であったり。

 

AIの異常な進化スピードは、たしかにこれまでの私たちの日常感覚ではとてもついていけないような世界ですが、もう一方で日々見ることができる星空の世界は、とてつもない世界を日常感覚として誰もが感じることができると言うことも、現代人は思い起こす必要があるのではないでしょうか。

地上の日常感覚の隣りに、異次元の日常世界があることを日常感覚として受け入れる時代がやってきたのだと思います。

もしかしたらその辺は、古代人の方がよく理解していたのかもしれません。


今ふと、この大きな変化は、産業革命のような大きな変化というよりは、ルターの宗教改革に似ていると感じました。

AIは、何か特定のモノというよりは、日常のあらゆるモノに浸透していく技術なので、それはちょうど、教会のなかで神父さんの言葉を通じてしか学べなかった信仰が、グーテンベルクの印刷技術の発明とともに誰もがいつでも手元に聖書があることで神とともにいられるようになったようなもの。

そう思うと、かつてないような大変化も、歴史の1ページとして冷静な受け止められるような気もします。


 

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業界主導の産業社会型資本主義時代の終わり ~書店の未来を真剣に考えてみた ② ~

2024年12月22日 | 出版業界とデジタル社会

 いま起きている様々な変化のなかでも、意外と見過ごされがちな大事なことに「産業構造の変化」があります。産業構造などはいつの時代でも変化し続けるものですが、ここでいう構造の変化をは、産業それぞれの構成比の変化ではなく、業界を問わず、産業社会そのものの構造が変わりはじめたということです。

 この現象は、歯止めのかからない書店の減少が話題になっている一方で、まだ比率は少ないものの独立系書店が確実に増加している傾向のなかにも見てとれます。
 ギリギリの経営を続けている既存書店側からみれば、それら独立系書店の多くは副業型であったり、古書店タイプであったり、採算にのせることはおそらく難しいいであろうと思える例が多いのは事実ですが、大事なことは、これまでの多くの書店が行ってこなかった個性的な品揃えや営業スタイルを様々なかたちで挑戦して、どこでもそれなりの成果をあげていることです。
 たしかにそうしたことは、本業でないからこそ出来るという面もありますが、従来の書店は独自の品揃えや陳列、売り方の工夫が確かに十分であったとは言えず、独立系書店の多くはそれらの新しいかたちを明らかに実現してくれており、それは間違いなく読者に歓迎されています。

 この独立系〇〇といわれるような既存業界の外側に広がる新しい様々な業態は、書店業界だけではなく、農業や飲食業やあらゆるサービス業、はては製造業などでも大きな流れとなっています。
 自動車や家電などの大手企業でさえも、それらの製品を構成する部品の一つひとつは、どこの国のどんな零細企業、ベンチャー企業がつくっているかわからないような時代です。もはや〇〇業界や〇〇業界団体に所属するかどうかは全く意識することなく、さらには国すら問うことなく、必要な技術は必要な提携先と連携したビジネスがいつでも可能になり、事実そうしたことが至るところで行われている時代なのです。

 またこの流れは、生産過程だけでなく、流通過程でも確実に広がっています。
 右肩上がりの時代はずっとスーパー、百貨店、ショッピングセンターなどを軸とした量販型の流通ルートが大半を占めており、それらはどこも卸売り業者を経由することが大半でした。ところがそこにネット通販の登場などとともに、主要卸売ルートを通さないダイレクト販売の比率は、農産物直売所などとともに、個人の生産者が直接消費者に販売するスタイルが加速し続けています。
 こうした流れは、単に流通コストを省くためだけではなく、消費者が信頼できる生産者とダイレクトにつながることができる生産者と商品への「信頼」が保証されることも大きな要因になっています。新鮮で安全な信頼できる食品が手に入るのであれば、ただ流通コストが省けて安いだけでなく、たとえ割高であっても従来の流通ルートよりも信頼できるものとして消費者に選ばれることが多くなっています。

既存業界の枠の拡大を目指す従来のスタイル


 確かに、自分達の業界をなんとかして欲しいという願いは誰もが持つものです。

 ところが今の日本国民の多くは、昔と違ってどの業界団体にも所属しない働き方をしている国民の方が圧倒的に多くなりはじめていることに今の政治は対応できていません。政治家の側は、それをただ組織率の低下、政治的無関心、政治意識の低さとばかり捉えています。

 もちろん、今の流れで非正規雇用や非組織型労働者が増えるのは、決して良いことではありませんが、時代の根本的流れを見れば、一つの仕事だけで一生生きていくというこの半世紀に急速に拡大したサラリーマン型雇用というのは、確実に減少の方向に向かいっています。生涯にわたってさまざまな仕事を同時並行に行う「百姓」型の働き方や生き方が決して特殊な例ではなく、これからの時代では自然な労働の姿になりはじめています。

 そこでは企業も個人も、それぞれの業界内には収まらない、フリーエージェント型の働き方が多くなりはじめており、むしろその方が、豊かな社会に近づく道であることに世の中全体が気づきはじめたかに見えます。これは、雇用を守るという原則には反する思考かもしれませんが、人が豊かに働き暮らすという方向を考えれば、決して悪いことではありません。

業界枠にとらわれない自由な個人のネットワーク社会

「ニッチ」という言葉があります。


 ビジネス用語では、特定のニーズを持つ小規模な顧客層や専門分野を指す言葉として「ニッチ市場」「ニッチ産業」などの表現として使われています。
 ところが、このニッチという言葉は生物学用語では、「生態的地位」として使われています。
 動物であれば、餌となる植物や他の動物、隠れ家など、植物であれば、光合成に必要な太陽光や根を張るための土壌などが該当し、それぞれの個体にとって必要なまわりの環境との関係を表すことばとして使われています。

 ビジネス用語といてのニッチが、もっぱら規模の問題として語られているのに対してこの生物学用語のニッチは、存在位置にかかわる関係性の問題としてとらえているので、規模や量にかかわりなく、自らの立場をどう編集しデザインするかということが必然的にともなってきます。
 他方、ビジネス用語としてのニッチでは、どうしても関係性よりも個々のグループ内での所属・参加の問題に思考がとどまってしまう傾向が否めません。

 もう少し踏み込んでいうと、少数派であるニッチを数の問題ではなく生態的地位を考えると、それは弱いからこそつながり合う「知識」→「知恵」を求める世界であるのに対して、多数派を目指すばかりの立場は、ただ「情報」→「知識」をたくさん集めるだけの世界であるとも思えます。

 

 まさに、この生態的地位こそが、独立系書店の台頭に象徴される従来の業界主導から、個々の事業の働き方、暮らし方を含めた関係の在り様いかんによって成り立つこれからの生産や労働の姿であるといえます。

 さらに、ガンジーは、早くからこうした社会の理想像を「大洋のような輪(オーシャニック・サークル)」として具体的にイメージしていました。
「この構造の中では、けっして上昇することがなく、ひたすら拡がり続ける輪があるばかりだ。世の中は、底辺に支えられた頂点を戴くピラミッドではない。そうではなく、個人を中心とする大洋のような輪だ。・・・・したがって、いちばん遠い外周は力を振るって内側の輪を圧し潰すことはなく、中のもののいっさいに強さを与え、そこから自らの強さを引き出す」

 これまでの産業社会型資本主義では、大きな仕事のあるところにたくさんの人を移動させる社会として発展してきました。それに対して、個々の人びとの生態的地位が明らかになるこれからの社会では、人のいるところに小さな仕事をたくさんつくったり持ってきたりする社会です。
それは、決して自給自足型や原始生活への回帰を目指すものではなく、ガンジーの考えていたのは、「自らの存続に必要なものを近隣に頼らないが、依存が必要な他の多くのものについては互いに頼り合う」社会です。

 都市・地方を問わず過疎化などの人口減少が加速する社会では、大きな仕事のある所へ人を集めるのではなく、人のいるところへ小さな仕事をたくさん増やす転換こそが、大事な鍵になります。

 コロナ以後、リモートワークなどが急速に広がりましたが、大事なのは仕事も遠くからばかり持ってくるのではなく、人が今いる場所で発生する様々な課題や需要に応える小さな仕事を発生させるといいうことです。詳しくは後の具体策のところで書きます。

 このような意味で、従来の「ギョーカイ」軸の産業型資本主義は世界史的な流れのなかで終わりはじめているのです。もちろんそれは一気に消えるわけではなく、第一次産業の農林漁業が就労人口が大幅に減っても絶対になくなることはないのと同じように、必ず一定量では残り続けると思います。

出版業界で広がる業界の外側領域
 こうした現実は、出版業界でも確実に進んでいます。

 かつてはトーハンや日販と取り引きがしたくても、保証金などのハードルが高く諦めざるをえなかった中小零細出版社があり、そうした版元をカバーする存在として地方小流通センターなどの役割がありました。またミシマ社やディスカヴァー21のように、取次を経由せず自らの営業力で書店と直接つながり販路を確保する例なども増えてきました。
 ところが、この数年ほどの間にそれらのさらに外側の流通ルートが気づかないうちにかなりの広がりをみせてきています。
 そのひとつの契機に、前にふれた独立系とよばれる書店の増加が関係しています。
 従来の取次ルートへの参入が難しいからというはじめのきっかけはありますが、大型書店でも置いていないような小さな版元と直接取引をして少しでも粗利のよい条件で仕入れている独立系書店は少なくありません。しかもそうした零細出版社の本は、確かに量販品ではありませんが、一部のコアの読者には熱烈な支持を得ているところが少なくありません。まさにマスメディアに対抗する本の情報の醍醐味を味わえる世界がそこにはあるからです。
 実際にトーハン取扱の新刊書は1日に200~300点ほどありますが、それらの新刊情報を丁寧にチェックしても出てこない貴重な良書の数はかなりの数にのぼります。ここを一部の独立系書店は丁寧にフォローしてくれています。

 この違いが、業界内とその外側で商品そのもの活かし方の違いもうんでいます。
 下の2つの表紙画像の本は同じ本ですが、左の装丁の本は、最初に小さな出版社で出されたもので、右側は後に名の知れた出版社から市場に広く流通させるために装丁を改めて刊行されたものです。

                    

 この違いをどう見るかは、人によって異なることと思いますが、ブックカフェや独立系書店、古書店などでは左の古い装丁の方が、「紙のオブジェとしての本」の価値が認められ、右の新しい装丁の本を置く意味は、あまりなくなってしまいます。
 それに対して、従来の書店では、右のような装丁に直されたものでないと、大量の本のなかに存在が埋もれてしまい、もし左の装丁の本を売ろうとするならば、独自のコーナーを作るなどして別途「生態的地位」を確立しなければなりません。これは、「分類棚」と「文脈棚」との違いであるとも言えます。

 こうした売り方の違いを必然的に生むことが、従来の業界の側となんらかの生態的地位をもつ側のビジネスモデルの差にもなってきます。もともと本という紙の印刷物体が持つ力は、十分認知されていましたが、「紙のオブジェとしての本」の価値は、ブックカフェや独立系書店が増えたことで、新しい一領域を持つほどの存在価値が育ってきました。



 さらに新たに生まれた領域で、BOOKOFFなど古書店の棚をみていると感じますが、それら個性的な書店すらも経由せずに、版元が直接読者に届けるダイレクト出版のような本の比率もかなり増加の傾向にあります。これはネット販売ならではのマーケティングやきめ細やかなネット広告技術の徹底により、多少高額な商品であっても、かなりの市場を拡大し続けることが可能であることを立証してくれています。

 電子書籍の領域では
さらに急速に拡大しています。印刷、製本、流通の手間がなければ、読者と直接つながる道には様々な可能性が開けているからです。このデジタルマーケティングの領域こそ、広告効果のリアルタイムでの測定や、顧客動向の分析、さらには顧客の囲い込みなどの技術で、まさに紙かデジタルかを問わず、これからのあらゆるビジネスの中核をなしていくものであることは間違いありません。

 このようにわたしたちの気づかないうちに、DXを通じた従来の「ギョーカイ」の外側の市場世界は、想像を超えたスピードで急速に広がっています。それは決して書店業界、出版業界だけのことではなく、他のあらゆる業界で脱・横並び型社会化し、外側へ分散するエネルギーとして世界中で同時に起きていることです。

 それに引き換え今の日本の政治は、それぞれの政党が経団連、医師会、労働組合、宗教団体など、各業界を代表する利害団体の代弁者としての性格を未だに色濃く持っています。
 そのため、個々の業界利益を優先し、票につながる補助金型予算獲得にばかり終始し、業界間の対立構造がそのまま政党対立の構造になってしまっているので、失われた30年がもたらしている深刻な日本全体の共通課題を最優先にする抜本政策を問うことより、どうしても個別の業界利益を優先してしまいます。こうした社会構造の変化に対応できない日本の政治システムが、投票率の低下や政治そのものの停滞の要因になっています。

 

 ここからは余談ですが、このような意味で今の沈没し続ける日本の現状をみれば、災害被災地を含めて最優先されるべきは、個別の業界向けの補助金、交付金の獲得よりも、まずは「減税」だと思います。

 ただ息をしているだけでお金が消えていく暮らしから解放されて、国民がより自由に動ける環境、賃金アップよりも可処分所得の増加こそ第一の指標にする政治を行わなければならないことに気づきます。生活費は下がることによってこそ国民の活力は増し、結果的に税収増にもつながることは、各種の統計でも立証されています。

 もちろん官僚は、自分たちの予算を増やせる政策は積極的でも、自分たちの予算が減る政策は評価されない構造にあるので今の逆噴射構造は容易には変えられませんが、まさにそこにこそ国民による政治の力が問われるわけです。
 そんな時代ほど、誰かひとりのリーダーシップによるガラガラポンを期待して、過激なことを言う人に一票を入れたくなる気持ちもよくわかりますが、こんな時代だからこそ結論を急ぐことよりも、きちんと根本がら考えるる方向での地道な努力こそが求めてられているのだと思います。今この危機に直面して、遠まわりなことなどしている余裕などないとも言われそうですが、今ほど安直な答えや急激な変化を求めることが危険な時代もないと思います。

 だからこそ、ただ安直な答えを知ることではなく、自分で考えることを基本としている「読書の力」に依拠した本屋の未来は明るいと思えるのです。読書の文化は、口承文化よりも個人主義的で自主的だからです。

 教育現場や公共図書館などと足並みを揃えた、抜本的な学びの環境を変えていくことでこそ、それは容易なことではありませんが、長期的にはこうした目標を据えた上での改革でないと、これからの時代は生き残れないことも確かであると思います。

#僕たちは地味な起業で食っていく

 

前回 戦略の誤りは、個々の戦術や作戦の成果では取り戻せない ~書店の未来を真剣に考えてみた ① ~

次回、前提3 人類の「公共財」としての性格こそ「本(情報)」の本質 (準備中)

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