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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「あづま・みちのく・東北」異論

2011年11月13日 | 「近代化」でくくれない人々

今日、お客さんと被災地支援の話をしているうちに、東北の文化や伝統について、もう少し頭を整理しなければいけないと思いました。
ここで紹介する本は、そうした問題の鍵を提示してくれた本です。 

封印された「あづま・みちのく」の古代史
相原 精次

洋泉社     

定価 本体1,800円+税 2011年11月刊 



東日本大震災を経た今、東北人の底力とか、伝統とかが注目されています。
きっかけは宮沢賢治であったり、奥州平泉の世界遺産であたり、寒冷で恵まれない気候や大地であったりいろいろです。

しかし、残念ながら多くの東北、みちのく観といったものが、中央からつくられたものがいかに多いかということを私はこの本で知りました。

古代日本の大和朝廷の時代、蝦夷征伐として坂上田村麻呂が派遣されて以来、東北は中央からは遠く離れた「東夷」「蝦夷」の地とみられてきました。
京や奈良の都からみれば、たしかに遠い国であることには違いありません。

それがいつの間にか、単なる「東の人たち」「北の人たち」といったイメージから「あづまの未開地」のイメージに作りかえられたというのです。

本書ではそれを明治維新政府が、「朝敵」となった奥羽の諸藩に対して意図的に大化改新、律令の制定にまでさかのぼって歴史の記述を操作し、イメージをつくり上げられたことがわかります。

同じ中央から遠い存在であっても西の果ての薩摩の場合は、中央政権の主軸となりえたこともあり、ひと際、東国に対する差別が増長されたことも考えられます。

多くの説明に納得させられるものがありますが、それらのことはなにも維新政府に限らず、政権を持った中央からは、大和朝廷の時代、平安鎌倉の時代、徳川幕府の時代であってもずっとつきまとっていたことだと思います。

しかし、わたしは本書で取り上げられる東北独自の様々な豊かな文化の事例を見れば見るほど、東北の長い歴史の実態は、中央から不当に差別されたところにあるという意味とは少し違ったイメージが湧いてきます。

実際の東国の歴史は、確かに寒冷な気候であることに加え、今回の震災・津波にもみられるように数々の大災害(天明の浅間山大噴火を契機とした天明の大飢饉なども含む)や中央の争いにまけた勢力、頼朝による奥州藤原征伐、江戸時代の外様大名の扱い、明治戊辰戦争後の行政差別などを繰り返し受けてきました。

ところが、中央が語る政治の変遷にくらべると、いつの時代の東北をみても、その地で生きてきた人びとの歴史をつぶさに見ると、そこに感じられるのは、必ずしも中央から差別された地域としての姿というよりは、真の実態は「中央のコントロールの及ばない地域」としての側面の方がより強く浮き上がってくるのです。

確かに関西人に比べたら、東北人は真面目であるかのようには見えます。
でもそれは、中央に忠実であるというのとは少し違う。

それは中央から不当な扱いをされ続けた事実はありながらも、それによって属国になり下がったわけでもない。
かといって露骨な反旗をひるがえしたわけでもない。
そういうものではない根深い強さのようなものがあったように見えるのです。

想像を超えて古代から米作りの技術が東北に普及していたり、数々の遺跡文化を持っていたのも事実ですが、ひとたび飢饉や冷害などに襲われると、寒冷な気候もあって、その都度、地域全体が壊滅的打撃を受けてきました。
そうした打撃は、確かに南方の地域でも同様に、疫病の流行などとともにおきていたことに変わりはありませんが、それをラテン系のノリのあきらめや楽観主義で東北人が乗り越えたなどという姿は想像することができません。

いついかなる時代でも、一貫して東北の人々が見せてきた姿として私が感じるのは、いかなる政治的激変があろうが、いかなる大災害にみまわれようが、ひと時も自分の手は休めることなく動き続けて自分たちの力でどん底から何度も立ち上がってきた姿です。

今の復興支援のあり方にしても、原発災害にしても、政府への不満は数限りなくあることと思います。言うべきこと、闘わなければならないこともたくさんあると思います。

でもなによりも東北の人々が昔からスゴイといえるのは、それらの期待が通らないことがあろうが、仮に裏切られりようなことがあろうが、自分たちの手はひと時も休めることなく、自分のできることをし続けていく姿です。

荒く火炎の燃え上がる縄文文化の時代から磨き続けてきた
力強い手が今もしっかりと生きているのを感じます。

そこに差別や虐げられたとか裏切られた歴史とかいったことは、二の次のことにしか見えません。

へたな独立心などよりもずっと強い力が、脈々と流れていると感じるのです。


歴史を語るときに枕詞のように繰り返されてきた言葉
「中央(大和)政権の影響が次第に東国にまで及び・・・」

いったいどこを見ていつまでもそんなことを言っているのでしょうか。

そんな表現は我われには、自分たちがコントロールできない悔しさのあらわれにしか見えないですね。




文の表現では、東北といったようなイメージで書きましたが、私の心のなかでは、わが群馬を含む関東以北(江戸・東京を除く)です。


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来たわけでもないのにたくさんある芭蕉塚

2011年11月06日 | 歴史、過去の語り方

群馬県は、芭蕉が来たわけでもないのに、なぜか芭蕉の句碑がたくさんあります。 

ある資料によると全国に芭蕉塚は2,442基あるそうですが、そのうちひとつの県内に100基以上あるのは、山形104基、長野227基、群馬221基、埼玉116基の4県のみです。 

これらはどこも山形以外、とりたてて芭蕉との縁が深い土地柄とも思えない。 

私は長い間、これはきっと特定の時代にこれらの地で俳句が隆盛し、句碑をたてることがブームにでもなったのだろうくらいに考えていたのですが、細かく調べると、そこには時代それぞれに様々な興味深い理由があるようです。 

今日、出入りの学校に新任のスタッフと一緒に挨拶に行ったら、帰り際に馴染みのある先生と出くわし、ちょうど見せたい資料があると、その先生がまとめた芭蕉塚の資料をもとに詳しく説明してくれました。 


その先生のまとまめた資料によると、そもそも芭蕉の句碑や塚が建立される経緯を見ると次のような特徴がみられるという。 

1、芭蕉の忌日(きにち)などに、芭蕉を慕って建立したもの 
 ・ 芭蕉の三十三、百、三百年忌(平成5年、1933)などに 
2、芭蕉が訪れた土地に記念して建立されたもの 
3、それぞれの地域や景色、土地柄に似合った俳句を碑に刻んだもの 
4、社中、連中、個人などが愛吟した俳句を碑に刻んだもの 
5、その他の記念に際して、芭蕉の俳句を碑に刻んだもの 

こうした分類をもとに時代を遡ると、その土地ごとにいろいろな縦糸、横糸のつながりが見えてきます。 

ことのはじまりは、江戸の太平の世が長く続き、商品経済が発達するにしたがって、庶民の経済力が高まり、群馬県でも寺子屋などの教育がかなり広く普及するするようになったことなどがあげられます。 

地形があまり水田に適さない群馬県は、養蚕などの換金作物が盛んになったこともあり、貧しいながらも古くから貨幣経済が発達した土地でもありました。 
それは最近の歴史考古学の調査で、江戸時代の農村の生活が予想以上に豊かであたことが確認されていることでもわかります。 

こうした想像を超えた豊かさは、寺子屋の普及や農村歌舞伎や人形浄瑠璃が都市部以外の農村でも盛んに行われていたことからも十分うかがわれます。 

近世の江戸文化が、世界的に見てもきわめて高度な都市文化を持っていたことはよく知られていますが、そうした文化が地方の農村にまで広く普及していたことは、世界史的にみても脅威的なことであったと思います。 

このような土壌が、この地に芭蕉塚を多くつくっていった背景にあったようです。 

もちろん、地域や時代によって豊であったり貧しかったりする条件は様々なので、それらを一律に論じることはできません。 

とりわけ東日本の場合、古来より中央政権からみれば独自の文化基盤がありながら、火山の噴火(古代の榛名山噴火、天明の浅間大噴火など)や震災などを契機にした飢饉など、たび重なる災害で壊滅的打撃を何度もうけてきた歴史があります。 

枕詞のように繰り返されて語られる、中央の支配下にあった東北蝦夷の独自文化の基盤は、これから冷静に見直されなければなりません。 




このような過去を知る貴重な遺産は、日ごろ私たちの身の回りにたくさんありながら、ひとつひとつの由来などは、忘れられたままの場合がとても多いものです。 

ひとつひとつ、いつ誰が建立したのか、誰の書によるものなのか、 
なぜその句がそこに選ばれたのかなどがわかると、どれもが愛着を増す貴重な歴史の史跡であることがみえてきます。 

そんな芭蕉塚のひとつ、金島の旧三国街道沿いの坂道にある石碑をその先生が教えてくれました。 




 此あたり眼にみゆるものみなすゝし 

                       ばせを 



今は、坂の横は杉林で視界が遮られていますが、この坂から昔は、子持山、小野子山、赤城山が一望できたことと思います。 

 

そんなことから、身の回りの風景がまったく違うものに見えてくるのは、とても楽しいものです。

 

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