かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

剣豪武蔵 力の集中点

2013年01月27日 | 上野国「草の者」研究所

大好きな菱田春草の所蔵品があることで、前から行きたいと思っていた永青文庫で「武蔵と武士のダンディズム」という武蔵の書画を多く展示した企画展が行われていたので、この上京の機会に行ってきました。

 

剣豪である武蔵の書画が並外れたものであることは、紅梅鳩図の上にまっすぐに延びた一筆の強烈の印象だけがありました。

残念ながらこの作品は、後半に入れ替え展示されるもので今回見ることはできませんでした。

しかし、今回みることのできた他の作品もすばらしかった。

最初に見た 重要文化財「芦雁図屏風」でまず圧倒されてしまいました。

いずれも「伝」宮本武蔵筆ですが、剣以外にも並外れた才能があったことが十分窺えるものです。

ただその筆致、精緻さは作品をみていくうちに確かに通常の画家たちの力作とはなにか違う体質があるような気がしてきました。

いくつかある達磨図などは、太い筆でダイナミックな線をひき、細い筆で繊細な線をひき、使い分けているようにも見えますが、どうも全体に一貫した迫力や精緻さが貫かれているようには見えない。

あれだけの剣豪であれば、力強さとともに一気に貫くような筆致を連想しがちですが、タテに一本貫いた筆の「紅梅鳩図」ですら、高い精神性を感じるにもかかわらず、ちょっと違う。

 

正面達磨図の迫力は、全体にみなぎるようなものではなく、なにか太い線、細い線とは異質な目の一点を打ち抜くときにだけ収斂されているように見える。

これと同じような印象を「不動明王立像」にも感じた。

現実には、この火焔の造形のすばらしさだけでも十分な作品です。

不動明王の持つ宝剣は、武蔵作と聞いただけで、どう見ても巌流島の決闘で用いた櫂にしか見えない。

造形のユニークさから、私にはどうしても冷静には見れないのかもしれない。

 

この写真の向きだけではく、四方からこの像を見ると、

火焔の造形も含めて造形の力は、宝剣を両手でつかむその握りの強さに集中しているように見えます。

力ばかり入っていたら勝負には勝てない。

相手に向かう前に剣を引いたときの一番力をためた瞬間の姿なのだろうか。

 

 

書画の傾向からも、武蔵の造形の特徴は画面全体にみなぎる力強さや精緻さがあるのではないようだ。

それは、互角の相手と生死をわける闘いに挑むときに、力や技をどの一点に集中するかということのみ徹しているかに見えます。

達磨の目。

不動明王の宝剣の握り。

紅梅鳩図の天に延びる一本の枝。

 

生死を決める最も大事なことは何か。

そんなこと簡単にはわからない。

でも真面目に端からコツコツと精緻に積み重ねていけばできるというものでもない。

偶然性も含めたあらゆる条件の交錯する環境で、勝って生き抜いて来た武蔵ならではの、実践的な集中力のようなものを感じる。

何事も場数を踏むことは大事だ。

しかし、その場数を武蔵のように生死を賭してふむような人間は滅多にいない。

それは必ずしもバランスのとれた美しいものではない。

 

にもかかわらず、透徹した力の集中点が見えると、ほかのアンバランスは問題にならなくなる。

バランスのとり方よりも、どこを集中すべきツボとみるか、枝葉をどう配置するか、幹のとり方よりも生死をわける一点を重視した姿勢のようなものを感じます。

 

ももちろん、わたしに答えなどわからない。

 

しかし、いつもの美術鑑賞では体験することのない深い思索につつまれたことは確かです。

 

 

 

 

 

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法神流を語る『天狗剣法』、待望の文庫化

2013年01月20日 | 上野国「草の者」研究所
 
 
地元にとってはとても大事な本なのですが、長らく手に入らないままだった本、津本陽著『天狗剣法』が文庫化されて、ようやく手に入るようになりました。
 
これも発売元のPHP研究所が、今まではどちらかというとノンフィクション中心で、フィクションをカバーする領域がなかったところPHP文芸文庫という新しいラインナップを出し、受け皿ができたおかげかもしれません。
 
 
 
 以下、文庫版カバーより引用
 
 法神流は、上州(群馬県)赤城山で楳本法神が創始した実践的剣法。数ある門弟のなか、法神が二代目として育てたのが須田房之助である。若き日から無敵を誇り、法神の苛烈な指導を経て人間ばなれした強さを得た房之助だったが、江戸へ出て開いた道場が隆盛を誇ると、他流から執拗かつ卑劣な陰謀を仕掛けられる。そのとき房之助は・・・
 末流が昭和まで剣名をとどろかせた流派の、最強剣士の生涯を描く。
 
 
 
 
 実際にいきた事件を取材して書かれた小説なので、わたしたちは地元贔屓で見がちですが、講談話のような誇張があるわけではありません。
 
 是非、群馬県下中をはじめ、より多くの方に読んでもらいたい本です。
 
  

 

天狗剣法 (PHP文芸文庫)

津本 陽
PHP研究所

 

天狗剣法 法神流 須田房之助始末
津本 陽
PHP研究所

 

 (法神流は目指す剣法とは)
 
 一日二十里(約80キロ)を歩いたのち、戦場で敵とわたりあえるだけの、基礎体力を養うことである。
 
 陰体というのは、夜間の稽古である。法神流には百夜鍛錬という稽古があった。百日間、夜起きていて昼間に眠る。その稽古をおさめると、夜中も昼間も同様に行動できるようになる。高弟になると、多人数を相手に刃引きの真剣を用い型稽古をする。この危険きわまりない稽古は昼間ばかりでなく、夜間も行われた。夜稽古は、打ちこまれる刃の刃風を聞いて応対しなければならない、正気の沙汰ではないすさまじさであった。
 
 
 
 上州には、有名な馬庭念流もありますが、どちらも実践的な剣法で、江戸の名門道場の剣士たちを軽くあしらって負かした話も多い。
 
 
現代に受け継ぐ道場も開かれています。
 
アンビシャスMIYAMAさんのブログに詳しく活動が紹介されています。
 
 
 
【追記】 残念ながら、2016年末時点で『天狗剣法』は品切れ中です。
 
その替わりというわけでもありませんが、アンビシャスMIYAMAさんから、以下のすばらしい本があることを教えていただきました。
 
 
間明修二(まぎらしゅうじ)著 
『我思う、故に我幕末にあり』 文芸社
定価 本体800円+税
 
なかなか史実をよくふまえたフィクションであるとの紹介でしたが、読んでみて驚きの作品でした。
構成、ストーリー、史実の織り交ぜ方、人物描写、どこをとってもとても完成度の高いものです。
 
わたしは、名の知れた作家でさえ、現代作家の場合は満足できる作品に出会うことは少ないのですが、本作品はとても気持ちよく一気に読み通すことができました。
フィクションとはいえ、中沢琴の生きた時代、歴史の境遇も実に活き活きと描かれています。
 
残念ながら、このすばらしい著者については石川県出身、神奈川県在住ということ以外、情報がありません。
 
 
 
NHKのBSプレミアムで放送のドラマ「花嵐の剣士」をみて中沢琴や法神流に興味を持たれる人がいたら、是非おすすめしたい1冊です。
 
 

(以上、正林堂ブログ「正林堂 本の気休め」より加筆転載)

 

追記 

法神流発祥の地、旧赤城村内の深山の里を訪ねてきました。

 

 最初に八坂神社と八幡宮のお宮があり、その右には法神流の伝来碑

 その左手からさらに上に上がる階段があります。

 

さらに、この右の階段をさらに200段ほど登ります。 

 

 

刀を形どった木が手前に奉納されてます。

 格子の間から中を覗くと、手前のアンテナが邪魔してますが、すごいものがありました。

コメント (1)
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歩く人びと (郷土史講座より)

2010年02月12日 | 上野国「草の者」研究所
 渋川市立図書館主催の郷土史講座、大島史郎さんの「渋川び江戸時代における庶民の旅」についてふたたび書いておきます。

 庶民の旅をテーマにした講演でしたが、私にとっては「歩く」ということに関した内容のものとして格別の興味がわく内容でした。


 講演資料のメインは渋川村木暮家に残っていた伊勢参りの記録です。

「伊勢  天保十三年
   日記
  大々   寅正月吉日」

といった表紙のついた立派な記録です。

一部抜粋すると、

正月九日 一 安中宿 金井宗助  泊り
  十日 一 追分宿 越後や   泊り
 十一日 一 上田宿       泊り
 十二日 一 坂木(ママ)宿 平林惣右衛門 泊り
 十三日 一 善光寺 藤や平五郎 泊り

   (略、須原、松坂などを経て)

二月一日 一 伊勢地 紅や    泊り
  二日 一 なはり 休
  二日 一 長谷 ごまや    泊り
  三日 一 なら 小乃や善助  泊り
  
 (略 吉野、高野山、大坂、ひめじ、あかし、西ノ宮、大坂、宇治、京都、大津、等をへて)

三月五日 一 飯田 亀や小兵衛  泊り
  六日 一 いるべ 大和や   泊り
  七日 一 平井出 休
  同  一 諏訪 かめや    泊り
     中仙道飯田道追分アリ
  九日 一 塩名田 万や惣左衛門 泊り
  十日 一 坂本  松葉や   泊り
 十一日 一 松井田 休
  同   一 高崎 さかへや  泊り


 お伊勢参りとはいうものの、善光寺を経て、奈良、吉野、高野山、姫路までまわって二カ月半にものぼる旅をしています。

 随分贅沢な旅をしているように思えますが、
天保年間にお伊勢参りをした人の数は、500万人とも言われ、宝永年間にも350万人もの人が行っていたというから、当時の人口からしても相当な数の人がこうした旅をしていたことになります。

これらの数字から当時の庶民の暮らしは、かつての封建時代といった圧政のイメージとはだいぶ違う、意外と豊かな暮らしがあったことが想像されます。

現実には、講の仲間の間で積み立てを行い、くじ引きで当たった人が行っていたそうです。
それで当たった人は、借金をしてでも行った記録があるようです。

 ちょうど昨年に、あかぎ出版から『祈りの道 善光寺』(1,800円)という本が出ています。この本を見て、上州から善光寺参りが格別盛んであったのかと思いましたが、大島先生に聞いてみたところ、必ずしも善光寺参りが突出していたのではなく、お伊勢参りのコースに善光寺も入っていたため、それだけ盛んであったのであろうということでした。

 こうした人が歩いて移動すること、街道を旅することなどについては、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかで、上州の古道・諸街道のページなどで追っていることですが、
個人的に「上州草の者研究所」の活動、大疾歩(おおのり)などとともに大変興味を持っていることです。

 真田氏の領地、沼田から上田までを限りなく最短距離で走破する企画、この春こそ成し遂げなければなりません。
 そうした人が歩くことの実態を、ちょうど最近読んでいた、池田弥三郎著『日本故事物語』上巻(河出書房新社)のなかに、興味深い記述をみることができたので、ここに一部紹介させていただきます。


 江戸時代の公儀の飛脚なども、最も速いものは、江戸京都間を東海道経由で二十九時(58時間)で走っている。これは「無剋」といって、文字通り昼夜兼行で、途中の訊問もなく、大井川などの渡しにも渡河の優先権をもっていた。東海道百二十五里二十丁をマラソン選手の半分位のスピードで走破している勘定になる。記録的なのは、京都と静岡との間を往復した飛脚で、1日に八十里歩いたことになるそうだ。

民間の三度飛脚だと、並便は京より江戸への片道に三十日を要するが、その上に十日限り(ぎり)といって、片道十日に出発・到着の日を入れて十二日かかるもの、六日限り(定六)といって、大体七日で到着するもの、さらに確実に六日という保証付きの正六、もと速いものになると四日限りや三日限りの仕立飛脚があった。

もっとも別仕立てとなると、速いことも速いが、料金のほうも三日限りで三十両、六日限りでも金八両という莫大なものであたらしい。

 元禄十四年三月十四日、浅野長矩の刃傷を国許に報ずるため、藩士速水藤左衛門・萱野三平の両名は巳の刻に江戸を出立、早駕籠を乗り継いで五日にして播州赤穂に到着したという。これなど相当な速さであるが、

   大急ぎ三枚

などという三枚は三枚肩のことで、かごかきが三人ついて急行したものから生じたことばである。しかし、私が子どもの時分に聞いた「大急ぎ三枚」「三枚で頼むぜ」なども、もう聞かれない。ものごとの移り変わりこそ、韋駄天より早いかもしれない。

 もう一人付け加えると、例の俳人松尾芭蕉である。「奥の細道」でみても、その旅行の第一日は、千住まで舟で行き、午前十一時頃にあがってここで昼飯をすまし、人々に別れ、午過ぎから歩きだして、その日は粕壁に泊っている。千住粕壁間は曾良は九里と記している。街道の里程で七里たらずである。大へんな健脚であって、この旅行中、長い時は一日に十三里も歩いている。超人的だが、伊賀出身の芭蕉は、忍者の歩行の術を心得ていたのであろうと言われている。
(ここまで引用)

 今、はじまったオリンピックなどの競技としての特殊技能ではなく、人々の日常の姿としての「歩く」力、あるいは職業としての「歩く」「走る」力。これらを私たちの基礎身体能力として取り戻すことにどれだけ重要な意義があるか、繰り返し時間をかけて追及していきたいと思っています。
 体力の衰えた子どもたちには、「歩育」などという言葉もあるようです。
 安全のための車での送迎もやむをえない実情もあるかもしれませんが、学校帰りに道草を食いながらあちこちイタズラをしながら帰ることが、どれだけ身体能力と感性を鍛えることか、また意義のあることか、いくら強調してもしたりない思いがあります。

人間は、考える「足」ですから。

 みなさん、健康な人間を目指すなら、30kmくらいはいつでも歩けるようになりましょう。
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修験道のカスミ

2010年02月11日 | 上野国「草の者」研究所
先月、渋川市立図書館主催の「郷土史講座」で大島史郎先生の「渋川の江戸時代における庶民の旅」についての講演を聞いてきました。

その講演のなかで、ふれた話題で格別興味がわいた一言がありました。

それは、修験道の檀家のことを「カスミ」というのだ、ということです。


これまで私は修験道には檀家はいない、
檀家のようなしくみはないものとばかり思っていたのですが、それを根底から覆す言葉でした。

検索してみると、
「霞」とは、修験道の本山派において用いられた地域ごとの支配・管轄のこと
とある。

この表現だと、必ずしも「霞」=檀家、ではない。
支配領域、エリアを表すもので、結果として檀家の意味も含まれるのかもしれないが、同じではなさそうだ。

でも、修験道でその支配・管轄のことを「霞」と呼ぶこと自体、とても言いえて妙な表現であると感じます。
いかにも実態をぼやかしたような、または表向きは隠したような表現です。
私も「霞」になりたい。

かつて修験道の忍びの仕事領域が重なっていたことも、こうした表現から納得がいく。

月夜野の三重院の円信さんに早速聞いてみよう。
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草むしり日和

2009年07月12日 | 上野国「草の者」研究所
久しぶりに涼しい。
だいたい日曜日は、店の隣の空き地の草むしりをするのですが、こんなに涼しい日にできるのは珍しい。
涼しいだけでなく適度に土が湿って抜きやすくなっているのが助かる。

この季節は鬼のように伸びる雑草にはほんとに悩まされますが、草の側も、6月7月はどうぞ抜いてくださいとばかりに、雨で抜きやすく準備してくれている。

それを
はいよ、と抜いてあげる。

本音は半分面倒くさいので、除草剤で一気に片付けてしまいたい気もするけど、他人の土地なのでそうもいかない。

いろいろ手を抜くことも考えたけど、隣りの奥さん(正しくは、お隣りは空き地なのでお隣りの隣り)が、せっせと一日がかりで広い空き地の半分の草をむしっていくので、こちらも手を抜くわけにいかない。

手を抜くよりも草を抜いたほうが、どうやら早い。

本来の自然の原則からすれば、草は、むしるから生えるのであって、むしらずに放置しておけば、やがて低木が生え、次に亜高木が生え、そして高木が生えて順次日光が届かなくなって下草は消えていく。

そのようにしてまわりの空間すべてを自然な森にしていけば一番良いのだけれども、街中の今の現状はそうもいかない。

でも、雑草の生えた景観は、雑草を放置しているという印象を与え、雑草の刈られた景観はまた管理された土地の景観をつくる。

ただそれだけのための作業。

私はこういう作業は嫌いではないので、お隣りさんに負けるわけにはいかないので外で草むしりしています、と店を空けている。

なんとなく、草むしりとかトイレ掃除とかは、ほんとに運気を高める作用がある気がする。

といって、自分の家ではなにもしないのですが・・・
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スポーツ振興・インド・草の者

2008年08月28日 | 上野国「草の者」研究所
ちょっとわけのかわらない三題話ですが、おつきあいください。


北京五輪の放送は、ほとんど観れなかったけど、
それでも運良く、女子サッカーのドイツ戦と
ソフトボールの決勝戦だけはみれた。

このふたつだけでも、十分満足させてくれる内容でした。

ソフトボールについては、もう十分語られていることでしょうが、
女子サッカーの躍進とその実力の高さを見せつけたドイツ戦は、ほんとにすばらしかった。結局は負けちゃったけどね。
男子でもあれだけワンタッチでパス回しをすることはそうは出来ない。
今後がとても楽しみです。

で、北京五輪が終わってから湧き出したのが、他国と比較してみたときの日本のスポーツ予算の低さでした。
メダルひとつ増やすのに、約1億円の増額が世界相場のような論調。
日本も、中国、韓国、イギリス並に増やせと。
たとえ同等にまでとはいかなくても、日本の現状はあまりにも低すぎると。

日本の予算が低すぎることは納得できるのだけど、だからといって中国やイギリスの真似をしても、なんなんだと言いたい。

そこで、世界のメダルの獲得数を見てみると
おおよそは、メダル獲得数のベースは国力≒人口の関係にあり、大国アメリカ、中国、ロシアが上位を占めるのが基本構造。
比較的、国力よりも健闘しているのは、レジャーやスポーツの盛んなオーストラリア、カナダあたりだろうか。
そうした前提でみると、日本は、おおまかに妥当なレベルにあり、どちらかといえば、
体の小さいわりには十分健闘しているともいえる。

ところが、こうした前提でずっと気になっていたのが、インドです。
今や中国とならんで、既存の先進国を脅かす存在で、ITや科学技術の分野では、今やインドのエンジニア抜きでは成り立たないほど、世界の中枢を支えている。
人口規模だけでなく、国力の進展もめまぐるしい。

ところが、ことスポーツとなると、
なぜかインドは、いかなる分野をみても、あまり顔を見ない。
中国ほどではなくとも、少しは上位に出てきそうなものだけど、
どんな競技を見ても、インドが上位に加わってくることはない。
カレーを食べると、競争心が無くなるのか?

そういわれてみれば、
確かにカレーを食うと満足してしまい、もう他にはなにもいらない気分になる。

でもインドに限らず、なんとなくインドから東南アジアにかけての民族は、競い合うという雰囲気ではない。
すぐにしゃがんでしまい。まわりの様子をただぼーっと眺めてしまいそうな感じ?
これはなにか文化、民族性の問題なのだろうか?
それとも、インド洋を吹き抜ける風のなせるワザ?

でも、私からすれば、スポーツはダメでも、エンジニアとすばらしい音楽文化を持っているだけで、すばらしい国であることには違いない。
インドがメダルの数にこだわらない国家戦略をとっているわけではないだろうが、
ここで気づいてほしいのは、国力=人口規模=経済力の構造にかかわりない、それぞれの国の魅力、独自の強さをいかにつくるか、ということに
もっともっとスポーツも含めて目を向けるべきではないだろうかということです。

経済力と同じく、軍事力の議論でも同じなのだけど、ものの強さを常に「量」でしか比べられないひとたち。
「量」が大事な指標に違いないのだけど、
国が小さいのに
体が小さいのに
なぜこの国は、この分野ではかくも強いのだろう
と言われてはじめて尊敬されるのではないだろうか。

強くなるには、国力=人口=経済力=軍事力を増やさなければ勝てない
の論理では、ほんとうの競争にはなっていない。
スポーツこそ、最もこうした論理から脱却するべき分野でしょうに。


で、わたしが思うに、
そうした「量」の比較に左右されない真の「強さ」を実現するような
スポーツ振興政策を日本こそが、とるべきではないだろうか―、

ということで、三題話の最後、
「草の者」の登場となるわけです。

総じて、スポーツ競技者というのは、選手として活躍する期間が短いだけではなく、
引退後の生活の保証がないのも特徴で、運良く、監督やコーチとしてその世界にとどまれる例は、確率からいえば極めて低い。
そればかりか、身体的にも、スポーツ選手の方がなぜか短命である場合が多い。
芸術家や農林漁業の自営業者のほうがずっと、
相場でいえはスポーツ選手よりも長生きしていると思う。

かといって、かつての社会主義国のように、メダル獲得者に一生安心して暮らせる年金生活を保障することが、20歳そこらで栄誉を得た選手の生涯を考えると、それがほんとうの幸せになっているとも思えない。

こうした構造を考えたとき、
国が真にスポーツ振興に力を入れるということを考えるならば、
メダルの獲得数を増やすことに何十、何百億の金をつぎ込むことが良いことといえるだろうか。

そんなことに何百億つぎ込むよりは!
「草の者」の事業に10億ばかし、つぎ込んだほうが遥かに国民のためになるのではないだろうか。

いや、5億でもいい。

つまり、競技としてのスポーツを問題にする前に、
子供の読み・書き(プラス書道)・計算の能力をしっかりつけることが、その後の学力、思考能力を大きく左右するように、個別競技を問う前の基礎体力、
つまり、
「強靭な足腰」を小さいときから鍛え、
社会人から高齢者になっても、その鍛錬を国民の基礎活動と位置づけることができれば、
スポーツの領域に限らず、あらゆる領域に波及する
国民の健康増進に最も効果のかる活動となるのです。

こうした鍛錬に、私の「草の者」の活動ほど適した運動はない。

闇夜であろうが、
崖であろうが、
激流越えであろうが、
道のあるなしにかかわりなく、一夜にして100キロを駆け抜ける能力を持った日本国民が育てば、
いかなる外国の軍事力に対しても、徹底ゲリラ戦で闘い生き残ることができる。
あらゆる競技に適応できる基礎体力を持った国民が育つ。
年衰えても、足腰だけはしゃんとした老人となり
施設のお世話になる必要はなくなる。
いつまでもうじうじ考えず、スパッと行動に移れる国民ができる。

すばらしいではないですか。

5億といわず
3億ぐらいでもできるんじゃないかな?

ね。
「かみつけの国 草の者研究所」に、
どお?
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山のとっておきの読書空間

2008年08月24日 | 上野国「草の者」研究所
わたしのプロフィールのなかで紹介している読書空間のひとつ、
第7書斎、いくつかの山のお気に入りスポットで 、
上州武尊山の前武尊山頂手前に、不動岩という場所があります。

ここは、本業として山伏をされている三重院の円信さんの修行の中心地でもあります。

登山口の駐車場からその不動岩までは、1時間程度で着くことができます。
時計をきちんとみたことがまだありませんが、駐車場からなだらかな登りが約10分。
樹林の中の急登が約30分。
尾根を数回のアップダウンを経て不動岩までが20分といった程度の配分だと思う。

家から最も近い「草の者」の修行コース水沢山よりも、車の移動時間を除けば最も手軽な場所です。
それでいながら、ロケーションは抜群!
尾瀬や谷川岳のように登山者が列をなしてくることもない。
平日であれば、一日誰にも会わないことも多い。

この岩の上に寝転んで、私は3、4時間すごすのです。
独立した岩の上なので、谷あいからいつも涼しい風が吹き上げてくる。

山頂に向けて細い稜線が連なっているので、時々つむじ風が
まるで天狗が駆け抜けていくかのように、吹きぬけていきます。

風の音と小鳥のさえずりを聞きながら、
ウヰスキーのポケットビンをあける。
ピーナッツかチョコボールをつまみに飲むことが多い。


山に登りつめたときはビールが飲みたいものですが、
長期滞在型となると、どうもウヰスキーのほうがいい。
寝転んで少し落ち着いたら本を読む。
今回はカラマーゾフの4巻、最後の200頁の裁判シーンのところだけ読もうと思って持ってきた。でも、私の場合、山で小説を読むことは少ない。

ウヰスキーの酔いがまわったらそのまま寝る。

今回は撮影で1時間近くも使ってしまったので、本はあまり読めなかった。
その分、ウヰスキーの減りが早い。
でも、ポケット瓶の5分の1くらいは残しておくのが大人の理性。
いい気分でくいくい飲んでると、岩の上で立ちあがったときにクラ~っとなると危ないし、下りのときのほうが足元は危ない。

最初は3分の1くらいは残すつもりが、4分の1くらいなら・・・・・と
それでもなんとか5分の1だけでも、
いや6分の1でも変わらないか?
などと適当に基準は変わってしまうのだけど・・・

今回は、初めてビデオを持って登った。
山の上からのワイドな映像は、広角レンズがないと、なかなかそのスケールは写せないかと思ったが、ビデオだと意外と簡単にそれが可能であることを感じた。
これからは、できるだけ持ってくることにしよう。
アナログビデオなので、デジタルに変換、編集してからアップします。


これから、定点観測場所として撮影も続けることにしよう。
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人間は考える“足”である

2008年08月08日 | 上野国「草の者」研究所
随分昔からよく使っているパスカルの有名な言葉をもじったフレーズですが、私のオリジナルなのか、誰かがとこかで使っていたのか記憶がない。
人間は考える“足”である
私のオリジナルであることを願う。
と、思ったが、検索してみたら、なんとたくさん出てくることか。
誰もが思いつく言葉であるばかりか、はじめから勘違いしていると思われる記述も随分多い。

これをいうとただのジョークにしかとられないことが多いのだけど、私は大真面目に大事な思想を表現した言葉であると思っています。
(私の使う言葉はなぜかいつも、冗談だか真面目なんだかわからないと言われるような表現にいつもなってしまうのはどうしてだろう。大真面目なのに・・・)

つい最近、友人の家に遊びに行って、靴の下にしくための注目のインソール技術の話題になったときにこの言葉を思い出したので、私のブログやホームページのなかでも、たぶん時々使っていますが、昨日の日記の大疾歩き(おおのり)や草の者の修行の意味を理解してもらうためにも、もう一度、整理の意味もこめてここに書いておきます。


私はなにかにつけて、頭だけで考えることの弊害を書くことが多いと思います。
代表的なのが
「議論分析ばかりしてないで攻めてみよ」
「読書の自己目的化はよくない」

これらの話をすすめるときも、この人間は考える足である、という視点は大事な基調になっています。


その第一の理由は、生理的理由によるものです。
人は考え事に熱中すると、部屋のなかをうろうろ歩き回ったり、貧乏ゆすりをしたりすることがありますが、それは、活発に活動している能に血液と酸素を送り込むために、足を動かすことで第二の心臓といわれる機能を発揮し、ポンプの役割をしていることにほかならない。
こうした理由から、歩くことと脳を働かすこととは不可分の関係であることがわかりますが、これだけでは関連を指摘しているだけで、とりわけ重要であることの説明にはなりません。

そこで次に書く第二の理由が必要になる。

人がものを考えるときは、えてして頭と目と口に意識が集中しがちで、頭で考えていれば、目で見ていれば、口でしゃべっていれば、思考活動を行っているように思いがちですが、私は、それらの行為では、思考していないとはいわないが、創造的、生産的な思考は絶対にそれでは行われないと思っています。

創造的、生産的な思考は、必ず手と足を動かすことによってのみ、実現することが出来るのだと思うのです。
正確には、人間の五感すべて、体の機能すべてを使ってこそ、創造的、生産的な思考に至れるということですが、現実には、先に言ったように、頭と目と口にばかり意識がいってしまうので、その三つ以外の、手と足と肌に意識を集中することこそ大事であると思います。

手と思考との密接な関係は、いろいろなところで語られていますが、手はほんとうの意味での「知性」と直結していると思います。
極端な言い方をすれば、「手」は「知性」の代弁者であると。

手を使って行う思考とくらべると、頭や目だけで追う思考は、ことごとくただのメモリー機能か、せいぜいそのメモリーの関連づけ作業レベルでしかない場合が大半であることがわかります。

それに対して、ものを「書く」、「つくる」などの手の作業をともなった意識を対象化する作業をともなうと、それはメモリー機能やその関連づけにとどまらない、かならずその行為者個人の創造的営みに入ることが出来ます。
メモリーにある社会の一般的な認識が、手の作業を通じてその人の個別な認識に具体化していくことで、その人固有の創造的、生産的な活動にはじめて入ることが出来る。

それと同じく「肌」は「感性」の代弁者であるといえます。
肌で感じることこそ、より全体的に、直感的にものごとをとらえる条件だと思うのですが、この説明はちょっとやっかいで長くなりそうなので端折ります。

で、肝心な「足」は、
私は「意志」の代弁者であると思うのです。

前になにかの話で、「足運びの術」として、人との関係を築いたり、ものを考えたりするには、今いる場所にじっと座って考えていることよりも、あるいは向こうが来てくれることを待つよりも、こちらから先に行くこと、訪ねることがいかに大事であるか、というようなことを書いたことがあるかと思います。

もちろん、大勢の人が訪ねて来てくれるような人徳も限りなく価値あるものだと思いますが、ものごとの思考には、自分の立っているその場所の座標軸を変えると、それまでには想像できなかった新しい視点を得られることは、誰にも想像に難くはないと思います。
しかし、その今立っている居心地の良い場所を動くということは、誰もがためらうことでもあり、それは避けるほうが楽だと考えがちです。

でも、そこで思い切って足を使って座標軸を変えてみない限りは、決して創造的、生産的な思考には入り得ないのではないだろうか、というのが私の視点です。

まさに、その面倒な足を使った行為こそ、その人の意志のあらわれであるからです。
その足の動きを伴わない思考は、意志をともなっていない分だけ、その人固有のものではないのです。

この「意志」をもった思考こそが、単なるコンピューターなどの記憶装置と異なる、人間の人間たる思考の核心部分なのです。

また、こうもいえる。
人間は考える“意志”である

なんかニーチェあたりが言っていそうな言葉だ。


また端折りますが、人間が二足歩行で立ち上がり、知性の代弁者である「手」を獲得してことで、はじめて足も即物的な移動手段から、意志の代弁者たる「足」を獲得したとも言える。




文化活動でも企業の生産活動でも、あらゆる領域でこれはいえると思います。
手と足を動かさない思考は、決して創造的ではない。生産的ではない。
手と足を動かさない思考をしている限り、絶対にお金にはならない。

だから、
人間は考える“足”である

ジョークではないのです。

(かなり端折った説明になってしまいましたが、なんとか要点は書けたと思います)
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大疾歩(おおのり)から草の者の修行へ

2008年08月07日 | 上野国「草の者」研究所
これまで大疾歩(おおのり)の練習、別名、上州でいうところの草の者の修行をすることを、私は、真田氏の活躍した領地のルートで行うことにばかりこだわっていたた。
そのために、出発地と目的地への足の便の不自由さから、なかなか機会をつくれずにいました。

ところが、あくまでも修行のためのルートと考えれば、真田街道に固執する必要はなにもないということに今更ながらに気がついた。
この場合、出発点まで車で行って、到着地から電車で戻ることなど、まったく考える必要はない。
それさえこだわらなければ、かなり自由な時間に頻度を上げて修行をすることが出来る。

今、住んでいる「草の者」の仮住まいから直接、修行をスタートさせることが出きるということに、どうして今まで気づかなかったのだろう。



第一段階の大疾歩(おおのり)修行コース(水沢山への往復)

今の仮住まいから榛名山ろくを約5キロ、緩やかな登りを歩くと水沢山の登山口にたどり着く。そこから水沢山山頂までの往復は、ほど良い軽登山のコース。

山頂はある知人が法螺貝の練習をよくしていた場所だ。

このコースだと、朝4時くらいに出れば、ちょうど7時頃までには戻ってこれて
通常の生活のなかでも行うことができる。
幹線道路も通らないので、道中の自然も満喫しながら歩ける。

これをとりあえず週に一回のペースで続けるだけでも、かなりの回数はこなせる。


そして月に一度くらいのペースで、
第二段階の修行コースとして、渋川から南北の街道ルートを往復する。
・渋川から前橋(城)への往復
・渋川から高崎の手前、箕輪城への往復
・渋川から三国街道を経て高山への往復
・渋川から利根川沿いを通って沼田城への往復

(どれも往復20~30キロの行程だ。これも出来るだけ幹線道路は避けて歩く)

これで、一晩のうちに30キロ歩くことにまず馴れる。

この経験を積んでいるうちに、実際の真田ルートの約100キロの行程の3分の1ずつをこなしていく。
・名胡桃城または、マイミク山伏の三重院から岩櫃城まで
・岩櫃城から嬬恋まで
・嬬恋から上田城まで

ここまでが第二段階。
大疾歩(おおのり)の修行行程である。


その次が第3段階。

これは一日がかりで100キロの真田街道を歩き通すことになる。
それともうひとつが、30キロの行程を道路を歩かず、地図上に定規で引いた直線の上を真っすぐに歩いていく修行。
崖があろうが、川があろうが、民家の居間を通り抜けることになろうが、
とにかく、「ちょいとごめんなさいよ」と通り抜けていく。夜中に。

このレベルは、通常の靴では不自由なので、裏にスパイクのついた
営林用地下足袋を使用する。
膝まで完全に防備するスパッツも着用し、藪のなかを走り、崖をよじ登り、川を泳ぎ渡る。

ここで急にレベルアップする。
草の者の修行と呼べるのはここからだ。

ただ歩くだけではなく、スピードが要求されるのはもとより、
不審者と思われないように目立たずに行動することも大事な修行のひとつ。
その場その場で地元の人間になりきった行動が求められる。

闇のなかに完全にとけ込む術も必要・

そうそう、修行!修行!
ブログなんて書いてる場合じゃないのだ。


この草の者の修行の意義については、説明を改めてしておいたほうが良いかもしれない。
次回に書きます。
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静かなる魅力溢れる山なみ 皇海山と足尾山塊

2008年05月03日 | 上野国「草の者」研究所
発売予告を見てから待ち望んでいた1冊が
本日入荷しました。



増田 宏 著「皇海山と足尾山塊」
   白山書房 定価 本体2,800円+税



この著者は、以前「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの
 群馬の山の本の紹介のページで、
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page042.html

前著「袈裟丸山  自然と歴史・民族 」
  七月堂 (2002/04) 定価 本体2,000円+税

山の魅力を深く語るその著者の姿勢にとても共感したことを取り上げさせてもらいました。

その増田宏さんの新刊が出るということだったので、
中身を見るまでもなく、期待に胸が膨らんでいました。


また、昨日会った友人が、ちょうど明日、
はじめて皇海山に行くという話を聞いたところ。

急な話で時間に余裕がないだろうが、今日中に絶対に手に入れるようメールで促した。
祭日で登山者もたくさんいることだるから、
5冊くらい担いでいって、山頂で売って来いと(笑)

定価2,800円というちょっと大きい重い本だけど、
ほんとうに、普通の山のガイドブックとは違う、その山の歴史・民俗史を含めた
すばらしい本なのです。
増してや、登山コースそのものは百名山のなかでも地味な山だけに
その周辺の足尾銅山や日光修験道との深いかかわりや歴史痕跡が見えてくると、
どこにも増して味わい深い山域であることを改めて知ることができます。

本書全体の多くの部分は魅力溢れる沢登りルートや
あまり知られていない登山道の紹介になっていますが、
それでもひとつの山域の魅力を語った本としては、
「足尾山塊の山」「足尾山塊の沢」「上州武尊山」をかつて出版した
岡田敏夫氏以来の山岳本の歴史に残る労作もいえます。

また最近では
高桑信一の『古道巡礼』東京新聞出版局の
根利山の開発・古道の歴史調査の後を継ぐものでもあります。

第5章の 足尾山塊の歴史は、
特別に登山に興味のない人でも、群馬の歴史に興味のある人であれば
是非、読んで欲しい章です。



本書の概要

一、足尾山塊の自然
    地形・地質/植生/山の歴史
二、登山コース
  1、一般向き登山道
    皇海山・庚申山/松木連峰/白根山
  2、明瞭な登山道のないコース
    宿堂坊山/錫ヶ岳・笠ヶ岳・三ヶ峰/皇海山から水行寺山
    両毛国境縦走/赤城山から袈裟丸山
三、足尾山塊の渓谷
  1、渡良瀬川水系
    松木川/神子内川/庚申川
  2、片品川水系
    三俣沢/湯ノ沢/三重泉沢/栗原川
  3、大谷川水系
    外山沢/柳沢
四、積雪期の足尾山塊
  皇海山・庚申山/松木連峰/錫ヶ岳・笠ヶ岳・三ヶ峰/白根山/両毛国境縦走
五、足尾山塊の歴史
  1、足尾山塊における日光修験の回峰行
  2、根利山の開発
  3、根利山の古道
  4、足尾銅山


本書は、時期は早いかもしれませんが
まぎれもなく「かみつけの国 本のテーマ館」の
ブック・オブ・ザ・イヤー受賞作品候補といえるでしょう。


この記事は、今日の「正林堂店長の雑記帖」よりを加筆訂正したものです
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異議アリ、忍者検定

2008年04月23日 | 上野国「草の者」研究所
滋賀県の甲賀の里にて、第1回忍者検定なるものが開かれたニュース。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080329-00000036-kyt-l25

面白い良いことだと賛辞したいところだが、
かみつけの国 「草の者」研究所としては、
その内容をよくみると、あまりにも時代劇のイメージばかりにとらわれて
実践的な理解に乏しくみえるその企画に異議をとなえざるをえない。

忍者の武器や歴史などについての基礎知識は、ある程度必要かもしれないが
そこに忍者といわれる特殊な集団や個人の本質を垣間見るような設問設定は感じられない。

忍者検定そのものが、なにを目指しているのか?
それは観光事業の一環ではないはずだ。

第1回の試みとして、まず、なによりもはじめてみることは大切。
しかし、これからのことを考えると、
今の内容は大幅に見直して次回につなげる発想を持ってもらいたいと思います。


わたしならば、今回の問題、ペーパー試験は全体の検定の4分の1程度にします。

生死を賭けた忍者の闘い方は、常にマニュアル通りというわけにはいかず、
絶えず、そこにある条件のなかで結果を出すことが求められる。
その答えの出し方は、個人個人が自分の持っている特技や資質を十分に活かしながら
応用力や現場での判断力をフルに発揮しながら為されるものでなければならない。

とすれば、
第二部の試験は、歴史や時代小説に語られた忍者の活躍、それぞれの事例に対して
自分ならこうするという独自の見方が常に必要だ。
諜報力に長けた者、長距離の走破に長けた者、火薬や毒薬などの知識に長けた者、体力の衰えた年寄りでも変装術に長けた者、文字道理くノ一の術で策謀を図る者など、
自分の特技あってこそ、語れる世界です。
検定などで計れる一般的水準の知識や能力の獲得よりも、
自分固有の技術をいかに見いだせるかが、忍術の核心部分だ。

それを池波正太郎なり司馬遼太郎でもいい、小説の特定場面に対してでも
自分ならこうするという小論文を書かせるべきだ。


で、第3部は実技試験。
これも、安易に総合力を試す試験にする必要はない。
その人の最も得意とする技術を、困難な条件下でも最大限発揮できるかどうかが大事だ。

手裏剣を定位置から的に当てる技術などでは試験にならない。

通常の歩行中なり日常生活のなかで、不意に敵に出会ったとき、
懐などに忍ばせてした武器を素早く取り出して闘えるかどうかが大事だ。
そのような実技試験でなければならない。


そして第4部は、現代への応用編。

忍者とは、時代劇の世界の話ではなく、
いつの時代でも、
どこの世界でも、
常に姿を変えて存在し続けてきたもの。

であるならば、混迷を極めるこの時代でこそ、
時代劇の世界以上に忍者の能力は発揮されるべきだ。

で、考えられる設問。

例えば、自分の使える主君が思わぬ不祥事を起こしたとする。
明日の朝の謝罪記者会見までの間に、主君を救う最も有効な手だては何か、
といった設問。

あるいは、中越地震での山古志村みたいに災害で孤立した地域があったとする。
そのとき、自分ひとりで出来る最も有効な救援方法を考えよ、とか。

さらには、第2の地下鉄サリン事件の予告があったとする。
そのとき、高度な設備や金もかけない状態で、自分ひとりでできる対応策、予防策を考えよ、とか。



かみつけの国「草の者」研究所は、
そんな現代の闘える忍者組織を目指しています。


 正林堂店長の雑記帖 2008/3/31(月) より転載
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真田忍者「草の者」

2008年04月23日 | 上野国「草の者」研究所
ここまで、修験道の周辺に位置する非定住民の文化として、マタギ、河原乞食などに起源をたどる芸能民、そして陰陽師などに触れましたが、次に取り上げたいのは「忍者」です。

戦国時代に限らず、戦(いくさ)の場では諜報活動が戦いの勝敗を大きく握ることは広く認知されてきました。そうした役割を古くから、山伏、僧侶、商人などが担ってきたことは知られていますが、専門職としての忍者がそうした職能の人々のなかから育ったり、あるいは提携協力して発達していったことは容易に想像がつきます。

しかし、忍者という特殊な集団の実像については、時代小説や時代劇ドラマで誇張、脚色されたイメージが強く定着してしまい、真の姿を知ることはなかなか難しいものです。

その点、伊賀・甲賀の地以上に、群馬県の中之条町周辺、岩櫃城や高山城のあった近辺には、真田の忍者に関する資料が意外と豊富に残っていることはあまり知られていません。

池波正太郎が『真田太平記』でお江という女の忍者を軸にして見事な長編を書き上げていますが、そうした作品が可能になった背景に、有名な伊賀・甲賀の忍者などに比べて、真田の忍者については、秘密を原則とした忍びの世界でも異例の具体的な資料が残っていたことにもよるかと思います。

昨年、私は中之条町の歴史民族資料館に行ってその資料のいくつかを実際に見ることができたのですが、そこで発行されたパンフレットには、貴重な資料がまことに稀有な事由でこの地に残った理由を以下のようにまとめています。

(1)、武田信玄から信望が厚かった忍びの養成隊長ともいうべき出浦対馬守幸久が、天正十年三月武田氏滅亡ののち、真田氏に招かれ服属し、のち岩櫃城代となった。
そしてこの地を根拠地として、多くの精悍な野武士たちが厳しい訓練のもとに、世にいう「真田の忍者」として育成された。
このほか信玄の時代、甲州に通称を原仁兵衛という軍配者(軍略家)がいた。原は入道して来福寺左京と称し、また修験の名を千蔵坊といった。郡内修験者の総元締りをつとめ同時に忍者の養成にも心をくだいた。
(ここに明確に修験道と忍者の活動が重複混在していたことがうかがえる)

(2)、五代真田伊賀守真澄の家臣に加沢記の著者としてしられる加沢平次左衛門なるものがあった。氏は当時稀にみる文筆家であり、博識を身につけていた。中之条町横尾の出身で、矢沢頼綱の曾孫にあたり、晩年一毎斉と号し、豊富な資料を使って、天文十年から天正十八年までの約50年間の真田氏を中心とする戦国の歴史を残した。この中に貴重な忍者の資料がふくまれている。

(3)、同じ真田伊賀守信澄の代官で中之条代官所に勤務していた、もと中之条町大塚の出身で林理右衛門という、文筆にたけた武士で、当時加沢記とならび称せられた「吾妻記」をまとめ(新井信示氏説)ここにも忍者の記録を残している。


忍者のことを真田太平記では「草」、「草の者」と呼んでいますが、
透波(スッパ)、鳥波(スッパ)、出抜(スッパ)乱波(ラッパ)
スッハ(信州)、ワッハ(上州・武州)、くさ、かまり、ふせかまり、かぎ物きき
などの呼ばれ方をしていたようです。

このような上州の地の忍びの歴史の特殊性から、私は以前
かみつけの国 草の者研究所を設立し、
その活動の一環で以下のようなことを試みたことを前に書きました。

「草の者の道」
 http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5680529.html
「草の者になる」
  http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/5970588.html

まだ長くなりそうなので
次回につづきます。


    正林堂店長の雑記帖 2008/2/6(水) より転載
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草の者になる

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
無理!

草の者のトレーニングのつもりで、
午前0時30分、月夜野から中之条を目指して
直線で夜がけ歩きをしようとしたが、
昼間の訓練もしないで、いきなり道なき道を
暗闇のなか突っ走るなんて、とてもできるものではなかった。

ちょうど半月で月明かりは冴え、
気温もマイナス6℃。
山の夜として寒いというほどではない。
今満天の星空になっているが、
昼間、山を見上げたとき吹雪いていたとおり、
薄っすらと雪が積もっている。
車から下りて歩いてはじめてその滑る路面を知り、
あらためて冬季路面の運転の怖さを感じる。

今日は準備段階で、営林用地下足袋にあう靴下がどうしても見つからなかったため、
普通の運動靴にして、行程は短縮して
林道に沿ったかたちでコースをとり、部分的トラバースで山を突っ切ることにした。

薄く雪の積った林道をあるくだけなら問題ない。
星空も美しい。

しかし、左右の木々が道を大きく囲うような所にはいると
あたりは急に真っ暗闇になり、左右の暗闇から妖気が襲ってくるような怖さを感じる。
沢筋の山中野営時のように、
白装束で髪を振り乱した女性がかけ上がってくるような怖い雰囲気ではないが、
道にかぶさる木々の存在そのものが、夜の闇のいいようのない怖さを感じさせる。

歩くことに専念して怖さを振り切ろうと
思い切って大きな林道のカーブを直線で突っ切ろうとすると、
僅かな距離でも、垂直に崖を下り、
木々につかまり、つかまり、また崖をよじ登ることを強いられる。
それが低木の急斜面であれば、目的地目指して一気に駆け下りられるものだが、
樹齢10年以上の木々に覆われた林に一歩踏み入ると
真っ暗闇のなか、木の根に足をとられ、
枝に顔を引っかかれ、
その枝で眼がねなどうっかり落とそうものなら、
探すのに一大事。

暗闇がずっと続いていれば、少しは目も慣れるかもしれないが、
月明かりと真っ暗闇が交互に出てくる道のりでは
かなり訓練された者でなければ、先を常に見通すことなどできまい。

少し歩いただけで、運動靴の中に小枝や石がどんどん入る。
やはり、営林用地下足袋でなければ、
この闇の中で藪斜面を登り下りすることはかなり酷だ。

そんなことで結局、ほとんど林道をたどりながら、小1時間ほど歩いただけで
車のところに引き返すことにしてしまった。
わかっちゃいるけど
バカだった。

地図上に引いた一直線に添って歩くなどということは、
まず昼間に試みてみるべきこと。
しかも、草の者の真似だからといって、
草の者であれば、人目につき難いとはいえ、
当然、早く安全に歩きやすいコースを選んで走るはずで、
無闇に難所、急な崖を突っ切るようなことはしない。
わかっているはずだけど、
やはりバカだった。

ま、予備調査としてはこんなもんか。
と自分を納得させて渋川に帰った。


   正林堂店長の雑記帖 2007年2月15日より 転載
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草の者の道

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
先に里人に見えぬ道について、サンカ、山伏、マタギなどをとりあげて話しましたが、
もうひとつ大事な役者が抜けてました。
それは忍び、忍者です。
これは、文字どおり道なき道をかけるのですが、
上州、信州の間では、伊賀、甲賀に劣らず、真田の忍びが活躍した地として知られてます。

この真田の忍びのことは草(くさ)と呼び、
池波正太郎の真田太平記などで草の者として広く知れています。

この草の者については、甲賀・伊賀の忍者に比べて史実を伝える資料が比較的豊富に残っていて、
その末裔といわれる人々もおられるので、
得てして時代劇などで誇張してとられがちな忍びの姿を、リアルにとらえることができます。

基本技術、装備としての変装、速歩、跳躍、鉤縄、三尺手ぬぐい、薬、兵糧丸の常備など、
中之条町の歴史資料館で そのいくつかを実際に見ることもできます。

この草の者は、武田信玄のもとの忍びの養成隊長の立場にあった出浦対馬守幸久が、
武田氏滅亡のびち、真田氏に招かれ服属し、
のちに吾妻の岩櫃城代になっているのです。
そのため、現中之条町周辺の岩櫃城、高山城あたりから、
優れた草の者が多く生まれてます。

また、この岩櫃城の地理的位置が、
真田氏の上田から沼田にかけての横に長い領地のちょうど真ん中に位置しており、
当時の情報伝達の中枢であたこともうかがわせます。

この情報伝達の役を担っていた草の者の活躍する姿が、
真田太平記のなかにしばしば出てくるのですが、
夜の明けるまでのうちに、岩櫃城から上田城まで、あるいは名胡桃城や沼田城まで
誰にも知られない道を駆け抜けるのです。

この姿をイメージして以来、私はずっといつかやってみたいあることを考えていました。
それは、地元の名胡桃城のある月夜野から信州上田の間を
地図上に定規で一直線の線を引き、
その真っ直ぐの線の上を夜がけで歩き抜くのです。

これこそ道なき道、
であるばかりか、その線上にあった障害物は、
何であれ、乗り越えていかなければならない。

やっかいなのは、民家、農家の敷地などをまたぐとき。
線上に家などがぶつかった場合は、
ちょっとごめんなさいよ、と茶の間や寝室なども横切ることも余儀なくされる。
もちろん事情をゆっくり説明している間などないので、
泥棒と間違えられることを覚悟して走り去るか、
頭のおかしいヤツが通ったと思われるか、
その場の判断にまかせられる。

これは、その夜がけの服装に大きく左右されるものでもある。
山を真っ直ぐ突っ切るには、裏にスパイクのついた営林用地下足袋がもっとも優れているが、
これは脱いだり履いたりを素早くすることができない。
この場合は、土足で部屋を突っ切り、ばれたら急いで逃げるしかない。

この地図上に真っ直ぐな線を引き、強引に横切るということは
残念ながら私の独創ではなく、大先輩がいる。
それは、東京電力の送電線工事をやっている人たちです。
山をみると、ほとんど地形にこだわらず、一直線に道を切り開き、
しかも高速道路の工事のように、地形はほとんどいじることはなく、
鉄塔下の樹木を切り払う程度で真っ直ぐに突き進んでいる。
これに気づいたときは、負けた、と思った。

でもこちらは、ひとりで駆け抜けるので
ひとりの人間のなす事としては負けないだろう、と気をとりなおす。

草の者が駆け抜けたのは、あくまでも人目につかずに近い道を選んでいたのであろうが、
まずは、夜がけのトレーニングとして、
私はこの強引な方法を一度やってみたいと思っている。


こうした経験を積んだ上の話しとして、
次回に未来のひとの歩く道について書きます。


   正林堂店長の雑記帖 2007年2月24日より 転載
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大疾歩(おおのり)

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
前回、残雪期の尾根ルートに代表される
見えない高速(幹線)道路のはなしをしましたが、
旅に限らず、一定度の距離を歩いて移動することには、
格別の意味合いがあるのではないかという気がしています。

テーマ館のなかの
「幻の漂泊民・サンカ」と「風の王国」
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page163.html
のページで紹介している五木寛之の「風の王国」という小説に、
奈良の二上山を舞台に今に生きるサンカのすがたが描かれています。

そこで、ある儀式をかねて55人ほどのメンバーが
伊豆にから、奈良の二上山まで
大疾歩(おおのり)という大行軍をすることがえがかれてます。

一行は深夜、伊豆山権現奥の院前に集合し、沈黙のうちに出発する。
濃紺の法被と脚絆、それに菅笠のいでたち。
最初はゆっくり、
次第に歩度をはやめながら山間の古道をくだっていく。

一行は道中
 《一畝不耕 一所不住
   一生無籍  一心無私》
低い声で唱和しながら歩く
  〈イッセー フーコー  
   イッショー フージュー
    イッショー ムーセキ 
     イッシン  ムーシ〉

無言のうちに人が集まりはじめ
無言のうちに人が歩き出し
 低く静かに唱和しながら二上山目指して歩いていく

それだけで場面の緊張感がどんどんたかまっていくのです。

この五木寛之の古い小説は、もう発表から30年近くたっている作品ですが、
なんと昨年末に新装版で横書き3分冊に改編されて再刊されました。
今に生きるサンカの姿をフィクションとして見事にえがきあげているだけでなく、
人の歩くという行為の意味をとても深くあぶりだしている私の大好きな作品です。

夜を徹して長距離を歩くということは、
昔の高校ではどこでもよくやっていることでもありました。
何て呼び方してたか思い出せませんが、
ご存知の方があれば、是非教えてください。

群馬では、沼田市の高校が、前橋市まで夜を徹して歩いたそうです。
事故こそなかったようですが、結構歩きながら眠くなってしまうことが多いらしく、
昔の道では利根川縁の崖から落ちるのではないかと
先生方は気をつかったとかいう話を聞いたことがあります。


サンカの話では大疾歩(おおのり)と言ってますが、
現代で同類の歩くということで
私の計画していることがありますので、
次回はその話をします。


  正林堂店長の雑記帖 2007年2月21日 より転載
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