かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

かみつけの国 本のテーマ館 サイト修復 難航

2013年08月25日 | 管理メモ

壊れたホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」

http://kamituke.web.fc2.com

写真を差し替えながら、壊れた表示を悪戦苦闘しながら少しずつ手作業で修復しています。


優先度の低いページを削除しながら、新しいページ「コミュニティデザインの時代」を加えました。

http://kamituke.web.fc2.com/page048.html


まだ大まかな流れができただけのページですが、これに

「いのちの輝き」をとり戻す「食」のページが加われば、

テーマ館のおよその骨格は整う予定です。


泥魚 松尾昭典

 http://kamituke.web.fc2.com/page152.html

マタギに学ぶ自然生活

http://kamituke.web.fc2.com/page136.html 

 

 

ところが、メモリ不足が頻発して、何度もアップロードした後にデータの保存ができず、

更新したデータを再度、入力し直さなければならないことしばしば。

 

パソコンを2GBのものから4GBのメモリにのものに変更しても事態は改善されませんでした。

起動ソフトを減らしたり、仮想メモリを増やしたり、ブラウザをchromeにしたりしても、

あまり変わらないので、もしかしたらメモリを8G、16Gにしても解決できない問題のように見えます。

 

Searchfiter host.exeというプログラムが、31BGも仮想メモリを消費することあるらしいのですが、

これに無効にしてもその後がまた面倒みたい。

 

 

 

でも、作業パソコンを変えたことで、 古く雑な写真の差し替え、

リンク貼付け作業、文字の入力など少しスムーズに行えるようにはなりました。

随分、無駄な時間ばかりかかる作業ですが、このような本のサイトをつくっている人はあまりいないようなので、

あきらめずにコツコツと続けていこうと思います。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中正造 没後100年 (かみつけの国 本のテーマ館の隣接点)

2013年08月22日 | 「近代化」でくくれない人々

「かみつけの国 本のテーマ館」 http://kamituke.web.fc2.com

サイトの修復に悪戦苦闘しているところです。

 

データが膨大になってきてしまい、メモリ不足など対策を打っているのですが、

データアップの度にエラーが頻発して、訂正のきかないページがどうしても増えてきてしまいます。

 

デザインなど、大きく壊れた部分の修復は八割方終わりましたが、抜本解決には

やはり「引っ越し」しかないようです。

 

これ以上、データが肥大することを避けるためにも、今年、没後100年を迎える田中正造は、

本来、第3テーマ館 群馬の山と渓谷 のなかの 貴重な史跡「足尾」を歩く、小滝の里の魅力

足尾関連書籍ガイド http://kamituke.web.fc2.com/page162.html、のからみで是非入れたいところですが、

テーマ館のなかに入れるのは我慢しなければなりません。

 

もともと、田中正造は足尾に劣らず、栃木県とのかかわりが深いので、栃木県側の地元の方々が

様々な専門サイトを開いています。

 

 

 

福島の原発事故のこともあり、掘り下げて書いてみたい気持ちが強いのですが、

田中正造の強烈な精神は、そう簡単に語れるものではありません。

 

検索して概観してみると、たしかに今回の原発事故がらみで田中正造の再評価がされ、たくさんの情報がヒットします。

 

しかし、田中正造の孤高の精神に迫り、近づくことは、とても難しく、

文章や写真だけで、その独自な精神に近づくことは容易くないことがわかります。

 

 

 

 

 

かつて、渡良瀬遊水池の谷中村跡などを訪ねたときのこと、どこかに書いたと思います。

mixiには写真アルバムがありました。

足尾の松木村跡などとともに、いい写真があると、とても想いが広がる場所です。

 

 

 

だからこそ、少ない内容でも、大事な文献紹介や自分なりの表現での情報デザインをしなけれなならないと感じるのですが、

ただですら、「かみつけの国 本のテーマ館」の修復だけで手間取り、他の仕事が滞ってしまったので、

この時期の作業としては、やはりパスさせていただくしかありません。

 

 

田中正造を語るだけでなく、この内村鑑三などとの関連で、明治人の精神の高さだけでも迫りたい内容があります。

 

 

 

 

 

 

 

この大鹿卓の『渡良瀬川』は、まだ読んでいないのですが、今年、文庫化されました。

 

 

この田中正造全集は、古書で結構安く手に入るものですが、まだほとんど読んでいません。

こうした資料にあたることを考えると、やはり自分のライフワークの範疇に入れるには、ちょっと重すぎる気がします。

 

切り込み視点が整理できたら、短くどこかにまとめます。

 

よって、どうか栃木県の皆さん、がんばってください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色彩と光

2013年08月17日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

以前、奈良へ行ったときに感じた、白を基調とした生命力中心の信仰である神道、黒を基調とした人間の心と社会メンテナンスを中心とした信仰である仏教のことを書きました。http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/ecec0200b5904f93c63e75178042a321

白は光。

光の三原色を混ぜると白になる。

影というものではなく黒にいたる色彩は、純粋自然界ではなく、心や雑念の加わった人間界や人工物の領域でおきる。

絵の具の色をどんどん混ぜると黒くなる。

でも、人間のつくった化学染料の場合はまた別。

色と色を混ぜ合わせることによって新しい自分の色をつくる。

 

志村ふくみの草木染めの話で、この延長の興味深い話があります。

 

(草木染めの場合)私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。

その色と他の色を交ぜることはできない、梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。

それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。

 

なるほど、

色彩を無理に交ぜるから黒に近くなっていってしまうのか。

色彩は、本来、その色固有の存在。

 

その固有性がもつ色とは、見かけの色ではない。

草木染めで桜の色を出すには、桜色をした桜の花びらからではなく、桜の木の幹からその色がでる。

しかもそれは、桜の花が開花する前の時期の幹からでなければならない。

9月の台風の季節の桜の木から、美しい桜色を引き出すことはできない。

 

 

また、興味深いのは、

草木の世界で最も一般的であるはずの緑の色は、草木染めで直接出すことは出来ない。

「たとえ植物から葉っぱを絞って緑の液が出ても、それは刻々色を失って、灰色がのこるばかりである」

なにか、土にかえることを宿命とした葉っぱを象徴するかのようだ。

 

人間のもつ色彩をどうみるか。

とても考えさせられます。

 

熟練した技術をもって自然と深く関わる人の言葉は、みな素晴らしいことが多いものですが、

そうした人々のなかでも志村ふくみの言葉がなによりも深く心に響いてくるものがあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠い日の戦争

2013年08月15日 | 歴史、過去の語り方

今日は終戦記念日でした。

また黙っているわけにはいかないので、思うところをつらつらと書いてみます。

 

70代以上の年寄りでなければ、もう太平洋戦争の現実を体験した人はいない時代になりました。

にもかかわらず、「戦後」はまだ終わっていない、と言われます。

それは、主に以下のふたつの理由によるのではないかと思います。 

ひとつは、あの戦争そのものが何であったのかという「総括」がきちんとできていないことによるもの。

 もうひとつは、敗戦後の「占領下」という特殊環境でつくられた戦後日本の姿が、そのまま現代にまで引き継がれ、未だに独立国としての実態を持ち得ていないということによるもの。

 

 

「戦争」という事実そのものは、まぎれもなく悲惨で憎むべき出来事ですが、いつの時代でも、その紛れもないかの事実そのものは、その時々の人の感情に大きく左右され、変わりゆくものです。

 生々しい記憶が薄れれば、感情に左右されず冷静な判断ができるのではと期待したいところですが、歴史は必ずしもそうではありません。

 

 以下の二つの本は、BC級戦犯をとりあげたもので、敗戦直後か否か、生々しい記憶の大きな憎しみが背景に色濃くあるかどうかで、「客観」的判断が大きく変わる姿を描いています。

 

 

ながい旅

  大岡昇平 著
  新潮社(1982/05)  定価1,200円
  新潮文庫(1986/07)  角川文庫(2007/12) 定価 本体590+税


 B級戦犯として起訴された東海軍司令官、岡田資(たすく)中将は、自らの指揮下において、米軍の爆撃機B29搭乗員を処刑したことの罪を問われるが、それら搭乗員は国際法上の捕虜ではなく、日本の非戦闘員を意図的、計画的に無差別爆撃した戦争犯罪人であり、現場ではその判断の上で処刑をおこなったとし、当時裁かれる一方の日本側の立場のなかで、米側の戦争犯罪をひとり追及する戦いをはじる。なおかつ、米搭乗員を処刑した責任は指揮官たる自分にすべてあると、部下の生命を救うための戦いもおこない、スガモ・プリズンで信念を貫き通す。

 

 

遠い日の戦争
 吉村 昭 著
  新潮文庫(1984/07) 定価438円+税 

 敗戦後、軍人はA級戦犯、BC級戦犯などの運命をたどるが、十分な裁判などを受けないBC級戦犯ほどそれはしばしば、あやふやな証言、敗戦時にいた環境や地域、またはつかまった時期によって大きく左右される運命にあった。
 終戦の詔勅が下った昭和20年8月15日、福岡の西部軍司令部の防空情報主任・清原琢也は、米兵捕虜を処刑した。それは無差別空襲により家族を失った日本人すべての意志の代行であると彼には思えた。
 しかし、敗戦とともに連合国軍の軍事裁判を回避するために清原琢也は、長い逃亡生活の道を選ぶ。
 敗戦時の戦犯裁判の姿を知る作品としても一級の作品。

 また著者は、この主人公の目を通じて、同時期におきた九州大学医学部による捕虜の実検手術(一種の処刑)についてもふれています。





誰もが、あんな戦争は二度と起こしてはならないと思っていたはずですが、アメリカのイラク侵攻に反対出来ない人が多かったように、日本が戦争をしないという保証は、残念ながら今、わたしたちの手元にはありません。

東日本大震災と原発事故が起きたとき、それまでクリーンなエネルギーとして原発も必要であると言っていた人の多くも、脱原発への道を選択したかに見えましたが、いつのまにか再稼働もやむなしの声がジワジワと広がってきています。


いついかなる時代でも、意見は分かれるものです。

それは間違いないと思いますが、では、私たちができる「選択」とは何でしょう。

わたしは、いつもこのことを考えます。


止めることが出来ない戦争が起きてしまう。

やめることが出来ない原発、どうしてやめることができないのか。


今回の選挙結果をみても、「平和」や「安全」が、

なにか「遠い日」の戦争かのごとく手の届かないところに行ってしまうような不安にかられます。

自分の目の前に起きている現実に対する、自らの「選択」が、どうしてかくも「無力」に見えてしまうのでしょうか。


今の政治家たちの勉強不足や責任感のなさを責めることは簡単です。

でも、それは国や政治の問題である以上に、止められない現実を冷静にみると

目の前の仕事や職場で日々起きている現実を、

変えられない、

やめられない

ひとりひとりの「選択」の積み重ねであることがよくわかります。


 

どこへ行っても、

 

話の通じない人、

言ってもわからない人、

 自分とはまったく違う価値観の人、

 どう転んでもやる気の出ない人、

     ・・・・などなど

自分のコントロールの及ぶ範囲外の人は必ずいます。



常に「背に腹はかえられない」という判断の積み重ねの結果で起きている重大な結末も周りにはあふれています。


まだ作成途上ですが「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「仕事は楽しいかね」のページは

下記の言葉の引用を軸に組み立てています。



「スタグフレーションという言葉を僕が考え出したのは、この言葉ができるまでずっと、経済学者たちが、
インフレと景気停滞とは同時には存在しないと主張し続けていたからだ。

起きるのはインフレか景気停滞のどちらかであって、両方がいっぺんに起きることはない、とね。

 だけどきみの話から、この国の経済が新たな双子の要素を生みだしたことがわかった。

今度の双子は社員レベルで生まれている。
"退屈"と"不安"という双子だ。

きみは、この二つは、同時には生じないと思うだろう。
 だけど、違う。

 

 人々は、したくもない仕事をし、
同時にそれを失うことを恐れているんだ」

 

「仕事は楽しいかね」http://kamituke.web.fc2.com/page141.html 

 

 

自分の納得のできない現実に直面したとき、

誰もが、本来はそれを変える「権利」や「権限」、

たとえそうした権利や権限が十分ない状態であっても、

 そこから「抜け出す」、あるいは「逃げ出す」権利や権限を持っているはずです。

 

しかし、戦時統制下になったら、とても怖くてそんなこと容易にはできない環境になってしまうでしょう。

確かにそうです。歴史はそうでした。

 

でも、今の日本は、戦時統制下にあるのですか?

 もしかしたら、今も戦時統制が行われているのではないかと思うようなマスコミの情報も確かにあります。

 

 だからといって、「私」や「あなた」が勇気をもって「選択」することを妨げるものはそれほど強固なものではありません。

 

「戦争」の問題、「原発」の問題を

今の自分の仕事(職場)の選択の問題に引き下げて考えれば、

決して「遠い日の戦争」の話でも、手の届かない「原発」問題でもないことに気づくと思います。

 

自分が勇気を持って世間の相場判断ではなく、自らの意思で「選択」できるかどうかにこそ、

ほんとうの答えが常に自分の目の前にあるのだという実感を感じることができるかどうかの分かれ目なのではないでしょうか。

 

確かにこれは誰もがすぐにできる容易なことではありません。

でも、自分のその一歩を抜きにして、国や政治家の無能さを責めてばかりいてもしょうがないような気がしてなりません。

 

また、「意思」と「選択」は、「コツコツ」と積み重ねる「真面目な努力」だけでは絶対に出来ません。

それは、強い意志を持つことよりも、

もっと「面白く生きる」選択をすることの方が、間違いがなく、かつ近道のような気もするのですが。

 

 

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「足尾」の歴史遺産と富岡製糸場の世界遺産登録

2013年08月07日 | 気になる本

「かみつけの国 本のテーマ館」

 第3テーマ館 群馬の山と渓谷 

    「足尾」関連 書籍ガイド  を更新しました。

       http://kamituke.web.fc2.com/page162.html

 

 

これまで、足尾関連図書ガイドとしていましたが、「図書」を「書籍」に変えるだけで、検索にかかる確率が随分あがるようです。

 

書籍を整理しなおしていてつくづく感じたのですが、

足尾という土地は、鉱毒問題というマイナスのイメージを抱えているにもかかわらず、実に多くの人々に愛されています。

 

このところ、世界遺産登録で盛り上がっている富岡製糸場の話題が目立つだけに、わたしは足尾の魅力の独自な際立ちを感じてしまいます。

 

 

どちらも近代産業遺産として同時代に繁栄した特徴があります。

また、戦後、急速に衰退していったことも同じです。

 

ところが、

足尾という町については、実に多くのその土地に暮らした人々が、本を出し、語りつぎ、今も研究され続けています。

他方、富岡製糸場となると、街の人々によって研究され出版された本は、足尾に比べると圧倒的に少ないのです。

どちらかというと、富岡製糸場の場合は、行政サイドにたった歴史や沿革をまとめた書籍ばかりが目につきます。

それどころか、出版された書籍の量そのものに、どうしてこれほどの差が生まれるのか、驚かずにはいられません。

 

テーマを広げて、絹遺産という視点でとらえれば、研究書の数であれば、富岡製糸場もかなり増えることと思います。

しかし、その場合でも、養蚕や機織りなどで暮らした人々が、自ら語ったような本は少なく、産業史の流れでの研究書ばかりが数にあがってきます。

いったいこの違いは、何なのでしょう。

 

現状では、世界遺産登録の可能性や注目度では、勝負にならないほど足尾よりも富岡製糸場のほうが勝っているのに。

 

個人的には、世界遺産登録を地域再建の切り札のように考える見方に賛同しがたい思いが強いのですが、何事もきっかけを活かし、より多くの人々が参加し地域のあり方を考えるようになるのは悪いことではありません。

だからといって足尾も、富岡製糸場に負けじと、世界遺産登録もどき振興に無理に力を入れる必要もないと思います。

でも、富岡製糸場の側は、ただ観光客誘致のための世界遺産登録ではなく、地域に暮らす人々が、自ら住んでる町の歴史に誇りと愛着をもつために、足尾町から学ぶことは、とても多いのではないでしょうか。

 

現実には、足尾町は古河鉱業に代わる産業もなく、かなり厳しい過疎の町であることにかわりありません。

ただですらこの厳しい経済環境下のことです。

他の山村とも異なり、産業が衰退したからといって農業に戻れるささやかな耕作地もままならないような谷あいの土地柄です。

足尾を訪れると、いったいこの町の人々は、どうやって食べているのだろうかといつも心配になるほどです。

 

それでも、

「魅力」を語るとなると、

圧倒的なパワーが、この廃れた小さな町の内外から集まってくるのです。

それは、町を通過するだけでは、決して見えないものです。

わたしも、それが何なのか、うまく説明することもできませんが、富岡製糸場世界遺産登録を目指してがんばっている人たちも、この「見えないもの」のパワーを是非、学んで育ててもらいたいものです。

 

何にもない山奥の村や町。

いつも、とても多くのものを私たちに見せてくれます。

何なんでしょうね。

ま、行けば誰もが何となくわかります。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キューバを乗り越えたキューバのキューバしのぎ

2013年08月06日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

最近のテレビの放送で知ったのですが、
アメリカののど元に突き刺さるように生まれたカストロ率いる社会主義国家キューバ。
観光地として人気がとても高い国です。
キューバ音楽も魅力的で日本のファンも多い。
そんなキューバは、アメリカの圧力に包囲された厳しい環境のなかで、唯一ソ連からの優遇された援助支援に支えられて、長い間生きながらえてきました。

それがソ連の崩壊とともに、その存立基盤が一挙に崩れ去りました。


「1989年まで、キューバ社会主義経済は、最先端の工場的農業技術を駆使して、大量の砂糖、タバコ、豚肉を生産・収穫するよう計画されていた。
そして、ソ連はキューバに、衣類、医薬品、燃料、家畜飼料、機械類とほとんどすべてを、まさに我々の資本主義国家に対抗し沖合いにある共産主義国家を支えるために、ディスカウント価格で売っていたのだ。」

 これがソ連の崩壊とともに、それまでキューバを支えていたあらゆる援助が断ち切られるだけでなく、自国の産業基盤そのものも、瀕死の状態に陥れることになってしまいました。

 援助が期待できず、自国で食料を自給しようにも化学肥料や家畜飼料は手に入らない。
 産業を興そうにも、生産設備、機械類、それらのスペアパーツ、さらにはガソリンもソ連からの輸入に頼っていたため、これまでの設備はほとんど活かせず、まったく新しいなにかをつくりださなければならないところに追い込まれてしまいました。

 このカストロが「スペシャル・ピリオド」と呼んだ時代は、一人当たりのカロリー摂取量は、35%以上も落ち込み、人びとはとても飢えた。

 ちょうど今の日本と同じような食料・エネルギー自給率の状態で、輸入が完全に絶たれたということです。

 そこでは、「劇的ななにか」を起こさずにはいられない環境に追い込まれていました。


 そこでうみだされたのが、有機農業を軸として、農民たちを消費者と直接結びつける市場に基づいたシステムです。

 テレビ番組をみると、まず国内のあらゆる空き地を、その規模にかかわりなく農地化することに政府はあらゆる手立てで援助し優遇処置をとる。
 生産性を上げるために、農業の集約・大規模化などはかっても、化学肥料、トラクター、ガソリンが手に入らないので、小規模な有機農業を増やすことこそ、唯一の解決策であったからです。

 すると、都会のわずかな空き地も農地となるので、消費者やレストランのすぐ隣に農地ができます。

 テレビでみた映像では、日本の個人宅の家庭菜園を行っているような幅数メートルの空き地でもあれば、すべてそれは農地となっているのです。
 今日採れた農作物が、その場で消費される。
 レストランで必要なものは、その店の隣の畑から収穫される。


 さらに、生産者が直接消費者に届けるので、生産者は何が喜ばれるのか、どのような作物が必要とされるのか、その日その日で直接知り、需要を追いかけることができる。

 この機械化されずに細分化された農業の拡大は、労働集約型であるために雇用も生み出す。
 高齢者が無理なく自分の暮らしている場所で働く場ももたらす。


 ふと気づくと、ただ昔の姿にもどっただけかの光景。

 
 しかしこのシステムが、今や皮肉にもアメリカへ輸出されだしている。
 この国家レベルで成し遂げられたパラダイムの転換は、今世界中から注目されだしています。


 日本で行われている有機農業は、どこもまだ生産者との距離が、物理的にも心理的にも遠く、流通の壁がなかなか乗り越えられません。
 その多くは個々の事業者の安全でおいしいものに対する高い使命感でささえられています。

 でも、このキューバの例を見ると、そもそも国家の独立、自立にとって必要な最低限の国策として方針が位置づけられるだけで、必ずしも大規模な予算処置をとることなく、その転換が可能であることを気づかせてくれます。

 家庭菜園なら、うちでもやっている、ということではなく、それまで自立不要、外部依存加速のみで発展してきた都市経済で、あえて脱集中、分散型農業こそが強い社会をつくれることを立証したことが注目されているのです。

 日本の政治家やお雇い学者たちが出す政策などのはるか先のことを、この小さな国はやってのけてしまいました。

 

  もちろん、キューバという国は決してバラ色の国ではなく、課題も多い。

しかし、厳しい環境下で課題を乗り越える素晴らしい力を持っていることは確かです。

 アメリカに隣接しているキューバやカナダが、大国の隣りでしかりと自立性を維持する能力を持っている姿、少しは日本も学んで欲しいものです。

 

 


本稿は、ブログ「正林堂店長の雑記帖」に「国を救ったキューバの有機農業 」として書いた

『有機農業が国を変えた ─小さなキューバの大きな実験』
吉田太郎(キューバ農業研究者)著  コモンズ  2002年/四六判/256ページ  2200円+税

の紹介した文章を加筆訂正したものです。

 

 

写真の本は、

吉田太郎 『200万都市が有機野菜で自給できるわけ』
  築地書館 (2002/08) 定価 本体2,800円+税


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする