かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

人やモノの文脈を断ち切る「お金」 (贈与 その5)

2022年04月18日 | 無償の労働、贈与とお金

以前このblogに、永六輔がラジオ番組で紹介した息子から母親への請求書とそれに答えた母親から息子に出された請求書の話を紹介しました。

後にこの話は、小学校3年生の道徳の教科書にも載っている有名な話であると知りました。

話の概要をあらためて記すと、

息子のだいすけが世の中のことが次第にわかりはじめると、母親のお手伝いを何かするたびに「せいきゅうしょ」を出すようになりました。

    おかあさんへのせいきゅうしょ

 ・ おつかい       100円

 ・ おそうじ       100円

 ・そろばんのけいこに行ったごほうび  200円     

        合計    400円

それをもらったお母さんは、一度は笑ってその額を支払うのですが、これが続くようになり、お母さんは困りはててしまいました。そしてとうとうお母さんは息子への請求書を出すことにしました。

   だいすけへのせいきゅうしょ

 ・ おまえが生まれたときにあげたお母さんのオッパイ  0円

 ・ おまえが育つあいだ買ってあげた服やくつ         0円

 ・ おまえがずっと食べてきた食事           0円

       合計                 0円

といったようなあらすじなのですが、道徳の教科書では、残念ながらオッパイの請求の表現は削除されてるばかりか、要約の仕方も説教臭くなってしまっています。

 

この話は、贈与論にかかわる大事な話でもあるので、いろいろな機会に引用させてもらっていますが、最近、このパターンとは真逆の事例があることを知りました。

それは、『シートン動物記』で知られる博物学者アーネスト・トンプソン・シートンが父親からの請求書をもらった話です。

シートンの父親は厳格なクリスチャンであったようですが、そのあまりの厳格さのためか親子の仲はとても悪かったようです。
それがなにかのはずみだったのかもしれませんが、父親はシートンに対してそれまでかかった養育費全部の請求書を送りつけたというのです。

まさに先の母子とは真逆の事例です。

そしてその先が、さらに凄くて大事な話になるのですが、なんとシートンはこの父親からの請求書を全額支払ったというのです。

つまり、シートンはその請求額を全額支払うことで、親子の貸し借りはすべて清算したということになり、大嫌いな父親との縁を絶ち切ることができたのです。

よく「金の切れ目は縁の切れ目」といいますが、それが親子関係であっても成り立つのかと驚かされる強烈なはなしです。

 

ところがこの話、お金の本質を語るうえでもとても大事なことが表されています。

金銭的な取引の関係というのは、その金銭の取引が終わった時点で相手との関係はすべて清算されるという本質です。

だいすけくんとお母さんの請求書のやり取り、シートンの父親とのやり取りは、親子で請求する関係が逆転しているものの、親子関係をお金の関係(請求書)で精算できるのか、それ以外の関係として継続させるのかという意味で、まったく同じ問題になっています。

わたしたちが日常、お金での売買が便利であるのは、その商品を買ってに支払いを済ませた時点で、お店や店員との面倒な関係は一切なくなることの便利さをかなり重視しているものです。

購入が終わっても買ってもらったことの義理や恩を残さなくてすむというのは、とても便利なことで、それこそがお金の取引が他の取引とは違う重要な部分であることを示しています。

それが、まだお金の取引が浸透していないような昔の田舎暮らしなどでは、商品を渡す側も、受け取る側も、常に人間関係の恩や義理が介在し続ける関係、よく言えば「暖かい」人間関係、悪く言えば「面倒くさい」人間関係が持続していました。

また日本ではあまりない習慣ですが、はじめから定価はあってないようなもので、値段交渉することが始めから折り込まれている商習慣は、お金のもつ冷たい取り引きに人間の暖かさと取り残すために必要なものとして定着しているのかもしれません。

 

 

人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、

まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。

            デヴィッド・グレーバー『負債論』以文社

 

つまり、こうしたお金そのもののもっている便利な性質が社会に浸透するにしたがって、人間関係の「文脈」が失われていくことは当然のことなわけです。

またお金の取引の世界では、この持続性をもてないがために、相手との取引関係を継続するため営業・宣伝活動に大変な手間をかけることがどうしても宿命となります。

さらに地域社会では、お金の関係で失われた「文脈」を、別の方法で取り戻す努力を独自にする必要に迫られるわけです。行政が補助金中心の支援に陥ると、「金の切れ目が縁の切れ目」に陥る危険が、使い方の定義いかんにかかわらずつきまとうことになります。

私たちは、お金をただ交換の手段としてのみ分析する経済学から、こうした社会学的な意味を不可分のものとして考えなければなりません。それを見落とすと、ベーシックインカムであろうが、地域通貨であろうが、何を大切にしなければならないのかを見誤ることになります。

世の中が便利になること自体は、否定されるものではありませんが、お金の便利さ一辺倒に傾く現実は、ひたすら人間社会から「文脈」を喪失させ、より高コストの社会をつくってしまうことにしかなりません。

誰もが感覚ではおかしいと思っている現実に対して、本来のあるべき姿をこれから百年くらいのスパンでどう取り戻していくのか、しっかりと考えていきたいものです。

 

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環境変化によらずに自ら生き方を変える決意

2022年04月16日 | ・・・ったくアホな生活
今まで親しくさせていただいた友達には大変申し訳ないのですが、わたし生き方変えました。
これからは清く正しく生きることにしました❣️

それによって今までの友達の大半を失うことも覚悟していますw
今回の経験で私の世界が変わったのです。
 
 
これから私は「自然の奴隷」になって生きていきます。

多くの友達から、お前は健康のためなんて言ったって絶対に自己管理なんか出来ないタイプだろうと言われ、自分でもそう思っていました。
それが、まず十分な睡眠をとることを心がけるようになったら、急に世界が変わり始めたのです。

といってもまだ7時間の睡眠確保が精一杯なのですが、それでも眠くなったら寝る、外が明るくなら起きるといった生活が出来るようになったら、自分のカラダも変わり出したような気がして三日坊主も乗り越えて自信がわいてきました。
日の出とともに起きる生活で、8時間の睡眠を目標にするということは、9時頃にはもう寝るということです。

今までの夜に4時間くらいあった自由な時間が無くなるということでもあります。その分、朝の時間が増えただろと言われますが、朝は自由時間としてではなく、ほとんどが家事や運動などの生活時間になります。
それはデジタルで刻まれる時間ではなく、自分の身体と自然のリズムに忠実になるということです。

この生命の基本を取り戻すことで、何かとてつもなく大事なことを得るとこができた感覚があります。 

自然の奴隷になるという表現は、いつも素晴らしい刺激を与えてくれる高校生のRikutoくんの積極的に○○の奴隷になるという言葉に触発されて思いついたことですが、ずっと生まれてきたついでに生きてきたような私が、自ら生き方(生活)を変えるなどというのは初めてのことかもしれません。

これまでも大体10年くらいのサイクルで仕事や生活の環境が変わったりして、生き方が変わることがありましたが、そういった外部要因の変化なしに、自ら生き方を変えるのは、はじめてのことかもしれません。
 
こんなこと言ってもほとんどの友達は、どうせ信じちぁくれないだろうけど、とにかくこれからの私は、
清く正しく生きるのだッ❗️
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決まった目標やプロセスを極める道(どう)と、未知の世界を踏み固めていく道(みち)

2022年04月05日 | 歴史、過去の語り方
しばらく前から、地域学がふたたび盛んになりました。
それは、江戸、明治の郷学から始まり、戦後の郷土史ブームなど何度かの波があります。

ただ、江戸後期から盛んになった郷学が、中央の儒学、朱子学に対抗する「実学」志向が強かったのに比べると、最近の地域学は、地元の歴史を掘り起こす郷土研究の志向がやや強いような気がします。補助金もその方が出やすい。

どちらにも、かけがえのない意義があるのですが、私は、それを群馬学とか東北学とかの○○学としてしまうことに、どうもいつも違和感を感じていました。
かつて、学問の世界は○○学としてしまうから教条に陥るのだと、日本本来の○○道とすべきだとこだわった時期がありました。
柔道、剣道、茶道等々。
ところがこの○○道も、結構、型に徹することを重視するあまりに、教条化が免れない。
本来は、公式主義を徹底することでこそ、本当の個性が育つというのが伝統芸能などの素晴らしさと言われ、私もそれは正しいと思っています。

でも、地域学では少し話が違うだろうと。

そんな違和感を解決してくれたのが、○○道(どう)ではなく、道(みち)と読む視点でした。
道(みち)には、人間一人一人が踏み固めてつくるものといったニュアンスがある。迷いながら、時に踏み外しもしながらです。

この点が、出来上がった道を極めるのと随分違います。
これは、どっちが正しいかの問題ではなく、どちらに重きを置くかの問題です。
あるいは皆んなで歩き考える時と、一人で開拓していく時の差かもしれません。

さらには、そうした出発点の差ばかりでなく、ゴール設定の差も見えてきます。
私は学生時代に、社会科学的認識は文学的表象にまで高められなければならない、としきりに叩き込められました。
つまり、概念的認識を個別具体的な特定の人間の姿(映像)で語らなければならないということです。

それをこの道を、(どう)ではなく(みち)とする視点が示してくれました。

白洲正子は、お嬢様育ちながらも、道(どう)を極めながらも意外と(みち)を探求していて、
それが彼女の文章の輝きをとても増している気がするのです。
それと山田宗睦は、一貫して歴史文化的、哲学的「道」をを探求し続けた人です。
 
 
みちは、未知でもありますが、未知の世界に踏み込む覚悟をもって、手さぐりでひとつひとつ自分の足で踏み固めていく基本姿勢です。

これはドキュメンタリーの手法にも通じます。

最近、NHKなどで市井の人びとの日常を取材するドキュメンタリー型の連続企画が急に増えたような気がします。
「ガイロク(街録)」や「駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」など。
他に鉄道で旅をしている人の取材番組も何かあった気がします。
 
これらを通じてみる市井の人々のドラマには、「普通」ではない体験も多く、演出されている面も少なくないかもしれませんが、それでも、世界にはこれほど様々な生き方や体験をしている人々がいるのだと感動を覚えます。
これも時代の軸足が変わってきていることの現れのように感じます。
 
もちろん、個別、具体的なものが特殊な形態、分類を通じて普遍的なものに通じていく循環は基本です。
でも今の時代は、○○学より、○○道より、道(みち)こそが何より求められてるような気がしてなりません。
 
つまり、ゴールやプロセスが決まったものを極めていく「道(どう)」ではなく、まだゴールも見えない、プロセスもわからないような道(みち)を、その都度迷いながら踏み固めていき、後から通る人が、少しだけ歩くのが楽になるような道をつくることこそが、生きていくことのベースなのではと感じるのです。
 
 あくまでも、道(どう)がいけないということではなく、ものごとの優先順位の話です。
 すべての道(どう)は、最初は道(みち)からつくられたものだからです。
 世の中が「進歩(人工社会化)」したおかげで、この順番が逆転してしまっているのではないかと思います。
 
 
 
 
 
 と、本来はここで話は終わらせておいた方がよいのかもしれませんが、道(どう)の問題には、もうひとつやっかいな問題があります。
 それは「天道」といった、先天的なもの、人間の意志にかかわりなく存在する「ものごとの道理」の世界です。
 
 中国の皇帝や日本の天皇は、この天の道、道理にしたがっているかどうかでその存在価値や地位の保証が約束されるというもので、これは通常の人びとが努力の積み重ねだけでは容易にたどりつくことは出来ない世界です。
 老荘思想などは、こういった視点とも交わっています。
 「天の理」や「天の道」と必ずしも同じではありませんが、「無為自然」の姿でもあると。
 
 これはとても説得力があり、納得もいくのですが、それが常に具体的な人間の存在を通じてしか表現できないので、いつでもそのときの皇帝次第、天皇次第であるという現実が避けられません。
 また「無為自然」の道理であっても、特定の人間の理解や解釈に依存しているので、これもまた容易ではありません。
 
 したがって、人間を理解の主体として前提にする限り、絶対的な何かをおくことはとても危険な道であると言わざるをえません。
 
 それでも私たちは「究極の〇〇」を、どうしても求めてしまいがちです。
 その強い探究心があるからこそ、前進していけるのですが、絶対的な何かを固定した瞬間に進歩は止まり「教条」への道がはじまってしまいます。
 
 兎角、この世はやっかいなものです。
 
 だからこそ、
 
 「学」や「道(どう)」も大いに活用しながら、迷いながらも、たとえ時間はかかっても、自分の足で少しずつ踏み固めていく道(みち)こそが何よりも大切なことと思います。
 
 
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これまであまり見られなかった頼もしい若い世代が、着実に増えている

2022年04月01日 | これからの働き方・生業(なりわい)
ほんと今の30代半ば以降の若い人たちと話していると、彼らがつくづく心強く見える。
ゆとり世代でハングリーさに欠けるとも言われますが、生まれた時から好景気を知らない彼らは、元から国家や組織をあてにしていない。

それは古い世代には、政治的無関心としか見えないかもしれないし、それも事実かもしれないけど、反面、やたら組織にたより多数派を形成すればなんとか変えられると考える大人たちよりは、ずっと大人の思考が身についているように見えます。
つまり、自分に出来ることをやるしかないという発想で、身の回りを着実に見つめているのです。
もちろん、私の接している彼らが多数派ではないかもしれませんが、明らかに今まではなかった傾向です。

起業、独立の仕方でもその違いが見れます。
我々の時代の独立、開業というと、会社員を辞めて既存の業界のどれかに参加するパターンが主流でした。しかし、今の若い世代には既存の業界で独立、開業するといっても衰退産業ばかりです。
ではなぜ起業するかといえば、既存のものでは満足できない自分の世界観を実現するためです。
改善、改良の努力は、どちらもしていますが、世界観を大切にしている点が昔と違います。

そこには、ひとつの会社に就職しただけでは将来が保証されない環境ゆえの副業当たり前の時代背景も大きく影響しているかと思います。

人との繋がり方が、デジタルネイティブには常時接続が当たり前なので、強いて固定的な既存のギョーカイや組織に頼る意味がないからなのかもしれません。
もちろん、いいねの数をやたら気にしすぎる子も多いですが。

もう一つの背景に、我々の時代は、文章で表現できなければ存在しないに等しいともいえたのが、
検索でヒットしなければ存在しないに等しい時代をへて、さらに今の世代は映像でイメージし表現出来なければ存在しないに等しいといった流れになっている気がします。

映像感覚のほうが、○○さえあれば、ではなく、かなり具体的にすべてのディテールまでこだわる必要が出てきます。

私はそこに、歴史の大事な転換を感じています。
#月夜野タヌキ自治共和国 の世界観の大事な柱、#数をたのまず という志向です。

団塊の世代を筆頭に、多数派を形成して数の力でこそ世界は変えられるとの発想よりも、一人ひとりの在りようのほうが大事とする側で、その在りようの説得力の方が、結果的に数の力に勝ることも多いものです。

これを人が何を「する」かの時代から、ひとがどう「ある」かの時代に歴史の軸足が変わったのだともいいます。

一見それは「保守化」の流れにも見えますが、いまの政治家の保守像とはまったく違う世界です。

今は、理学療法士と話す機会も多いのですが、「動かす力」って何?って問います。
昔、気功の先生に言われた言葉ですが「あんかの頭のてっぺんから、足の爪先まで、誰かに借りてきているものが一つでもあるのか?全権、あなたの意志が握っているものじゃないのか?」ってね。

確かに時に数の力も必要です。
でも、まずは自分ひとりでもやり切る覚悟が、基本です。
多くの人と繋がるのは、その次のこと。

 
動かす力だヤンマーディーゼル〜♪
って、右側のマー坊は涙浮かべてる。
 
未来は明るい!
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