かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

この神社のご祭神はなんですか?という問いへの違和感

2023年01月20日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

以下は、ブログ「物語のいでき始めのおや 〜月夜野タヌキ自治共和国」に書いた記事の転載です。


神社の話を人とすると、そこの御祭神は何ですか?とよく聞かれます。
最近では、どちらかというと若い人たちの方が、こうした聞き方をしてくる人は多い気がします。
そうした質問自体は当然のことなのですが、地元の月夜野神社などは、明治時代の一町村一社令により周辺の神社が合祀され21社19祭神も祀っているので、自分で紹介リーフをつくっていながらそれらの神々の名前はほとんど頭に入っていません。いつもさっと答えられずに困っています。

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といっても、もともと長い歴史をへて狸が人間に同化してきた身の私たちには、未だに片手5本以上の数字を数えることは苦手なので、覚えること自体を諦めている不信心者なのでご了承いただきたいところですが、実はそうしたこと以外に、御祭神ってそれほど重要なのでしょうか?といった感覚が長らく私にあることも理由の一つになっています。

つまり、現代の当たり前のように存在ている神社の姿そのものの多くが、明治時代に作られた側面が多く、それ以前の姿を失ってしまったままであることがあまりにも多いのではないかと感じているからです。

その経緯は、当時の日露戦争後の危機の時代にあった明治政府は、ますます国民の民族的アイデンティティを強化する必要を感じており、国家による神社保護を徹底させようとしていました。
そこで、各神社に国家からの保護金を支給しようとした。
ところが、全国にはおびただしい神社が存在して、明治初年のさまざまな布告にもかかわらず、由来のはっきりしない、ときにはいかがわしいものまでが、同じ神社として祀られていたのが実態でした。
そこで政府は保護すべき神社の数を限定し、いわゆる淫祀小社の類を駆除しようと図った。
明治39年12月、当時の西園寺内閣の内相であった原敬によって、神社は一町一村につき一社にまとめよという一町一村一社令を出すに至りました。

このことは南方熊楠が猛烈な反対運動を起こしたことが知られていますが、その活動で守られたのはごく一部のことで、日本中の神社はこの一町一村一社令によって、大変な数の神さまがその「固有の土地」から切り離されて1箇所にまとめられてしまいました。


これは、明治維新直後に断行された廃仏毀釈に遡る流れのなかにあります。


「神仏分離や廃仏毀釈という言葉は、こうして転換をあらわすうえで、あまり適切な用語ではない。神仏分離と言えば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた特定の神々であって、神々一般ではない。

廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏のように聞こえるが、しかし、現実に敗滅の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである。

記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に、歴代の天皇や南北朝の功臣などを加え、要するに、神話的にも歴史的にも皇統と国家の功臣を神として祀り、村々の産土社をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏とのあいだに国家の意思で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目ざされたことであった。」
     安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書


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もちろん、こうした行き過ぎは政府の意図以上の流れを生んでしまい、その後是正された面はありますが、その狙いそのものは変わっていません。

つまり、明治時代の古事記、日本書紀の解釈のうえで公認されない神々はことごとく排除され、公認された神々にはすべて序列が付けられているということです。

まさにこのことこそが「近代」というものを象徴する出来事です。
わたしはこのことにどうしても馴染めないので、現在の神社の前で「御祭神はなんですか?」と聞かれても素直にそれに答える意味をどうしても感じられずにいました。

月夜野神社のリーフにも書いていますが、そのそも神社というのは神々の依代となる場所に起因しているもので、それは
神奈備(かんなび)=山、
神籬(ひもろぎ)=森、
磐座(いわくら)=岩、
霊(ひ)=光
などから生まれたもので、その神々の依代(よりしろ)であった場所に人が集まることで社(やしろ)となっていったわけです。

月夜野という地名自体が、月ではなく「ツキ」が「突き」「築」「付き」「着き」などの地形由来の言葉であることを何度か書いてきていますが、そうした突き出た場所こそが、古来、神の依代であり、それが自然に人の依代になり、同時にそこに縄文遺跡があったり、市がたったりしていったという経緯があります。

つまりそうした場所は、漢字などの文字が輸入されるずっと前から日本にあった言葉の歴史が反映されているわけで、当然それは記紀や古代国家の誕生以前の長い歴史そのものであるといえます。

よく誤解されるのですが、だからといって私たちは、「国家」を否定しているわけではありません。確かに月夜野タヌキ自治共和国は、アナキズム的にみえたり共産主義的に見えたり、縄文回帰主義に見えたりする面があり、そう思われても強いて否定しませんが、私たちは歴史的に国家が誕生して現在も存在しているのは歴史の必然として考えてその存在そのものは否定していません。

私たちが考えているのは、どんなに文明や科学技術が進歩しても、生命の土台である自然の価値、存在意味は何も変わっていないということで、それは決して国家や科学技術によって認識されたり、管理された領域のみで成り立つものではないということです。

(この辺のことは、「地方」の本来の意味は「天円地方」から をご参照ください)

もともとカミは、目に見えないもの、名前も付けようがない Something Great です。
自然科学的にも、微生物や細菌、ウィルス、あるいは無機物、宇宙を含むもので、ただひたすら

西行がいう「なにごとのおわしますかは知らねども」の世界です。

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それを国家が公認した神々以外は認めないとか、神々に序列をつけるとかいう発想は、極めて限定的な狭い特定の時代の特殊な考え方です。でもそれは、近代へ至る歴史の流れの中では必然なのですが、あくまでもその土台の自然生命の領域はなんら変わっていないということを、この明治以降の御祭神主義ともいえる世界は忘れがちです。
もちろん、そうはいっても神社の実態は、鎮守の杜や伊勢神宮の広大な敷地のなかに、そうした枠を越えた Something Great は紛れもなく誰もが感じています。神社の様々なしきたりのなかにも、それはきちんと残っています。

だからこそ、私たちは日本人の感覚のなかに自然に根付いている公認、登録された神々以外の世界を取り戻していくことが限りなく大事であると思うわけです。
このことは、意外と信仰のことを語っているようでいながら、あらゆる物事の考え方そのものを反映しており、近代社会でコントロール、管理の及ばない領域があること、いかに進歩した社会であっても微生物や細菌などの目に見えない膨大なものの土台の上に成り立っていることを見失わないためにも欠かせない視点であると考えています。

農村の風景のなかから、トンボや蝶々、土の中のミミズが消えても、ここで使っている農薬はきちんと人間には害がないことが証明されているから大丈夫だという世界観。
化石エネルギーや森林などの地球資源を、その土地所有者のみが私的利益を独占し、自然に対してはなんの対価も払わずにいられる社会。
「公共」や「安全」のためであれば、広告看板や電柱、過剰なガードレールなどによる景観破壊も全く気にせずにいられる感覚。
東日本大震災や福島原発事故で、たくさんの復興予算がとられても、業界団体や大手企業に流れるばかりで、被災した当事者にはななかなか届けない構造。
コロナパンデミックで何十兆円もの特別予算が医薬品業界をはじめとする各機関に大金が出ていながら、ワクチン 被害で数日後に亡くなられたり、後遺症で悩んだりしている人には、因果関係が証明できないとのことで一円も出ないこととか。

これらに対する神さまがいるこちら側の世界とは、「コンビニが無くて不便なところ」ではなくて、「コンビニの弁当を買わなくてもすむ豊な暮らし」の世界ということです。

現代では、このシステムに入らないとサービスが受けられなくなりますよ、といった脅しのような文句を伴う「公共」がどんどん広がっています。当然それらは社会に必要なものであることに間違いはありませんが、そこに収まらない存在は許されないという「近代社会」は、やはりちょっと一歩おいて冷静に見なければなりません。

管理、コントロールの及ばない、公認されるかどうか、数値で表せるかどうかに関わりなく私たちの身の回りにある数多の神々の存在を取り戻すことは、地方自治や地域の生命活力を取り戻すためにも欠かせないことであると私たちは考えています。

もしかしたら不信心にも見えるかもしれませんが、もう一度
「御祭神はなんですか?」
という問いのもつ意味を考えてみてください。
それは、決してご祭神は何ですかと聞くことがおかしいという意味ではありません。
歴史解釈の問題を含めて、あまりに神様の名前ばかりにこだわる傾向が強まると、大切なことを見落としてしまうのではないかということを問いたいのです。

明治時代に神々の強引な合祀がされるまで、村のあちこちにあった社は、家々にあったカマドの神、屋敷神、厠の神などとともに、日々の暮らしの中で、食事を作るとき、畑に出るとき、隣の村へ行くときなど、常に出会い手を合わせるような、その場その場の価値を持つものでした。
しかもそれらの大半は、「国家」などは意識しない、それぞれの土地の風土そのものでした。

公認され、登録された神様しか見ないのではなく、神社をめぐる鎮守の森をはじめとする空間にある有象無象のSomething Greatにもっと目を向ける世界観を取り戻すことは、宗教観に限らない何か大切なことを私たちに問うている気がします。それは決して民俗学的な過去のノスタルジーにとどまるものでもありません。
神そのものに対するこうした意識の違いは、そのままその地域の人びとの社会観の違いにもなっていることを私は感じます。

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いま見えている上弦の月は、3時間半前に地球がいた場所

2019年08月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

ただ今の月。


いま見えている上弦の月は、3時間半前に地球がいた場所です。

図がないと説明しにくいのですが、地球と月の距離は約38万キロ。

地球は時速11万キロで太陽の周りを公転していて、上弦・下弦の半月のときは、ほぼその公転軌道上に月があるので、上弦の月の時は38万キロ後ろの位置に見えてるということ。

 



だから
「あの月は、いまから3時間半前に僕たちがいた場所だよ」
と上田壮一さんは説明しています。
 

曇った日でも、ツキのあるわが月夜野では、切れ間から顔を出してくれます。

「月夜野百景」
https://www.tsukiyono100.com/moon

 

 

 

 

 

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「古馬牧」 地名の由来と風土 ③

2019年02月20日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 馬と人間のかかわりは、戦争とともに発展してきたかのようにみえますが、戦争にかり出される馬は、必ずしも専用の軍馬ばかりではなく、むしろその多くは農民の暮らしをささえている農耕馬でした。

 それだけに馬と人びとの暮らしは密接なもので、多くの物語も生まれました。

 それが遠い過去の話のようにになってしまったのは、昭和の半ばにメリーテーラー(耕耘機)が農村の隅々にまで普及するようになってからです。

   同時にその頃から、それまで田畑の肥料や家畜の餌としてしばしば奪い合いになるほど貴重な資源であった草々が、地域の存亡を左右するほど迷惑な「雑草」=ゴミになってしまいました。

「古馬牧」という地名も、そんな歴史とともにリアリティを失っていったのかもしれません。

 

 

 

古馬牧(こめまき)村 沿 革

 今では古馬牧小学校や古馬牧人形浄瑠璃などにみる以外には、地元でも馴染みの薄い地名になってしまいましたが、「古馬牧」という地名は、この土地の古い歴史をと色濃く反映した呼び名でした。

 利根川の東の古馬牧村は、往時その名が示すごとく牧場でした。古墳時代が終わる頃には、この地方にも大和農法が伝えられ、農耕と牧畜が次第に発展してきたようです。

 大宝元(701)年、大宝律令の発布についで厩牧令が出て利根の地にも牧場が設けられました。これが「長野牧」と称せられた御牧(勅使牧)で、大日本地名辞書(吉田東伍)に「長野は古の牧の名にして、利根川の源谷をなす如し、即ち呉桃(なぐるみ)郷の北なり」とあり、日本後記に嵯峨天皇の弘仁二(811)年9月「三品葛原親王に上野国利根郡長野牧を賜う」とあります。古くは牧の郷といってのち慶長元年、上牧、下牧とに別れました。

 1889年(明治22)、大日本帝国憲法が公布されると同時に町村制が施行されて、それまでの後閑村、師村、政所村、真庭村、下牧村、上牧村、大沼村、奈女沢村が合併し、利根郡古馬牧村が成立しました。
 以後、桃野村と古馬牧村が合併して月夜野町(現みなかみ町に平成17年編入)が誕生する昭和30年までの間66年間、古馬牧村は存在しました。

 

「古馬牧」にある
馬にまつわる地名の数々

 旧古馬牧村一帯の地は上野九牧の一つに数えられた牧場であり、牧監に大宅直久が任ぜられ、下牧新田に長野大神宮を創建、牧地の守護神としたと伝えられ、宮地地内はその旧跡といわれる。

 当時上野九牧からの献上馬は年々50頭といわれ、その頃の上牧、下牧は一村で牧村を呼ばれ、真庭は「馬庭」で政所は「馬所」であったことが考えられる。即ち、村で育てた馬を馬庭で訓練し馬所で検査などを行い、献上馬となったものであろう。

 当地に今でも残る地名に馬に関係する地名が非常に多く、牧場であったことを示すに足りるものである。即ち野馬田、鍵掛、馬見台、馬立新田、中ぐね、まなぐら越え、馬留堀切などであり、古くは大沼も大野馬であったといいい、山頂から流下する小沢にも、野馬の沢、木戸沢、馬留沢などあり、また牧監の住居跡と思われる近くには、牧原長者、長者屋敷、長者久保などあり、牧原長者にまつわる伝説もいくつか残っているようである。

               『月夜野町史』より

 

 

 

どう考えても群馬は「馬」の県

 群馬は古代、早くから渡来人の文化が移入し、蝦夷征伐の拠点として発達したことなどの地理的要因が馬文化を育む土地となったと考えられます。
 そうしたことは、文献資料があるわけではありませんが、東日本で突出した古墳群があることや、そこから数々の馬具や全国でも珍しい人が乗馬した埴輪がみつかっていることなどからうかがえます。

 ところが群馬の地名由来は、古代車持氏がこの地に拠点を構え、車(くるま)が(くりま)、(ぐんま)に転化したといわれますが、どうも苦しい説明に思えてなりません。群馬県群馬郡群馬町(2006年高崎市に編入)が車持氏の拠点であったことから関係性に間違いはありませんが、おそらく先にこの地には群馬(ぐんば)の強いイメージがあり、それに車(くりま)の意味が添えられたとみる方が自然に思えます。

 

 (とりあえず、リーフレットの原稿をそのままアップしました。)

 

これでやっと、月夜野の地名を語る基本

「地名の由来と風土」三部作が揃います。

3月上旬、印刷関係予定です。

 

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点と点がつながり、線になっても、安易に「面」にはしない

2018年05月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

先日、久しぶりに片品で地域活動をしていた昔の仲間と話をしていたら、こんな話題になりました。

最近は、みなかみ町の方がよくいろいろ話題(いい面も悪い面も)になっているよね。
それに比べると最近、片品の方はぜんぜんダメだ。
最終的には、利根・沼田地方でもっと連携して、点と点がつながり面になっていったらいいよね。

利根・沼田地方の生態系に依拠することを考えれば、それこそもっともなことだとも思いました。

これは確かによくある話で、点と点が繋がり線になり、やがて面になることを自分で話していたのですが、それと同時に、その言葉に妙に違和感を感じる自分がもう一方にいました。

たしかにややベタな表現には違いないのですが、その違和感が何なのか、どういうことだったのか、私はあとになって気づくことが出来ました。

点と点がつながること、やがて線になり、線と線がつながること、さらにそれが面になること自体、決して悪いことではないのですが、安易に「面」になると、それまで点や線が持っていた個々の「責任」というものが消えていまう場合が多いことを気にしていたからです。

なにごとも、最初にはじめる人は、失敗のリスク、膨大な自己負担がかかるリスクなどを必然のこととして背負っているのですが、それがだんだん拡大してくると、そのリスクを知らない人がどうしても増えてきます。

参加してくれること、仲間が増えること自体は、当然歓迎されることなのですが、どうしてもそれと同時に、リスクを負わない人も増えてきてしまうものです。

そうした人々の面倒を丁寧にみることも、その目的を達成するためには必要なことです。

ですが、責任やリスクを負わない人が増えるというのも、実は大きな問題なのです。

大きくなるというのは、内容を薄めて大きくするのではなく、それまで持っていた個々の濃い内容を保持したまま、より多様性のある大きさを目指してこそ、豊かな活動、豊かな地域が保障されるからです。


そうしたことによってこそ、点は点のまま、線は線のまま、複雑に絡まりあい、どの線がどの線を支えているのかわからないような、例えるなら「鳥の巣」のような構造であることが望ましいのではないかと思いました。

 

 

鳥の巣といえば、余談ですが高校時代、クラスに天然のモジャモジャ頭の子がいて、よく先生から「モズの巣みたいな頭して・・・」とからかわれていました。いま思えばからかうにしてもヒドイ先生ですが、もしかしたら「こんがらかってる」の意味ではなく複雑なネットワーク型の頭としての褒め言葉だったのかもしれない。

 

 

この後また気づいたのですが、アメリカの民主党と共和党の対立構造も個別に勝ち取るものと、公共の利益優先の考えの違いとしてこれに似てます。

共和党からすると、俺たちは銃をぶっ放して命かけてアメリカを開拓してきた。

それををお前ら民主党は、俺たちが自力で勝ち取ってきたものをタダ(無料)で分け与えようとしている。

なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、ということの背景には、意外とこうしたアメリカ人の気持ちが根深くあるようです。

 

日本でも私たちの上の世代では、政党や組合、あるいは企業間の闘いで、自分たちの側の組織(勢力)を大きくしてこそ勝利できるのだとの感覚が根強いように見えます。

それに対して今の若い世代はどちらかというと、自分が特定の組織に固定化されることを嫌う傾向があります。

彼らはむしろ自由なネットワークのようなものを好みます。

強いて言えば「縛られないつながり」のようなものです。

そこでは組織の階層性のようなものを強く嫌います。

何かを成そうとする限りにおいて、確かに「責任」は発生しますが、どちらかというそこの場合の責任は、トップが負い、より上のものが取るべきものというより、それは個々の役割、作業に応じた責任分担のような社会です。

中間管理職を排除して誰もがトップと直接コンタクトを取りながらスピーディーに仕事をすすめる組織がこのタイプです。

すべてがこの方が優れているとは限りませんが、大事なのは、この場合の方が個々の責任も明確になるわけです。

何人ものハンコを押してもらうよりも、この問題の責任者は誰なのかがはっきりしています。

わたしたちの活動もこうありたいものです。

良いことだから、より多くの人が仲良しになるというだけではなく、参加する人たちの個々の責任や役割分担も明確にしていかないとそもそも豊かな活動には至れません。

 

私は決して共和党タイプではありませんが、最近なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、とか
最も尊敬し大好きなクリント・イーストウッドがなんで共和党なのかとかを考えていると、だんだん彼らの側の論理も、こんなふうには理解できるようになってきました。

単に組織を作ればよい時代、徒党を組めばよい時代は終わっているのだから、個々のプロジェクトを大切にしていく方がいい時代なのではないかと思います。

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ホタルの里の「月夜野百八燈」

2017年07月03日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

歩いてこそ感じる里の景観

 

2017年、矢瀬親水公園脇から月夜野歴史郷土資料館前にかけての歩道フェンスに「月夜野百八燈か」の行灯を設置させていただく許可を頂きました。

この「月夜野百八燈」の展示は、道路沿いだからといって、そこを通行する車に見せることが第一の目的ではありません。


月やホタルを思いながら、ほのかな明かりのもとを少しでも多くの人に歩いてもらうのが一番の目的です。

おばあちゃんが孫の手を引きながら、ホタルの鑑賞地まではまだずっと先なんだよと、ぽっくらぽっくらとゆっくり、行灯の仄かな明かりを楽しみながら歩いている風景を想像して作りました。

 

本来は、ホタルの生息域だけではなく、そこに至る田んぼ道に、ホタルやその他たくさんの生き物たちが棲息していました。

そうした豊かな自然を少しずつ取り戻していくための自然環境のバロメーターとして、ホタルは大事な役割を果たしています。

でも残念ながら現実は、完全無農薬の田園風景を取り戻して、直ちにたくさんの生きものたちを呼び戻すことができるわけではありません。ホタルを守る地道な活動の積み重ねと周辺の自然環境を取り戻すことは密接な関係にありますが、だからといってこのふたつは自動的につながるものでもありません。

私たちは、身の回りの景観のなかにある生命ひとつひとつに目を向け、同じ地域に暮らす住民としての気づきを私たちが感じられないと、何かひとつの行政施策で単純に解決できる問題ではないと考えています。

車こそが王様とも言えるような社会構造の中で、少しでも歩くことを大切にする環境を取り戻すことで、そうした景観を取り戻していく契機の一歩にこの「月夜野百八燈」がなれたらと思います。

そのために以下のような三つの視点で、私たちは「月夜野百八燈」の運動を積み重ねていく予定です。

 

 

 

 

 「こころの月百景」をかたちにする活動

  

 行灯には、月とホタルにまつわる古今の有名な短歌、俳句、川柳、都々逸などが書かれています。 

万葉集、古今集、百人一首などに始まり、俳句は芭蕉や一茶など比較的馴染み深いものから、2016年に第1回目として百選を選んでみました。
 

 

 百選の中から一部を抜き出してみます。

 

92、親一人、子一人蛍光りけり     久保田万太郎                        

93、物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる
                             和泉式部  

94、声はせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思ひなるらめ
                              源氏物語 

95、軒しろき月の光に山かげの闇をしたひて行く蛍かな    
                          後鳥羽院宮内卿      

 

99、その子等に捕えられむと母が魂(たま)
      蛍となりて夜(よ)を来(きた)るらし    窪田空穂    

100、蛍火の今宵の闇の美しき   高浜虚子 
 

 

 「月夜のこころ百選」 http://tsukiyono.blog.jp/archives/1060128701.html

  

ホタルの季節に、春や秋の月の歌が入っていることにもなりますが、その辺はご愛嬌ということでご容赦ください。 

どのジャンルでも月やホタルにまつわるものはたくさんあるので、毎年情報を収集しながら少しずつ練りこんでいく予定です。

 

よく言われることですが、これまでは経済の時代でしたが、これからは哲学、心理学、倫理学の時代になると言われます。

確かにその通りに違いありませんが、私たちの住む月夜野では◯◯学と言っているうちは、人に伝わるものではないと考え、「物語のいでき始めのおや」と題してこの土地の物語を少しずつ育てながら書き始めているところです。

それは「哲学」や「心理学」、「倫理学」と並ぶような「文学」ではなくて、そこに暮らす人びとの日常の「ものがたり」として語られることを目指したものです。
 

「物語りのいでき始めのおや」 私たちの「物語り」び三つの顔
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bebcf3ddf9609cdbc6b8c9f1219096c5 

 

 

    学問は尻からぬけるほたる哉      蕪村

  

「月夜のこころ百景」のリーフレットに書いたことですが、私たちの暮らす月夜野にとって、観光も産業振興もたしかに大事ですが、何よりも大切なのは、そこに暮らす人びとの胸のうちに灯る仄かな明かりです。「月夜野百八燈」は、この地にそうした小さな幸せの明かりを一つひとつ灯していくことを目指しています。

それは、ひとつの表現との出会いであり、一人の人との出会いの積み重ねです。

 

 

 

夜は生命のゆりかご

ほのかな明かりが暮らしをつくる、まちをかえる

 

 

この場所でも午前零時をまわる頃には、ホタルがす〜と飛んでいたりします。

零時をまわると、まわりの駐車場の明かりなども消え、車の通りもほとんどありません。

そんな夜の闇は、先の東京オリンピックのころまでは当たり前のようにあった世界です。
 

これまで私たちは、戦後一貫して、夜はただひたすらより明るくすることでこそ、「豊かさ」と「安全」が保障されるものと信じて、より「明るい」社会を実現してきました。

ところが宇宙から夜の地球の映像を見ると、異常なほどに夜の明かりが大地を照らしていることに気づかされます。

暗闇に明かりを灯すことは必要ですが、あまりにも昼間に近づけることばかりを求めすぎてはいないでしょうか。

本来夜は、暗いことでこそ生命(いのち)のゆりかごとしての役割を果たすものです。
 

「夜は生命(いのち)のゆりかご」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/3f8431f02a7fd6c0d3488f8ce2e85b7a?fm=entry_awc


月夜野の誇る「ホタル」や「月」の仄かな明かりは、そんな大切なことを私たちに気付かせてくれる大切な存在です。

ホタルの季節と秋の中秋の名月の前後の年2回、そんなことを考え味わう機会として、「月夜野百八燈」の設置を試みてみました。



 

      すっと来て袖に入たる蛍哉
                     杉風

 
 

普通の家のなかにまで、す〜とホタルが入ってくるまちを取り戻すこと、

それは決して夢物語ではありません。

 

 

 

 

 

みなかみ町の
観光振興や暮らしの復権のための
「本丸」=景観づくり
に近づくための第一歩
 

 

みなかみ町は観光を柱として栄えている町です。

ところが、どんなに魅力的な山々や渓谷の自然、たくさんの温泉やリゾート設備があっても、そこへいたる周辺の環境が、コンクリートの電信柱や送電線が乱立していたり、白ペンキのガードレールが続いていたり、道路脇の草刈りが徹底していなかったりしたら、いつまでたっても世界の観光地水準には追いつけません。

かといって電柱の地中化など、どれを取っても莫大な予算をかけて何十年もかかることなので、今すぐにそういった提案をしたところでなかなか取り合ってもらえるものでもありません。

しかし、観光のためだけではなくそうした本来あるべき暮らしの美しい景観を取り戻すことは、30年もしないうちに間違いなく当たり前のこととなります。今から可能なことから着手して、少しでも実現の時期を早めなければなりません。

かつては考えることもできなかったことですが、電柱の地中化よりも先にエネルギーの地産地消や自家発電の普及、マイクロ波などの技術革新などにより、電柱地下埋設費用の云々よりも、そもそも電柱が必要とされない社会の方が先に来てしまいそうな変化がすでに始まっています。

私たちは、そうした少しでも実現すべき景観の意義を考える入り口として、この行灯がつくる景観や車よりも歩くことを優先した環境づくりに近づくため、この「月夜野百八燈」を活用して問題提起をしていきたいと考えます。

 

 
「するとジョルジがぼそぼそといった。
 
もちろんさ、人間の生涯で何が最後に残るとおもう、
 
風景の記憶、それだけさ、
 
物の所有なんてぜんぜん問題にならない、
 
それに人間が他人と何を共有できるとおもう、
 
あるひとつの風景をあるときいっしょに見たという記憶、
 
それ以外には何もない、何も残らない。」
 
           菅啓次郎『狼が連れだって走る月』河出文庫より

  

 

 

「試行錯誤で練り上げる行灯の仕様」
http://tsukiyono.blog.jp/archives/1066760722.html

 

 

こうした野暮な長い能書きを要するようでは広い理解をともなった普段をすることができないので、まずは行灯そのもののデザインで、ただのイルミネーション演出のひとつではないことが伝えられなければなりませんが、なんとか簡潔にこの趣旨が伝わるよう以下のようなポスターを作っています。 

日常に「月夜野百八燈」を置いて、こうした趣旨を伝えてくださる店舗や施設もさらに増やしていきたいと考えています。 

この行灯は、みなかみ〈月〉の会の企画で、みなかみ町まちづくり協議会月夜野支部の支援により製作したものです。

 
 
まだまだ改良点もあり、たくさんの方々に協力もお願いしていかなければなりませんが、こうした、これから先の長い道のりの第一歩が踏み出せたことに心から感謝しております。 
 
 
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源順の『和名類聚抄』と「名胡桃」の地名由来(伝説と史実の交差点)

2017年06月03日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

月夜野の地名由来と風土 その2

  私たちの地元では、源順(みなもとのしたごう)が東国巡業のおりに、この地へ立ち寄り「おお、よき月よのう」といったことが月夜野の地名由来となったという話が伝説として語られていますが、この源順がどのような人物であるかを知る人は意外と少ないようです。

 

以下に源順についての説明をウィキペディアから抜粋しながら補足してみます。

順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間(930年代半ば)に20歳代にして日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した人物として知られています。

漢詩文に優れた才能を見せる一方で和歌に優れ、天暦5年(951年)には和歌所寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した。

それまで万葉仮名と呼ばれる難読漢字表記であった万葉集に、源順らが訓読み表記を施したことで初めて万葉集が広く読み親しめるようになりました。

天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めた。
特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している。

これらの実績から三十六歌仙の一人にも名をつらねています。

しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮紀伝道では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも2年後の天暦7年(953年)で、順が43歳の時のことであった。
大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられる。

天暦10年(956年勘解由判官に任じられると、民部丞東宮蔵人を経て、康保3年(966年従五位下下総権守に叙任される(ただし、遥任

康保4年(967年和泉守に任じられる。
永観元年(983年卒去享年73。

 

つまり、日本初の百科事典ともいえるような『和名類聚抄』を編纂し、また、万葉仮名表記しかなかった万葉集に初めて訓読み表記を施し後の普及の大きな礎を築いたこと。さらには三十六歌仙のひとりであることなども含め、とにかく大変な学者肌の才人であったようです。

それだけに、「おお、よき月よのう」といった月夜野の地名由来が伝説であったとしても、なぜこの源順がこの土地の伝説に関連付けられる人物として選ばれたのか。他の有名人、紀貫之や菅原道眞、あるいは弘法大師でも源義経でもなく、お堅い学者肌の源順が関連付けられたのは、ただ東国巡業のおりに立ち寄ったというだけでは片付けられない背景が何かありそうに思えてなりません。

さらに考えていくと、「竹取物語」の作者である説もあることから、「月夜野」という地名、「月」との関わりにおいても、様々な妄想が湧いてきます。

私のそうした思いの全体像は以前にこのブログで「物語のいでき始めのおや」http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70
と題して書きましたが、今回は順の代表的仕事である『和名類聚抄』に絞って、少し書いてみます。

 古典文献としては、とても重要な文献でありながら、一般に名の知れた書名などに比べたら、それほどこの「和名類聚抄」という本は広く知られているわけではありません。

それでも、ここ月夜野地域では、特に源順の地名由来伝説とつながることなく「和名類聚抄」の名をしばしば目にすることがあります。

 

ここで再び「和名類聚抄」の概要をまたウィキペディアから引いておきます。

和名類聚抄 

名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。

中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学日本語学日本史の世界で重要視されている書物である。

和名類聚抄は「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。

 

こうした百科事典的な性格から、日本各地の地名、風俗などが網羅されている都合、この文献で初めて群馬県の様々な地名も記録に現れています。

群馬県の多くの地名由来の説明もこの「和名類聚抄」から始まります。

下の写真に見られるように、「和名類聚抄」によって初めて利根郡では、4つの地名(沼田、男信、笠科、呉桃)が表記されています。 

 

「沼田」とかの漢字変換が面倒なので、略しますが、この4地名の中に「呉桃」とあるのが現在の名胡桃の地名が最初に文献に記されたものです。

ところが、多くの説明でこの「呉桃」がどうして(なぐるみ)と読めるのかは説明しないまま、引用されていることがあり、当初私はそれは地元贔屓の人による勝手なこじつけなのではないかと、かつて疑ってさえいました。

しかし、この原書を見れば、ちゃんと「奈久留美」との読み表記が小さな字で付けられているのがわかります。

原書では、これだけの表記であるため、利根郡の4地名の一つとして名胡桃があるということは、現在の狭い名胡桃の地域を表す地名が、かつては猿ヶ京や三国峠の方まで含めた地名であったのではないかとの推測も地元贔屓の目からは生まれています。

確かに他の地名、沼田や笠科(片品)などと同等に考えれば自然な類推になりますが、どうも源順が調査採集した地名がこの4つであったということ以外、それぞれの地名エリアに関する情報があるわけではなさそうです。まして、県境はおろか正確な地図そのものがなかった時代のことです。

そうした推測を確定するためにも、「呉桃」(奈久留美)の地名語源を一度たどっておくことは重要です。

 

以下、都丸十九一『続・地名のはなし』から孫引きですが、

尾崎喜左雄博士は『群馬の地名 下』の中(152頁)で次のように述べています。

「なくるみ」に「呉桃」をあてたものであろうか。「呉桃」の「呉」は中国揚子江流域の地方名であり、国名でもあった。わが国の古代ではその地方を「くれ」とよんでいて、「呉」と記している。(中略)「呉桃」は「くれ」の「もも」の意になる。それが「くるみ」であったのだろうか。

尾崎喜左雄『群馬の地名』は、都丸十九一『地名のはなし』とともに、群馬の地名由来の重要文献であるため、その影響力は決して小さいものではありません。

しかし都丸十九一は、これを尾崎博士らしからぬ表現として一蹴しています。

まず、ナクルミに「呉桃」の字をあてたのは和銅六年の「著好字」以来の二字・嘉名の強い行政指導、つまり漢字二文字(中国は一文字に執着)で表現することが日本の場合は適切であるとの指示に従っただけであるとし、「くれ」も「もも」の説明も意味はないとしています。

そもそもクルミは古代に置いて、食料として、また染料として重要な植物で、有用植物が地名になる例は、トチ・クリ・クズ(フジ)・ホドなどとともにきわめて多いとしています。

したがって都丸十九一は、

ナクルミは、胡桃にナを添えてむき出しのえげつなさをソフトなものにしたものと思われる。

と結論づけています。

 

ふたたび「和名類聚抄」にあたってみると、胡桃は以下のように丁寧に記述されています。

あらためて考えてみれば、東日本の縄文文化にとってトチ・クリ・クズ(フジ)は、ひと際重要な役割を担った植物であるだけに、同類のクルミが縄文遺跡の多いこの地で果たしていた役割の多さは十分検討の価値があると思われます。

果たして当時のこの周辺の植生は、どのようなものであったのでしょうか。

また現代の様子から当時の植生の痕跡をたどることは可能なのでしょうか。

毎度のことながら、妄想も含めて、これから気長に調査を続けてみたいと思います。

 

 

 

 

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「月夜野」 地名の由来と風土 ①

2017年05月05日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

以前に「物語のいでき始めのおや」として、源順(みなもとのしたごう)が東国巡業の折にこの地に立ち寄り、その際に「おう、よき月よのう」といったことが伝説として「月夜野」の地名の由来といわれている話について、それが史実でないとしても、なぜ「源順」という三十六歌仙の中でも実力派の歌人がこの地に因縁付けられたのかといったことをまとめてみました。 

「月夜野にかかわる三十六歌仙のふたり 凡河内躬恒と源順」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70 

 

しかし、これはあくまでも伝説としての話であり、地名の由来としては別の理由があるのだということは、一部の人たちの間以外ではほとんど聞くことはありませんでした。

どうやら地元の人たちの間でも「月夜野」の地名由来については、明確な共通認識があるわけでもないようです。

早くこのことも書いておかないと片手落ちになるので、ここで遅ればせながら少し整理してみたいと思います。

  

 

 ◇ たくさんある月の地名 


誰もがあこがれる「月夜野」という地名。

我こそがと自慢したいところですが、日本各地に月にまつわる地名はたくさんあります。

志賀勝さんの『月曼荼羅』(月と太陽の暦制作室 発行)は、月夜野のまちづくりにとっても貴重なネタが満載されているすばらしい本ですが、そのなかの四月二十七日の頁に、全国にある一通りの月の地名が紹介されています。

月輪(京都)、月ヶ瀬(奈良)、三ヶ月(松戸市)、月夜野町(群馬県)、十六夜(島根県)、月見町(富山市、新潟市)、月見(福井市)、月町(新潟市)、月潟村(新潟県)、上秋月(福岡県甘木市)、月丘町(山口県徳山市)、月島(東京都)、月見ヶ丘(宮崎市)、月岡(三条市)、月崎(松前郡)、つきみ野(神奈川県大和市)、月浦(水俣市)、三日月町(兵庫県と佐賀県)、名月(多賀城市)、月出(熊本市)、愛知県・静岡県境に月という村が多数ある。

    (以下略)

 

これらを見比べても「月夜野」という名前は、数ある地名の中でもひと際その言葉の響きには魅力を感じられるものと思います。

 

ところが、これに加え最近、浜松市にある次のような標識を知りました。

「月まで3km?」
新潟市の月町の例もありますが、この道路標識のインパクトは絶大です。
愛知県、静岡県の県境付近には、こうした月という村が多数あるらしいです。 

さすがに「月夜野」も、これには負けを認めざるをえないかもしれません。

 

さらに、群馬の郷土史家の中でも地名学の草分けとして知られる都丸十九一は、県内にズバリ「月夜野」の地名がかなりあることを知り、

吾妻郡東村西部、高山村尻高、沼田市秋塚、沼田市下佐山、沼田市屋形原
の5地域の月夜野。

鬼石町浄法寺の月夜平などを含めて7箇所を確認しています。

残念ながら、これらの地名の多くは小字、小名などに該当する地名で、現在の市販の地図で確認することはできません。

法務局のホームページなどで検索確認してみると、微妙に違う場所が出たりもするので、このことは今後とも調査確認が必要です。

 

それぞれの土地の由来や歴史風土をあらわす小字や小名が、消えることなくなんらかの地図上でもきちんと残されて行くことも切実にもとめられています。

 

 

 ◇ 行政区変遷の歴史  


そもそも、地名とは平成の大合併に限らず、時代によって絶えず変遷を遂げてきているものです。

歴史上の文献で利根郡あたりの地名が最初に登場するのは、先の源順が中心になって編纂されたと言われる『和名類聚抄』のなかです。

そこに利根郡の地名として、沼田、男信、笠科、呉桃の四郷が記されているのが最初といわれ、この「呉桃」の訓が「奈久留美」とあるので、そのエリアがどういった範囲を指しているかはともかく、それが現在の名胡桃であることがわかります。

その後、寛文1661~1673年)年間に、沼田城主、真田伊賀守信澄(のぶずみ)による城下町割条例実施により「沼田」「月夜野」「須川」の3町名を命名したことなど、何度か変遷を経ているようですが、旧村が誕生したのは、古く牧場であったことから付けられたという古馬牧村と、旧呉桃郷と言われた頃の「桃」と、旧小川郷の一村であった頃の月夜野の「野」とを合わせて生まれたという桃野村が合併された明治12年のことです。


  桃野村 (月夜野村、小川村、上津村、下津村、石倉村が合併)

  古馬牧村 (真庭村、政所村、師村、後閑村、下牧村、上牧村、大沼村、奈女沢村が合併)

 

したがって、月夜野町が広域行政区としての歴史があったのは、昭和30年4月に桃野村と古馬牧村が合併してから、2005年平成17年10月にみなかみ町になるまでのわずか50年ほどです。

月夜野の歴史の大半は、いまの大字月夜野に該当する小さいエリアを指していたといえます。

平成の大合併の際、水上、新治、月夜野の3町合併後の町名について、事前の住民アンケートでは「月夜野」が一番の支持を得ていましたが、小さな地域の名前を町の名とする意味では、たしかに歴史的説得力には欠けていたのかもしれません。

ただ、合併そのものが行政の財政上の問題が主な理由で行われたものであり、日本各地で地域の歴史が無視された命名が行われたり、ただ現状の財政力の強い弱いだけに左右された判断になってしまい、本来の「より小さく」こそが自治の基本であることや、お金がないからこそ知恵を出し助け合う方向に逆行したものが多かったことは、ここで地名を語るうえでも強調しておきたいと思います。
 

 

◇ 地名の由来の多くは地形から 


長らく月夜野の地名の由来は、源順の「よき月よのう」の伝説が定着していた歴史がありますが、楠原佑介らにより『地名用語語源辞典』(1983年)が出されると、地名の由来は、自然的地名用語、人文的地名用語、施設起源地名、分割地名用語、伝説起源地名、瑞祥地名、混合型地名、二次的地名などに分類されますが、その多くは地形から生まれていることがあらためて確認され、

「月夜野」の地名は

「谷間ではあるが、河流より一段高い段丘上などに見られる地名」

とし、この月夜野も

「利根川本流と赤谷川がつくる段丘と段丘の間の氾濫原(ノ)中の微高地(ツキ)」

と同書で確定されました。

「つき(高所)」という意味と、「よ(間)」の意味に「の(野)」が合わさった地名で、「高くなった所の間の野」のことです。
「よ」という言葉は、「二つのものの間」のこと。
 

赤城山西麓の利根川沿いにある北橘村の橘も、樹木の名前を当てているのは芳名として字が採用されたもので、利根川に侵食された断崖が「端(ハナ)を絶つ」地形であることからきている呼び名であるのと同じように、利根川本流に赤谷川が合流する場所に大峰山から見城山を経た山脈がつきるところであり、河岸段丘の上のまさにその突き出た場に月夜野神社があることも頷けるものです。

 

 

◇◇◇◇ 「突き出た地形」が地名となる真意 ◇◇◇◇

このように「突き出た地形」こそが「月夜野」の語源であるわけですが、ここに月夜野神社が祀られたことを含めると、もう少し深い意味があります。

古くからある神社の場所をたどると、その多くが水辺、川や沼や湖、あるいは海に接する場所が多いことに気づきます。といっても、それは長い歴史を遡ることなので現在の多くは地形も変わっており、直ちにはそのような意味を今の地形から想像することはできません。しかし、古社が多く鎮座する奈良や京都の盆地地形、名古屋や江戸のデルタ地帯のいにしえの地形を見ると、そこは大半が水面に覆われた場所であり、そこにわずかに突き出た山や半島型の場所が人間の暮らしにとって特別な場所であったことがわかります。

事実、大和三山の三輪山にある大神神社をはじめ古社は、かつて奈良盆地全域がデルタ地帯であった時代に、水面に突き出た山でした。京都の伏見稲荷や石清水八幡、名古屋の熱田神宮、江戸の増上寺、寛永寺のあった場所などどれもデルタ地帯の水面から突き出た場所にあります。これは何もそうした有名な古社ばかりでなく、都内のちょっとした社の多くが縦横に走る川に突き出た場所に鎮座していることを中沢新一(『アースダイバー』講談社)が立証しています。

だからといって月夜野の地は川や海の水面とは何の関係もないではないかと思われるかもしれませんが、ここで有名な河岸段丘の地形から、かつて利根川、さらには古沼田湖の水面がこの河岸段丘の高さまであったことがわかります。それは今から15万年ほど昔のことになりますが、赤城山が噴火を繰り返し、溶岩が子持山麓の綾戸の岸壁と接着し、利根、片品の緒川を堰き止め広大な湖を形成しており、その時代の水面が月夜野神社の位置にある河岸段丘の高さにあったわけです。

つまり、この月夜野も多くの古社がそうであったように、ただの突き出た地形ではなく「水面に突き出た」特別な場所であるわけです。まさにこの点にこそ、月夜野神社が様々な神社の一つではなく、奈良の大神神社と同じような格別な古社としてのいわれのある社であると推測される由縁なのです。

 

 

◇ さらに大事なこと 


通常は、こうした説明が研究者からされてきたのですが、私たちにとってさらに注意を引くのは、そうした地形的な特徴から「月夜野」の地名が生まれているとしても、それに月・夜・野という漢字を当ててくれた先人のセンスの良さです。

地形の解釈そのままであれば、「突代野」にもなりかねないはずです。

日本各地に数多く存在する月の地名からは、むかしの人びとが現代人の想像をはるかに超えた月へのこだわりがあったことがうかがえます。

私たちは、県内外にある月夜野の土地が、本当にそうした突き出た台地状の地形になっているのかもあらためて確認しなければなりませんが、どうも私たちの住む月夜野ほど他所ではそうした地形を明確に確認することはできていません。

でも、この月夜野の地形こそ、月を見るにはふさわしい地形をもていることにも驚かされます。

 

 

 

詩人の谷川雁が、

「地名とは地霊の名刺ですからね」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/3b9491ec988adbabcc32002d15347be3 

 といっていますが、まだまだ地霊の言葉を私たちが読み解くのは容易なことではありません。
 
 
地域にとって最大の資産である「月夜野」という地名を、ただ行政区分上の呼び名としてだけではなく歴史と風土を反映したものとして、いかに大切に守りそだてていくかということこそが、この土地で暮らす私たちの使命であると考えます。
 

 

  都丸十九一『地名のはなし』『続・地名のはなし』煥乎堂

 

 

 

 

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物語のいでき始めのおや 〜私たちの「ものがたり」の育て方 〜  

2017年03月11日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

私たちは「月夜野百景」https://www.tsukiyono100.com などの活動で、地域固有の「ものがたり」が生まれ育つ環境づくりを目指していますが、ここでいう「物語」には、3つの顔があります。

第一の顔は、文字通り漢字で表記された「物語」です。
これは通常の「ドラマ」「文学作品」「情景描写」などに描かれた世界です。

私たちは、月夜野で生まれ育った物語がどのようなものなのか、この地に眠る物語の発掘や、月夜野という地名、土地柄が導き出してきた過去の「物語」の蒐集などから初めてみました。 

月夜野に関わる三十六歌仙の二人 〜凡河内躬恒と源順〜
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70

そしてこの土地に関連付けられる歴史上の文学以外にも、広く短歌・俳句から始まり、川柳はもとより江戸端歌、童謡など様々なところに残っている名文を蒐集し始めています。 

「月夜のものがたり」
 http://tsukiyono.blog.jp/archives/cat_1151346.html

ところがこうした物語が現代では、知識や教養にはなっても、それだけでは現代の自分たちの暮らしの中に何かストンと落ちない場合が多いと感じられ、それは当初から予想したことではありながらも、決して後回しにはできない課題であると思い始めました。

その原因の一つは、現代人は「世間」の物語は語れても「自分」の物語を語ることがとても苦手なひとが多いということです。

このことは、以下のような例に見られますが、これ決して特殊な人物像ではなく、現代人の姿を深く投影しています。

「いい物をじっくり選んで買う。そこに個性が出ると思うんですよ。他人が同じ物を持っていても気にしませんよ。そりゃ、中には流行で買うやつもいるかもしれませんけど、僕の場合、自分のポリシーがありますからね。まあ、安月給なわけで・・・・。そうですよ、僕たち働いた分の半分ももらってない感じですからね。自分を殺して殺して安月給。なさけないですよ、っていうのはマア冗談で、本当は全然気にしてませんけど。とにかく、安月給叩いてけっこう高いやつ買うんだから、ポリシーなくっちゃ駄目なんです。」

       大平健『豊かさの精神病理』岩波新書

つまり、モノを選ぶポリシーの中にこそ、自らのアイデンティティーがあるのだと。

それは、モノを通じてしか自己を語り表現をすることができなくなってしまった人間像です。

 

ポリシーのあるなしは、言われてみればよく聞く言葉です。

でも、これら多くの「ポリシー」も、「モノ」の選択・購入の範囲内でしか語られていません。

一見若者にこうしたことが顕著に見られるようにも思えますが、年配の人たちの中にも、自分を語れないこの若者と同じ人たちは少なからずいます。

それは、学歴、肩書き、人事や資格、あるいは所得の大小などばかりにこだわる人たちです。

 

またこんな例もありました。
地域の歴史の掘り起こし作業で、戦争体験の聞き書きをしていた時に、意外と戦地の全体の話は語ってもらえても、肝心なそのひと個人の体験部分は、なかなか語ってもらえなかったのです。
確かにとてもツライ体験、人には話せないような体験をしているからこそとも思えますが、まさにその部分こそが、で、その背負ってる苦悩の姿も、子や孫たちにどう伝えるのか、あるいはどうしても伝えられないのか、生きた証人の一番大事な部分なのですが、この人たちも、また自分を語れない人びとです。

 

さらに、次のような視点も〈モノ〉がたりに含まれます。

私たちのまちには、これといった基幹産業や目立った観光資源もないからといって、環境破壊リスクの高いおまけ付録のつく企業誘致に依存したり、一発ヒット狙いで、大河ドラマブームにあやかったり、世界遺産登録などの看板頼みにしたがる発想です。
どれも必ずしも全てが悪いことではありませんが、自分たち自身で地域に根付いた豊かな財産を守り育てあげる手間を抜きに、よそから安易に何かを取り込んだり、買ってきたモノだけでの一発逆転に頼る世界です。

確かに各分野で活躍されているプロや有名人の力、権威づけがされる既存のシステムに頼るのも、決して間違ったこととは言えません。
しかし、そこにはどうしても自分たちの「ものがたり」を生み育てる努力を省略してしまっている部分があることを否めません。 

これらも含めた人たちが、現代的な第二のタイプ〈モノ〉がたりの世界を担っています。

世界中が消費社会にどっぷりと浸かってしまった現代で、日常のこうした感覚からの脱却の意味を伝えることは、かなり難しく感じられるものです。

 

 

したがって、現代の圧倒的部分を占めるこうした〈モノがたりの世界から脱するには、文学的能力云々ではなく、私たちの暮らし方働き方から見つめ直していかなければなりません。

そして、そうした自らの物語を発見し創造する世界として第三の物語、ひらがなで表記した生(ナマ)の〈ものがたりを発見し、創造していかなければなりません。 

もちろん、このナマの〈ものがたりは、日々の暮らしの中で生まれる個人的体験や地域固有のものであるだけに、そのままでは必ずしも優れた〈物語〉として文学や商品になるわけではありません。

でも、その「ナマ」であることは、必ずしも「未熟」ということにはなりません。
以前このブログで 
  「うた」や「ものがたり」が「文学」になってしまう時
   http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/b63314289855bd8c7d545558fbfd9a38 

作品になったものよりも、暮らしの中で生きた作業歌、労働歌として歌われているもの、母と子どもの関係のような絶対的信頼関係のもとで語られる「読み聞かせ」などのほうが、むしろ実態としては価値が高い場合すらあるということを書きました。

 だからこそ、ここからが大事なのですが、プロのデザイナーやコピーライターにお任せしてかっこいい文句を考えてもらうのではなく、さらには、識者会議などで簡単なアンケートだけを頼りにその場でひねり出すものでもなく、住民の間で日常的に語られる環境の中から、時間をかけて積み重ねて生れ出るようなものにしなければならないはずです。

 

 以下に、いま私たちが提案していることで直面している問題をひとつ紹介させていただきます。

 こうした「ここはカミの依り代 住むひと、来るひと、みなカミの里」といったキャッチコピーも、私たちが勝手に始めると、すぐに地域を代表するような表現を勝手に決めて使用することへの危惧がどこかの関係スジから言われたりします。

また、きちんとした手順を踏まないと「良い」モノでも後で使えなくなることがあるとも警告されたりもします。

それは確かにそうした場合があると私も思います。

 確かに「公」=「行政」のお墨付きを得たモノでないと、地域で公認されることは難しい場合があります。

ところが、その肝心な「公」が、どれだけ住民に開かれ根付いたプロセスでものごとが決定されるかというと、どちらかというと「深く根付く」ことよりも「お墨付き」であるための手続きの方が重要である場合がほとんどです。

私たちが「地域づくり」として考えるのは、結果として「お墨付き」がつく分には良いことですが、地域の人びとの暮らしの中でより広く、より深く根付く環境づくりに軸足を置いてるので、たくさんの切り込み口で地域に眠っている「ものがたり」 から発掘、蒐集し、表現し、伝えていく運動を、時間をかけて行うことこそを大切にしたいと考えています。

 この私たちが大切にしているナマの〈ものがたりは、公認、非公認を問わず、時間をかけて積み重ねることにこそ意義のあるものです。

 決してアンケート結果の多数決で決めたり、数十人が参加する会議の場で決定されるような〈モノ〉がたりではありません 。

 

 

三峯神社縁起 資料 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/53249d31a77f10dfb4dd13ac417b519b

 

こうした運動が小さな活動として始まることに「物語のいでき始めのおや」としての意味があるのです。

実は源氏物語に出てくる「物語のいでき始めのおや」という「竹取物語」を表したと言われるこの表現自体も、こうしたことの大事なヒントなのですが、本当の「ものがたりのいでき始めのおや」はどこから生まれ、育つのか。

この問いかけこそが私たちの運動の中心課題なので、これから大事に時間をかけてみなさんとともに育てていきたいと思います。

 

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みなかみ「ヤマブキ」植栽考

2016年05月05日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

 ヤマブキは、みなかみ町の花です。

 地域では山吹の植栽を活発にすすめています。

 ところが、もともとは自然に自生している植物なので、それが良い花だからといって花壇のように植えてしまっては、どうも風情がありません。

 多くの人びとのボランティアでささえられたそうした活動はまぎれもなく大切なことですが、こうした植物の植生を考えると、みなかみ町や月夜野地域などの田舎では、都会の花壇づくりとは異なる本来の自然を活かした景観づくりをもう少し考えたいものです。

 

 

 確かに、花を積極的に増やし、オフシーズンのスキー場や休耕田の活用法などとして、一面のユリやスイセン、サクラソウなどが広がった光景もすばらしいもので、多くの人がそこを訪れて感動を与えています。

 でも私たちの土地では、暮らしの景観を取り戻すことを第一に考えると、そうした方向とはやや違う、本来の自然空間といったものをもう少し大切にしたいと思います。

 ずっとそんなことを考えていながらも、現実にそうでない在り方はなかなか提案出来ませんでした。

 身の回りに花が増えることや、それらの多くがボランティアによって植栽作業が行われていること自体は否定しているわけではないので、そう簡単に横から口をはさめるものではありません。 

 それでも、地域の人たちがまちの花として少しでもヤマブキを意識するようになっただけで、日ごろは気づかなかった場所に、たくさん咲いていることにも気づいたり、周囲の環境をみる目や季節を感じる気持ちがだいぶ変わったりもしてきているメリットはあります。

  

月夜野とは縁の深い源順(みなもとのしたごう)も山吹の歌を詠んでいます。
 

    春ふかみ井手の川波たちかへり 見てこそゆかめ山吹の花

 

 


 それがこのたび、まちづくり協議会の仲間と一緒に地域を歩いてみる機会があり、実際に咲いているヤマブキの実体を見ることで、どのような環境が美しいのか、実際にどれほどの花が咲いているのかなどを知ることができて、ようやくこれから求められる共通の課題を語り合う土壌を少しつくれたような気がします。

 

 ひとつの花の美しさは、背景の豊かな自然の景観があってこそ、その輝きを増すものです。

 ブロック塀の前よりも、板壁の前に咲く花こそ、落ち着いた魅力を感じるものです。

 

これらの気づきから私たちは、

 まず第一には、花が増えることに異論はありませんが、至るところにただヤマブキをたくさん植えれば良いとは限らないことを再確認できました。

 

 第二には、新たに植えなくても地域にはとてもたくさんのヤマブキがすでに咲いていることに気づくことが出来ました。

 

 

黒川温泉のドン後藤哲也の「再生」の法則
クリエーター情報なし
朝日新聞社

有名な湯布院のとなりで、かつて伸び悩んでいた黒川温泉は、従来の花壇のような植栽を全てブルドーザーで取り潰し、昔からそこにあったような自然の空間を取りもどすことで、最も予約の取りにくい温泉地にしたこの本の話しは、未だにわたしのバイブルです。

 

 

 地域にすでにあるヤマブキが、意識されて見られるようになっているかどうかは、花をたくさん植えて増やすことだけでなく、

①、今咲いている花々の周辺の環境が下草刈りなどがゆきとどいて整備されているかどうか

②、限られたヤマブキが咲く季節、その時期を「見る側」が意識しているかどうか

といったことが、とても大事であると思います。

 

 本来、①のことは、林業や農業が地域に息づいていることで、必然的にささえられていました。それが第一次産業の衰退とともに、行政や地域の人びとのボランティアの手をかけないと維持しにくい環境が広まってしまったともいえます。

 「美しい景観は、第一次産業がつくる」

 こんなようなことを四国のデザイナー、梅原真が言っていましたが、これからこの点はとても大事な視点になると思います。

 農業や林業を復活させることなく、その地域に第一次産業で働く人びとがいなくなると、どんどん自然環境や景観維持に必用な行政コストばかりが上がってしまう傾向にあります。

 このたび見てまわった場所でも、ヤマブキの花が最も映えるのは、下草刈りの行き届いた杉林のある斜面でした。

 草花が華々しく咲き乱れる公園を整備するよりも、私たちの身近な農林業とともに整備され生まれる植生こそが、本来の自然の美しい景観を約束してくれるものと思います。

 

 

 

 

 そして、新たに植えなくても、とても多くのヤマブキがすでに自生していることに気づきましたが、今までそのことに気づけなかったとは、どういうことでしょうか。

 まさにこのことこそが、私たちが「月夜野百景」の活動を通じて地域に浸透させていきたい視点です。

 

 日本が世界に誇れる月の文化があるといっても、それは月に対する自然科学的知識が豊富であるということではありません。日本の月の姿が、世界のほかの土地で見る月と比べて何か物理的な特徴に優れた点があるわけでもありません。

 すべて、月や草花の客観的な姿に左右されているのではなく、その実体は、私たち一人ひとりのこころの側にあります。

 自分が楽しいときに見るのか、

 それとも、悲しいときに見ているのか。

 こちらの心の状態によって、同じ月を見ても、花をみてもまったく違う姿に見えます。

 地域に咲く草花や月の姿が、そこに暮らす人びとのに意識されるかどうか、

 それは、わたしたちのこころの有り様にこそかかっているのだということを、「月夜野百景」などの活動を通じてなんとか示していきたいと思うのです。

 日本の伝統文化は、まさにそうしたこちら側の心の姿をとても豊かに表現しています。

 

 

 暮らしの景観づくりというのは、まさにこうしたことを伴ってこその活動であることを立証していきたいと考え「こころの月百景」の活動などをはじめています。

 でも、心の問題は、まさにひとりひとりの心の内の問題であるだけに、運動として考えるとそれは一歩間違えば「余計なおせっかい」にもなりかねません。 

 かといって個人の心に届かない「客観的」な運動は、さらに心に響かないことも確かです。

 まさに、こうした領域こそ、日本人の先人たちの豊かな遺産があるので、簡単なことではありませんがようやく本題にたどりつけた感があります。

 

 こうした視点がないばかりに、ある町では、アジサイの剪定を安易に外注業者に任せてしまい、花が咲かなくなってしまいました。

 また、地域の人が大切にしているリンドウやダイコンノハナなど咲く前の花を下草刈とともにみな刈り取ってしまったりもします。

 

 

 

どこかから苗を買って来て、許可された公共の場に花を植えるだけの活動ではなく、

また、予算があるかどうか、人手があるかどうかの問題ではなく、

 

どこにその植物が埋もれているのか、

それはどのような環境に育っているのか、

どのような時期や期間に花を咲かせるのか

長い歴史上どのように愛されてきたのか、

どんな実を実らせたいのか 

 

そんなことを大切にする活動がようやく語れるようになった気がします。

そしてそれらの活動が真にいきるのは、ボランティアや行政補助によるものも大事ですが、

何よりも第一次産業である地元の農業、林業の基盤が持続していることです。

 

  

 

 

 

ひとつの草花そのものも自然であることに違いありませんが、

ひとつひとつの命の連鎖のなかにある多様性あふれる自然こそ

私たちは大切にしていきたいものです。

 

 

川原湯地区・上湯原の八ッ場ダム水没予定地に咲くヤマブキソウ。
 


どこの「いのち」もかけがえのない存在であることに気づかされると

すでにあるこの自然こそを大切に守っていきたいと思わずには入られません。


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こころの月百景をかたちにした「月夜野百八燈」

2016年04月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.com のホームページではじめたことを、

これから「月の百景」

「野の百景」

「こころの百景」

などの要素に分けて具体的なかたちにしていく予定です。

 

 

なかでも「こころの百景」は、

まず「こころの月百景」として、古今の名歌・名句のなかから、わかりやすく月夜野にとっても大事なものの百選を選び出す作業をはじめています。

月に関する歌は、万葉集だけでも二百首ちかくあります。

それに古今集、新古今集、西行、道元、良寛など、

俳句では芭蕉にはじまり一茶から山頭火まで多岐にわたるので、

「百選」に絞り込むのは、なかなか大変ですが、それはとても楽しい作業でもあります。

 

そして選んだ作品を、どのように伝えて私たちの財産として浸透させるかということでは、

ホームページやBlogで季節ごとに、テーマごとに、作者ごとに、何度も練り込んでいくことはもとより、リアルのかたちにしていくこともとても大事です。

それでまず、行灯をつくってみました。

 

 

これは試作第1号で、室内専用のため、少し字が小さめになっています。

これだと屋外では、せっかくの歌が読みづらくなってしまいます。

それで、もう少し字を大きくしてみたのが、次の試作第2号。

草書の文字を縦長の枠内に配置するため、行数を増やしたとしてもなかなかこれ以上大きくはしにくいものです。

 

 

今度は、材料の歩留まりも考慮したかたちにしましたが、

どうも効率を優先してしまうと、ちょっと品がなくなる気がします。

そんな検討を重ねていたところに、お仕事でお世話になっている社長さんから「百人一首」の絵札を飾る提案をいただき、それを行灯のヒントにさせていただいたのが、裏側(オモテでもいい)のデザイン。

 

 

 

おかげさまで、だいたいの製作イメージはできました。

これを100個つくります。

古今の名歌・名句百で「こころの月百景」の行灯。

さらに、地元の人たちの月の名歌、名句の年度ごとのベスト8を選び、

「月夜野百八燈」とします。

月見の場所で、

ホタル祭りなどの道すじに

キャンドルナイトなどに付加する明かりとして、

新盆の「百八灯」の代わりとして、

花見の場所で提灯に代わるものとして、

活用を広げていけたらと考えています。

 

  

 

 ただ昼のように明るくするばかりの異常な発想が常態化してしまった日本で、本来の夜の空間を取り戻し、創造的な時間を過ごせるようにしていく強力なツールとしていけたら幸いです。

 

 

 

 きっと、このような夜を取りもどすことによってこそ、現代人の交感神経と副交感神経のバランスを取り戻し、健康な生活がおくれるようにもなるのではないでしょうか。 

 

 

 

これを見せると、もう少し明るくすることはできないのかなどと言われますが、 蛍光灯などが普及する前の時代の明かりなど想像つかない時代になってしまったので、無理もありません。

考えてみれば「灯火(ともしび)」などという言葉は、もうすでに「死語」になってしまっているのかもしれませんね。

 

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きっと今ごろお月さんは、満月の準備で大忙し

2015年09月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

明後日の中秋の名月を前に、雨空の日がつづいています。

月夜野の「指月会」をはじめ観月イベントを予定している人たちは、みなやきもきしていることと思います。

今日も夜空を見上げても雨が降り続く真っ暗な空。

でも、その厚い雲の向こうでは、お月様が1年で最も注目される日にそなえて、

大忙しで身支度などの準備におわれています。

 

まず、十五夜の日にぴったりと「まん丸」なカタチになるように、

お月さんは、ウエスト周りや体重を計りながら、好物の目玉焼きを食べて

一生懸命、太る努力をしなければなりません。

 

その日は、ウエストが太すぎてもだめ、

細すぎてもダメ。

 

日本中(世界中?)から一斉に見られるので、

お肌がざらついたりクスんでいてもダメ。

ピカピカに磨きあげておかなければなりません。

 

 

 

さらに大変なのは、この満月の日がすぎたら、

また一日も休むことなく

今度はダイエットの日々が待ってます。

 

 

家内が教えてくれた絵本、とりごえ まり『月のみはりばん』(偕成社)という絵本は、

こんなようなことが描かれています。

おすすめですよ。

月のみはりばん
とりごえ まり
偕成社
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そこはカミの依代。来る人、住む人、みなカミの里

2015年09月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 先日、東京から来た皆さんに月夜野の月見スポットや矢瀬遺跡、神社などを案内しました。

 その際立ち寄った月夜野神社で本殿の見事な彫刻をみたある人から、ご神体はどこにあるのですかと聞かれました。

 月夜野神社は、21社19祭神もが合祀されている神社です。

 全国どこの神社でも、その時々で人気のある神を合祀したり、江戸時代の一国一城令のように一村一社令がだされて近隣の神社がまとめられたり(南方熊楠が批判しましたが)、神社も長い歴史を生き延びるにはいろいろなことがあったわけですが、どうであれその歴史はきちんと伝えられるべきです。

 月夜野神社の場合、それがどのようなかたちで祀られているのでしょうか。

 「本殿のあの中にまとめられているんでしょうか」などと話していましたが、そもそも神社のほとんどは神様への拝殿場所です。

 実態がどのようになっているのか、私は案内する側でありながら残念ながらきちんと説明することは出来ませんでした。

 ご神体として鏡や神像が祀られていることは確かにありますが、本来、神様は目には見えないもののはずです。

 実際、神社の多くは、その神社の背後にある山や岩などをご神体として崇めるための場所で、建物に対して拝むわけではありません。

 鏡を御神体として祀られている神社も確かに多いようですが、鏡を御神体に祀るようになったのは明治維新以降の場合がほとんどです。

 もちろん、全国にあまた存在する神社の実態はさまざまなので、神社の中にご神体が祀られているところもたくさんあります。

 でも、そもそも目には見えない神様が降り立ったり、とりつく依代(よりしろ)こそが神社のうまれた場所です。

 

 神々の依代(よりしろ)=屋代(やしろ)=社(やしろ)というわけです。

 本来の神社、神道の御神体は、突き詰めれば

   神奈備(かむなび)=山、

   神籬(ひもろぎ)=森、

   磐座(いわくら)=岩、

   靈(ひ)=光

 の4種です。

 

 私たちは、日本の長い信仰の歴史のなかでも、あまりにも明治維新以降の特殊な姿にとらわれているように見えてなりません。

 

 その後、村主神社にある見事なケヤキの木が御神木でること、欅(ケヤキ)=槻(ツキ)=月のことや、埼玉から群馬につながる渡来人文化のことで話しが大いに盛り上がりましたが、拝殿から感じるカミではなく、木々や岩や山によりつく「依り代」こそがカミのいるところであるイメージが大きく膨らんできました。

 かねてからあたためている村主神社の神楽の写真を使った、みなカミの里を表現したポスターイメージがありますが、カミの依代という視点で思いついたイメージをなんとか磨いてみたいと思います。

 

 

 

 

 

広大な平野をうるおす水源地、

みなかみ。

そこはカミの依代(よりしろ)となるところです。

列島を分かち隔てる谷川連峰の頂き

そこはカミの依り代

小鳥や生き物たちを呼び寄せる木々

そこはカミの依り代

蝶や虫たちを呼び寄せる草花

そこはカミの依り代

大地の恵みで人びとが暮らす山里

そこもカミの依り代

それら豊かな自然を求めて人びとが集まる里

そこはカミの依り代

 

だからそこは

ここに来るひと、住むひと

「みなカミの里」

 

 

今では、この「来る人」というと観光客ばかりがイメージされ、観光協会のためのキャッチコピーのように思われがちですが、 かつての時代の「来る人」とは、必ずしも現代の観光客のイメージではありませんでした。

まずそれは「マレびと」であり、
「ほかいびと」「うかれびと」など神事芸人や勧進僧といった神仏の代理人たちでした。

そのほかに訪れる瞽女などの旅芸人や商人たち(薬売り、道具売り・・・)
渡り歩く職人たち(木地師、マタギ・・・)や出稼ぎ労働者など
それら誰もが、貴重な情報の伝達者でもありました。

そうした「来る人」の拠りどころとしての「里」「宿」「村」として大切な場所でもあったわけです。

 

 

神様がどうのこうのということより、カミの依代という視点からみると、

大自然の気の集まるところ、

人の意識の集まるところ

人間の集まるところこそが、

神様にとっても、人間にとっても大事な場所であり、

そうした気の流れを取り戻したり、つくったりすることこそがすべての基本なんだということなのでしょうね。

 

 

カタチはなく目には見えないけれども、あきらかになんらかの「力」のあるもの、それは「風」、あるいは風とともにやってくる匂いや香り、または「ことば」や人の「こころ」あるいは、それらの間をゆきかう「情報」と言えるかもしれません。

それらは必ず「熱」とともに動くものです。

 

カタチのあるものばかりつくる活動ではなく、目には見えないものの流れを大切にする活動。

カミのあるところにそれが集まるのか、それらの流れのあるところにカミが依りつくのか、どちらが先かはわかりませんが、まさに「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.comは、そのようなことを目指した活動です。

2017年3月に月夜野神社の紹介を通じて「神さまってどこにいるの?」と題した三つ折りリーフを作成しました。

 

これからどのようにしたらそれが伝えられるのか、取り戻していけるのか、あるいは、つくっていけるのか、じっくりと考えていきたいと思います。

 

 

 

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月夜野にかかわる三十六歌仙のふたり ~凡河内躬恒と源順~

2015年08月28日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

以前にこのブログに資料として、三峰神社縁起を載せたことがあります。

そこで、三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)がどのような縁で、三峰山の河内神社に関連づくことになったのかが書かれています。

それをみたときは、河内神社と凡河内の名前のこじつけ話とばかり思っていたのですが、月夜野という土地のご縁からみると、これは必ずしもただのこじつけ話とは言いがたい、なかなか良く出来た話であるようにも思えてきます。

 

凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)

まず第一には、凡河内躬恒が村上帝の歌を書き損じた罪でこの地へ流されたことです。

当初は遠い都からこんなところに来るなど、増してやこの無名の地がわざわざ選ばれることなどまずありえないと考えていましたが、中世の都では、実に多くの都人(天皇から貴族・役人)たちが、なんだかんだの理由をつけられては日本中の僻地にとばされていました。

それは実際の戦闘や勢力争いに破れた者に限らず、天皇や権限のあるものからあらぬ疑いをかけられた者や、台頭する新勢力である武士ににらまれたもの、あるいは実際に不祥事などの罪を犯したものなど、武士の切腹が定着する前の時代であったこともあり、ことある毎に多くの都人が遠島や僻地へとばされていたのです。

考えてみると、投獄や刑死などより最も一般的な刑の姿が流罪であったのかもしれません。

とすると、凡河内躬恒がこの月夜野の三峰山麓に幽閉された話など、たとえそれが史実としては疑わしいとしても決して突飛な話しではなく、上毛野国の地理的な都とのつながりからしても十分ありうることであったと思われます。

 

第二には、その凡河内躬恒という歌人そのものが、紀貫之などとともに古今和歌集選者の中心的存在であり、古今集には58首もはいる三十六歌仙のなかでも特別な存在であることです。それだけに月をみごとに詠み語れる歌人でもあったということです。

凡河内躬恒の逸話として『大和物語』一三二段に、醍醐天皇から「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で

    「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり」
 照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)

と応じた話があります。

まるで「月夜野百景」の一場面そのものです。

雪月花、花鳥風月をうたう優れた歌人なら「月」ネタに欠くことはありません。

多くの歌人が月を題材にしていますが、まさに月夜野の地に選ばれるにふさわしい歌人が凡河内躬恒であるように思えてなりません。

 

  月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける (古今40)

  五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ (玉葉1397)

  見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく (玉葉2158)

 

 

 

ちなみに『百人一首』にのる凡河内躬恒の歌は、

    29 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 

 

 

源順(みなもとのしたごう) 

第三に、月夜野という地名のいわれです。

地元では、都から来たえらいお坊さんが、この地を通りかかったときに空を見上げて

「おぉ~、いい月よのぉ~」と言ったことが「月夜野」という地名のはじまりだとも言われてますが、

文献に記述されたものでは、偉い坊さんではなくて、
これも三十六歌仙のひとり源順(みなもとのしたごう)が東国巡業の折(平安時代、天暦10(956)年の仲秋の夜とも言われてます)に、三峰山からのぼる月をみて「おぉ~、いい月よのぉ~」と深く感銘して歌を詠んだといわれます。

ところが、そもそも源順が東国巡業をしたという記録自体、どこにもみあたりません。にもかかわらず、そんな話しが生まれるのももっともな背景が、源順の経歴のなかにはあります。

* 「順」と書いて(したごう)と読むことに馴れるには、はじめは誰もが時間のかかることと思います。

 

 

そこで詠んだ歌がどの歌であったのかはわかりませんが、
源順の詠んだ月の歌として、

    水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける(拾遺171)

    

これまたこの地にもぴったりの歌ともいえます。

 

この源順なる人は、大変な才人として知られていたらしく、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められているそうです。

源順がかかわった功績のには次のようなものもあります。

まず第一にあげられるのは、日本初の百科事典ともいえる『倭名類聚鈔』の編纂をしたことです。
他の記事で触れることになると思いますが、群馬県利根郡の地名が初めて文献上で明記されたのがこの 『倭名類聚鈔』です。

それと、それまですべて漢字で書かれていたために一般の人は縁がなかった『万葉集』を、村上天皇が源順以下5人の学者に読み解きを命じたことです。順たちはおよそ20年の歳月をかけて万葉集の大部分に訓をほどこしました。こうして万葉集はようやく日の目を見、一般に流布するようになりました。

また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、なんと『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられるほどの人物です。

もしも、源順がほんとうに『竹取物語』の作者だとしたら、藤原氏批判を含んだといわれるこの竹取物語の作者が、一層、アマテラス=太陽偏重の藤原氏に対する「反藤原コード」としての「月」を重視していたこともありうるのではないかと思われてなりません。

『万葉集』の編纂中心人物である大伴家持や橘諸兄が、藤原氏の独裁下で苦労したがゆえに、万葉集全体を貫いて月を多く採取しているのも、同様の時代背景になっていると考えられないこともありません。

したがって、ここで月の歌人たちを月夜野で引き立てることは、この国のかたち根幹を問い返す意味もあるのではないかとさえ言えます。

 

関連ページ「源順と『和名類聚抄』と名胡桃の地名由来」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bb41ba4491cc1079dfff1b08defb80e3

 

史実の真偽はなんともわかりませんが、

三十六歌仙のうち二人もが、この地を特定した縁を結んでおり、
しかもそれが月にまつわる歌で深くつながっているということです。

もしも史実でないのなら、引き出される歌人は小野小町でも紀貫之でも誰でもよかったはずです。 

たとえそれが、つくられた説話であったとしても、なぜ源順がこんな月夜野の地まで来る理由があったのかと疑えば、尊敬する凡河内躬恒を慕い、幽閉されていたとされるこの月夜野を訪ねてきたのではないかというストーリーも、聖徳太子や弘法大師、あるいは義経や木曾義仲伝説以上に、現実味おある物語となりうるのではないでしょうか。

 

 

こうしたことから三峰神社縁起などを通じて想像されるイメージは、まさにお能の世界です。

もしその物語を語るとしたら・・・

 

 

まず源順がワキとして登場。

源順が晩年になってから、大歌人として一世代先輩にあたる凡河内躬恒を偲んで、幽閉されていた地を探し遥々東国まで訪ねてくる。

ある地で山にかかる美しい月をみて思わず歌を詠んでいると

その歌につられてシテ、凡河内躬恒の妻である花萩が登場。

そこで、花萩(シテ)が躬恒を慕ってこの地まで来たが、とうとう会うことかなわなかったわが身の上を語る。

 

ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思ふのみぞ。

逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。

ひと目なりとも見ましきものを・・・

 

  いかにせん哀しくばかり身をも浮く

      ささかに見ゆる吾夫を慕へば

 

花萩に対して躬恒も今生の別れと歌を返した

 

    秋霧の晴るる時なき心には

      立ち居のそらも思ほえなくに

 

    世を捨てて山に入る人山にても

       憂きときはいづちゆくらむ

 

花萩(シテ)は、傷心の身を引きずりながら近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずにここで果てたわが身の上を語ると姿を消す。

 

目の前に現れた花萩が夢かうつつかわからぬまま源順は、しばし記憶をたどりその場にたたずむ。

するとそこに小さな祠があることに気づく。

この場所こそが、躬恒と花萩が果てた地であることを知り源順は、花萩が果たせなかった二十一夜の祈りを遂げて二人をともに供養する。

そこで歌をのこして去りゆく。

 

  三峰の麓(ふもと)の庵(いほ)は知らねども

        語りし継げばいにしへ思ほゆ

      「み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ」 (万葉集 巻三―313)

  

 

 ・・・といった感じでしょうか。

 

 三峰神社の舞台
ここでいつか上演できたら素敵ですね。
もちろん、ここは歌舞伎や浄瑠璃用の横長舞台で、橋懸りがあったりする
方形のお能の舞台ではありませんが、

それでも、いつかこの地の物語をここで上演できたら素晴らしいことと思います。

名胡桃城址での上演でも素敵ですね。 

 

 

 だからといって、必ずしもこの地で特別にお能や和歌が盛んになったなどという特別な歴史があるわけでもありませんが、一定の時代に於いては、現代では想像もつかないくらい庶民の間で、歌舞伎や浄瑠璃が普及定着していたように、歌の世界も浸透していたのは事実であると思います。。 

月を愛でて鑑賞するのに、これほど恵まれた歴史物語が背景にある土地が、そうどこにでもあるものではないということだけは十分頷けるのではないでしょうか。

 

 

 

よく誤解される伝説としての月夜野の地名由来とは区別した、史実としての由来はどうなのかということについては、以下のページにまとめてみました。

「月夜野」地名の由来と風土①
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/0ddc774c9db1c7f615a94740117f851b

 

 

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「百人一首」 風景と心をつなぐ「月八景」

2015年07月25日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

先日、渋川市で地域の古典文学の学習会を指導されている狩野さんとお話をしていた際、次の学習課題が百人一首であると聞きました。

「百人一首」といえば、私にとってはもう30年以上昔に出会った、林直道『百人一首の秘密』(青木書店)の衝撃が忘れられません。その感動の思い出を狩野さんに話したら、この本のことご存知ではありませんでした。経済学者が書いた本ということもあり、未だに古典文学研究の世界では、この衝撃的な発見のことは認知されていないようです。

 

本書の概要は、検索したら下記のサイトに完結にまとめられていたので、以下に転載させていただきます。
http://angohon.web.fc2.com/rekisi/hi-haysai-hyakuninisyunohimitu.html 

 

1 百人一首は、タテ10首、ヨコ10首の方形の枠の中に、百種を特殊な順序で配列することにより、上下左右に隣り合うすべての歌同士が何らかの共有語=合せ言葉によって結び合う。

2 この歌織物は、右から第7列目をタテに走る月八景によって左右に二分され、右側6列部には、合せ言葉を絵の具代わりに、花咲き、雪舞い、紅葉映え、滝落ち、川流れ、芦しげり、浜辺に波が打ち寄せる、山紫水明、美しい日本の四季の景観が豪華な絵となって浮かびだし、左側3列分には、人を恋い忍び、恨み、なげき、悲しむ、情念が織り込まれている。

3 たんなる観念的な日本的桃源郷の図ではなくて、ある特定の具体的な地域、すなわち新古今花壇のふるさと、水無瀬の里の地形・風物・史実と合致する、極めてリアルな描写となっている。

4 四隅には四人の主要人物の歌が配置され、島流しとなった二人の帝王・後鳥羽院と順徳院、薄幸の佳人・式子内親王の3にんの帰ってこぬ人に対して、定家が「来ぬ人を待って身もこがれつつ」と呼びかけている。

5 右半分には、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む皆瀬川」の歌、左半分には、式子内親王の歌が合せ言葉文字鎖の技法で封じ込まれている。

6 政治的な部分をカットし、別の歌と差し替え、組み替えたのが「百人秀歌」



この2、の説明中で「月八景」なる言葉が出てきます。

この10×10列の歌織物の第7列の10枚の歌が「月八景」ということです。
どういうことなのか、林直道の説明順に歌を並べてみます。 



79 秋にたなびくの絶え間より もれいづる月の影のさやけき     左京大夫顕輔

        いづる  月
        いでし  月

7 天のふりさければ春日なる 三笠のいでしかも        安倍仲麿

         月 ・ 見
           月 ・ 見

59  やすらはでなましものを小ふけて かたぶくまでのしかな   赤染衛門

        かた ・ 月 
        かた ・ 月 

81 ほととぎす鳴きつるかたをながむれば ただ有明のぞ残れる      後徳大寺左大臣

          
           

57 めぐりひてしやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半のかげ   紫 式部

         月 ・ 見
           月 ・ 見

31 朝ぼらるまでに 吉野の里にふれる白雪         坂上是則

        明け ・ 月 
        明け ・ 月

36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを のいづこにやどるらむ      清原深養父

         月 ・ 明
           月 ・ 明

21 今こむといひしばかり月の 有をまちいでつるかな      素性法師

         長 ・ 月
         長 ・ 月

68 心にもあらでうきらへば ひしかるべき夜半のかな      三条院

        あらで ・ 月
        あらぬ ・ 月

23 みればちぢに物こそかなしけれ わがひとつの秋にはあらねど    大江千里


十首の間をとりもつ表現が、9ではなく8になるのは、あまり深く詮索しても意味はなさそうですね。

ただ、「月夜野百景」をうたう側からするとこの十首は、「百人一首」の歌織物の左右を分かつ歌として、右側6列部に、合せ言葉を絵の具代わりに、花咲き、雪舞い、紅葉映え、滝落ち、川流れ、芦しげり、浜辺に波が打ち寄せる、山紫水明、美しい日本の四季の景観の絵となって浮かびだします。6列部の上から5首だけ以下に抜き出してみると、


12 風雲の通ひ路ふきとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ        僧正遍昭

   7列との関係   風 ・     下行との関係    
              ・ 雲              

60 大江いく野の道の遠ければ まだふみも見ず立        小式部内侍

           天の ・ 山             橋
             天の ・ 山             橋

6     かささぎの渡せる橋におく霜の 白きをればふけにける     中納言家持

           夜更け ・ 見            おく
             夜更け ・ 見            おく

83 世の中よ道こそなけれひいる 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる      皇太后宮大夫俊成

           鳴く                 思
           鳴く                 思 

77 をはやみ岩にせかるる滝の われても末に逢わむとぞう     崇徳院

           逢                 瀬 ・ 川
             逢                 瀬 ・ 川

              ・
              ・
              ・


左側3列分は、人を恋い忍び、恨み、なげき、悲しむ、情念が織り込まれている。

これもまた上から5首だけをあげてみると


58 有馬山なのささ原風吹けば いでそよを忘れやはすも       大弐三位

   7列との関係 風 ・ いづ    下行との関係  原 ・ 人
           風 ・ いで            原 ・ 人 

39 浅茅生の小野のしのしのぶれど あまりてなどかの恋しき     参議 等

           原                小野
           原                尾の

3 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながしひとりかも寝む    柿本人麿

          寝 ・夜             ひとり寝
          寝 ・夜             ひとり寝              

91 きりぎりすなくや霜のさむしろに 衣かたしきひとりかもむ   後京極摂政前太政大臣 

          鳴 ・ かた           鳴く
            鳴 ・ かた           鳴く
    

44 ふことの絶えてしなくばなかなかに 人をも身をもみざらまし   中納言朝忠

           逢                恨
           逢                恨 

              ・
              ・
              ・


この構図が「月」のもつ日本的役割を際立たせる
最高のお手本であることを強調しておきたいのです。

「月夜野百八燈」のなかに、百人一首の月の歌11首を入れてつくりました。

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/de7ef57c3367d4e9f351aea639ac1c36



この歌織物の配置についての参照おすすめ


林直道公式ページ「林直道の百人一首の秘密」

http://www8.plala.or.jp/naomichi/

小倉百人一首は歌織物 《秘められた水無瀬絵図》  

http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html


このことは、この月八景の十首の歌の左右の歌列が、それぞれまたこの青字のような言葉の相関で織り込まれていることでさらに驚きが増すことと思われますが、その実態は是非、本書を読むことで味わってみてください。



余談ながら、四隅に配置された定家と後鳥羽院、順徳院、式子内親王の位置づけのなかでも

対角線状に配置された定家と式子内親王の関係  http://www.nippon.com/ja/views/b02802/


年齢差から実話ではないとかの説もあるらしいけど、歌の位置づけから、ただならぬ想いであることは間違いない。         

 

         

 

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「月夜野百景」~観光スポットづくりが第一の目的ではない理由~

2015年06月27日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「月夜野百景」のホームページでは、下図のような観月スポットを公表しています。

 しかし、どうもこの図を地元の人に見せると、観光スポットとしてどう整備するかという話しにばかりなってしまう傾向があるので、ここでホームページに書いたことをちょっと補足説明させていただきます。


http://www.tsukiyono100.com/#!moon/c1han



 ホームページと共に作成した下の「月夜野 お月見ガイド」三つ折りリーフレットの右側部分に記した内容を、そのままでは見づらいので書き出すと以下のような表現になっています。

 

 ここに観月スポットを紹介したからといって、それは必ずしもそこに観光スポットづくりを目指した土地整備を提案しようといったことではありません。

 ここに紹介した観月スポットが魅力的な場所であるのは、その多くが私有地としてそこで田畑を管理している人たちの暮らしがあってこその世界です。

 観月に最高の土地だからといって、もしそこをまちが買い上げて下手な観月台でもをつくってしまったならば、観光のためだけの管理費がかさむ品のない場所になることは必至です。

 まちが雇った清掃員に管理してもらうような空間よりも、そこで田畑を耕している農家の人たちが生活や作業空間として畦を直したり草を刈ったりしている方が、どれだけ美しい空間が維持されるかと思うのです。

 さらには、場所は公表できませんが、あるところはキツネの家族の生活空間であり、またどの場所をとってもその他たくさんの先住動物たちの暮らしのある彼らにとってはかけがえのない空間なのです。多くは田畑を荒らす害獣として現れますが、常に人間との距離をはかりながらそこに生きてるのです。

 もちろん、それらの暮らしを守るための環境整備はしなければなりませんが、人とあらゆる生き物のバランスのとれた環境こそが、なによりも美しい景観を約束するものであると私たちは考えます。

 これら観月スポットを訪れる時は、そうした先人の場所(月のバックグラウンド)にお邪魔させていただくということにも十分気を配っていただければ幸いです。

 まさにそうした豊かなバックグラウンドこそが、月の様々な物語を生み出してくれていた主人公たちでもあるのですから。


 月をみるということを通じて、わたしたちが取り戻し築いていきたいのは、なによりもこうした暮らしの景観を取り戻すことが優先であり、それがやがて観光につながることも確信してはいますが、決して暮らしの景観を犠牲にするような観光は求めていません。


 事実、円安のおかげで急増しているインバウンド需要をみても、外国人観光客たちが日本のどこを見て感動しているのかをつぶさに見れば、それが必ずしも金閣寺や清水寺などの日本的歴史建造物ではないことに気づかされます。


それは日本的ソフトの部分、

つまり国民文化の中に染み付いた「禅」や「武士道」、

マナーの良さや「おもてなし」の精神、

あるいはトイレなどの清潔さを大事にした文化、

あるいは新宿のゴールデン街や原宿や秋葉原のサブカルチャー、

さらには語学力などを問わない田舎のおばあちゃんの親しみやすさ

などにこそ共感し、大きな感動を覚えているのです。

 



 その広い意味でのソフト面をともなった「暮らし」を取り戻すということが、現代では切実な課題となっているのを感じますが、それはとても長い時間をかけて暮らしの習慣として私たちが再自覚して身につけて行かなければならないものなのだと思います。

 もちろん、「ハード」ではなく「ソフト」が大事といっても、人が集まる空間には整備された公共のトイレな道路などの整備が不可欠です。

 しかし、その場合でもその空間の持つ意味が発揮され認知される十分な「ソフト」と豊かな「バックグラウンド」があってこその世界なのです。




より早く

より多く

より遠くを求めなくても

 

この地からみあげるだけで

 

満ちては欠けて

刻々と場所やかたちを

変えながら

 

再生をくりかえす

月とともにある暮らし。

 

それは私たちの

ゆったりとした

ここに今あるもののなかにこそ

 

無限の豊かな世界が

広がっていることを

気づかせてくれます。


(月夜野百景、「月」のページより)


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