かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

猫の飛び出し注意!

2013年01月29日 | ・・・ったくアホな生活

先日、出勤で運転をしていたら、見通しの悪い路地から車の前へ、ものすごい勢いで猫が飛び出してきた。

ところがすぐに、近づくこちらの車に気づいてか、慌てて来た方へ駈け戻っていった。

と、思ったらまたすぐその猫は飛び出してきて、わたしの車の側面にゴツンとぶつかった。

あ~~、やってしまったかと思ったが、その猫は、

またものすごい勢いで後ろに引き返した姿がミラーにうつった。

 

 

 

 

 

 

はたして、

 

「痛って~」と思った程度で済んだのかどうか、

ただ無事であったことを願う。

 

 

 

 

 

 

多くの動物たちにとって、道路が格別危険な場所であることは十分わかっている。

だからこそ、彼らは道へ出るとき、決死の覚悟をもって飛び出す。

ただ、事前に左右を確認してから出るという知恵が働かないだけのことだ。

 

だけど、あの猫、飛び出してすぐ「マズイ」と気づいたばかりなのに、

1秒もたつかどうかの間にまた同じことをする。

 

 

あの見通しの悪い路地の後ろに、相当怖いメス猫でもいて睨みをきかしていたのだろうか。

 

道路の先に、相当うまそうな魚でも見えていたのだろうか。

 

考える余裕?

左右を確認する知恵?

 

猫だからそんなものはないと言える?

 

普通の人はそう思うのかもしれないが、わたしはまったくこの猫と同じレベルだ。

 

もちろん冷静な普通のときは、それくらいのことはあたりまえにやっている。

しかし、道路の先にうまい餌が見えてるとき、

あるいは後ろに怖いメス猫がいるとき・・・

私も左右確認なんかしていない。

ちょっと待って引き返すなんて思いもつかない。

 

たいていの場合は、余計なこと考えるより、まずやってみよだ。

行動は、悲しいかな、あの猫と同じ。

怪我程度で済めばいいのだけど、痛い目にあっていながら、また同じ行動を繰り返す。

 

 

うまい餌が見えてでもいれば、

あらゆる理屈をつけて、無謀に飛び出すことを正当化することさえする。

いや、本音を言えば、

いつまでも左右確認して、なかなか出ない人を見ると

後ろから蹴っ飛ばしてやりたいと思うことすらある。

(これは、言い過ぎた)

 

これでは、動物の知恵比べよりも劣る。

 

あ~、俺と同じレベルのあの猫、

打ち身、打撲程度で無事であることを心から祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

剣豪武蔵 力の集中点

2013年01月27日 | 上野国「草の者」研究所

大好きな菱田春草の所蔵品があることで、前から行きたいと思っていた永青文庫で「武蔵と武士のダンディズム」という武蔵の書画を多く展示した企画展が行われていたので、この上京の機会に行ってきました。

 

剣豪である武蔵の書画が並外れたものであることは、紅梅鳩図の上にまっすぐに延びた一筆の強烈の印象だけがありました。

残念ながらこの作品は、後半に入れ替え展示されるもので今回見ることはできませんでした。

しかし、今回みることのできた他の作品もすばらしかった。

最初に見た 重要文化財「芦雁図屏風」でまず圧倒されてしまいました。

いずれも「伝」宮本武蔵筆ですが、剣以外にも並外れた才能があったことが十分窺えるものです。

ただその筆致、精緻さは作品をみていくうちに確かに通常の画家たちの力作とはなにか違う体質があるような気がしてきました。

いくつかある達磨図などは、太い筆でダイナミックな線をひき、細い筆で繊細な線をひき、使い分けているようにも見えますが、どうも全体に一貫した迫力や精緻さが貫かれているようには見えない。

あれだけの剣豪であれば、力強さとともに一気に貫くような筆致を連想しがちですが、タテに一本貫いた筆の「紅梅鳩図」ですら、高い精神性を感じるにもかかわらず、ちょっと違う。

 

正面達磨図の迫力は、全体にみなぎるようなものではなく、なにか太い線、細い線とは異質な目の一点を打ち抜くときにだけ収斂されているように見える。

これと同じような印象を「不動明王立像」にも感じた。

現実には、この火焔の造形のすばらしさだけでも十分な作品です。

不動明王の持つ宝剣は、武蔵作と聞いただけで、どう見ても巌流島の決闘で用いた櫂にしか見えない。

造形のユニークさから、私にはどうしても冷静には見れないのかもしれない。

 

この写真の向きだけではく、四方からこの像を見ると、

火焔の造形も含めて造形の力は、宝剣を両手でつかむその握りの強さに集中しているように見えます。

力ばかり入っていたら勝負には勝てない。

相手に向かう前に剣を引いたときの一番力をためた瞬間の姿なのだろうか。

 

 

書画の傾向からも、武蔵の造形の特徴は画面全体にみなぎる力強さや精緻さがあるのではないようだ。

それは、互角の相手と生死をわける闘いに挑むときに、力や技をどの一点に集中するかということのみ徹しているかに見えます。

達磨の目。

不動明王の宝剣の握り。

紅梅鳩図の天に延びる一本の枝。

 

生死を決める最も大事なことは何か。

そんなこと簡単にはわからない。

でも真面目に端からコツコツと精緻に積み重ねていけばできるというものでもない。

偶然性も含めたあらゆる条件の交錯する環境で、勝って生き抜いて来た武蔵ならではの、実践的な集中力のようなものを感じる。

何事も場数を踏むことは大事だ。

しかし、その場数を武蔵のように生死を賭してふむような人間は滅多にいない。

それは必ずしもバランスのとれた美しいものではない。

 

にもかかわらず、透徹した力の集中点が見えると、ほかのアンバランスは問題にならなくなる。

バランスのとり方よりも、どこを集中すべきツボとみるか、枝葉をどう配置するか、幹のとり方よりも生死をわける一点を重視した姿勢のようなものを感じます。

 

ももちろん、わたしに答えなどわからない。

 

しかし、いつもの美術鑑賞では体験することのない深い思索につつまれたことは確かです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒い日が続きますね

2013年01月26日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

北海道では、異例の大雪が続いて物流がストップしたりして大変らしいですね。

ここに引っ越して1年がたちますが、今年は寒いといっても、なんとなく昨年に比べたらまだましなような気がします。

家にいる時間が多い分だけ、建物も暖まっているのかもしれません。

でも、

  

 

ただの雪ならこんなもん。



積雪が多いと、近所のお年寄りはほんとうに大変です。
 
なかには雪が降ったら外には一切でないで、家にある食料を食べるだけで当分過ごしていけるって人もいますが、からだを動かさなくなってしまうのは避けたいですね。


高齢化や独居老人の問題など、ほんとに深刻です。
しかし、こういうときになると福祉予算などを充実させる問題は確かに大事ですが、そうしたこと以上に大事なこと、地域の暖かいまなざしのあるおつきあいこそ、真剣に考えなければならない時代なのではないかと感じます。

今日一日、
今年一年、
これから5年、10年を、
年寄りが豊かに気持ちよくくらせるかどうか問題の多くは、お金や制度以外のところにある気がします。


くれぐれも制度をなおす側のいい訳にはされたくないけれど・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法神流を語る『天狗剣法』、待望の文庫化

2013年01月20日 | 上野国「草の者」研究所
 
 
地元にとってはとても大事な本なのですが、長らく手に入らないままだった本、津本陽著『天狗剣法』が文庫化されて、ようやく手に入るようになりました。
 
これも発売元のPHP研究所が、今まではどちらかというとノンフィクション中心で、フィクションをカバーする領域がなかったところPHP文芸文庫という新しいラインナップを出し、受け皿ができたおかげかもしれません。
 
 
 
 以下、文庫版カバーより引用
 
 法神流は、上州(群馬県)赤城山で楳本法神が創始した実践的剣法。数ある門弟のなか、法神が二代目として育てたのが須田房之助である。若き日から無敵を誇り、法神の苛烈な指導を経て人間ばなれした強さを得た房之助だったが、江戸へ出て開いた道場が隆盛を誇ると、他流から執拗かつ卑劣な陰謀を仕掛けられる。そのとき房之助は・・・
 末流が昭和まで剣名をとどろかせた流派の、最強剣士の生涯を描く。
 
 
 
 
 実際にいきた事件を取材して書かれた小説なので、わたしたちは地元贔屓で見がちですが、講談話のような誇張があるわけではありません。
 
 是非、群馬県下中をはじめ、より多くの方に読んでもらいたい本です。
 
  

 

天狗剣法 (PHP文芸文庫)

津本 陽
PHP研究所

 

天狗剣法 法神流 須田房之助始末
津本 陽
PHP研究所

 

 (法神流は目指す剣法とは)
 
 一日二十里(約80キロ)を歩いたのち、戦場で敵とわたりあえるだけの、基礎体力を養うことである。
 
 陰体というのは、夜間の稽古である。法神流には百夜鍛錬という稽古があった。百日間、夜起きていて昼間に眠る。その稽古をおさめると、夜中も昼間も同様に行動できるようになる。高弟になると、多人数を相手に刃引きの真剣を用い型稽古をする。この危険きわまりない稽古は昼間ばかりでなく、夜間も行われた。夜稽古は、打ちこまれる刃の刃風を聞いて応対しなければならない、正気の沙汰ではないすさまじさであった。
 
 
 
 上州には、有名な馬庭念流もありますが、どちらも実践的な剣法で、江戸の名門道場の剣士たちを軽くあしらって負かした話も多い。
 
 
現代に受け継ぐ道場も開かれています。
 
アンビシャスMIYAMAさんのブログに詳しく活動が紹介されています。
 
 
 
【追記】 残念ながら、2016年末時点で『天狗剣法』は品切れ中です。
 
その替わりというわけでもありませんが、アンビシャスMIYAMAさんから、以下のすばらしい本があることを教えていただきました。
 
 
間明修二(まぎらしゅうじ)著 
『我思う、故に我幕末にあり』 文芸社
定価 本体800円+税
 
なかなか史実をよくふまえたフィクションであるとの紹介でしたが、読んでみて驚きの作品でした。
構成、ストーリー、史実の織り交ぜ方、人物描写、どこをとってもとても完成度の高いものです。
 
わたしは、名の知れた作家でさえ、現代作家の場合は満足できる作品に出会うことは少ないのですが、本作品はとても気持ちよく一気に読み通すことができました。
フィクションとはいえ、中沢琴の生きた時代、歴史の境遇も実に活き活きと描かれています。
 
残念ながら、このすばらしい著者については石川県出身、神奈川県在住ということ以外、情報がありません。
 
 
 
NHKのBSプレミアムで放送のドラマ「花嵐の剣士」をみて中沢琴や法神流に興味を持たれる人がいたら、是非おすすめしたい1冊です。
 
 

(以上、正林堂ブログ「正林堂 本の気休め」より加筆転載)

 

追記 

法神流発祥の地、旧赤城村内の深山の里を訪ねてきました。

 

 最初に八坂神社と八幡宮のお宮があり、その右には法神流の伝来碑

 その左手からさらに上に上がる階段があります。

 

さらに、この右の階段をさらに200段ほど登ります。 

 

 

刀を形どった木が手前に奉納されてます。

 格子の間から中を覗くと、手前のアンテナが邪魔してますが、すごいものがありました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする