大好きな菱田春草の所蔵品があることで、前から行きたいと思っていた永青文庫で「武蔵と武士のダンディズム」という武蔵の書画を多く展示した企画展が行われていたので、この上京の機会に行ってきました。
剣豪である武蔵の書画が並外れたものであることは、紅梅鳩図の上にまっすぐに延びた一筆の強烈の印象だけがありました。
残念ながらこの作品は、後半に入れ替え展示されるもので今回見ることはできませんでした。
しかし、今回みることのできた他の作品もすばらしかった。
最初に見た 重要文化財「芦雁図屏風」でまず圧倒されてしまいました。
いずれも「伝」宮本武蔵筆ですが、剣以外にも並外れた才能があったことが十分窺えるものです。
ただその筆致、精緻さは作品をみていくうちに確かに通常の画家たちの力作とはなにか違う体質があるような気がしてきました。
いくつかある達磨図などは、太い筆でダイナミックな線をひき、細い筆で繊細な線をひき、使い分けているようにも見えますが、どうも全体に一貫した迫力や精緻さが貫かれているようには見えない。
あれだけの剣豪であれば、力強さとともに一気に貫くような筆致を連想しがちですが、タテに一本貫いた筆の「紅梅鳩図」ですら、高い精神性を感じるにもかかわらず、ちょっと違う。
正面達磨図の迫力は、全体にみなぎるようなものではなく、なにか太い線、細い線とは異質な目の一点を打ち抜くときにだけ収斂されているように見える。
これと同じような印象を「不動明王立像」にも感じた。
現実には、この火焔の造形のすばらしさだけでも十分な作品です。
不動明王の持つ宝剣は、武蔵作と聞いただけで、どう見ても巌流島の決闘で用いた櫂にしか見えない。
造形のユニークさから、私にはどうしても冷静には見れないのかもしれない。
この写真の向きだけではく、四方からこの像を見ると、
火焔の造形も含めて造形の力は、宝剣を両手でつかむその握りの強さに集中しているように見えます。
力ばかり入っていたら勝負には勝てない。
相手に向かう前に剣を引いたときの一番力をためた瞬間の姿なのだろうか。
書画の傾向からも、武蔵の造形の特徴は画面全体にみなぎる力強さや精緻さがあるのではないようだ。
それは、互角の相手と生死をわける闘いに挑むときに、力や技をどの一点に集中するかということのみ徹しているかに見えます。
達磨の目。
不動明王の宝剣の握り。
紅梅鳩図の天に延びる一本の枝。
生死を決める最も大事なことは何か。
そんなこと簡単にはわからない。
でも真面目に端からコツコツと精緻に積み重ねていけばできるというものでもない。
偶然性も含めたあらゆる条件の交錯する環境で、勝って生き抜いて来た武蔵ならではの、実践的な集中力のようなものを感じる。
何事も場数を踏むことは大事だ。
しかし、その場数を武蔵のように生死を賭してふむような人間は滅多にいない。
それは必ずしもバランスのとれた美しいものではない。
にもかかわらず、透徹した力の集中点が見えると、ほかのアンバランスは問題にならなくなる。
バランスのとり方よりも、どこを集中すべきツボとみるか、枝葉をどう配置するか、幹のとり方よりも生死をわける一点を重視した姿勢のようなものを感じます。
ももちろん、わたしに答えなどわからない。
しかし、いつもの美術鑑賞では体験することのない深い思索につつまれたことは確かです。