かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

たくさんの深刻な問題?

2010年04月25日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
たくさんの深刻な問題、
私にはそんなものはないのですが(笑)、
たいていの人は二つや三つの深刻な問題をかかえながら生きているようです。
なかには、あげ出したらきりがないというほど、たくさんの問題をかかえているという人もいます。

自分ひとりの問題だけではなく、社会全体の問題で自分にかかわることまで考えたら、
今の政治の問題に限らず、確かに深刻な問題はとても10くらいでは収まらないかもしれません。

前回の「多様性」の記事について、ある大事な人と話していたらこのことを書いておかずにはいられなくなりました。



「多様性」をみとめる社会には、選択肢の多さやそれらを実現する個々人の能力の発展がたしかに大事な条件のように思えますが、
大事なポイントは、何々があれば大丈夫、それが実現できると思ってしまうことの危険です。

今の政治が悪いから出来ない。
金(予算)がないから出来ない。
上司(部下)が悪いから出来ない。
体調が悪いから出来ない。

実は、こう思った瞬間にアウト!

何々がないから、何々が悪いからダメ、出来ないという人の多くは、
その問題がたとえ解決しても、またその次に新しい何々がないから、悪いからという問題が出てくるからです。
確かに生涯に二度とないような重要なポイントもありますが、二度とおとずれないような壁であっても、
それをどう受け入れるかが大事なことだと思います。

これに対して「出来る人」は、常に、何々がないから、悪いからこそ
今のその条件のもとで自分がどうするべきかを考え、その場で解決していくものです。

このことは、次に書く予定の『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』のところで別の角度から詳しくふれる予定です。


今回書きたいのは、様々な能力や技術、知識や健康な体は確かに必要なことですが、
多くの人は、自分にはそれが今無いからダメと思いこんでしまうことです。

「よく」生きられる人たちは、そうは考えません。

今、自分は10の深刻な問題をかかえているからダメだと思うその内容のひとつが、
仮に健康上の深刻な問題であった場合、

それがたとえガンであったとしてもです。

そのときの打ちのめされたような衝撃は、他人には押し測れないものがあることと思います。
しかし、奇跡的にガンが治った人たちの特徴をみた医師は、その多くがなぜかあまり悲壮な闘いをせずに
温和な性格のままにすごした人が多いと言います。
そのような状況でも温和、和やかでいられる理由は、もちろん人によってさまざまですが、
周りからみて可哀そうな立場であるにもかかわらず、当人はこれまで暖かい家族に囲まれて生きてこれたことの幸せや、今その瞬間も動かせる部分の身体を使って様々なことが出来ることの喜びなどのほうを感じていられる人たちです。

仮にガンではなく、交通事故などで一生半身不随になってしまったような場合でも、
「よく」生きるひとたちは、自分の足は無くなってしまったかもしれないが、まだ自由に動く手がある
脳の働きはなんの問題もない。
目も見える。耳も聞こえる。声も出せる。自分で食事もできると、
その無くなった足以外に自分に備わっているすばらしいものに次から次へとたくさん気づきます。


仕事上の深刻な問題であった場合、
仮に困った上司(部下)をかかえて、業務がどうしても思うように進まない、
あるいはもっと深刻な経営の危機に直面してしまった場合でもです。
そのひとつの深刻な問題は、今は太刀打ちしがたい問題かもしれませんが、
それまで自分が長年事業を続けてこられた従業員や顧客、取引先の存在を感じた時、
これまでも何度も資金繰りの危機や、重大なミスを乗り越えてこられたことの幸運さ、等など。

そのひとつの深刻な問題以外に、たくさんの感謝される出来事が今もあることを見ています。


なるほど、そういう考え方なのか、
と言われますが、これはものの見方、考え方の問題ではありません。
極めて唯物論的なことなのです。

ひとつふたつの深刻な問題にとらわれてしまうことの方が、はるかに精神論の側の見方です。

ひとはどんなに悪い状況に陥ったとしても、それまでの長い人生を客観的に見れば、
この広い宇宙のなかの奇跡の星、地球に生まれたこと、
豊かな生命あふれる地上のなかのさらに豊かな文明の時代に生まれたこと、などからはじまり、

両親や先祖のそれぞれの偶然の出会いの蓄積の上に今の自分があり、
幼少から体験してきたひとつひとつが、無事に今まで貴重な経験として積み重ねてこれたこと自体が、
「奇跡の幸福」の連続によって成り立っているものです。

この単純に天文学的な確率の積み重ねの上に、今の自分があることに気づいただけで、
今の自分が、目の前のひとつの深刻な問題以上に、圧倒的な量の幸せに囲まれていることに気づくと思います。

ですからこれは決して「精神論」やものの考え方の問題ではなく、
極めて「唯物論」的に、事実として、そうなのです。

人はどこか異常がおきたときにのみ、その部分の存在を意識しますが、
どこにも異常が起きていない日々の「無事」なときは、なにも意識しないものです。

ところが、この日々「無事」であることが、どれだけの豊かさや幸せにささえられていることか、
そうしたことを上野村に住む哲学者、内山節さんは以前から「無事の思想」」として
山村の人たちの暮らしを通じて、「豊かさ」というものの真の姿を私たちに教えてくれました。

これと同じことを小林正観さんも言ってます。

10の深刻な問題は、つらく自分にのしかかってくるかもしれない、
でもそのまわりには、9990くらいの「幸せ」や「豊かさ」が、目立たないところで支えているのだと。
それをひとつひとつあげていけば、きっとそれは9990くらいではおさまらないものが見えてくるはずです。
現実を客観的に見れば見るほど、事実はそうなのです。

そこにこそ、自然な「感謝」の気持がでてくるのだと。

またこのように見ていると、深刻な問題の多くが解決したときを振り返ると、
自分で解決したのではなく、そのほとんどが時間が解決してくれていることにも気づきます。

だから何もしない方がよいということではありません。

目の前の自分の出来ることだけをやっていると、時間が解決してくれるのです。

こんなようなことが
小林正観 『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)には、書いてありました。

もうひとつの幸せ論
小林 正観
ダイヤモンド社

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私たちは、なんて幸せな時代に生きているのでしょう。
まさに感謝!感謝ですね。
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「多様性」を語る前に。

2010年04月23日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
このところ私は、公私ともに県内各地の桜を見る機会に恵まれていますが、
この季節になるとどこへ行っても、山々にはあんなところにも沢山の桜があったのかと驚かされます。

とりわけ新緑シーズンよりも前の、木々の葉がない山々なだけに、
遠くからでもその存在はすぐに確認できます。

桜とは、なんと目立ちたがり屋の植物なのでしょう。



新緑のなかに埋もれて咲く桜なども、もしあったならば、
それもさぞ美しかろうに。
ひたすら自分が目立つことだけを優先して咲いているようにも見えます。


春になると、梅、桜にはじまり、いっせいに生命が輝きはじめて、
たくさんの草花があちらこちらに咲き誇ります。

このときとばかりに、私たちも自然界の生命の豊かさや多様性を実感します。


ところがです。

これほどまでに目立つ桜ですが、
この季節以外、一年の350日あまりの期間、
公園などの有名な場所以外は、その幹に近づかない限り、どこにあるのかなど
あまり意識されることはありません。

よく考えてみれば、桜ほど短命ではないにしても、多くの花の咲く期間は1年のうちのほんの僅かな間です。

花に限らずとも、紅葉シーズン以外のカエデやモミジは、どこにあるのでしょう。

私たちが、植物や動物など生命の多様性を語るとき、
それらの盛りの時期、花が咲いている1年のうちの極めて短い間の姿だけをみて、
あそこにも、ここにもこんなに沢山の草花が咲いていると感じます。

しかし、それら多様な生物たちの大半の生活は、花のない、どこにあるのかまったく気付かれないような姿でずっと同じ場所に生き続けています。

うれしいことに、このことが現代になってようやく注目されるようになりました。

真冬の葉っぱひとつつけていない立木は、生きているのか、それともすでに死んでしまった枯れ木なのか、遠くから見て区別することは簡単ではありません。

多くの植物の生涯の圧倒的部分は、花をつけた輝かしい時期ではなく、
ひたすら寒さに耐えて地中や雪の下に埋もれていたり、ただ葉を繁らせ、その他おおぜいのなかに埋もれているだけの人生。

それでも確実にそこで生き続けていることには変わりないのですが、
それらの生命が運よく、花を咲かせ実を実らせるかどうかは、
おそらく想像もつかないような状態で普段は生きているのです。

咲き誇るたくさんの草花を見て、生命の多様性を感じることは簡単ですが、
この時期の枯れた草木を見て、わたしたちはどれだけ生命の多様性を感じることが出来るでしょうか。

ここが、これからの時代は問われているのだと思います。

まだ花を咲かせる前の木を見て、
その木に花が咲かないのは、
季節がまだ早いから咲かないのか、
日当たりが悪いから咲かないのか、
害虫に食われてしまって咲かないのか、
待てばどんな花が咲くのか、

そうした情報を読み取ることこそが大事になってきているのを感じます。

そんなこと植物のプロでなければわかるわけがない、と言われそうですが、
これからの時代、教育の現場や地域や職場のなかで、人間の「多様性」を語るのならば、
花咲き誇る時期の姿だけを見て比べるのでは、大事な多様性のほんの一部しか理解出来ていなことになります。

まだどんな花を咲かせるのか、想像もつかないような時期に、
ただ待てば咲くのか、
肥料を与えることが必要なのか、
日当たりのよい場所へ移すだけでよいのか、
専門家に頼ることなく、その判断を求められているのだと思います。

それには、花のない時期の樹皮を見て
葉っぱをみて、
その木がどのような木なのか判断できなければなりません。
どのような花を咲かせ実をみのらせるのか知らなければなりません。

それにはまず、日常の姿、かたちから名前を知ることです。
それをよく観察することです。
より多く実物に接することです。
足を運んでそこに行くことです。

忙しく、効率に追われる現代人に、「時間軸」の「多様性」も取り込むことは、とても難しいことです。


「多様性」を認めてそのなかで生きるということは、こうしたことが必然として求められるのではないかと感じています。


よって、当店では連休明けより、
「知ってますか? この顔、名まえ」と題して
植物図鑑、鳥類図鑑のフェアを行います。




「正林堂店長の雑記帖」より転載


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天変地異・異常気象を否定しない会@群馬支部

2010年04月17日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
桜の花びらに覆いかぶさる雪。
次第にダラダラと咲くようになってきた桜が、一段と開花時期の幅を広げてくれたような陽気です。

この時期の積雪は41年ぶりらしいです。
こうした自然の変動は、農作物への甚大な影響をもたらすことと思います。

寒いのが苦手な人だけでなく、現実にこうした変化で切実な被害を被る人は決して少なくありません。

ところが、こうした変化をすぐに地球温暖化のせいにしたり異常気象であると決め付けて騒ぐ傾向が、
最近あまりにも強くなってしまっていることに少し疑問を感じます。

もちろん人間のエゴによる環境破壊は、絶対に許されることではありません。

しかし大きな気候変動をあまりにも、地球温暖化などの原因にばかり結びつけすぎてしまい、そもそも自然そのもののもつ変動の大きさや、
大自然や生態系そのものが奇跡ともいえるほどの微妙なバランスの上に成り立っているということを私たちは見失いすぎてはいないでしょうか。

「41年ぶりの雪」という確率は、はたして自然界にとっては「異常値」というレベルのことなのでしょうか?

平均気温に近い状態を目指して安定した結果を出し続けることが、自然にとって「自然な」状態といえるのでしょうか?

それらは、あまりにも人間を中心にした勝手な見方の自然観であると思えてなりません。



そもそも、この宇宙のなかにひとつの星が誕生したこと、
さらには、そこに生命が誕生したこと自体が、天文学的数字の上に成り立った奇跡ともいえる事実です。

そうした「奇跡の連続」の上に、ひとつひとつの生命は、さらなる「奇跡のバランス」の上で成り立ち、またその「奇跡の生命」を持続させることにすべての生命が、
まさに命をかけてそれぞれのレベルで闘っています。

このひとつひとつの「奇跡の生命」のどれひとつをとっても、
それが傷ついたり損なわれたりすることは、たしかにどの命にとっても悲しいことで、
可能な限り避けたいことに変わりはありません。

にもかかわらず、この大宇宙の無機物、有機物を問わず
営々と営まれる軌跡の連続には、
それぞれの今の存在を生み出した一本の必然が貫かれています。

その必然性とは、天変地異や災害、異常気象なども含めたあらゆる「見かけの偶然」の積み重ね上に貫かれているものです。

いまあるそれぞれの命は、それだけの奇跡の積み重ねの上に成り立っているからこそ、
かけがえのない価値をそれぞれが持っているのです。

その「かけがえいのない」という価値観のなかに上下の優劣はありません。

この「奇跡の連続」という神秘の多くを、現代の最先端の科学は私たちに解き明かしてくれますが、私たちはまだ、その「奇跡の連続」のなにかがわかったわけでもありません。

おそらく私たちがイメージできるいかなる偉大な神の力などよりも、それらは遥かに大きな力によって動かされているものであると思います。

40年に一度、100年に一度の変化は、われわれの一生にとっては、まぎれもなく大きな変化です。
でも、それらの変化よりも遥かに大きな奇跡的変化の連続の上にわたしたちの生命はつながっていることを忘れてはならないと思うのです。

こうした視点に立つと、予測できる災害の予防や対策は大事ですが、
それよりも遥かに予想を超えた現実が襲ってくることを前提として、
それを受け入れた後にどう行動するかということにこそ、より多くエネルギーを費やすべきことではないかと感じます。

ちょっとした地殻の変動やマグマの活動が、あるいは太陽や天体のちょっとした異変が、
今の私たちの想像をはるかに超えた異変をもたらすことは、十分にありうることです。



良寛さんは、


災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候

死ぬ時節には 死ぬがよく候

是はこれ 災難をのがれる妙法にて候


といってます。

これは決して運命にのみ身をまかせる投げやりな姿勢のことではなく
人の喜びも悲しみもひと一倍知り抜いている良寛さんの言っている言葉です。

人が不幸に感じていることに対して、
無責任に悟りめいたことを要求することは出来ません。
ひとつひとつの災害や異変は、紛れもなく大きな問題です。
悲しい出来事です。

しかし、私たちのコントロール出来ない自然を、安易に問題視するような見方だけは考え直したほうが良いと思うのです。
私たちがまだ理解しえていない、今あるそれぞれの自然や生命の価値を、自分の価値観よりも上の存在として
認められるように努力しなければならないのではと思います。

ちょっとまだ説明不足でしょうが、
よって、ここに勝手ながら本日、
「天変地異・異常気象を否定しない会@群馬支部」を設立します。

全国本部がどこかにあるわけでもありません。
私個人が、勝手に思っただけの活動です。
賛同出来る方は、是非、勝手にそれぞれの地域で立ち上げてください
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気品と妖気あふれる沼田の御殿桜

2010年04月14日 | 渋川、利根・沼田周辺情報
昨夜、仕事を終えてから大急ぎで、
福増寺のライトアップされた桜を見に行ってきました。

9時終了10分ほど前のギリギリ到着。
かつてこの境内を訪れたときには、これほどのものがあるとは気付きませんでした。

桜はちょうど今が盛りの時で、折からの強風に揺れる枝の姿を動画で撮影できたら、
どんなに素晴らしいだろうかと思いました。

手持ちのiPhoneで撮った写真は、あまり出来の良いものがなかったので、
申しわけありませんが、その迫力はお伝え出来ません。

今日天気が良かったので、改めて昼間に仕事のコースから寄り道して見てきましたが、
ここは夜の方がずっとすばらしく思えました。

それで昨夜は、その感動の勢いで沼田城址公園の桜も見に行きました。
すでに福増寺のライトアップは終了してからの訪問なのに加えて、時期的に沼田で桜はまだ早すぎると思いつつ期待はせずに行ったのですが、沼田市街が見えだすとともに、派手な提灯の明かりと一本の桜だけがぼんやりとライトアップされているのが遠くからも確認できました。

沼田公園内に入ると、やはりほとんどの桜ははまだ早く、
提灯の明かりだけが、派手に煌々と周囲を照らしていました。

ところが、遠くから見えたあの一本の木だけを頼りに先へ進むと、
想像を超えた見事な桜が見えてきました。



この沼田公園の桜は、何度か見に来た記憶はあるのですが、そのときは公園全体のソメイヨシノが満開のときで、
この御殿桜1本の存在は、ただここに大きな桜の木があるということだけで、
これほどの存在感を感じることはなかったように思えます。

周囲のソメイヨシノとは違って、この御殿桜はヒガンザクラなので
他に比べて早い時期に咲くようですが、その姿、色からして、
とても気品ある大木に見えました。

樹齢は400年を超えるとのこと。
ということは、ここに五層の天守が出来、沼田藩のかたちが整い、その草創期から全盛期に植えられ、
真田伊賀守、茂左衛門の時代から見守ってきた木ということになります。

西楼台の石垣の上に立つ巨木なので、ちょっとした強風でも吹けば
石垣もろとも西側に崩れてしまうのではないかと心配になるような立ち姿です。

その西の崖側にまわって下から見上げてみて、また圧倒されました。

iPhoneで撮った写真なので、画質はイマイチかもしれませんが、
この妖気は十分伝わるかと思います。


風に揺れるこの大きな枝、
400年という樹齢を感じさせないその幹の樹肌、
ソメイヨシノに比べると可憐さを感じさせるその白い花びら。



桜と聞けば、チャンスがあればどこへでも出かけていきますが、
こういった体験は、はじめてのものでした。

今年はこれから、ヒガンザクラを中心に追いかけてみようか。

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画期的な手口

2010年04月12日 | 夢日記 (手は届かないけど観念だって実在なんだから)

それは、画期的な手口であった。

なぜか私は、セレブのたくさんいるパーティーにもぐり込むことが出来た。

隣には高級ドレスを身にまとったナイズバディの相方がいる。

彼女は、多くを語らず、
おもむろに洗面台を外しだした。

え?まさかこの水道管の中を通りぬける気か?
いくら細身の体でもそれは無理だろう。

と思ったら違った。
床下を這っていくつもりらしい。

この水道管伝いに床下を這っていくと
このビルの奥のトイレにたどり着き、
そこまで行ければ、すごい大金を盗ってくることが出来るらしい。

そのためにコンパクトにたためる高級ドレスを着ていたのだ。

スルスルとドレスを脱ぎ捨てて
その狭い床下に彼女は入っていった。

素っ裸でこんな狭いところ這って行ったら、
体中が擦り傷だらけになってしまうだろうに。

でも、素っ裸だからこそ通り抜けられるってことか。
細身の女体だからこそ、出来る技だ。

向こうのトイレへ出るときはどうするのだろうと思ったら、
下から固定しているネジを外す不思議なテクニックを持っているらしい。

大丈夫だろうか。
私は先回りしてそのトイレの便座を外すのを
上から手伝ってやろうか。

うまくすれば彼女の汚れたナイスバディを拭いてあげることが出来るかもしれない。
でも、上の通路を通って行くのも危険だしなぁ。

そんなことを迷っていたら
ナイスバディを見る前に目が覚めてしまった…

ここまでの記憶を整理しておいて、
もう一度寝てみる。

待ってろよ~~












あぁ~

残念ながら、目が冴えて眠れなかった。

まだ正面からナイスバディ拝んでなかったのに…、


眠れていたら、おそらく廊下を通って先回りした私が、
擦り傷だらけの彼女を救いあげ、
その画期的な方法と彼女のプロ魂を誉めたたえ、
傷だらけになってしまった体の出っ張っている部分、
肩だとか、肘だとか・・・
体の出っ張っている部分をいたわりつつ、
出来るだけさりげなく、触れながら、
何の疑問も感じることなく、
先を急いでいたことだろうに。

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井上ひさし『ボローニャ紀行』について その3

2010年04月11日 | 気になる本
どうやら、その3は、書いていなかったらしい。
いくら検索しても記事が出ていないので、
そのままフェイドアウトしてしまったみたいです。

ま、私のすること
毎度、こんなもんです。。。

スミマセン。
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井上ひさし『ボローニャ紀行』について その2

2010年04月11日 | 気になる本
ボローニャ紀行 (文春文庫)
井上 ひさし
文藝春秋

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「そこにあるものを発見して表現する力」


ボローニャという都市はイタリア半島の付け根の部分の真ん中にあります。
北はアルプス山脈、南はアペニン山脈。
そのふたつの山脈の間を西から東へ、アドリア海へとポー川が流れ込む。
そのポー川とアペニン山脈の中間にボローニャはあります。

人口は確か38万人くらいだったか?
群馬でいえば、合併前の前橋市と高崎市をあわせたくらいの都市ということだろうか。

そこにたくさんのミュゼオがあります。
ミュゼオとは美術館や博物館のことで、それが市内に37もあるという。
この他に、映画館が50
劇場が41
図書館が73

そしてこれらの建物の多くは、使われなくなった煉瓦工場とかの古い建物を利用したものがほとんどであるといいます。
それらのなかのある産業博物館のこと。

「ここの展示のほとんどが動きます。これがわたしたちの博物館の第二の原則。その展示物の前には必ず赤いボタンが備えてあるんですが・・・」
そのとき井上ひさしは「『シルクの都市』時代のボローニャ市街」という表示の展示物の前にいました。
15、16世紀ころのボローニャ市街の惚れ惚れするほど精密精巧につくられたミニチュア模型でまるで500m上空の気球から見下ろしたような光景。

「赤いボタンを押してみてください」
と館長に言われてボタンを押すと、軽い機会音とともに街全体が上にあがっていき、その下から街の地下一階の模型がゆっくりせり上がってくる。
そのころ、たいていの家の地下には紡績機がありました。
つまり、地下一階が小さな紡績工場になっていたのです。

「ボタンを、もう一度、どうぞ」
すると、またもや街全体の地下一階が持ち上がって、その下から地下二階のミニチュア模型がせり上がってくる。
地下二階は運河の網の目模様。
遠くのレノ川上流から導かれてきた青い水が、街の下を右へ左へと経巡りながら建物の地下を通り抜け、やがてレノ川へ流れ込む様子が手にとるようにわかる。

「レノ川の水を導いて得た動力のおかげで、ここは世界一の絹の産地になりました。そしてボローニャの絹は船でヴェネツィアに運ばれ、全ヨーロッパへ輸出されたのです。」


なんか同じ絹の産地である群馬の桐生や富岡のことが思い浮かんできます。

ながい引用(一部勝手にいじってます)をしましたが、このエピソードだけから
わたしにはたくさんのものが見えてきます。

ここでは、ひとつの歴史を語り伝えるということを、日本の行政主導の博物館などと違って、地元の学校などが協力して、実にいきいきと見せる、魅せるものになっています。
この見せるしくみというのは、私はただ知識を伝える作業というものとは少し違う気ようながします。
地域の歴史というのは、文献などをあたれば、どこもそれなりのことは書いてあります。
ここに書いてあるのを読めばわかる、とでもいわんばかりに。

でも、本屋も似たようなものですが、
そこに書かれた内容のひとつのことがらの感動をいかに伝えるかということは、
どう表現するかということに最善の努力をしてこそ、
やっといくつかが人に伝えることが出来るものだと思います。

そしてそのプロセスこそは、圧倒的な部分は、純粋知識であることよりも、
職人的作業の積み重ねである場合が多いのです。

このボローニャのどこを見ても超一級といわれるミュゼオの数々は、
単に企画が良いからだとか、
街そのものに伝統があるから、
といったことで成り立っているものではないのだと思います。

それは、このミニチュア模型を地元の学校が作りあげるような地盤があってこそのものであり、
決して専門業者に外注して成功するようなことはない構造がここにはあります。

この大事なプロセスのことを理解しないで、ボローニャへ視察に行って真似をしても、また仮に同じものが作れても、リピーターがやってくることはないでしょう。

イタリアがドイツとともに職人文化のある国として知られていますが、
似たような職人文化と技術立国を誇る日本が、これから守り育てていかなければならないことを、自分の街レベルで考えるうえでのとても貴重な視点を見せてくれていると思います。

本来は、この模型のことから、ボローニャの産業構造のことを書く予定だったのですが、
長くなったのでまた次回。

           (以上、mixiの日記 2008年9月のものより転載)
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井上ひさしさんを偲ぶ 『ボローニャ紀行』 その1

2010年04月11日 | 気になる本
井上ひさしさんが亡くなられました。

だいぶ前にmixiの方にだけ書いた『ボローニャ紀行』についての記事、
ブログには出していなかったので、この機会に転載しておきます。

ボローニャ紀行 (文春文庫)
井上 ひさし
文藝春秋

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このところ、バイロイトという小さな町の伝統となったワーグナーの楽劇を毎晩見ていると、山ひとつ隔てたドイツとイタリアでかくも文化の違うものかと痛感させられます。

ヨーロッパの国々でも、このふたつの国を並べて論じるのは無理があるかもしれませんが、私には、個性あふれる地方都市の文化が栄えている非中央主権国家、反中央集権国家の代表格として、どうしてもこの二つの国はならべて考えたくなってしまうのです。

その思いを改めて強く感じさせることになったのは、井上ひさしの「ボローニャ紀行」を読んでからです。
本書の刊行は今年の3月。
本のタイトル、装丁からただの紀行エッセイとみられがちですが、読んでみると実に内容の濃い1冊でることがわかります。

現に8月を過ぎてから、ネット書店の上位にランキングされだしてきていることから、誤解でスタートしていながらも、その実力でじわりじわりとランクアップしてきた貴重な本であると想像されます。

私が、ボローニャなどの地方都市に代表されるイタリア文化の魅力を最初に知ったのは、今からもう20年以上前になります。
かつて東京で国際文化交流団体の仕事をしていたときに、

佐藤一子著『イタリア文化運動通信』合同出版
松田博著『ボローニャ「人民の家」からの報告』合同出版

などを読んで以来です。

あれから20年以上経た今日まで、イタリアの地方都市文化、地方自治文化はグローバル化の波に流されることなく続いていることを知り、とてもうれしくなりました。

(といっても、ボローニャは最近になって市長が代わってしまい、市街地への車の乗り入れがされるよになってしまったりかなりの後退が起きているようですが。)

それでも、ボローニャには未だに世界に誇れる地方都市としての文化がたくさんあります。
イタリアを詳しくみてみると、決してボローニャに限ったことでもないことも多いのですが、その実像は先進資本主義諸国のなかで近代化の遅れた国としてではなく、町工場や手工業の職人文化を守り抜く、中央政府をあてにしない国としての姿がそこには見えてくるのです。

お隣にフランスという、パリへの一極集中の代表国家、農業国でありながら、やたら意地で世界一をつくりたがる国をひかえ、
同時に、同じような職人(マイスター)文化と分散都市文化を保ちながらも近代工業化に成功したドイツなどを比べてみると実に面白い。

よくイタリアは、長靴(ブーツ)に見える国の形から女性の国、ファッションの国として語られることも多いが、井上ひさしは本書の冒頭で、そんなことはない実像を教えてくれる。

まずその国のかたち。
それは決して女性のブーツではない。

長靴のつま先には、サッカーボールのようにシチリア島があり、
今、まさに蹴っ飛ばしそうとしているかのようだ。
まさにそれはサッカーの国であることをあらわす。男の国である。
足の付け根にはベニスもある。

またそのシチリア島はマフィアの巣窟になっているので、今にもアフリカの方に蹴っ飛ばしたそうな気持ちも現れている。

そんな説明から、井上ひさしらしい語り口で、ボローニャという都市が今でも「ボローニャ方式」とよばれるすばらしい地域づくりのお手本を紹介してくれています。
見かけと違ってあまりにも内容が濃いので、これから数回にわたって(最近手抜きの日記が多かったし)紹介してみたいと思います。



mixi日記 「政府をあてにしない地方文化の国(1)」2008年09月24日より転載
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モノの記憶

2010年04月10日 | 出版業界とデジタル社会
              

昨夜、テレビで『ALWAYS 三丁目の夕日』が放映されていました。
私は続編の方しか観ていなかったので、おかげで友人から聞かされていた話の流れがようやくつかめました。

それにしても、すばらしい作品ですね。

皮肉にも、この昭和30年代の懐かしい風景を再現するには、
現実の商品を集めてつくられたオープンセットのリアリティの力もありますが、
それ以上に、照明を使って撮影した後にフィルターをかけて当時の空気感(時代劇などでよく使われるようになりました)を出したり、
セットでは再現不能な景色を創りだしたデジタルCG技術のおかげでもあります。

随処で泣かせるその脚本や演技の力は言うまでもないことですが、
私たちは、あの昭和30年代の情景をみたときに、単なる懐かしさからくるものだけではなく、
なにかいつもそこに大事なものを感じ取ります。

ひと言でいってしまえば、貧しいけれども心の豊かさがあった時代ということなのかもしれませんが、
その違いが何なのかということについては、まだ私たちは答えを十分理解していません。

ただ私にはひとつだけ、この映画を観て再確認できたことがあります。
それは、モノを通じて残る記憶・情報というものの価値ということが、
ひと際重要な意味を持っているのではないかということです。


北欧などの福祉先進国では、高齢者が福祉施設に入居するとき、
それまでの家で使用していた家具類などを出来るだけ持ち込むようにするのが常識だといいます。
今まで暮らしていた環境と同じものがあるというだけで、ボケ防止につながるというのです。

都会で暮らす老人よりも山村で暮らす老人の方がボケにくいというのも、体を動かし続けているという違いだけではなく、
そうした昔と同じ景色がそこにあるといったことが背景としてあるように思えます。

こうしたモノを通じて得る記憶というものも、現実にはモノそのものに含まれる情報の量の差ということが
大きく左右するのではないかと思われます。

私たちが小学校の頃に使っていた木の机や椅子。
それは、野球板にするためビー球が転がるように溝を掘ったり、
奇妙な木目の皺にお化けの姿を想像したりしたものでした。

こうした板に限らず、石などの無機物からはじまる植物や動物などの自然物のなかに含まれる情報の量というものは、
その色彩や形状の豊かさだけではなく、言語化しえないたくさんの情報をも含んでいるものです。

それに対して、プラスチックなどの化学加工製品をはじめとした人工物から伝わる情報の量は、
プリント印刷された模様がいかにキレイなものであっても、そこから伝わる情報量というものは、圧倒的に少ないものです。

彫刻刀を当てても、微かな疵しかつけられない強固な合板とスチールの机、
それは耐久性を保証する合理的なものであることは間違いありませんが、
人の豊富な記憶と感性を支え育てるものではありません。

机や椅子、教科書やノート、それらは単なる機能を持ったモノであるだけではなく、
そのデザインンやフォルムも含めて多くの感情を私たちにもたらすものです。
もちろん現代では、優れたマーケティング情報に基づいたデザインでそうした満足感をもたらす商品がたくさんあります。

しかし如何なるすぐれたデザインのフィット感のある商品でも、自然物のもつ情報量には決して及びません。

こうした豊かな限りない情報にどれだけ囲まれているか、日々包まれているかということは、
文字、言語情報の量とは別の次元で、私たちの感性の大きな部分を占めています。

難しいことを考えなくても、こうしたことを私たちはすぐれた芸術作品に接するときに感じていることと思いますが、
このようなより「情報豊かなモノ」につながった記憶こそ、
私たちがまだ言葉に表現することはできない「豊かさ」を感じる大きな源なのではないかと思うのです。

このことがいくら「豊かさ」を支える大事なものだといっても、
それが言葉に置き換えられない情報である限りにおいて、
だから何なんだと問われると、返す言葉のない話になってしまうのですが、
今、ようやくこうした議論が出来る時代になったことだけは確かだと感じます。


最近、私たちの業界では、すばらしい仕事をされているブックディレクターの幅允孝(はば よしたか)さんが、
「週間読書人」のなかのロング・インタビューで次のようなことを言っていました。

「電子とかネット上の情報って、自分の履歴が蓄積されているようでされていないんですよね。
僕はネタに困ると本棚の前に立ちますが、そうすると忘れていたようでも、
そういえばこの本読んだ時にあんなこと考えてたな、などと思い出すことがある。
記憶の外部保存装置としても本や本棚は役立つような気がします。」

先の「三丁目の夕日」というなつかしい映像そのものが、どれだけデジタル技術によって支えられて作られたものか、
そのことを私たちは忘れてはなりませんが、
その先に私たちが表現するべき大事なこと、守るべき価値のあるものが、
ようやく共通のものとして見えだしてきたように思えます。



教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について
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補足 デジタル技術への抵抗感について

2010年04月08日 | 出版業界とデジタル社会
前に書いた「教科書デジタル化のゆくえと展望(1~3)」の記事は、おかげさまでコンスタントに検索にかかる記事となっているようです。
他の場所で補足として書いた以下の文も大事な内容と思われるので、あらためてこちらに記しておきます。



デジタル技術が生活にとって不可欠なものになることが避けられないことは認めながらも、根本的にデジタル技術というのは人間の感性にそぐわないものなのではないだろうか、といった疑問は根深くあります。こうしたやりとりをしていると、なぜか私がデジタルを擁護する側にばかりなってしまうのですが、私にも皆さんと同じような「デジタル不審」の気持ちはあります。

そもそも音楽が、アナログレコードからコンパクトディスクに変わったときに、私はCDには絶対に「魂」が入っていないと確信しました。その思いは今でも変わっていないつもりです。
これを実際に論証することはとても難しいのですが、多くの人が直感的にそう感じているのは、たとえ理論的に論証できなくてもあながち間違いでもないのではないかと思っています。ただ、今それを議論してもどうにもならない気がするので、問題の視点を変えて提起してみることにしてみます。

そこでわたしがいつも感じているのは、多くの人がデジタル技術に対する不審観を感じるのは、「お金」のもつ問題とその性質がとても似ているのではないかということです。

デジタル技術というのは、世の中のあらゆる情報を、それが音声であれ、文字情報であれ、画像であれ、動画であれ、すべてを0か1という二進法の記号の量の積み重ねに変換してしまうことです。
元来、文字と音声と画像とは、まったく異質な情報であるにもかかわらず、それを同質なものに置き換えてしまうのです。

頭でわかっても、まったく想像のつかない恐ろしい技術です。

これが「お金」のもつ性格とそっくりなのです。

お金も、農家が育てたお米と猟師が捕ってきた鹿の肉とはまったく違う質のものであるにもかかわらず、それを交換する必要性に迫られたときに、その異質な二つのものを同質の量(=お金)に置き換える役割をはたしてくれます。

「質」や「ものの価値」といったものは、それぞれ固有の性格をもつもので、もともと比較のしようがないのが実態です。これは人間も同じなのですが、唯一無二の固有の価値があるといいながらそれは、外部に比較するものを持たないとそれ自身では自分を表現することができないのです。
この問題に立ち入ると経済学の最もやっかいな問題の説明をすることになるので、ここで詳細の説明は省かせていただきます。

ただ「交換」という社会の必要性からのみ、そもそも比較の出来ない異質なものを、どこかで「等質」なものの「量」に置き換えることが必要なのです。
それが「お金」であり、情報の分野では「デジタル技術」なのです。

そうした意味で「お金」とは、そもそも比較の出来ない異質なものを等質なものに置き換える『人類の発明した偉大なる方便』であると思います。

これと同じ「無理」を技術的になしえた「デジタル技術」というものは、異質なものを同質なものにしている限り、人びとの心のなかには絶対に承服しがたい論理として疑念が残り続けるのは、やはり避けられないことだと考えられます。

いかなる経済的合理性や技術的精度があったとしても、異質なものを同質な量に置き換えてしまう限りにおいて、その根本においては絶対に承服しがたい気持ちが起こるのは当然のことと思います。

この問題の鍵は、人間社会というものが必然的に要求する「交換」という営みと、その地域それぞれや時代ごとの社会の性格がこの内容を決定します。

「お金」が諸悪の根源だと決めつけることよりも、その地域や社会に適した「交換」の在り方を問うことこそが求められているのではないでしょうか。

今、わたしたちは「お金」との関係では、地球レベルのグローバル化のもので、おそらくその有史以来の歴史のなかで行きつくところまで行きついて、ようやくその歴史の折り返し地点に立ったところなのではないかと思われます。

社会の発展とともに進歩してきた異質なものを同質なものに置き換えるという「人類の発明した偉大なる方便」に振り回されることのない正しいつき合い方を、やっと地球レベルで考えられる時代になった気がします。

この「お金」のことと同じプロセスを「社会のデジタル化」という問題は、私たちにものすごいスピードでつきつけているのです。

わたしたちの感覚がついていけないのは当然のことで、それは人間が健康な感性を失っていないことの証明でもあると思います。

しかし、わたしはそれを「お金」は悪い、諸悪の根源だと決めつけてしまうのと同じように敵対視してしまうことも、十分戒めなければならないことと思っています。

忘れてならないのは、日々自分自身がどれだけそれらの「お金」や「デジタル技術」にお世話になっているかということです。

自分がお世話になっていることを棚に上げてして安易にその欠点のみを非難してしまうのは、人間関係でも商売でもよくあることですが、これは重々気をつけなければなりません。

自分自身が嫌ならば、それを使わない権限も持っているにもかかわらず、お世話になりながらそれを非難する、これはいけないと思います。

わたしたちの日常にどっぷり浸み込んでいる「お金」や「デジタル技術」の恩恵にまず感謝して、その正しいあり方を考え続けることがわたしたちに求められているのではないかと思います。

なぜならば、敵対し憎むよりも、先に感謝し続けたほうが、相手のほうがこちらにやってきてくれるからです。

「人類が発明した偉大なる方便」であるお金と、
「デジタル技術」に対するつきあい方は、非人間的に暴走しがちな側面にばかりとらわれてはなりません。

むしろそれは、それ自身の姿を持たないものであるだけにその実態は、
自分たちの人間性の反映した姿であることを自覚して、うまく付き合えるようになりたいものです。


教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

モノの記憶
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想像以上に面白い未来がやってくる!

2010年04月05日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

                        

前回の「モチベーション3.0」のことを人と話していると、これからやってくる時代というのが、想像以上に面白い時代がやってくるのだと感じずにはいられません。

私たちが未来の話をするとき、
それはどうしてもテクノロジーの話題にばかりなりがちです。

新しい技術が、われわれの生活やものの考え方をどれだけ変えていくか、
もちろん、それを考えただけでもワクワクしてきますが、
テクノロジーの問題ではなくて、人間そのものがどのように変わるのか、あるいは変わらないのか、このことの方がはるかに大事な問題であるにもかかわらず、ついこうした大事なことを忘れて私たちは議論してしまいがちです。

もちろん人としての基礎的部分、生物としての男と女にもとづく喜怒哀楽を軸とした性格は、神代の昔からこれから先の未来もずっと変わらずに続くものと思います。

いつになってもその変わらない部分を思い知らされ、
いったい俺はなにをやっているんだ、
などと思い続けることも、永遠に変わらないかもしれません。

しかし、これだけ精神的な存在でもある人間が、その精神的な部分、社会的な部分が進化しないなどと決めつける方が、はるかに無理があるはずです。

にもかかわらず、
私たちはテクノロジーの進化について百の議論ができても、
その精神や社会システムの進化についてはひとつの議論も出来ていないのではないでしょうか。

まだ人類は、その精神を語るときでも、
未だにそれ本来の自由な精神など理解出来ず、
ほとんどが固定的な知識や体験の積み重ねの上にみに胡坐をかいています。

人の感性と思考は、
本来、その瞬間、瞬間で、
その対峙する相手それぞれに応じて、
それまで蓄えたものの有無にかかわらず、
いつでももっと自由にはばたけるはずです。

過去のいかなる偉大な詩人の言葉よりも
もっと自由な精神の広がりは可能なはずです。

世の中は、社会として集団のルールがあってこそ成り立つものですが、
そんなものにはこだわっていられないほど、常に新しい変化が目の前に起き、
黙ってはいられないこと、
じっとしてはいられないことが、
次々と目の前に現れます。

それを表現することが出来ないから、
それを伝えることが出来ないから、
それを行動に移すことが出来ないから、
と、今の人は立ち止ります。

しかし、それをすぐに表現すること、
すぐに伝えること
すぐに行動することこそが
人としての本来の姿です。

みんながそんなふうに動いたら収拾がつかなくなる?

それこそ面白い世界ではないですか。

ものごと体系的である必要などない。
そもそもこれまでの人類の英知など、なんどひっくり返ってきたことか。

かったるい取り決めなどよりもずっと先の
ワクワクする解決策が、次から次へと出てくるような社会。

そんな力は誰もが本来持っているもの。

だから、政治家なんかほっといていい。
話のわからない役人なども、相手にしなくていい。

動ける人間がどんどん答えを出していく。

51人の考えを49人に押し付ける「正義」や「民主主義」など
とっととに時代遅れになっていく。 


勝手な人間が増えてコントロール不能になったらどうするんだって?

そうなったら、またすぐに次の解決策がみつかるさ。

なにも心配することはない。

すばらしい時代がやってくる。

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「モチベーション3.0」 やっと我われの時代がやってくる

2010年04月04日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「週刊東洋経済」の特集で、早く紹介しようと思っていたのですが、瞬く間に1週間がすぎ去り、既に次の号が店頭にならんでしまい、もはや営業にはつながらない紹介となってしまいました。

「モチベーション3.0」という表現は、この特集以外には、日本で翻訳本が出て紹介されているわけではないので、決して浸透している表現ではありません。

まず最初に「モチベーション1.0」があったわけではありません。
「モチベーション1.0」とは、空腹、恐怖、性欲などの人間の生理的欲求に基づいた行動。

次の「モチベーション2.0」とは、報酬は罰金といったアメとムチによる動機づけで、お金による成果主義がその典型例。
この方式は、長期間にわたって非常にうまく作用してきた。
産業革命や日本の戦後復興を後押しいしてきたのがこのシステム。

外発的な動機づけである「モチベーション2.0」と対照的なのが、「モチベーション3.0」。
「ワクワク感」「楽しい」「世界や社会をよくしたい」といった内面から涌き出るようなやる気を指す。
わたしたちの仲間には、もともとこの「モチベーション3.0」で生きてきた人が多い。



なぜこうしたことが今言われるようになったかというと、
第一に、これまで機能していた「モチベーション2.0」だけでは、うまくいかない現実が増えてきたこと、
第二には、これまでのシステムよりも「モチベーション3.0」の方が、現実に優れた業績を発揮している例が目立ってきたということである。

おかげで、今まで異端、あるいは勝手に生きさせていただいているだけであった友人たちが、にわかに世の中の表舞台で堂々と生きていけるようになってきた。

もちろん、だからといって「モチバーション3.0」の人びとが決して世の中の主流になれたわけではない。
社会の公認を得た程度で、多数派にはまだほど遠い。

しかし、なぜいま「モチベーション3.0」が注目されるのか。
ここには、これからわれわれが人類の本史に至るための重要なパラダイム転換の始まりが見え隠れしている。

理解しがたいこの原則を説明するために、本誌のなかで、
「モチベーション3.0」提唱者であるダニエル・ピンク氏による心理学の実験が紹介されている。

ロウソク、マッチ、画鋲が入った箱を使って、ろうがテーブルに垂れないような方法で、ロウソクを壁に取り付けるよう要求する。
この問題を解くために、被験者をふたつのグループに分ける。
第一グループは、正解に至るまでの時間を測るだけだと告げる。
一方、第二グループには、上位25%以内に入った人には5ドルを、1位になった人には20ドルを与えると告げる。

実験の結果は、第二グループの方が3分30秒も余計に時間がかかった。
柔軟な思考を要する課題に対しては、報酬などに気をとられることなく自由な発想の出来る環境が大切だということだ。

定型業務には、たしかに今でも「モチベーション2.0」の成果報酬は有効であるが、定型業務の比率が減り、創造的仕事の比率を高めることが求められる現代では、圧倒的に「モチベーション3.0」の方が効果的である。
また個人事業や個人のプレーに大きく依存する仕事もこれがあてはまる。

「管理する」ことや「アメとムチ」に頼る背景には、もうひとつ
「人間は怠惰な根性なしだ」というとらえ方がある。

モチベーション3.0は、このような考え方を否定し、
人間には、活動したい、物事に打ち込みたいという欲求があることを証明する。


以前、労働観について同様なことを書いたことがあります。
労働組合がこれから本来の働くものの代弁者になるためには、
労働条件の改善を中心とした運動から、経営側に取り込まれることなく自らの本来の「より働くこと」の喜びを獲得する運動に移行していかなければならない。
労働者の最大の幸福は「働けること」を通じてこそあるということです。

これは、前回紹介した『日本でいちばん大切にしたい会社』で、繰り返し強調されていることともまさに照合することです。


また、これも何度か紹介していることですが、教育の「フィンランド方式」も、これと同じ発想によるものです。

こどもは、既存の知識の体系を詰め込むよりも、子ども自身が興味があったことを学ばせる方が、現実に学力も上がり、それでフィンランドは学力世界一とまで言われるまでになったという例です。


個人の自由が拡大するとともに、
より柔らかい頭の使い方こそが求められるようになる。


本来、人が生きていくということは、
そもそもそういうことなのだということが、ようやく伝わりはじめている。


おかげで既存の知識の体系をおぼえる競争に負けたわれわれも、
やっと勝負をかけられる時代になったのだ。


すばらしい世の中がやってくる。
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良い医療と良い経営は両立しないのか?

2010年04月02日 | 気になる本
日本でいちばん大切にしたい会社2
坂本 光司
あさ出版

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社会問題として指摘され続けている救急患者の受け入れ拒否の現実がありますが、
ほとんどの町では、いまだに改善の方向へは向かっていません。

病院側からすれば、現実に対応できる医師がいないのだから責任ある受け入れは不可能ということになるのでしょう。
どこも経営難のなかで、医師を簡単に増やすことはできない。
増やしたくても、なかなか来てくれる医師がいないのも確かに多くの病院の現実です。

そんなことから、まことしやかに「良い医療と良い経営は両立しない」
といったことがしばしば言われることがあるのを耳にします。

こうした話は、良い医療に限ったことでもなく、
長引く不況で市場が縮小し続ける時代に、様々な分野で似たようなことを聞きます。

「それは経営にゆとりがあれば出来るかもしれないが、今の実情で無理だ」
どの経営者から聞く言葉も実情からすれば、ごもっともなことのように聞こえてきます。

財務状況を表す数字をみれば、改善を要求すること自体が無茶な要求であるかのような実態もあります。


ところが、こうした問題のうちにこそ、
そもそも「経営」とは何か、
「良い経営」とはどのようなことなのかを
根本的に問いなおす大事な鍵がひそんでいることを、
わたしは改めて知りました。

これまで何度か紹介させていただいた、坂本光司教授の『日本でいちばん大切にしたい会社 』(あさ出版)は、こうした様々な「出来ない理由」が、経営の本来の姿からいかにかけ離れているかを私たちに教えてくれるものですが、この度の第2弾『日本でいちばん大切にしたい会社2』では、さらにそうした実例を紹介してくれています。


最近、テレビなどでもよく紹介されるようになった千葉の亀田総合病院。
救急医療患者受け入れを絶対に拒否しない病院としてかなり有名になりました。

私はこの病院のことを、もっぱら救急患者の受け入れ体制のことでのみすぐれた病院であるかのように思っていました。

もちろん、そのことだけでも十分すばらしいことなのですが、それにとどまらない医療の在り方そのものを問い直す、しっかりとした病院経営思想のもとにここの医療が成り立っていることを本書で知りました。

具体的なことは、是非、本書を読んでみていただきたいのですが、
なにごとも経営が苦しいから、良いサービスや医療は提供できないのではなく、
良い医療やサービスを提供する考えがあれば、
患者は集まり、すぐれた医者がたくさん集まるようになることで経営が良くなるのだということです。

これは財務諸表を固定的に分析している人には、なかなか理解できないことでです。

いかなる分野の事業でも、衰退していく経営体は、何なにがないから不可能だ、それは出来ない、と言います。
ところが、すぐれた経営を成しているところは、ほとんどが同じ条件のなかで突破口を切り開いているのです。

おそらくどこの病院でもあることですが、
「隣りの人のいびきがうるさくて眠れない」
「軽症なので入院中に酒が飲みたい」
「入院している家族が心配なので泊りたい」
これらの個々の患者や家族の要望に応えられるのか応えられないのか、
それこそが、「経営の核心」部分なのです。

でも、それが出来るところと出来ないところの差はどこに生まれるのでしょうか。
決してマニュアルで解決できる問題ではありません。
「Always say yes」「絶対にNOと言わない」サービスは、どのようにして可能になるのでしょうか。

かつて『真実の瞬間』といった本がありましたが、顧客に接している最先端の従業員にこそ、会社の真の姿はあらわれるといったようなことを書いていた本ですが、それを見事に実現した経営がここにありました。

坂本先生が亀田病院長に、最も重視している仕事、役割はなにかと尋ねると、
「私がいちばん多くの時間を割いている仕事、いちばん大切と思っている仕事は、医師と看護師をはじめとした、病院スタッフの命と生命を守ることです」と迷うことなく答える。

この精神が生みだすシステムこそが、給料だけが高いわけでもなく、働くがいと生きがいを感じて創造的仕事に従事するスタッフの職場環境を育てている。

人に能力の問題を問う前に、
誰もが、人の役に立てること、必要とされること
人の喜んでくれた顔が見れること、人にほめられることを
どれだけ働くことの動機としていることかをもっと多くの人が知るべきです。

そして、この話は次に書く予定の「モチベーション3.0」の話に続きます。

実は、あとがきでふれられた内容についても、ひとこと付言しておきたいことがありますが、
それは別の場にします。

本書で亀田病院の話は8つ取りあげられた企業のなかのひとつにすぎません。
是非、書店店頭で手にとって見てみてください。
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