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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

昔は元日にみな年をとっていた

2014年12月31日 | 暮らしのしつらえ

日本では古来、誕生日にではなく、新年元日(旧暦)に年齢を加算していました。
したがって、年をとったことを祝うなら正月であり、生まれた日を祝う習慣はありませんでした。

大晦日の夕方から元日の日の出までの時間は、おじいさんから孫まで、ひとつ屋根の下の家族が、たいへんな高揚感をもってむかえられていたことと思われます。

(さらに一日のはじまりが、かつては午前0時でも日の出の時刻でもなく、日没の時から一日がはじまっていたことを
前に「一年のはじまり、月のはじまり、一日のはじまりについて」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/a6cd7eee2428ed18e62d5ab98d5cc637で書きました。)

 

私は、その習慣ははたしていつ頃から変わったのだろうかと思っていましたが、その習慣が昭和の法律によって廃止されたとは知りませんでした。

昭和25年(1950年)1月1日に施行された「年齢のとなえ方に関する法律」(昭和24年5月24日法律第96号)です。

 

西暦で誕生日を祝うことが当たり前になったかのような現代ですが、そうした習慣が定着したのは、昭和になってからのことで、古老の話を聞くと昭和24年のこの法律が施行されても、東京オリンピック(1964・昭和39年)の頃まではかなり広範にこうした習慣は残っていたようです。

誕生日を祝う習慣がなく、新年に一斉に歳をとるということは、誕生日を祝うことが定着した現代では跡形もなく消えたかにも思えますが、「数え年」という年齢の数え方には、そのまま名残として残っています。

「数え年」というのは、私はてっきり早生まれの人だけが意識することかと思っていましたが、これはそういうことではなく、誕生日に関わりなく年齢を計算する考え方で、まさに元旦を持って歳をとるという姿そのものです。

 

「数え年」というのは、0歳という考えがなく、生まれた時点で、1歳となる考え方です。

 以降、1月1日を迎えるごとに、1歳プラスがプラスされていきます。

 

だいたいはこういった説明がされていますが、私たちにとって大事なのは、「数え年」は、こうした数え方がされていますということではなくて、誕生日を祝う習慣がなく新年に皆一斉に年をとっていたのだということの名残としてこの「数え年」があるのだということです。

私たちが「暦」というもののポイントを知るいくつもの大事な要素がこのテーマには含まれています。

そのひとつが、新年イコール太陽歴の元日では、太陽や月の運行に基づいた暦上では何の意味も持たないので、西暦が強要されても庶民の暮らしには、なかなか馴染めないものがあったということ。

つまり、365日の第1日目は、太陽周期の割り算の結果に過ぎず、1年の区切りを天体の運行から見れば、冬至や立春などの日の高さの極日や、満月や新月の日こそが自然界では合理的な区切りであったのです。

 

もう一つは、1日の始まりも午前0時という時間の合理性も、太陽や月の運行からは意味がなく、日の出・日の入り、月の出・月の入りこそが、区切りの大事な目安であるということです。

季節の行事で宵の〇〇、前夜祭などがあるのは、そもそもこうした1日の始まりというのは、午前0時を区切りとしたものではなく、日の入りや月の出こそが1日の始まりであるという古くからの習慣の表れ、名残りであり、それは地球生命のリズムに即して考えれば決して非合理なものでもないということです。

 

 

 

それにしても、長い年月親しまれている国民の生活習慣を、どうしてこれほどまでの強制力を持って変えなければならなかったのでしょうか。

実際には、給料計算や諸手当の支給方法などをケチったり矛盾を解決するためなどの理由もあったようですが、いつの時代でも、為政者は民衆の暮らしに介入して管理を強化し続けるものです。

ところが、明治維新以降は、執拗に国民の「心の習慣」にまで介入するようになりました。

「近代化」という名のもとに。

江戸時代以前も、封建的しがらみに苦しむ民衆は数多くいました。

それでも、ときの幕府が民衆の「こころの習慣」にまで介入することは、
キリシタン弾圧などの他には、それほどはありませんでした。

実際にあっても、様ざまな抜け道や現場の裁量のきくことも多かったと思います。

ところが、明治以降の政府の介入は、「近代国家」づくりのためには、
何事も国の隅々にまでゆきわたる管理でなければなりません。

それは戦後一貫して、一層その流れが強まる傾向にあります。

 

わたしたちは、この「近代化」という大きな歴史のうねりにやっと疑問をもち始めました。

「暦」というものは、「お金」とともに近代国家づくりの大きな要をなすものです。

合理性を求めることは社会に不可欠なことですが、
より自然の摂理にしたがうことと、心の習慣を大切にすることを
もっと社会全体で考え直していかなければならないと思います。

決して古いものが無条件に良いというわけではありません。

「近代化」という社会観は、あまりにもひとつの方向の価値観で
突き進みすぎたように思えるのです。

どちらが正しいか「国家」が決めるようなことではなく、
多元的な価値観が必要に応じて併存できる世の中を
もう少し取り戻してもよいのではないかと思うのです。

 

自然界の割り切れない世界をいかに合理的に割り切れるように説明するか問いう方向と、

自然界の割り切れないものは、割り切れないまま、いかにそれに忠実に生きていくかという方向とを、

無理やりどちらかに統合してしまうことなく、うまく使い分けていきたいものです。

 

 

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八束脛遺跡と羊太夫伝説

2014年12月31日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

群馬では、比較的よく知られた話で羊太夫といわれる伝承物語りがあります。

 

そもそも羊太夫って何者か、なんで羊なのか、よくわからないことが多いはなしなのですが、一般にこの伝説は、以下の資料などで知られています。

 

『多胡砂子』

「土人伝ふ、羊は名馬に乗て奈良の京迄日参しけるが、八束脛と云る従者馬につき供せしを、或時、脛疲れたる隙をうかつにあやしく思い史まま両脇を見れば翼あり、試に抜捨てしより後、名馬につづき行事あたわざる故、朝勤も怠りし節、羊を恨むる者有りて、逆意を企るよし讒奏におよびしにより、都の討手下り、羊討に伏しぬと云う。」

 

さらに多胡氏を名乗る家では『多胡羊太夫由来記』という由緒書を伝えている。

井上清・長谷川寛見 共著 『多胡の古碑に寄せて』(あさを社)には、戦記物としての形を整えた「羊太夫栄枯記」(茂原家蔵)が最も詳しいとあります。

 『上州の史話と伝説』第二巻(上毛新聞社)絶版に詳しく紹介

 

以下のサイトがとても詳しいので、ご参照ください 

多胡碑の「羊」と太夫伝承

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujika.html 

多胡碑と羊太夫伝説に関する文献目録

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin10/hitujimo.html

 

また地元吉井町を中心に「ひつじ大学」なる活動もありました。

http://hitsuijiuni.blog37.fc2.com/

 

 

これらは、もっぱら多胡碑で知られる古代文化の集積地、群馬県南西部を舞台とした物語りであると思っていました。

 

 

ところが地元(旧)月夜野町にある八束脛遺跡が、同類の伝説をもつ場所と知り、その相関、類似性がいったいどのような意味をもつのか、とても興味深く思えました。

 

「八束脛伝説と奥州安達ヶ原」

 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/90a154de37e25ae599b2f8a9516f9241

 

 

 地元の八束脛大明神の伝説を記述した文献は、飯塚正人著『異聞刀祢の伝説」(啓文社印刷)のほかにもいくつかあると思われますが、文章は『古馬牧村史』のものが、比較的わかりやすくまとめられていたので、以下に引用させていただきます。

 


 八束脛大明神の由来

 

 後閑の八束脛大明神の由来を聞いてみると、神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の太夫という人があって、この方は天下を統べられる王様の血統をひく、尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり、小幡山の旧跡、八束脛の城に、三百余人の強い兵を従えて住まわれた。 

 その兵の中に、尾瀬八つかという背丈一丈(3m)余り、よく肥って、脛が八つかみあるので、八つかとよばれる人がいた。

 羊の太夫殿は、雲羽、羽場という二匹の名馬を置かれた。この馬は一日に千里(4,000㌖)ずつ飛行する。それで羊の太夫殿は、ここから内裏(だいり)「天皇のごてん」へお伺いするのに、日帰りになさった。お供(とも)は尾瀬八つかであった。八つかは徒歩であとをつづいた。

 あまり暑いので、羊の太夫は碓氷峠の松の木の下で馬からおりてお休みになったので、八束も休み、眠気がさしてとろとろと眠った。その寝姿を見ると、袖のすきから腋の下に小さい翅(はね)が見えた。羊の太夫は茶目気をおこしてその翅を引き抜いた。とたんに八つかは眼をさます。羊の太夫は馬にのって屋敷へ帰ったが、八つかは見えず、ややしばらくあってやっとたどりついた。

 その後は参内にお供することができず「これをおもうと、あの翅のせいであのとおり早くつづいてくることができたのであったか。かあいそうなことをした。」と羊の太夫殿は悔やまれたという。

 その後羊の太夫殿は、参内の帰りに、信州の浅間山の麓で多ぜいの賊徒にとりこめられ、是非なく奮戦したが、多勢にはかなわず、ついに討死なさった。ここを雲馬の地という。これは軽井沢と沓掛との間の原である。

 やがて羊の太夫の居城へ賊徒が押し寄せ八束は城兵にさしずしをして戦ったが、賊は多く、しかも強かったので、味方は討死、八つか一人、人間わざとも思えぬ奮戦の結果敵を追い払った。が八束はひとりぼっちとなり、何をするでもなく、羽馬という駒に乗って、奥州の方へ落ちのびたが、人目に立つので人里に住むことができず、山にひきこもり、おりおり村へ出て食物を求め、暫くの会津山と上野国の北山に来て、よい住みかはないかとさがしたところ、幸にも、その深さが何十丈(百m以上)とも知れない洞穴があり、藤蔓が穴の中に茂っている。その蔓をたよって穴に入り、「これはこのうえもないよいすみかである。」と、そこに住まわれた。

 

 

 それから山々を歩き、あらゆる木の実を取って食べたり、貯えたりして、幾年も住んでいて、遠くへ行くときには、羽馬の駒にのった。昔からの山の鬼神(おにがみ)というのは、この八束のようなものを申し伝えたのであろう。

 山には雪が積もるので、八束殿も秋の木の実を集めて、貯えておいて、冬ごもりをしていらっしゃったが、何者かが穴口の藤の蔓を切り払ってしまったので、出ることができず、貯えの木の実を食い尽くして、自分の死を観念しつつ餓死なさったという。

 

 それから幾年かたって、沼田一郡が開け、後閑村に祟りが、たびたびあって、甚だ困ったので、陰陽師を頼んで占ってもらったら、この山の洞穴に骨があり、普通の人の骨ではないからこれをとり出して、神に祭れば祟りは消えるであろうとのことなので、村中の者がさがしたところ見つかって、見ると脛の骨の長さが八つかみある。

 このおもむきを領主に訴えて宮を立て、この白骨を八束脛大明神と崇め祭った。

 

                     以上、『古馬牧村史』より

 

 これがのちに、安倍宗任の残党がここにこもった話など、類似バリエーションが育ち、現代でも、田原芳雄著『尾瀬判官 女菩薩愛し』(文芸社)などの優れた作品のなかでこの舞台が蘇っています。 

 

 聞けばたしかに北毛地域に安倍姓は多い。実際に安倍宗任の後裔につながるという家もあるらしい。渡良瀬川流域には、安倍宗任が都へ護送されるときにこの地に根付いた残党がいると伝わる話もあるようです。

 前九年の役で討ち取られた安倍貞任他3人の首級も、京都へ送られるときは、この上州を通ったと思われます。

 敗れた安倍一族の末裔や臣下は、当然、俘虜の身になったり故郷を追われたりして、各地に散ったことも想像に難くありません。

 もちろん、ほんとうのところはわかりませんが、そのような歴史の移り変わりの場面に、人里近くの崖の上に洞窟があり、のちにそこから人骨が発見されたともなれば、今でこそそれは縄文の遺跡などと言えますが、様々な物語りがそこからうまれることは必至でしょう。

 

  

 

 史実は史実として大事ですが 、土地の地形や環境から生まれる物語りを通じて、その地域を語れること、またその様々な物語りが語り継がれるということは、とても素敵なことです。

 

 この八束脛遺跡に立ち、眼下に月夜野の田畑や山々のすばらしい景色を見れば、

 誰もがいにしえの物語りを想像せずにはいられないものです。

 それほど、ここの景色はすばらしいところです。

 
 
 
 
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塗ったものは剥がれる。美の核心を求めれば・・・

2014年12月26日 | 暮らしのしつらえ

最近わたしは、大工仕事で塗装作業をすることがとても多い。

木の材質によって塗料ののり具合はさまざまで、重ね塗りをしなければならないもの、ニスの上塗りが必要なもの、あるいはそうでないものなど、やりながらいろいろと試行錯誤を重ねています。

こうした経験を重ねるほど木工の場合は、塗装はしても、木の質感をどう残すかがとても大事であることに気づきます。どんなにきれいに塗れても、木の質感がなくなってしまうと、どうしても安っぽいものに見えてしまうのです。この辺が、同じ塗る作業でも漆塗りなどとは根本的に異なるところです。

そもそも「塗る」という作業は、美しくするためではあってもどこかに必ず「ごまかす」という側面を隠し持っているものです。

化粧をしてより美しくするためであったり、素材を保護するためであったりしても、素材そのものの力では何かが足りないと思うことが、「塗装」という余計な作業を付加させる。

この矛盾を最近はつくづく感じるのです。

 

こうしたことを感じるひとつのきっかけは、尊敬する岡本太郎の本を読んでいたときです。

縄文文化に代表されるような日本の伝統を尊重しながらも、それを現代の視点で活かすには、教養や懐古趣味にとどまることなく、鋭く厳しい創作の精神を持たなければならない。その伝統と創造の相克に、岡本太郎は最も果敢に挑んだ芸術家でした。

しかし、彼の造形美に共感できても、どこかその色彩はいかに鮮烈であっても、その造形美が「塗った」ものにしか見えないのが残念でならないのです。

岡本太郎ほど、日本の伝統と創造の問題に鋭く切り込んだ芸術家はいないと断言できるほど、わたしは彼を高く評価しています。にもかかわらず、その造形美は、どうしても「塗った色彩」に終わってしまっていることが残念でならないのです。

もしも、太郎の作品がさまざまな色合いの天然素材をつかって着色せずに、あの造形をつくり出していたならば、それだけで評価はもっと普遍的なものになっていたのではないかと思うのです。

おそらく作品の寿命も、一桁増えた年数になるでしょう。

 

さらにもうひとつ別の視点から、私は同じような「塗装」ということの問題を感じます。

それは、日本古来の仏像や仏教建築をみるとき、現代人はその素朴な肌合いのが醸し出す重厚感に心酔しますが、制作当時の真の姿をみると、再現したCGなどをみるまでもなく、とても原色ケバケバしい華やかな世界があったことに気づきます。

これもよく言われることですが、このケバケバしい原色の世界こそが古代美術のほんとうの姿で、鎌倉、戦国時代以降に芽生えた侘び寂びの日本文化観からゆがんだ目で現代人は古代美術をみているのではないかと。

わたしも長い間、確かにほとんど残存していない原色あふれる古代美術こそ、その真の姿であったとは思いながらも、その現実は、なんとなく素直には受け入れがたい気持ちを残していました。

でも、私が尊敬する岡本太郎が伝統と創造の厳しい闘いに徹していながら、造形美を「塗る」ことで補完してしまった惜しさを感じたのと同じ視点で見れば、古代美術の原色美は、その塗装が剥がれはじめたときにこそ、その本質的な部分、素材の質感と造形力の精神が浮き出てきているといえないでしょうか。

侘び寂び風の日本文化に馴染むということではなく、その制作者の精神は、素材保護のための塗装、着彩演出のための塗装はあくまでも二次的なものであったであろうという原則です。

確かに古代美術も鍍金や着色がされていたからこそ、木という弱い素材が虫に食われず腐りもせずに長い年月を生き延びてこれた面もあります。

さらに芸術作品の場合は、補完する要素がたとえ二次的であろうが、三次的であろうが、ディテールへのこだわりが全体を活かしも殺しもするので、だからといって塗装は大事でないということでは決してありません。

事実、妙義神社の本殿や妻沼の聖天山本殿の華麗な着彩彫刻をみると、原色あふれる着彩であっても、地に黒漆がしっかり塗られていると、とても引き締まった鮮やかさに見えるものです。そこに悪趣味なケバケバしさは感じられません。これは大陸の建築にはない世界だと思います。

塗ることが命の絵画の場合と、形造ることが命の彫刻や建築の問題をごっちゃにしている面もありますが、こうした意味で考えると、「塗る」絵画の世界のほうが、芸術創造の世界ではむしろ抽象言語に近い特殊な世界なのではないかとさえ思えてきます。

 

ものごとなにごとも原則がすべてとは限らず、どんな部分からでも、どんな角度からでも本質に迫ることはありうると思います。

でも、なんとなく二次的要素は、出来る限り減らす、省く方向に進んでこそ、美の核心には迫れるのではないかと最近つくづく感じるのです。

現代の暮らしや生産活動のなかで、この二次的な「塗る」作業を極力減らす努力を重ねていくと、身の回りのあらゆるところからほんとうの美が溢れ出してくるのではないでしょうか。

世界に残る美しいものの共通点を探し求めていくと、なんとなく私にはこれがとても大事なことなのではないかと思えます。

そんなことを感じる今日このごろです。

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年のはじまり、月のはじまり、1日のはじまりのこと

2014年12月24日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 都丸十九一先生の本のなかで、かつて先生の亡き奥さんのお父さんは、一昨日の夜のことをキニョウノバンといっていたと書いてます。

 昨夜のことは、もちろんユウベという。これはどこも同じ。

 ところが、キニョウノバンが、現代の常識では「昨日の晩」になるが、この地域では「一昨日の晩」のこととして使われているのです。

 たしか、「おととい」や「あさって」という言葉も、地域によっては誤解される異なる使い方をしていることをどこかで読んだことがあるような気がします。

こうした物言いは、古風を保っているところでは、日本各地に共通するばかりか、日本だけでなく、世界のいくつかの民族語にも共通するとして都丸先生は以下のような指摘をしています。

 

 

 この問題を解決するには、一日の初めをどこにするかに関わっている。

読者の皆さんはどうお考えだろうか。


夜中の0時から一日が始まるというのは暦法上のことだ。

人々の感覚では、起床した時とか、朝日が出たときとかが一日の初めであろう。

ところが昔の人は日没をもって一日の初めと考えていたらしいのである。

日没(昨夕)から次の日の日没までが一日。

つまりユウベが先に来て夜を経てアシタ、日中となる。

これが一日の順序だった。

 

 このことは、いくつもの歳時によって証することができる。

元日は、前夜の大晦日から始まり、一晩中寝ないで神に奉仕する。

寝ると白髪が増える、とは各地でいわれてきた、

正月十四日の夜も同様だ。

あとで出てくるように、秋の十日夜(とうかんや)は、多くのところで

九日夜(ここのかんや)だった。

九日夜の伝説は、あとで解説のために生じたものである。

初午の行事も、古風を保っているところでは、すべて前夜だった。

山間部に多い山の神を祭るのは十二日としながら実際の祭りは、

前日の十一日が多い。

まだまだ多い。

名社といわれる神社の祭りにも宵祭りがむしろ重視される。

そして神社の神秘な神事は、多くのものが真夜中である。

例えば一の宮貫先神社の鎮神事などは夕方から始まって真夜中が中心だ。

       (都丸十九一『上州歳時記』 煥乎堂 より)

 

 

旧暦や行事のことをいろいろみていると、確かにこうしたことが少しずつ自然に理解できてくるようになります。

時計やカレンダーのない世の中では、真っ暗闇の午前0時を起点にすることなど難しいし、ありえない。

日の出か日没時刻のほうがずっとわかりやすい。

月の区切りも、現実には新月を起点に判断することは難しい。

徐々に満ちて行き満月なった日を起点にするほうがわかりやすい。

多くの行事は、そのようになっていることが多い。

 

そんなことを考えていたちょうど矢先に「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という

19年に一度の太陽の復活の日「冬至」と月の復活の日「新月」が重なる日、

12月22日になりました。

http://grapee.jp/25042

これこそ正真正銘、本来の一年がはじまる日です。

 

太陽を軸としたグレゴリオ暦は、世界標準になってしまったものの

いかに細部は自然を無視した合理性に欠けた部分が多いかを痛感させられます。

 

「天地、機有り」という言葉があります。

「天地」すなわち自然の理(ことわり)を尊重すると、

「機」、すなわちそこに自然の運行のしくみがあり、

それを知ることで人は種まきなどの機会を知ることができる。

 

たしかに現代の暮らしでは、1年のはじまり、月のはじまり、一日のはじまりが、

どこであろうがそれほど致命的な問題にはならないかもしれません。

 

しかし、現代のデジタル時計であらわされる数字だけの時間感覚から、

照明に左右されない昼と夜の異なる世界、

月の満ちて欠けていく時間の流れ、

太陽の高さ、影の長さの変化など、

天と地の呼吸を感じる「時」の感覚を取り戻すこと、

それは、命の息吹を実感する幸せな暮らし感覚を取り戻すことに他なりません。

 

 

でもなぜ日の出の時刻ではなく、日没が一日の始まりになるのか。

このことを考えるには、現代の生活からは想像することも難しくなってしまった

「夜」という時間の本来の姿を思い出すことから始めなければなりません。

それこそ「月夜野百景」の核心テーマにつながる問題なので、

これはまた機会をあらためてじっくり書いてみたいと思います。

 

 

「1年のはじまり」物語のいでき始めのおや 月夜野アーカイブ

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月夜野でみる月は、なぜデカイ

2014年12月19日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

よそから月夜野へ来て月をみた人は、誰もがここでみる月が大きく美しいことに心打たれます。

ところが地元の人たちにとっては、いつも見慣れた景色にすぎないので、それをほとんど意識していません。

 

月夜野からみる月が、ほんとうに大きいのか、はたまた目の錯覚であるのか、そんなことをこの地でマジメに議論された形跡はありませんが、「月夜野百景」の核心にせまるには、どうしてもこの問題に決着はつけておかなければなりません。

 

月夜野に限らず、時々、月がとても大きく見えることがあることは、誰もが経験していると思います。

したがって専門家もその疑問にこたえるべく、実際に大きくなるのかどうか、諸説を出していますが、現代の科学者の大半は、きっぱりと「月が大きくなることはない」と言います。

 

これに対して心理的側面や錯覚を含めて、多くの人がなぜそう思うのかを真剣に研究した専門家もいます。

苧阪(おさか)良二(1918年、京都生まれ)です。

地球物理学を志して旧制三校の理科に入学したが、A・カレルの影響を受けてライフサイエンスに転向。さらに転じて精神の自然科学を志して東大文学部心理学科へ。戦時中は海軍電測士となり、戦後、京大文学部哲学科大学院(旧制)。同志社大学助教授、京大教育学部教授。名古屋大学環境医学研究所教授(航空心理学)、同所長、愛知学院大学心理学科教授などを歴任。

専門は視空間構造論で、人間の意識と行動を動物進化の基盤の上で考える、という生物心理学的立場をとっている。天体錯覚の研究で文学博士。 

 

絶版本ですが『地平の月はなぜ大きいか 心理的空間論』講談社ブルーバックス という本でこの問題にこたえています。

 

 

苧阪氏の紹介で、スイスの心理学者M・E・クレパレードによると、アリストテレス以来、地平拡大を説明した学説は次の11に分類できるという。

 

1、屈折説

  地平の空気層の屈折により像が大きく見える(アリストテレス、プトレマイオスなど)
  実際に測定してみると大きくなていないし、錯覚なのだから、この説は採用するわけにはいかない。

2、瞳孔散大説

  地平は光線が弱いので、瞳孔が拡大して大きく見える(ガセンディ)

3、水晶体扁平説

  天頂を向くと眼球のレンズが少し平たくなるので(シェベール)

4、比較説

  地平の小さく見える木や家と比較して見るので(デカルト)

5、対比説

  天頂の月は青黒い夜空との対比効果で小さくなる(リュール)

6、視線説

  視線をあげて見る(にらむ)と小さく見える(ガウス、ツォート)

7、地平視覚説

  地平の物にたいする視覚のほうが、天頂方向での同じ視覚より大きく見える
           (ツェーヘンダー)

8、周辺視説

  天頂の月は地平よりも感度のよくない周辺視になりやすい(プウルドン)

9、介在説

  地平にはもろもろの物が中間に存在するので、距離感が大きくなり、月は大きく見える
           (プトレマイオス、アルハーゼン、ベーコン、デカルト)

10、遠景説

  もやとか薄明のため、地平の月は遠くに見られ、大きくなる
           (バークリー、ダン、ヘルムホルツ)

11、天空形状説

  天空の形が扁平なので、投射距離の大きい地平の月が大きく見える
           (スミス、ヘルムホルツ、ライマン)

 

これらの説を苧阪氏がどう見ているかというと、

一、地平の方向に物体が奥行き方向にならんでいると大きく見える。
  それらの左右の広がりも拡大して見える副次的要員となる。

二、地平の満月を見る場合の体位は、頭は正常に直立し、眼位は第一眼位である。
  この姿勢で天頂の月を見るとき、頭位と眼位は相補的に(目が動けば頭は動かず、
  頭を動かせば眼は動かず)変化する。
  このような姿勢で仰視するから天頂の月が小さく見える。
  地平の月を見る姿勢を90度かたむけ、仰臥視の姿勢をとると天頂の月はやや大きく見える。

三、大きさの知覚には、知、情、意が働くが、知覚以外に情意機能も働く。
  たとえば初心者、女性、芸術家肌の人は、二倍以上の錯視率を持つ。
  原始社会いおいては、首長や上位のものの姿が、下位の者より大きく描かれるが、これらは
  情意機能が認知機能に影響をあたえているひとつの証拠である。

        (以上は、根本順吉『月からのシグナル』筑摩書房を参照) 

 

ん~~ん、

結局、よくはわかりませんね。

もっと明快に説明できないと「月夜野百景」でとりあげるわけにはいきません。

 

でも、やっぱりこれをみれば明らかでしょう!

 

三峰山からのぼる月

 山に見えている木の高さが、控えめにざっと10mとして、この月はその5倍以上あります。

50メートルの大きさの月が近くにある。小さい?

現実には、天空の月も太陽も5円玉の穴に入るといいます。

それに比べたら、明らかにデカイでしょう。

月夜野の場合、なによりも近くに小高い山(三峰山、見城山、大峰山)があることで、地上のリアルな構造物と並び、月が大きく見えるのです。
 

了見の狭い科学者と議論しても埒があかないかもしれませんが、わたしたち芸術家肌?の住民や女性にとって、これはまぎれも無い事実なのです。

 

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遠ざかる月、昔はもっと近かった。

2014年12月12日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

 

月は少しずつ地球から離れていっているそうです。

そのスピードは1年に3センチくらいずつらしい。

地球と月の間の距離が100年で3メートルと考えるとたいしたことないような気がしますが、

あの山の上にかかる月が、今より3メートル近かったら・・・

ん?

  

 

細かい計算は抜きにして、ともかく昔の月は

今よりもずっと近い位置にあったということです。

それはさぞ大きくきれいに見えたことでしょう。

 

そんな昔のはなしです。

 

南の島のある船乗りの船長は、地球上で最も海面が満潮で盛り上がる場所を知っていました。

船長は、その船の高いマストの先にさらに竿を伸ばし、

月が最も地球に近づく日には、その竿の上からちょっとジャンプすると、

月の側の引力圏に入ることができ、簡単に月にまでいくことができるということを知っています。

現代の人びとには、想像しがたいかもしれませんが、

いまよりも、ずっとずっと月が近かったので、それが可能だったのです。

 

(余談ですが、竹取物語のかぐや姫を迎えに月からやってきた御車は、この原理で地球にやってきたのです)

 

月との往き来が可能であった最後の時代、

唯一月へジャンプしてたどり着ける場所を知っていた船長の話が

この本に紹介されています。

とっておきの話 (ちくま文学の森)
クリエーター情報なし
筑摩書房

 

船長はその微妙な一点に船を操作し続けなければならないので、自分は月に行く事はできず、

勝手に月に行って遊んでくる船長の奥さんと船乗りたちには、いつも嫉妬していました。

 

しかし、月は少しずつ地球から離れていっているのです。

いつか、船乗りと奥さんの愉しみにも終わりの日がやってきます。

 

 

だいぶ昔に読んだ本なので、おぼろな記憶でなのですが、

だいたいこんなようなストーリーだったと思います。

 

 

そんな昔ばなしも、今ではとても成立しがたい距離に月はあります。

月は、これからもどんどん地球から離れていってしまうのですが、

ある日いつか、完全に地球の重力圏からはなれて、月が遠くに旅立つ日がきます。

 

そのときは、相互の引力が断ち切れる日なので、

地球の海面が大きくボヨヨ~ンを揺れて波打つことでしょう。

それは大津波どころの騒ぎではありません。

 

みなさん、その時は十分気をつけましょうね。

 

ともかく、ただですら刻々と表情を変える月です。

今の月は、今しか観れないかけがえのない姿なのです。 

月は物理的に遠ざかる以上に、旧暦を意識しなくなることで

私達の日常では遠い存在になってしまいました。

 

せめて、わたしたちの住む月夜野町だけは、

遠ざかる月を少しでも身近な存在として

引き止めておきたいものです。

 

 

例によって、予想される突っ込みどころには、いっさいお応えできませんので悪しからず。

他方でこうしたことがらを、真面目に科学として真正面から研究した本があります。

 

もしも、月がなかったら?

もしも月がずっと近い位置にあったなら?

もしも月が2つあったなら?

もしも地球の地軸が今より90度傾いていたなら?

 

こうした問いに科学者が真剣に答えるかたちで、あたりまえと思っている今の世界が
異なる環境におかれていたならば、自然の姿はどのように変わっているか。

大気の流れは?

地殻の変動は?

生物進化の歴史は?

人類の誕生とその後の発展はどのように変わっていたか?

一日の姿はどのようになっていたか?

       ・・・・等々

天文学、物理学、 生物学、環境学などあらゆる知識を総動員してわたしたちに未知の世界像を教えてくれます。
それはまるでデズニーランドのアトラクションのように、スリリングな知の世界を楽しませてくれます。

 

 

ニール・F・カミンズ著 竹内均監修『もしも月がなかったなら』東京書籍 

ニール・F・カミンズ著 竹内均監修『もしも月が2つあったなら』東京書籍

 

 

 

                    (2015年10月18日 訂正加筆)

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「十日夜(とおかんや)」田の神が山に帰る日

2014年12月01日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

お月見も、十五夜をはじめ十三夜、三日月、十六夜などいろいろありますが、わたしは「十日夜(とおかんや)」のことは知りませんでした。

なぜか月に関する言葉や行事紹介の本でも、この「十日夜」にふれているものは意外と少ないようです。
(後にわかったその理由については、最後に参考資料として付記しておきます) 

どうやら、長野、北関東、東北南部に固有の習慣のようです。

しかしこの「十日夜」のことを知ると、月見ということが単なる観月ではなく、収穫の秋や里の神が山に帰る季節の行事として様ざまな生活習慣と密接に関わっていることがわかります。

都丸十九一先生の『上州のくらしのまつり』(喚乎堂)昭和52年刊、のなかに以下のような詳しい記述がありました。

長いですが、絶版本なので該当部分を紹介させていただきます。


十五夜

秋に入ると、家々に小さな祭りの機会が数多く訪れる。

旧暦八月十五日は十五夜。今では全く月見の夜のようにしかみられていないが、かつては別な意味があったと思われる。

鹿児島から南の島々にかけては、この日は収穫祭であるというが、上州でもかつてそうした色彩があったのではないか。

六合村では、この日畑の粟や稗の穂を抜いてきて供えた。利根郡の各地では、餅をついて大きなお供えにしてこれに大豆を枝ごと副えて神々に供え、月に供えた。

単なる月見ではなかったことはこの事例だけみても明らかであろう。

月の明るい満月の夜は、祭りに最もふさわしい日だったのである。

 

十日夜

十日夜は十五夜に比べれば祭りの色彩を強く残しているといえる。

多くの農村では、この日田んぼから藁にゅうをあげてきて庭に飾る。これをニュウガラサマなどと尊んでいっている。

これにこの日の餅・菜・大根を供える。餅はカクシモチなどと呼ぶところがあり、にゅうの中に入れて供えた。

またこの日を菜・大根の年取りといっているところが多い。

 

十日夜に、田畑に立てた案山子を庭に立てて供物するところが六合村の太子(おおし)や小雨(こさめ)にある。

その日三本足の案山子をたてて笠やケンデイ(蓑)を着せ、これに供え物をして「案山子さんご苦労さんでがんした」といって拝む。

供え物として餅を案山子の懐に入れる家もあり、お膳を作って供える家、畑に稔るさまざまな作物を供える家もある。

今はダムの底に沈んでしまった品木では、案山子は作らないが、その夜餅をついた臼や杵は洗わないで、杵を臼の上に横たえておいた。これは、案山子神さんがこれを踏み台にして天に上っていくからだ、と土地では説明していた。

案山子を庭に立てる風習は長野県北佐久にもその例があり、案山子揚げとして民俗学上とくによく知られた行事なのである。

十日夜の餅を蛙の分として供えるところが佐波郡境町の各部落にある。ここでも藁にゅうに供え餅をするが余分に一個、蛙の分として供える。蛙が背負って出雲へ行く。十月は神無月で神様はみんな出雲へ行くのだから、蛙も行く。

 

(この)ようなことを他愛ないこと、くだらないことといってはいけない。

ニュウガラサマなり、案山子なり蛙なりを農作を守護する神、田の神の憑り代ととるならば、田の神がめでたく守護の大任を終えて天に帰る時の儀礼ととることができる。換言すれば、田の神に対する収穫感謝祭なのである。出雲へ行くというところに、蛙を神とみたてていることがくみとれるのである。

 

上州における田の神は、田植唄などには登場するが、ほかではあまり信仰された形跡はないとされた。しかし近時、調査の進むにつれてしだいにその伝承が明らかになってきた。

赤城山南麓地方から太田市方面にかけてはかつてやや濃厚にその信仰がみられたのである。

前橋市西大室町には田の神田と称する田があり、石祠がある。

勢多郡宮城村、大胡町あたりでは、田植えの終了した日、田の一隅などに田の神のお仮屋をつくって供物する家がある。

田植えに際してお降りになった神がお帰りになる、それを祭るのがこのお仮屋だったと解することができよう。

田の神の語はすでに忘れ去った土地でも、この田植え終了の祝いをする。これをマンガアライ・オサナブリなどといっている。

「さなぶり」は、「さのぼり」で、田の神が昇天する祭りであるというのが民俗学上の通説となっている。

田植え後も田の神の名代として、つまり憑り代として守護してきた案山子が、天に昇る日、それが十日夜だったのであろう。

 

この日、子どもたちは藁鉄砲をつくって地面を叩き歩いた。

   十日夜 十日夜

   十日の晩にゃ 寝らんねえ

また

   十日夜 十日夜

   朝そばきりに 昼だんご

   夕餅くっちゃあ ぶったたけ

などと唄った。

事実このような時期もあったのであろう。

さらに「大豆も小豆も よくみのれ」とか

「大麦小麦よくできろ」と続けるところもある。

地面を叩き歩くのは、もぐらを防ぐ儀礼ととっているところが多い。それによって麦の収穫を守ろうとする、という感覚が強く出ている面もある。

 

2015年にみなかみ町上牧で復活した十日夜 

 

しかし、十日夜を祭るのは、山梨、長野、埼玉の近県諸地域であって、他地方ではこれを言わない。

とくに近畿・中国地方では、十月亥の日の祭りがあって、これを亥の子と称している。大体は十日夜と同じ性格のものと考えてよい。

そして、この亥の子をいうところが上州でも点々と存在する。

前記境町にもあり、赤城山西麓の村々にも、亥の子餅をつくイッケ(同族)がある。そうしたイッケでは十日夜の餅をつかない。

この十日夜と亥の子の関係は、ある時期に一方から他方へ変化したものと考えられる。おそらく亥の子が先行したであろう。

  

(以上、表記は縦書きを横書きに変更する都合上直したもの、改行など見やすく改めたものなど、一部変更してあります。)

 

猿ヶ京の「民話と紙芝居の家」https://minwa-kamishibai.comにある「わらでっぽう

これはずいぶん太い作りになっていますが、
「わらでっぽう」の作り方は狭い地域内でもかなり差があるようです。 

 

 猿ヶ京まんてん星の湯で行われたワラデッポウ作り体験

 

  

月夜野地区の「十日夜」については『古馬牧村史』に、以下のような記述があります。

十日夜(旧十月十日)

 前夜かその朝餅を搗き、夜になると、里芋を十五夜と同じように供えるが、その台には普通新藁を用いる。

 晩には子供たちは、藁でっぽうを作って、もぐら除けのまじないに

「トウカンヤトウカンヤ、ねずみもぐらおこすな」

などと唱えて家の庭から近所の庭をたたいてまわる。

「トウカンヤトウカンヤ十日(とおか)たてばおいべすこう(恵比寿講)」

などともいう。

 

                    『我がふるさと写真集 月夜野町』より

 

こんな話をしていたら、妻が六合村の十日夜の絵本と、長野県佐久地方のYOUTUBE画像をみつけてくれました。

http://www.amazon.co.jp/わらでっぽうとよるのみち―群馬県六合村「十日夜」-えほん・こどものまつり-なかむら-ひろし/dp/494758100X%3FSubscriptionId%3DAKIAJT4UICR6RZGLT4JQ%26tag%3Dweblio-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D494758100X

https://www.youtube.com/watch?v=HiaJJaZ35QY

 

みなかみ町では、最も本来の姿を再現している藤原集落の十日夜

 

 

 

後日、十日ン夜が、なぜワラ鉄砲で地面を叩くのかという理由について、槇佐知子『野菜の効用』(ちくま文庫)の「ダイコン」の章のなかで以下のような解説に出会いました。

東日本では十日ン夜を「大根の歳取りの日」ともいい、この日に餅搗きすると大根が太るともいった。そして大根畑へ行っても、大根を食べてもいけないとされた。西日本では亥の子の日に大根畑へ行くと、大根に裂けめができたり腐ったり、疫病神が取り憑くともいう。私がその話をすると横溝さんは、

「ちょうどその頃ですよ直根が1メートルくらいになるのは。タネを撒いた下をモグラが走りまわると伸びた細い直根が切れてしまい、品質が悪くなったり二股大根ができやすいのです。モグラは音に敏感ですよ」

と瞳をかがやかせた。長年、心にかかっていた”十日ン夜”の行事の科学的根拠がわかり、私もすっかりうれしくなった。

 

 

 

 

          資料 十日夜のバリエーション

こうしたわら鉄砲を叩くタイプ以外に十日夜の様々なバリエーションが群馬県下にあることを、都丸十九一さんが、以下のようにまとめています。


十日夜が月祭りであるという言い方は、十五夜、十三夜と並べてよくいわれるが、儀礼としてみるとき、それは農耕儀礼であるというのが通説である。いま県内の行事について私なりに整理をしてみると次のごとくである。

A 田畑から藁束・粟がらなどを庭に据えてこれをニュウガラサマなどと呼び、これに餅を供える。
 また大根などの野菜を供える。利根郡から赤城山麓のほかにも広くみられる。
 「大根の年取り」といわれる。 これには収穫感謝の意味合いが強い。
 ニュウガラサマは田の神・地神の憑り代であろう。

B 庭に案山子をつくり、これに餅を供えるもので、一般的には「案山子あげ」といわれる。
 吾妻郡下に多い。 その際の案山子は田の神・地神の憑り代である。
 収穫感謝とともにそれらの神を送る儀礼とみられる。

C 佐波郡境町その他の地域では、蛙の分という。
 十日夜の餅を十一個供える。うち一個は蛙がこれを背負って出雲に行くという。
 これもB同様、神送りの儀礼とみられる。
 なお十日夜は地紙様をまつるものだという伝承は、勢多郡東村のほか各地にみられる。

D 十日夜にわら鉄砲をうちならすのは、県下一円といってよい。
 わら鉄砲は、神送りなどの際の供え物を入れるツトッコの発展であろう。
 これを鳴らしてもぐら除けとするのは、麦作などの収穫予祝とも考えられる。

E 以上に対して十日夜の餅は仏様に供えるというのは、邑楽郡明和村など各地にある。
 餅は十三仏と関係して十三個供える。新仏の出た家では「四十九」という餅を寺に持参した。
 こうしたことには祖先供養の意味が認められる。

           (都丸十九一『歳時と信仰の民俗』 三弥井書店) 

 

 

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