かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「出版不況」という表現が、問題解決を遠ざける

2020年06月14日 | 出版業界とデジタル社会

    ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール
   『もうすぐ絶滅する紙の書物について(CCCメディアハウス)

上記写真の本を載せましたが、私は紙の書物がもうすぐ絶滅するとは思っていません。大幅に市場規模が縮小することは間違いないことですが、無くなることは当分ありません。
 この写真を使用したのは、ただ表紙デザインが素敵で、私のホームページのタイトル・ヘッダーで使用しているので、問題提起イメージとして使用しました。


しかし、

 いまだに私たちの業界では、長引く「出版不況」により、書店数は減少し続け、書籍・雑誌の販売額も下降の一途・・・

といったように「出版不況」ということばがよく使われています。

このように、なんの悪気も悪意もなく、なんの疑問も違和感もなく使われているように見える「出版不況」という言葉ですが、わたしは明らかにこれは適切な表現ではないと思っています。

 

そもそも「不況」という言葉は、単に景気が悪い状態を指す表現の一種というよりは、好況・不況の景気循環の中で使われるニュアンスがあります。

さすがにこれだけ明らかな下降曲線が、1996年頃をピークにしてずっと続いている現状では、簡単に上向きに転じる時期が来るなどと思っている人は滅多にいないでしょうが、それでも「不況」という言葉で語ってしまうと、どうしても何が原因でこうなっているのか、何を解決すればこの「不況」が解決できるのか、といった具体的なことから目を背けることになってしまいます。
小さな出版不況なら乗り越えられたのでしょうか。大きな出版不況だから乗り越えられないのでしょうか。
問題は、そういうことではないはずです。


特に強調したいのは、今の「出版不況」といわれる下降線の数字の圧倒的要因は、出版界固有の問題というよりも、日本経済全体の問題が圧倒的部分を占めているということです。

確かに出版業界固有の流通改革の遅れ、デジタル化やネット市場の拡大、変化など、独自に解決していかなければならない問題はたくさんあります。
しかしそれにもかかわらず、数字が悪化している要因の大半は、国民の平均所得、サラリーマンの賃金が上がらず、可処分所得が下がり続けていることにあると思います。

 


この20年で国民の平均所得は120万円減り、サラリーマンが安定した仕事ではなくなりました。
こうした基礎所得が減ると最中に消費税をはじめとする公的負担も増加しているのです。

国民の可処分所得の減少は、当然出版業界ばかりにに強く反映しているわけではなく、小売業全体、飲食業、観光業、日本経済全体に及んでいます。

日本のほとんどの業界の1995年以降の数字は、この基礎の上に成り立っています。それを不用意に自分の業界特有の問題に還元してしまうことは、結果的に国民の分断をもたらし、根本課題の解決から国民意識を遠ざけることになります。

 

 


こういうと、自ら努力することをせずに、問題を他人のせいにしてしまう論理にも思われがちですが、まったく違います。

こうした国民共通の課題に立ち向かいながら、従来の産業構造から脱却するための業界固有の課題に取り組まなければならないからです。

国の財政構造、税のしくみ、世界の金融支配のしくみ、地方の自治能力、激変する最先端情報技術・・・等々

以上示したようなことは、国民全体のスタートラインの変更にかかわる問題で、個々の事業者の課題はこれとは別に、その後も存在し続けます。



より大きな要因となる問題に一つひとつきちんと向き合い、幅広い人たちが分断されずにつながり協力することでこそ、個別の事業体の小さな努力も実を結ぶことができるはずです。
(このあたりの問題は、「戦略の誤りは、作戦や戦術の成果では取り戻せない」といったテーマで詳しく書く予定です)

そして書店や出版業界は、何よりもこうした課題の実態を知ったり、解決の手がかりを学んだりする最大の情報提供者という地位を持つものです。

切実な課題の情報提供者であることに力を入れず、ひたすら消費拡大のための市場刺激策ばかりに走ってはなりません。

このたびのコロナ禍によって、世界全体が大きく揺れて、社会構造の変化も加速していくことと思います。安易に私たちに都合の良い社会がはじまるとは期待できませんが、確実に世界の危機は、より面白い方向への変化をもたらしています。

というのは、デジタル技術をベースとしたやロボット、AIなどの発達・普及によって、これまで以上に世の中は従来型の人間労働はいらなくなってきているからです。

それは、ただ私たちの仕事がなくなってしまうということではなくて、人間がしなくてもよいこと、そもそも不要な生産活動から解放されて、人間にとってより必要なこと、大切なことができる社会が加速的に進んでいくということです。

これまでどんな業界でも、売上数字を維持するためだけや、生活を維持するためだけの生産や販売があまりにも多い時代が続きました。確かに生活のために背に腹は代えられない現実があったかもしれませんが、それではなぜこれほどまでに世界には「カネ余り」の現実が進行し続けているのでしょうか。

もう必要なものはすべて揃っている時代です。

どこも業界の内側だけみていたのでは、この可能性に満ちた世界の未来は開けません。

学び考え続けること、試し続けることが約束された環境にある今、出版業界・書店業界だろうが、百貨店・スーパー業界であろうが、観光、ホテル・旅館業であろうが、製造業、第一位産業であろうが、私たちが「変革に必要な手段はほぼすべて持ちうるこれからの時代」には、何も問題はありません。

問題は、私たちの自由な暮らしと働き方をどう自らが組み立てるかということです。

明るい未来に向かって自由な想像力を思う存分に発揮していくために、本ほど手軽で安価なツールはないと思います。

 

 

 

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「独学」 自立・独立のための学び

2020年06月07日 | これからの働き方・生業(なりわい)

facebookでまわってきた  #ブックカバーチャレンジ の6日目より転載

ロングセラーの『エリック・ホッファー自伝』ですが、独学の価値を紹介する本として選びました。

独学といえば、南方熊楠を筆頭に、武満徹やさかなクンなど、たくさん紹介したいところですが、熊楠は大好きですが、あまりにも超人すぎること、武満徹は音楽の世界に限定されるかの誤解をされそうな点で、さかなくんにするか、エリック・ホッファーにするかで迷いました。

「迷うくらいなら両方とも」というのが日ごろ言っていることなので、いずれさかなクンについてはまた書く機会があるかと思います。

「独学」というと、得てして「公教育」からはみ出した領域の勉強のことかの印象もありますが、本来は「独学」こそが、学びの基本です。そして本来は、公教育においてさえ「独学」をベースに組み立てられるべきです。

エリック・ホッファーは、読書の時間を確保するために、その生涯のほとんどを港湾労働者など季節労働者として働きながら、完全独学で大学レベルの物理学、数学、植物学などをマスターしました。

やがて哲学者としても評価されCBCの対談番組で全米各地に知られるほどにもなりましたが、それでも港湾労働者の立場は変えませんでした。

そもそも学校に行っている間だけが「学び」の期間などと思ってしますこと事態がとんでもない勘違いで、世の中に出てからこそがホンモノの学びの始まりです。
また、この世と世界の奥深さから考えれば、余暇の時間だけ一生懸命学ぶなどというのではなく、一生涯を学びに費やすことすら、決しておかしいことではないはずです。エリク・ホッファーの生き方は、誰でも自分固有の価値を追求しようと思うならば、持ちうるすべての時間を使ってそれに没頭すべきだという励みを私たちに与えてくれます。

『魂の錬金術』というタイトルにも覗われるように、一貫した独学で身につけたものならではの、ほとばしるかのような言葉が、心に響きます。

その生い立ちから、ずっと数奇な運命のなかで生きた姿は、数々ある自伝のなかでも、読書や独学を真剣に考える人にとっては必読の1冊です。

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と、当初はこのような紹介で終らせるつもりでしたが、どうもこれでは「独学」の大切な何かが語られていないような気がしていました。

「独学」というのは、通常教育からはみ出した領域にあるものではなく、人が生きていくために学ぶという前提に立つならば、あらゆる教育機関によってなされる学びよりも、むしろ「独学」こそが基本的姿であるはずだからです。

たしかに幅広い知識や教養を身につけていくために、独学や読書が大きな役割を果たすことに異論はないのですが、もっとも大切なことはそこではないと思っています。

これまでのなんらかの業種や職種に参加して食べていくためだけの「学び」であれば、従来型の「学び」とそれに付随した「知識」「教養」でも十分であったかもしれません。しかし、これからの時代は、既存の業種や職種に参加、所属するだけではなんの保障にもなりません。大切なのは、そこに参加・所属する個人として、その人ならではの固有の能力をいかに発揮していくかということです。

それには、学歴があれば、資格があれば、良い会社に所属すれば、といったことでは保障されない独自の能力を、その都度、必要なときに絶えず学び身につけていくことこそが不可欠であるからです。

つまり、それはルーチン的資質を身につける「学習」の範疇の「独学」ではなく、生きている限り絶えず直面するその時々の課題に立ち向かう「学び」でなければならないという意味です。

そこには、同時に「自立」という課題も絶えずつきまとってきます。

どれほど習熟した「独学」や「学び」で得た資質があっても、自分の立脚する立場が学校や会社に依存するだけの立場であっては、たとえ大学教授のようなスペシャリストであっても、給料をもらう弱い立場をである限り、必ずしも自立した研究者となる保障は得られません。
いかなる仕事の場合でも、どこからお金をもらっているかがその人の立場をつくるからです。

そんな視点で振り返ると、わたしのもっとも影響を受けている哲学者の内山節さんは、生涯にわたって大学という立場にほとんど依存することなく独自の立場での研究を貫き、そのことによってまた内山さん固有の視点というものを磨き続け得たのではと感じます。内山節さんは、必ずしも自らの研究姿勢について多くは語ってはいませんが、これはただ内山さんの特殊な研究スタイルということではなく、とても大事なことであると感じます。

もちろん、すべての人がそうでなければならないということではありませんが、「学ぶ」ということの原点を深く考えれば考えるほどこのことは大事なことのように思えてきます。

今回のコロナ騒動でも、多くの人が見せつけられたことと思いますが、会社経営や、個人の生き方、地域のあり方でもまったく同じで、ひとつのものだけに依存、または所属してしまうと、一時的な安定は得られたように思えても長いスパンでみれば意外と脆いものであることがわかります。

むしろ自立とは、依存先を増やすことです。

それには未知の領域、未経験の世界について学ぶことが不可欠です。

目の前に次々と起こる課題に直面した時に、過去の経験や知識にとらわれることなく乗り越えて生きていくためには、必然的に幅広い知識や教養を身に着けることだけが第一の目的ではないということにも気づきます。

新しい現実に直面したその時こそ、「学び続ける」ことが、何よりも不可欠なことであるからです。

「生きる」ことと「学ぶ」ことは、そもそも同義語なのです。

 

 

 

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