かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

教師が「ジャッジ」しない、子どもとの「関係」づくりの教育のことをどう表現するか。

2015年06月28日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

指導をしない作文教育ですばらしい成果を出されている飯塚先生のことは、何度かこのブログで取り上げてますが、もう久しく前からその飯塚先生が毎週のようにお店に来てくれて、私といろいろ話をしていってくれるようになりました。

今日は、子どもが書いた文によせる先生のコメントのことを「評語」と言っているのですが、その「評語」といった表現でこの活動を言い表すことがどうも誤解をうみやすく、なにかしっくりこないといった話題になりました。

子どもがどんなボールを投げても、教師や親はそのボールを先にジャッジすることなく、まず必死に受け止めてあげられるかどうかが大事なのだということなのですが、その受け止める作業を先生は、「評語」=「コメントを返す」というプロセスで目覚ましい成果を生んでいます。

そのコメントを飯塚先生は、ずっと「評語」という言葉を使っているのですが、それがたまたま今回の企画のチラシで「評価」と誤って印刷されてしまったらしいのです。

ところが、そのことによって訂正を説明する際に、ややもすれば見過ごされがちな「評語」と「評価」の違いをあらためて意識してもらうよい機会にすることができたというのです。

にもかかわらず「評語」という表現は、私も感じていたのですが、先生もどうもしっくりこない感じがしていたとのことでした。 

確かに教師や親からの「評価」ではないということが大事なのですが、これでは教師側の視点の違いだけが協調されて、肝心な子どもとのその瞬間に築かれる「関係」の意味合いが欠けた表現になってしまう。 

「評価」することなく、こどものあらゆる行動や意識を評語=コメントをそえてその瞬間の固有の関係を築くことこそが真骨頂なのですが、
子どものどんな行動であっても、
それが理不尽なものであっても、
非道徳的な行動であっても、
学校内で通常はは許しがたいイタズラであっても、
ジャッジすることではなく、
それを「共感」するとは言えないかもしれませんが、率直な驚きの感情などとともに、そうした子どもたちのエネルギーにきちんと寄り添う。

こうした飯塚先生のスタンスは、やはり「評語」といった表現だけでは伝わりにくい。 

「関係」の作り方こそがミソであり、
そこに生まれる独自な関係こそが、
通常の教育現場とはまったく「異質な場」を生み出す。

そこに子どもたちは見事に反応し、
教科指導をしているわけでもないのに、
学力までも自然に向上していく。

これをいったいどんな表現で簡潔に言ったら良いのだろうか?

そんなことを今日は話したのですが、たまたま家に戻ってtwitterを見ていたら
M・エンデの言葉で以下のようなことが紹介されていました。

「私に言わせれば、ほとんどすべての芸術や文学の仕事は、
それまで名前をもっていなかった事柄に、名前をつける事なんですよ。
名前をつけられれば、人間はその事柄と関係をもてるようになるわけですからね。」
         『芸術と政治をめぐる対話』

 

なるほど、飯塚先生のやっている「評語」というのは、子どもと教師とのその瞬間の固有な関係、固有の時間に 「名前」をつけてあげる活動なんだ。

ひとつひとつの貴重な子どもの「体験」=「時間」に、決して点数をつけたり正しいかどうかジャッジすることではなく、「名前」をつけてあげることでそれが「いのち」輝く無二の時間であったことに気づく作業、それが飯塚先生の「評語」なのだと。

まだ「評語」に替わる表現がなんなのかが見えたわけではありませんが、このエンデの言葉によって意味の理解では大きく前に進めることができました。 

 

 

 

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「月夜野百景」~観光スポットづくりが第一の目的ではない理由~

2015年06月27日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「月夜野百景」のホームページでは、下図のような観月スポットを公表しています。

 しかし、どうもこの図を地元の人に見せると、観光スポットとしてどう整備するかという話しにばかりなってしまう傾向があるので、ここでホームページに書いたことをちょっと補足説明させていただきます。


http://www.tsukiyono100.com/#!moon/c1han



 ホームページと共に作成した下の「月夜野 お月見ガイド」三つ折りリーフレットの右側部分に記した内容を、そのままでは見づらいので書き出すと以下のような表現になっています。

 

 ここに観月スポットを紹介したからといって、それは必ずしもそこに観光スポットづくりを目指した土地整備を提案しようといったことではありません。

 ここに紹介した観月スポットが魅力的な場所であるのは、その多くが私有地としてそこで田畑を管理している人たちの暮らしがあってこその世界です。

 観月に最高の土地だからといって、もしそこをまちが買い上げて下手な観月台でもをつくってしまったならば、観光のためだけの管理費がかさむ品のない場所になることは必至です。

 まちが雇った清掃員に管理してもらうような空間よりも、そこで田畑を耕している農家の人たちが生活や作業空間として畦を直したり草を刈ったりしている方が、どれだけ美しい空間が維持されるかと思うのです。

 さらには、場所は公表できませんが、あるところはキツネの家族の生活空間であり、またどの場所をとってもその他たくさんの先住動物たちの暮らしのある彼らにとってはかけがえのない空間なのです。多くは田畑を荒らす害獣として現れますが、常に人間との距離をはかりながらそこに生きてるのです。

 もちろん、それらの暮らしを守るための環境整備はしなければなりませんが、人とあらゆる生き物のバランスのとれた環境こそが、なによりも美しい景観を約束するものであると私たちは考えます。

 これら観月スポットを訪れる時は、そうした先人の場所(月のバックグラウンド)にお邪魔させていただくということにも十分気を配っていただければ幸いです。

 まさにそうした豊かなバックグラウンドこそが、月の様々な物語を生み出してくれていた主人公たちでもあるのですから。


 月をみるということを通じて、わたしたちが取り戻し築いていきたいのは、なによりもこうした暮らしの景観を取り戻すことが優先であり、それがやがて観光につながることも確信してはいますが、決して暮らしの景観を犠牲にするような観光は求めていません。


 事実、円安のおかげで急増しているインバウンド需要をみても、外国人観光客たちが日本のどこを見て感動しているのかをつぶさに見れば、それが必ずしも金閣寺や清水寺などの日本的歴史建造物ではないことに気づかされます。


それは日本的ソフトの部分、

つまり国民文化の中に染み付いた「禅」や「武士道」、

マナーの良さや「おもてなし」の精神、

あるいはトイレなどの清潔さを大事にした文化、

あるいは新宿のゴールデン街や原宿や秋葉原のサブカルチャー、

さらには語学力などを問わない田舎のおばあちゃんの親しみやすさ

などにこそ共感し、大きな感動を覚えているのです。

 



 その広い意味でのソフト面をともなった「暮らし」を取り戻すということが、現代では切実な課題となっているのを感じますが、それはとても長い時間をかけて暮らしの習慣として私たちが再自覚して身につけて行かなければならないものなのだと思います。

 もちろん、「ハード」ではなく「ソフト」が大事といっても、人が集まる空間には整備された公共のトイレな道路などの整備が不可欠です。

 しかし、その場合でもその空間の持つ意味が発揮され認知される十分な「ソフト」と豊かな「バックグラウンド」があってこその世界なのです。




より早く

より多く

より遠くを求めなくても

 

この地からみあげるだけで

 

満ちては欠けて

刻々と場所やかたちを

変えながら

 

再生をくりかえす

月とともにある暮らし。

 

それは私たちの

ゆったりとした

ここに今あるもののなかにこそ

 

無限の豊かな世界が

広がっていることを

気づかせてくれます。


(月夜野百景、「月」のページより)


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月夜野神社 ~意外と知られていない、とても大切な空間~

2015年06月10日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 みなかみ町に腰を据えて暮らすようになって3年が経ちますが、お恥ずかしながら、当初この町に月夜野神社というのがあることを知りませんでした。

 牧野神社、子持神社、村主神社などのことは聞いていながら、合併前の月夜野町の名を冠した神社があることは、言われてみればあってしかるべき神社ですが、地図で知ることも、話しに聞くことも、この場所に出会うこともそれまでなかったわけです。

 たまたま地元の修験道のお寺である三重院の圓信さんが、SNSでいま月夜野神社にきているとの記事をアップしているのを見てはじめて知った次第です。

 ところが、後になって知ったのですが、この神社、地元の人たちですら、意外と知らないひとが多いのです。

 

 場所は、新幹線の上毛高原駅の前の道を南にまっすぐ下り、国道291号バイパスをくぐる手前の西側にあります。

 ここが、本来の正面の参道。

 この南側からの参道は、新しく出来た道路(国道291号バイパス)の影になってしまい、現在は北東側からの入口が一般的になっていますが、かつて月夜野の宿からこの神社を見上げてここに至る参道は、格調の高いものであったことと思われます。 

 

「桃野村誌」「月夜野町史」によるとおよそ以下の通りです。 

 現在の本殿は寛政四(1792)年、月夜野字洞の寿命院境内に建立された吾妻神社で、祭神は明治四十二年の神社統合(社寺整理令により「一村一寺」によって当地区内に点在していた21社19祭神を神明宮に合祀しされ、これを機に「月夜野神社」と改称されました。

 祭神は、素戔嗚尊。大物主命、菅原道真公、大国主命、菊理姫命、倭健命など19祭神におよぶが、月夜野という土地でありながら月読命は入っていません。

 創建当初は、天照大神を祀る都神明宮と呼ばれ、江戸時代前期、沼田藩主真田伊賀守信利により再建されています。

  

 ホームページ「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.com などの活動で大変お世話になっているので、せめてお賽銭でもと思ったのですが、なんとこの神社には賽銭箱がありませんでした。

 盗まれてしまったのか、もともと無かったのか(この神社の歴史からすれば、そんなことは考えられません)

 地元の氏子さんにでも聞くべきところでしょうが、とりあえず100円ショップでみつけた簡単なものを勝手におかせていただきました。(これが三方ということも、わたしは今まで知りませんでした。)

 

  これをおいてから一週間程のちに来てみたら、お賽銭はきれいに無くなっていました。

 管理者が回収してくれたのか、はたまた子どもの賽銭泥棒にでもあってしまったのか。

 ま、たとえそうだとしても神様が見ている目の前でのことですから、それもまたよしとしましょう。

 

 いま、日本中どこの神社も観光名所にでもなっていない限り、このように寂れた雰囲気の神社が多く、地元ですらその由緒がきちんと伝わっていないことは多いものです。

 私もはじめてこの神社を訪れたときは、そうした印象で舞殿があること、下からの参道が素敵なこと以外は、とくべつなことは感じること無く帰ってしまいました。

 ところが、

 たまたま再度ここへ来たときに、なにげなく拝殿横から奥を見ると、なにやら看板がたっているのが見え、それに近づくと立派な彫刻が施された本殿が後ろに隠れていることに気づきました。

 

 

 早速、ネットで月夜野神社を検索してみましたが、あまり詳しい情報はみつかりませんでした。

 そこでいつも頼りの『古馬牧村史』を開いてみましたが、ここは合併前は古馬牧村ではなく、桃野村に位置する神社なので、当然のことながら『古馬牧村史』には載ってはいません。
 したがって『桃野村誌』をひもとくのですが、『古馬牧村史』に比べると『桃野村誌』は、記述が古くとても読みにくいものです。

 境内の看板でもおよそのことはわかるのですが、『月夜野町史』と『桃野村誌』をあわせてわかりにくい文を要約抜粋すると、以下のようになります。

 

 昭和十二年、月夜野神社の里宮本殿を、本神社拝殿の裏にある覆屋内の現在位置に遷座した。
 移転は、解体によって彫刻が破損しては、との配慮から、建てられたまま寿命院境内の山腹から木ソリとコロを使い人力で移設したといわれる。

 棟札には、寛政四年(1792)の建立で、宮大工棟梁は榛東村新井に住む柏木・大河原二人の名が書いてる。

 一間社流造り。軒唐破風向拝付き、龍、雲、水流、花鳥の彫刻は彩色がなされ、斗栱(ときょう)〈組物・枡組〉も四手先と装飾的に組まれており、特に軒先天井部分(軒天)一面に彫られた雲型の模様は珍しい意匠である。

 この板軒は近郷にその例がなく、遠く千葉県成田の成田山新勝寺の三重塔(国指定重要文化財)に、この板軒の手法が使われている。

 

 

 

 

 明治四十一年に「月夜野神社」に合併された主な神社の由緒は、「桃野村誌」に以下のように記されてます。

 当初、全部を転載することは過剰な情報かとも思われましたが、それぞれの由緒が「月夜野町史」には省かれているこの地の大事な歴史なので、長文引用になりますがここに記しておきます。
(旧字旧かな表現などは一部、平易な現代表現になおしています) 

都の熊野神社

 社殿によると、大永四年九月小川城主小川彦四郎の臣が創建した。彦四郎は、同月十五日兵火にて焼失の際酢を造って置いた造っておいた瓶に落ち致命し、その後村にたたりをするので、彦四郎の家臣が当社を建立し、九月十五日を祭典日としたという。後に真田伊賀守が再建している。

大額の須賀神社

 古来一小祠があったが、真田伊賀守が承応二年に本社並に神輿を建立し毎年六月二十一日から二十三日までが例祭となっている。この例祭は、二十一日に町の中央に仮社殿をつくり神輿を安置し、二十三日に本社に入れる。当日は町内のものは手踊をし、沼田藩役所から御目代と称し出役があり、近村からも参詣者が多かったという。廃藩と共に手踊もなくなり、山車三台を出すようになった。明治九年以後八月一日から同三日までを例祭とするようになった。
 また、神事の式次は、神職の先導で白丁(白鳥)神輿をかつぎ、一斉に「天王の御巡りはこまの角はえ候」と唱えながら町内を練り廻った。

 現在、同日8月1、2日に月夜野祇園祭(おぎょん)として行われていますが、須賀大神とかかれた提灯を使用していることからも、この祭神の祭りであることがわかります。

 逆に、須賀大神の提灯が、月夜野神社の祭りであることに気づかない原因になっているかもしれませんね。

古城の八幡宮

 伝説によると、寛治年間、八幡太郎義家が当地に暫く休憩して利根川を渡ろうとしたが、増水して越せず、矢をはなって浅瀬を探り、当八幡神社を祈念して容易に川を越すことが出来た。以来この近傍を矢瀬と称し、この時義家が冠を置いた石を冠石とよんでいる。寛文年間に真田伊賀守真澄は社殿を再建したが、明治二十一年焼失し、同二十六年氏子により再建された。 

薮田の諏訪神社

 当社は創建伝説由緒など伝わっていないが、薮田の雷電神社、深沢の大山 神社、洞の愛宕神社、下田の諏訪神社、都の神明宮などの諸社が、ほとんど寛文年間の真田伊賀守の再建と伝えられている。

洞の我妻谷神社

 大峯山の吾妻谷神社を真田伊賀守は尊信していた。しかし、山上のため登拝も容易でないので遥拝所をつくり里宮として崇敬したのがはじまりという。

  

 たくさんの神々が合祀され、変遷、移転をしてきた歴史のある月夜野神社。

 なぜこれほど多くの神様が合祀されて、わかりにくくなっているのでしょうか。
 それはどうやら月夜野神社に限らず、その原因の多くが、神仏分離令に代表される明治政府の施策によるところが大きいようです。

 まず祇園祭(おぎょん)のお祭りからたどると、そもそも京都の八坂神社は元は祇園社といっていたそうです。
 今でもあたり前のように祇園といえば八坂神社ですが、祇園というのは平家物語の祇園精舎の鐘の音でも知られるように仏教思想の表現ではないかとの批判があり、明治時代の神仏分離令とともに土地の名前をとった八坂神社に変えられました。


 江戸時代までは多くのお寺や神社は神仏混淆で、お寺の境内に神様も祀り、神社のなかに仏教思想も混在しているのが普通でした。それを明治国家が天皇制とも整合性を持たせる宗教を貫徹するため、純粋な神社神道を国の隅々まで徹底させてきました。
 そこでこれまで曖昧だった神社には、仏教や修験道との決別を強いるとともに、なんらかの古事記、日本書紀に出てくる神様の系譜をくっつけられたのです。
 それが、八坂神社の場合は、素戔嗚尊であり須賀神社であったわけです。

 こうして月夜野でも「おぎょん」と呼ばれる祇園祭に明治時代に関連付けられた素戔嗚尊を祀る須賀大神の提灯が飾られるわけです。


 このように従来の神仏混合型の神社の名残りと、神仏分離によって関連付けられた後発の神様たちが混在するために、ただ一村一寺一社にまとめられただけでなく「21社19祭神」という多くの神様が同居するわかりにくさを生んでいます。

 古川順弘『神と仏の明治維新』洋泉社

 

 

 そもそも「月夜野神社」という名前では、何の神様を祀っている神社なのかは、すぐにはまかりません。そしてそこにこれほど立派な本殿がひかえていることをどれだけの人が知っているでしょうか。

 

よそから訪ねて来られた方から、こんな質問をされることがあります。

「月の神様はどこにいるのですか?」

「月夜野神社のご神体はなんですか?」

 

どちらも素朴な質問ですが、これは私たちにとっても大切な問いです。

そもそも神さまは目に見えないものだからです。

 

本来の神社、神道の御神体は突き詰めれば、

  神奈備(かんなび)= 山

  神籬(ひもろぎ)= 森

  磐座(いわくら)= 岩

  霊(ひ) =  光

の4種です。

 

どこの神社でも、残念ながら現状を維持するだけでも大変な実情がありますが、この素敵な階段をちょっと掃き清めるだけでも、ここが格別な空間であることに気づけるようになります。

 

 いずれ、アマテラス偏重の神道観から、ツクヨミ、スサノヲの復権とバランスのとれた神様、自然観のことをからめてこの月夜野神社の意義について書きたいとも思っていますが、課題があまりに大きいので、それはもう少しあたためてからにします。

 

島田裕巳『神社で柏手を打つな! 日本の「しきたり」のウソ・ホント』中公新書ラクレ

 

 いづれにしても、明治政府が行った無理やりな合祀に対して、南方熊楠がいかにそれが本来の信仰を無にしてしまう暴挙であるか訴え続けた意味を考えるうえでも、この月夜野神社の歴史を振り返ることの意義はとても深いことと感じます。この一村一社令を契機に、神様、御神体のありかが、あたかも拝殿の建物の中にあるかのような習慣が浸透してしまいました。

 信仰の度合いや思いは人それぞれですが、本来、私たちが敬い祈る対象は、拝殿に向かうこと以上にその拝殿の向こう側にある見えない存在であり、それを敬う気持ちは、二礼二拍一礼のしきたりにこだわることよりも、真剣な祈り、祈念の瞬間にこそあるはずです。

 神の依り代となる空間を大切にし、どのようなところが神の依り代として長い歴史の間、崇められてきたのかをもう一度考える場所としてこの月夜野神社が行かされることも願わずにはいられません。

 

 神に祈る行為そのものは尊いものですが、本来、

 神は人に命じることも人を助ける義務もありません

 

 

 そもそも神様は、人間の都合で、どうにでも勝手に利用できるような安売りはしていないはずです。 

 2017年3月作成のリーフレット

 

 

 

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