かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

9首の伊香保万葉歌

2016年04月26日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

「古代東国ロマン 伊香保万葉歌」のホームページに連動して
http://www.ikahomanyou.com 

9首の歌の額装をしました。

以前、書家にお願いしてこの9首を書いてもらいましたが、わかりやすい写真バージョンも欲しかったので作成しました。 

 

 

 

 樋口秀次郎『榛名山と万葉集』に、

 ともあれ、雨雲がわき、人が狂喜叫喚しだすと、まつりの第一部は終わりに入り、第一部の後半部から若い男女の間の闘歌、歌垣となります。

 まつりの第二部に性が開放されmそれが神聖視され公認された歌垣神事に、まちかねたように若い男女の愛の歌かけがはじまり、ざわめきかえり、やがて結ばれた心の男女は沼べりの茂みのここかしこに消えこむわけでしょう。神のきめた男女二人の共寝、それは性を生産の象徴として神聖視した婚姻習俗のなかに公認され、祝福されていたわけです。荒々しい山岳気象の変化とともにたかぶった若者の血は燃え、それにたえかねたように直情的に荒々しく「いざ 寝しめとら」と歌いかけるわけです。

 と絶妙な解説がありました。

 

 伊香保の山(榛名山)の急斜面ぞいの、墾り原(焼畑)の刈根(かりばね)のねのように、ねんごろ(入念)に将来のことなど心配するなよ。今、こうして会えていることでよいではないか。 

 

 

 

 

伊香保のやさかの堰堤にたつ虹のそれのように、おれとお前の仲がはっきりと知れわたってしまうまでも、共寝をくり返していたら、どんなに楽しいことだろう。(共寝さえこうしてできれば、後のことなどままよかまいはしない。) 

 

 

 

 

 

 

上毛野の国の伊香保の沼に生えているコナギの種をとってくるけれど、そのコナギの種というわけではないが、こんなに恋にこがれようと思って恋の種を求めたのであろうか(あの人が恋しいことよ)。

 

 

 

 

 

 この解釈不能、難解な歌。折口信夫の口訳は、次のようになっています。

 伊香保に居るいとしいお方よ。これまでは、あなたをいい加減に思うていましたが、その夫なるあなたを、忘れることが出来ませんことですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 伊香保山に、雷神よそう鳴ってくださるな。私にとっては何んということもないけれど、こわがる私の愛人のためにお頼み申すのですよ。

 

 

 

 

 

 

 伊香保おろしの吹く日、吹かない日があると言うけれど、私の恋ばかりはいつという時などなくずっと続いてやむときがないことよ。

 

 

 

 

 恋しいあの娘の家のあたりは、このままでは通り過ぎ難いものだ。

 

 

 

 

 

 

伊香保山の山沿いの墾り畑に私は来ていると、(お前さんに)自然とひきつけられるよ。心ひとすじに思い慕っているので。

 

 

 

 

 

 

なかなか歌に合う写真が撮れないので、まだ間に合わせのものもあります。

 

 

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こころの月百景をかたちにした「月夜野百八燈」

2016年04月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

「月夜野百景」http://www.tsukiyono100.com のホームページではじめたことを、

これから「月の百景」

「野の百景」

「こころの百景」

などの要素に分けて具体的なかたちにしていく予定です。

 

 

なかでも「こころの百景」は、

まず「こころの月百景」として、古今の名歌・名句のなかから、わかりやすく月夜野にとっても大事なものの百選を選び出す作業をはじめています。

月に関する歌は、万葉集だけでも二百首ちかくあります。

それに古今集、新古今集、西行、道元、良寛など、

俳句では芭蕉にはじまり一茶から山頭火まで多岐にわたるので、

「百選」に絞り込むのは、なかなか大変ですが、それはとても楽しい作業でもあります。

 

そして選んだ作品を、どのように伝えて私たちの財産として浸透させるかということでは、

ホームページやBlogで季節ごとに、テーマごとに、作者ごとに、何度も練り込んでいくことはもとより、リアルのかたちにしていくこともとても大事です。

それでまず、行灯をつくってみました。

 

 

これは試作第1号で、室内専用のため、少し字が小さめになっています。

これだと屋外では、せっかくの歌が読みづらくなってしまいます。

それで、もう少し字を大きくしてみたのが、次の試作第2号。

草書の文字を縦長の枠内に配置するため、行数を増やしたとしてもなかなかこれ以上大きくはしにくいものです。

 

 

今度は、材料の歩留まりも考慮したかたちにしましたが、

どうも効率を優先してしまうと、ちょっと品がなくなる気がします。

そんな検討を重ねていたところに、お仕事でお世話になっている社長さんから「百人一首」の絵札を飾る提案をいただき、それを行灯のヒントにさせていただいたのが、裏側(オモテでもいい)のデザイン。

 

 

 

おかげさまで、だいたいの製作イメージはできました。

これを100個つくります。

古今の名歌・名句百で「こころの月百景」の行灯。

さらに、地元の人たちの月の名歌、名句の年度ごとのベスト8を選び、

「月夜野百八燈」とします。

月見の場所で、

ホタル祭りなどの道すじに

キャンドルナイトなどに付加する明かりとして、

新盆の「百八灯」の代わりとして、

花見の場所で提灯に代わるものとして、

活用を広げていけたらと考えています。

 

  

 

 ただ昼のように明るくするばかりの異常な発想が常態化してしまった日本で、本来の夜の空間を取り戻し、創造的な時間を過ごせるようにしていく強力なツールとしていけたら幸いです。

 

 

 

 きっと、このような夜を取りもどすことによってこそ、現代人の交感神経と副交感神経のバランスを取り戻し、健康な生活がおくれるようにもなるのではないでしょうか。 

 

 

 

これを見せると、もう少し明るくすることはできないのかなどと言われますが、 蛍光灯などが普及する前の時代の明かりなど想像つかない時代になってしまったので、無理もありません。

考えてみれば「灯火(ともしび)」などという言葉は、もうすでに「死語」になってしまっているのかもしれませんね。

 

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はなやなに。(忘備メモ)

2016年04月04日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜


植物には「め」と「は」と「はな」がある。


それに「くち」や「みみ」が加わると動物になる。


 


原初日本語の深~い~はなしです。
これはどこで聞いた話だか、妻との会話で甦ったので、タイムラインに埋没して忘れないようにBlogに書いておきます。


きっかけは、「お箸のよもやま話」という三田村有純さんのとても素敵な以下の文です。

以下、抜粋です。


  • そもそも「はし」というのは、大和言葉。同音語のブリッジの「橋」とか「柱」というものとかね。それ、全部意味があって、「橋」いうのはこちら側とこちら側をこうつなぐためのものですね。柱というのは、この世とあの世を結ぶために立っているものなのです。
    じゃ、なぜ箸と言うかと言うと、まず、「し」というのは固定する、固まるという意味ですね。なぜかと言うと縄文時代の人たちは狩りに行くわけです、ワーッと狩りに行って獲物を見つけると、止まれ、動くな、しゃべるな。だから「しっ」。では「は」は何かと言うと、最先端にあって、物事を取り入れる器官の言葉なのです。顔の中に「は」ものが3つあるじゃないですか。分かりますか。

  • 三田村 そう、そうです。それは何かと言うと、肌は触覚、鼻は嗅覚、歯は味覚です。つまり最先端にある言葉を「は」と言った。ということは、「し」というのは止めるものであれば、「は」というものは最先端にある。それを1つに合体したものを「はし」と日本人が名前をつけたのです。だから、日本のお箸とは「命と命をつなぐための神聖な道具」であるということなのですね。


最先端にある「歯」や「鼻」。

なにも出っ歯でなくても、十分に最先端です。

朝、散歩に連れ出す犬を見れば、

まさに鼻こそ、最先端です。


なんの最先端かといえば、「命」の最先端なわけです。


気づいていない人が多いようですが、花は、露出した性器であると、ある写真家が言っていました。

大事だからこそ、あらゆる知恵をしぼって露出する植物と秘する人間との違いを「異質なものを寄せつけるために必用な美しさ」として前に書いたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/f2843458577856d87a3bb703c3aa874c 

 

 

「秘すれば花」といいますが、う~~ん、それって真実ですかね?とも思えてくる。

大事だからこそ、根本矛盾と根本対立を含んだ話しになるのでしょう。

 

「はな」から考えても、

「はし」から考えても、

「は」から考えても、

ほんとこの言葉の世界には興味がつきません。

 

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「情熱」よりも大切な「熱」がある

2016年04月01日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

前に「これをやればうまくいく」今どきそんな理屈はあてにならない http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/e66f1cc5282cdcd3bb09f8e0fbe84f8a

ということを書きました。

それは、まず努力し続ける情熱のようなものが根底になければ、
どんな優れた方法論があっても意味がなくなってしまう、
といったようなことを強調するものでした。 

確かに、仕事ではどんな技術や知識があっても、まず根底を貫く強い「情熱」が無ければ何事も成せません。

でも最近になって私は、どうやら「情熱」よりももっと大事なものがあるのではないかと感じています。

 

こんなことを意識するようになったのは、「月夜野百景」などの活動で、本来「太陽」と「月」が一対の世界観として日本人の心に根付いていたものが、いつの間にか「太陽」にばかり偏った世界観がどんどん広がってきてしまった弊害をいろいろと意識するようになったからでもあります。

「情熱」の意義を強調することは、へたをすると「太陽」や「アマテラス」ばかりを強調するのと同じ誤りを侵しているのではないでしょうか。

「太陽」が私たちに与えてくれる恩恵は、とてつもなく大きく強いものです。

にもかかわらず「太陽」の力というものは、

一方通行の強い力、光であるために強い「影」を生みます。

地球という奇跡のバランスの上にある空間を除くと、灼熱の地獄であたり、強烈な放射能にさらされる空間でもあります。

そうした実態を意識しだすと、まさに太陽の本質は「核」「核爆発」そのものです。
とうてい私たちのコントロールの及ぶものではありません。 

このとてもコントロールの及ぶはずのないエネルギーが、豊かな恵みとなり得ているのは、
絶妙の距離にある地球においてのみのことです。

またそれは大気があることによって、
あるいはオゾン層があることによって、
さらには大量の「水」があることによってなど
数々の奇跡によって支えられています。

 

私たちの日常において「情熱」は、何よりも豊かさをもたらす最大のエネルギーであると言って間違いはないと思うのですが、その「熱」の性格を「太陽」になぞらえると、どうも無条件にたたえてしまうことは、何か大事なことを見落としてしまっているように思えてならなかったのです。

そうしたことを「陰陽」の思想や「月」の存在意義を見直すことで、わたしに気づかせてくれました。

といってそれをまだきちんと説明することは出来ませんが、

それを「熱」という表現から想像すると「遠赤外線」のようなもののイメージです。

直線的に表面から焼き尽くす熱ではなく、深い所までじわりと温めることの出来る熱のことです。

さらには、無機的な物質の間で行われる熱交換ではなくて、「生命」の間でのみおこりうる「体温の温かさ」のようなもののことです。 

確かに強い「信念」や「情熱」は、岩おも貫くことができるので、現代においてその意義はどんなに強調しても強調しすぎることはないように思えます。

でも、その力を信じて成功しても、目に見えていない弊害に気づいていないことも多いのではないでしょうか。

右肩上がりの時代が終わったことで、なんとなくそんな側面にいろいろと私たちは気づきだしたように思えます。

どんなにガシガシと頑張って成功したとしても、なんとなくひとりのお婆ちゃんの優しいまなざしには勝てないような理屈が、何か世の中ではとてつもなく大事で、現実に大きな力を担っているのではないかといった感じです。

 

道元の『普勧坐禅儀』のなかの文言に次のようなものがあります。

回光返照の退歩を学ぶべし。自然に身心脱落して、本来の面目現前せん

「前ばまり向いて歩かずに、ときには立ち止まって後ずさりして、自然と同化し、仲良く自然と語り合う気持ちのゆとりを持ちなさい。そうすれば、身も心も抜け落ちたようになり、自然の持っている本来の実相までが見えてきますよ」(松本章男)

道元の和歌 - 春は花 夏ほととぎす (中公新書 (1807))
クリエーター情報なし
中央公論新社

 

またそれは母親の子どもに対する無条件の愛のようなものとも言えます。

それは確かに大切なことかもしれないが、直接の仕事には関係ないと言われるかもしれません。

でもビジネスの世界であったとしても持続的な成功をおさめている人をみると、「情熱」だけではなくて、このような「温かさ」のようなものをとても大切にしています。

広く世の中全体を見渡してみると、私たちに求められているのは、「情熱」といったような突破を目的とするエネルギーよりも、むしろ「生命の温かさ」のような包み込む「熱」の方がずっと大事であると感じます。

冷静に考えてみると、この温かさの方がビジネスにおいても、より大切なことなのではないかとさえ思えてきます。

成功の目的を、個別の事案にとどめることなく、持続的な生命の再生産と考えると、灼熱のエネルギーよりも「温かさ」といった性格の熱の方が大事であることが自然にわかるかと思います。

さらにこれは、一部の人に求められる「情熱」よりも、ずっと裾野が広く多くの人に幸せをもたらすものであるといえます。

 

 

強調したいのは、どちらが大事かということではなくて、「情熱」や「太陽」のようなエネルギーにばかり偏ってしまい、そうした力ではない別の「熱」「温かさ」のようなものの意義が見えなくなってしまっていることの危険性に気づくべきだということです。

近代の歴史で「太陽」「太陽暦」「アマテラス」などの優位が強調されるばかりに、一方で存在が忘れられてきた「月」や「陰暦」の再評価を考えるほど、わたしはこんなようなことを最近しきりに感じてます。

 

目指すは、

「太陽のような情熱にばかり偏ることなく、

回光返照の退歩を学ぶべし」といったところでしょうか。

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