かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

忽然と現れ忽然と消えた、利根の根利の根利山集落

2021年03月27日 | 「近代化」でくくれない人々
片品のKさんの情報で知った沼田市歴史資料館の企画、「足尾銅山を支えた根利山」をみて来ました。

この沼田市歴史資料館は、いつ出来たのか入ってみるのも初めてです。

 
この企画の根利山という集落は、足尾銅山の繁栄とともに十九世紀末に忽然と現れ40年ほどの歴史で忽然と消えた集落で、最盛期には三千人を超える人がこの山奥に暮らしていました。

 
沼田歴史資料館の館長さん手作りの索道ジオラマ
 
妻が以前、「根利」と「利根」を見間違えていましたが、根利という集落は現在もあります。
そして、根利は利根町(村)にあり、みなかみ町住民からしたら、あんなとこまで利根郡なのかと思うほど南に位置するから、やたらややこしい。
 
 
 
以下の写真は『幻の集落 ー根利山ー』財団法人水資源協会(平成15年9月刊)より
他の多数写真も企画会場で見ることが出来ます。
 
平滝文教場の運動会(昭和44年頃)
 
 
祭典風景(倉庫に作られた祭典飾り物)
 
 
荷倉峠より広河原を望む索道
 
 
鉄索のロープの運搬(大正5年)
 
 
すべて鉄骨ではなく木で組み上げられた
 
 
土橇の巻下げ装置(インクライン)
 
 
砥沢のスケッチ(籏光男氏作成)
 
 
 
 
 
参照リンク
 
 
 


 
若い頃この山域は、沢登りや縦走で何度か行き、私にとってもとても思い出深いところです。
 
登山口に至る林道は、平川沿い林道も栗原川沿い林道も行く時は通れても、帰る時は落石をどかしながら通らなければならないような道。

(地図のオレンジマーカー部分が私の通ったコース)
 
 
思い出の縦走は、平川から入り沢登りで皇海山へ、国境平にテント泊してる間は、一晩中テントの周りをシカの群れに囲まれ、なかなか寝つけなかった記憶があります。
時々、テントから顔を出してはバアーッと声を出して追い払うのですが、効果は一瞬のことで他に打つ手はなく諦めざるを得ませんでした。
縦走してみれば、この国境平一帶は樹木がなく開けた場所なので、確かにテントをはるには絶好の場所ですが、それはシカの群れにとっても同じで、あたかも周辺のシカがみな夜になるとここに集結するかのごとくでした。
 
三俣山、宿堂坊山と縦走し、4日目に錫ヶ岳の手前で下山する尾根筋を探すと、突然、幅1mほどに踏み固められた道が現れたので、林業作業用の道かと思ったら、なんとそれはシカの通り道。
いわば山の高速道路。
支道が縦横に走ってる。
どう考えても人間の作った道としか思えないほど綺麗に踏み固められているので、誰もがその獣道に踏み込んでいってしまうことでしょう。

尾根を下り林道を目指しましたが、地形図を分割コピーしてきた継ぎ目が途切れていて、現在位置から駐車場までの距離が分からず、ヘッドライトの電池が切れる夜中まで歩き通し、履物が沢登り藪漕ぎを想定した地下足袋だったため足の爪10枚すべて剥がす目にあいました。
この時の地下足袋は、裏にスパイクのついた営林用地下足袋で、道なき斜面をガシガシ登るには適したものですが、暗闇で岩がゴツゴツした林道で疲れた足が上がらない最終日には、わかっていながらも何度もつま先を岩にぶつけざるを得ない散々な目にあいました。これも今では若き日の勲章のひとつです。
縦走4日間、遠くに二人組を一度見ただけで、人間には全く会わずに自然と歴史を満喫できるとても素敵な山旅でした。
 
 
そんな一帯でかつては、ワイヤーケーブルの索道が縦横に走って盛んな林業が行われており、至るとこでそうした痕跡を見ることができます。
 
 
不思議と産業遺産のただ廃墟とは異なり、当時の人々の息吹が何か山全体から伝わってきます。
 
当時は、まだ「岳人」の根利山の特集記事は見ておらず、『足尾山塊の山』『足尾山塊の沢』などの今は幻の名著に触発されて行った気がします。
 
そんな山域のかつての姿を、今回の企画と資料で初めて概要を広く知ることが出来ました。
 
 
実際に登山道から外れた所まで行かなくても、この企画展を見るだけでも十分価値はあります。

企画は4月4日(日)まで。
 
 
 
【補足情報】
 
以前、知人のSNS情報で根利の集落に森林鉄道博物館のようなものがあることを知りました。
いろいろな森林鉄道の機関車や車両が展示されており、このような山奥によくこのような施設があるものだと感心したものです。

ところが、後に森林鉄道や鉄道博物館などのキーワードで検索をかけても、なかなかここの情報が出てきません。
どうしてなのかと根気よく検索し続けてみたら、ここが林野庁の林業研修施設の一部であることがわかりました。展示されている機関車などは、必ずしもこの地域で使用されていたものではなく、広く国内の林業で活躍していたものを集めて展示しているものでした。(その後、この地域で使われた機関車を簡単なベニヤ工作で再現したものが加わりました。)
 
林業で栄えた場所ならではの研修施設でもあるので、こちらもおすすめです。
コメント

地元の鉱山開発の歴史と高橋是清の足跡 略年譜をつくりながら

2018年12月28日 | 「近代化」でくくれない人々

『古馬牧村史』に書かれていることですが、私たちの地元みなかみ町には、いくつかの鉱山跡があります。

 ところが、幸か不幸か、どこも私有地であることなどから、ほとんどの鉱山跡は地元でも意外と知られていないことを知りました。今も残る坑道跡など、私有地内ということだけでなく安全管理の問題もあり、立ち入りには慎重な姿勢が求められています。

 そのようなことから、とても興味深い産業遺産でありながらそれを周知させることはとても困難であると言われていました。しかし、もはやネットなどで廃墟マニア、鉱物マニア、鉱山マニアなどによってどんどん情報が流れ出る時代になっています。ただ地元だけでタブーにしているわけにはもはやいかなくなってきたように思えます。

 そこで、困難なことであることは承知しながらも、どのようにしたらその歴史的価値を地元に伝えうるか、その方法を時間をかけてでも模索していこうと、そうした鉱山跡のひとつについて地元の人たちが立ち上がってくれたことをきっかけに、チャレンジしてみることとなりました。

 結論から言うと、まずは地域学習内部資料を作成することになったのですが、この作業を通じて私たちはとても多くのことを学ぶことができました。

 ネットで公開できるのは、限られた内容となりますが、その一部をここに書き記しておこうと思います。

 

 

1、歴史遺産の調べ方・学び方・方法論について

以下、学習資料に書いた文を転載します。

 地方には様々な歴史的・文化的価値ある資産が埋もれています。それらの貴重な資産は、心ない興味本位の人びとによってしばしば荒らされるだけでなく、メディアや専門家の手によっても破壊され奪われていくことも珍しくありません。
 そこには、ただ「価値あるもの」だからといった名目のもとに、その土地にずっと暮らし生き続けてきた地元の人びとや自然の命に対する想像力や配慮といったものが視界に入っていないものです。
 私たちは、この鉱山の歴史や実態を学ぶとき、そうした声なき人びとに耳を傾ける心も同時に学んでいかなければならないことを知りました。
 この調査学習資料は、内容の多くは『古馬牧村史』を参照しておりますが、発行にあたっては次の本の指摘に多くを学びました。  

宮本常一・安渓遊地 『調査されるという迷惑』みずのわ出版 

 同時に、内部学習資料で有っても、簡単なレジュメやプレゼン資料にするのではなく、リーフレットや雑誌の特集記事のようなレイアウトに仕上げることで、「伝える」という作業をさらに深めることができました。

これもとても厄介な地域の人たちの理解を得る作業を、粘り強く行ってくれ方がいてくれたからこそ続けられた作業です。

そのためにも、難しい課題ほど、文章の練り込みやわかりやすさだけではなく、写真の力、タイトルの表現、ページレイアウトなども同等のこととして手間をかけることがいかに大事であるかを学ぶことができました。

 

 

2、明治から昭和の戦争に至る時代の中枢にいた高橋是清という人物

 

 高橋是清は、総理大臣としてよりも、昭和金融恐慌など財政危機を乗り越えた大蔵大臣として広く知られています。
 戦争の道へ突き進んでいく時代に是清は、軍部の圧力にも屈することなく財政再建を果たした手腕が高く評価され、ダルマさんの愛称でも親しまれています。

 経済不安や財政危機が叫ばれる現代にこのような人物がいたならばと、しばしば話題にされる人ですが、そんな高橋是清が、旧古馬牧村(現みなかみ町)と深く関わっていたことは、あまり知られていません。

 明治二十二年、是清は鉱山開発をはじめるためにペルーに渡りますが、すでに廃鉱であったことを知り帰国。その直後に天沼鉱山の経営にかかわるようになりました。
 近代化を急ぐ明治政府にとっても、資源の開発は切実なものでした。足尾銅山をはじめ江戸時代に停滞していた数々の鉱山が再び活況を呈し始めた時代です。 そのような時代に、是清が経営にあたった天沼鉱山は明治四年に鉱業法が制定されて以来、四番目の金山として操業されました。

 しかし、採掘して精錬にかけてみると、これも予期通りの成績が挙がらない。ついに数ヶ月にして廃鉱の余儀なきに至り、入れた資本はすべて損失になってしまいました。ペルー鉱山の失敗と重なり、是清は千五百坪の家屋敷も処分することとなりました。

 この時最初にこの鉱山を世話した者が、廃止するならほかに売ってやろうかと言ってきたが、我々が見損なって買込み、実地にやって見て悪かったものを、他に転売して自己の利を計ることは不道徳の極みであるとして断然断った。そうして据付けた機械その他はすべて取壊して売ってしまった。『高橋是清自伝』より

 まさに山師の感覚と清廉な是清の姿勢の違いがよくうかがえるエピソードです。

 しかし、この相次ぐ失敗は、のちに是清が日銀の役職につくときも、山師のようなものを公職につけさせて良いのかといった誹謗が付きまとうことは避けられませんでした。

 

 それでも、ペルーの鉱山開発に続く失敗で、容易には諦めきれなかったのか、同じ上州利根郡の戸倉の山中で、今度は気長に探鉱することに決めて、探鉱技師二人に長男の是賢(これかた)をつけて、山中に山ごもりをさせることにしました。

 この時、長男の是賢はまだ14歳。

 是清は、是賢に山中における心得の大要を示し書き贈っています。

       心得の大要(前文略)

一、早起きは少々午睡するとも必ず怠るべからず、人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず

一、米味噌その他需要品はこれを仕入れる時予め次期の仕入れを考え置き、また平常の事務をとるにはその日その日に五、六日先のことまで方法順序を考え置き、手落または齟齬のことなき様注意すべし

一、坑内事業については能く日々の変化を記憶しまた極めて必要なる場合のほか坑夫に坑内模様の可否を問うべからず、必ず実地について視察し確定せる意見を立て得るまでは漫に喜憂の状を表すべからず

一、坑内測量図面の整調を平日に怠るべからず

一、鉱物の分析はかねて教諭せられたる旨を尊守し実行すべし

一、物品の購入及び人夫雇人等に関し好機会若くは好人物あるの故を持って他より勧誘せらるるとも実際の必要に迫られやむを得ざる場合のほか断然採用すべからず

一、日記を怠らず少くとも一ヶ月一回東京に通信すべし

 

最初の

「人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず」

などの表現は、薩長にはない明治人の側の気骨の極みの様に見えます。

 

 

 (これらのことは)まだ鉄道もない時代(前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したのが明治二十三年七月)のことです。自動車もそれほど普及はしていません。人力車などに頼りこの地に来た是清は、必然的に長期の滞在をよぎなくされたことと思われます。単なる投資目的の事業家とは異なり、高橋是清は短い間でしたが、滞在中にこの地と様々な関わりをもち、深く地域の人びとの記憶に残ることとなりました。

(以下、記載エピソードは略) 

 

 

 

 

3、一見客観的のように見える年表の個々の事実の取捨選択作業

だいぶ昔に「年表を読む面白さ」といったテーマでホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」に書いたことがありますが、今度は年表を「読む面白さ」から、年表を「つくる面白さ」をさらに知ることができました。 

 

略  年  譜
(上記学習資料では以下の内容をさらに省略しています) 


1854(嘉永7) 幕府絵師川村庄右右衛門の私生児として生まれ、間も無く仙台藩の足軽、
        高橋覚治の養子となる


1867(慶応3) 勝海舟の息子・小鹿と渡米留学。オークランドで奴隷労働しながら勉強。

1868(明治元) 帰国。森有礼の書生となる。明治維新、戊辰戦争始まる

1869(明治2) 大学南校教官三等手伝。

1870(明治3)  放蕩生活に入り教官辞める。

1871~81(明治4~14)英語教師、通訳などをする。教え子には正岡子規、秋山真之など。

1872(明治5)  学制の発布、全国に小学校を設置。太陽暦を採用

1873(明治6)   徴兵令施行

1881~89(明治14〜22)農商務省御用掛け、専売特許所長、初代特許局長など歴任。

1889(明治22) 東京農林学校長兼任。
         11月:ペルーのカラワクラ銀山経営のためへ渡航。
        大日本帝国憲法、皇室典範公布
        町村制施行により、後閑村、師村、政所村、
真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、
        奈女沢村が合併し、利根郡古馬牧村が成立。

1890(明治23) 1月:カヤオ港着。
         2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
         3月:ペルー鉱山が廃鉱であることわかる。
         4月:帰国の途につく。
        帰国後、天沼鉱山経営に着手。

1892(明治25) 日本銀行建築所事務主任。
        その後、日銀支配役・西武支店長、 横浜正金銀行本店支配人、副頭取など歴任

1899(明治32) 日本銀行副総裁に就任。

1904(明治37) 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。

1905(明治38)貴族院議員に勅任。戦時公債募集のため再渡英。
                       ポーツマス条約調印。

1911(明治44) 日本銀行総裁に就任。

1913(大正2)   第一次山本内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。

1918(大正7)   原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)シベリア出兵開始

1920(大正9) 子爵陞爵。

1921(大正10) 原総理暗殺により後継内閣総理大臣に就任。
        大蔵大臣兼任。政友会総裁となる。

1922(大正⒒)  高橋内閣総辞職。

1924(大正13) 貴族院議員を辞職。爵位を長男に譲って「隠居」。
        岩手県盛岡市の原敬の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選。
        加藤高明内閣の農商務大臣に就任。

1925(大正14) 兼任の農林大臣、商工大臣を依願免職。


1927(昭和2) 金融恐慌始まる。
       田中義一内閣の大蔵大臣就任(3度目)
       恐慌の沈静化に手腕を発揮し、恐慌の沈静化を節目に大蔵大臣を依願免職。

1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。

1931(昭和6) 犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)
        世界最長の清水トンネル開通
        柳条湖事件を発端に満州事変勃発。

1932(昭和7)犬養総理暗殺(五・一五事件)内閣総理大臣を10日間兼任。
        斉藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目) 満州国建国

1934(昭和9)斉藤内閣総辞職。
       岡田内閣藤井大蔵大臣が肺気腫で倒れ、 後任として大蔵大臣に就任(6度目)

1936(昭和⒒)赤坂の私邸で反乱軍部隊に6発の銃弾を撃たれ暗殺される(二・二六事件)。
        享年82(満81歳没)

 

 

この略年譜は、何度も項目を加えたり削除したり訂正をしましたが、今まで

「町村制施行により、後閑村、師村、政所村、真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、奈女沢村が合併し、
利根郡古馬牧村が成立」
 したことのみを他の場所でも記していましたが、この年に明治憲法が制定されて、この国の法的な形が確立したのだという理解はありませんでした。 

また、1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。
   1931(昭和6) 世界最長の清水トンネル開通。
とともに是清が古馬牧村に来たのが、まだ前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したばかりの明治二十三年七月であることなど、当時の交通事情があらためて理解できました。
(個人的に昭和3年は父の生まれた年、昭和6年は母の生まれた年なので、とても覚えやすい)


大正から昭和にかけてが、鉄道時代の幕開けの時期であり、それまでの北前舟を中心とした水運が急速に消えていく時期でもありました。

また是清がペルーまで片道一ヶ月以上の長い航海を経てたどり着き、そこでカラワクラ鉱山開坑式まで行っていながら失敗して帰国していること、その直後に天沼鉱山の経営に着手していることなどから、起死回生を図ろうとする是清の力の入れようが伺われます。

 

 

きっかけは、地元の天沼鉱山の調査でしたが、『高橋是清自伝』を読むほどに、世界中が金融経済で振り回される現代のような時代こそ、経済学者ではなく、高橋是清のような課題解決型の仕事人が出てきてほしいものだと、つくづく思いました。

コメント

そっちじゃない。「旅」と「読書」

2018年07月06日 | 「近代化」でくくれない人々

月並みな表現ではありますが、この「旅」と「読書」という言葉は、対にしてこそ意味が活きるのではないかと思いました。

それで次のような写真デザインを作ってみたわけです。

 

旅も読書も、ともに家を飛び出して行ってみなければわからない世界、本を開いて読んでみなければわからない世界です。

その先にある世界は、どちらも日常からは想像のつかない世界であるだけに、無理に行ってみなくてもよい、強いて読まなくてもすむ世界が対比されています。

その意味では、音楽を聴く、映画を見ることなども同じかもしれません。

ただ、一般的にはこれらの圧倒的部分が娯楽市場の枠内での話になってしまっているので、その先の説明がとてもし難い面があります。

圧倒的部分が娯楽市場の枠内にあるからといって、それが悪いという話ではありません。

強調したいのは、娯楽市場の実態如何ではなく、その市場の外側にあるものを大切にして問いたいという話です。

確かにどんな娯楽市場の枠内であっても、未知の世界を体験することに変わりはないのですが、それが時間やお金の消費にとどまってしまうかどうかの違いが問われないと、「自分」「私」という主体がどこまでいっても見えてくることがないからです。

どう表現したら良いのかまだうまくつかめていないので、例によってこのあたりは追々書き足していくつもりでいます。

 

先に「自分」「私」といった主体と書きましたが、それは必ずしも抽象的な「個人」を指すものではありません。

それは、時には「地球生命」や「人類」といった類的な主体であったり、

「現代人」「戦後世代」「昭和生まれ」などといった歴史的な主体であったり、

「日本人」「◯◯県人」、田舎者・都会人、といった地域的主体であったり、

さらには、男性・女性、妻・夫、親・子、若者・高齢者といった生物的・社会的主体であったりします。

そうした様々な条件を背負った「私」や「自分」が体験する「旅」と「読書」の連続した体験を積み重ねることの意味です。

 

私には、このような視点でどうしても書かずにはいられないもう一つの背景があります。

それは最近のSNSの傾向です。

一貫して私は好みではないにもかかわらず不本意にお世話になり続けているfacebookのことなのですが、facebookが実名でのコミュニケーションを売りにしていながら、限りなく「没パーソナル」なコミュニケーションの方向にばかり加速している違和感のことです。

不特定の相手とのコミュニケーションが拡大することの必然なのかもしれませんが、いつも残念に思うのは、mixiのプラットフォームがtwitter型タイムライン重視に変わってしまったときから、mixiのコミュニティー機能で行われたようなダイナミックなコミュニケーションの場がみるみる減っていってしまいました。 

さらにインスタグラムの拡大で、画像メインのコミュニケーション比率が増え、その傾向はさらに加速しています。

いずれもタイムライン型の一本の流れの上にあらゆる情報が並ぶ方式なので、枝葉を広げる情報は避ける傾向になります。
そして「いいね」を中心とした「前向き」「了承」シールをただ貼り付けるだけの場としてのみ、広がる傾向にあります。

画像は画像で、情報量そのものは言語以上に多い面もあるので、それも進化のプロセスであると期待してはいるのですが、ここで話を戻すと、どれもが限りなく「時間の消費」にばかり向かってしまっている傾向に我慢ならないのです。

本来は、「時間」こそが「価値」の実態であるわけですから、「時間の消費」自体は悪いことではないはずなのですが、そこに「私」「自分」という主体が前に出て来ないと、どこまでいっても作り出す側になれずに、消費=買わされる、受け取る、了承するばかりの時間になってしまうのです。

この自分の時間を生み出すということで「旅」と「読書」というのは、それを問う格好の素材のはずなのですが。

 

こうした構造が、世の中の土壌作りの作業環境をどんどん減らし、土壌作りがされない環境下でのヒット商品づくりのテクニックのみをどんどん加速させていきます。

もっとも、土壌がないからこそ、ヒット商品への依存が高まっていくのかもしれません。

もちろん、いつの時代であってもマス市場こそが圧倒的多数であることに変わりはないのですから、マス市場の外側のつぶやきは相手にされなくて当然のことなのですが、その外側の少数派の発言チャンスをネット技術が革命的に保障してくれるようになったにもかかわらず、なぜかネット技術が浸透するほどに、リアルと同じマイナーな世界を排除していく傾向も同時に加速しているのです。

長い歴史の間、「旅」や「読書」の世界こそが、そうしたマス市場の側に与しない「まつろわぬ」人びとの砦であったはずなのに、市場の力、売れなければ存在価値もないかのような論理、検索にヒットしなければ存在しないに等しい論理にすべてが押しつぶされそうになってしまっています。

私が深く関わっている本屋の世界でも、本屋が減って大変だ大変だと騒がれてはいますが、先のマス市場に与しない「まつろわぬ」人びとの味方になることで経営を維持しようなどと考える業者はほとんど生き残る余地はありません。

多くの現場では、悲しいかなその気概さえ失われています。

先のmixiがコミュニティー重視よりも、一律のタイムライン重視に変わらざるをえなかったのと同じ理由で、本の世界も「文化」や「多様性」を口にしていながら実態は限りなくベストセラー依存の均質性の方向に向かっているのを感じます。

 

私は、デジタル化の恩恵もかなり受けている側なので、必ずしも紙の文化に強く固執しているわけではありませんが、アナログ的読書や旅の良さの核心は、それが紙の質感によって保たれている面もありますが、それ以上に「私」や「自分」という主体を意識した情報や体験であることにこそあるのではないかと思っています。

どんな書体でも、レイアウトでも、文字色でも、媒体でも、簡単に変換でき、移動できるデジタル情報に対して、 

時には「地球生命」や「人類」といった類的な主体であったり、「現代人」「戦後世代」「昭和生まれ」などといった歴史的な主体であったり、「日本人」「◯◯県人」、田舎者・都会人、といった地域的主体であったり、さらには、男性・女性、妻・夫、親・子、若者・高齢者といった生物的・社会的主体などの具体的制約を受けて、

容易には変換しにくい情報、転送しにくい体験。


それこそが、「旅」と「読書」の一番ダイナミックな魅力の部分なのではないかと思っているのですが、ここが問われないただアナログの文化、紙の文化だけを守ろうとする論調に終始してしまうのが私は残念でなりません。

 

 

 

毎度、頭の中が整理されないまま書き散らしている文で恐縮ですが、まとめきれないまま今日はここまでにさせていただきます。

コメント

歴史の真の実態『西南役伝説』〜石牟礼道子を偲んで〜

2018年02月12日 | 「近代化」でくくれない人々

私の最も尊敬する作家といえる石牟礼道子の本は、絶版本も多いので古書などで手に入り次第に次々と読んできましたが、この『西南役伝説』という著作のことはこのたび実際に読んでみるまではずっと誤解していました。

どこかで目にした解説文から、地元に伝わる西南役伝説を石牟礼道子が解説紹介したような本かの印象をもっていたのです。

それも、日本という国が近代の入り口に立った明治維新のころ、近代化にひたすら盲目的に邁進する明治政府に対して、ただひとり待ったをかけた西郷隆盛の言葉「草花の匂う国家」という表現に石牟礼道子が何か共鳴するところがあって書いたものかのようなイメージを勝手にもっていました。

ところが実際に読んでみたら、まったくそのような性格のものではないばかりか、代表作『苦界浄土』と双璧をなすといっても良いほど石牟礼道子の世界観が表現された大事な著作だったのです。

 

最初、朝日新聞社より上の写真のものが1980年に刊行され、のちに朝日選書に入りましたが、2009年に洋泉社新書にも加わりました。その後長い間品切れのままでした。それが、このたびNHK大河ドラマ「西郷どん」の放映に合わせてか、講談社文芸文庫で2018年に復刊されることになりました。

 

そもそも、この出会いのきっかけは、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞して世界を驚かせたのに続いて、イギリス在住のカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したことでした。

そこで、他の文学賞と比べたり、過去の日本の受賞者やまたその受賞の噂のあった人びとなどを比べてみたとき、ノーベル文学賞って、いったい何を見ているのだろうかと思い、書店でフェアを企画してみたことにはじまります。 
 

 
フェアでは、このパネルに掲げたような作家たちの本をまとめたのですが、並べてみるほどにやはり多くの他の文学賞とノーベル文学賞の違いを感じずにはいられませんでした。 

端的に言えば、文学の枠内で表現の力を競うのではなく、文学という表現手段を通じてその時代固有の世界像なり歴史像が圧倒的に反映されたものであるかどうかということです。もちろん、いかなる作品であっても時代を反映していないものなどないのですが、その格闘次元の違いを如実に感じるのです。

そうした意味で、石牟礼道子はこれらの日本人作家と比べてみても、現代文明への深い眼差し、表現スタイルの独自性など、どこをとってみても圧倒的な差が感じられるのです。

結果、このフェアの主題も並べていくうちに石牟礼道子が中心に並べられるように変わっていきました。

そんな最中、2月10日、石牟礼道子の訃報が飛び込んできたのです。
 

急遽、この写真のPOPの「翻訳の壁さえなければノーベル文学賞の最有力候補!」の部分に「でした」と手書きで付け加え、訃報を伝える新聞の切り抜きを貼り、「追悼 石牟礼道子」の表示を加えました。


たしかに石牟礼道子のノーベル文学賞受賞の可能性といっても、現実には熊本方言などの翻訳の壁が立ちはだかり、海外に知られにくいことがノーベル文学賞への道を遠ざけているかと思われますが、受賞如何にかかわらず、その力の差は歴然としています。

裏を返すと、どんなに世界で人気があっても村上春樹が受賞されない理由も、自ずと浮き上がってくるような気もします。

そうした評価は、以前このブログでも書いた池澤夏樹責任編集の「日本文学全集」で、現代の女性作家では石牟礼道子と須賀敦子のみが取り上げられたこと。さらに同シリーズの「世界文学全集」の日本人作家では、石牟礼道子のみが取り上げられたことなどでも十分うかがい知ることができます。

 


おそらく、 『西南役伝説』という著作への誤解は、私だけのことではないかと思われます。

つまり、「西南の役」を語るということ、さらにはそもそも歴史を語るということがどういうことなのか、石牟礼道子の表現に出会うまでは、大半の人たちは知らず、気づいていないからです。
 

舞台は確かに明治維新と西南の役のころの南九州です。

しかし、そこに官軍と西郷たちの戦闘や田原坂の様子などは、ほとんど出てきません。

明治政府と西郷との駆け引きなども一切語られません。

語られるのは、その戦乱の時代に翻弄されながらその地で生き抜くことだけに必死な農民や漁民たちの姿です。

また不知火海を挟んだ島原の地の過酷なばかりの歴史を背負った人たちの姿です。

後の東日本大震災以降の文章にはよりいっそう鮮明に語られるようになるのですが、そうした農漁民の姿と同等なものとして、その地に息づく草木やケモノや虫たちがあり、数多のただ生き延びることに必死なものたちの関係があります。

そして、そうしたその土地の中にある「日々の命の営み」にこそ、真の歴史の実態があるのだと。

そんな実像の描写がずっと続くのです。

「土地は海とともに、生命の母胎であると共に魂の依る所であり、いわば彼らの一切世界そのものであったろう。
 ここでいう世界とは、下層農漁民たちが夢見うる至上の徳と情愛と、理(ことわり)とが渾然一体となった神仏の如きものが宿る深所、そこに魂をあずけて、共に統ベられると思える依り代として、経済基盤の今一つ奥に至る現世の足がかり、手がかりとして土地は観念されていたに違いない」 

 


愛を語る、家族を語る、労働を語る、暮らしを語る、経済を語る、政治を語る、戦争を語る、自然・風土を語る、なんでも良いのですが、歴史や社会を語るというと、つい政治経済ばかりに目が行きがちですが、地球生命の歴史からすれば、人間の政治経済で担われている領域など生命の歴史では表面の薄い上澄みのなかのほんの一点に過ぎないものです。
 

そもそも私たちの存在は、天界宇宙の無限とも言える無機的自然の巨大な営みのなかにあります。

そのほんの奇跡の一点のなかで繰り広げられる、これまたその一点のなかの無限とも感じられる命の集積。

そうした人間の感覚ではおよそはかり知れない数多諸々の蓄積の上に私たちの生命の奇跡はあります。

近代社会は、そうした過去の生命の蓄積をほとんど顧みることなく、政治経済の都合を優先してあらゆるものを「ご一新」してきました。

歴史をつくり、またそれを目撃し、それを担ってきたのは、そうした「ご一新」を図ってきた一部の人たちの中にもあかるのかもしれませんが、圧倒的な部分はそれらに翻弄されながらも、生き抜くことを最優先にして生命の生産活動を続けてきた農民や漁民たち、さらには彼らの生活を無言で支えている草木や魚、鳥、ケモノたちなわけです。

ただ、その姿というのは、あまりにも過酷で悲しいものでもあります。

それは今日のビジネス書や自己啓発書で解決される「これをやればうまくいく」などといったようなものでは決してなく、そもそも人間のはかり知れない力のなかで、彷徨うことを運命づけられたような世界なのです。

東日本大震災の時、多くの人がそんな思いあらためてを感じました。

 

 

 「花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり」

 

 

 お店のフェアのなかでも、東日本大震災の折に書いた詩「花を奉る」が載っている藤原新也との共著『なみだふるはな』(河出書房新社)は、本来たくさん売りたいところでしたが、残念ながら現在品切れで仕入れることができませんでした。追悼を機会に重版されることを期待します。

 

庶民のくらしを重視したヒューマニズムの世界観は、トルストイばかりでなく世界どこにも見られるものですが、農林漁業などの生産者が同時に草木や虫、魚、鳥、ケモノたちにまでつながった生命と魂の連環としてあるという世界観は、おそらく日本に際立たものがある気がします。

それを石牟礼道子は、自然史、人間史、さらには魂の歴史のようなものを区別することなく描ききっているのです。

たしかに石牟礼道子のどの著作を見ても、そうした世界観は一貫しています。

でも『西南役伝説』がそうした世界を如実に表現してものであるとは想像していませんでした。また実際、多くの石牟礼道子紹介文の中でも本書が重視されているものは、意外と少ないようです。

講談社文芸文庫より近日復刊されるこの機会に、『西南役伝説』が一人でも多くの方に読まれることを願います。

 

 

残念ながらお店にノーベル文学賞のコーナーを設けてから、石牟礼道子の本がそれほど売れているわけではありません。

訃報は悲しいしらせではありますが、近代の出口にあると言われる今、デジタル技術などによりさらに次の「ご一新」が始まり、暮らしのあらゆるものがまた変わろうとしています。

従来の価値観への疑問を東日本大震災の時に多くの人が感じたはずですが、その先に私たちが何を守り育てていかなければならないのか、石牟礼道子が私たちに遺してくれた遺産には、なおはかり知れないものがあります。 

 

正林堂でのノーベル文学賞フェア「世界は日本の何を見ているのか」は、2月中旬までの予定ですが、石牟礼道子の追悼コーナーはしばらく継続します。

長野浩典著 『西南戦争 民衆の記』 弦書房 2376円も同様の視点で西南戦争をみつめた本と思われますが、まだ現物はみていません。

コメント

取り戻すのは「権利」ではなく「権理」

2017年06月24日 | 「近代化」でくくれない人々

ずっと私は明治維新というものが、徳川幕府に対する「革命」ではなくて「政変(クーデター)」であったということにこだわる意味を考えているのですが、このことを考え続けていると最近ひとしお、明治維新というものの負の遺産の面が気になって仕方がありません。

「明治政府」などという表現は使わずに「薩長政府」として捉えたほうが、ずっと当時の国の実態がよく見えてくるからです。

このことは最近、渋川市の郷土史家の大島先生の家にお邪魔して色々お話を伺った時に、一層強く感じられました。

その時の大島先生の話をざっくりとまとめると、江戸時代の武士がいかに貧しく、農民はいかに豊かであったかということ、また明治政府によって江戸時代=徳川幕府の歴史がいかに書き替えられたかという話なのですが、本来は、その時の大島先生のお話だけで記事を一度まとめたいほどです。

 

そもそも武士というのは徴税権を持った権力者の側にいたわけです。

最近でこそ貧農史観はだいぶ薄れてきましたが、江戸時代でも時代を下るほどに農民が豊かになり社会の中での発言権もけっこう持っていたことが様々な歴史研究の分野で立証されるようになってきました。

お伊勢参り、善光寺参りなどの長旅に出たり、村の祭り、村芝居に寄付を募り、現代の行政補助などでは考えられないほど豪勢なイベントを行っていたり。

これらのことはほとんどが商人や農民らによって支えられていたもので、藤沢周平の小説などでも伺われますが、当時の中下層の武士たちにそうした余裕はほとんど見られませんでした。

武士というと何か偉そうに感じられますが、実態は江戸幕府の官僚であり、公務員ということです。

地元の過去帳や墓石を片っ端から調べてきた大島先生によれば、差別されてきた農民といえども、江戸初期の段階から墓石にはちゃんと苗字がついていた。被差別民ですらみんな苗字を持っていたというのです。

農民が本当に貧しくなり、また現実的な差別的な地位に陥って行ったのは明治以降の方が酷かったというのです。「貧農史観」というのは、むしろ明治政府によってつくられたイメージであると大島先生はいいます。

とりわけ日清・日露戦争以後、国費を戦争に費やすようになってからは、物心両面で農民の地位は落とされていきました。またそれは戦争への引き金にもなってしまったのですが。

江戸時代、武士が徴税権を持っていながらも無闇に農民への増税に走ることはせずに、実際はできずに、多くの大名や武士は商人から借金をして財政を回していました。いわゆる「大名貸し」の世界です。これによって地方都市でも金貸し業が短期のうちにのし上がる例がとても多かったといいます。しかしそうした人たちは村落社会で地位がすぐに認められることはなかったので、逆に地域により多くお金を還元することで身分が保証されました。

大島先生のこの辺の説明がとても面白かったのですが、無責任なことをあまり書くと先生にご迷惑をおかけするので本題に戻ると、「武士道」評価の根幹にも関わることなのですが、江戸幕府が開国を迫られた時にその会議の効率の悪さ、生産性の低さなどが目立ちましたが、当時の幕府や役人が責任を取るシステムとしては、明治維新前はそれなりに欧米と比べてもかなり優れたシステムが機能していたということです。

それが明治政府になって突然、「勝てば官軍」という言葉が生まれたように、西洋に追いつけ追い越せ、「近代化」の名目のもと、矜持もへったくれもない政策が次々と断行されてしまいました。

最近またその再現を見ているような気がしてならないのですが、日本の長い歴史の中でもどうも薩長が前に出てくると、日本の長所ともいえる古いものを否定せずにその上に新しいものを積み上げていく発想ではなく、大陸的な古いものは完全に破壊して新しいものを作り直す手法に流される傾向が感じられます。

で、国でも企業でも地域共同体でも、変革には強い意志やリーダーシップが必要なことに変わりはありませんが、そこに矜持のあるなしを分けるポイントがどこにあるのかを考えると、一つの言葉の使い方の違いのことを最近知りました。

それが、「権利」という言葉の使い方です。

正確には明治の開国後のことなのかわかりませんが、英語のrightsという言葉を日本語に翻訳した時、それは「権利」ではなく「権理」という字が当てられました。

これが福沢諭吉の翻訳がオリジナルなのかどうかもわかりませんが、『学問ノススメ』の中に「権理通義」(下写真、2行目下部) とあります。

このことは、山脇直司『社会とどうかかわるか』(岩波ジュニア新書)のなかで初めて知ったのですが、この指摘がなかったら文字を見ていてもその違いに私は気づかなかったことと思います。

おそらく福沢諭吉は「権利」か「権理」かを迷って選択したのではなく、rightsという英語を見たときに、ことわりの通義として自然にこの訳を当てたのではないでしょうか。

それはそもそも個人の利益の側から表明するものではなく、社会全体の理(ことわり)のなかで生まれるものなのだということです。

得てして「権利」を主張する側は、右左を問わず、また国家の側、民衆の側を問わず、自分の側にこそ「理(ことわり)」があるのだと言い、互いの利は平行線のまま多数決や力ずくでの決着を図ることになることが少なくありません。

しかし、少なくともスタートの時点から「権利」ではなく、ことわりとしての「権理」を使っていたならば、まず個人の利益に立つものではないのだということが前提として始まるので、議論や考えのすすめ方は随分変わるのではないでしょうか。

つまり自分の側の権利をいかに相手に理解させるか、あるいは相手側に屈服させるかの闘いではなく、初めから自分とは異なる相手側の立場や利益も含み込んだ「理(ことわり)」がどうあるのかがきちんと想定された議論や社会の関係があるということです。

最近私は地域づくりにかかわることが多くなり、その運動スタイルが、「この指止まれ」方式の理念型ではなく、また特別に意識の高い人や能力のある人によって生まれるものでもない、地域運命共同体の折り合いの世界で組み立てるタイプの活動なので、こうしたことをひと際強く意識するなったのかもしれません。

 

またここで私の思う「理(ことわり)」とは、国家の「理(ことわり)」でもなく、また単純に民衆の「理(ことわり)」でもなく、大自然の理(ことわり)にいかに近づけるかということなのですが、中国ではそれを「天」とし、西洋ではそれを「神」としてきました。

これもまた一神教の神のいう「理(ことわり)」と、日本のような多神教・自然崇拝の「理(ことわり)」とでは大変な違いがあり、さらには日本の中でもずっと多神教的宗教観を維持してきた歴史と天皇制を一神教的なものに作り替えてしまった明治政府のそれとは全く別問題で、それこそこれもまた大問題なのですが、それはまた別の機会に整理してみたいと思います。

 

前にもことわっていますが、私は会津育ちのため薩長に対する根深い偏見がぬぐいきれない弱点を抱えているので、薩長の利益やアメリカの利益が国益の名のもとにゴリ押しされる社会が加速してしまっている世相にどうしても我慢がなりません。

身近なところでいっこうに減る気配のないクレーマーやモンスターペアレントなどによって萎縮してしまう教師や公務員の姿、あるいはサービス業に対して同様の消費者の権利を振りかざす姿。どれもみな「権利」が鋭い刃物となって相手を傷つけ萎縮させてしまっています。

 

そこで自分自身も少しでもよって立つところの「理(ことわり)」を取り戻したく、思いつくところを書いてみましたが、こうした「理(ことわり)」とは、必ずしも憲法が保障しているからといって獲得されて当たり前という筋合いのものではなく、アリストテレスが言っているようですが、一人ひとりが楽器を練習するように、手間がかかっても一歩ずつ生涯をかけて身につけていくことにこそ価値があるものなのだと思います。

 

コメント

ダムに沈んだ湯ノ花温泉 昭和の母娘哀話

2016年06月27日 | 「近代化」でくくれない人々

私の手元には、昔の宝川温泉汪泉館(現在は汪泉閣)が、今で言う自費出版のようなかたちで発行されたふたつの『藤原風土記』という本があります。

1冊は、昭和38年に刊行されたもの。

もう1冊は、タイトルや表紙はまったく同じ(よく見たら表紙の写真は熊の位置が違う別のものでした)ですが、昭和60年に増補改訂版として出されたもの。

全国各地で『風土記』のようなかたちで郷土の歴史をまとめた本は出されていますが、この本は、私が地元であることから興味を持ったことは当然のことですが、それらの風土記的郷土史のなかでも、とても力のこもった歴史的な1冊であるとの強い印象をもった本です。

そのなかでもひと際、忘れられない一文があるので、ここで紹介させていただきます。

それは奈良俣ダムの建設とともに、今はもう奥利根湖の底に沈んでしまった湯ノ花という湯宿のことです。

この湯の花温泉のことは、朝日新聞前橋支局編『奥利根・秘境の素顔』あさを社(1983年)のなかでも出てきますが、こちらの本で紹介されているのは、湯ノ花の最後の経営者である狩野さん夫婦のことです。狩野さん夫婦の体験談も、貴重な興味深い話しですが、今回ご紹介したいのは、この湯ノ花の管理人として暮していた竹内角次郎夫妻とその一人娘のとし子ちゃんのことです。

それは、小野伊喜雄さんの筆による章なのですが、初版の『藤原風土記』(写真中央)にこの章はなく、昭和60年の改訂版(写真右)に加えられた文章です。

 

「湯の花温泉哀史」小野伊喜雄

利根川水源の原始的湯治場

「湯の花温泉は昭和四十一年秋、矢木沢ダムの完成により、水深五〇メートルの水底へ永久に姿を没してしまった。」

こう文章ははじまりますが、このダム建設によって出来上がった奥利根湖という場所は、利根川の源流域の最深部にあたり、数ある他のダム湖とはとても同類には扱えない深い自然の領域で、まだ残雪の残る季節にここを訪れるとまるでカナダの景色をみているかの錯覚に陥るほど、ここは私にとっても大好きな空間です。

小野伊喜雄さんは、奇しくも水没の二日前にここを訪ねています。

「お化け屋敷のように、取り乱れて空家特有の黴くさい山宿の庭に立ってつくづく、人間の無情を感じた。主を失った温泉のみが、生き物のように三尺程立ち上った鉄管より滾々と溢れている。無色透明でラヂウムを含有しているといわれ、入浴しても飲んでも非常に効能があったこの山の湯が幾多の訪う人の心を暖め、疲れを癒した奥利根の貴重な存在であったのに、あすは水没してしまうのかと思うと感慨無量であった。」

湯ノ花の歴史は、明治33年に新潟県十日町の横山平吉氏が、遥々新潟県側から鉱石を求めてこの地にたどりつき湯の花を開拓したのが始まりといいます。昭和5年に官地を借用して、間口三間奥行四間、勝手の庇六尺、長さ二間で、客間が八畳二部屋の山小屋を建築。昭和7年から小屋番がおかれ、猟師、釣り人、登山者、湯治客などの入山者の便宜を計りました。

その小屋番として入ったのが、竹内角次郎夫妻と、当時まだ6歳であった一人娘のとし子ちゃんでした。

悲しいことにとし子ちゃんは生まれつきの唖者でした。でも、とし子ちゃんは唖者特有の勘のよさと利発であったため、すべてに物覚えが良く、成長につれて、とし子ちゃんは湯の花の人気者になっていきました。

ところが昭和十三年、とし子ちゃん十四歳のときに父角次郎さんが急死。

母娘は、以後、涙の乾く間もなく二人で父の仕事を分担し働くことになる。このとし子ちゃんの活躍ぶりは、省略させていただきます。

昭和初期のころまでの藤原の暮らしの厳しさは、いくつかの資料でも紹介されていますが、その山深い土地のなかでもさらに奥深い場所に孤立している湯ノ花に母娘二人だけで、すべてを切り回していかなければならない生活のことです。

数多の危機を生き延びた母娘のたくましさは、とても文字で書き尽くせるものではないでしょうが、それほどの生命力を持ちながらも悲劇は突然にやってくる。

昭和二十年の三月二十一日彼岸入りの日でした。

大芦の中島丑重氏が、湯の花温泉の物資中継基地をやっていた関係での出入りがあり、夕方五時頃湯ノ花に到着。母娘の遭難を発見した。

 

「雪の融け具合からして流雪は午後十時頃発生したのではないかと判断された。大きさは百五十メートル位で横幅が六、七十メートル位であったろう。当日は小春日和の稀に暖かな日で、各地で流雪がおこり危険であった。おそらく母娘は温泉の出具合の異常にきがついたのであろう。浴室の湯は約七十メートル位の川上より木のといで引湯してあった。流雪は今日にはじまったことではない。ここは度々大なり小なりの流雪があって故障があったのである。母親はそれと察して、修理の為湯元へ急いだのであろう。母娘はとし子ちゃんとは離れて母屋に近いところで流雪の下に埋もれていた。

 丑重氏が夕刻訪ねたとき、耳に応ぜず森閑と静まりかえった家の様子に不審を抱いたので、母屋より少し離れた浴槽のある小屋へ廻って流雪に気がついたのである。小屋までついていた足跡がそこで流雪のために消えていたので、これは流雪の下になったのだと直感した。それにタマという子犬が、無情な流雪の盛り上がった上で寝ているのが眼についた。『ハハー』この下に主人親娘が埋もれているに違いないと察しがついた。自分一人では掘り出すにも、どうにもならない。奈良沢で別れた友人三人の到着を待って遺体を掘り出すこととした。遺体は約三メートルの雪の底に埋もれていたが、とし子ちゃんは金槌を握ったままでこと切れていた。流雪で壊れたトイを板で修理中を、突然山腹の雪がくずれ落ちたと判断される。

 母親は母屋に近いところで流雪の下敷となっていたということは、娘が帰ってこないので様子を見にいって第二波の流雪に巻込まれたともとれるし、娘の仕事中を流雪の出るのを監視して流雪が起きたら娘に知らせる役であったか、あまり速度が早い流雪で二人もろとも下敷になったとの、いずれかであったろう。いずれにせよ何と悲しい母娘の運命であったろう。つくづく厳しい自然の無情な暴威を恨まずにはいられない。時にとし子ちゃんは十九才の花でいえば蕾盛りであったとか。

 奇しき因縁とでもいおうか、所有者の平吉は天命を完うしたとはいえ、水没前に他界し、又角次郎氏は湯ノ花の浴中に倒れ、母娘もまた湯元の流雪の下敷となってしまった。

 水没の運命になった湯ノ花温泉とともに、一家全員殉死したようなものである。湯ノ花の歴史は矢木沢ダムの完成とともに、永久に水底に消えてしまった。まったく仏教でいう諸行無常、万物流転そのものの哀史ではないか。

母娘はこの年の秋には湯の花を引揚げて、母親の実家へ移り住むことになっていたという。嗚呼。」

 

 

      ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

2016年7月1日、記録的な渇水情況が続いているので、ダムの水位が下がったこの時期であれば、湖底に沈んだ湯ノ花温泉の痕跡が、もしかしたなら見れるかもしれないと、友人にカヌーを出してもらい、奥利根湖に行ってみました。

ダムの水位が下がりすぎるとダム湖に降りること自体ができないかもしれないと心配しましたが、問題なく降りることが出来ました。

 

 

こんな水位が下がったときに、わざわざカヌーを漕ぎに来るひとはいないだろうと思いますが、

風も穏やかで、絶好のカヌー日和り。

こういう時でなければ見れない景色もたくさん。 

あとになって、小学生の子ども達がクマが泳いでいるのを目撃していたことを知りましたが、われわれは、知らないうちにクマを振り切っていたのか!? 

https://www.youtube.com/watch?v=sZaJQkld8dE

 

 

湯ノ花温泉のあった場所の目安は、右岸が上立合せ沢と大立合せ沢から西千ガ倉沢の間、左岸が下の俣沢と大白沢の間。 

 

目安の沢をたどると、おそらくこのあたりに湯ノ花温泉があったと思われますが、透明度もないのでそれらしき場所は確認すること出来ませんでした。

往復、3時間ほど、すばらしい景色を堪能してくることができました。

コメント

30年サイクルでみる「近代化」の節目 

2014年08月30日 | 「近代化」でくくれない人々

私にとって「近代化」の弊害について考えることは、ここ10年くらいの間、一貫したテーマになっています。

それは「昭和ラヂオ」に時々出させていただくようになって、さらに加速しました。

でも、それはテーマがあまりに大きく深いので、様々な角度から折にふれて書き続けていくことになるものです。どこかで概念的な整理もしたいところですが、そうした思考自体も「近代的思考」の弊害の側面でもあるので、結論は急がずにコツコツと追求し続けたいものです。

ところが、ちょっとしたきっかけで年表を追っていたら面白いことに気づきました。

「近代化」という世相の流れが、ほぼ30年というサイクルで変節していることです。

 

 

まず、現在の仕事をしている上では、1995年、1996年あたりの年は、右肩上がりの時代が終わり、右肩下がりへ移り変わった節目として重要な年にあたります。

この大前提の変化をしっかり見据えないと、目先の景気対策やちょっとした経営革新では太刀打ちできない大きな現実があります。

 

今の仕事では、当面はここが最大ポイントになっているのですが、日本の文化や自然、風土などの面から広くとらえると、1965年ごろがもうひとつの節目として浮き上がってきます。

この年に注目するようになったきっかけは、哲学者、内山節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)あたりであったかと思います。

それは、1964年の東京オリンピックなどを契機に、日本が高度経済成長、バブルへと突き進んで行った出発点のころです。

それまで農業や自営の商工業者が世の中の普通の働く姿であったのが、この頃から急速に、農村から都市への人口移動とともに、農業や自営業よりも賃労働という雇用形態が世の中の圧倒的多数の働き方に変わってきました。

人間の働くという営みが「賃労働」を通じて、より売買しやすい労働に変化していくとともに、日常生活のあらゆるものが、「商品」として購入されるものに移り変わってきました。

この流れが同時に、「商品化」に対応できない伝統的な文化や自然の基盤が崩壊していくプロセスになりました。

それを内山さんは、日本人がキツネにだまされなくなった頃の節目として注目していました。

 

この1995年と1965年の間が30年。

 

1965年からさらに30年さかのぼると、1935年、昭和10年です。

二・二六事件は1936(昭和11)年ですが、日本が避けられない戦争に突き進みはじめた時期です。

世界恐慌からはじまり、単なる軍部の暴走というだけではなく、背に腹は変えられないといわれる現実を打開するすべを見出せないまま、敗戦にまで突き進んでしまいました。

 

そのまた30年前は、1905年明治38年。

日露戦争の年であり、ロシア革命が始まる年でもあります。

明治維新以来、西欧列強に追いつけと必死に頑張ってきた日本が、辛くも日露戦争できわどい勝利をおさめたばかりに、また大きく道を踏み外して行く出発点ともいえる年です。

 

さらにその30年前が、明治8年、西暦1875年。

世界遺産登録でわく富岡製糸場の創業が明治5年。

このときは、まだ明治という国のかたちは出来上がっているとはいえない時代です。

明治維新だから明治元年が節目と考えたいところですが、強引な近代国家建設をすすめるために維新政府は欧米から様々なものを一気に学び取り入れます。長い江戸幕府のすべてを否定して、この国のかたちをつくるのは大変な作業であり、しばしばそれはとても強引なかたちで押し進められました。

大日本帝国憲法の制定は、ずっと後の1989(明治22)年です。

欧米の思想や技術を取り入れれば間違いないと思っていたのでしょうが、それを徳川まで長い歴史をもつ日本の風土に当てはめるには、強引な施策を次々と断行しなければなりませんでした。

 

国のかたちを考えるときは、わたしはいつも明治という国家が、長い日本の歴史のなかでもいかに特殊なかたちの国家であったかということを思わずにはいられません。

その強引さが、まさに「近代化」の原初形態になるのですが。

 

こうさかのぼって書くと、「近代化」の否定的な面ばかり見ているようにも感じられますが、それよりもまず先に「近代化」の何がいったい悪い?とばかりの「近代化」そのものは「進歩」そのもので、そこに異論を挟む余地などまったくないかの論調に、「待った」をかけること事態がとても至難の提起でもあるのです。

 

この主張は、片足以上のかなりの部分を現実にはアナーキズムにおくことにもつながるので、説明はまたかなりやっかいなことで、容易に私の手に負えるようなことではありません。

にもかかわらず、21世紀の基調テーマでもあるはずだと確信もしているので、今回は30年サイクルのことにとどめますが、またチビチビと書き続けて行きたいと思ってます。

 

 

コメント

仮に等価交換であっても、「行って帰ってこい」ではない経済

2013年10月03日 | 「近代化」でくくれない人々

 

ひとたび大災害が起きると、もうこれ以上はないという苦しみの中にありながら

さらにそれに追い打ちをかけるような大被害の連鎖が起きる。

今回の東日本大震災で、私たちはそれを思い知りました。

 

歴史は、何度もそうしたことを繰り返しています。

そして私たち日本人は、何度もそれを

それぞれの時代の与えられた条件の中で乗り越えてきています。

 

天明三(1783)年の浅間山大噴火とそれに続く天明の大飢饉。

これも、そうした事例のひとつ。

 

天明七年には、江戸に打ちこわしが勃発。

 

打ちこわしが起きると、有力町人たちには、幕府から施行の要請がありました。

 

北原糸子著『地震の社会史 安政大地震と民衆』(講談社学術文庫)に

この「施行」の実態について、とても興味深い記述があります。

 

 

まず豪商三井などもこれ(施行)にこたえているが、「施行」の本来の趣旨からみると、

「私的利益関係にある店子や出入り職人層への施行」は、「店賃収入として再び家持へ還元され得るし、

出入り職人は施行を励みに、よりいっそうの仕事への精進が期待できる」ため、

それが「奇特」な施行であるとは判断しがたい。

 

「施行を奇特とするのは、本来ならば救済しなくてもよいところまでに救済の手が

差し延べられるという点である。」(同書)

(今の時代では、どれだけこの価値と意味が通じるだろうか)

 

これを理解してかどうかはわからないが、幕府は、

施行をした者に対して、なんと「褒美金」を出しています。

 

施行総数の半数は、10両以下の小額施行者。

これらの施行高は惣高の1パーセントにも満たない。

(こうした構図は今も昔もあまり変わらない。)

 

しかし、大事なポイントは

「10両以下の場合、一件宛の施行高は約金一分である。

さらに興味ある事実は、この層に対する褒美金は一件金200疋(ぴき)であり、

100疋が金一分であるから、施行に差し出した金額より幕府からの

褒美金がその倍額になっていることである。」(同書)

 

当然、このようなことがわかれば、取り分目当ての施行も広がり

長く続けられることではない。

 

ところが、そうしたことはわかっていたとしても、このシステムには

純粋に経済的にもメリットがあり、それ以外の効果も大きい。

 

まさに今のネット社会の無料サービスが広がっている所以と同じ。

少数であっても高額あるいは有料の商品やサービスの享受者がいれば、

多数の小額あるいは無料のサービスを享受する人がいても収支はとれる。

 

つまり、金100疋の施行者に褒美金200疋を与えても、全体の収支はプラスに出来る。

(悪用者が無制限に増えない限りという条件つきではあるが)

 

それともうひとつ重要なのは、同じ施行であっても、

幕府が直接に困窮者へ100疋配るのと、

町人が困窮者に直接100疋の施行を行い、

それを幕府があとから町人へ褒美として仮に100疋与えたとしても、

100疋のもたらす価値と意義がまったく異なってくるということです。

 

人格の薄い(あるいは広い)公共機関から受ける施行よりも、

近隣の人格のある特定個人からの施行の方が、

与える側も受ける側も、有り難みや価値を強く感じることができます。

また、そこにはお金の行き来だけではない人間の関係性も発生します。

 

私たちは、多くの「近代化」の流れのなかで、

この人間の「関係性」をより排除することによってこそ、

自由な交換経済が発展するものとして、その方向にばかり突き進んできました。

歴史の一定段階の発展のなかでは、それは必ずしもすべて間違いであったとはいえません。

 

でも、次の社会に進もうとしている現代では、経済的合理性を含めた考え方でも、

この手間がひとつ増える人間の関係性を挟むことが、合理的ですらあることに気づきだしています。

 

この「施行」の仕方の記述は、この『地震の社会史』という本全体からは、

必ずしも本筋の話題ではありませんが、災害に対して、人が、社会が、

どう対応していくかを考える上では大事なポイントです。

 

東日本大震災の被災地の問題、東電の福島第一原発の問題など

まだまだ深刻な危機が続く日本です。

財政危機のカンフル剤的な穴埋めにしか使われそうにない増税策よりも、

有効で生きた予算の使い方を考えてもらいたいものです。

 

お金が足りない、財政危機だから収入=税収を増やすではなく、

まず徹底した無駄な歳出カットと、今ある少ないお金の有効な使い方、回し方。

票集めのばらまき予算よりも、ずっと効果的なお金の使い方。

はたして今の政治家に理解できるだろうか。

 

コメント

田中正造 没後100年 (かみつけの国 本のテーマ館の隣接点)

2013年08月22日 | 「近代化」でくくれない人々

「かみつけの国 本のテーマ館」 http://kamituke.web.fc2.com

サイトの修復に悪戦苦闘しているところです。

 

データが膨大になってきてしまい、メモリ不足など対策を打っているのですが、

データアップの度にエラーが頻発して、訂正のきかないページがどうしても増えてきてしまいます。

 

デザインなど、大きく壊れた部分の修復は八割方終わりましたが、抜本解決には

やはり「引っ越し」しかないようです。

 

これ以上、データが肥大することを避けるためにも、今年、没後100年を迎える田中正造は、

本来、第3テーマ館 群馬の山と渓谷 のなかの 貴重な史跡「足尾」を歩く、小滝の里の魅力

足尾関連書籍ガイド http://kamituke.web.fc2.com/page162.html、のからみで是非入れたいところですが、

テーマ館のなかに入れるのは我慢しなければなりません。

 

もともと、田中正造は足尾に劣らず、栃木県とのかかわりが深いので、栃木県側の地元の方々が

様々な専門サイトを開いています。

 

 

 

福島の原発事故のこともあり、掘り下げて書いてみたい気持ちが強いのですが、

田中正造の強烈な精神は、そう簡単に語れるものではありません。

 

検索して概観してみると、たしかに今回の原発事故がらみで田中正造の再評価がされ、たくさんの情報がヒットします。

 

しかし、田中正造の孤高の精神に迫り、近づくことは、とても難しく、

文章や写真だけで、その独自な精神に近づくことは容易くないことがわかります。

 

 

 

 

 

かつて、渡良瀬遊水池の谷中村跡などを訪ねたときのこと、どこかに書いたと思います。

mixiには写真アルバムがありました。

足尾の松木村跡などとともに、いい写真があると、とても想いが広がる場所です。

 

 

 

だからこそ、少ない内容でも、大事な文献紹介や自分なりの表現での情報デザインをしなけれなならないと感じるのですが、

ただですら、「かみつけの国 本のテーマ館」の修復だけで手間取り、他の仕事が滞ってしまったので、

この時期の作業としては、やはりパスさせていただくしかありません。

 

 

田中正造を語るだけでなく、この内村鑑三などとの関連で、明治人の精神の高さだけでも迫りたい内容があります。

 

 

 

 

 

 

 

この大鹿卓の『渡良瀬川』は、まだ読んでいないのですが、今年、文庫化されました。

 

 

この田中正造全集は、古書で結構安く手に入るものですが、まだほとんど読んでいません。

こうした資料にあたることを考えると、やはり自分のライフワークの範疇に入れるには、ちょっと重すぎる気がします。

 

切り込み視点が整理できたら、短くどこかにまとめます。

 

よって、どうか栃木県の皆さん、がんばってください。

 

コメント

「あづま・みちのく・東北」異論

2011年11月13日 | 「近代化」でくくれない人々

今日、お客さんと被災地支援の話をしているうちに、東北の文化や伝統について、もう少し頭を整理しなければいけないと思いました。
ここで紹介する本は、そうした問題の鍵を提示してくれた本です。 

封印された「あづま・みちのく」の古代史
相原 精次

洋泉社     

定価 本体1,800円+税 2011年11月刊 



東日本大震災を経た今、東北人の底力とか、伝統とかが注目されています。
きっかけは宮沢賢治であったり、奥州平泉の世界遺産であたり、寒冷で恵まれない気候や大地であったりいろいろです。

しかし、残念ながら多くの東北、みちのく観といったものが、中央からつくられたものがいかに多いかということを私はこの本で知りました。

古代日本の大和朝廷の時代、蝦夷征伐として坂上田村麻呂が派遣されて以来、東北は中央からは遠く離れた「東夷」「蝦夷」の地とみられてきました。
京や奈良の都からみれば、たしかに遠い国であることには違いありません。

それがいつの間にか、単なる「東の人たち」「北の人たち」といったイメージから「あづまの未開地」のイメージに作りかえられたというのです。

本書ではそれを明治維新政府が、「朝敵」となった奥羽の諸藩に対して意図的に大化改新、律令の制定にまでさかのぼって歴史の記述を操作し、イメージをつくり上げられたことがわかります。

同じ中央から遠い存在であっても西の果ての薩摩の場合は、中央政権の主軸となりえたこともあり、ひと際、東国に対する差別が増長されたことも考えられます。

多くの説明に納得させられるものがありますが、それらのことはなにも維新政府に限らず、政権を持った中央からは、大和朝廷の時代、平安鎌倉の時代、徳川幕府の時代であってもずっとつきまとっていたことだと思います。

しかし、わたしは本書で取り上げられる東北独自の様々な豊かな文化の事例を見れば見るほど、東北の長い歴史の実態は、中央から不当に差別されたところにあるという意味とは少し違ったイメージが湧いてきます。

実際の東国の歴史は、確かに寒冷な気候であることに加え、今回の震災・津波にもみられるように数々の大災害(天明の浅間山大噴火を契機とした天明の大飢饉なども含む)や中央の争いにまけた勢力、頼朝による奥州藤原征伐、江戸時代の外様大名の扱い、明治戊辰戦争後の行政差別などを繰り返し受けてきました。

ところが、中央が語る政治の変遷にくらべると、いつの時代の東北をみても、その地で生きてきた人びとの歴史をつぶさに見ると、そこに感じられるのは、必ずしも中央から差別された地域としての姿というよりは、真の実態は「中央のコントロールの及ばない地域」としての側面の方がより強く浮き上がってくるのです。

確かに関西人に比べたら、東北人は真面目であるかのようには見えます。
でもそれは、中央に忠実であるというのとは少し違う。

それは中央から不当な扱いをされ続けた事実はありながらも、それによって属国になり下がったわけでもない。
かといって露骨な反旗をひるがえしたわけでもない。
そういうものではない根深い強さのようなものがあったように見えるのです。

想像を超えて古代から米作りの技術が東北に普及していたり、数々の遺跡文化を持っていたのも事実ですが、ひとたび飢饉や冷害などに襲われると、寒冷な気候もあって、その都度、地域全体が壊滅的打撃を受けてきました。
そうした打撃は、確かに南方の地域でも同様に、疫病の流行などとともにおきていたことに変わりはありませんが、それをラテン系のノリのあきらめや楽観主義で東北人が乗り越えたなどという姿は想像することができません。

いついかなる時代でも、一貫して東北の人々が見せてきた姿として私が感じるのは、いかなる政治的激変があろうが、いかなる大災害にみまわれようが、ひと時も自分の手は休めることなく動き続けて自分たちの力でどん底から何度も立ち上がってきた姿です。

今の復興支援のあり方にしても、原発災害にしても、政府への不満は数限りなくあることと思います。言うべきこと、闘わなければならないこともたくさんあると思います。

でもなによりも東北の人々が昔からスゴイといえるのは、それらの期待が通らないことがあろうが、仮に裏切られりようなことがあろうが、自分たちの手はひと時も休めることなく、自分のできることをし続けていく姿です。

荒く火炎の燃え上がる縄文文化の時代から磨き続けてきた
力強い手が今もしっかりと生きているのを感じます。

そこに差別や虐げられたとか裏切られた歴史とかいったことは、二の次のことにしか見えません。

へたな独立心などよりもずっと強い力が、脈々と流れていると感じるのです。


歴史を語るときに枕詞のように繰り返されてきた言葉
「中央(大和)政権の影響が次第に東国にまで及び・・・」

いったいどこを見ていつまでもそんなことを言っているのでしょうか。

そんな表現は我われには、自分たちがコントロールできない悔しさのあらわれにしか見えないですね。




文の表現では、東北といったようなイメージで書きましたが、私の心のなかでは、わが群馬を含む関東以北(江戸・東京を除く)です。


コメント (2)

砂雪隠のある農家

2010年08月04日 | 「近代化」でくくれない人々
もう一カ月あまりも更新せず、ご無沙汰して申しわけありませんでした。
書きたいことは、いっぱい溜まっていたのですが、この暑さのなか
他のことに気をとられることが多く、なかなか書けずにいました。
すみません。

ところで皆さんは「砂雪隠(すなせっちん)」ってご存じでしょうか?

内部には投石をおき、穴に砂を敷き詰め、常に綺麗に掃除されている特殊な便所のことで、
実際にはほとんど使用されることはないものが大半のようです。
茶室などについていることもあるようですが、一部のお寺や城内などで、特別な客に対して、ここまで綺麗に掃除してありますよ、ということを見せるためのものらしいです。

これが、地元渋川のある農家にあったというのです。

この農家は、決して豪農といえるような大きな家ではありません。
見た目は広さも造りも普通の農家とほとんど変わりありません。

ところが、この農家は、なにかがちょっと違うのです。
お店に来られたこの農家のお爺さんが小さいころの話をしてくれました。

学校の宿題で俳句をつくる練習をしていたら、後ろからお婆さんが覗きこむや否や、
おまえはいったい何をしているんだ!
といきなり怒られたそうです。
俳句なんかやるもんじゃないと、
強引に和歌につくり変えさせられたというのです。

このお爺さんの小さい頃のそんな思い出も、それがどういう意味なのかは長い間まったくわからなかったようです。

しかし、大人になって村の外に出て名前を言うと、ときどき相手の態度が急に変わり、
おたくには先祖代々大変お世話になっていると頭を下げられることがあり、
それがどういうことなのかを少しずつ自分でも調べ出すようになりました。

するとこの家には、村史などでは語られてこなかった重要な村の「裏の歴史」が秘められていることが少しずつわかってきたのです。

自分の家の場所が、度々川の氾濫で被害を受ける場所にありながら、なぜ移動しようとしなかったのか。
白井城と社を結ぶ一直線状に自分の家が位置して、なお且つ
その南北の線と子持神社、さらに空恵寺への東西の線が交差する場所にこの家が位置している。

昔、殿様が公用としてではなく、家に遊びに来ていたという言い伝えもあるそうです。

どれも記録が残っていることではなく口伝ばかりなので、議論はなかなか成り立たないのですが、家のつくりや場所、名前のことなど細部をたどればたどるほど、この農家がただの家ではないことが見えてきます。

頼朝の時代、秀吉の時代それぞれに、墓石を削られるなどの被害を受けたなどの言い伝えと
その痕跡。

また、館林藩の重要な印鑑を預かっていたらしいことなど、
次から次と興味深い話は出てくるのです。

このお爺さんも、この事実を村の歴史に正式に書き残すことを目的としているのではなく、表に出ない重要な歴史でも、今に確実に伝わっているものがあるのだということを、これまでそうであったように、これからもずっと家族の間に伝えていきたい、といったような感じでした。

外部の人間としては、もっと聞きたい、いろいろほじくり返して文書記録として残したいという思いでいっぱいですが、このままであることも何かとても素敵なことにも思えます。

かなり細部を隠した表現にしましたが、遠野物語などの遠い世界に行かずとも
身近にこうした隠れた歴史が埋まっていること、
嬉しいですね。
コメント

差別を「しない」ではなく「感じない」意識

2008年10月25日 | 「近代化」でくくれない人々
昨日、田中優子『カムイ伝講義』をすすめたお客さんと夙谷のことなどをはなしていたら、
そのお客さんは、「私はこういう差別とかの発想はまったくない」という。

差別する意識がないという意味ではなく、差別するという感覚そのものがないということなのです。

この本のなかでも、井原西鶴の『諸艶大鑑(別名・好色二代男)巻五に、長崎丸山遊郭に実在した太夫(最高位の遊女)金山の話が出てきます。

近くの集落に暮らす非人のひとりが金山をみそめ、三年をかけて準備し、金山のところに通うようになった。ついには他の客が気づき評判が立つのだが、金山はそのとき面桶、欠け椀、竹箸その他、非人のシンボルをさまざまアップリケにして着物に貼り付け、「世間晴れて我が恋人をしらすべし。人間にいづれか違いあるべし」と言い放った。金山の評判は高くなり、ますますはやったという。


どんな時代でも、こうした市井のなかに、まわりの目に一切動じないしっかりした人がいる。
差別してはいけないなどという正義感からではなく、どうして彼等が差別されるのか、そもそも理解できないといった人たちで、昨日のお客さんもそんな感じの方でした。

私も当然、差別そのものはおかしいと思いながらも、如何なる人が目の前にあらわれても絶対に差別する意識はないかと聞かれると、どうも自信をもってこたえることはできない。

昨日の話では、差別の多くの実態は、人間差別でることよりも、職業差別を通じて現実社会には存在するもので、雇用の機会を奪われた身分、職業の変更を禁じられたところにその具体的差別の構造がうまれている。
しかし、それは同時に、その社会で必要とされ不可欠な職業の存在を証明してることの裏返しでもある。
そうした社会で必要とされる職業という観点から人々をみると、差別という発想はなくなる、などという会話をしたのですが、どうも説明がまわりくどい。

差別はいけないなどと説明をされるまでもなく、差別すること自体ありえない先天的な感覚が備わっている人のことを、もっと人間本来の姿として学びたい。

たしかにマザー・テレサのような人は滅多にいないかもしれない。

でも、そうしたいかなる立場の人に対してもゆるがない接し方の出来る人がひとり、
近くに立っていてくれるだけで、周囲の人々のこころは大きく変わる。

昨日のお客さんは、そんなまわり中を明るく照らしてくれるような輝きを持ったひとだった。
コメント

「さくらんぼの実る頃」のはなし

2008年08月16日 | 「近代化」でくくれない人々

毎度、文章下手、話下手なため、また長~いはなしになります。

以前、佐野眞一の『甘粕正彦 乱心の廣野』という本の紹介で、甘粕大尉が満州の闇世界に君臨しながらも坂本竜一が演じたような不思議な魅力も兼ね備えていたことを書きましたが、いつも歴史のことをいろいろ教えてくれる高校の先生が、本書の内容からいろいろな方向につながる話をさらにしてくれました。
先生のくれた資料(大野修平さんのシャンソン解説など)をもとに、ちょっとおさらいしてみます。

この本は、この甘粕が暗殺したといわれる大杉栄との関係を調査し、甘粕は実際には殺した張本人ではなかったのではないかということを書いています。

それで、当時の無政府主義者、大杉栄の人物像にも迫っていくのですが、大杉栄の妻は、これまた有名な女性活動家、伊藤野枝。
この伊藤野枝も実に破天荒な生き方をしているので、興味を持ち出したらきりがないのだけど、このふたりの間に5人の子どもがいた。(野枝は3度結婚して7人の子どもを産んだ)

長女が魔子(のち真子、魔性の夫婦の間に生まれた子といったような意味だったかな?)、次女・エマ(のち幸子)、三女・エマ(のち笑子)、四女・ルイズ(のち留意子)、長男・ネストル(のち栄)という名前。
悪魔くんどころではなく、どれも大真面目につけた名前だ。
このへんに、大杉が現代のイメージするアナキストというよりは、ずっと理想主義的、ロマン主義的思想家であったことが垣間見えてくる。

エマという名前は、エマ・ゴールドマンからの命名。ルイズという名前はルイズ・ミッシェルからの命名。エマ・ゴールドマンがどんな人であったかは検索してもらうとして、ここでは、ルイズ・ミッシェルに話を絞る。

話はちょっと飛ぶように見えるかもしれませんが、シャンソンの名曲で「桜んぼの実る頃」という曲はご存知でしょうか?タイトルでわからなくても、曲を聴けばたいていのひとは知っている。宮崎駿の「紅の豚」のテーマで使われた曲でもあります。

ちょっと聴いただけでは、単なる甘い恋の歌といった感じなのですが、このシャンソンは、パリ・コミューンの悲痛な思い出と深く結びついている。
このパリ・コミューンは歴史上画期的な自治政府といわれるのですが、短命に終わる。
その短い間のなかで5月21日から28日にかけて、パリを包囲したヴェルサイユ軍によってコミューン連盟兵と一般市民の大量虐殺(血の週間)が行われた。

この闘いのなか、詩人のジャン=バティスト・クレマンが20歳くらいの野戦病院付の看護婦、ルイーズと出会う(5月26日のこと)

彼女は手に桜んぼの入った籠を携えていたという。何か役に立つことはないかとやってきたのだった。一同は彼女に敵から守れるかどうかわからない、と断ったが動こうとしなかった。ルイーズは少しも恐れず、かいがいしく負傷兵の手当てをした。

クレマンの妻の証言によると、彼はその娘と再会したいと思い、住所を尋ねたそうだ。が、それは果たせなかった。彼女も犠牲者になってしまったから。

コミューンの評議員でもあったクレマンは、1866年頃に「桜んぼの実る頃」の歌詞を3番まで書いていた。そしてバリケードのなかで出合ったルイーズの姿に感銘を受けて、彼は4番のクゥプレを書き足した。そのなかにある「あの時から、この心には/開いたままの傷がある」とは、2ヶ月で幕を閉じたパリ・コミューンのこと、そしてあの虐殺を指している。

このシャンソンは次の献辞とともに彼女に捧げられた。
「1871年5月28日日曜日、フォンテーヌ・オ・ロワ通りの看護婦、勇敢な市民ルイーズに」

http://jp.youtube.com/watch?v=rZBoYVoQe8o

対訳  桜んぼの実る頃
作詞:ジャン=バティスト・クレマン
作曲:アントワーヌ・ルナール

桜んぼの実る頃に
陽気な夜鳴き鶯やまねつぐみは
みな浮かれ出す
美しい女たちは物狂おしい思いにとらわれ
恋人たちの心は明るく
桜んぼの実る頃に
まねつぐみはさらに上手にさえずる

けれど 桜んぼの実る頃は短い
二人連れ立って 夢見ながら
耳飾りを摘みに行く季節は
おそろいのドレスを着た恋の桜んぼが
血のしずくのように葉蔭に落ちている
けれど 桜んぼの実る頃は短い
夢見ながら珊瑚色の耳飾りを摘む季節は

恋の痛手が怖いのなら
美しい女たちを避けなさい
悲惨な苦しみを恐れない私は
一日たりとも苦しまずに生きることはない
桜んぼの実る頃に
あなたたちもまた 恋に苦しむことでしょう

私はいつまでも桜んぼの実る頃を愛する
あの時から この心には
開いたままの傷がある
幸運の女神が私に与えられても
この傷を癒すことはできないでしょう
いつまでも桜んぼの実る頃を愛する
そして 心のなかのあの思い出も


私よりもちょっと上の世代で、学生運動をやってた人たちなら、みんなこの話を知っているのでしょうか。
さて大杉栄、あるいは伊藤野枝はどこでこのはなしを知ったのでしょうか。

中断している不連続シリーズ「近代化でくくれない人びと」で、いよいよ「百姓ノ持タル国」の話になるのですが、フランス革命よりも早く、しかも長期にわたって領主のいない自治共和国を日本が築いていた歴史があるにもかかわらず、こうもその後の歴史に開きがうまれてしまったのは、こうした歌にドラマを盛り込んで広く伝える力、宣言や綱領に趣旨を明確に表す力に欠けていたためなのではないかと思うのです。

コメント

「力」=Kraft 、 Macht 、Gewalt

2008年05月25日 | 「近代化」でくくれない人々
前回の一向一揆の特殊性のはなし、
もう少し補足しないと、真意が伝わらない気がしました。

「近代化」でくくれない人びとというテーマで、なぜ一向一揆に注目するのかということなのですが、
それは、闘いということを考えたときにどうしてもそれを
「政治的な」闘いと、武力なとの力を伴った「軍事的な」闘いに集約されがちですが、それ以外に、
生活者の視点に立ってみると「技術的な」闘いともいうべき、非政治的、非軍事的領域の重要性に気づくからです。

そしてこの領域を重視することから社会を組み立てる発想こそが、創造的な社会を築く条件でもあるのではないかと。

それで思い出したのが20年以上前に読んで、実家の棚に埋もれていた本。
唐渡興宣著『資本の力と国家の論理』青木書店 1980/09

本書では、日本語で言う「力」という概念が
ドイツ語では、Kraft、Macht、Gewaltとして使い分けられているということです。

(以下、引用)

Kraftという力は生産力(Produktivkraft)、労働力(Arbeitskraft)、自然力(Naturkraft)というように使用されており、それは何よりも生産的で、創造的な力である。すなわち、人々にとって肯定的で、積極的で、何かを創り出していく力なのである。それが可能態(デュナミス)における力であれ、現実的な力であれ、生産的、創造的に作用する力はKraftなのである。


Macht とは日本語で、威力、支配力、権力として訳されている力であって、それは何よりも人々に疎遠で、人々に対立する力なのである。Machtという力は実はその実体をKraftに持つものであるが、それの疎外された力がMachtという力なのである。

すなわち、それの実体をKraftという力に持つものの、人々にはそれが理解されず、そのMachtという力がどこからくるのか、またいかなる方向に作用するのかが理解されないがゆえに、Machtとして人々が意識する力である。

Machtという力は諸Kraftとしての諸力が集合され、結集されて押し出されてきたものであるが、人々にはそれの何たるかが不明である間は、それを神秘化したり、権威づけしたり、あるいはその前で動物的に従順となり、その力の前ではそれに服していくような力なのである。さらに、そうしたMachtとしての力に対抗して形成されるAnti-MachtもMachtとしての力なのである。


 Gewaltは暴力、権力として日本語で使用されているが、これは何よりも破壊的な力(Destruktions-Kraft)なのである。そなわちKraftという力が生産的、創造的な力であるのに対して、Gewaltすなわち、暴力とは、その正反対をなす破壊的な力なのである。
暴力としての力はその由来をMachtとしての力に持つ。その点で、Machtは潜在的、可能性においてGewaltである。それは一定の条件のもとでGewaltに転化する。
暴力Gewaltがいかなるものに対する破壊的な力であるかは、そのMachtの性格によって規定されており、Machtの集中的な発現こそGewaltである。

(引用終了)

得てしてGewalt(暴力)中心になりがちな戦国時代において、異例ともいえるほど、Kraftの諸力を積み重ねた組織をつくりあげたといえる一向一揆、浄土真宗の寺内町の考察が、私にはそのまま、現代の市民社会を考えるときに
政治偏重に陥りがちな傾向、最近ではやや少なくなりましたが反権力偏重に陥りがちな政治闘争への有効な反省材料としてとても興味深く感じるのです。



この本に枝折代わりに挿んでおいたバスクレセンスキー・ピアノリサイタルの半券の裏に書き写してあったメモに、以下のようなところが書き写してありました。

「貧困ということを生活苦においてのみ理解してはならない。われわれは富、生産力の主体的本質の何であるかを知っている。普遍的な富、生産力とは、何よりも人間の本質諸力、創造的力としての労働力にほかならない。人格の内容をなす労働力の略奪と破壊、これこそ貧困の本質的特徴なのである。」
                   同書 122頁より



Kraftということばの視点から、労働を、賃労働や被雇用者としての面にとらわれがちな傾向を、創造者としての本来の労働主体として見直すこととして、またそのまま政治、権力、暴力偏重の「力」概念を、生活者にとり戻す術として、とても大事なことに思えてならないのです。

さらに言い換えれば、それは上からの政治主導のこれまでの「近代化」に対する、下からの「近代化」を考察する大事な手がかりでもあるかと思います。


こうした補足を加えさせていただいたうえで、寺内町のことを次回に書きます。
コメント

破格の強さを持った一向一揆の特殊性

2008年05月24日 | 「近代化」でくくれない人々
不連続シリーズ「近代化でくくれない人々」 約・第34回あたり?

間隔があいたり、話が飛んだり、自分でも前の話を忘れたり、
ほんとに心もとない不連続シリーズ。

いよいよ「百姓ノ持タル国」の話に入るのですが、
またまた、その前に、
その前提として、一口に一揆といっても
一揆のなかでも極めて特殊な性格を持っていた一向一揆の問題を
諸々の一揆と同列に語ってよいのだろうかという疑問があります。

一揆そのものが、戦国時代の土一揆、一向一揆など
戦争と飢餓の間で、村同士の争いまで含めて乱立していた時代と、
江戸時代に入ってから、初期の越訴(おっそ)中心の一揆から、後期のかなり組織だった圧力の一形態にまでなったものを一緒に論ずるのは、どうも誤解を生みやすい気がししてなりません。

そうした有象無象の一揆のなかでも、一向一揆というものがいかに特殊な性格を持っていたか、いくつかポイントをあげるおきたいと思います。

第一にそれは、一揆とはいいながらも、一向衆、浄土真宗本願寺という継続的な組織基板を持っていたことです。
突発的な一揆もたくさんあったには違いないのですが、個別に発生している一揆も、その多くは本願寺などからの指示のもとにあったり、蜂起を避けるようにとの手紙が送られていた事例や具体的な指示が出されている場合が多い。
たしかにそれは、「統率されていた」とはとても言い難いものですが、それでも他の大半の一揆がその都度、その場の首謀者の合議で進められていたものとは、大きく性格が異なっていたものだと思われます。

第二には、寺内町(じないちょう・じないまち)という、城下町、門前町とも異なる、商工業を含めた共同体を砦の内側に組織していた独立コミュニティーのようなものを組織基板として持っていたことがあげられます。
これは一向一揆の破格の強さの秘密でもあるのですが、他の一揆と異なり、石山、山科、長島などの寺内町のなかには、組織の中枢に、経済力のある商人や、鉄砲職人だけではなく戦闘に様々な応用のきく様々な技術者集団をかかえて登用していたことが特筆されます。
これは、史上例の無いといってもよいほど徹底した平等思想である親鸞の浄土思想によるところが多く、これまで賤民と差別されてきた・非農業民や技術者たちが、対等に扱われ生業の場が保証された環境にあったことが、とても大きいと思います。

このことが、戦国大名たちの多くが農民と武士を中心とした兵力を城側の統制だけで管理していたのとは異なる、領主主導ではない、様々な技術者たちを中心とした幅広い階層を中軸に組織した武装集団として機能していたことにつながっていたと思われます。

これらの特徴があげられるかと思うのですが、一向一揆はどうしても念仏を一心に唱える狂信的武装集団としての面ばかり強調されがちなのが、私にはなかなか話をすすめにくく感じさせていました。

こうした前提のもとに、次回はいよいよ
信長や秀吉がその経済基盤の力強さを真似て盗んだとも思われる
「寺内町」のことについて書いて見たいと思います。
コメント