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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

旧山古志村の中山隧道以外の手掘り雪中トンネルのこと

2018年06月30日 | 歴史、過去の語り方

中越地震の被害で有名になった旧山古志村には、手掘りトンネルでは日本一といわれる有名な中山隧道とは別に、昭和の時代につくられた手掘りトンネルがいくつかあります。

    

今回私たちは、それを探しに行ってきました。

探しているそのトンネルの長さ632m。


昭和の時代に、なぜそのようなことが行われたのかを知ってビックリ!...



昭和47年3月、小松倉にあった山古志中学校芹坪校舎(芹坪分校)が廃止され、村内の他の3校舎(分校)とともに、竹沢地区にあった本校へ統合されました。

その結果、小松倉に住む中学生は、遠く約6kmも離れた山古志中学校へ通うことになりました。

さらに昭和52年には、中学校に続いて小学校も統合の対象になりました。

旧東竹沢村内にあった芹坪小学校と梶木小学校の2校が廃止され、中学生に続いて小学生も遠くへ通学をよぎなくされることになりました。



すると豪雪地帯で急峻な山間部を通う子供たちは冬の間は絶えず雪崩の危険にさらされながら学校に行かなければならなくなり、実際にその地を通行中の小松倉住民が2人が命を落としていました。

全国の山間部のなかでも、この山古志村周辺の地形には、独特のものがあります。

山といってもほとんどが1000m以下の丘陵部なのですが、その丘陵部高地から急激に切れ落ちた沢の部分が、いく筋もの谷あいを形成しています。

しかも、その斜面は岩盤部がほとんどなく、粘土層のような崖で成り立っているために、どこも高地からは一気に切れ落ちているのが特徴です。

先の中越地震でもっとも多くの被害がこの山古志村でおきたのは、ただこの地が山間部であったというだけでなく、こうした地形によるところがとても大きかったと思われます。

そんな地形の場所がさらに、全国屈指の豪雪地帯でもあるわけです。

雪崩の危険は、尋常ではありません。


そこで村の大人たちは、子供たちが冬でも安全に通学できるようにと自主的に手掘りでトンネルを村のいたるところに掘ったというのです。

それがどのようなものなのか、かつて震災被害の実態を見に行った際に手掘りの中山隧道には立ち寄ったのですが、他にこのような手掘りのトンネルが多数あることなど、当時は全く気づきませんでした。

 

今回、一度、旧道のそれらしい場所を通ったのですが、見つかりませんでした。

 

通りがかりの人やおばあちゃんに聞いても、こちらが方言を聞き取れないためか、会話そのものがなかなか通じませんでした。

そこで、震災復興資料館ならわかるだろうと、先ほど寄ったばかりのところへ戻り説明を聞いて走っていると、その説明された先に近づくとどうも中山隧道のことと勘違いされていたらしいと気づきました。

そして、その後一人のおじさんに出会い、私たちはようやくその場所へたどり着くことができました。

 

 これは確かに、説明を聞かなければ見落としてしまいそうな場所です。

 

 

縦横の大きさは中山隧道よりも少し小さいものです。

写真では明るく写っていますが、実際は何の照明もないので、中はほぼ真っ暗です。 

  

 

気づけば、先ほど通ってきた道に、このような横穴出入り口がいくつもありました。 

 

 

 

 

一本の長いトンネルの間に、このような横穴出入り口が何カ所もあるのです。 

  

 

私たちが、これらのトンネルの価値が中山隧道以上に価値があると思うのは、これが遠い昔に隔絶された山村の生活を守るために掘られたものではなく、昭和の時代に学校の統廃合が進んだ結果、親たちが子供の通学の安全を守ることを第一の目的として作られたということです。

その親たちの大変な労力と子供たちへの思いには、ただ頭がさがるばかりです。

 

ここで、決してその話に水を差す意味ではないのですが、そうした作業を可能にしたと思われる背景に触れさせていただきます。

それは、私も妻も別の立場で幼いころ新潟県の南魚沼地方や十日町市方面にそれぞれ家庭の事情で縁がありました。

そのころの思い出話を互いにしていると、山へ登ったり泥んこ道で転んだ時の記憶に、必ず粘土質の滑りやすい土の記憶が一緒についているのです。群馬で山に登ったり里で遊んだりしているときには、赤土の粘土で足を滑らせるという記憶はあまりありません。群馬は結構かたい岩盤質が多いのです。そして土も粘土質のものはほとんどなく、さらさらした砂がほとんどです。

もちろん、同じ新潟でも湯沢から八海山の方へいたる山間部はまた違った固い岩盤地質なのですが、そうした地形地質は、スキー場が続く南魚沼から小出にいたる区間、ずっと続きます。

何年か前にトンネル工事の最中にガスが発生し事故につながってしまったことがありましたが、そうした事故も多分に柔らかい地盤によることが想像されます。

妻と十日町のビエンナーレや棚田を見にいく時によく冗談として言っているのですが、
「このあたりのトンネルは鼻くそほじくるよりも簡単に掘れるんだ 」
などと不謹慎なことを言っていました。 

この冗談の深い意味に改めて気付かされたのですが、こうした柔らかい粘土質の地盤という特殊な条件こそが、まず第一に、子どもたちの通学路を守るためだけに作られた手掘りトンネルを可能にさせたのだと思われます。

もちろん柔らかいと言っても、何百メートルも機械を使わない手掘り作業をしたわけですから、どんなに甘く見ても簡単な作業でなかったことに変わりはありませんが、少なくともノミで岩盤を砕くような作業の連続ではなくツルハシなどで掘り進めることが可能であったからこそ、着手することができたのだと思われます。

 

そして、そうした柔らかい粘土質の多い地形がまた、先の中越地震の被害をこの旧山古志村で一層拡大してしまうことにもつながってしまったのではないかと感じました。

事実、新潟県は全国の土砂災害の2割を占めるといわれるほど地盤のゆるい土地です。

 

 

 

 

 すべては、この1冊の本との出会いから始まりました。

平沼義之著『廃道踏破 山さ行がねが 伝説の道編』じっぴコンパクト文庫


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