かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

濁る世を澄めともよはずわがなりに 澄まして見する谷川の水 (良寛)

2017年05月12日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

新緑シーズン。

それも旬は5月の上旬から中旬にかけてのほんの一週間ほどの時期です。

豊富な雪解け水が流れるこの季節にみなかみ町を語る理想の表現なので、

多くは語らず、写真と歌のみ記しておきます。

 

 

関東の清らかな水源地、みなかみ町から濁りたる都会へ澄みたる水を送りたいところですが、

今の利根川の水は、みんな銚子沖へ流れてしまいます(笑)

 

散々このブログで「濁りたるを澄め」とばかりに語ってしまう私なので、

これは他人や他所のこととしてではなく自らのこととして肝に銘じています。

 

 

 

 

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「月夜野」 地名の由来と風土 ①

2017年05月05日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

以前に「物語のいでき始めのおや」として、源順(みなもとのしたごう)が東国巡業の折にこの地に立ち寄り、その際に「おう、よき月よのう」といったことが伝説として「月夜野」の地名の由来といわれている話について、それが史実でないとしても、なぜ「源順」という三十六歌仙の中でも実力派の歌人がこの地に因縁付けられたのかといったことをまとめてみました。 

「月夜野にかかわる三十六歌仙のふたり 凡河内躬恒と源順」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70 

 

しかし、これはあくまでも伝説としての話であり、地名の由来としては別の理由があるのだということは、一部の人たちの間以外ではほとんど聞くことはありませんでした。

どうやら地元の人たちの間でも「月夜野」の地名由来については、明確な共通認識があるわけでもないようです。

早くこのことも書いておかないと片手落ちになるので、ここで遅ればせながら少し整理してみたいと思います。

  

 

 ◇ たくさんある月の地名 


誰もがあこがれる「月夜野」という地名。

我こそがと自慢したいところですが、日本各地に月にまつわる地名はたくさんあります。

志賀勝さんの『月曼荼羅』(月と太陽の暦制作室 発行)は、月夜野のまちづくりにとっても貴重なネタが満載されているすばらしい本ですが、そのなかの四月二十七日の頁に、全国にある一通りの月の地名が紹介されています。

月輪(京都)、月ヶ瀬(奈良)、三ヶ月(松戸市)、月夜野町(群馬県)、十六夜(島根県)、月見町(富山市、新潟市)、月見(福井市)、月町(新潟市)、月潟村(新潟県)、上秋月(福岡県甘木市)、月丘町(山口県徳山市)、月島(東京都)、月見ヶ丘(宮崎市)、月岡(三条市)、月崎(松前郡)、つきみ野(神奈川県大和市)、月浦(水俣市)、三日月町(兵庫県と佐賀県)、名月(多賀城市)、月出(熊本市)、愛知県・静岡県境に月という村が多数ある。

    (以下略)

 

これらを見比べても「月夜野」という名前は、数ある地名の中でもひと際その言葉の響きには魅力を感じられるものと思います。

 

ところが、これに加え最近、浜松市にある次のような標識を知りました。

「月まで3km?」
新潟市の月町の例もありますが、この道路標識のインパクトは絶大です。
愛知県、静岡県の県境付近には、こうした月という村が多数あるらしいです。 

さすがに「月夜野」も、これには負けを認めざるをえないかもしれません。

 

さらに、群馬の郷土史家の中でも地名学の草分けとして知られる都丸十九一は、県内にズバリ「月夜野」の地名がかなりあることを知り、

吾妻郡東村西部、高山村尻高、沼田市秋塚・下佐山・屋形原の5地域の月夜野。

鬼石町浄法寺の月夜平などを含めて7箇所を確認しています。

残念ながら、これらの地名の多くは小字、小名などに該当する地名で、現在の市販の地図で確認することはできません。

法務局のホームページなどで検索確認してみると、微妙に違う場所が出たりもするので、このことは今後とも調査確認が必要です。

 

それぞれの土地の由来や歴史風土をあらわす小字や小名が、消えることなくなんらかの地図上でもきちんと残されて行くことも切実にもとめられています。

 

 

 ◇ 行政区変遷の歴史  


そもそも、地名とは平成の大合併に限らず、時代によって絶えず変遷を遂げてきているものです。

歴史上の文献で利根郡あたりの地名が最初に登場するのは、先の源順が中心になって編纂されたと言われる『和名類聚抄』のなかです。

そこに利根郡の地名として、沼田、男信、笠科、呉桃の四郷が記されているのが最初といわれ、この「呉桃」の訓が「奈久留美」とあるので、そのエリアがどういった範囲を指しているかはともかく、それが現在の名胡桃であることがわかります。

その後、寛文1661~1673年)年間に、沼田城主、真田伊賀守信澄(のぶずみ)による城下町割条例実施により「沼田」「月夜野」「須川」の3町名を命名したことなど、何度か変遷を経ているようですが、旧村が誕生したのは、古く牧場であったことから付けられたという古馬牧村と、旧呉桃郷と言われた頃の「桃」と、旧小川郷の一村であった頃の月夜野の「野」とを合わせて生まれたという桃野村が合併された明治12年のことです。


  桃野村 (月夜野村、小川村、上津村、下津村、石倉村が合併)

  古馬牧村 (真庭村、政所村、師村、後閑村、下牧村、上牧村、大沼村、奈女沢村が合併)

 

したがって、月夜野町が広域行政区としての歴史があったのは、昭和30年4月に桃野村と古馬牧村が合併してから、2005年平成17年10月にみなかみ町になるまでのわずか50年ほどです。

月夜野の歴史の大半は、いまの大字月夜野に該当する小さいエリアを指していたといえます。

平成の大合併の際、水上、新治、月夜野の3町合併後の町名について、事前の住民アンケートでは「月夜野」が一番の支持を得ていましたが、小さな地域の名前を町の名とする意味では、たしかに歴史的説得力には欠けていたのかもしれません。

ただ、合併そのものが行政の財政上の問題が主な理由で行われたものであり、日本各地で地域の歴史が無視された命名が行われたり、ただ現状の財政力の強い弱いだけに左右された判断になってしまい、本来の「より小さく」こそが自治の基本であることや、お金がないからこそ知恵を出し助け合う方向に逆行したものが多かったことは、ここで地名を語るうえでも強調しておきたいと思います。
 

 

◇ 地名の由来の多くは地形から 


長らく月夜野の地名の由来は、源順の「よき月よのう」の伝説が定着していた歴史がありますが、楠原佑介らにより『地名用語語源辞典』(1983年)が出されると、地名の由来は、自然的地名用語、人文的地名用語、施設起源地名、分割地名用語、伝説起源地名、瑞祥地名、混合型地名、二次的地名などに分類されますが、その多くは地形から生まれていることがあらためて確認され、

「月夜野」の地名は

「谷間ではあるが、河流より一段高い段丘上などに見られる地名」

とし、この月夜野も

「利根川本流と赤谷川がつくる段丘と段丘の間の氾濫原(ノ)中の微高地(ツキ)」

と同書で確定されました。

「つき(高所)」という意味と、「よ(間)」の意味に「の(野)」が合わさった地名で、「高くなった所の間の野」のことです。
「よ」という言葉は、「二つのものの間」のこと。
 

赤城山西麓の利根川沿いにある北橘村の橘も、樹木の名前を当てているのは芳名として字が採用されたもので、利根川に侵食された断崖が「端(ハナ)を絶つ」地形であることからきている呼び名であるのと同じように、利根川本流に赤谷川が合流する場所に大峰山から見城山を経た山脈がつきるところであり、河岸段丘の上のまさにその突き出た場に月夜野神社があることも頷けるものです。

 

 

◇◇◇◇ 「突き出た地形」が地名となる真意 ◇◇◇◇

このように「突き出た地形」こそが「月夜野」の語源であるわけですが、ここに月夜野神社が祀られたことを含めると、もう少し深い意味があります。

古くからある神社の場所をたどると、その多くが水辺、川や沼や湖、あるいは海に接する場所が多いことに気づきます。といっても、それは長い歴史を遡ることなので現在の多くは地形も変わっており、直ちにはそのような意味を今の地形から想像することはできません。しかし、古社が多く鎮座する奈良や京都の盆地地形、名古屋や江戸のデルタ地帯のいにしえの地形を見ると、そこは大半が水面に覆われた場所であり、そこにわずかに突き出た山や半島型の場所が人間の暮らしにとって特別な場所であったことがわかります。

事実、大和三山の三輪山にある大神神社をはじめ古社は、かつて奈良盆地全域がデルタ地帯であった時代に、水面に突き出た山でした。京都の伏見稲荷や石清水八幡、名古屋の熱田神宮、江戸の増上寺、寛永寺のあった場所などどれもデルタ地帯の水面から突き出た場所にあります。これは何もそうした有名な古社ばかりでなく、都内のちょっとした社の多くが縦横に走る川に突き出た場所に鎮座していることを中沢新一(『アースダイバー』講談社)が立証しています。

だからといって月夜野の地は川や海の水面とは何の関係もないではないかと思われるかもしれませんが、ここで有名な河岸段丘の地形から、かつて利根川、さらには古沼田湖の水面がこの河岸段丘の高さまであったことがわかります。それは今から15万年ほど昔のことになりますが、赤城山が噴火を繰り返し、溶岩が子持山麓の綾戸の岸壁と接着し、利根、片品の緒川を堰き止め広大な湖を形成しており、その時代の水面が月夜野神社の位置にある河岸段丘の高さにあったわけです。

つまり、この月夜野も多くの古社がそうであったように、ただの突き出た地形ではなく「水面に突き出た」特別な場所であるわけです。まさにこの点にこそ、月夜野神社が様々な神社の一つではなく、奈良の大神神社と同じような格別な古社としてのいわれのある社であると推測される由縁なのです。

 

 

◇ さらに大事なこと 


通常は、こうした説明が研究者からされてきたのですが、私たちにとってさらに注意を引くのは、そうした地形的な特徴から「月夜野」の地名が生まれているとしても、それに月・夜・野という漢字を当ててくれた先人のセンスの良さです。

地形の解釈そのままであれば、「突代野」にもなりかねないはずです。

日本各地に数多く存在する月の地名からは、むかしの人びとが現代人の想像をはるかに超えた月へのこだわりがあったことがうかがえます。

私たちは、県内外にある月夜野の土地が、本当にそうした突き出た台地状の地形になっているのかもあらためて確認しなければなりませんが、どうも私たちの住む月夜野ほど他所ではそうした地形を明確に確認することはできていません。

でも、この月夜野の地形こそ、月を見るにはふさわしい地形をもていることにも驚かされます。

 

 

 

詩人の谷川雁が、

「地名とは地霊の名刺ですからね」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/3b9491ec988adbabcc32002d15347be3 

 といっていますが、まだまだ地霊の言葉を私たちが読み解くのは容易なことではありません。
 
 
地域にとって最大の資産である「月夜野」という地名を、ただ行政区分上の呼び名としてだけではなく歴史と風土を反映したものとして、いかに大切に守りそだてていくかということこそが、この土地で暮らす私たちの使命であると考えます。
 

 

  都丸十九一『地名のはなし』『続・地名のはなし』煥乎堂

 

 

 

 

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賽の河原地蔵和讃

2017年05月01日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

一説には空也の作ともいわれる賽の河原地蔵和讃。

赤城山の祖霊信仰とともに、地蔵岳の信仰位置付けを考える大事な資料にもなるので、ここに一度記載しておくことにします。

宗派によって様々なバージョンがあるようですが、数々の和讃のなかでもひと際センチメンタルな感情をかきたてる仕掛けが凝らされているもので、文学的味わいも一入(ひとしお)です。

 

 

 

これは此の世の事ならず  死出の山路の裾野なる

西院の河原の物語  聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬみどり子が

西院の河原に集りて  父上戀し母戀し

戀し戀しと泣く聲は  此の世の聲とはこと變り

悲しき骨身を通すなり  かのみどり子の處作として

河原の石を取り集め  此にて廻向の塔を組む

一重組んでは父のため  二重組んでは母のため

三重組んでは故里の  兄弟我が身と廻向して

晝は一人で遊べども  陽も入相のその頃は

地獄の鬼が現れて  やれ汝等はなにをする

娑婆に残りし父母は  追善作善の勤めなく

ただ明け暮れの嘆きには  むごや悲しや不慇やと

親の嘆きは汝等が  苦患を受くる種となる

我れを恨むこと勿れと  黒鐡の棒を差し延べて

積みたる塔を押し崩す 其の時能化の地蔵尊

ゆるぎ出でさせ給ひつつ  汝等命短くて

冥途の旅に来るなり  娑婆と冥途は程遠し

我れを冥途の父母と  思うて明け暮れ頼めよと

幼きものをみ衣の  裳のうちにかき入れて

哀れみ給ふぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を

錫杖の柄に取り付かせ  忍辱慈悲のみ肌に

抱き抱へて撫でさすり  哀れみ給ふぞ有難き

南無延命地蔵大菩薩 

 

 

参照 ウィリアム・R・ラフルーア著『水子〈中絶〉をめぐる日本文化の底流』青木書店

 

https://www.youtube.com/watch?v=SOO4ePanpnU 

 

小さな子供は皆、死ぬと賽の河原に行かなくてはなりません。

そしてそこでお地蔵さまに遊んでもらうのです。

賽の河原は私たちのいるこの地面の底の方にあります。

お地蔵さまの着物には長い袂がついています。

子供たちは遊びながらお地蔵さまの袂を引っ張るのです。

そしてお地蔵さまの前に小さな小石を積み上げては楽しみます。

そこの地蔵像の前に石が積んであるのが見えますが、それはそういう子供たちを思って人が積んだものです。

たいていは、子供を亡くしてお地蔵さまに祈りに来た母親たちの行いです。

でも大人は死んでも賽の河原には行きません。

 

            小泉八雲『神々の国の首都』講談社学術文庫より

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