先月、明治神宮の宝物館とは別にある明治神宮文化館宝物展示室で、「菱田春草展」が前期・後期にわけて行われていたので、2回にわたってそれぞれを見にいってきました。
この明治神宮のある代々木の森は、春草終焉の地であると知りました。このことは、後にふれますが晩年の作品に大きな影響を与えています。
学生時代、日本美術を専攻していた私は、岡倉天心とその門下の大観、春草、観山の仕事にとても興味をもち、とりわけ春草は第一のお気に入りであったので、レポートを書いたりもした記憶があります。
ところが、今、改めて大好きな春草を現物や評伝などを見直してみると、私はまだ肝心なことを当時はなにも理解していなかったことに気付きました。
当時の私は、明治維新を迎えた日本が、西洋の文明と日本の文明の衝突をどのように受け入れ、順応または反発、あるいは同化していったか、といったテーマを岡倉天心を軸に考察することが中心テーマでした。
春草のとらえ方の本質的な部分がずれていたわけではありませんが、伝記のようなものは何も読んでおらず、論点は岡倉天心の関連で見ていただけだったので、肝心な個々の作品の創作の動機や経緯は、ほとんど理解していませんでした。
それが、ちょうど同時期に開かれていた国立博物館の「皇室の名宝」展で、日本美術史のいくつかの大事な作品を概観することもできたので、今回、岡倉天心と大観、春草、観山のなした日本美術史上の偉業をあらためて認識することができたのです。
明治期の日本画壇は、急速に流入してくる洋画の勢いにのみ込まれそうになり、存立の道を失いかけそうになる。
そのとき岡倉天心はフェノロサの助言のもと、日本美術の伝統の継承と革新に真正面から取り組みます。
五浦での様子
このときの天心とその門下の意気込みとその革新性が、当時の画壇や社会では受け入れられず、その力量の高さは認められながらも売れない画家として長い間、苦しい生活を強いられました。
横山大観「屈原」
この題材は、岡倉天心をモデルにしたとも言われる。
見ただけで余計な説明は不要だと思います。
天心らは、日本画と洋画の違いを平面性・直線性・様式性を中心とした世界と、立体性・曲線性・現実性を中心とした世界の対比として捉えていました。
そこに日本画の重ね塗りを避ける絵の具の特徴が加わると、上記の対比はより必然的なものとしてとらえられた。
(油絵具は同分子なので混ぜることができるが、日本絵具は岩絵具など分子が違うものが多いので、混合できない場合が少なくない。)
これは絵画にとどまらず、和服や様々な生活の対比でとらえても、「たたむ」文化として日本には平面性や直線性が浮き出ています。
西洋にも直線性はもちろんありますが、それはシンメトリーを基本にしたもので、日本のような構成美や様式美よりも機能美がベースであることが多い。
最近、ある知人が玉堂だかのスケッチの精緻さに感動していた記事がありましたが、総じて日本画家はスケッチの技術を磨いていながらも、それをそのまま作品には出さず、それを様式美に昇華することを目指す。
大観も、人から写実的な写生をしているところを見られると、あわててそれを隠すほどだったという。
さらにこうした技法の違いに加えて、日本画壇特有のテーマ、主題というものが加わります。
岡倉天心はこれにとても固執していました。
日本画がテーマにこだわることは天心に限らず、日本画界がずっと続けてきた伝統そのものなのですが、明治維新を経て近代化を推し進める日本で、その伝統文化の革新を考えるときでも、天心はそこにずっとこだわり続けていたようです。
大観、春草、観山は、橋本雅邦につき日本画の伝統、古画の模写を徹底して行い、身体に深く染みこませています。
しかし、そのなかで春草は絶えず、伝統を踏まえながらも、日本画の革新ということを先鋭的に問い続けていました。
春草の親友ともいえる大観は、常にそれを横で見て真似ていたともいえるほど、春草は常に革新的な試みをしていました。
それに対して観山は、もっとも天心に忠実に日本画のテーマを描き続けており、それゆえに3人のなかでは最も売れる作品を出していました。
自分の考えに忠実であったからか、売れる作品を描いてくれたからか、天心は観山をとてもひいきにしていたようにみえます。
というよりは、技術的に新しい試みを進めていく春草に、評論家の天心がついていけなかったという方が正しいのかもしれません。
これは芸術家と評論家の間でよくおきやすい齟齬のパターンでもある。
音楽や絵画では、それを言葉で説明する習性が強い評論家は、どうしてもそれを作品そのものの構図やエネルギーから読み解くよりも、勝手な文学的意味づけをしてしまう傾向が強い。
芸術への造詣はとても深い天心であったが、この点は残念ながら例外ではありませんでした。
こうした問題に関わらずとも、美術史・芸術史をみるならば、写実へ向かうベクトルと抽象へ向かうベクトルのせめぎ合いが、長い歴史を通じて
あるいは画家個人の内部の葛藤として、絶えずおきてきた経緯があります。
そこに様式というものが、どのように折り合いをつけさせるのか、春草ほど真剣にこの問題と格闘し続けた画家はいないのではないでしょうか。
光琳のような優れた造形美・構成美の伝統の歴史に、洋画が持ち込んだ写実性・立体性がどんどん食いこんでくる時代。
西洋の模倣だけで成り立っていた洋画界にくらべたら、日本画界での春草は遥かに厳しく新しい様式の追及を迫られていた環境がありました。
そうした試行錯誤の繰り返しのなかでも、目の療養を目的とした代々木への転居は、春草にひと際大きな転換をもたらしたといえます。
治療の甲斐あって弱っていた目が徐々に回復しだしたとき、春草には、目に入ってくる木々や葉っぱの一枚一枚をスケッチできること、それ自体が大きな喜びであったことと思われますが、それは同時に自然の姿そのもののもつ美しさに感動し、再発見する喜びにあふれていたことと思います。
日本の絵画や彫刻は、対象を写し取るために凝視してスケッチを重ねることはたしかにありましたが、それらの行為はあくまでも技術を磨くための手段であって、作品に仕上げるときは、先代や師匠の型の模倣が第一でありました。
春草の作品においても、その描画技術は高いものがありながらも、人物の姿、表情などはまったく写実的とはいえない古典の形式そのものです。
にもかかわらず周辺や背景の木々は葉っぱなどの自然描写は、妙に写実的表現であったりします。
しかし、それはあくまでも画題、テーマを演出するために計算しつくして配置したものにすぎず、それらの多くは人物の物語や心の動きを説明する補完物にしかすぎませんでした。
それが、代々木の森で歩き回り出会う木々や草花のスケッチを重ねるうちに、中国の故事や歴史人物のドラマなどに頼らなくても、自然そのものの形状、姿のなかにずっと豊かなドラマ、というよりは生命の輝きそのもののもつ豊かなリズムを感じ取ったようにみえます。
それが「落葉」の構想へ、自然そのものの描写を様式化する試行錯誤へと突き進んでいかせたのではないでしょうか。
それまでの日本画の歴史にある屏風絵などの構図の妙を凝らした自然描写から、やや写実に近づいた自然そのもののもつリズムを描くだけで、同時に人間の高い精神性をも感じさせる様式美を「落葉」で完成させました。
(この「落葉」は、今回展示作品ではありません)
わたしは、それをわたしの大好きなバッハとの共通性を感じるがゆえに、春草こそが美術史の頂点に位置する存在だと思うのです。
時間は逆行しますが、ベートーヴェンの強烈な意志、ブラームスの朗読調のロマン主義、ラベルやドビュッシーの印象派から、ワーグナーの情念まで、それを語るとき、多くは人間の心を主題としたテーマが主導して鑑賞してしまいがちなものです。
しかし、作曲という行為そのものの多くは、そうしたインスピレーションは確かに大事なものえはありますが、楽譜上の法則や鍵盤の法則の規制の上でのたんたんとした作業の積み重ねで成り立っています。
それをどうしても私たちは天心のように、つい文学的意味づけをして鑑賞してしまうのですが、バッハの作品の場合は、そうした主観による決めつけの入り込む余地のないような手法で、多くの作品が成り立っています。
しかし、わたしたちはそれにもかかわらず、バッハのなかにこそ、より普遍的な深い音の人間的感興を覚えます。
とりわけ平均律クラビア曲集や無伴奏バイオリンやチェロのソナタ・パルティータなど、それらは何の音楽かではなくお玉じゃくしの法則そのものなのです。
ショパンの練習曲などもそのたぐいですが、何々を表現したものではなくお玉じゃくしの法則そのものが、いかなる人間描写よりも深い感興をわたしたちにもたらしてくれます。
それは見るものの主観で対象を切り取ったような俳画の自然描写とも違います。
まさにこれこそが、日本画の特徴を最大限に生かしきった様式といえるのではないでしょうか。
ここまで断言して良いものかとも思いますが、今日に至るまで、日本画壇のみならず洋画も含めて日本美術界においては春草ただひとりが、その高みに至っているのではないかと感じます。
(「黒き猫」は今回展示作品ではありません)
これは昭和以降の巨匠と呼ばれる日本画界の人々の絵が、まったく理解できない私の偏った見方かもしれません。
でも、もしも春草が長生きしていたならば、「落葉」に続く作品を、バッハの平均律グラビア曲集や無伴奏チェロ組曲のように、現代の私たちすらも想像つかないような連作として仕上げていたのではないかとさえ思えるのです。
春草の描く「フーガの技法」が目に浮かんできます。
今回観られなかった「黒き猫」などは、来年国立博物館で開かれる細川家の名宝展でみることができる。
楽しみです。
この明治神宮のある代々木の森は、春草終焉の地であると知りました。このことは、後にふれますが晩年の作品に大きな影響を与えています。
学生時代、日本美術を専攻していた私は、岡倉天心とその門下の大観、春草、観山の仕事にとても興味をもち、とりわけ春草は第一のお気に入りであったので、レポートを書いたりもした記憶があります。
ところが、今、改めて大好きな春草を現物や評伝などを見直してみると、私はまだ肝心なことを当時はなにも理解していなかったことに気付きました。
当時の私は、明治維新を迎えた日本が、西洋の文明と日本の文明の衝突をどのように受け入れ、順応または反発、あるいは同化していったか、といったテーマを岡倉天心を軸に考察することが中心テーマでした。
春草のとらえ方の本質的な部分がずれていたわけではありませんが、伝記のようなものは何も読んでおらず、論点は岡倉天心の関連で見ていただけだったので、肝心な個々の作品の創作の動機や経緯は、ほとんど理解していませんでした。
それが、ちょうど同時期に開かれていた国立博物館の「皇室の名宝」展で、日本美術史のいくつかの大事な作品を概観することもできたので、今回、岡倉天心と大観、春草、観山のなした日本美術史上の偉業をあらためて認識することができたのです。
明治期の日本画壇は、急速に流入してくる洋画の勢いにのみ込まれそうになり、存立の道を失いかけそうになる。
そのとき岡倉天心はフェノロサの助言のもと、日本美術の伝統の継承と革新に真正面から取り組みます。
五浦での様子
このときの天心とその門下の意気込みとその革新性が、当時の画壇や社会では受け入れられず、その力量の高さは認められながらも売れない画家として長い間、苦しい生活を強いられました。
横山大観「屈原」
この題材は、岡倉天心をモデルにしたとも言われる。
見ただけで余計な説明は不要だと思います。
天心らは、日本画と洋画の違いを平面性・直線性・様式性を中心とした世界と、立体性・曲線性・現実性を中心とした世界の対比として捉えていました。
そこに日本画の重ね塗りを避ける絵の具の特徴が加わると、上記の対比はより必然的なものとしてとらえられた。
(油絵具は同分子なので混ぜることができるが、日本絵具は岩絵具など分子が違うものが多いので、混合できない場合が少なくない。)
これは絵画にとどまらず、和服や様々な生活の対比でとらえても、「たたむ」文化として日本には平面性や直線性が浮き出ています。
西洋にも直線性はもちろんありますが、それはシンメトリーを基本にしたもので、日本のような構成美や様式美よりも機能美がベースであることが多い。
最近、ある知人が玉堂だかのスケッチの精緻さに感動していた記事がありましたが、総じて日本画家はスケッチの技術を磨いていながらも、それをそのまま作品には出さず、それを様式美に昇華することを目指す。
大観も、人から写実的な写生をしているところを見られると、あわててそれを隠すほどだったという。
さらにこうした技法の違いに加えて、日本画壇特有のテーマ、主題というものが加わります。
岡倉天心はこれにとても固執していました。
日本画がテーマにこだわることは天心に限らず、日本画界がずっと続けてきた伝統そのものなのですが、明治維新を経て近代化を推し進める日本で、その伝統文化の革新を考えるときでも、天心はそこにずっとこだわり続けていたようです。
大観、春草、観山は、橋本雅邦につき日本画の伝統、古画の模写を徹底して行い、身体に深く染みこませています。
しかし、そのなかで春草は絶えず、伝統を踏まえながらも、日本画の革新ということを先鋭的に問い続けていました。
春草の親友ともいえる大観は、常にそれを横で見て真似ていたともいえるほど、春草は常に革新的な試みをしていました。
それに対して観山は、もっとも天心に忠実に日本画のテーマを描き続けており、それゆえに3人のなかでは最も売れる作品を出していました。
自分の考えに忠実であったからか、売れる作品を描いてくれたからか、天心は観山をとてもひいきにしていたようにみえます。
というよりは、技術的に新しい試みを進めていく春草に、評論家の天心がついていけなかったという方が正しいのかもしれません。
これは芸術家と評論家の間でよくおきやすい齟齬のパターンでもある。
音楽や絵画では、それを言葉で説明する習性が強い評論家は、どうしてもそれを作品そのものの構図やエネルギーから読み解くよりも、勝手な文学的意味づけをしてしまう傾向が強い。
芸術への造詣はとても深い天心であったが、この点は残念ながら例外ではありませんでした。
こうした問題に関わらずとも、美術史・芸術史をみるならば、写実へ向かうベクトルと抽象へ向かうベクトルのせめぎ合いが、長い歴史を通じて
あるいは画家個人の内部の葛藤として、絶えずおきてきた経緯があります。
そこに様式というものが、どのように折り合いをつけさせるのか、春草ほど真剣にこの問題と格闘し続けた画家はいないのではないでしょうか。
光琳のような優れた造形美・構成美の伝統の歴史に、洋画が持ち込んだ写実性・立体性がどんどん食いこんでくる時代。
西洋の模倣だけで成り立っていた洋画界にくらべたら、日本画界での春草は遥かに厳しく新しい様式の追及を迫られていた環境がありました。
そうした試行錯誤の繰り返しのなかでも、目の療養を目的とした代々木への転居は、春草にひと際大きな転換をもたらしたといえます。
治療の甲斐あって弱っていた目が徐々に回復しだしたとき、春草には、目に入ってくる木々や葉っぱの一枚一枚をスケッチできること、それ自体が大きな喜びであったことと思われますが、それは同時に自然の姿そのもののもつ美しさに感動し、再発見する喜びにあふれていたことと思います。
日本の絵画や彫刻は、対象を写し取るために凝視してスケッチを重ねることはたしかにありましたが、それらの行為はあくまでも技術を磨くための手段であって、作品に仕上げるときは、先代や師匠の型の模倣が第一でありました。
春草の作品においても、その描画技術は高いものがありながらも、人物の姿、表情などはまったく写実的とはいえない古典の形式そのものです。
にもかかわらず周辺や背景の木々は葉っぱなどの自然描写は、妙に写実的表現であったりします。
しかし、それはあくまでも画題、テーマを演出するために計算しつくして配置したものにすぎず、それらの多くは人物の物語や心の動きを説明する補完物にしかすぎませんでした。
それが、代々木の森で歩き回り出会う木々や草花のスケッチを重ねるうちに、中国の故事や歴史人物のドラマなどに頼らなくても、自然そのものの形状、姿のなかにずっと豊かなドラマ、というよりは生命の輝きそのもののもつ豊かなリズムを感じ取ったようにみえます。
それが「落葉」の構想へ、自然そのものの描写を様式化する試行錯誤へと突き進んでいかせたのではないでしょうか。
それまでの日本画の歴史にある屏風絵などの構図の妙を凝らした自然描写から、やや写実に近づいた自然そのもののもつリズムを描くだけで、同時に人間の高い精神性をも感じさせる様式美を「落葉」で完成させました。
(この「落葉」は、今回展示作品ではありません)
わたしは、それをわたしの大好きなバッハとの共通性を感じるがゆえに、春草こそが美術史の頂点に位置する存在だと思うのです。
時間は逆行しますが、ベートーヴェンの強烈な意志、ブラームスの朗読調のロマン主義、ラベルやドビュッシーの印象派から、ワーグナーの情念まで、それを語るとき、多くは人間の心を主題としたテーマが主導して鑑賞してしまいがちなものです。
しかし、作曲という行為そのものの多くは、そうしたインスピレーションは確かに大事なものえはありますが、楽譜上の法則や鍵盤の法則の規制の上でのたんたんとした作業の積み重ねで成り立っています。
それをどうしても私たちは天心のように、つい文学的意味づけをして鑑賞してしまうのですが、バッハの作品の場合は、そうした主観による決めつけの入り込む余地のないような手法で、多くの作品が成り立っています。
しかし、わたしたちはそれにもかかわらず、バッハのなかにこそ、より普遍的な深い音の人間的感興を覚えます。
とりわけ平均律クラビア曲集や無伴奏バイオリンやチェロのソナタ・パルティータなど、それらは何の音楽かではなくお玉じゃくしの法則そのものなのです。
ショパンの練習曲などもそのたぐいですが、何々を表現したものではなくお玉じゃくしの法則そのものが、いかなる人間描写よりも深い感興をわたしたちにもたらしてくれます。
それは見るものの主観で対象を切り取ったような俳画の自然描写とも違います。
まさにこれこそが、日本画の特徴を最大限に生かしきった様式といえるのではないでしょうか。
ここまで断言して良いものかとも思いますが、今日に至るまで、日本画壇のみならず洋画も含めて日本美術界においては春草ただひとりが、その高みに至っているのではないかと感じます。
(「黒き猫」は今回展示作品ではありません)
これは昭和以降の巨匠と呼ばれる日本画界の人々の絵が、まったく理解できない私の偏った見方かもしれません。
でも、もしも春草が長生きしていたならば、「落葉」に続く作品を、バッハの平均律グラビア曲集や無伴奏チェロ組曲のように、現代の私たちすらも想像つかないような連作として仕上げていたのではないかとさえ思えるのです。
春草の描く「フーガの技法」が目に浮かんできます。
今回観られなかった「黒き猫」などは、来年国立博物館で開かれる細川家の名宝展でみることができる。
楽しみです。