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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

月夜野にかかわる三十六歌仙のふたり ~凡河内躬恒と源順~

2015年08月28日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

以前にこのブログに資料として、三峰神社縁起を載せたことがあります。

そこで、三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)がどのような縁で、三峰山の河内神社に関連づくことになったのかが書かれています。

それをみたときは、河内神社と凡河内の名前のこじつけ話とばかり思っていたのですが、月夜野という土地のご縁からみると、これは必ずしもただのこじつけ話とは言いがたい、なかなか良く出来た話であるようにも思えてきます。

 

凡河内躬恒 (おおしこうちのみつね)

まず第一には、凡河内躬恒が村上帝の歌を書き損じた罪でこの地へ流されたことです。

当初は遠い都からこんなところに来るなど、増してやこの無名の地がわざわざ選ばれることなどまずありえないと考えていましたが、中世の都では、実に多くの都人(天皇から貴族・役人)たちが、なんだかんだの理由をつけられては日本中の僻地にとばされていました。

それは実際の戦闘や勢力争いに破れた者に限らず、天皇や権限のあるものからあらぬ疑いをかけられた者や、台頭する新勢力である武士ににらまれたもの、あるいは実際に不祥事などの罪を犯したものなど、武士の切腹が定着する前の時代であったこともあり、ことある毎に多くの都人が遠島や僻地へとばされていたのです。

考えてみると、投獄や刑死などより最も一般的な刑の姿が流罪であったのかもしれません。

とすると、凡河内躬恒がこの月夜野の三峰山麓に幽閉された話など、たとえそれが史実としては疑わしいとしても決して突飛な話しではなく、上毛野国の地理的な都とのつながりからしても十分ありうることであったと思われます。

 

第二には、その凡河内躬恒という歌人そのものが、紀貫之などとともに古今和歌集選者の中心的存在であり、古今集には58首もはいる三十六歌仙のなかでも特別な存在であることです。それだけに月をみごとに詠み語れる歌人でもあったということです。

凡河内躬恒の逸話として『大和物語』一三二段に、醍醐天皇から「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で

    「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり」
 照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)

と応じた話があります。

まるで「月夜野百景」の一場面そのものです。

雪月花、花鳥風月をうたう優れた歌人なら「月」ネタに欠くことはありません。

多くの歌人が月を題材にしていますが、まさに月夜野の地に選ばれるにふさわしい歌人が凡河内躬恒であるように思えてなりません。

 

  月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞ知るべかりける (古今40)

  五月雨のたそかれ時の月かげのおぼろけにやはわれ人を待つ (玉葉1397)

  見る人にいかにせよとか月影のまだ宵のまに高くなりゆく (玉葉2158)

 

 

 

ちなみに『百人一首』にのる凡河内躬恒の歌は、

    29 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花 

 

 

源順(みなもとのしたごう) 

第三に、月夜野という地名のいわれです。

地元では、都から来たえらいお坊さんが、この地を通りかかったときに空を見上げて

「おぉ~、いい月よのぉ~」と言ったことが「月夜野」という地名のはじまりだとも言われてますが、

文献に記述されたものでは、偉い坊さんではなくて、
これも三十六歌仙のひとり源順(みなもとのしたごう)が東国巡業の折(平安時代、天暦10(956)年の仲秋の夜とも言われてます)に、三峰山からのぼる月をみて「おぉ~、いい月よのぉ~」と深く感銘して歌を詠んだといわれます。

ところが、そもそも源順が東国巡業をしたという記録自体、どこにもみあたりません。にもかかわらず、そんな話しが生まれるのももっともな背景が、源順の経歴のなかにはあります。

* 「順」と書いて(したごう)と読むことに馴れるには、はじめは誰もが時間のかかることと思います。

 

 

そこで詠んだ歌がどの歌であったのかはわかりませんが、
源順の詠んだ月の歌として、

    水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける(拾遺171)

    

これまたこの地にもぴったりの歌ともいえます。

 

この源順なる人は、大変な才人として知られていたらしく、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められているそうです。

源順がかかわった功績のには次のようなものもあります。

まず第一にあげられるのは、日本初の百科事典ともいえる『倭名類聚鈔』の編纂をしたことです。
他の記事で触れることになると思いますが、群馬県利根郡の地名が初めて文献上で明記されたのがこの 『倭名類聚鈔』です。

それと、それまですべて漢字で書かれていたために一般の人は縁がなかった『万葉集』を、村上天皇が源順以下5人の学者に読み解きを命じたことです。順たちはおよそ20年の歳月をかけて万葉集の大部分に訓をほどこしました。こうして万葉集はようやく日の目を見、一般に流布するようになりました。

また『うつほ物語』、『落窪物語』の作者にも擬せられ、なんと『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられるほどの人物です。

もしも、源順がほんとうに『竹取物語』の作者だとしたら、藤原氏批判を含んだといわれるこの竹取物語の作者が、一層、アマテラス=太陽偏重の藤原氏に対する「反藤原コード」としての「月」を重視していたこともありうるのではないかと思われてなりません。

『万葉集』の編纂中心人物である大伴家持や橘諸兄が、藤原氏の独裁下で苦労したがゆえに、万葉集全体を貫いて月を多く採取しているのも、同様の時代背景になっていると考えられないこともありません。

したがって、ここで月の歌人たちを月夜野で引き立てることは、この国のかたち根幹を問い返す意味もあるのではないかとさえ言えます。

 

関連ページ「源順と『和名類聚抄』と名胡桃の地名由来」
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bb41ba4491cc1079dfff1b08defb80e3

 

史実の真偽はなんともわかりませんが、

三十六歌仙のうち二人もが、この地を特定した縁を結んでおり、
しかもそれが月にまつわる歌で深くつながっているということです。

もしも史実でないのなら、引き出される歌人は小野小町でも紀貫之でも誰でもよかったはずです。 

たとえそれが、つくられた説話であったとしても、なぜ源順がこんな月夜野の地まで来る理由があったのかと疑えば、尊敬する凡河内躬恒を慕い、幽閉されていたとされるこの月夜野を訪ねてきたのではないかというストーリーも、聖徳太子や弘法大師、あるいは義経や木曾義仲伝説以上に、現実味おある物語となりうるのではないでしょうか。

 

 

こうしたことから三峰神社縁起などを通じて想像されるイメージは、まさにお能の世界です。

もしその物語を語るとしたら・・・

 

 

まず源順がワキとして登場。

源順が晩年になってから、大歌人として一世代先輩にあたる凡河内躬恒を偲んで、幽閉されていた地を探し遥々東国まで訪ねてくる。

ある地で山にかかる美しい月をみて思わず歌を詠んでいると

その歌につられてシテ、凡河内躬恒の妻である花萩が登場。

そこで、花萩(シテ)が躬恒を慕ってこの地まで来たが、とうとう会うことかなわなかったわが身の上を語る。

 

ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思ふのみぞ。

逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。

ひと目なりとも見ましきものを・・・

 

  いかにせん哀しくばかり身をも浮く

      ささかに見ゆる吾夫を慕へば

 

花萩に対して躬恒も今生の別れと歌を返した

 

    秋霧の晴るる時なき心には

      立ち居のそらも思ほえなくに

 

    世を捨てて山に入る人山にても

       憂きときはいづちゆくらむ

 

花萩(シテ)は、傷心の身を引きずりながら近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずにここで果てたわが身の上を語ると姿を消す。

 

目の前に現れた花萩が夢かうつつかわからぬまま源順は、しばし記憶をたどりその場にたたずむ。

するとそこに小さな祠があることに気づく。

この場所こそが、躬恒と花萩が果てた地であることを知り源順は、花萩が果たせなかった二十一夜の祈りを遂げて二人をともに供養する。

そこで歌をのこして去りゆく。

 

  三峰の麓(ふもと)の庵(いほ)は知らねども

        語りし継げばいにしへ思ほゆ

      「み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ」 (万葉集 巻三―313)

  

 

 ・・・といった感じでしょうか。

 

 三峰神社の舞台
ここでいつか上演できたら素敵ですね。
もちろん、ここは歌舞伎や浄瑠璃用の横長舞台で、橋懸りがあったりする
方形のお能の舞台ではありませんが、

それでも、いつかこの地の物語をここで上演できたら素晴らしいことと思います。

名胡桃城址での上演でも素敵ですね。 

 

 

 だからといって、必ずしもこの地で特別にお能や和歌が盛んになったなどという特別な歴史があるわけでもありませんが、一定の時代に於いては、現代では想像もつかないくらい庶民の間で、歌舞伎や浄瑠璃が普及定着していたように、歌の世界も浸透していたのは事実であると思います。。 

月を愛でて鑑賞するのに、これほど恵まれた歴史物語が背景にある土地が、そうどこにでもあるものではないということだけは十分頷けるのではないでしょうか。

 

 

 

よく誤解される伝説としての月夜野の地名由来とは区別した、史実としての由来はどうなのかということについては、以下のページにまとめてみました。

「月夜野」地名の由来と風土①
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/0ddc774c9db1c7f615a94740117f851b

 

 

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「受け止める」教育、斉藤先生の貴重な経験

2015年08月24日 | 手作り本と表現活動

 指導はせず、子どものすべてを受け止める教育、その方が結果的に学力も伸びることを立証、実践している先生方のグループで飯塚先生とともに中心的存在になっている斉藤先生が、今年から特別支援学級の担任になられました。


 その斉藤先生の1学期の試行錯誤の経験をまとめた文章を、きょう飯塚先生が届けてくれました。

 その文章がとても素晴らしい!

 特学の免許もない斉藤先生が3人の子どもたちと、一歩一歩試行錯誤を繰り返しながら、ひらがなや数字を少しずつ理解していく過程が先生の失敗反省も込めながら、とても丁寧に語られていました。

 あいうえおの「あ」を認識するために、飴のあという絵のカードを手作りで用意して「あ」を「アメのあ」として子どもが認識できるようになります。ところが「あめのあ」を覚えることができても、抽象記号としての「あ」を理解できたわけではありません。絵図を通じて1+2は3を理解できるようになっても、抽象記号としての数字を読んで計算をすることはできません。

 

 そのようなプロセスをたどりながら、一歩一歩、認識能力を身につけていくのですが、ひとつのひらがなを覚えたということだけで、母親から驚きと感謝の手紙がとどきます。


 でも先生はそこに辿りつくまでに、ついイライラして子どもに意地悪な質問の仕方をしてしまったりもする。

 なにかそうしたやりとりの文章を読んでいると、哲学の認識論を読んでいるようにも思え、また老人の介護や地域づくりのコミュニケーション論をみているような錯覚にも陥るような感じで読ませていただきました。

 ひとつひとつつながるご縁に感謝。

 

 

 

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子どもの言葉を「受け止める」 新しい作文の発見!

2015年08月11日 | 手作り本と表現活動

 あらためて言うまでもなく、親や教師が子どもの発する言葉やサインを真剣に受け止めてやることが、とても大事であることは誰もが感じていることと思います。

 ところが、多くの親や教師は、「受け止め」てやりたい気持ちは持っていながらも、得てして目の前の子どもに対しては、受け止める前につい「ジャッジ」や「指導」をしてしまうものです。
「聞いてあげるよ」といって呼び寄せていながら、その先の行為が「聞く」ではなく「ジャッジ」や「指導」になってしまうのです。

 子どもの側からすると、「聞いてもらう」ために話すのではなく「ジャッジ」されるために「話す」「書く」ということになってしまっているのです。

 この違いが、熱心な教師や親ほど、なかなか気づかない傾向があります。


 その理由のひとつは、子どもが投げかける言葉、表現が、親や教師の側にとっては、はじめから明らかに「受け入れがたい」ものであったり「間違った」ものに見えることが多いからだと思います。

 
 普通の教師や親は、「間違った」ものや「受け入れがたい」ものを「ただす」ことこそが教育であると考えがちです。

 ところが、『田中の家に犬がくる』に続いて『えがおの花』という作文集を刊行された飯塚祥則先生のスタンスは違います。

  子ども達が一生懸命なげたボールは、たとえどんなに「間違った」ものであっても、「受け入れがたい」ものであっても、まず無条件に受け止めることが何よりも大事であると飯塚先生は考えています。

 

飯塚先生の作文教育がどのようなものであるのか、具体例をひとつあげます。

 

 学校で遊べるところ             4年 ◯◯周平

 今日は、階段。
 東階段は、足ですべれる。中央階段は、こしですべれる。西階段は、中央階段と同じ。
 会議室では、机にローラーがついたので走って、すーとのっかりながら遊ぶ。家庭教室は、しょうがいぶつがいっぱいあるから、かくれるところがいっぱいある。四年二組には、ホワイトボードがあるから、らくがきができる。トイレそうじでは、水をまいて、水ホッケーをしていた。
 ちなみに、スティックの代わりは、フリードライヤーと、デッキブラシだ。
 このように、どこのそうじでも遊ぶ物があるのだ。

(飯塚先生のコメント)
「おもしろい!遊びの天才だな。足ですべり、こしですべり、ローラーで遊び、家庭科室でかくれんぼをし、らくがきもでき、トイレで水ホッケーをし、どこのそうじでも遊べるなんて・・・。5年生になってもいっぱいやって、いっぱいおこられな。楽しみ!!

 

 この例を学校の先生方にみてもらうと、このようなやり取りはとても今の教育現場では出来ない、との答えがかえってきます。飯塚先生はすでに退職されて学校現場を離れているから子どもたちとこうした会話ができるのだと。 学校でイタズラをしまくる子どもをこんなふうに褒めたら、先生自身が指導の対象になってしまうというのです。 

 とは言いながらも、このような子どもとのコミュニケーションが取れてこそ、親や教師と子どもとの間の信頼関係が生まれることの重要性、素晴らしさも多くの先生が認めます。

 まさにここにこそ、日本の教育現場の問題があらわれているのではないでしょうか。

 

 子どもが親や教師にボールを投げると、大抵の場合は子どもの未熟さゆえに、ストライクゾーンからは大きく外れたり、指示したところとは違う場所に投げたり、サインとは違った球種を投げたり、どこで拾ったのか臭くて受け取るのも嫌な球を投げてきたりするものです。

 多くの教師や親は、その都度、
 そっちに投げてはいけない、
 今のはサインとは違う球だ、
 そんな方になげたら受け取れるわけがないではないか、
 などと子どもに諭してしまいます。

 投げる子どもに対しては、キャッチャーとして座ってミットを構えていることで「受け止める」仕事をしていると思ってしまっているのです。

 ところが飯塚先生の場合は、どんなに外れたボールでも、ルールにない投げ方をしても、受けるのは嫌なとんでもなく臭い球でも、まず必死になってキャッチしてあげるのです。

 投げ方がどうの、サインと違う、ルールと違うなどとは一切言わずに、まずどんなボールでもしっかりと受け止めることができるのです。

 ここでまた多くの教師や親は、そんなこと言っても、あんなところに投げた球、誰だってとれるわけないではないか、と言います。

 それでも飯塚先生は、そんな球でも必死になって飛びついていって受け止めます。

 なぜそれが出来るのかと考えると、飯塚先生は、子どもが一生懸命になげたボールがどんなものであっても、それが面白くてしょうがないものに見えるからです。

「そんな投げ方があったのか、面白いねえ。」

「そんな球があったのか、驚きだねえ。」

 

 残念ながら、はじめから正しいかどうかをジャッジする立場で構えている人には、飯塚先生のように子どもの投げたその「ボールの面白さ」は見えません。

 

 また、子どもの側からすると、どんな球を投げてもしっかりと受け止めてもらえる信頼があるからこそ、腕を思い切りふってワンバンドになるようなフォークボールでも投げることが出来るのです(フォークボールを投げられる子どもはなかなかいないと思いますが、要はそういうことです)。キャッチャーが後ろにそらしてしまう不安があったら、絶対に三振をとれるようなフォークは投げられません。

 こうしてどんな球でも受け止めてもらえる信頼が生まれると、投げる側はさらに思い切り力を出し切った球を投げられるようになるのです。

 親や教師の立場で子どもをみる前に、
まず6歳の子どもはその時点で完璧な6歳の人格をもった存在であり、
10歳の子どもは10歳として完璧な人間であることを忘れてはなりません。

これは教育では何よりも大事なことであり、教育だけではなく世の中のコミュニケーションでも、とても大事なことであることに変わりがないと思います。

「受け止める」こと「聞いてあげる」ことが大事であると多くの人が言っていながら、なかなか相手との距離が縮まらない一番の理由はこの辺にあるのではないでしょうか。


 

 教育を語る限り学力の向上は確かに大事ですが、本来、教育で最も大切にされなければならないこと、

「子どもの翼をもぎとらない」

ということが今の学校現場でどうしたら実現できるのか、

飯塚先生の「受け止める作文」教育は、とても大切な問題を私たちに投げかけてくれています。

 

  

 多くの場合、世の中では「答え」を出すこと
あるいは誤りを正すことこそが大事なのだと思ってしまいます。

 でも、ものごとがうまくいくかどうかの現実をみると、世の中が「正しい」答えだけによってまわっているとは限らないこと、むしろ「正しい」答えがどうのこうのよりも大事なさまざまなことによって支えられている場合が多いことに気づきます。


 決して教科書の意義を否定するつもりはありませんが、

 そもそも教科書の枠にはおさまらない広大な現実のなかにこそ豊かな世界はあります。

 そしてその広大な豊かな世界を排除しない教育は、どのようにしたら取り戻せるのでしょうか。

 

 日本でも遅ればせながら、暗記詰め込み型の大学受験のための特殊技能教育の弊害が反省されて、センター試験のシステムも変わろうとしています。

 しかしながら、多くの教育現場で教師や親の考え方は、そう簡単には変えられない現実があります。

 それだけにこの飯塚先生のような教育スタイルが、飯塚先生の特別な資質によるものではなく、多くの教育現場で本来必要とされている基本的なものとして受け入れられることが何よりも望まれます。

 そして2人目、3人目の飯塚先生が教育現場であらわれてくれることを願わずにはいられません。またいずれ遠くはない時期に、こうした考え方があたりまえの社会になることを心から願うものです。

 

 


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日航機墜落事故 「いのち」のゆくえ 関連書籍の補足

2015年08月11日 | 鶴舞うかたちの群馬県・広域情報

 ずっと懸案のままですが、
「かみつけの国 本のテーマ館」のホームページソフトが壊れてしまい、
手を加えるほどにページがボロボロに崩れてしまう状況に陥っています。

日航機墜落事故から30年の節目にあたる8月12日までには、なんとかしたいと考えていましたが、
とうとう、どうすることも出来ずにこの日をむかえてしまいました。

 大事な本がいくつも刊行されていますが、ホームページは手を加えられないので、
申しわけありませんが、こちらのブログで書名のみの補足とさせていただきます。

 

 


第二テーマ館 日航123便 御巣鷹の尾根 墜落事故」

御巣鷹の尾根 「いのち」のゆくえ  

関連書籍

http://kamituke.web.fc2.com/page063.html

 

 

十字架を背負った尾根: 日航機墜落現場の知られざる四季
清泉 亮
草思社

 

 

茜雲 日航機御巣鷹山墜落事故遺族の30年
8・12連絡会
本の泉社

 

 


 日航機事故 真実のゆくえ 関連書籍

http://kamituke.web.fc2.com/page039.html 

 

 

 

日航機事故の謎は解けたか 御巣鷹山墜落事故の全貌
北村 行孝,鶴岡 憲一
花伝社

 

 

日航機墜落事故 真実と真相 御巣鷹の悲劇から30年 正義を探し訪ねた遺族の軌跡
小田 周二
文芸社

 

 

 

 

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