かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

武士道とアリストテレス 後編

2010年12月25日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 あらゆる都市国家は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目標に邁進しなければならない。
さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・。
また、法は単なる契約になってしまう・・・
「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう
―――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。


 よくぞここまで踏み込んでくれたと思いながらも、やはり一歩間違うと恐ろし考え方です。
 だからこそ、私たちは道徳や倫理といったことがらは、あくまでも個人の規範の問題であり、国家などが安易に介入することは避けてきたのです。


 しかし、まただからこそ、とアリストテレスは続ける。


 だが、なぜ、有徳な生活を送るために都市国家に住まねばならないのだろうか。なぜ、健全な道徳の原理を自宅や哲学の授業や倫理学についての書物で学び、必要に応じて使うことができないのであるろうか。
 アリストテレスは、そういうやり方では美徳は身につかないと述べる。
「道徳的な意味での美徳は習慣の結果として生まれる」。実践することによって覚えられる類いのものなのだ。
「美徳を身につける第一歩は、実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである。」
                                 (マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』 255ページ)


 この表現をみて、おや?と思った人も多いのではないでしょうか。
 これは西洋的な合理主義思想のなかではあまり見られない表現でありながら、仏教的修行や東洋的・日本的発想のなかでは頻繁にみることのできる私たちには慣れ親しんだ表現だからです。

 
 「正義」や「倫理」、「道徳」を語るとき、制度やしくみの問題を語るよりも、まず個人のこの実践すること、習慣によって訓練されることこそがその前提であるべき大事なことだということです。
 まさにこれこそが、武士道が核心においていたことです。
 武士道に限らず書道、柔道、茶道など◯◯道と「道」のつくことは、すべてそうした実践の思想が内包されています。
 それに対して「何々学」という分野には、すべてとは言いませんが、多くの場合が「おのれの実践」ということは棚に上げられているものです。

 道徳や倫理が低下しているからといって、教育勅語の復活やすぐれた道徳の教科書をつくることよりも大事なことを、まず日々実践し、習慣付けをしなければならないということです。
 それには、子供への教育方法の議論よりも先に、何よりも教師自身の生活習慣や姿勢づくり、人間の手本づくりからはじめられなければなりません。
 もちろん、これは簡単なことではありません。

 だからこそ、「武士道」は、この簡単ではないことの実践のために、幼い時からのしつけと訓練を重ねていたのだと思います。
 主観的な価値観を前提とした倫理や道徳だからこそ、試験で何点とれば合格、どの程度の効果があればよい、といったようなものではありません。
 また罪や責任を感じたとき、何年間の懲役に服すればよいか、いくら賠償を払えばよいのか、といったことでは決してありません。
 もちろん公共の場では、そうした方法も必要であることには違いありませんが、問題の本質は、外部から要求されることではなく、当事者自身がどう感じるかということです。

 なにかと比較することは出来ないという価値の重みを理解していたからこそ、武士道は、考えられる限り一番重いものとしての「自らの命」を担保として据えていたのではないでしょうか。
 
 確かに野蛮で非常識で形式へのこだわり過ぎといった批判はある「武士道」ですが、この世で考えられる限り最も重い「自らの命」を担保する覚悟を持ってこそ、道徳や倫理、責任といったようなことは、自分自身に対して、また他者に対して、「信」に値する行為となりうるのだと思います。

 このような意味で武士の魂とされる刀は、他者を斬り、自らの身を守る道具であると同時に、自らを斬ることをも同等の役割として位置づけることで、痛みとその覚悟も含めて自己と他者の価値を対等なものに考えられる修養が可能な道具に位置づけられるようになったのではないかと思います。

 その自らの命を担保にするなどといったことが、一時の覚悟だけではなし得ないことがわかっているからこそ、一度しか使えないその「切腹」に至るだけの修養を、小さい時から時間をかけて積むのが「武士道」の「道」たる所以だと思います。


 「最後の忠臣蔵」でゆうの誘いを断って瀬尾孫左衛門がしなければならなかったことは、ただ「死」をもって「忠義」を示すことではなかった。
 その死に方のなかでこそ、「信」を徹底するものとして示さなければならなかった。
 だからこそ、かけつけた寺坂に「介錯無用!」と叫び、自らの手で首をかっ切らなければならなかった。

 しかし現実には、時代が下るほど、形骸化した作法、儀式のもとで、体面を守るためや外部から強制された消極的な「切腹」が多くなっていったことは十分想像できます。
 にもかかわらず、世界にも例をみないほど長く徳川幕府が続きそれを支えてこれたのは、「責任をとる覚悟」を持った武士とこうしたしくみがあったからこそ、時には農民たちの反抗は受けながらも、200年以上にわたって政権を維持し続けることができたのではないかと思うのです。

 意外にも切腹などの作法を含めた「武士道」は、戦乱の時代よりも、武士が戦場に出ること無く官僚としての責任を負う時代になってからの方が、広く普及し確立していったといえるようです。


 なかなか立ち入って話すことが難しいこうした「正義」や「道徳」「倫理」といったことは、制度やしくみであるよりも、まずアリストテレスが強調しているように、「習慣の結果として生まれる」ものであり、「実行すること」でしか身に付かないものです。

 今日、子供のしつけや教育の問題が騒がれていますが、こうした流れを見れば、それが決して道徳の教科書の問題ではないことがわかります。
 今の子供をどう育てればよいかという問題ではありません。
 それは大人である自分自身が、あるいは教師が、親が、直面している現実に「首を賭ける覚悟」をもって望むことが第一であると思います。
 現代で腹を切る覚悟まで求める必要はありませんが、首(職)を賭ける覚悟くらいはまずしないことには、「信」は貫けるものではありません。

 確かに雇用不安の厳しい現代で安易に首を賭けるようなことをしたら、首はいくつあっても足りないと反論されそうですが、まさにそこでの覚悟こそが、企業を倒産の危機から救う条件であり、学校の職員室の空気を変える一歩であり、たとえ失敗しても子供に多くのことを見せて伝えられる親の条件であると思うのです。

 首がいくつあっても足りないとは言いますが、冷静に考えれば首をかけるほどのことというのは、そう何度もあることではありません。その首をかけるほどのことに出会えたそのときこそが、自分の価値を高めることができる素敵な時であるはずです。

 その先のことは、確かに生易しいことではありません。
 わたしも責任は終えないなにも約束もできないような世界のことですが、
まさにこれこそがサンデル教授の目指す「白熱した論議」がわき起る場のはずです。


 以上、思いつくままに映画「最後の忠臣蔵」とマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『ハーバード白熱教室講義録』などが交錯した文になってしまいましたが、年末に他の大事な仕事があってもどうしても書いておきたいことでした。


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(下)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房
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武士道とアリストテレス 前編

2010年12月24日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「最後の忠臣蔵」を観てきました。
日本人に愛されてやまない時代劇「忠臣蔵」ですが、主君への忠義の面ばかりが強調されたようなドラマ仕立てはあまり好きにはなれいので、当初はあまり積極的に観る意欲はなかったのですが、配役がしっかりしていたので、家内に誘われたこともあり、これはドラマとして期待できるのではないかと観ることにしました。

 とても面白かったです。

 ふたりの下級武士を軸に描かれるものですが、一人は討ち入り後、切腹の列に加わることを許されず「真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよ」との使命を蔵之介から託された佐藤浩市演ずる寺坂吉右衛門。
 もう一人は、役所広司の演じる討ち入り前夜に忽然と姿を消した瀬尾孫左衛門。彼は、まもなく生まれてくる内蔵助の隠し子を守り抜くという極秘の使命を、内蔵助本人から直々に受けている。

 このふたりが、しっかりした配役で支えられているのがこの映画を引き締めている最大のポイントだと感じましたが、そのこと以上に私としては、忠臣蔵という人気の時代劇を主君に対する「忠義」という側面からの見所だけでなく、「武士道」といった視点で、かなり踏み込んだいいところまで描き込んでいるところに私はとても共感を覚えました。

 忠義をつくして切腹にまでいたる武士道を、武士固有の特殊な美学としてだけ語るのではない描き方。そうした作品は期待していながらもまだ観たことはありませんでした。
 もちろん、長く庶民に愛されてきた時代劇の武士道は、遠い向こうの武士特有の世界観としてだけではなく、それがなんらかの庶民にも共通するものも見て取れるものがあるから広く受け入れられてきたのだと思うのですが、そうした点を含めて現代への大事な問いかけを含んでいるものがあるのだということを、この映画は、かなりいいところまで描けているように思えたのです。

 説明の都合上、ストーリーのネタバレ部分はご容赦ください。
 瀬尾孫左衛門は、内蔵助の忘れ形見をしっかりと育てあげて、見事に立派な商家に嫁ぐことまで成し遂げるのですが、常人の考えであれば、忘れ形見を立派に嫁がせることで、孫左衛門の使命は完了する。
 ところが武士道を貫く立場からは、それでは終わらない。

 それを武士道とは対局にあるような近松の人形浄瑠璃の心中世話話を、並行したもう一本の流れとして、未練たらたらの道行き場面を人間の避けられない気持ちの流れとして作品のなかで通しています。
 この伏線がフィナーレでじわりと生きてくる。

 忘れ形見を嫁がせ、使命を果たし終えたとき、ともに支え合ってきた安田成美演じる「ゆう」から、これからはふたりで自由に生きようと誘われる。
 ハリウッド映画ならば、ここで二人がひしと抱き合ってハッピーエンドで誰もが納得。
 たしかに、そこで完結しても十分いいだろうというところまで作品はきちんと描ききっています。

 なぜ、武士であることがそこで終わらせることを許さなかったのか。
 主君への忠義は、死ぬことでしか示せないからなのか?
 先立った同志の後を追うことが、これでやっと願いを果たせるからなのか?

 私が時代劇の武士道を観るときに面白くないと感じることが多かったのは、そうした理由でのみ武士道を描くことが多く感じられるからです。
 たしかに現実に多くの武士は、こうした理由や武士としての体面を守るだけであったり、しぶしぶそうするしかないので引き受けているような場合も多かったと思います。

 主君に殉ずる「追腹(おいばら)」や職務上の責任や義理を通すための「詰腹(つめばら)」、無念のあまり行う「無念腹」なども、時代が下るほど形式化していく面もありました。
 しかし、それでは、武士道が目指しているものを何も語られないことになってしまうのではないかと感じてしまうので、それらが本来目指していた精神がなんだったのかをもっとしっかりと見る必要があると思います。

 そこでタイムリーに登場するのが、ちょっと飛びますが、今年ベストセラーになったマイケル・サンデルの『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)です。

 武士の重んずる大義、忠義を守るとか、道徳、倫理といった「正義」の価値観は、
どのような行為をどの程度成せば守れたということが出来、さらにそれが「信」に値するといえるのか。
 こうしたことが、マイケル・サンデルの「正義」の論議のなかでも語られています。

 ここ数十年の間、世界の多くを支配してきた価値観は、恣意をはさまずに市場の論理(「公正」な競争)にまかせれば、より合理的なものが自然に生き残る(淘汰)される。
 あるいは多数の利益にかなったことを実現することこそが、最大幸福最小不幸実現の大前提になりうるといった考え方が支配的でした。

ところが、東西の冷戦時代が終わり、多極的価値観が交錯する時代になると、社会全体で圧倒的多数に支持される論理というものが少なくなるばかりか、少数派とはいっても容易に無視、抹殺しがたいことがらが多く世の中にみられるようになってきました。

 サンデルが引きあいにだす例でいえば、ひとりの人の命を犠牲にすれば5人の命が助けられるようなジレンマに立たされる場面に遭遇した場合、救急医療の現場に一度に手に追えない5人の患者が担ぎ込まれてしまった場合、難破船の救命ボートに取り残された5人がいかに生き延びようとするか、といったようば場面で人は究極の選択、価値や倫理を問われる選択を強いられることになる。

 それを様々な具体例をあげてハーバードの学生たちと議論しながら講義を進めていくところこそが、サンデルのギリシャ哲学流ディベート、弁証法の真骨頂なのですが、その神髄をリアルに再現してある『ハーバード白熱教室講義録 上・下』よりも、より難しい『これからの「正義」の話をしよう』の方が売れているというのもメディアと流通のしくみからくる理解しがたい現象。これは余談で、別のところでまたあらためて書きます。

 大まかには、両書とも話の流れは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進といった三つの視点を歴史的に考証しています。
 第一は、ベンサムに代表される功利主義に基づいた最大幸福原理。
 第二は、個人の選択の自由と所有権などを不可侵のものとして擁護するリバタリアニズム(自由至上主義)などから・・・

 ところが、なぜか最近になって多くの人の口から、これらの慣れ親しんだ多数決原理、議会主義などを通じた幸福の最大化、個人の自由、所有権の尊重などの考え方に対して、多くの人が直感的にそれだけでは説明しきれない美徳の論理、人間ならではの目的意識的、恣意的な努力の必要性が説かれるようになってきました。

 しかしそれは恣意的なものであるがために、その価値観は誰が決めたものか、だれによってなされるのもかといいった過去の苦い経験に依拠した反省と慎重さがつきまとうものです。
 私自身もこうしたことを語るとき、宗教的保守派と同じことを言っているにすぎないのではないか、あるいはそうした人たちを擁護する言説になってしまうのではないかとの危惧を感じずにはいられません。

 でも、これこそが、多くの人が直面している社会の問題に踏み込むためには立ち入らなければならない問題なのだとサンデルは強調します。
 そしてその代表として登場するのがアリストテレスです。

 政治の目的は、多数派の意向を満たすことにあるという概念を、アリストテレスは否定します。
                             
                            (つづく)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房
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アジテーターとオルガナイザー

2010年12月12日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

以前どこかで読んだことです。
昔の左翼用語のイメージでとらえられがちな表現ですが、
「アジテーター」と「オルガナイザー」という言葉があります。
このふたつを区別する説明で、以下のようなうまい表現で説明されていたのを記憶しています。

アジテーターというのは、ひとつのことを10人の人に伝える仕事をする人。
オルガナイザーというのは、10のことをひとりの人に伝える仕事をする人。
というのです。

なるほどと思ったものです。
私たち本屋の仕事は、まさにこのふたつの方法をそれぞれ行うことが大事です。

あくまでもものごと原則は、1対1。
ハート・トゥ・ハートが基本ですが、それだけではビジネスになりません。
運動の輪も広がりません。

ただ有象無象のたくさんの本をいろいろな人に売るということではなく、
10人の人に伝えたいようなすばらしい1冊の本を見つけ出し、それを伝えること。

あるいは1冊の本の魅力が、10人に伝わるような売り方をすること、それが大事です。

本との出会いなど、まさにパーソナルなものです。
ひとりひとり、まさに千差万別の出会いによって成り立っているもので、私たちの仕事はそうした出会いに個別に対応していくことが求められています。
しかし、それをより多くの人にサービスとして提供して、ビジネスとしてそれが成り立つようにするには、ひとつひとつの出会いを個別の体験にとどまらせることなく、なんらかの仕組みづくりをすることが必要です。

それが、このオルガナイザーとアジテーターのふたつの方法論です。

特定のひとりのお客さんのためにすすめられる本を10冊選びだすこと。
児童書に興味のあるお客さん、
自己啓発書に関心の強いお客さん、
仏教関係に興味のあるお客さん、
海外のミステリー小説を読みあさるお客さん、
特に専門はないけれど強い読書意欲を持っているお客さん、
                          ・・・等など

あらゆる分野の顧客に対応することなど、普通の人間に出来ることではありませんが、店の一部のヘビーユーザー数人のこうした需要に応えること、またそうした見方をしながら日々の商品をみていること、お客さんをみていることが大切です。

うちのB型のパートさんは、こうしたことを実によくやってくれています。

時々、こんな本がよく売れたものだと驚くようなことがあります。
またこんな本いったいどんな人が買ってくれたんだろうと思うこともあります。
その本は、確かに2冊目が売れるようなことはまずあり得ない特殊な本かもしれません。
しかし、その本を買ったお客さんがどんな人かがわかると、その本の次に仕入れるべき1冊の本が見えてきたりします。

 ひとりのお客さんの指向やリクエストから10冊の本を導きだすこともありますが、
1冊の特殊な本を買ってくれたお客さの顔と名前を知ることで、それに続く10冊の本を見つけ出すこともあります。

 1冊の本を、文化として見るためにも、商品として見るためにも、このように
1冊の本を10人につたえるしくみづくり、
ひとりのお客さんに10冊の本を薦めるしくみづくりは
とても大事なことなので、日々心がけて、ブログやホームページ、メールマガジン、チラシニュース、POPなどで訓練し続けることが求められます。

現実には、1冊の本を10人の人へでなくとも、3人くらいの人の顔を想い浮かべるだけでも
日々そうした訓練が出来れば十分だと思います。
普通の相手であれば、ひとりの人へ薦められる3冊くらいの本を思い浮かべるだけでも、十分だと思います。

ただ「良い本」売るということではなく、売るためのこうした「エンジン」を持つことが、ビジネスとしてはとても大事なことです。

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どうして絶望的未来しか想像できないのか?(9)

2010年12月07日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
7、貫かれる80:20の法則

 前回、例に出したザルの目の数は、偶然の数字ではありません。

 かつて全国の書店数は23,000とも言われていましたが、今では16,000も切るかのところまできています。
 最近知った数字ですが、異業種で多い業界としてよく知られるのがコンビニで、その数およそ5万店。
 他に多いのとして知られる歯医者さんが約7万。
 意外だったのは、全国にあるお寺の数も75,000くらいあるそうです。

 他方、少ない業種として知られるのが、
今、社会問題にもなっている産婦人科などが1万を切っています。
眼科も少なく

 これらの数字を私たちの書店業界が23,000から16,000くらいにまで減ってきたことをあわせてみると、実感的に、全国で2万を切ると、いかなる業種でも、今、住んでするところにその業種がひとつもないという所が出てくるのがわかります。

 とすると、あらゆる業種で以下のようなことが言えるのではないでしょうか。

 日本の人口1億何千万だかのうち購買人口をおよそ1億と見た場合、
あらゆる業種のボーダーラインの数字2万で割ると、5,000人という数字が出てきます。

もちろん、都市部と山間部との違いはありますが、この
   1億 ÷ 2万 = 5,000人
こそが、あらゆるサービス業の標準的な商圏人口ということになります。
ずいぶん少ないように感じるかもしれませんが、この5,000人商圏という数字は、少し前の日本の普通の姿であり、世界的に見ても決して少なすぎるというほどではなく、ごく普通の数字であると言えます。

 私たちが見直さなければならないのは、この5,000人商圏の2割、つまり1,000人の顧客こそが、地域でターゲットとするべき顧客なのであります。
 そしてこの1000人のうちの2割、つまり200人程度の顧客こそが、実際のお店の売り上げの8割を支えているお客なのです。
 まずこの200人を、顧客台帳やなんらかの会員登録などできちんと対応することです。

 ここで200人の顧客を区別するということは、それ以外の客は売り上げ貢献が少ないから差別するという意味ではありません。
 この2割の顧客は、店全体の8割の売り上げを支えているだけでなく、この需要に答えること如何で売り上げを大きくコントロールすることができるという意味が大事なのです。
 残りの人たちは、店が独自な手をかけても、多くの場合その店にこだわる理由がなく、どこの店でも最寄りの店でよい浮気客が多く、店の努力よりもテレビなどの外部の影響を強く受けやすいひとたちだからです。つまり、多くの労力をかけても、売り上げを伸ばすことにはつなげにくい客層ということです。
 
 言葉は悪いかもしれませんが、この店側のコントロールの及ぶ200人と、そのなかのまた2割のヘビーユーザーの顧客40人こそ、何をしてほしいのか、どんな本を買いたいのか、徹底して追求するべきなのです。
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どうして絶望的未来しか想像できないのか?(8)

2010年12月06日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

6、流れ落ちる水をザルで受け止めるがごとし

 それは、まさに「流れ落ちる水をザルで受け止めるがごとく」であります。

 多くの店は、売り上げが下がる理由を、大型店などの競合が増えたから、市場人口が減ったから、売れる商品がなくなったからなどと言っていますが、
 現実は、
 とんなに衰退した商店街の寂れた店であっても、その店は絶えず見られており、少しでも看板を変えたりガラスをピカピカに磨けば、たまにはちょっと入ってみようかと思われるものです。
 破れたポスターがそのまま貼ってあったり、入り口の天井に蜘蛛の巣が張ったままのような店には、中にどんなに良い本があったとしても、お客は入ろうとは思わないものです。


 いかなる場合においても、大事なのは、そこに競争力のある商品とサービスがあるから売り上げは伸びるのです。
 これを抜きにして企画やイベントをいくらうったところで、店にお客が根付くことはないばかりか、それは、魅力のないことを宣伝するために、あるいはクレーム客を増やすために人を呼んでいるようなものです。

 市場縮小の時代には、客数は先に増やそうとしないことが大事です。

 たしかに右肩上がりの時代ならば、器の大きさを大きくする、あるいは流れ落ちる水の量を増やす(売り場面積の拡大、店舗数を増やす、在庫を増やす、来店客数を増やす)だけでそこそこの数字の伸びが期待できました。

 しかし、右肩下がりの時代では、これらのことをしてもすぐに売り上げの伸びは止まってしまいます。

 今、求められていることは、器を大きくしたり、流れ落ちる水の量を増やしたりすることではありません。受け止めるはずの器は、水のすり抜けるザルであることがわかったからです。
 求められているのは、絶えずすりぬけているザルの目を一つ目、二つ目と一個ずつ塞ぐことです。
どのようなこと(商品とサービス)をすれば、ザルの目を通り抜けずにひっかかるのかをはっきりさせることです。

 それをひとつずつ塞ぐ作業というのは、大変な作業ですが、ザルのすべての目を塞ぐ必要はありません。
 ほんの数個から数十個の目をきちんと塞ぐだけで、それまで下に落ちるだけであった水に抵抗を感じるようになります。そのわずかに受け止める水の抵抗をほんの少し感じるようになっただけで、売り上げは伸びだすものです。

 直径15~20センチ程度のザルで、その網の目は5,000から10,000くらいあります。
 (手元にあるザルの目の数は9,313でした!)
 そのなかの数十から数百までの目を塞ぐだけで、かなりの水の抵抗を感じるようになります。

 まさにこの数(5,000~10,000)こそが、自分の店の商圏の顧客数であり、またそのうちの心をつかむべき顧客の数(数十から数百)なのです。

 量を増やすことよりも、顧客満足度を高める商品とサービスの開発こそが、まず私たちがしなければならないことなのだと思います。

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どうして絶望的未来しか想像できないのか(7)弾み車を回す長い道のり

2010年12月04日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)
ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則
ジェームズ・C. コリンズ
日経BP社


 私がこれから書こうとしていることと、わたしたちがこれから成そうとしていることは、まだまだとても先の長い話なので、連載の途中ではありますが、その長い道のりがどのようなものであるのか、本来は最後に書くべき文章かもしれませんが、それを理解していただくために、ここに格好の本の紹介をかねて割り込み原稿になりますが、少し記させていただきます。

ここで紹介する本『ビジョナリー カンパニー2 ―飛躍の法則』は、3巻までと別巻を含め計4冊が出ていますが、いずれも最近の私のイチオシの本です。




偉大な組織を築くとき、あるいは何かとても価値のあることを成し遂げるとき、
そこには、決定的な行動や壮大な計画、
画期的なイノベーション、
たったひとつの大きな幸運、
魔法の瞬間
といったようなものはありません。

本書のための調査であきらかになったのは、偉大な組織への飛躍を築く動きが社内の人たちにとっては、巨大な重い弾み車を回すように感じられるということだ。





巨大で重い弾み車を思い浮かべてみよう。

金属製の巨大な輪であり、水平に取り付けられていて中心には軸がある。
直径は10メートルほど、厚さは60センチほど、重さは2トンほどある。
(私がイメージする場合は、金属のようなスマートなものではなく、昔のアニメ「はじめ人間ギャートルズ」に出てきそうな巨大な石でできた輪ですが)
この弾み車をできるだけ速く、できるだけ長期にわたって回し続けるのが自分の仕事だと考えてみる。

弾み車を必死になって押していると、何日も、何週間も、何ヶ月も、ほとんど進歩らしい進歩がない状態が続くが、やがてほんの少しだけ何センチか動き出す。
だが、それで努力を止めるわけではない。
さらに努力をして押しつづけると、ようやく弾み車が一回転する。
さらに努力を続ける。
つねに同じ方向に押しつづけていると、弾み車の回転が少し速くなる。
まだまだ押し続ける。
二回転、四回転、八回転。徐々に回転が速くなる。
十六回転。まだ押しつづける。
三十二回転。
勢いがさらについてくる。
百回転。一回転ごとに速くなる。
一千回転、一万回転、十万回転。こうして押しつづけていると、どこかで突破の段階に入る。
どの回転もそれまでの努力によるものであり、努力の成果が積み重なった結果である。
こうして弾み車はほとんど止めようもない勢いで回転するようになる。

ここでだれかがやってきて、こう質問したとしよう。
「どんな一押しで、ここまで回転を速めたのか教えてくれないか」

この質問には答えようがない。意味をなさない質問なのだ。
1回目の押しだろうか。
2回目の押しだろうか。
50回目の押しだろうか、100回目の押しだろうか。
違う。
どれかひとつの押しが重要だったわけではない。
重要なのは、これまでのすべての押しであり、同じ方向への押しを積み重ねてきたことである。

偉大な組織はこのようにして築かれていくのだ。

(以上の文章は、ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリー・カンパニー 2飛躍の法則』、『ビジョナリー・カンパニー(特別編)』(日経BP社)2冊の本の表現を勝手に折衷してまとめなおさせていただいたものです。)




 これから書く話がまだ長いものになることを理解してもらうために、紹介した一文ですが、私たちはまだこの弾み車を回しだすところにまで至ったわけでもありません。

 今はようやくこれまでの車の向いていた方向が違っていたのだということに気づき、その方向を数人の力だけでようやく押し曲げようとしたばかりのところです。

 北海道の岩◯さん、中◯さんなどまだ私たち数人だけの力では、最初の数センチの変化すら容易には動かすことができません。

 でもどちらに転がせば良いのかだけは鮮明に見えだしているので、これから成そうとしているとてつもない大仕事への期待と興奮は高まるばかりです。
いかなる画期的なアイデアであっても、ひとつふたつのことで成し遂げられるようなものではありません。

 この連載タイトルを「どうして絶望的未来しか想像できないのか」としていますが、かといって私が簡単な「楽観的未来」を想像しているわけでもありません。「悲観的」であるわけでもありません。


 それは、とてつもない作業の積み重ねによるものかもしれませんが、目指すべき方向が見えている今は、なんら不安に陥るようなことではなく、ワクワクと胸躍るプロセスであることは間違いないのです。

この連載記事は、そうした先の長い道のりのほんの序盤、入り口の話にすぎないことをどうかご了承ください。
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半径500m以内の商圏で成り立つビジネスモデル

2010年12月03日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
昨日、大森のダイシン百貨店へ行ってきました。


この百貨店に注目するのは、私がよく言っている、「人が歩いていける範囲内(半径600m)で生活に必要なことすべてが満たされる街作り」の考え方を普及させる上でとても大事な手本を示しているからです。

普通、「人が歩いていける範囲内で生活に必要なことすべて~」といった考え方のベースは、小さなお店や病院、行政の出張所などをその構成員として考えていることが多いものです。

 ところが、このダイシン百貨店の成功例を見ると、「人が歩いていける範囲内(半径600m以内)」という考え方が、商圏を小さくとる小規模の事業者だけのことではなく、7階建ての百貨店などの大規模店の場合でもそのモデルが通用するばかりか、大事な成功モデルでもあるということが立証されているからです。

 ここの場合は、首都圏で大森駅近辺には大手百貨店やスーパーがあり、駅からやや離れたこの百貨店は、立地的にもかなり不利な条件にあります。
きっかけは、ご他聞に漏れずよくある経営難から数店舗あった店を今ある本店1店舗に整理して、今の社長さんが経営を引き継いだことから始まるのですが、大手スーパー、百貨店に囲まれて生き残る戦略としてとったのが、半径500m以内の顧客市場占有率100%というものです。

 少子化やデフレで市場が縮小しつづける時代、今でも多くの小売業種では、より大きな商圏を求めてより好立地の場所へ移転したり、売り場面積のさらなる拡大をはかったりして数字をのばしています。
 決算の数字をよくするためにこれらのことはどうしても必要であるという場合もあるでしょうが、これらの解決方法は、これからの時代には真に通用する方法ではなく、あくまでも一時的な延命策にしかすぎないということが、いろいろな人から指摘されています。
 にもかかわらず多くの企業は、それ以外の打つ手が思い浮かばず、そうしたことを繰り返しているのがあまりにも多いのが、今の時代の姿です。

 それに対して、このダイシン百貨店は、商圏規模の拡大や売り場面積の拡大(間もなく拡大新店舗もできます)をはかる前に、今、来ている顧客の満足度を高め、来店頻度を上げ、客単価もあげるということを第一に考えているのです。

 そのためには、まず半径500m以内のお客さんの要望には、極力すべて答えるというものです。
 現実には、そのためには効率も無視してもよいというわけではなく、一見、効率も無視したサービスをしているようでありながら、半径500mの限定した顧客の要望ということで結果的には効率も上がるマーケティングができているのです。

 そういえば、このことは前にもブログで書いたことがあったみたいですね。

 昔使っていたハエ取り紙が欲しいというおばあちゃんがいれば、それを見つけて仕入れてくる。
 これは昔の東急ハンズなどが一生懸命やっていたことですが、こうしたことは、本部仕入部の判断でできるようなことではなく、各売り場の担当者が、それを卸してくれる業者を探すために、ものすごい手間をかけて探し出してくるような体制でこそ出来ることです。
 ほとんどの企業は、どれだけ売れるかわからないそんな古い商品に手間をかける余裕などないといってあきらめる。

 本来は、よそにないものがどれだけ売れるのか調べるだけでも価値のある仕事なのですが、半径500m以内の顧客の要望に答えるという使命をもつと、そこにかかった手間も決して無駄ではない効率性がともなってくる。

 あのおばあちゃんが欲しがっているもの、
 それは冬の一時期だけ2つ仕入れれば良いということがわかっていれば、それは、どんなにマイナーな商品であっても過剰在庫になる心配はない。
 むしろ、3つ目、4つ目のお客はいるのかどうか適切に判断する材料を手に入れているとすら言える。

 細かくは触れられませんが、規模の拡大によるビジネスではなく、今、来ている顧客の満足度を高めるビジネスにとっては、中小零細商店であろうが、大型の百貨店やスーパーであろうが、することは同じであるということは、このダイシン百貨店をみると実によくわかるのです。
 さらにそのマーケティングは、POSデータを分析することよりも、店頭の従業員のお客とのコミュニケーションのなかでこそ力が発揮されているということです。


 私たちが行ったときも、店内いたるところで店員とお客さんが和やかに会話をしており、人気のない階段で店員とおばあちゃんが長くなにか話している姿も見られました。

 何度でも言いますが、数字が落ちたから出店する、移転する、増床する、在庫を増やすではアウト!

 そして地域で循環する経済というのは、ただの商品券もどきの地域通貨を発行すれば回るというようなものではなく、はたまた行政のテコ入れで解決できるようなものでもなく、なによりもその地域の住民の需要をより具体的につかんで、それに個々の事業者が真剣に応えていくことでこそ、はかられるものであるということ、こうしたことを説明するうえでこのダイシン百貨店は絶対に欠かせないと思っていたのです。


 この場所にたどり着いたときは、隣の敷地に出来上がる工事の看板が先に目に入り、もう旧店舗は取り壊してしまったのかと慌ててしまいましたが、運良く、今の姿を見てくることができました。


「半径500m以内の商圏で成り立つビジネスモデル」を究極の目標としている私にとっては、是非また行って来たいところです。
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