以下に書くことは、日頃お世話になっている町役場の皆さんを対象にしたことなので、とても言い難いことなのですが、地域がどうあるべきかを考えるうえで外すことのできない根幹の問題なので、あえて書かせていただきます。
まず、次の総務省発表のデータがあります。
この全国180位の分母は、1,741の市町村です。
ちなみに最下位1,741位は長野県下條村で平均年収は386万円。
他方、みなかみ町の住民所得は、以下のグラフ推移に見られるように、なんと約240万円台です。
所得では240万円程度ということになりますが、これは給与などの所得収入がある人の平均値ということです。
これは1741の地方自治体の中では、1486位。(2017年総務省調査)
ちなみに群馬県のサラリーマンの平均は
平均年収:396万円 男性平均:426万円 女性平均:323万円
全国レベルでは、次のようになります。
これに対して、地域のもう一つの実態を見るために、所得収入のない子供や病人なども含めた総人口で割ると、住民1人あたりの個人所得は次の表に見られるように、なんと96.6万円(2016年度)になります。
これには、収入のない人々とともに、先の公務員のような656万円平均の人たちも含まれています。
県内35市町村のうちでは30番目で、群馬県平均より31.2%少ないとのこと。
群馬県の最低レベルに位置する100万円に満たない所得の住民が、県下1位、平均656万円の公務員所得を支えているのです。
これは全国レベルのデータでも明らかです。
もちろんこうしたデータは、その数字の背景もよく精査しないと、必ずしも公平な比較にはならない場合があります。所得の平均値は地域の年齢平均の違いによっても大きく変わり、実際にみなかみ町職員の平均年齢が比較的高いという現実もあります。それでも順位の比較は、どちらかというとドングリの背比べのレベルで、あまり細かく意識しても所詮、目くそ鼻くそを笑う程度の差にしか過ぎない場合も多いので、あくまでも全体の傾向がどうなのかを見るべきです。
そうした誤差を加味したとしても、このギャップは大きすぎます。
平均650万円の公務員と個人所得平均100万円未満から240万円以下の住民の関係で、3倍ほどの開きがあるわけですから。
常識では理解しがたい現実ですが、公務員給与の場合は、決して勝手気ままに給与水準が決められているわけではありません。ただ理由はともあれ、同時に一度上がった水準を下げることも確かに容易なことではありません。
でも、世の中の常識はまったく違います。
働くものの権利や福祉を守ることは大事ですが、そんな名目の法律があっても民間企業では、売り上げが下がり経営が苦しくなれば容赦なく賃下げはおろかリストラが断行され、どんなベテラン社員であろいうが、ある日突然荒野に放り出されています。
運良くリストラを免れたとしても、ある日突然会社が倒産してなくなってしまうなどということも珍しくありません。個人事業者であれば、莫大な借金を抱え込むことも避けられません。
公務員の場合、なぜこのような民間企業の実態とかけ離れた身分保障がされ続けているのでしょうか。
確かに今民間企業で行なわれているような有無を言わせないリストラが良いことであるとはいえません。そのようなことがない労働環境を公務員の世界では守られるべきという正論も確かにあります。
しかし、その公務員の給与を支えている納税者の所得水準を見たならば、この異常な乖離は、どんな理由をもって妥当性があると言えるのでしょうか。
そうなってしまう理由のまず第一は、日本の公務員給与を決めているのが、同じ公務員で構成される人事院によって指針が決められていることです。
第二には、その人事院が比較材料としている民間の給与水準というのが、一部上場企業の給与水準になっていることがあります。(上場企業の管理職に比べたら低い水準になっているといいます)
バブル崩壊後民間給与は下がり続けており,官民の実際の比較では2倍近くの開きが出ていることを指摘する声があります。(人事院が出す民間準拠原則の結果自体がそもそも民間の実情に合致していません)
しかも退職金を一般公務員でも1人3000万円程も貰っていることなどから,民間に比べて甘すぎる事例は枚挙にいとまがありません。
ここまで言われても、冷え込む消費の拡大のためには、いまや賃金アップが不可欠であり、その旗をふる立場の公務員こそさらに給与は上げていかなければならないと言った意見が常識のようにまかりとおっています。
事実、多くの公務員からすれば、先の人事院と自治労のフィルターを経ている限り、現状になんら疑問も感じていないことも多いのではないかと思われます。
ここでみなかみ町の議論をあまり一般化したくはないのですが、国際比較で見た場合の日本の公務員の特徴を見てみたいと思います。
下の図は「公務員の地位の国際比較」ですが、縦軸に民間企業の平均所得を1.0とした場合の多い少ないを表し、横軸に就業者全体に対する公務員の比率を比較しています。
日本が突出して、民間よりも給与水準が高いこと、それを就業者全体から比較したら、もっとも少ない人数で担っていることがわかります。
では、先進国の公務員給与水準を比較してみると
アメリカ 357万円
イギリス 275万円
フランス 198万円
ドイツ 194万円
カナダ 238万円
イタリア 217万円
オーストラリア 360万円
日本 724万円
別の資料では以下のような比較もあります
この国際比較で際立った違いとなるのは、公務員数の問題です。公務員大国であるフランスと比べた場合顕著になるのですが、日本では総人口に対する公務員の数がとても少ない人数に成っています。その分、仕事が忙しくハイレベルの仕事をこなしているから給与が高くなる?他方、他の先進国では、日本より多くの公務員を使って住民サービスが行きわたるようにする考えです。
それと、何よりも納税者である住民の意識が高いので、公務員=パブリックサーバントとして、まず住民に対する奉仕者としての機能を強く要求され、また公務員自身がそうした意識であるからこそ、民間より給与が高いことはありえないと受け入れている面があると思われます。
しばしばこのデフレ期に、公務員の給与削減など経済を後退させるばかりだとの論調も聞きますが、大事なのは、公務員支給総額の減少や定数の削減ではありません。
日本の場合、公務員支出を減らせということよりも、その配分内訳を高収入公務員の比率を大幅に下げ、その分、採用する公務員の数を増やすということです。
現在でも、同じ自治体で働く職員の間で、正規の公務員の非正規の職員との格差、あるいは関連外郭団体職員との格差の問題はよく指摘されています。
資格や昇給のシステム云々よりも、まず公共の活動に奉仕する同じ仲間としての待遇をもっと大切にするべきではないかと思います。
そして公務員の数は、公共サービスの質を上げるためには、むしろ増やすべきです。
さらに点数中心の学力重視ではなく、各分野の専門家を柔軟に採用でき、個々の事業、プロジェクトに応じた採用体制をとることが優先されるべきかと思います。
これらの問題は、国民の感覚としては多くの人たちでも共有されることだと思うのですが、現実にどのような場所でこれが問われているかというと、大半は、公務員労働者を代弁する自治労とのやり取りが中心になっています。公務員として働くものの立場、権利を守る主体としての自治労の役割が重要であることに異論はありませんが、これももう少し踏み込んで考えれば、これはちょっと違うのではないかという現実があります。
公務員給与を払っている一番の主体は、人事院でも政府でもなく、何よりも納税者たる国民であり、さらにはそれぞれの地方自治体の住民であるからです。
この住民の声が届くルートがない、行使されていないことこそが一番の問題なのだと思います。
そこで問題となるのは、行政の第一の監視機関でありまた、国民の代弁者であるはずの議員ということになりますが、そこに立ち入るとまた長くなるので、これらの背景にある次のような点のみ指摘させていただきます。
① 国や行政システムには、民間企業では不可欠である「よりお金を使わないこと」こそが利益の源であるという思考が一切はたらかず、「より多く予算を使うこと」「より多く予算を配分すること」こそが評価される仕組みが依然として続いている。
(適正な支出であるかどうか、不正がないかどうかのチェックシステム=正当性の根拠はあります)
② 本来、国民=納税者の代弁者であるはずの議員も、納税者全体の代弁者であることよりは、それぞれ票の源である有権者=国民の代弁者でなければならない立場から、それぞれ利害当事者のためにはより多く予算を勝ち取ってくることこそが評価につながるので、議員も「より予算を使わない」ことが評価される動機がない。
③ 住民のまちづくりの活動に関わっていて痛感しているのですが、同様に住民自身の側も、自分たちの立場の利害実現ということを考えると、より多くの予算を自分たちの側に持ってきてこそ目的が達成されるので、自分達のお金なんだから有効に使うというよりは、自分たちの方に回って来さえすれば満足となりがちです。
ここで大事なのは、必ずしも「節約」やケチることの意義を強調しているのではありません。
この先でもっと重要になってくるのは、よりお金を使わないことというのは、お金の問題だけではなく、その先には必ず、より知恵を働かせる必要が生まれ、より高付加価値なサービスや商品を生み出す思考に至れるかどうかということなのです。(念のため、それは学校の成績が良いかどうかは、ほとんど関係ありません)
それが予算の問題だけになってしまうと、民間企業では常識である「企画」や「計画」は立派であるはずなのにその先に起きる予想した「成果」が十分でない、あるいは思うような「売り上げ」が伴わない現実を、次にどう乗り越えるかということが意識されずに終わってしまうのです。これこそが「仕事」の内実を考えた時の最大の問題です。
この一番の原因は、「そこにオーナー(この場合は納税者)がいない」からということです。
住民は利益享受者であると同時に国や行政の最大のオーナーでもあるわけです。
(当初は、このことをメインに書きたかったのですが、それはまた次の機会とさせていただきます。)
このような意味で、私は何か課題がある時に、それは「議員を通して是非」とか、「関係する筋を通して」とか、まず「多数派をつくってからもの言え」とか言われることがありますが、何の組織も権限もない一住民が発する言葉こそ、代議制異様に大切にされなければ民主主義の基礎であると思い、この場に書かせていただきました。
(もちろん、私も利用できるものであれば議員でも関係するその筋でも利用はしていますが、黒澤映画の『生きる』で、窓口をたらいまわしにされていた主婦の意見を、最後は一職員役の志村喬がなした姿こそが、本来の「公共」の姿であると信じてます。)
さらに付け加えさせていただけば、私の立場は、このようなことを書いているからといって、住民の所得を今の公務員並みにもっとあげる施策をとるべきだとは考えていません。もちろん、住民の所得がより上がるようなことを否定するものではありませんが、優先すべきは、人口減少社会、デジタル技術の普及する時代を考えれば、たとえみなかみ町の今の平均所得240万円以下であったとしても、豊かに暮らせるような暮らしの固定支出の比率を下げる施策の方を優先すべきであると考えています。
多くの人にとって生涯所得をどんなに上げても、支出の圧倒的部分が、教育・医療・住宅・車・老後福祉で占められています。それ以外の娯楽・趣味などの支出分野は、相当なマニアにでもならない限り先の項目に比べたらたかが知れています。まさにこの分野の支出を公共の力で下げていくことこそが、豊かな地域を作るためには大事であると思っています。
生活費が下がることでこそ、より多くの人が創造的な活動により多くチャレンジし、たとえ失敗しても再起できるような、面白いこと、楽しいことがたくさん生まれる地域が実現できるのだと考えます。
願わくば、税の集め方、使い方こそが、地域や国のあり方を決めていくのだと、従来の「横並び思考」から脱却して本来のあるべき姿を公務員の皆さんにも考えていただけたらと思い、あえて書かせていただきました。
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