かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

日本国のなかの東国

2008年09月29日 | 歴史、過去の語り方
最近、古典文学関連の本をたくさん注文してくれるお客さんに、吉川弘文館から出た『吾妻鏡』(全16巻)がすばらしい企画になっていることを話しました。
そしたらすぐに定期登録してくれて、早速読んでみたらほんとに素晴らしいので、是非店長も読みなさいと読み終えた本を毎回、私に貸し与えてくれることになってしまいました。

全16巻!

しかも、普通は読みにくいのであまり人気のない古典。
自分で読みにくい本がやっと読みやすくなった良い本だと薦めたのだから
当然、読まなければ失礼。

そんなことを悩んでいるうちに、机の上にはもう第4巻までが手付かずに積み上げられている。

そしたら先日は、関連書として古書で仕入れ代行してあげた『吾妻鏡』の編集者である五味文彦著『吾妻鏡の方法』を、これはほんとにすばらしいので店長にあげると、また届けてくれたのです。

いやいやほんとに困ってしまったものだと思いつつも、その本をパラパラめくっていたら、いつの間にやら引き込まれて3分の1ほども読み込んでいました。

なんだかんだ本を通じていろいろ話しているお客さんだけに、いつの間にやら私の関心領域もつかんでしまっているらしい。
本書のサブタイトルは、「事実と神話にみる中世」

なんか60~70代くらいかと思われるそのちょっと品のいいお客さん、
ググッっときてしまった。


吾妻鏡の舞台となる東国とは、そもそもどのような性格のものなのか。
時代によってそれは異なるが、古代からたどるとその境界は、次第に東に移ってきている。

他方、西国となると、それは一貫して海の向こうの大陸、中国であり朝鮮、あるいは天竺インド、伴天連のヨーロッパであった。

東国は、決してアメリカやカムチャッカではなく、日本国内の異国としてある。

はじめ東国とは、伊勢湾、琵琶湖の線から東を指していた。
それが次第に東海を経て箱根の関へと移っていく。
東国、坂東のイメージも江戸幕府が開かれると
東北、蝦夷こそが東国かのようにもなっていく。

その変遷のなかで鎌倉幕府は、中央の都からは異郷の地の地位のまま、ひとつの中心としての活力を持ち始める面白い時代にあたる。

鎌倉仏教の隆盛などをみても、道元が宋に渡り、親鸞が東国に移り住んだり、活発な移動が起きた時代として著者は、
「日本の内部世界が拡大し、さらに外部世界との交渉が活発になって」いった時代ととらえる。
鎌倉仏教という表現は、鎌倉時代の仏教という意味で、その時代に活躍した法然、親鸞、道元などが鎌倉を中心に活躍していたわけではない。

都からしきりに東国への関心が高まる理由として、金や朱砂(水銀)に代表される鉱物資源があげられるが、それととも絹や馬があげられる。
その馬の意味が想像以上に大きいことを本書で知りました。

絹と聞いても、
馬と聞いても、
群馬県人としては黙っていられない。

なんかこのあたりに政治経済の中枢としての鎌倉や江戸とは異なる次元で、めんめんと東国の拠点として栄えた上州群馬の背景があるように思えてなりません。

東北文化圏の話は、仙台や盛岡あたりは藤原京周辺の人たちに頑張っていただく。
蝦夷(エミシ、エゾ)にわたる文化の話は岩手、青森から北海道の人たちに頑張っていただく。

征夷大将軍などの言葉にみられるように、東国という方位にあたる地方には、
「中央に対する」辺境といった意味合いが昔から強い。

そもそも地質学者によると、東日本と西日本では地質構造そのものがまったく違い、別の大陸(島?)がくっついたような性格になっているらしい。

政治、経済、気候、風土まで、実に様々な要因によって東国は意味づけられている。

したがって、古代から続く東国という概念は、
鎌倉中心ではくくれない。
増してや江戸中心でも語れない。

これはまさに群馬(北関東)こそ、その中心になって語らなければいけない領域なのではないでしょうか。
というのは飛躍ですが、まんざら根拠のないことでもありません。

だからどうというほどのことでもないかもしれないけど、
これは古代から続く歴史の伏流として、常に意識され続けてきた大事な視点だと思うのです。

ググッときたお客さんと、
今度、ゆっくりお話してみたいですね。
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最大の社会福祉活動=結婚

2008年09月21日 | 無償の労働、贈与とお金
別のあるコミュニティへの書き込みへのレスから出た表現なのですが、
つくづく、こう思います。

世の中のヘタな福祉政策や予算を増やすことより、
結婚して家庭を持ち、子どもを育てること。
これに勝る人類の福祉活動はありません。

親はどんなに問題があっても、子どものことを生涯めんどうを見る。

以前、無償の労働と贈与のことで、
母親が子どもに与えたオッパイの値段=タダ(無料)
という話を書きましたが、圧倒的多数の社会の関係は、
支えあいという無償の労働で成り立っている。

定年退職して家にゴロゴロしている夫がいかに憎かろうが、
そのまま死ぬまで連れ添うことは、愛であること以上に
なにものにも替えがたい社会福祉活動であると。
・・・ね。

養うべき妻や子どもがいることが、どれだけ夫の勤労意欲を支えていることか。

私のような勝手気ままな一人者の人間にとっては、
労働とは、手前ひとりの勝手な楽しみにしかすぎない。
いつ辞めてもかまわない気楽さがある。
天下国家にとっては、
やはり非国民と呼ばれて当然の立場にある。

それに比べたら世の中のお父さんたちはエライ。
私が仕事の仕方云々をいう以前に、はるかにより多くのものを支えている。

だからこそ、
私が少しばかり普通の人たちより多く働いていることなど
なんの免罪符にもならないと思っている。

家庭という最大の社会福祉の元を担っていない私だからこそ、
少しばかりの地域活動や仕事をボランティアかのごとくすることは当然のこと。

社会のバランスをとるためにも、
私のような人間に休日は一日たりともいりません!

税金なんか、普通の人の倍くらい払って当然だと思ってます。

これは、ウソです。

でも半分以上はホントのことです。


社会福祉活動としての結婚、
円満な夫婦には縁のない言葉かもしれませんが、
離婚を考えてる夫婦、
結婚を迷っている人などにとっては
とても効力のある言葉?
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こむらがえり

2008年09月17日 | ・・・ったくアホな生活
前回の日記、まだ懲りていないのかっていうような内容ですみませんが、こんな体の不調が昨夜の夢を呼び込んだのかもしれない。

もう数日前のこと、
寝ていたら突然ふくらはぎに痛みが走り、飛び起きた。
「こむらがえり」ってやつ?

頭の血の巡りの悪い私にしては、よくもとっさにこの言葉が出てきたものだと関心する。

これは夢ではありませんでした。

痛みにもがきながらも、こうした痛みは、内臓などの病気と異なり
時間がたてば必ず治ると確信できるので、それほど不安な痛みではない。

もがきながら枕もとのパソコンで、すぐに対処法を検索。
上位のものからこれはと思ったものを開くと、
原因は・・・・・・
二つの筋肉が・・・・・

前書きが長い!

今のこの苦しみから脱出するにはどうしたらいいんだ?

どれも説明がやたら長く
すぐに必要な対処の答えがなかなか出てこない。

私のブログみたいなのばかりだ。

どれもストレッチのような対処を説明したものばかりだが、
それなりに真似してやってみても、少しも効果があらわれないで、
痛みが続くばかり。

やっと、検索の下位のほうになって納得のできる対処法が書かれているものに出会えた。

それはツボを抑える東洋医学の方法。
アキレス腱とふくらはぎの間のツボを抑える処置で、
正確なツボがわかるか不安だったが、だいたいの位置を抑えたら
てき面に痛みが和らいだ。


実はこの話題は、以前の「医療相談と総合医の必要性」の話の続きで書きたかったのですが、なんやかんやで飛んでしまった。

まさに「ツボ」という説明は、西洋医学の論理では絶対にたどりつけない発想。

部分、パーツの関連性からしか全体を説明できない西洋医学の思考では、なにか問題があったら、その関連のある部分をどこまでたどれるかが、どうしても生命線になってしまう。

それに対して東洋医学の場合は、はじめから人間の体を不可分の統一体ととらえている前提があるので、いきなり、特定の部分の話をしてもその関連する部分を順番にたどらなくても説明が足りてしまう。

これを論理的に納得できるものなのかどうかは合意しがたいかもしれないけど、結果がそれを納得させてくれる。

これぞまさに「ツボ」の論理なのですが、最近、紙の媒体による伝達の意義を感じるのも同じように、部分からの説明よりも、全体を先に見渡す説明がいかに大事であるかを感じさせられる。

全体を見せてから大事な「ツボ」を見せる。
これがとても大事。

これに対して西洋的合理思考では、限りなく、部分部分を分析的に掘り下げることにばかり意識が向かいがちになる。
だからこそ、総合科学としてのさらに難しい「哲学」も必要になるのかもしれないけど、今回のこむらがえりの様々な説明では、嫌というほどこの西洋医学流のまわりくどさを体験させられた。

病院での患者に対する医師の説明も結局同じだ。

要は何々の「ツボ」を語るためにも、まず体を不可分の統一体と理解することが大事。
今の医療って、ほんとにこの視点が無い。

細部の説明がつくかどうかにこだわることが、正しいとは限らない。
西洋の経済学も自然科学もみな同じ。

「科学的」であることが常に「正しい」とは限らない。

そろそろみんな気づいてもいいんじゃないだろうか。
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胃ガンになってしまった(夢)

2008年09月16日 | 夢日記 (手は届かないけど観念だって実在なんだから)

最近、どうも疲れが取れない。
mixiやブログの書き込みもなかなか出来なくなった。

時々お腹が痛む。
わき腹が妙に膨らんできた。

年相応にいろいろ出てくる時期だと
ある程度覚悟はしていたものの
自分では、やっかいな病気にはならない性質だと自負していたものが
急に揺らいできた。

とうとう我慢しきれなくなったので
勇気を出してお腹のフタを開けてみた。

すると、胃の左側に真っ黒な腫瘍が不気味な形をして広がっているのが見えた。
こんなにでかいのが、脇腹を押していたのか?

でも胃の周り、腹のなか全体が妙に乾いていて
血や体液などの湿り気がまったく無いのが気になる。

普通なら、この辺で、
これは夢であると気がつくのだけれども
深刻な事態はそのままなんの疑いも無く続いていく。

日ごろの不摂生をこのときばかりは反省して
お腹のフタを閉じた。

この後も夢はいろいろと続いた気がするけど
覚えていない。
おきてしばらくは、夢であったと気づかないままだった。

夢から覚めて
あらためてフタをしたお腹を見直してみると
腫れているのは、左側だけではなく
右側も、前も、
同じように腫れていた。

予想以上に進行してしまっているのか?

胃ガン

じゃなくてメタボ!

もっと一生懸命、
遊ばなくては!

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9月のちょっと気になるおさえておきたい本

2008年09月15日 | 気になる本
【ちょっと気になるおさえておきたい本】

○ 『柳田国男入門』 鶴見太郎
     角川学芸出版 定価 本体1400円+税
前回紹介した気がしますが、ただの入門書ではないはず。

○ 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』 佐野眞一
     集英社 定価 本体1,900円+税

○ 『仙人の世界 仙人の研究(1)』 
     国書刊行会 定価 本体3,800円+税

○ 『日本の仙人 仙人の研究(2)』 
     国書刊行会 定価 本体3,600円+税

○ 『足利尊氏のすべて』 櫻井 彦編
     新人物往来社 定価 本体3,800円+税

○ 『修験道霊山の歴史と信仰』五来重著作集 6
     法蔵館 定価 本体8500円+税
    *五来氏の著作は欲しいものが多いのに皆値段が高い!

○ 『ソロスの警告』 ジョージ・ソロス
     講談社 定価 本体1,500円+税

○ 『恐慌前夜 アメリカと心中する日本経済』 副島隆彦
     祥伝社 定価 本体1,600円+税
    *今まで危機を煽るだけに見られていた副島先生の言葉が、ようやく現実味を帯びてきました。

○ 『国家の基本』 櫻井よしこ 田久保忠衛
     海竜社 定価 本体1,600円+税

○ 『脳を活かす仕事術』 茂木健一郎
     PHP研究所 定価 本体1,100円+税


○ 『ジミ・ヘンドリックス レジェンド』 
     小学館 定価 本体7,000円+税 
       7,000円も出してくれるジミヘン・ファン、渋川にいるかな?

○ 『運慶にであう』 山本勉 
     小学館 定価 本体2,200円+税

○『白洲次郎と白洲正子 乱世に生きた二人』 
     新潮社 定価 本体3,000円+税



【文庫新刊】

○ 『弾左衛門の謎 歌舞伎・吉原・囲内』塩見鮮一郎
     河出文庫 定価 本体840円+税
   著者の既刊、ずいぶん力を入れておいてるのですが、いまひとつ沖浦和光さんのようにはいかない。

○ 『言葉を育てる 米原万理対談集』 
     ちくま文庫 定価 本体740円+税
    なんか米原さん、亡くなられてからのほうが、刊行ペースが俄然あがったみたい。

○ 『小沢昭一がめぐる寄席の世界』
     ちくま文庫 定価 本体800円+税

○ 『武満 徹 エッセイ選 言葉の海へ』
     ちくま学芸文庫 定価 本体1,500円+税

○ 『時計じかけのオレンジ 完全版』
     ハヤカワepi文庫 定価 本体800円

○ 『戯曲/毛皮のマリー』 寺山修司
     角川文庫 定価 本体600円+税

○ 『あゝ、荒野』 寺山修司
     角川文庫 定価 本体600円+税

○ 『北斗の拳語録』
     PHP研究所 定価 本体648円

○ 『スーパー忍者列伝』
     PHP研究所 定価 本体533円

○ 『上杉三代記』
     PHP研究所 定価 本体800円

○ 『ローマから日本が見える』塩野七生
     集英社文庫 定価 未定


【新書】

○ 『信じない人のための〈法華経〉講座』 中村圭志
     文春新書 定価 本体720円+税

○ 『貧民の帝都』塩見鮮一郎
     文春新書 定価 本体760円+税

○ 『冒険としての社会科学』橋爪大三郎
     洋泉社新書 定価 本体1,700円+税

○ 『新書で入門 宮沢賢治のちから』
     新潮新書 定価 本体680円

○ 『カラー版 四国八十八ヶ所 戦争と命を考える旅』 石川文洋
     岩波新書 定価 本体1,000円+税
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地域崩壊の姿

2008年09月12日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里
先日、日ごろ一緒にいない母親の入院でいろいろと心配をかけた親戚すじ数軒に挨拶にまわってきた。

昔の自分だったらこんなこと、頼まれてもするのは嫌だったが、今は不思議と親戚の伯父や伯母にたまに会うことが楽しい。
私は友だちとですら、とりとめのない世間話はあまりしないほうなのだけど、冠婚葬祭やこうした挨拶まわりでの世間話は、日常では避けているためか、いろりろ学ぶことも多いのでけっこう楽しみながらつきあえる。

でも、じっと年寄りの話に耳を傾けていると、ただの愚痴ではすまされない深刻な生活実態がいろいろみえてくる。

伯父の家のまわり(つまり私の実家である母の家のまわりでもある)では、このところ葬式が相次ぎ、高齢者夫婦で暮らしていた家が独居老人の家になってしまったところがほとんどになってしまった。
80歳以上で夫婦そろっている伯父の家などは、めずらしい部類に入る。
それだけに、どちらかが死んだら、残ったほうはどうしようか?などといった心配がつきない。

伯母は、耳が随分遠くなってきたが、その分伯父の方はよく聞こえる。
しかし、伯父のほうは嗅覚がまったくきかない。
ふたりで一緒にいることで生活を補いあえることが多い。
それがひとりになってしまったら、急に日常の不自由が増す。

それが近所の家々で現実に起きている。
長年連れ添った相方が亡くなると、うちのほうの田舎だと、まず田畑が荒れる。
どこも専業農家ではなく、片手間でやっているような田畑であるけれど、それだけにひとりになると、畦を補修したり、草をまめにとったりすることが、てき面になくなる。

その変化が、まわりからそのまま見えてしまうのでつらい。

そうした実体で、もっと聞いてつらいのは、それらの独居老人たちは、どこも決して子どもがいないわけではないということ。ご近所の多くは、それら独居老人のいる敷地のなかに立派な新居を建てて、そこに息子や娘夫婦が住んでいる。

ところが、それら若い夫婦はたいてい外に働きに出ており、家の田畑などの作業は、田植え稲刈りなどのとき以外はほとんど手をださない。
会社勤めに出ている人は、どこも今は楽ではなくそれぞれの苦労もあるとは思うが、家のこと、地域のことにかかわらず、それらは老人たちにまかせきりである場合が多い。

老人たちも必ずしも誰もが積極的に地域の活動をしているわけではないが、生活の場として多くはかかわらないわけにはいかないといったところだろう。
でも、外に働きに出ているものが、その働いている先でなんらかのかたちで地域を支えるような活動をしているかというと、ほとんどはサラリーマンの立場でそれは要求されていない。

これは特別な地域活動やボランティア云々ではなくて、日常の生活の場でのつきあいの環境のことである。

わたしは、これらはどれも賃労働という、特殊な働き方の問題であると思っているのですが、ほんとにここ5年、10年ほどの間に、地域の疲弊が加速してしまった。

ささやかな楽しみとして、うちの母親のように様々な趣味のお付き合いもいいかもしれないけど、地域の生活環境が崩壊してしまってはしょうがない。行政からの財政援助で済む問題じゃない。


なんとなく、即効性はないことだけれども、
今、わたしが伯母と手作り本をつくっているような、自分と向き合うことの訓練をすることがとても大事なことのように思えてくる。

もっと伯父、伯母のところに遊びにいかないといけないな。
こりゃまた、仕事なんかしてる暇ないわい。
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医療相談窓口と総合医の必要性

2008年09月10日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
年寄りの病気のことでいつも感じることなのですが、今の医療システムはあまりにも専門医制度に偏りすぎていて、人の体や健康を総合的に診てくれたり、相談にのってくれたりするところが無さすぎると思います。

このことは今回の母の入院騒ぎでも痛感しました。

最初に診断した病院の先生は、若くとても親切な先生だったのですが、この部分が細くなっているので処置をしましょうという話だけで、どうしてそうなってしまったのか、これから予防するにはどうしたら良いのか、血管そのものが細い体質の場合、これからどうしたら良いのかなどを話す間もなく手術が決まってしまいました。

とりわけ母の場合は、本人に自覚症状はなにも無かったので、手術しなければならない理由が今ひとつ釈然としないものがありました。

そこで私はセカンドオピニオンをとろうとしたのですが、その病院ではセカンドオピニオンのシステムはないので、紹介状のみ書いてくれることになりました。

それで目ぼしい病院を調べて電話してみたのですが、ある程度の大病院であっても、医療相談というような窓口の実態は、入院患者のリハビリ対策や相談がおもな業務で、はじめから診察以外の医療相談ができるような部署はないことを知りました。

さらにセカンドオピニオンとしてただ医師に相談するとなると、保険が利かないので1万円の経費がかかると受付の人から説明をされました。

個々の対応は親切でしたが、いろいろ電話をまわされたあげく、要は、診察以外に個々の患者が医療相談をするような環境はどこにもないことでした。


少し前に、テレビで偶然みたことですが、院長自らが病院の受付をしているところの話がありました。

その院長曰く、
その病院の最も知識のあるものが、受付にいることで患者への最良の処置アドバイスが出来る。
今の医療の半分以上だか3分の2だかは、専門医ではなく、総合医がいればそこで済ませることが出来る。
いきなり個別の専門医に回すから、たらい回しにあったり、必要の無い治療や薬を与えられるようになってしまうのだと。

すばらしい先生だ。

と、思ったけど、どこの病院やら、なんという先生やら
もうわからない。

医療システムそのものが、治療や薬を出さないと商売にならないようになっているので、このような先生の考え方は通用しにくいかもしれませんが、現実にはこの先生の病院の方が患者の信頼を得ることができて、結果的に繁盛している。

どんな業種でもこれは同じですね。

最近、担当医を1人に決めた方が良いなどという議論が起きていますが、それよりもまず、専門医ばかりで構成される病院ではなく、総合医をきちんとおいた病院が基本になってほしいと思う。

そうすれば、どれだけ世の年寄りが安心できる医療になることか。



そういえば、この西洋医学の部分の寄せ集めとして人間をみる発想と、はじめから全体を構成している相互関連を持った部分として人間を見る東洋医学の発想の違いを「こむらがえり」のことで感じたので、次回はそれを書くことにします。
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出版市場は、どのようにで縮小していくか?

2008年09月03日 | 出版業界とデジタル社会
このところ、名の知れた雑誌の廃刊、休刊が相次いでいますが、広告収入を当てにしている雑誌を筆頭に、出版市場の縮小化の傾向はさらに加速するばかりです。

この流れのなかで、一般読者は気づかないうちに徐々に馴染みの本が手に入りにくくなっていく。
たしかに、書店の数が減ってもネットで購入できるかもしれませんが、販売ルートの減少とともに、製作側の採算も加速的に難しくなっていきます。

ネット情報への依存が増し、書店に頼らない人も確実に増えていくでしょうが、日常的に本を読む人たちをめぐる環境が、気づかぬうちに大きく変わろうとしています。

それで、この本が好きな「普通の」ひとびとの環境とは、どのようなものなのか、
勝間和代さんがわかりやすい数字を引用していたので、それを紹介してみたい。


雑誌の市場:1.3兆円
書籍の市場:9000億円
(これは書籍・雑誌への一人平均の支出額は、月に1,000円に満たない)

この規模は携帯電話の5,000~6,000円に比べて圧倒的に小さいことがわかる。

それでも新書はよく売れていますが、新書のちょっとしたヒット書籍で5~10万部、
大ヒットで本のファンならほぼ題名を知っているというレベルで30~50万部です。
一方、『女性の品格』のように100万部以上売れる本というのは年に数冊、あるかないかです。

これはなぜかというと、どの年代も90%くらいの人が書籍を読む習慣があるとしていますが、実際に購入頻度を尋ねると、月に1回以下の購入頻度しかない割合が50%以上を占め、毎週本を購入するようなヘビーユーザーはわずか10%しかいないためです。

そうすると、成人人口は約1億人ですから、1億人に書籍を読む人が90%、
そのうち、ヘビーユーザーを10%とすると、

1億人 × 90% × 10% = 900万人
という潜在市場が出てきます。

さらに、このなかで漫画、小説以外のジャンルを買う人は10~20%しかいませんので、
大目に見て20%を掛けても、900万人×20%=180万人がおおまかな、本のヘビーユーザーの潜在市場規模になります。

10万部のヒットというのはヘビーユーザーの5%以上の市場シェアを目指すということなので、実はかなりハードルが高いのです。

     勝間和代『勝間流「利益の方程式」』東洋経済新報社より



この数字から見えてくるのは、
誰もが好きで買っているように見える本の市場の実態というのは、多くの人が想像しているよりは、かなり狭く小さいものであるということです。

私が何度となく書いていることで、これから10年で出版市場の規模は
ピーク時の半分以下にまでなるというその実態は、

縮小する大半部分は、現状の市場の3分の2以上を占める雑誌、コミック、実用書の分野で加速的に規模が縮小するということだと思います。

それに対して、純粋書籍ともいえるような領域は、ネット情報にも頼りながらも
はじめらか本ならではの高付加価値の情報も必要とするヘビーユーザーの比率が高いので
減少の幅は、他のジャンルに比べたら低いものであると思われます。

わたしたち零細書店は、ここにわずかな商機をみています。

平均的な書店は、売り上げの半分程度を雑誌とコミックに依存しています。
ところが、うちのようなタイプの零細書店の雑誌コミックの構成比は3割程度です。

書籍の構成比が、雑誌・コミックと比べて高くなるのは、
うちのようなタイプの零細書店と200~300坪以上の大型店です。

しかし、厳しいかな大型店ほど、市場規模がこれからピーク時の半分程度まで縮小していく時代には、相当な効率化して採算点を下げる努力をしないと経営を維持することはとても困難な時代になります。

なので、
残るは、うちのような雑誌・コミックよりも書籍の比率の高い零細書店。

もちろん、同じく市場規模の縮小する時代での生き残りですから、経営体力も一定度ないと持ちこたえられないでしょうが、それでも、大型店よりははるかに有利な立場にあるといえます。

この間経験しているころですが、周りの目上の競合店のほうが先に落っこちてくるのです。
そのおこぼれだけでも、零細書店にはかなりの恵みになるのです。
もちろん、それを受け入れる器を用意してあればのことですが。

出版市場そのものは、大幅に縮小していきますが、
全体に比べてこのコアの紙の本の部分は、減ることは間違いないのですが
他のジャンルに比べたら、それほど劇的な縮小はおきないのではないかと思うのです。

でもこのコアの市場のお客さんを相手にするのは、
これまでの取次ぎから送られてくる在庫をおくだけの書店は、退場してもらわなければなりません。

これからの書店はここをターゲットにした採算の取り方を考えるべきだと思うのです。
「そういう特殊な本は、大型店やネット注文にしてください」
ではなく、
「そういう本こそ、うちにおまかせください」
とならなければならないのです。

自分が市場の平均的な消費者だと思っている日常的に本を読む人たちの半分以上は、紙の本に頼らなくても他の媒体の情報で事足りるようになると思います。

しかし他方では、かなりのお客さんが、10年たっても
かといって近くにいい大型店がない、
ネットの注文、決済、宅配はいやだ、と言いながら
紙の本を求めて来るのではないでしょうか。

10年後には、
いまどき本屋なんて絶対に儲からないよといわれる時代になって
ありがたや、ありがたやと
この紙の本のコアのお客さんを相手にビジネスをしていたいものです。

そして20年後には
書籍に限らず、地域のひとたちの求めるあらゆる情報が得られる拠点として
新しい姿で生き残っていたいものです。

もちろん、いづれにしても険しい道のりであることに間違いないのですが・・・・
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「かみつけの国 本のテーマ館」の冊子つくり

2008年09月02日 | 手作り本と表現活動
このところ新しい仕事に誘われるような話が続いて、自分の作業がはかどっていない。
ブログも書きたいことがどんどんたまってしまっている。

先週、10年以上昔の同僚から、突然、お仕事のお誘いがあった。
新しい部門の仕事の立ち上げで、その責任者を探しているとのこと。
活字が好きで、家に帰ることにこだわっていない人がいいので、是非頼むと。

オイオイ、理由は、それか?

今の仕事で十分、家に帰らない環境と活字に埋もれてた生活なので、
簡単には移れない。
高崎の新しいオフィスを見せてもらったが、とりあえず今度、酒でもゆっくり飲もうということになった。

もうひとつは、前々から誘われている知人の本作り教室。
これは、私自身がすでにやっている活動とリンクしているので、どうつながりをもっていくか、関わり方の問題。

そのSさんは、本格的な本作りの解説本(これも265頁の手作り製本)も完成して今とても頑張っているところ。
手作り本の作り方の問題としてではなく、いかに自己と向き合うか、ということをテーマにしているので、私の問題意識とも十分合っている。

そのSさんが、なんとか時間をつくってくれと、しきりに言ってくるその悩みの背景は、

「オレ、暇なんだよ」

と言う。

今どき、実に出来たひとだ。

そのSさんと先週、一杯飲みながら話していたときに、手作り本のバラエティを増やしたいので、これまで私が手がけた本以外に、私の雑文を冊子にしてはどうかと持ちかけられた。

そういえば、他人の冊子をつくっていながら自分のは出してなかった。
なるほどと思い、早速、作業に取りかかりだしたら、
なんと、これまでホームページで公開していた文章のなんと完成度の低いことか

校正を続けているうちに、これまで自分で言いたいこと、書きたいことはほぼ書き込めたと思っていた文章が、まったくまとまっておらず、人に何かを伝えるというレベルにはなっていないことを思い知った。

ここにこそ、もっと労力を裂かなければならないと痛感。

やはり手軽なWEBと比較して、紙に印刷することのほうがはるかに慎重になり、また伝えることの完成度が要求される。

どうやら、webは伝える前の広報手段で、
紙媒体こそ、伝えるための究極媒体のような気がした。
そしてリアルの関係にいかにつなげるかだ。
それぞれのレベルをなんとかうまく活用したいのだけど。

夜は当分、この作業になりそうだ。
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