かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

日本を立て直すには、自分自身を立て直さんとな。

2012年08月22日 | 暮らしのしつらえ

体温を上げれば病気は治ることを解説した本は、これまでもいろいろ出ていますが、

この本で若杉ばあちゃんの語っていることは、細かいことの理屈抜きで腑に落ちる説明がされています。

様々な健康法が巷にあふれる現代、カロリー計算による食事療法ほどばかげた考えはないとの考えのもと、

有害であったり、名ばかりで栄養価のない人口野菜であったりとったものがあふれる市場で、

体に良いものを摂取することがいかに大事かといった基本の話。

 

からだを温める食事は、とても大事ですが、食物には陽性の食べものと陰性の食べものがあり、

その陰陽バランスを考えないと効果がでない。

 

【からだを温める陽性の食べもの】

 玄米、雑穀、ニンジン、ごぼう、レンコン、かぼちゃ、

 ネギ、ショウガ、梅、干し栗、味噌、しょう油、自然塩など。

 冬に収穫されたり、寒い地方で栽培される食べものが多い。

  やはり、東北の雑穀文化は正しい!

 東北の雑穀文化=縄文文化とあの火焔土器のエネルギーは、やはり不可分のものでした。

 

 

【からだを冷やす陰性の食べもの】

 きゅうり、トマト、ナス、セロリ、白菜、もやし、貝割れ、

 枝豆、レタス、スイカ、みかん、キノコ類、豆腐、うどん、

 そうめん、小麦、砂糖、チョコレート、甘味料、食品添加物などで、

主に夏に収穫されたり、暖かい地方で栽培される食べもの

 

 

無理のない食の改善で、アトピーや花粉症なども含めた体質改善ができることが

なるほどと頷けます。

 

 

今こそ日本の立て直しをやらなきゃダメ。

それには、一人ひとりが

自分の血液を、細胞を立て直し、

自分自身を立て直さんとな。

               若杉 友子

 

年はとうに70歳を過ぎているけど、メガネなしで新聞の小さな字も読む。 

補聴器もいらない。

スクワットも70回はできるし、縄跳びも百回くらいは飛べる。

髪の毛なんて、生まれてからこれまで、一度も染めたことがない。

血圧を計ったこともないし、健康診断を受けたこともない。

23年前から、肉も卵も乳製品も、いっさい口にしていない。

 一汁一菜。 

 米と味噌汁、漬物中心のいたって素食な暮らし。

それでもこんなに元気なのは、野菜の命をいただいているから。

 

ホンモノの健康法

 

水分の多い、生野菜、果物、ジュースばっかり食べていると、

胃が水分といっしょにどんどん重くなって、子宮や腸まで降り

て、くっついてしまう。

 

 

食べ物でつくった病気は

食べ物で治していくんや。

 

 

そもそも桑というのは、お蚕さんが21日間食べて、絹糸を出す葉。1千メートルって出すんやから。人間はなんぼ食べても出さないやろ。これ食べると、呼吸の浅い人も、だんだん深くなっていく。まあいっぺん生で食べてごらん。おいしいのなんのってないよ。

 

これを食べれば医者はいらない
若杉友子
祥伝社

 

野草の力をいただいて 若杉ばあちゃん食養のおしえ
若杉友子

五月書房

 

体温を上げる料理教室―いまの健康法は間違っている正しい食事に変えなさい
若杉 友子
致知出版社
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萱葺き、杮(こけら)葺き屋根など ~保存ではなく遺すべきもの~

2012年08月18日 | 暮らしのしつらえ

先日、新盆でお寺のお坊さんを見送りがてら外で立ち話をしていたら、竹林管理の話からはじまって萱葺き屋根のことに話が広がりました。

そのお坊さんの後輩がいるあるお寺では、1年に屋根の6分の1だったか、少しずつ屋根をふき替えていくとのことでした。

それでも費用はかなりのものなのですが、そのお寺の場合は萱場を持っていて、一度に使用するのは茅場のほんの僅かなので、残りの萱はその葺き替え業者が買っていくことで費用の多くが相殺されるということです。もちろんそれだけでは足りず、文化財助成金などのおかげでまわしていけるとのこと。

萱は毎年刈らないと良いものが育たず、どちらにしても刈らなければいけないので無駄が出ないとても良い方法です。

そこで思い出したのが渡良瀬遊水地の広大な敷地の萱です。

もしかしたらその話のお寺も、渡良瀬遊水地あたりに萱場を持っているのかと思いましたが、渡良瀬遊水地の萱は、茎が太く屋根の萱よりは簾や葦ずなどに適したものだそうです。

そんなことを偶然、次の本で知りました。この本からは、実に多くのことを教わりました。

手業に学べ 技 (ちくま文庫)
塩野 米松
筑摩書房

川原にはえているヨシとアシは別ものですが、アシは悪しにつながるので吉原という地名と同じくみなヨシということが多い。

でも、屋根に葺く材料としては、ヨシとは言わずみな萱(カヤ)となる。

ところが現実にかつて日本中の萱ぶき屋根が、みなヨシを使っていたのかというと、そうどこでもヨシが手に入るものではなく、山間部など多くの萱ぶき屋根はススキを使っているのだそうだ。聞いてびっくり。

萱葺きの屋根師、熊谷貞好さんはいう

「全体から見て、茅屋根っていえば約80パーセント以上は山のススキでねえのかな。葦は限られたところでしか手に入らねえからな」

そもそも茅とは、ススキやチガヤのこと。

屋根の縁の大事な水切り部分にヨシなどを使うことは多いとしても、それぞれの地域でススキ、ヨシ、ワラなど入手できる材料が使われるのが実態。特に軒の部分は3層から4層の構造になるといいますが、それもすべてそうしたつくりであるとは限らない。

 

 そこで思い出したのが、今年5月に行ってきた山形の出羽三山神社

          萱葺きの厚みが2mもある日本最大の権現造社殿

 行ったときは、その屋根の大きさに圧倒され、残念ながら細かい構造などよく見てきませんでした。

 

今、専門の業者に頼んで農家の屋根をふき替えるなどといったら膨大な費用がかかってしまいます。何十年に一回といえども、とても普通の農家でできることではありません。

それが昔は、ほとんどが村の結(ゆい)などを中心に自分たちでやる環境があったからできた。

しかも屋根全部を一度に葺き替えるなどということはせずに、傷んだ部分を自分で修復しながら、部分部分を葺き替えていくことが基本。

必要な萱は自分で刈り集め、家の周りの冬囲いとして干し、大規模な葺き替えのみ村の助っ人以外に専門業者をひとりかふたりを頼み仕上げる。これが一般的な姿であったのだろう。

 

 私たちは、今年5月に福島県会津の大内宿へ行ったとき、偶然にも萱ぶき屋根の葺き替え作業をしているところを見ることができました。

 

 

 

 

 

 

 

上と下を見ると、ものすごい人数で作業をしていました。

こうした専門の業者も、最近では全国を渡りあるくことで年間仕事がけっこうとれるようになったと聞きます。

京都で茅葺民家を保存している美山町のように、職人を育成しているところもある。

昔の結いのつながりを活かして、村人相互がこの大仕事を助け合い行なうことは、自分の仕事がずっと村人にみられることになるので、失敗したところはずっと語りぐさになる。

それは恥というよりは、良い学びの環境でもある。

 

 

 

 葺き替えのコストは、数百万円から数千万円まで大きな開きがあるといわれます。

単純に大きさの問題ではなく、小さくても角の処理が多ければ大きな屋根と変わらない。

上の写真のような意匠を凝らしたものや排煙窓などがあれば、当然高くなる。

でも、こともと昔からある多くの建物は、お金をかけない様々なしくみで支えられていたことを忘れてはならない。

それは現代でも同じことであると思う。

 

実例に見る茅葺き屋根http://www7a.biglobe.ne.jp/~qwerty/kaya2zitu.htm

 

 

茅葺とは別に、桧皮葺、杮(こけら)葺き屋根などもあります。こうした工法も結果としてはだいたい同じコストだといわれます。

ちなみに余談ながら、杮(こけら)という字と(かき)の字とはつくりが違います。
ほとんど見分けはつかない、実態からすればどちらでも良いような話ですが、
(かき)の字のつくりは市ですが、このつくりが 杮(こけら)では、縦1本が繋がってます。虫眼鏡で見なければネット上の文字などわかりません。
折れやすい柿の木などおよそ板材には向かないのにどうして柿なのかといった疑問がこれで解けます。

 

この杮葺屋根も7月に秋田県の角館武家屋敷へ行き、私たちは見ることができました。

秋田では「ザク葺き」という。

茅葺は湿気を嫌うのに対して、このコッパ(木羽)葺きともいわれる柿葺き屋根は適度な湿気が木を守るので、苔の生えた姿がとても美しく映えて見えます。

ザク(「ザク」と聞くと別のイメージですぐに反応する人も多いと思う)とは、杉を鉈で薄く割った板を重ねていく工法で、鋸を使わず鉈のみで薄く割る技術。

ザクは、ネンボク(天然木)があれば一番よいという。

天然杉は、目が細かい。植林の杉は栄養が良いぶん目が粗いだけに傷みやすい。寿命に3年以上の違いがでるという。

 

 阿仁街道から男鹿半島へ向けて走る道中、美しい秋田杉の山々をみてきました。

秋田杉の樹形の美しさには驚きました。

このブランド力にはスゴイものがあると感じましたが、それでも天然杉はほとんど今では手に入らない。

 かつて伐採は、木の活動が休んでいる冬の仕事でした。

伐採で倒れても雪で木が痛まないことや運搬のしやすさなどもある。そのおかげで雪に埋れた根元を多く残すことができ、ザクに必要な良質な根株部分(8寸)が確保できた。

様々な要素がうまくつながって循環していた社会を、簡単に今取り戻すことはできない。  

 保存を観光地化することで守ることもできますが、美しい景観は、そこに暮らす人の営みがあってこそ守られるものです。

 

 かつて大内宿が保存か開発か、村を二分する大論争の末に今の姿が守られたように、周囲がどんどん便利な生活に変わっていくなかで、ただ歴史保存のためだけにそれを維持しようとするのは大変なことです。

 しかし、最近になってようやく、その一見不便な暮らしのなかにこそ守る価値のある豊かさがあるのだということが徐々に見えてきました。

観光地化によって守るか、

歴史文化遺産の保存として守るか、

自分たちの財産として守るか、

古民家の移築、再生など個人の趣味として守るかなど、 

選択の仕方は、それぞれの地域によって条件は様々だと思います。

古民家スタイル (ワールド・ムック 938)
クリエーター情報なし
ワールドフォトプレス

 またいつもの論調になりますが、国の保護予算獲得は大事なことですが、誰がなんと言おうがこれは自分が守る価値があるといった人びとの手で、またそうした人への私たちの支援でこそ、このような消えかけている文化や技術を守り抜いていきたいものです。

 価値ある伝統文化は、しっかりと守って後世に伝えていきたいものですが、国の予算がつけばそれは保証されるものではないということを強調しなければなりません。

 塩野米松さんのすぐれた取材で伝わってくるのは、たとえその仕事が自分の代で終わるようなものであったとしても、それでは食べていけないことがわかったとしても、その仕事に誇りを持って生き生きとした姿で暮らしている職人たちの表情です。

 これは、補助金、生活保障などで支えられてできる表情ではありません。

 ひとりひとりが、戦争や貧困、様々な怪我や事故を乗り越えて年輪を重ねてつくられたものです。

 必ずしもサラリーマン生活や企業社会が悪いのでもなく、決して脱サラで解決するものでもなく、自分の命を何によって燃やすかという「足元の何か」の問題であるようにずっと思えてならないのですが、まだうまく説明はできません。

そういえば、これも塩野米松さんの本に出てきたことですが、宣教師フロイスが日本に来たとき、冷静に観察した記述があります。

西洋の水夫と日本の舟を漕ぐ船頭の違いを数々列記したなかに、こんなような表現がありました。

われわれの国では、水夫はいつも黙って座って舟を漕ぐものだが、この国では、船頭は立って舟を漕ぐ。

しかも彼らはいつも歌を歌っていると・・・

 

そうだ、労働や生活のなかに歌とリズムの絶えない暮らし。

それこそが、生きている姿の大事なバロメーターになるのではないだろうか。

なんかそんな気がします。

 

 

 

コメント (2)
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ガラガラポンを期待しない

2012年08月17日 | 脱・一票まる投げ「民主主義」 自治への道

世の中、国を問わず、性別や世代を問わず、さらには業種を問わず、おそらくまだまだ厳しい時代がつづくことと思います。

このような閉塞感がただよった時代には、「政界再編」などという言葉とともに、一度、世の中をガラガラポン(リセット)しなければだめだなどという風潮が高まってきます。もっと確たるリーダーシップが求められる時代であるとも言われます。だからこそ総選挙だ、などという言葉を聞くとわたしはとても虚しく思えてなりません。

確かにひとつの自治体や国のトップが変わるだけでも、これまで成しえなかった大きな変化が起きているのは事実です。でも、誰かに何かを期待するという発想そのものが、とても危険であるばかりか、結果は社会の進歩をもたらさないものだということも、もっとよく考えおくべきだと思います。

政治の問題に限らず、今の日本は、戦争でもおきなければもう変わらない。

いっそ隕石でも落っこちて、一度世の中をチャラにしてほしい。

などといった空気が蔓延しているのも感じます。

このような思いは、私自身もかつて思ったことがありました。
実は、つい最近、引越しなどの環境の変化もあってか、気力体力ともに喪失してしまい、最近では考えられなかったような自信喪失スランプに陥っていました。そんなときは、どうしても自力では突破口が見えなくなっているので、いっそもう一度首都直下大地震でもおきて、日本をチャラにしてもらえないものだろうか、などと考えてしまうものです。

この間、自分自身がそのような情況に追い込まれてよくわかりました。
といっても、不調のどん底にいるときにはなかなかそうした発想から抜け出せないこともよくわかったのですが・・・

ガラガラポンへの期待、
戦争でも起きなければ世の中変わらない・・・などなど

ほんとうに、そう思うほど世の中閉塞感に満ちていることは確かです。

でもよく思い出してほしい。

わたし達は、すでにそうした大変化、ガラガラポンを既に何度も経験しています。

政権交代?
政界再編?
未曾有の大災害?

どれももう起きていることではないですか。
経験していることではないでしょうか。

十分に!

にもかかわらず変えられなかった私達の力の弱さがあるということの方を
もっともっとよく見据えなければいけないのです。

いや、それは我われの責任ではなく、上の連中が悪い?

いや、もっと大きな変化が起これば、みんな目が覚める?

ひょっとしたらそうかもしれません。

でも、もう一度よく考えてみてほしい。

もっと大きな何かが起これば、それは保証されることなのでしょうか。

真に変わることを求めるのならば、目先の変化を求めてしまうほど
後で大きな代償を払うことになるということも私たちは学んでいるはずです。

「他の何か」に期待するということ
もっと冷静に見なければいけません。

必要なもの、大事なことは
「誰か」の「他の力」ではなく
「私たち」の力なのです。


自分自身、元気なときによく言っていたことを思い出す。

会社であろうが、地域であろうが、国家であろうが、
その1構成員である自分は、肩書きにかかわりなく
自分のかかわるその問題に対して常に「全権」を持っている。

それこそが「一票」なのだ、
などとは申しわけありませんがあまり思っていません。

もちろん、その「一票」が大事でることに異論はありませんが、たとえその「一票」を持たない、すべての社会的権利を喪失した立場であったとしても、「生きている個人」であるならば、自分がどうするかということに関しては、常に「全権」持っているという原則のことです。

誰もがスーパーマンになる努力をしなければいけないということではありません。

いやならやめる、
自分に力が無ければ助けを呼ぶ、協力を求める。

こういったレベルのことです。

自分に必要な次の一手は、いかなる場合でも自分が握っているのです。

「それぞれの国民はその国民に適合しその国民にふさわしい体制(国家)を有する」
といったようなことをヘーゲルが言ってましたが、一部の人からこれは、不合理な体制を否定する権利をヘーゲルは見落としているなどとも言われました。

しかしここでヘーゲルの言っている論点は、国民に不合理な体制であったとしても、国民自身がそれを変えられない限り、そこにはまだなんらかの「合理性」が存在しているという点にこそ核心があるのだと思います。

弁証法議論に深入りする力は私にありませんが、閉塞感に満ちた情況から脱する手がかりというのは、難しい問題ではなく、自分に出来る次の一歩、一手をどう見極めるか、目の前のひとりにどう対処するかにこそすべてかかっているのだということです。

ほとんどの場合、すべての問題を解決する力は誰も持っていませんが、目の前のひとつの問題に集中さえできれば、多くの他の残っている困難な問題は、難問ではなくなるものです。

もちろんこれで日本が変えられるわけではありませんが、世界を変えるほどの自信がここから湧き出てくることは確かです。ひとりひとりが、自分の目の前のひとつの問題に集中することなく、国家や社会の問題が解決することは決して幸せな結末をもたらすものではないとうことを強く感じます。

マスコミに登場する人たちが、ガラガラポンを大いに議論してくれることは必要なことで、私も期待しています。楽しく見させていただいてます。

でも、私自身は決してガラガラポンには期待しません。

急激な変化や、特定の個人の力に依存した変化は、すぐに揺り戻しが起きて元に戻ってしまうからです。

 

 

次の本も、きっとこのようなことが書いてあるに違いない。

ヒーローを待っていても世界は変わらない
湯浅 誠
朝日新聞出版

 

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