かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

般若心経を原語で聞く

2009年02月28日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
今、教科書作業で体がへとへとなので
椅子にしばらく座らせてもらいます。

あるブログ友達が紹介してくれた原語で聞く般若心経
http://www.youtube.com/watch?v=P2D8epuXla8

縁のないサンスクリット語ですが、
漢字という、表意文字と表音文字の文化ならではの
言葉と意味と音楽の一体感!!!

とはいっても
ギャーテー、ギャーテー以外
ほとんどわかりませんでした。

iPhoneに登録して時々聞いてみよう。
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手作り本活動の句集編

2009年02月27日 | 手作り本と表現活動
(旧)月夜野町の実家の近所のおじいさんに頼まれた俳句集が出来上がりました。

手作り本活動の一環として作ったものです。

平成13年から21年までの間につくられた50句とふたつの短歌を掲載。

はじめは、ただ俳句を書き連ねただけの原稿をいただいて、はてどうしたものかと考えてしまいましたが、
電話でお話した感触では、あまり打ち合わせができそうな感じではなかったので、こちらでサンプルを作ってそれを見せながら進めることにしました。

ところが、お年寄りの場合は、やはり、なにを提示しても、
「うん、それでいい。」
としか言ってもらえず、相談の上の作業というよりは、「自分なりのイメージで了解をとりながらの作業」といった感じで進めました。

読みにくい漢字は、雰囲気が壊れるかもしれませんが、可能な限りルビを入れ、
俳句の掲載順番も、推測ながら多少変更させていただきました。

間をとるためのカットも、1ページに三句掲載のため、似た傾向の俳句が並んでいるページに、
雰囲気の邪魔にならない程度のカットを挿入しました。

書体を少し凝ったものと、見やすい書体の2種類で半々に作成してみました。

冒頭に作者の思いを伝えるような文章を入れたかったのですが、こんなような文章を考えてもらえないでしょうかと提示した文案が、そのまま掲載されることになってしまいました。

もう少し手を加えれば、もっとすばらしいものができあがったかと思うのですが、高橋さんは、とても満足してくれたので、ほっとしました。

こうした句集、詩集、歌集などは、かなりの需要が見込まれる領域ですが、
印刷屋さんにそのまま、自費出版として頼んだのでは高いものになってしまう。
さらに編集・レイアウトアドバイスなどは、あまり期待できない場合が多く、
ただ活字化して製本するだけの作業になってしまう場合がほとんどです。

ちょっとした文章の手直しと、イラストや写真などを挿入するだけで、著者の思いが伝わる記念品としての出来栄えは、かなり変わるものです。

そんな作業を、これからもう少し場数を踏んで、様々な要望に応えられる業務にしていきたいと思っています。
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またも期待以上!クリント・イーストウッド作品

2009年02月25日 | 映画・音楽・舞台・美術などの評
昨夜、高崎イオンシネマへクリント・イーストウッドの新作
「チェンジリング」を観に行ってきました。

予告編では、いまひとつその作品の魅力が理解できなかったのですが、過去の作品からみてまず期待を裏切ることはないだろうと思って行ったのですが、まさにこれは期待以上でした。

1928年のロサンゼルスで実際にあった事件の話で、ある日、母と息子二人で暮らしていた家庭の子供が突然失踪してしまう。
しばらくして、警察から子供が見つかったとの知らせで対面してみると、それは別人。
それを自分の子供と認めない母親を、警察は精神病院に送ってしまう。
しかし、母親は諦めず、負けずに警察とも闘い息子を探し続ける。

事件は、思わぬところから衝撃的に解決の糸口が開けていくのですが・・・


つい最近、友人と監督としてのクリント・イーストウッドがいかにすばらしいかという話をしてきたばかりでしたが、この作品も
満足!満足!満点の期待以上でした!

脚本、映像、各登場人物の演技、音楽など、どれをとってもすばらしいのですが、事実に対するクリント・イーストウッドの目というものに、ほんと関心させられます。
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モース『贈与論』で感じたことの続き

2009年02月23日 | 無償の労働、贈与とお金
前ののブログで紹介した本の補足説明。

マルセル・モース『贈与論』
ちくま学芸文庫 定価1,200円+税

とても大事な本なのだけれども、読む人によって捕らえ方が実に様々にわかれる本です。
だからこそ、良い本であり、古典として残る価値もあるといえるのですが、著者自身が、この本でなされている研究は「素材の提示にすぎない」と断りがきをしているので、当然の帰結かもしれません。



本書のなかで、「贈与」に対する「返礼」の如何で両者の関係、地位が確定するといったことが書かれています。

贈与はもともと「返礼」は当てにしない一方的な行為ですが、にもかかわらず、その後に返礼が行われるかどうかが大事な意味をもちます。
贈与に対する返礼があることで、相互の関係は対等性を得ることができるのですが、返礼を怠ると、贈与した側に対するなんらかの服従や従属を意味する側に自らを追い込むことになる。

ここに大事なふたつのポイントがあると思います。
ひとつは、本来、一方的な行為であるはずの贈与に対する返礼は、より「同等」であることが望まれるが、同質のものでは返礼にならず、なんらかの異質なものによってされるという意味で、完全な「同等」ではない、「同等」であるといえないかもしれないが、ほぼ「同等」と思われる異質なものによってなされるということです。

これは、現代のわたしたちの日常でも同じことを常に経験します。
お礼はどの程度が良いのだろうか?
その気持ちの表現は、金額で表すのも難しい。
品物で表すにしても、どの程度のものであれば良いのかは、なかなか推測がつきません。

そもそも贈与に対する返礼に限らず、異質なものの交換なので、そこに等価といえる質のものを見出すのは極めて難しい作業です。
だからこそ、相手との対等な関係を意識すると、「同等」、もしくは「それ以上」の返礼をともなって初めて少しばかりの安心を得るものです。

これは「タダほど高いものはない」ことになる理由のひとつでもあります。
(一般的には「後が怖い」というのが「タダほど高い」の理由ですが)

このポイントは、人との関係が常に「同等」あるいは「等価」とは断定できないものどうしの「交換」によって関係が成り立っているということです。

もうひとつのポイントは、「贈与」があくまでも一方的な行いであるはずであっても、あくまでも「交換」とは異なり「返礼」を強要しているものではないということです。
にもかかわらず、社会では未開社会であるかどうかにかかわらず、贈与に対する感謝の気持ちをなんらかのかたちで多くの人が表わさずにはいられない現実があります。

一般的には、これは経済関係が発達する以前の問題として捉えられがちですが、よくみると、経済関係が発達した社会においてもなんら変わっていない現実を見ることもできます。

それは経済行為において「等価」の交換と思われる行いは、様々な計算や理由により、「等価」とみなされるだけで、異質なものの交換である限り、どこまでそれが「等価」であるかは、社会の物差しや信用によって決して絶対的なものではないということがわかるからです。

ここに深く立ち入ると私の手に負えないので、端折りますが、等価の交換事自体が「絶対的等価」を保障しているものでない限りにおいて、「疑似等価」の「交換」よりも「贈与」の関係のほうが社会的信用は、ある意味で高いということです。

前にこの贈与の問題を取り上げたときに
まず人間社会は、大自然からの膨大な贈与の上に成り立っていることを書きました。

大自然の贈与は、太陽であれ、大地の恵みであれ、山の幸であれ、海の幸であれ、地下資源であれ、無償のものです。

大自然からの贈与は、なんら人間に対して「返礼」を求めていません。
まさにビタ一文たりとも。

日々、わたしたちは石油を買ったり、魚を買ったり、季節の山菜や松茸を食する幸せを持っていますが、それらの恵みを与えてくれる大自然に対しては、長い間、私たちはなんの対価も払ってきていません。

それらの恵みを提供している石油メジャー資本や、水道業者、電力会社なども、最近でこそ環境維持のための植林や若干の環境保護政策に協力こそするものの、大自然から与えられる無償の贈与に対しては、「等価」もしくは「同等」と思われるほどの返礼は、近代産業が発展し続けるなかで、ほとんど行ってきませんでした。

大自然は、常にそれらの行為に対して、
人間自身が困ることになるまでは、
常にそれでも「いいよ」と言いつづけてきたからです。

わたしは、ここにモースが未開社会を通じて明らかにした
「贈与」の本質と「返礼」の実態
「交換」と「貨幣」の成立による「疑似化」の進歩の歴史と
同じ構図を感じるのです。


大自然の猛威への従属、服従のなかで生きていく社会では、「返礼」は必要とされません。
しかし、大自然の圧倒的な優位のなかでも、服従や従属ではなく、なんらかの共存を求めたときに、わたしたちは大自然に対してその多くは宗教的な意識としてですが、「返礼」を伴って向かい合ってきました。

これをわたしは経済関係が発達する以前の、未開の意識と断定することができません。

モースの投げかけた素材は、こうしたことにつながっているのではないかと感じるのです。

店のブログ「正林堂店長の雑記帖」から転載
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人口爆発の現代と先祖の人口総数

2009年02月22日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
一昨日、沼田からの帰りの車の中での会話で、以前どこかに書いたことがある話題だと思いますが、大事なことを思い出したのでここに記しておきます。

たしか日下公人がどこかで書いていたことだと思うのですが、このことの出典ははっきりしません。

よく昔からお盆の季節などになると、今はこれまで亡くなった人が一斉に歩いてくるのだから、目には見えないけれども上は相当な混雑になっているのだろうなどと話したものです。

ところが、世界の人口統計などを見て冷静に考えてみると、
人口が爆発的に増えてしまったのは、ほんのこの1世紀の話なので、
それ以前の世界の人口をすべて累計したとしても、現在この世に今、生きている人の数よりも少ないことがわかる。

つまり、お盆に帰ってくる人々の行列の数よりも、今、この世で歩いている人の数の方が多いということなのです。

現在の世界人口、およそ67億人

12年で10億増えました。

およそ100年前は、10億増えるのに100年かかりました。

西暦1千年頃は、1億人増えるのに1000年かかっています。

http://www.k4.dion.ne.jp/~iconsoph/World%20population%20of%20changeu.html

グラフを見てもわかるように
人類の人口は増加しているのではなく、爆発ともいえるような増え方を今しているのです。

このことに気づいたのは、笑い話で済むことではなく、とても大事なことだと思うのです。

現世の人間とあの世の人間が、もしも同一のテーブルで国民投票などをする機会でもあったならば、ご先祖の意思がいかに大事であろうが、現世の人間の意志いかんで、ご先祖の意思など簡単にひっくり返すだけの力を持っているということです。

そんなことありえない話ですが、
恐ろしいことです。

と、同時に、それだけ重要な権限を持って現世の人間は今を生きているということです。

地球の未来は、今、生きている人間の意志だけでも、思い上がりは良くないと言っても、十分、それを左右するだけの力を持ってしまっているのだということを、私たちは気づかなければならないのだと思うのです。

もちろん、それだけの世界の人々の意思をまとめる技術が、今の国連やその他の機構にあるわけではありませんが、それらの技術的な壁は、乗り越えがたい未来の壁ではなくて、もう手の届くところにあります。

今、生きているものの責任という、あたりまえの現実を、これほどまでに感じさせる数字はないと思いました。


さらにつけ加えるならば、よく「高度に発達した」資本主義などと言いますが、これまでの資本主義経済の発展は、この爆発的な労働力人口の増加と購買市場の増加によって、その圧倒的部分は支えられてきたのであって、爆発的な人口増加が止まった先進国において、途上国の市場や労働力に依存することなく、自立した経済発展を遂げる「高度な」経済力は、はじめからそれほどあったわけではないと思います。

「持続的な経済発展」などよりも、まず爆発的増加をしてしまった人類の維持の問題をもっと優先させて考えなければならないのではないでしょうか。
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歌というものが生まれた原点?

2009年02月02日 | 気になる本
辰巳正明『歌垣 ――恋歌の奇祭をたずねて』
新展社新書 定価 本体1,000円+税

 ある常連のお客さんと子持の万葉歌の話をしていたら、そのお客さんがこれは「歌垣」として歌われたものなんだよと話してくれました。
 その歌に関する真偽はともかく、万葉歌の原点が歌垣にあったことは容易に推察されます。

 ところが、この歌垣といものは、具体的資料がほとんどないために学術的研究はほとんどなされないまま今日に至っているようです。

 そんな折ちょうどタイムリーにも本書の発売予告を見ました。当初は昨年12月発売の予予定で、とても楽しみにしていたのですが、遅れて今年1月の発売となりました。

 資料に乏しい歌垣について、本書は中国西南地域の雲南省などに残る歌垣に類似した風習から、沖縄にまで至る東南アジア文化の流れとして考察しており、遠い地の事例ながらもとても説得力のある論証になっています。

 万葉歌の世界には、地方の風俗・習慣も含めて、実におおらかな自然な感情の表現や開放的な性の表現などが特徴として感じられますが、本書を読むと、その開放的な性の表現も、少し違った視点が見えてきます。

 日本で具体的な記述のある筑波山の歌垣などとともに、中国南西部の類似の習慣は、とても大規模に長期にわたって行われるお祭りで、そこでの歌の披露には、技能に長けた専門的な歌人ともいえる者から一般人まで様々な参加者で行われていたようです。

 そこでは歌の交歓を通じて、男女の出会いから婚姻に至るまでのプロセスを、あるいは日常の生活を再現する姿があったようです。
 それが、中国で行われていた風習からすると、田舎特有の儒教的しがらみの強い村落社会のなかでで、あからさまな男女関係の表現をしにくい環境であるからこそ、歌を通じた世界においてのみ、現実にはなかなか行いえない関係を表わしえたという姿がうかがえるのです。

 このことをみると、万葉集の大らかさというものも、必ずしも文字道理に捉えられるものではなく、現実にはその後の日本の普通の村落社会と同じような、周囲の目にさらされた保守的な社会構造が万葉の時代にもあり、そうした社会環境があったからこそ、歌の世界でのみ、現実にはかなわないことを歌いあげていた側面があるのではないかと感じてくるのです。

 万葉の時代を知る手がかりとしてばかりでなく、広く歌というものが発生して芸術表現にまで発展していく原点をうかがい知ることができるようなとても面白い本です。

               
                      お店のブログ「正林堂店長の雑記帖」より転載
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