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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

気になる地名、太子(おおし)(たいし)大子(だいご)、太子信仰のことなど

2015年10月27日 | 歴史、過去の語り方

「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「戦争遺跡と廃墟の美学」でも触れていますが、

群馬県の長野原から先に、廃線となった太子線という鉄道があります。

義父からそれが、太子と書いて(おおし)と読むのだと聞きました。

              (長野原ー太子線 太子駅跡 )

 

戦争中、金属不足を補うために急きょ、突貫工事で作られた路線で、

鉱山跡があることから太子信仰がらみの地名と思ったのですが、

読み方が違う。

いったいどういう意味なのかと思いました。

 

さらに紛らわしいのは、数年前、茨城県の袋田の滝へ行ったとき、

その土地が大子(だいご)と読むのを知りました。

ここは、吉村昭の水戸天狗党の乱を描いた「天狗争乱」や「桜田門外ノ変」などで、

水戸藩士の逃亡先などとして、やたら出てきた地名。

小説を読んでいたときは、おそらく意識していなかっただろうから、

ルビがなかったら勝手に太子(たいし)と勘違いしていたのではないかと思います。

 

また、群馬の長野の県境にまたがる熊野神社へ行ったとき、

太子信仰の石碑を見て、そういえば長野の方が太子信仰が盛んであることを

思い出しました。

 

結構、あちこちでみられる地名の太子と太子信仰の関わりは、

いったいどんなものなのだろうか。

 

 

しばらく、そんな疑問も忘れていたのですが、かつて読んだ

五木寛之・沖浦和光『辺界の輝き』が文庫化されたので、

大事な本なので再読してみました。

すると、タイシ、ワタリについてや周辺の話題がやたら出てきました。

 

 

 「ワタリ」「タイシ」については、井上鋭夫『一向一揆の研究』での論及が大きな影響力を持ってるようです。

この本は、分厚く入手しにくいらしい。

「あっ、それ持ってる」と思ったら、

私の棚にあるのは笠原一男の『一向一揆の研究』(山川出版)でした。

 

 

写真は、現在入手可能な井上鋭夫の代表的著作『山の民・川の民』(ちくま学芸文庫)

 

 

行商人、船運に従事する人たちや金堀り、木地師、大工などに広く信仰される太子信仰が、

次第に親鸞などの浄土信仰に吸収されていく。

いや、おそらく後先は地域によって必ずしも時代通りとは限らず、

浄土真宗のなかに後から太子信仰がくっついてきた場合もあるかもしれない。

 

信仰していた人びとでも、上記の行商人や船運に従事する人びとと、

金堀りや大工などの職人たちとは、ちょっと分類が違うような気もしますが、

大きくは「雑種賤民」というくくりでまとめて良さそうです。

 

いわゆる「士農工商」に入らないエタ、非人をのぞく人びとで、

「工」や「商」のようであっても、定住性のない人びと、

あるいは人別帳に載らない人びとなどが中心。

ここには農業を兼ねていない林業、漁業の人びとも、かなり含まれてくる。

もちろん、明確な線引きは難しい世界。

でも、どうやら職種で判断するより、「定住性のないこと」が

意外と大事な目安になるような気がしました。

 

となると、サンカやマタギが当然思い浮かぶ。

山伏や乞食僧らもからんでくる。

 

こんなふうに思いつくままあげてみると、人口構成比のなかで

意外と多くの人びとが「雑種賤民」といわれるなかにいたのではないだろうか。

これから近世の歴史などをみるときに、私たちはもっと「士農工商」以外の

人びとの実態を含めて考えていかなければなりません。

 

これらはきちんとした研究ではなく、数冊の本を読んだだけの私の印象にすぎません。

ちょっと心細いので、ググってみると、

「忍の道」なるサイトにここにかかわることが詳しく出てました。

http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-2.htm#3

 「井上の一向宗研究は、一向宗そのものよりも、原一向宗とでもいうべき一向宗 以前の姿を、太子信仰のなかに探ったというべきものである。井上によると、 山伏修験者たちは蔵王権現はじめ大日・阿弥陀・薬師・観音・地蔵・不動など の諸仏菩薩を信仰した。一方、彼らに使役された金堀りたちは諸仏菩薩より一 段低い信仰対象を与えられた。山王にたいする王子のようなもので、信仰にも 階層差別があったことになる。従って、太子信仰は元は王子信仰にあり、金堀 りは太子信仰であったがゆえに後にタイシあるいはワタリと俗称されるように なったという。 」

 

「太子信仰は元は王子信仰にあり」ということがそのまま、

太子を(おおし)と読むことにつながるわけではありませんが、

このサイトはとても参考になりました。

 

柳田国男は「太子講の根源」という項で以下のように述べてます。

「すなわち我々の迎えて祭った神々は、常に若々しい姿をもって信徒の前に出現なされ、
人はそれを天つ大神の御子と思っていた故に、通例は大子と呼んだことがあるらしいのであります。
後世漢字の用法が厳格になってからは、天つ日嗣(ひつぎ)の御子に限ることになりましたが、
その以前久しい間、田舎ではこう書いてオオイコもしくはダイシと称えることが、
広く名門の家庭までも及んでいた証拠があります。
神にはなおさらのことで、それが一方には弘法大師となり、他の一方には聖徳太子諸国御遊歴の
話ともなったかと思います。
そうして東国には別に仏法とは縁のない太子講が、現在もなお行なわれているのであります。

      柳田国男『女性と民間伝承』角川文庫 

 

また、『日本の伝説』の「大師講の由来」では、

だいしはもし漢字をあてるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音でよぶようになってからは、だんだん神と尊い方のお子様のほかには使わぬことになり、それも後にはたいしといって、ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。」

さらに、

「また大工とか木挽きとかいう、山の木に関係ある職業の人が、いまでも太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかもしれません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しく、また尊い神様をまつっているものがほうぼうにありました。そうしていつでも御身内の婦人が、かならずそのおそばについておられるのであります。それから考えてみますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、のちにはびんぼうないやしい家の者のようにいい出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母(おんおば)というような、とにかくふつうの村の人よりは、ずっとそのだいしにしたしみの深い方であったのではないかと思います。」

 

 

今回は、何も結論を出すような内容はありませんが、

・ 太子信仰と浄土真宗の相関

・ 雑種賤民という階層の人びとの実態

・ タイシ、オオシという地名の由縁

とても興味深いところなので、頭の片隅に残して継続して追っていきたいと思ってます。

 

              2013年10月5日     (2014年12月30日更新)

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あらためて谷川岳は「魔の山」

2015年10月17日 | 気になる本

いま準備中のホームページ「みなかみ まちライブラリー」のために、谷川岳関連の本をリストアップしていたら、40点あまりの本の内、半分あまりが遭難事故に関連したものでした。


 

http://hosinoue.wix.com/minakami-lib#!---------/t2tuk

 

 


昭和6年から統計が開始された谷川岳遭難事故記録による死者の数は、平成24年までで805名。

ちなみに8000メートル峰14座の死者を合計しても637名。

この飛び抜けた数は日本のみならず世界の山のワースト記録。


 

地元では日ごろ親しまれた二つ耳の美しい山容ですが、その姿のすぐ隣りで、

エベレストよりも、デナリ(マッキンリー)よりも、たくさんの悲劇がうまれているわけです。

とても多いということは認識してましたが、あらためて驚きの山です。


 

http://hosinoue.wix.com/minakami-lib

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「地方」の本来の意味は「天円地方」から

2015年10月03日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 以前このブログで、「地方」を「じかた」と読むと、中央に対する地方といった対比を意識しない地方独自の在り方が考えられるようになるのではないか、といったようなことを書いたことがあります。
 そのときは「地方組合(じかたくみあい)」という言葉を知ったことがきっかけで書いたのですが、一般には「町方(まちかた)」に対する「地方(じかた)」=農村部から発するイメージが定着しています。

 ところが、どうやら私が感じた(じかた)の見方は、語源をたどると必ずしも勝手な独断とは言いがたいそれなりの根拠もありそうな情報にたどりつくことができました。

 それは戸矢学『陰陽道とは何か』(PHP新書)という本で知った「天円地方」という考え方です。

 以下は、長い間うまくまとめることができないまま温めていたことです。

 

 

 「天円地方」とは、陰陽道の宇宙観だ。もともとは、古代道教の思想として初めて形を成し、地理風水にも反映され、陰陽道にいたって宇宙観となった。意味は、そのまま字のとおりで、天は円形であり、大地は方形であるということだ。
 「円形の天空」とは、「回転」つまり「動」を表している。これに対して、「方形の大地」とは、「不動」であって、「静」を表す。つまり、天円地方というのは「天動説」のことなのである。とし、その原型を紀元前5000年から前3000年にまでたどることができると言います。

 これは、陰陽道のいくつかの根幹思想のなかでもひと際重要な考えでもあるようです。

 一般的には、「天」を天界宇宙の「円」として解釈した説明が多いようですが、この「天」とは、決して自然科学的認識にとどまるものではなく、王や君主、天皇が権威を賦与され信任されるために必用な「天」「神や自然の摂理」といったような意味合いこそが大事なのではないかと思います。

 

 

 「天円地方」の根拠と事例は、日本のもっとも古い建築物である〈神社〉や〈古墳〉のなかに見ることができます。
   古墳の例では、前方後円墳の前方が地上界、後円が天上界をあらわし、「天降り」の儀式では、「円=天」において神霊を受け継ぎ、「方=地」において即位を宣言する。 つまり天界の「円形」の部分と、地上界の「方形」の部分が、それぞれ異なる役割を担って結合しているわけです。

 

 さらにわかりやすい事例が、相撲の世界にあります。

 横綱は、四色の房に象徴される四神の見守る結界で土俵入りし、地から天へせり上がる。力強く四股を踏むことで、地の負(陰)を鎮め、天の勝(陽)へと祈り上げる呪術的作法だ。この所作は、陰陽師の反ぱいという歩行術からきている。
「横綱土俵入り」は、もっとも強い力士が腰に注連縄を張って、かしわ手を拍ち、四股を踏む。そのとき、背後では立て行事が祭文を唱える。この様式は、「地鎮祭」そのものである。

 

人間界「地方」から天界「天円」の内側へ入る儀式でもあるわけです。

  このように、土俵をはじめあらゆる場所で、方形と円形が天と地を隔て分かつ象徴としての役割りを果たしています。

 考えてみると、相撲以外の競技で円の中で試合をする競技は思い当たりません。
 部分的にサークルを取り入れた場所はありますが、長方形のなかで争う競技ばかりです。
 その意味でも相撲が、地上界から天界へ踏み入る特殊な行為であることがうかがえます。

 

 そしてこの方形と円形の関係が、陰陽道を通じて中国にならい築かれた平城、平安の都の姿、さらには関東平野における江戸城下の整備としてすすめられました。
 ここであらためて平城京、平安京などの地形を思い起こしてみると、都の選定や形が深く風水に基づいてつくられていることは当然ですが、この「天円地方」の思想で見直してみると、天円というものが、必ずしも天上、天体や宇宙だけを表したものではないのではないかと思わされます。
 つまり、方形の外側にある地上を取り囲む自然界(山、川、海、空)すべてが、「天円」に該当しているのではないかということです。

 

 

 それは、あらゆる自然界=天円のなかに、人間の結界として「方形」の仕切りを取り結ぶ関係こそが、その思想の根幹であるということです。

 

 よって、とりもなおさず「地方」という言葉の本来の意味は、およそ中央や都会に対するローカル、僻地などといった性格のものではなく、それは人間界を取り巻く大自然の気(風水)、景観につつまれた人間社会のあり様のことにほかならないのだと思われます。

 そもそも「地方」とは、中央や都会からの独立や自主・自立などを目指し目標にするものでもなく、自分たちのよって立つところの自然環境や風水の気を取り込むことによってこそ、その存在意味が成立するものであるといっても間違いないのではないでしょうか。

 京都や奈良の都がそうであったように、またかつての江戸がそうであったのと同じように、現代においても本来は、都会、田舎に関わりなくそれそれの地域が「天円」囲まれた「地方」なのだということです。

 

(最近書いた「みなかみ、そこはカミの依り代」 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/81d8822e3b3b1c87d6b38b7b3b3a60d4
も、そうした観点のはなしです。)

 

 実は、この文章を書き出してから気づいたことなのですが、昔の銅貨の真ん中に空いている穴がどうして丸ではなくて四角なのかを考えると、まさにこのお金こそ「天円地方」の思想のもっともよく表されたものではないかと思われます。

 

 

 

 銅貨の中でも有名な天保銭のデザイン「吾唯知足」の言葉。
 今までは「足るを知る」のデザインの妙ばかり感心していましたが、これはそれに留まらずはるかに深くすばらしいものなのだと気づきました。

 この天保銭のデザインは、お金に対して「足るを知る」をあらわしているだけではなく、自然界=天に対する人間界=地方の足るを知るも表現されていたと思われます。
 表現されているのは、お金の話だけではないのです。 

 あらためて「足るを知る」をこの銅銭と天円地方の思想からとらえなおすと、決してそれが無駄遣いの戒めや清貧のすすめではなく、私たちがいかに四方(=人間界)を取り巻く自然界(=天円)の豊かなめぐみによって生かされているか、ということの表現であるように感じられるのです。

 さらに、「天=円=自然界」の気を取り入れる「人間界=地方」が、えてして風水、運勢、気の流れにばかりみられがちなものが、決してそれに留まらず、まさに物質的な自然界の恵みである光、水、土、植物、動物、微生物によって「人間界=地方」は支えられているのだということもよくわかります。

 

それをいつから「地方=人間界」の内側だけからコントロール可能かのように考えだしてしまったのでしょうか。

 

「太陽や月は天からあまねく我々を照らし、恩恵を与え、偏ることはない。

また神の井(温泉)は下から湧き出し、これまた誰にでも恩恵を与える。

万機はこうした恩恵を受けたからこそうまく行なわれ、人々は静かに安心して生活できる。

これは天寿国とほとんど同じである」

               聖徳太子の『風土記』中の逸文より、関裕二による意訳。
                               『持統天皇』ワニ文庫より

 

 

このことをもう少し文明史的スパンで考えてみます。

天円地方のはじまりは、大自然=天円のなかの一点にしかすぎないような「地方」=人間界からはじまりました。この時期は、圧倒的な天円=大自然の側に軸足があるので、「地方」内部の矛盾を感じることはほとんどなく、自然の力の前に人間はひれ伏し、ただ従うばかりの存在でした。

 

上の写真は地鎮祭で見られる光景ですが、こうした祭礼に限らず、昔の猟師などは、山中で日が暮れ、野宿しなくてはならなくなると、木の枝を折って四方に差し立て、その中で寝るといいます。悪霊が入ってこないためのまじないです。また軍陣にあっては、敵に居場所を感づかれないためのまじないとしても使われたようです。

これらは、まだ人間界はこの四方(地方)で区切られた結界の外側に軸足を置いていた時代の感覚です。

事実、人間界に都市文明が生まれる前の共同体は、民族を問わず、自然界=天円との間には結界を作らない丸いかたちをとっていました。

 

中沢新一『アースダイバー』より

ヤノマミの村の姿

 

人間界も自然信仰・アニミズム、多神教の段階で、主に母系社会である場合が多く、生命再生思想が根強い社会でした。

つまり、人間の軸足(視点)が、まだ「地方」の外側、つまり天円=大自然の側にあるので、自然生命系の連鎖の中で自らを区別するアイデンティティはほとんど必要とされません。

ここでいう自然とは、明治以降に定着した「自然(しぜん)」とは異なる「自然(じねん)」、つまり自ずから然りというべきものです。自らは◯◯谷の者、◯◯山の者などといった表現で、固有名詞で自ら名乗ることを強いて必要としない社会です。

 

そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。

草木すら事問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。

人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。

そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。

                  白川静 『漢字』(岩波新書)より

 

それが次第に部族集団レベルから古代都市社会が生まれはじめると、「地方」の領域が広がり、「天円」に対峙する独自空間が生まれ拡大しはじめます。

四方を「地方」、結界の内側から見ている社会です。

それは、野生動物の家畜化や農耕の始まりとともに生まれ、地方の内部に人間界独自の富や力の集中・蓄積が始まります。

長いことばの歴史の中から文字が発生し、精霊たちが神話にかわるときです。、

ここでは人間の視点や軸足が、「地方」=結界の内側にあるので、天円=大自然との生命のつながりを意識することなく、人間自身の力(呪力)や人間社会内部の交換のみで生きていけるかの錯覚におちいります。

古代都市社会がうまれると同時に、それまでの自然信仰=アニミズム的信仰とは区別される一神教型の宗教やイデオロギーなどが生まれ、「地方」の内部にアイデンティティの萌芽と、同時にその対立もはじまります。

自ら所属する組織、宗派、出身などにこだわらないとアイデンティティを確認できない社会です。

この地方(四方)の内側からみた自然のことを、先ほどの自然(じねん)ではなく自然(しぜん)と呼び、それが人間界に襲いかかる自然であったり、観光で訪れる美しい自然であったりするわけです。

 

前者の段階は、自然信仰、アニミズム、母なる大地、八百万の神、母系社会などのイメージそのままあらわれる「マザーネイチャー」の世界といえます。

対する後者の世界は、都市社会の発生とともに、イスラム教、キリスト教、仏教などの一神教型宗教が生まれ、集団相互、集団内部ともに対立を生む関係のもと、それぞれのアイデンティティの主張こそが自らの存在価値につながる社会となります。

というよりは、大自然生命との直接的なつながりの喪失そのものが、生命基盤のアイデンティティ喪失になり、そのことが同時に新たなアイデンティティ創出を不可避とする社会ということです。

アイデンティティそのものは、社会では身につけるべきものというほどの積極的な意味合いが強いものですが、仏教的世界観からみればそれは「我」に相当するものです。
 

したがって前者の社会では、自然の力の前には「仕方が無い」という言葉が了承される社会です。
またたとえ社会のなかでも「我」を捨てた関係が基本になります。 

対する後者の場合は、地方の四角領域が広がるほどに自然とは切り離された「地方」内部でのモノの交換や独自ルールで成り立つ比率も高くなるので、「地方」内部で人間のつくったはずの安心が壊れるたびに、「それは誰がやったんだ」と、どこかの誰かに責任を追及する社会になってきます。

本来は、どんなに拡大した「地方」であっても「天円」に包まれた社会であることに本来変わりはないのですが、「地方」が大きくなるほどに、「地方」の内側だけで社会が成立しているかの錯覚に陥ってしまうのです。

この「地方」内部のアイデンティティ優先社会を私は、マザーネイチャーや母系社会に対峙した父系論理のはたらく社会の意味をこめて「アイデンチチ」と呼んでいます。

(この点はまた長くなるので、「アイデンチチ vs マザーネイチャー」として改めてまとめさせていただく予定です。)

 

 

こののように、「天円地方」の理解でもっとも大切なことは、決して「天」が「丸い」ことや「地」が「四角」であることの解釈ではなく、そもそも天地(あめつち)は一体不可分であることの理解として天や地、相互の関係を考えることにこそあるのだと思います。

それはおそらく、現代の肥大化した「地方」=都市化された社会をふたたび「天円地方」の枠組みのなかにとらえ直していくことでもあります。

私たちの暮らす「地方」も、こうした思想のもとでこそ、決して中央に対するローカルな社会といった意味ではなく、そこは圧倒的な天円=大自然の恵みにつつまれた豊かな地方であることが、どんなに文明社会が発達しても変わることのない論理なのだと私は考えます。

 

 

 

いま生きている私たちはお互いに孤立した近代人なぞではなく、

吹く風や流れる水、

草木のささやき、

山や森さえも

光の糸のような絆をつないでくれているのだということを書きあらわしたかったんです。


                                    (石牟礼道子) 

 

 

 

 

天円地方」に関する他の記事

① 「ヤノマミ」天と地は本来つながった一つの世界

② 「自然(天円)」につつまれた人間界(地方)」の力学」旅のイメージ(覚書)

 

 

 * 掲載させていただいた図版は、ネット画像検索でみつけたものを使わせていただきました。
   出典のわからないものであったため、問題があれば削除させていただきます。

 

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中秋の名月に、三脚型の燭台をつくってみた

2015年10月02日 | 暮らしのしつらえ

 

 「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.com/#!autum/cwe3 のホームページで使用する秋の月見のいい写真がまだなかったので、中秋の名月に妻がお供えを用意してくれるときにあわせて、それらしい演出をいろいろ考えていました。

 お供えに相応しい雰囲気を出すには、やはり三脚型の燭台が一番良いのではないかと思い、中秋の名月と地域の観月イベント「指月会」にあわせてつくってみることにしました。

 

 ところが、ネットで検索しても、この三脚構造の燭台の情報や写真がなかなかみつかりません。

 最初は角棒を3本交錯させてつくってみたのですが、どうにも3本の交差部分が、角材ではうまくまとまりませんでした。

 あらためて直径15mmの丸棒を買って来て組んでみました。

 やはり、きちんとした交差のさせかた、固定の仕方が理解できていないと、三脚の上に水平部分をつくるのは容易ではないと気づきました。

 

 

 

 

最初は板を三枚重ねて厚みをつけて、3本の脚が交差する角度で穴をあければよいと思ったのですが、どうにも、この角度で穴をきちんとあけることは簡単ではありません。

結局、この方法は諦め、板は薄い一枚のままで穴にはアソビをもたせるようにして、穴の角度の厳密さは追求しないことにしました。 

 

板の部分の固定がゆるくなったため、この交差部分をワイヤーできっちりと縛りあげることにしました。

でもワーヤー剥き出しでは、黒色のワーヤーを使ったとはいえ、せっかくの和風の仕上がりが色あせてしまう。

そこでホームセンターで園芸用の棕櫚縄を買って来て、上からさらにまきつけてみました。

ところが、やっぱり3本が交差したこの複雑な構造にきれいに巻き付けるのはなかなか難しい。

昔の職人は、こうした部分の仕上げがとても美しい。 

とりあえず、ここはこれ以上深追いはせず、次の作業にすすむ。

 

 

明かりで使う蠟燭は、煤が出ず長持ちするホンモノの和蠟燭といきたいところですが、高価なのでカタログ値で24時間もつというカップ入りの蠟燭を使うことにしました。

いづれ、ホンモノの和蠟燭そのものの魅力を紹介できる機会もつくりたいものです。 

覆いは、手作り枝折用にかつて買ってあった和紙風デザインのA4厚紙が何種類かあったので、それを適当に丸めて底の部分が水平になるようにカット。

 丸めた紙は、とりあえずホチキスで止めてみましたが、仮の固定方法のつもりが結局それがそのまま仕上がりになってしまいました。

 

 

脚の長さは、「指月会」会場のお寺のような広い部屋で使用する高さのあるものと、家で使用するような低いものを1800mmの長さから2本とって、2種類4台を作成しました。

この燭台は、デザインで雰囲気を出すことを第一に考えてつくったのですが、実際に出来あがって使用してみると、その明かりの非日常的な美しさは目をみはるものがありました。

 

それと、よく化け猫が出てきてなめるような、お皿に油を入れて灯心だけを出したかたちのものがこれ。

 

 

 

和ロウソクを使えば、炎も大きく明るくなりますが、コストは高くなります。

 

 

そもそも観月とは、明かりのない闇夜に月明かりが際立って冴えわたることにこそ、その魅力があるものです。

いくら観月イベントとはいえ、照明を煌煌と照らした空間では、とてもその本来の雰囲気は味わえません。

そればかりか、夜の魅力そのものにも気づけません。

暗いものをただ明るくすることの一方向にしか気が向かわない太陽偏重の思考に、月までがあわせさせられるかのような月見から、こうした仄かな明かりは、月に相応しい夜の感覚を取り戻し気づかせてくれます。

 もっとも、お月見の行事も都会ほど昔から灯籠の明かりをともしていた面もあります。

 では、お月見にはどのような明かりのともし方が相応しいのか。

 部屋のこの燭台の飾り方が、明るさを確保するためには4本立てたいところですが、お供えの雰囲気づくりには左右2本がいい気もします。

 そうしたことのひとつの参考事例が、日ごろお世話になっている〈月の会〉の志賀勝さんの『月の誘惑』(はまの出版)のなかで紹介されていました。

 1830年の『清嘉録』には次のように書かれている——。

「十五夜の夜を、また俗に『燈節(とうせつ)』と呼ぶ。各家とも二本の大きな蠟燭を正面の間に燃し、筵席(えんせき)を設けてたがいに招き宴賞しあう。また神祠や会館でも鼓楽をなして宴飲し、華燈籠(かざりどうろう)が万盞(油の皿)も掛けられる。これらを『燈宴(とうえん)』という。(以下略)」

 とりあえず、堅苦しい決まりは特にあるわけではないらしいので、その時々の部屋の使い方に応じていろいろと試してみることにしました。

 

この時のお供えに使ったのは、蕎麦がき団子です。

のちに蕎麦がきは日保ちがしないので、芋名月にちなんで里芋に変えてみました。

 

これが後の十三夜には、栗に変わります。

 

 

おかげで今年の中秋の名月は、かつてないほど空も冴え渡り完璧な月だったこともあり、「指月会」のイベントお手伝いの前に妻と二人で最高のひとときを過ごすことができました。

 
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