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軽く考えないで欲しい「景観条例」、ここぞ本丸!

2018年12月29日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

私の地元、みなかみ町で新しい「景観計画」の策定準備を始めている記事を見ました。
ユネスコエコパーク認定にともない、関連する条件整備は当然必要になってくることと思います。

みなかみ町景観計画の策定

ところが、この「景観計画」が今後の地域の将来に対してどれだけ重要なことであるのか、さらには、この計画に実効性を持たせることがどれだけ困難なことであるか、それらが公開されている資料(拝見したPDF資料自体はとても立派なものです)や議事録などからは、どうも十分討議されているようには見えませんでした。
担当職員が一生懸命作ってくれただけで、関係機関や住民との間の練り込みがされた痕跡があまり見られないのです。 

パブリックコメントも募集していたようですが、知らずにすでに締め切りもすぎていたので、 この機会に思うところを少し書いてみたいと思います。 

 

 

1、世界から大きく立ち遅れた日本の現状

まず「景観条例」に実効性を持たせることがいかに困難なことであるかは、日本一の国際観光都市であるはずの京都の実態から十分にうかがい知れます。

世界の無電柱化の実態は、ロンドン、パリ、ベルリン、香港、オークランドなどは100%地中化していて、アジアでもソウルとかマニラ、ジャカルタ、北京とかはすでに50%くらい無電柱化されていますが、東京はなんと7%というレベル。

だから当然、旗が振られてそれなりに頑張っているのですが、それでも遅々として進んでいるわけではないのが実情です。

それは、世界有数の観光都市である京都でさえ2%という水準に如実に表れています。

 

  

 

  


世界に誇る文化遺産を持ち、文字通り日本でトップクラスの国際観光地である京都でさえ、観光地としての「景観整備」、個別には、「看板規制」「電柱の地中化」「歴史建造物や町並みの保存」などは、ヨーロッパのみならずアジアを含めた国際比較をみても、恥ずかしいほどの水準にとどまっています。

ゴミが散乱しておらず、清潔なトイレやマナーの良さなどでは、世界トップ水準の国であるにもかかわらずです。

それでも京都には、個々の文化遺産に優れたものがたくさんあるので観光客はたくさん来てくれているのですが、諸外国の観光地の景観に比べたら、やはり雲泥のさがあると言わざるをえません。

 

さらに今では、無電柱化というと都市部市街地から進められるのが当たり前かのようになっていますが、ヨーロッパでは、市街地がほぼ完了したからという差もあるかもしれませんが、農村地帯であっても、電柱や看板などの広告物が景観を損ねないようにする対策は、電柱地中埋設に限らず様々な方法で実施されています。 

 

 

日本のように道路があればそこに電柱を立てるのが当たり前なのと違って、ヨーロッパでは、都市部に限らず農村部であっても、できるだけ電柱が視界に入らない工夫がされています。

 

 

こうしたことはずっと指摘されていながらも日本を代表する観光都市京都では、未だに現状をなかなか変えることができない実情と原因をよく理解する必要があります。

しばしばこうしたヨーロッパなどの例を出すと、もともと歴史的建造物の多い国だからできていることだといったようなことを言われますが、ヨーロッパの都市の多くは戦争によって破壊された場所ばかりです。日本の都市が空襲で破壊されたのとなんら変わるところはありません。その多くは、戦後になって修復、再建されたものです。

条件が良い悪いの違いでは決してありません。

どこを目指しているかどうかの違いであると思います。 

電柱地下埋設のことを中心に例をあげましたが、これも地域で話題にすると1キロ地下埋設するのに何億円かかると思ってるんだと言われます。だからほとんどは国や県から出る予算待ちの計画しかできない発想になりがちですが、だからこそ、これも地方「自治」の核心テーマになるわけです。

そこが見えていないと、どんなに立派な「景観条例」を作ってもそれに実効性を持たせることは到底できないのではないかと思えてなりません。

 

 

その上で、次に大きな壁となるのは、みなかみ町独自のの歴史的、地理的障害の問題です。 

 

 

2、みなかみ町の独自障壁、課題

 

歴史的な独自課題

今の姿からは想像がつかないかもしれませんが、上越線が開通する以前の水上温泉は、湯原温泉と言われたひなびた温泉で、農閑期に近在の村から湯治客が訪れていた程度であったそうです。

それが、大正、昭和から始まった数々のダム建設や清水トンネル開削、それと同時期の水上駅の発展にともない旧水上町周辺は劇的に発展してきました。多くの温泉地が発展できたのもそうした背景があってこそのことです。

 

原田正純『ぐんまの鉄道』みやま文庫

上記みやま文庫では、「鉄道町 水上」の変容と題して、鉄道を中心に発達した水上の歴史を詳しく紹介しています。

主だった事項を以下に記します。
昭和16年時点での水上機関区の職員数は255名にものぼったとの記録があります。(家族を含めたら国鉄職員の占める比率がいかに高かったかがうかがい知れます)しかし徐々に鉄道拠点が水上機関区から高崎第二機関区や長岡運転所に移行して行き、水上機関区の機関車は昭和57年までには全てが廃車となりました。

それほどの歴史のある水上駅でしたが上越新幹線の駅は、上毛高原駅となり昭和57年に新潟までの区間開通となりました。

昭和30年代後半から40年代が水上温泉の最盛期で、観光客数は昭和61年の百七十万人がピークであったと言われます。
平成13年の観光パンフレットに28カ所あった水上温泉の宿泊施設は、同27年の観光協会ホームページでは12施設に減少しました。

 

このようにみなかみ町は、周辺他県の観光地のようにスキー場の増大とともに発展してきた新潟県魚沼地方やリゾート開発主導で成長してきた長野県側などと違って、「ダム開発」と「トンネル工事」に代表される巨大公共事業とその時々の産業主導で発展してきたのが、この地域の特殊性であるといえます。

当然、温泉地として知られるようになった観光産業とはいえ、景観への配慮がなされることはこれまでの町の歴史ではほとんどありませんでした。 

ここに、豊富な観光資源がありあがらそれが活かしきれないみなかみ町の大きな特徴があるのではないかと思います。

 

そのことは、旧水上町の明治時代からの人口推移を見ればさらによくわかります。
グラフ化できれば良いのですが、
合併前後を通した資料が手元にないので継ぎ接ぎ情報になりますが、


明治初期の旧水上町の人口は2千人程度だったようです。

 

それが戦後、昭和30年代には、1万人を超えるほどまでに激増しました。

ところがその後、みるみる急降下しだし、またたく間に元の3千人近くまで下がってしまいました。

 

  旧水上町の人口推移 『町誌みなかみ』より

 

緩やかに増え緩やかに減少期へ入った旧月夜野町や旧新治村に比べると異常な急上昇急降下です。

対する旧月夜野町は、平成7年以降は減少に転じていますが、どちらかといえば日本全国の平均的な推移に近く、3千人くらいの時代から緩やかに増え続け、現在の1万人水準に到達しています。

新しい地区別データがありませんが、3地区を比較してみると、
全国の地方の人口減少傾向と比べても異常な実態であることがわかります。

 

この水上地区の問題は、みなかみ町に合併されたことで全体で緩和することができた面がありますが、夕張市が破綻した問題と同じ構造を今も抱えていることに変わりはありません。多様な地場産業を育てることがないまま、巨大プロジェクトに牽引されるがままに器が肥大したまま残されてしまったのです。
だからこそ、その突破口を観光でということになってしまうのですが、ここにこそ観光みなかみ町の構造的な大きな課題が出ていると思います。

そこには急上昇、急降下した地域ならではの有形無形の莫大な負債があり、その処理費用は大変なものであることがこれからも予想されるのです。でも、地域のイメージを変えるには、ここに踏み込むこと抜きにその先は考えられません。

 

 

地理的な独自課題

 さらに、この地の景観を損ねる要因としては地理的な特殊性があげられます。

同じ豊かな山間部の自然を売りにしている観光地でも、その地形は様々です。

次の写真は、みなかみ町では普通に見られる道路の景観です。

 

 

 

これが、周辺の山々の傾斜が緩やかであると、自然と路肩幅も取りやすく、のり面もコンクリートで固める必要もなくなってきます。

このコンクリートの比率の差も、景観に大きく作用しています。

地域全体で目に入るコンクリートの量が、劇的な差を生んでいるのです。

 

この上と下の写真の違いがわかるでしょうか。

 

 

こうした背景が、同じ観光地でありながらも、長野県や新潟県のような観光リゾート型成長を始めからとってきた場所との大きな差を生んでいます。

 

 

3、どれひとつとっても重大テーマになる各論

さらに個別に見ると

① 電柱地下埋設問題

      

日本から電柱が無くならない酷すぎる理由 

 電柱地下埋設というと、莫大なお金がかかるので国や県の予算頼み思考になりがちですが、
 まず国際的な観光地水準を目指す前提で優先順位や計画をしっかり持つことが求められます。 

 さらに地下埋設以外にも、電柱ルートの変更・迂回や、柱の化粧処理など打つ手は色々あります。

 

② 乱立する首都圏への送電線網

さらに、関東の水源、首都圏の水瓶であると同時に首都東京への電力供給源でもあることから、南北に送電線が何本(5本?)もはしることが宿命づけられています。それは利根の水源ばかりでなく、新潟から首都圏への送電線もこの地を通過することになります。

いたるところに美しい景観はありますが、観光名所を撮影するにも、山を撮影するにも送電線を避けて限られたアングルを見つけなければなりません。

そんなこと言ってもどうすることもできないではないかと言われますが、10年〜30年のスパンで考えると、電源や水源などエネルギー資源管理の考え方や技術はどんどん進歩します。
必ずしも水源地の避けられない宿命とは限りません。

 

③ 看板規制

 

④ ガードレール・フェンス対策

 国、県、市町村、私有地でまさに縦割り行政の管理下にありますが、 公共性の高い場所なら、
 たとえボランティアであっても、さっさと焦茶色のペンキを塗ってしまいたいものです。

⑤ 私有地外観の公共性

    軽井沢のような別荘地であれば、初めから個人の敷地であっても周辺の環境に配慮した
   建物や植栽にすることは当然と思われるかもしれませんが、
   これもこれからの世界基準から見れば、特殊な観光地や別荘地に限らない地域づくりの
   基本目標になってきているといえます。
   もちろんそれは簡単なことではありませんが、
   ゴールとしては明確に設定しているかどうかが大事です。
   目標が明確になっていれば、行政コストをかけなくても、
   自発的住民によって始められることもたくさん考えられます。 

⑥ 草刈り問題

   近隣の高山村などのレベルまで、もしみなかみ町が草刈りを徹底するとしたら、
    年間の回数で3倍、一回の人員でも2〜3倍の規模が必要です。
    もちろん、そんな予算はとてもない、ということになりますが、
    これも地域のお金をどう有効に回すかの問題だと思います。 

 

⑦ 自然草花の植生管理

   都市公園のような花壇も美しいものですが、ユネスコエコパークにふさわしい
   自然の植生を知り活かした景観づくりとはどのようなものなのでしょうか。
   みなかみ「ヤマブキ」植栽考

 

 

 

つまり、景観づくりにはほとんど考慮することなく産業主導で成長してきた土地柄があり、この負の遺産を解消することに、みなかみ町には大規模な独自対策が求められるわけです。

 

ベネッセ(「よく生きる」の意味)の会長、福武總一郎は、

「努力しているのに幸せになれない理由は、幸せな地域にいないからだと思った。」

と、ちょっと誤解されそうなことを言っていますが、その意味は、

「幸せな地域にいないと、自分だけが幸せになろうとする。そうすると、自分さえ幸せになればいいというグルーディー(貪欲)な人の集まりになってしまう。(それが東京だと思った)」

と語っていますが、これは都会に限ったことではありません。 

「景観」とは、まさにこうした幸せな地域をつくるとき、もっとも基本に位置す課題であると思います。 

 

観光が成り立つには、まず第一次産業である農業や林業が元気であることが大前提でなければなりません。

さらに第一次産業が成り立つには、そこに豊かな自然があることが大前提です。

それら豊かな自然が生かされているかどうかが、まさに人間と自然の折り合いで作られる「景観」のなかにあられているわけです。

「景観条例」に基づいた計画とは、当然それらを含めた総合的観点で検討されなければならないし、それだけにもっと広範な議論を重ねてしっかりと練りこんでいかないと、大きく出遅れた日本のレベルをなんら取り戻すようなところにはおよそたどり着けないのではないかと感じます。

 

環境問題は、実利に直結したものが少ないだけに、議会などではあまり人気がないテーマで膨大な予算が絡めば困難は一層増しがちです。
でも環境問題の課題の多くは、この半世紀(特に先の東京オリンピック以降)の間に作られた負の遺産の問題であり、困難な問題であっても4〜50年後には当たり前になっているようなことばかりです。 

行政サイドでは、どうしてもバランスを優先した計画にならざるをえないものと思いますが、抱えている困難な条件を突破することを考えれば、喉の奥深くで複雑に絡み合った骨を、口から手を突っ込んで取り除くような覚悟をもって明るい未来を手元に引き寄せなければなりません。

ただの美しい景観が増えれば良いというだけの問題ではなく、ここにこそ地域の課題の根本に関わるテーマが深く内在しているものと思います。どんな課題でも問題に気づけば、遅すぎるということはありません。
幅広い住民の議論を巻き起こす一歩が今からでも踏み出すことができたらと思います。 

 

 

とはいえ、ここで何をいっても一住民のつぶやきにすぎませんが、もっと幅広い議論を起こすことは今からでも遅くはないはずです。毎度、思いつくままの文で申し訳ありませんがパブリックコメントにかえて書かせていただきました。

 

 

 

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  ガラガラポンは期待しない

  「行政」にとらわれない社会の基礎単位

  遠く感じる「自治意識」

 

 

 

#みなかみ町 #景観条例 #景観計画 #電柱地下埋設 #ユネスコエコパーク

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「雇用」より大切な「仕事」観

2018年12月28日 | これからの働き方・生業(なりわい)

地域の人たちと話をしていると、地域のどこに明るい未来があるんだ、雇用がないんだから若い人が増えるわけがない、といったようなことをしばしば耳にします。

いつも、「それは違う」と思っているのですが、単純に反論してなんとかなることではないので、その場では黙ってやり過ごすことが多いものです。

でも活字の上では、もう少しなんとか整理しておきたいと思いました。

 

まず、理屈の上での話ですが、

私は仕事や雇用に関しては、いつも次のような原則をイメージしています。

 

1000万円レベルの仕事の下には、100万円単位の様々な仕事が10個あります。

500万円レベルの仕事の下には、50万円単位の様々な仕事が10個あります。

100万円レベルの仕事の下には、10万円単位の様々な仕事が10個あります。

5万円レベルの仕事の下には、5千円単位の様々な仕事が10個あります。

1万円レベルの仕事の下には、千円単位の様々な仕事が10個あります。
 

もちろん、実際にはそう単純ではありませんが、このように捉えることができるのも間違いないと思います。
地域に仕事がないという問題を「雇用」の問題だけで捉えてしまうと、大事な仕事の内容や実態を見損ない、仕事を「参加権」や「所属権」の問題でしか捉えられなくなってしまいます。

確かに現代社会の多くの仕事は、賃労働型であるという意味で、その業種への「参加権」や「所属権」を勝ち得てこそ成り立つような仕事が多いことに間違いはありませんが、現状の仕事を改善することだけではなく、ゼロからはじめて千円の売り上げや利益を生み出すにはどうしたら良いかを考え、それがどれだけ難しいかということは、「所属」型、「参加」型の仕事に浸かっているとなかなか見えてこなくなってしまうものです。

このような意味で、年収300万、500万の仕事が得られるかどうか、起業する場合でも、年収500万、1000万のビジネスが立ち上げられるかどうかにこだわりすぎると、本当の持続可能な仕事の姿から遠ざかってしまうように思えてなりません。

ただ、悲しいかな厳しい雇用の現実は、非正規労働の増加とともに、望まずしてこうした数万から10万円程度の仕事の組み合わせで働かざるをえない労働形態を多く作ってしまいました。それも、従来の働き方を見直す良い機会になったと言えなくはありませんが、現実はとてもそんな風に褒められたものではありません。 

実態が、先の参加型・所属型の労働スタイルが分解されただけのことで、仕事を構成する小さな稼ぐ力がたくさん芽生えたわけではないからです。

 

多くの地方自治体では、大きな企業誘致に成功すれば、自治体の税収が大幅に改善されるだけでなく、まさに雇用も相当増えるかもしれませんが、ひと昔とは異なり大きな企業ほど、時代が変わっても長くその地に生き続けることは難しい時代になってきています。
大企業への依存度が高まるほど、「ある日突然」という事態に地方自治体が襲われる例は少なくありません。 

 

ですが、念のため書き足しておきますが、この逆の思考パターンも即効性だけを考えれば確かに否定はできません。
むしろ、売上を数パーセント伸ばす努力よりも、売上を2倍、3倍にするには、と考えた方が、今の延長上の思考から脱却するので、逆に容易い場合も少なくありません。
さらに、同類の低い売り上げ仲間同士の間で競い合うよりも、桁違いに事業規模の大きいところを相手に営業をかけた方が、たやすく売り上げを伸ばす確率が高いのも事実だと思います。 

 

大事なことは、1万円でも千円でも百円の仕事でもよいから、自らが稼げるネタを持てるかどうか、そのような能力や資産づくりを常日頃考えているかどうかということです。

こうした思考の欠落したまま、ただ「マジメに働く」「より多く働く」労働観が、国際水準から大きく遅れてしまった日本国民一人当たりの生産性の低さにつながっている気がします。

まさに、仕事=雇用と考えてしまうところに、ここ半世紀で浸透してしまった「賃労働偏重」の悲しい労働実態があります。

 

 

そしてこの話の先には、さらに大事なことがあります。

本来の「仕事」とは、「雇用」で語られるものよりも、自分の目の前の現実、目の前で起きている課題にこそほんとうの「仕事」は存在しているのだということです。

多くの人が、どんな仕事なら稼げるか、食っていけるか、安定した暮らしができるかを考えるのは当然ですが、会社の仕事を一生懸命、マジメに働いている人であっても、日常の目の前に起きた問題に直ちに対応することなく、それは自分の担当ではない、自分の専門ではないといって、避けてしまうことをよく見かけます。

以前「それはありません」のひと言にすべてがある に似たようなことを書いたことがあります。

 

一生懸命勉強して良い学校に進んで、資格を取って、良い会社に就職していながら、大きな組織の分業社会で働くようになると、「それは自分の専門ではない」「それは担当ではない」と思ってしまうことが、どうして多くなってしまうのでしょうか。

まさに「専門性」こそが、より高付加価値な仕事をなす条件であると。

微妙な違いかもしれませんが、現実には「専門性」を極める仕事ほど、その専門性を発揮するために「必要なことはすべてやる」という姿勢が徹底されているものです。

また現代社会は「競争社会」であるとはいいながらも、競争に勝っている組織ほど、その内部では勝つためのより多くの「協力関係」によって支えられているものです。

そこには、一貫してそれまでの経験の枠内では解決できない問題に対して、絶えず学び、調べ、試してみるというチャレンジがともなうものです。これは共通の目標に進んでいる「仲間」の間でこそなせるワザです。

そこにつながりが見えない組織間になってしまうと、「専門ではない」「担当ではない」「自分にはできない」といった言葉で、そのチャンスを排除してしまいます。

そのような例は、やはり所属・参加型の仕事をしている人ほど顕著になる傾向があるようにも思えます。

この姿勢の差が、付加価値生産力の大きな差につながっていきます。

課題に直面した個人であれば、本来逃げることができない課題が、組織が大きくなるにしたがって、解決主体が曖昧になってしまう傾向がありますが、その意味で有機的に動いている組織ほど、組織そのものが「大きな個人」として生きているとも言えるかもしれません。

かつて国民の8割近くが、農業を中心として個人商店や様々な分野の職人などの自営業者であった時代には、それぞれの事業主が自分でその時々に直面した課題に対して、程度の差こそあれ、当たり前のように自らが解決していく世の中でした。

能力があろうがなかろうが、常に自分が食っていくために必要なことは自分ですることが当たり前の当事者であたからです。

同じ構造が、今でも主婦にはあると思います。
今晩の料理をどうするか、冷蔵庫にある材料で何をつくるか、スーパーで何を買ってくるか、子どもが急に熱を出したらどうするか、反抗期にどう対処していくか・・・・等々。
無条件に自分ただひとりが、その場で解決していかなければならない課題ばかりなので、能力や資格があろうがなかろうが、その瞬間に極めてクリエイティブに自分で答えを出していかなければならないのです。

これが本来、仕事でもまったく同じはずなのに、こと会社や組織の「仕事」となると、スルーできるかのことばかりたくさん出てきてしまいます。

 

かつて、地域経済復活の切り札として「地域通貨」が流行ったことがありました。

特定の地域内でのみ通用するお金で、普通のお金のように利子がつかないため、長く持っていても得しないお金として、、より早く動く通貨として期待されましたが、なかなか普及はしませんでした。
これが普及しなかった原因は、地域通貨の意味そのものが伝わらなかったことや、地域商品券との違いがあまり理解されなかったことなどもありますが、一番の理由は、地域内で「私があなたに対して何がしてあげられるか」「あなたは私に何をしてくれるのか」といった関係の構築が不十分であったことではないかと私は思っています。

だからこそ「人材ネットワーク」のようなものを作ったというかもしれませんが、通常の経済ではその人材や能力、持っている商品やサービスを使うにはどうしたら良いか、それぞれが必死に広告・宣伝、売り込み・営業をやってやっと関係を作っているのに対して、ただ安い労働力として地域ネットワークに登録さえされればいいと安易に考えていた傾向もありました。

「仕事」や「地域経済」を担うもっとも大切なことを、まだよく理解できていなかったように思えます。

 「仕事」としてみたときにもっと大事なのは、他人から何か頼まれたときや、何か新たな問題に直面したときに、それが自分の専門でなかったり、担当ではなかったり、これまでの経験ではやったことがないことであったりしたときにこそ、能力を開発することです。

 調べ、学び、協力を得られる人を探しだすことを前提に考えれば、「それは自分の専門ではありません」といった言葉が出る前に、自分にできることを探さなければならないことに気づかなければなりません。

 

  

誰もが食べていくために背に腹は変えられないと、納得のいかないことであってもこなしていかなければならないのが「仕事」であると考えがちですが、こうした「仕事」の成り立つところの原点をもう一度考えてみれば、自分の目の前に現れた課題をそれまでの経験や能力に関わりなく解決していくことこそが基本であることに気づけるのではないでしょうか。

 

これからの時代の経済発展を、従来型労働の労働量や労働密度を上げることなく、創造的付加価値を増していくには、こうした脱所属・参加型の労働観を取り戻していくことが不可欠であるとわたしは思います。

そうした課題解決型の仕事は、まさに身の回りの地域にこそたくさん眠っているからです。

より多く稼ぐことをなんら否定するものではありませんが、ただ「より多く」「より大きく」だけを求めてマジメに働き続けると、気づかないうちに私たちの子や孫、子孫らのよって立つところのよすがを食いつぶしていってしまいます。

それは、先祖から代々受け継いできた家や土地を、子供達が「タダでも欲しくない」という社会にあらわれてきています。

これさえあれば食っていける、という構造よりも、足元の小さな稼ぎもとを一つ一つ発掘していく力の方が、一見、楽ではないかもしれませんが、子どもたちへ残せるものは、少なくとも失わずに生きていける道になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

仕事や働き方に関連するこのブログ内の記事

①  「千回の法則」の 要点メモ 持続する仕事(2/3) 

② 経済活動よりも生命活動に「信」をおく社会

③ 「秀才」を育てる時代が終わり、誰もが「天才」の時代へ

④ 生産の基礎単位としての「家族」 再録メモ

⑤ 寝るほど楽があらばこそ、浮世のバカは起きて働く

⑥ 税の集め方・使い方が逆行した日本の公務員システム みなかみ町の場合

⑦ 地域を支える様ざまな労働スタイル

⑧ オレの仕事は、俺一代

⑨ 企画・イベントよりも、まず競争力のある商品とサービス

⑩ 異常な人口爆発の時代が終わり、適正サイズに向かう日本

   

  点と点がつながり線になっても、安易に「面」にはしない

  生涯をかけて学ばなければならない「お金」の使い方・活かし方  (準備中)  

 

 

 

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地元の鉱山開発の歴史と高橋是清の足跡 略年譜をつくりながら

2018年12月28日 | 「近代化」でくくれない人々

『古馬牧村史』に書かれていることですが、私たちの地元みなかみ町には、いくつかの鉱山跡があります。

 ところが、幸か不幸か、どこも私有地であることなどから、ほとんどの鉱山跡は地元でも意外と知られていないことを知りました。今も残る坑道跡など、私有地内ということだけでなく安全管理の問題もあり、立ち入りには慎重な姿勢が求められています。

 そのようなことから、とても興味深い産業遺産でありながらそれを周知させることはとても困難であると言われていました。しかし、もはやネットなどで廃墟マニア、鉱物マニア、鉱山マニアなどによってどんどん情報が流れ出る時代になっています。ただ地元だけでタブーにしているわけにはもはやいかなくなってきたように思えます。

 そこで、困難なことであることは承知しながらも、どのようにしたらその歴史的価値を地元に伝えうるか、その方法を時間をかけてでも模索していこうと、そうした鉱山跡のひとつについて地元の人たちが立ち上がってくれたことをきっかけに、チャレンジしてみることとなりました。

 結論から言うと、まずは地域学習内部資料を作成することになったのですが、この作業を通じて私たちはとても多くのことを学ぶことができました。

 ネットで公開できるのは、限られた内容となりますが、その一部をここに書き記しておこうと思います。

 

 

1、歴史遺産の調べ方・学び方・方法論について

以下、学習資料に書いた文を転載します。

 地方には様々な歴史的・文化的価値ある資産が埋もれています。それらの貴重な資産は、心ない興味本位の人びとによってしばしば荒らされるだけでなく、メディアや専門家の手によっても破壊され奪われていくことも珍しくありません。
 そこには、ただ「価値あるもの」だからといった名目のもとに、その土地にずっと暮らし生き続けてきた地元の人びとや自然の命に対する想像力や配慮といったものが視界に入っていないものです。
 私たちは、この鉱山の歴史や実態を学ぶとき、そうした声なき人びとに耳を傾ける心も同時に学んでいかなければならないことを知りました。
 この調査学習資料は、内容の多くは『古馬牧村史』を参照しておりますが、発行にあたっては次の本の指摘に多くを学びました。  

宮本常一・安渓遊地 『調査されるという迷惑』みずのわ出版 

 同時に、内部学習資料で有っても、簡単なレジュメやプレゼン資料にするのではなく、リーフレットや雑誌の特集記事のようなレイアウトに仕上げることで、「伝える」という作業をさらに深めることができました。

これもとても厄介な地域の人たちの理解を得る作業を、粘り強く行ってくれ方がいてくれたからこそ続けられた作業です。

そのためにも、難しい課題ほど、文章の練り込みやわかりやすさだけではなく、写真の力、タイトルの表現、ページレイアウトなども同等のこととして手間をかけることがいかに大事であるかを学ぶことができました。

 

 

2、明治から昭和の戦争に至る時代の中枢にいた高橋是清という人物

 

 高橋是清は、総理大臣としてよりも、昭和金融恐慌など財政危機を乗り越えた大蔵大臣として広く知られています。
 戦争の道へ突き進んでいく時代に是清は、軍部の圧力にも屈することなく財政再建を果たした手腕が高く評価され、ダルマさんの愛称でも親しまれています。

 経済不安や財政危機が叫ばれる現代にこのような人物がいたならばと、しばしば話題にされる人ですが、そんな高橋是清が、旧古馬牧村(現みなかみ町)と深く関わっていたことは、あまり知られていません。

 明治二十二年、是清は鉱山開発をはじめるためにペルーに渡りますが、すでに廃鉱であったことを知り帰国。その直後に天沼鉱山の経営にかかわるようになりました。
 近代化を急ぐ明治政府にとっても、資源の開発は切実なものでした。足尾銅山をはじめ江戸時代に停滞していた数々の鉱山が再び活況を呈し始めた時代です。 そのような時代に、是清が経営にあたった天沼鉱山は明治四年に鉱業法が制定されて以来、四番目の金山として操業されました。

 しかし、採掘して精錬にかけてみると、これも予期通りの成績が挙がらない。ついに数ヶ月にして廃鉱の余儀なきに至り、入れた資本はすべて損失になってしまいました。ペルー鉱山の失敗と重なり、是清は千五百坪の家屋敷も処分することとなりました。

 この時最初にこの鉱山を世話した者が、廃止するならほかに売ってやろうかと言ってきたが、我々が見損なって買込み、実地にやって見て悪かったものを、他に転売して自己の利を計ることは不道徳の極みであるとして断然断った。そうして据付けた機械その他はすべて取壊して売ってしまった。『高橋是清自伝』より

 まさに山師の感覚と清廉な是清の姿勢の違いがよくうかがえるエピソードです。

 しかし、この相次ぐ失敗は、のちに是清が日銀の役職につくときも、山師のようなものを公職につけさせて良いのかといった誹謗が付きまとうことは避けられませんでした。

 

 それでも、ペルーの鉱山開発に続く失敗で、容易には諦めきれなかったのか、同じ上州利根郡の戸倉の山中で、今度は気長に探鉱することに決めて、探鉱技師二人に長男の是賢(これかた)をつけて、山中に山ごもりをさせることにしました。

 この時、長男の是賢はまだ14歳。

 是清は、是賢に山中における心得の大要を示し書き贈っています。

       心得の大要(前文略)

一、早起きは少々午睡するとも必ず怠るべからず、人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず

一、米味噌その他需要品はこれを仕入れる時予め次期の仕入れを考え置き、また平常の事務をとるにはその日その日に五、六日先のことまで方法順序を考え置き、手落または齟齬のことなき様注意すべし

一、坑内事業については能く日々の変化を記憶しまた極めて必要なる場合のほか坑夫に坑内模様の可否を問うべからず、必ず実地について視察し確定せる意見を立て得るまでは漫に喜憂の状を表すべからず

一、坑内測量図面の整調を平日に怠るべからず

一、鉱物の分析はかねて教諭せられたる旨を尊守し実行すべし

一、物品の購入及び人夫雇人等に関し好機会若くは好人物あるの故を持って他より勧誘せらるるとも実際の必要に迫られやむを得ざる場合のほか断然採用すべからず

一、日記を怠らず少くとも一ヶ月一回東京に通信すべし

 

最初の

「人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず」

などの表現は、薩長にはない明治人の側の気骨の極みの様に見えます。

 

 

 (これらのことは)まだ鉄道もない時代(前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したのが明治二十三年七月)のことです。自動車もそれほど普及はしていません。人力車などに頼りこの地に来た是清は、必然的に長期の滞在をよぎなくされたことと思われます。単なる投資目的の事業家とは異なり、高橋是清は短い間でしたが、滞在中にこの地と様々な関わりをもち、深く地域の人びとの記憶に残ることとなりました。

(以下、記載エピソードは略) 

 

 

 

 

3、一見客観的のように見える年表の個々の事実の取捨選択作業

だいぶ昔に「年表を読む面白さ」といったテーマでホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」に書いたことがありますが、今度は年表を「読む面白さ」から、年表を「つくる面白さ」をさらに知ることができました。 

 

略  年  譜
(上記学習資料では以下の内容をさらに省略しています) 


1854(嘉永7) 幕府絵師川村庄右右衛門の私生児として生まれ、間も無く仙台藩の足軽、
        高橋覚治の養子となる


1867(慶応3) 勝海舟の息子・小鹿と渡米留学。オークランドで奴隷労働しながら勉強。

1868(明治元) 帰国。森有礼の書生となる。明治維新、戊辰戦争始まる

1869(明治2) 大学南校教官三等手伝。

1870(明治3)  放蕩生活に入り教官辞める。

1871~81(明治4~14)英語教師、通訳などをする。教え子には正岡子規、秋山真之など。

1872(明治5)  学制の発布、全国に小学校を設置。太陽暦を採用

1873(明治6)   徴兵令施行

1881~89(明治14〜22)農商務省御用掛け、専売特許所長、初代特許局長など歴任。

1889(明治22) 東京農林学校長兼任。
         11月:ペルーのカラワクラ銀山経営のためへ渡航。
        大日本帝国憲法、皇室典範公布
        町村制施行により、後閑村、師村、政所村、
真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、
        奈女沢村が合併し、利根郡古馬牧村が成立。

1890(明治23) 1月:カヤオ港着。
         2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
         3月:ペルー鉱山が廃鉱であることわかる。
         4月:帰国の途につく。
        帰国後、天沼鉱山経営に着手。

1892(明治25) 日本銀行建築所事務主任。
        その後、日銀支配役・西武支店長、 横浜正金銀行本店支配人、副頭取など歴任

1899(明治32) 日本銀行副総裁に就任。

1904(明治37) 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。

1905(明治38)貴族院議員に勅任。戦時公債募集のため再渡英。
                       ポーツマス条約調印。

1911(明治44) 日本銀行総裁に就任。

1913(大正2)   第一次山本内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。

1918(大正7)   原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)シベリア出兵開始

1920(大正9) 子爵陞爵。

1921(大正10) 原総理暗殺により後継内閣総理大臣に就任。
        大蔵大臣兼任。政友会総裁となる。

1922(大正⒒)  高橋内閣総辞職。

1924(大正13) 貴族院議員を辞職。爵位を長男に譲って「隠居」。
        岩手県盛岡市の原敬の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選。
        加藤高明内閣の農商務大臣に就任。

1925(大正14) 兼任の農林大臣、商工大臣を依願免職。


1927(昭和2) 金融恐慌始まる。
       田中義一内閣の大蔵大臣就任(3度目)
       恐慌の沈静化に手腕を発揮し、恐慌の沈静化を節目に大蔵大臣を依願免職。

1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。

1931(昭和6) 犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)
        世界最長の清水トンネル開通
        柳条湖事件を発端に満州事変勃発。

1932(昭和7)犬養総理暗殺(五・一五事件)内閣総理大臣を10日間兼任。
        斉藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目) 満州国建国

1934(昭和9)斉藤内閣総辞職。
       岡田内閣藤井大蔵大臣が肺気腫で倒れ、 後任として大蔵大臣に就任(6度目)

1936(昭和⒒)赤坂の私邸で反乱軍部隊に6発の銃弾を撃たれ暗殺される(二・二六事件)。
        享年82(満81歳没)

 

 

この略年譜は、何度も項目を加えたり削除したり訂正をしましたが、今まで

「町村制施行により、後閑村、師村、政所村、真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、奈女沢村が合併し、
利根郡古馬牧村が成立」
 したことのみを他の場所でも記していましたが、この年に明治憲法が制定されて、この国の法的な形が確立したのだという理解はありませんでした。 

また、1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。
   1931(昭和6) 世界最長の清水トンネル開通。
とともに是清が古馬牧村に来たのが、まだ前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したばかりの明治二十三年七月であることなど、当時の交通事情があらためて理解できました。
(個人的に昭和3年は父の生まれた年、昭和6年は母の生まれた年なので、とても覚えやすい)


大正から昭和にかけてが、鉄道時代の幕開けの時期であり、それまでの北前舟を中心とした水運が急速に消えていく時期でもありました。

また是清がペルーまで片道一ヶ月以上の長い航海を経てたどり着き、そこでカラワクラ鉱山開坑式まで行っていながら失敗して帰国していること、その直後に天沼鉱山の経営に着手していることなどから、起死回生を図ろうとする是清の力の入れようが伺われます。

 

 

きっかけは、地元の天沼鉱山の調査でしたが、『高橋是清自伝』を読むほどに、世界中が金融経済で振り回される現代のような時代こそ、経済学者ではなく、高橋是清のような課題解決型の仕事人が出てきてほしいものだと、つくづく思いました。

コメント

企画・イベントより、まず競争力のある商品とサービス

2018年12月04日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

毎度、どこに書いたか見つからなくなったテーマです。

最近、繰り返しこのことの重要性を感じる場面に直面しているので、
もう10年近く前ですが、mixi全盛期のコミュで行ったやり取りをここに転載することにします。 

何人かの方々とのやり取りですが、相手の方々の了承を取るのが難しくなってしまったので、
自分の部分のみ書き写すことにしました。 



**** 以下、引用 ****


はじめまして。 
実態を見れば見るほど。日本中の商店街の多くが絶望的現実に直面しているのを見て、こうしたコミュニティにとても期待をしております。 

全国各地で地域活性化、商店街復活のさまざまな取り組みがされていながら、どうしてこれほどまで長年、ほとんどの地域で衰退に歯止めがかからない実態があるのでしょうか。 

私は、問題の立て方の多くが、街や商店街に人が集まる最大の理由は、「そこに魅力のある商品やサービスがあること」が第一であるはずなのに、そのことを本気で取り組まずにイベントや行政依存の企画に終始してしまう場合があまりにも多いのではないかと思ってます。 

今、伸びている業態、郊外店やショッピングセンターに人が入っているのは、ただ単に大きいから、便利だから、駐車場が広いから、安いからというだけではなく、確実にそこに魅力のある商品やサービスがあることが第一であり、どこもそのための努力を必死に続けているものです。 
巨大ショッピングセンターですら、その競争に負けたら10年も経たずに巨大ゴーストタウンになってしまう現実が、アメリカではすでに始まっています。 

膨大なお金と労力を投下して幹部の多くが夜中まで競争にしのぎを削ってしる業界に対して、商店街のお店の多くは、満足な掃除もせず、商品の入れ替えもせず、あまりにも他人のせいにしたまま、「考えている」といいながら、会議や企画、視察研修などにあけくれてはいないでしょうか。 


でも、個々の意識の問題だけにしてしまったら、問題解決の糸口は遠のいてしまいます。 
現実には個々の成功例をいかに広げ普及していくか、ということになってしまいますが、もう少し視野を広げてみれば、誰もが「いかに食べていくか」という、根本的視野にたって仕事というものをとらえ直す作業も大事であるかと思います。 
「どこになら参加できるか」といった仕事観から、自分が「何をすることができるのか」をはっきりととらえられる仕事観に切り替えていくプロセスが求められます。 

私自身、まだ十分整理しきれていない問題なのですが、 
下記のサイトで関連する雑文スケッチを書いています。 

「起業力・創業力(イノベーション)の時代」 
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page174.html 
「アワニー原則、サスティナブル・コミュニティのこと」 
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page178.html 
「議論・分析ばかりしてないで攻めてみよ」 
http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page153.html 

問題の整理に助言をいただけたら幸いです。




かみつけ岩坊

みなさん、貴重なご意見、反応ありがとうございます。 
mixiに参加してほんとによかったと思います。 

最初のBさんの整理、「二つの主体」という整理をうけると、もう少し、強調しておきたいことがあります。 

実は今年、6月に長浜の黒壁の街を奈良へ行くついでに見てきたのですが、すばらしい街並みをつくられてとても関心させられたのですが、あそこの成功は、商店街としての成功ではなく、観光地化としての成功であると感じたことです。 
すばらしい街並み、おしゃれな店が立ち並んで平日にもかかわらず、結構人が入っていましたが、商店街のなかに、地元の人たちが繰り返して日常の買い物をするような衣料品や八百屋や魚屋などの食品関係の繁盛店はあまり含まれていない、と感じました。 
全国で求められている商店街の復活とは、まず、そこで生活している人々の日常の欲求が満たされるところであると思います。 

この点がSさんの指摘されるような、たとえイベントで成功しても売上げにつながらない問題につながると思います。 

この日常ということに付け加えれば、よくおしゃれな店やこだわりのお店の成功例が、話題性のわりに長続きしていない現実があります。 
雑貨店などに多いのですが、よく努力して作ったこだわりの店ほど、いい品がありますね、と褒めてもらえながら、いつ行っても先月、先週来た時と同じものがならんでるので、褒めてあげても買うものがないという姿を目にします。 

私の本屋などでも、すぐそうなるのですが、お客さんは必ずポケットに千円二千円の金は持って、何かいいものがあれば買っていこうと思っているのに買うものがない、という実態がほとんどなのです。 

このことが、イベント・企画依存の発想と同じ問題をはらんでいます。 

その意味であくまでも、主人公は、お客さんでも、従業員でもなく、一番の主人公は商品なのだと思います。 
 商品が季節によって、時代のトレンドによって変わるから、人(お客や従業員)のシフトが変わるのではないかと。 
魅力のある商品があるから人が集まるのであり、また新しい別の商品が入っている期待があるこらこそ、また来ようという気になるのだと思います。 
 そこに個々の業種ごとに力を入れていくこと、最優先で手をかけていくを抜きにして、人が集まっても、やはりエネルギーーのそそぎ場所が違うのではないかと思います。 

地域活動やボランティアも大事ですが、まずその前に、その街を支えているそれぞれの仕事を通じて、その人ならではの関係を築いていくことが、街づくりなのだと思います。 
肉屋さんは、肉の販売を通じて街をささえることが大事、魚屋さんは「今日は旬のいい魚が入ったよ」と薦めてくれることでそこの人間関係が育てられるのだと思います。 
これが大事だということがわかっているから、伸びている大手ほど、その店独自の商品開発に力をいれるのだと思います。 

もう一度言わせてください。 
街づくりを考えるのであれば、あなたの扱っている商品に最大の関心を向けるべきではないかと。 


新鮮な野菜や旬の魚が手に入り、先月、先週来た時と違うものがお店にある

 

 

 

かみつけ岩坊

Bさん 
度重なる失礼、深くお詫びいたします。 
そればかりか、懲りずに丁寧な情報をいただきありがとうございます。 

Nさん、とても内容のある書き込みありがとうございます。 
(つい先ほど別なコミュではなさんという方から書き込みいただいたのですが、別な方ですね。また間違えないように気をつけます。) 

はじめにもう少し明確に言っておくべきだったかもしれませんが、私は企画・イベント自体に反対はしておりません。 
そればかりか、私のホームページをのぞいていただければ、利益につながらない催事でも積極的にやる方の人間であることも想像していただけるかと思います。 

どうしても、問題提起する側の立場から、多少、挑発的な出だしになってしまっていた面があったかと思います。 

こと企画・イベントに関しては、私は利益につながらなくても、それを実行する当事者が、それが面白いからやる、楽しいからやるという性格のものでなければ、人に訴える価値のあるものにはならないと考えてます。仕方なしに参加するひと、イヤイヤ参加する人の問題は二の次にして、「何々のため」よりも、まず自分たちが面白いと思うことをやるべきだと思います。 

それと商人であれば、また事業者であれば、出来ることであればなんでもやる、というのがまず基本。 


このことを前提にしたうえで再度、言わせてください。 
「企画・イベントよりも、まず、競争力のある商品!サービス!」と。 

商いとは、よく言われるように文字どおり「飽きない」です。 
それは、従業員にとっても、お客さんにとってもです。 
そして商売とは、ひとりひとりのお客さんとの信用の積み重ね、ひとつひとつの商品の信頼の積み重ねによって長い年月をかけて培われるものです。(これを私が言うのはとてもおこがましいことですが・・・) 

今、10年、20年という長い歴史で売り上げが落ちる、客数が減るという現実をかかえた商店街が、これから10年、20年とかけてお客さんとあらためて築いていかなければならない「信頼関係」とは何でしょうか? 


信頼を築くというのは、決してひとつのことでなせるものではありません。 
親しみのある接客やコミュニケーション、あるいは地域の話題性などが支えるものも不可分のものであると思います。 

しかし、繰り返しますが売り上げが落ちる、客数が減るという結果は、そこにお客さんが欲しい商品やサービスが無かったからであるという現実を、まずしっかりと受け止めるべきだと思います。 
いくら愛想がよくても八百屋に行って新鮮なものがならんでいなかったら、その八百屋のお客さんとのコミュニケーションは成り立ちません。私のいる本屋の業界であれば、本のこと聞いてわからない店から買う気にはならないのは当然だと思います。 

地域を支えるというのは、ボランティアやいろいろなの団体の活動も大切ですが、まず、そこにいるあなたの携わっている仕事、サービスを通じて地域に貢献することがなによりも基本でなければならないと思います。それが元気な商店街の基本ではないかと思うのですが。 
ただ人のよい「人間一般」が地域を支えているのではなく、なんらかの職業、仕事を通じてこそ、そのひとの社会的役割が担われ、地域が育っていくものだと思います。 

企画・イベントに意識が向かいすぎると、マスコミに取り上げられることで妙に喜んでしまう例もよく見ますが、それはあくまでも補助的な宣伝手段としてで、その地域のお客さんの間で先に話題になるようでなければ実質が伴ったとはいえないと思います。 

自分の店の商品とお客さんに対する関心を第一に考えないで、商店街の活動や企画・イベント、マスコミ戦略に一生懸命になっているひとがあまりにも周りに目立つので、こうした問いかけをせずにはいられませんでした。 

また寝不足になりそうなので、この辺までにしておきます。 

 

かみつけ岩坊

 昨日、地元の新聞記者が商店街の取材に来ました。 
 これまでの取材の話などを聞いていたら、どうもまだ自分の言っていることが強調し足りないのではと感じてしまいました。また、2,3のことを書かせてください。 


 まず今回は、どうして自分の店に魅力あるサービスや商品を生み出すことを優先して行えないのか?ということについて。 

 その実体をよく見てみると、自分の店でもそうなのですが、店の棚に商品が埋まってさえいれば、ついそれで売り上げがついてきて当然かのような錯覚に陥ってしまうということです。 

 客数が減る、売り上げが落ちる、ということは、どんなに競合店が出ようが、立地が悪くなろうが、そこに来たお客さんがそこに買うものがなかったという結果の積み重ねにすぎないのだと思います。立地が悪かろうが、駐車場が少なかろうが、そこにお客さんの欲しい商品や満足の出来るサービスがあれば、お客さんは必ず来てくれる時代だと思います。 

 そこに自分が踏み込むためには、まず、自分の店のなかのお客さんに支持されていない商品(売れていない商品)、実績のない商品を、店から無くすことを第一に考えなければならないと思います。 
 「返品できない売れない商品があるから、新しいものを入れられない・・・、」 
 これは商売の最悪のパターンです。 

 最近話題の健康哲学でもそうですが、栄養やカロリーをいかに取り入れるかを考えることよりも、まず、健康な排泄が出来ないと、入ったものも満足に吸収できないで終わってしまう。 

 ユニクロやセブンイレブンの成功例などを見ても、仕入れミスのリスクを自分が背負う覚悟のない仕事(返品できるからいい、廃棄処分はもったいないといった感覚)は、絶対に最終利益を生まないことがわかります。 
 仕入れの失敗の経験にほんとうに学ぼうとするならば、その失敗のコストは定価できちんと背負うべきなのです。 

 その意味でも、店のなかの「死に筋」といわれる商品は、火をつけて燃やしてでも、店から排除する覚悟が商人にはなによりも必要なのだと思います。 

 よく単純に死に筋を排除すると、回転の低い大事なものも無くなってしまうといわれますが、実際に実践しているお店はそうはなっていません。死に筋を排除していない店の多くは、売れ筋も死に筋も区別しない売り方をしているからです。 

 この死に筋を店から無くす、実績のない商品を店から排除するということが、個々のお店にとって最大の企画・イベントの前提条件になっているのだと思います。 

 繰り返しになりますが、お店の商品が、まず新鮮なものに入れ替わること、これこそお客さんのポケットのなかにある千円、二千円を出してもらえるかどうか、一番の決定打だと思います。 

 「老害」トピでななさんが言っていた「やる気のない前例踏襲主義」の問題にも共通しますが、 
売れない商品は、火をつけて燃やしてでも、店からまず無くす勇気と覚悟は、常に私たちに問われている問題だと思います。


かみつけ岩坊

ここのところ、仕事で少し滅入っていたところ 
ななさんのおかげで、ちょっと元気が戻りました。 

何度も繰り返しますが、 
商売やビジネスたるもの、出来ることはなんでもするのが原則ですが、 
最大の経営資源を投入するべきところは、 
なによりも競争力のある商品とサービスの開拓だと思います。 
そこに熱くなるものがなければ 
経理収支計算や企画イベントをいくらやってもダメ! 


ここで、もうひとつの視点で強調しておきたいのが 
コンサルタントとの上手なつきあい方です。 

コンサルタントも儲けることに対してはプロです。 
コンサルタントの儲かることと、自分が儲かることはよく見極めることが必要です。 
私も今、親しくおつきあいさせていただいているコンサルタントがいるので、言葉には気をつけたいのですが・・・。 

コンサルタント業務の習性として、 
どうしても「お金の取れる方」へ業務が流れる必然的傾向があります。 
現実に商店街が伸び悩んでいても、 
衰退しきっている個々のお店からお金を取ることは 
とても難しいのが現実だと思います。 
それよりは、商店街組合や行政についた方がはるかに 
お金の取れる提案ができると思います。 

実際には個々のお店の経営相談に 
多くのコンサルタントが熱心に応じてくれていますが、 
そこにお金の取れる関係はなかなかつくれないものです。 

個々のお店に競争力がつかなければ、商店街は 
いくら見かけをなおしても活性化されないことはわかっていても 
お金の取れる方から手をつけざるをえなくなってしまい、 
企画、イベントに話をもっていかれがちなのです。 
ときたま、企画イベントこそ特効薬かのように思っている 
私には理解できないコンサルタントもいますが・・。 

もし、一流のコンサルタントであれば 
「うちにはコンサル料払う余裕なんかないよ、 
でも必ずなんとかしてみたいと思っている」という事業者にたいして、 
事業者がコンサルを難題をふっかけて、いじめればいじめるほど 
次の手や知恵を提供して食い下がってくると思います。 

もし、二流のコンサルタントであれば 
あなたが自分の企画にのらないことが、いかにわかっていないかということばかりを 
懇々と説明してくれることと思います。 

金を払えば払っただけなんとかしてくれるはず 
なんて関係では、商人失格ではないでしょうか。 

なにごとも自分の必要なものは、自分で見つけてくる力がなければ 
いくら優秀なヒトを雇っても、いくら大金を払っても 
成功するわけがないと、いまどきの行政のお仕事を見ていると 
つくづく感じます。


   **** 引用、ここまで ****


といったようなやり取りでした。

小阪裕司さんに言わせれば、
導入するシステムやプロモーションのテクニックの問題ではなくて、
「高い提供価値を持つことが最重要」なのであって、それは

「探される力」なのです。 



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