かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

異常気象は「恩恵」ももたらす?

2018年11月10日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

ほとんどの地域で稲刈りは、遅くても10月末には終えているのが普通ですが、いまいろいろお世話になっている田村さんの田んぼは、毎年11月に入ってから刈り入れをします。

といっても、暦を見て、稲の生育を見て、天気を見て決めることなので、明確にいつと決められることでもないようですが、今年の夏の猛暑は農家にとって様々な影響を与えたようです。

数日前から、この田村さんの遅い刈り入れの稲を撮影しに寄っていたのですが、昨夜、田村さんの方から是非写真を撮ってもらいたい稲があるとの連絡をいただきました。

それは、この夏の猛暑が原因なのかどうかはわかりませんが、突然変異の稲が出たので、それを撮影してほしいというのです。

それは喜んで、と今朝すっ飛んで行ってきました。

聞くとそれは稲の茎が異常に太いものが出たのだと言います。

前にも、こうした茎の太い稲が出たことはあるそうですが、今回で2回目であるとのこと。

これも手作業の稲刈りでなければ気づかないことでしょう。

 

リンゴやミカンなどの果実類は、突然変異が出やすいそうですが、稲の場合は滅多にないそうです。

いろいろ話を伺っていると、異常気象の時こそ、自然界の生き物にとって多くは災難であるかもしれないけれど、同時に新しい生命が生まれるチャンスでもあるようです。

田村さんいわく、環境が激変する時こそ、それまでの環境では生まれてこなかった新しい異端児が出てくるものだと。厳密には、突然変異種は異端児よりももっと稀なもので、革命児とか異星人に近いレベルのものです。

この異端児というのは、環境が安定している時にはあくまでも異端児として排除されていく立場なのだけれども、これまでになかった環境が現れると、この異端児こそが次の時代を作る主役の側になる可能性があるというのです。

その意味で、異常気象というのはこうした異端児が生まれてくるチャンスでもあるので、農業の未来にとっては必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと話してくれました。

苗や種を買ってきて植える農業と違って、親から生まれた子どもをきちんと育てる農業を行っている田村さんにとっては、こうした一つ一つの突然変異の事例は、とても大切なもののようです。

DNA解析や遺伝子組かえ技術で組み立てる生命ではなく、生まれ育った一つひとつ固有の環境の中でこそ生命は輝きを増すのですから。

田村さんと農業の話をしていると、いつも子育てや教育の話をしているのか、現代医療の話をしているのか、はたまた哲学の話なのかわからなくなります。

 

田村さんに何か太さを比較する目印になるものはないかと言ったら、綿棒を出してくれました。

帰ってから気づいたのですが、普通の稲と並べるのが一番わかりやすかったですね。

また次に撮影してくることにします。

農業を経済効率だけで考えてしまうと、細胞の数は変わらないまま、ただ太らせることや、より甘くなることのみを追いもとめがちですが、本来は、生命そのものの力を強くすることこそが基本であるはずです。

それには、畑に実ったものの姿だけを見ていたのでは何もわかりません。

育つ前の土の中の環境にこそ、まず目を向けなければなりませんが、それは目に見えるミミズや昆虫だけではなく、人間の目には見えないたくさんの微生物によってこそ支えられているものです。

現代農業は、そのデータを全くとっていません。

たとえが古いかもしれませんが、窒素、リン、カリの配分比率の問題ではありません。

確かに昔に比べたら、化学肥料や農薬が人間に取ってどれだけ害があるかどうかは、しっかりとしたデータを取り「安全」なものを「より多く」生産する農業は飛躍的に進歩してきました。

でもどんなにデータで立証されようが、生命が痩せ衰えていく農業に未来はありません。 

農業をめぐっては、後継者問題をはじめ太刀打ちできない大きな問題が山ほどのしかかっていますが、だからと言って目先の利益を追求したところでその場しのぎにしかならないことも確かです。

農業に限らず、世の中全体が「生命」とどう付き合うかを、一つひとつ考えること、見つめること抜きには突破口は出ないものと思っています。

そんな意味でも、田村さんの畑にお邪魔することは私にとって最高の時間です。

 

 

同じく、下の写真は、昔はなかった姿だと言います。

稲を刈ったそばから新しい芽が見事に出ています。
こんな光景が最近はあちこちで見られるようになったそうです。

原因は、気温が暖かくなったからなのか、栄養の与えすぎによるのか一概に断定はできないようですが、これならそのまま二毛作ができそうです(笑)

もしかしたら、これから本当にそんな時代になっていくのでしょうか。

 

 

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黄葉、それとも紅葉? 若かへるでの黄葉つまで

2018年11月07日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

結論から先にいえば、どちらでも良いのですが、

秋の「紅葉」は、「黄葉」とも書きます。


 これまで、群馬の恵まれた自然のなかで秋の紅葉を毎年見ていると、標高の高いところでは、ブナ樹林帯を中心に黄色に染まる「黄葉」の方が一般的で、標高が下がるにつれてナナカマドやヤマウルシが増えて、やがてカエデの比率も高まり、黄色の中に赤い「紅葉」が増えてくるかの印象を持っていました。

 事実、萬葉集ではほとんどが「紅葉」ではなく「黄葉」の字が使われています。
          参照リンク  萬葉集に見られる「黄葉」について 

 私は万葉の時代は、まだ人工の森林が少ない時代だから自然とそうなるのだろうと長い間、勝手に決めつけていました。

 ところが、最近になって涸沢カールなどの高山の紅葉の名所の写真などを見ると、必ずしも標高が高ければ黄色が多いとは限らないことにも気づきました。
 むしろ樹林限界を越えると、赤く紅葉する低木も意外と多くなってくるのです。
 

  写真のせいもありますが、いくら絶景とはいえ、これはやりすぎでしょうと言いたくなるほど鮮やかな色です。

 

 

 そこで冷静に考えてみると、萬葉集の表現であっても「黄葉」という表記を使うのは、必ずしも古い時代の自然の山々が黄色だから「黄葉」と書くのではなく、目に入る景色に「紅葉」の赤が入っていても「黄葉」の表記を使うのだと思うようになりました。

それは何よりも、群馬の地元の東歌で北毛地域に住む私たちに愛されている、色気たっぷりの次の歌がその答えを示しています。

  子持山 若(わか)かへるでの 黄葉(もみ)つまで

 寝(ね)もと我(わ)は思(も)ふ 汝(な)は何度(あど)か思(も)  

             (万葉集 巻十四 3494)

 

20年近く前に作成した枝折ですが、最初に作成した校正ミスの枝折がまだ残っています(右側)
気づく前に、おそらく2、30枚は配ってしまったと思います。 

 

「若かへるで」 カエデのもみつまで、というのですから、カエデが赤くなることを「黄葉つまで」の表記にしていることに間違いはありません。

 と、結論づけたいところだったのですが、

 実は、カエデも赤色の印象が強いかもしれませんが、黄色く黄葉します。

 

 このように先に黄色くなってから、赤くなるわけです。

とすると

 

「若かへるでの黄葉つまで」は、萬葉の時代には「紅葉」の表現が一般的に使われていなかったからではなく、
事実の表現として率直に使われていたのだということも考えられます。

さらには、「黄葉つまで 寝もと我は思ふ」という黄葉するまで一緒に寝ようという思いは、「若かへるで」の表現とともにずっと長くともに寝ていようというニュアンスよりは、ちょっとせっかちな赤く紅葉する前の時間に限定してイメージしているようにも見えます。

あなたとずっと長く寝ていましょう、
というより、
さっさと一緒に寝ましょう 
といった思いの方が強かったのかもしれません。 

確かに、さっさと寝てさえしてしまえば、
あとは勝手に赤く燃え上がるのですから(笑) 

 

 

加えて私は、この寝ようという相手は、
子持の眠り姫」であることに間違いないと考えているのですが、
また話が長くなるので、詳細はリンクをご参照ください。
黄葉といえば・・・子持の眠り姫 

 

 何かわかったようなつもりで書き出したものの、結局、素人にはただわけがわからなくなるばかりなのですが、これまで群馬県の奥利根地方の美しい紅葉を毎年追いかけてきた私たちからすると、鮮やかに赤く染まる「紅葉」が美しいことに変わりはありませんが、その前の段階や、赤い紅葉の背景にいかにたくさんの美しい黄色の「黄葉」 があるかということだけは、間違いなく強調させていただきたいと思うのです。

 

京都などの観光名所の写真や文学、芸術のイメージなどとともに、紅葉といえば赤く染まった景観とばかり思われがちですが、その赤を引き立たせるのも、緑や黄色の他の木々や葉っぱ達であることを見落としてはなりません。 

 

白洲正子『木 なまえ・かたち・たくみ』(住まいの図書館出版局)より

 

そんな思いでこの尾形光琳のうちわ絵の構図を見ると、改めて日本美術の極みを感じます。 

これは「竜田川」の銘があることから、在原業平の

「ちはやふる 神代(かみよ)も聞(き)かず 竜田川(たつたがわ)

    からくれないに 水(みず)くくるとは」

を描いたものとわかりますが、

「竜田川 からくれないに水くくるとは」の動きが紅葉をギリギリに抑えて見事に表現されています。

 

 

春の桜のインパクトの強さを考える時も同様ですが、千両役者の赤か黄色か緑色か金色かではなく、目立つものを支える数多の背景の豊かさこそが、それぞれを引き立てているのであり、事実、生命はそのようなものによってこそ支えられているのだということもあらためて考えさせられました。

 

 

 

 

ま、それにつけても

紅葉の美しさに酒のうまさよ(笑)

 

 

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