かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

働かないって、ワクワクしない?

2010年05月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
働かないって、ワクワクしない?
アーニー・J. ゼリンスキー
ヴォイス

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アーニー・J・ゼリンスキーという人が書いたこの本、
古書でないと入手出来ないかもしれませんが、とてもよい本なので紹介させていただきます。

本の帯には、世の中で「もっとも危険な本」!!と書いてあります。

それだけこのタイトルは、働くことこそ美徳といった日本文化やプロテスタンティズムへの挑戦でもあるのですが、
読み進むにしたがって、単純に働かないことを推奨しているわけではなく、ひとの労働観、人生観を考えるうえで極めて重要な問題を提起していることに気づきます。

そもそも多くの人にとって「自由の拡大」は、最大の目標であるともいえますが、
個々の人々の「幸せ」を求めるプロセスを見ると、これほど難しい問題はないといえます。

自由の獲得のためには、当然誰もが、お金さえあれば、時間さえあればと思うものですが、
お金を獲得した人、時間を獲得した人すべてが幸せになるとは限りません。
むしろ、一度に多くのお金や時間を獲得した人は不幸に陥ってしまうことの方が多いとすら言えます。

表紙に掲げた原則は、
「自由な時間」を多く持っている人こそが、ほんとうの「豊かな人」、
より多くお金を稼ぐことより、自分のために時間を使うことを選択した人々、
ダウン・シフターたちのスローな生き方のすすめ。

ということですが、流行りのスローライフの提案が、本書の狙いではありません。

人の生きる幸せとは何かということを、鋭く問いつめた本なのです。
というのも、ダイレクトにそうしたことが書かれているわけではなく、
私の本書の読みかたが素直な見方をしていないから、そうとらえてしまうのかもしれません。
どちらかというと多くの論及は、たしかにスローライフに準じたダウン・シフターたちの興味深い事例に向けられています。

しかし、自分のために時間を使うとは、どういったことなのでしょうか?

意外とこれも簡単なことではありません。
自己発見とはなにか、という問いと同じだからです。


結論から言ってしまえば、いかに時間があっても、お金があっても、
人はクリエイティブなこと、創造的なことをしないと真の幸せには至れないということです。

確かにたくさんの好きなモノに囲まれることは幸せなことです。
しかし、所有することだけでは満たされないその先のものというのが、
ある意味では物質的にある程度「豊か」になった社会のおかげで見えてきたともいえます。

いやな仕事を我慢して得たお金で得る自由よりも、
少ないお金で自己実現できる生活の方が良いには違いないかもしれません。
これは生存の自由、食べていけることや生活の安全が保障された社会に至ってはじめて言えることです。

「モチベーション3.0」のことでも触れましたが、マズローの心理学の欲求段階の上位の欲求が、広く社会全体で認められ、時代そのものがそこに至れないと自己実現そのものも難しい段階になってきたのだという感じがします。

 この個人的な価値の追求は、結果的に社会性を伴わないと幸せにはなかなか至れない現実があり、言葉を変えると、自分を移す鏡(文章や絵画、音楽などの自分の作品、友人やビジネス上の顧客などなど)を豊かに持っていることが必須の条件でもあります。

 その上での「働かないって、ワクワクしない?」という問いは、自分の自由な時間を「働かないこと」にのみ向けるのではなく、嫌な労働、積極的になれない労働は無理にせず、はやくダウン・シフトする決意をして自分なりの自由な世界をみつけることが必ずしも後ろ向きの決意ではないということに気づくことこそがポイントなのかもしれません。



でも、わたしには、
だからこそ!
それらの創造的自由、クリエイティブな活動は、働かないことによって得るよりも
好きな仕事をすることで得る方が、はるかにたやすいことに思えてならないのです。

今いる場所を、創造的に面白くすること
このほうが、ずっと実入りもよく簡単で面白いことなのではないかと思います。

これまでの社会では、そんなことを言っても個人が勝手なことをすることの弊害を組織側が問題視することが多かったかもしれませんが、競争の激しい現代では、個人がより創造的にクリエイティブになってもらわないと、生産性のものもの限界があると気づきだしたようにも見えます。

このように突き詰めると、職場に留まろうが、そこから抜け出してダウン・シフトをはかろうが、自由にクリエイティブに生きることこそが、自分自身にとっても、まわりにとっても最善の選択になるのだと確信させられます。


私とこの著者との間を隔てているわずかな差というのは、
以下の文章にあらわれています。

 マイナス思考の人々をプラス思考に変えてやろう、といったような誤った望みな持たないこと。
リチャード・バックも言っている。「問題を解決しようと思っていない人の問題は、誰も解決できない」。
マイナス思考の人は変わらない。
万一変わるとしても、長い時間がかかる。
あなたにはそんな時間の余裕がない。
誰かを変えようとして自分のエネルギーを使う代わりに、自分をよくするためにそのエネルギーを使おう。



 ここに飛び込めるかどうかも難しいところです。

「本当の成功は、所有するモノや仕事で測るものではない。
私たちのアイデンティティはモノとは別の次元にある。
結局、重要な唯一のことは、現在、私たちがどう生きているかということだ。
何を学び、どれだけ笑い、どれだけ遊び、どれだけの愛を周囲の世界に注いでいるか。
それこそ、人生で本当に大切なことだ!」     (本書63ページ)

 そのために、少なく働き、よりよく生きることを著者は提唱しています。

著者は決して、出来る限り働くな、と言っているのではありません。
 仕事のための仕事は、私たちの幸福や人生の楽しみを損なう可能性があるということを言っているのです。


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なぜ 「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』

2010年05月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?
吉田 典生
日本実業出版社

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 2005年刊行の本で、古本で見つけた本の紹介ですが、最近「モチベーション3.0」のことや「働くこと」の意味を問い直し続けている問題意識の流れでどうしても書いておきたいことなので取り上げさせていただきます。



 自己啓発や従業員教育の本は、昔から数限りなく出ていますが、様々な研修、セミナーなども含めて、
概ね「できる人」は、何を聞いても、仮に下手な説明を聞いても、応用がきくので必ず自分なりに活かすことが出来る。

また「できる人」同士というのも、大概は多くを語らずとも、目次のような項目を提示しただけで理解しあうことが出来るものです。

ところが、「できない人」にとっては、いくら丁寧な説明を聞いても「できない理由」がある場合が多い。
根本姿勢から「できない理由」を探しているだけの場合も多い。
いくら言われても「できない」「したくない」なんらかの背景をかかえている場合も多い。

多くの場合、「できる人」にとっては、それが歯がゆいものに見え、
なんでこんなことも出来ないのだと理解しがたい世界のようにも見えてしまう。

ところが、本来の「できる人」とはそういう人のことをいうのではない。
「できない人」を「できる人」に変えられる人こそを、「できる人」というのだと著者は強調する。

私も、話の合う人間以外とつきあうことは、たしかに苦手な方なので耳が痛いことです。

わたしのまわりの多くの現実は、太刀打ちしがたい壁に囲まれていることばかりに見えるので、
まずは突破口を開くことのみに専念し、全体の底上げといったようなことは後回しにしていることが多い。

ところが、多くの成功している組織は、先進事例をつくることは確かに大事ではあるが、
全体の底上げの出来た組織こそが生き延びてその成果を定着させることに成功しているといえます。

どこでもそのために、繰り返し繰り返し意志の徹底をはかったり、トレーニングを重ねたりしているものです。
でも、それが実を結ぶかどうかの分かれ目をよく見てみると、単純な繰り返しと徹底だけではなく、
人間の個別性にどこまで対応できているか、ということに鍵があることが見えてきます。

「できない理由」とは、まさに十人十色であり、その個別性を理解せずに、
ただトレーニングを重ねたり、意志徹底のミーティングを重ねるだけではやはり解決には至れない。

実はここにこそ、対従業員であっても、対顧客の場合であっても共通した根本課題があるといえるようです。
現場それぞれで出くわした相手を、常に特殊な相手ととらえずに、
その個々の特殊な人間こそが、社会を形成している「ごく一般的な人間」であるのだという前提にたてるかどうかということです。

本書の書評ブログなどを見ると、必ずしも通常のビジネス書と比較して高い評価をしているものが多いとはいえない印象もありましたが、
私は、1ページごとに考えさせられ、とても読み終えるには時間のかかる本でした。

自分が「できる」側にいるわけではありませんが、改めて「底上げ」の重要性と、
組織や社会を考えるときに、個別具体的な関係にどれだけ対応できるかこそが、
社会の「豊かさ」の基本であることを考え直させてくれる本でした。
 

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タイムマシンと歴史学

2010年05月15日 | 歴史、過去の語り方
最近テレビで、様々な最先端の望遠鏡で何億光年先の星を見る技術を見ました。

何億光年先の天体を見るということは、何億光年も昔の実際の姿が見えるということなので、宇宙の始まりの様子を観察することにつながるということです。


と、いうことは・・・


科学素人の私はすぐに連想するのですが、


何億光年先とはいわず、銀河系のすぐ隣りあたりの星に鏡でも置くことが出来たならば、
(光の速さで数百年から数千年程度の距離でいいのです)

太陽からの光がほんの十分足らずで届くことを考えれば、
太陽系近くの銀河系内のどこかの星に、ちょいと鏡をおくことが出来ただけで、
数百年から数千年程度の昔の地球の姿、日本の姿などを見ることが可能なのではないでしょうか。

何億光年先の様子を解像する技術に比べたら、はるかに高い精度で、地球の様子を見ることが出来るのではないかと思うのですが、誰か真面目に研究している人はいないのでしょうかね。

鏡に反射して映る映像ですから、何百年前の様子がリアルタイムで動いていることになるわけで、歴史上の大問題の真実、古代史の謎などが議論の余地もないほどの事実を突き付けられるわけです。

なにも歴史人物を追うまでの夢の解像度はなくとも、昔の地球表面の地形や環境を見れるだけでも、大変なことです。

今の天体観察の技術を見ていると、決して難しい技術ではなさそうに思えるのですが、どうなのでしょう。

もちろん、光の速さレベルで数百年、千年先の天体に鏡をおいてくるなんて、当面不可能なことでしょうが、月面のような天体に光や電波を反射させてその一部をキャッチするとかは、ありえないだろうか?

軍事偵察衛星の解像度を天文学レベルまで通用させることは、さすがに次元の違いを感じますが、今の天体観測映像のすごさを見ていると、なんかそう遠い先の技術でもなさそうな気がしてなりません。



ま、近い将来そんなこともありうるわけですから、誰も見ていないからといって、くれぐれも悪いことはしないように心掛けることにしましょうね。
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桜のいのち、北の果てにて

2010年05月08日 | 暮らしのしつらえ


   北海道大学キャンパス


私にとって、今年ほど桜漬けだった年はない。
先日は、わけあって北海道にまで行って桜を見てきました。

おかげで桜に対する見方も、随分変わりました。

そんなことのひとつで、よく知れた「桜伐るバカ、梅伐らぬバカ」という言葉、今は違うのだという話を私は今年になってはじめて知りました。

原則から間違っていたのか、例外が認められるだけなのかはよくわかりませんが、
この常識を覆すきっかけは、青森県弘前公園のソメイヨシノらしいのです。

自ら繁殖することの出来ない桜は、寿命が40年から60年くらいと言われています。
この自ら繁殖することの出来ない樹という意味もよくわからない。

この日記でも紹介したヒガンザクラなどは数百年も生き延びますが、今盛りの大半のソメイヨシノの多くが戦後植えられたもので、40~60年の寿命をむかえるものが多いと話題にもなっています。

ところが、この弘前公園のソメイヨシノの一番古い樹は今年で128年にもなるとのこと。
さらに百年級のものが300本も存在しているという。

こんな長寿の桜が群生している例は、他にみられないそうです。


その背景は、青森県が同じバラ科であるリンゴの高い栽培技術があることによるようです。
リンゴや桜が同じバラ科だということも驚きですが、リンゴの栽培で培った剪定技術や施肥、根回りのチェック、害虫よけなどこまめに手をかけることが、長寿の桜を生むことになったというのです。

長い間、伐ってはいけないと言われたものを伐ってもよいという判断に変わった根拠のひとつは、長寿系の桜は主幹が朽ちているにもかかわらず、新たに細い不定根、不定芽が成長し、それが太い幹にまで成長することが専門家の間で確認されていることによるようです。

挿し木や接木などをみていると、確かに容易に想像はできることです。
多くの樹は、はじめから根と幹と葉っぱが別々のものとして成長するのではなく、それぞれの細胞のある場所が、そこにふさわしい機能を育てていくようなものです。
たまたま地面の下にあった幹が根となっていったに過ぎない。
たまたま地上にああった幹が葉っぱをつけたに過ぎない。

実をつけなくてどうやって種が存続できるのか、不思議でなりませんでしたが、
人間の力に頼らなくても現存する桜は、細々とながらも自然界で生き続けてきたはずです。

子どものいない私は、その生命力にひと際共感してしまいます。

このブログのひとつのテーマでもある「生命の再生産」は、なにも雄と雌との生殖によるものだけではありません。
受け継ぐべきものがあれば、きっとそれにふさわしい場所に受け継がれていく。

今年は、桜によいことを教わりました。

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帰りたいのか帰りたくないのか不如帰

2010年05月06日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

ここ一週間ほどのことですが、渋川市の鳥「ホトトギス」の魅力を伝える三つ折りパンフをつくろうとして、ホトトギスの短歌や俳句を調べていたところ、「不如帰」という言葉の「帰るに如かず」という意味が、「帰りたくない」「帰らないでほしい」の意味とは限らず、「帰りたい」の意味でも使われることもあることを知りました。

 ことの始まりは、妻に「ホトトギス」について詠っているいい歌や俳句をリストアップしてくれるように頼んだことからでした。
 すると、たくさんある良寛のホトトギスを詠んだ歌のなかで、良寛はホトトギスを「帰るな」とか「帰りたくない」の意味ではなく、望郷の念などの表現で「帰りたい」といった意味をかけて使っているらしいというのです。


  桜花 はなの盛りは過ぐれども
    次ぎて聞かなむ 山ほととぎす


  ほととぎす 汝が鳴く声をなつかしみ
      この日くらしつ その山のへに

 

 徳富蘆花の『不如帰』のタイトルの意味をはじめとして「帰るに如かず」は、通常は「帰るには及ばない」の意味でとらえていたのですが、良寛はまったく逆の意味にホトトギスをかけているので、どういったことなのだろうと疑問に思い、漢文の参考書などをいろいろと調べてみました。

 もちろん良寛さんは漢字の「不如帰」をつかっているわけではないので、どのような使い方をしてもおかしくはないのですが、「ホトトギス」という言葉からなにを連想するのかを考えることはとても大事なことです。


 すると「不如」について高校の漢文の参考書では、
「AはBには及ばない」のほかに
「AよりBのほうがよい」
の意味もあることを妻がみつけました。

 なるほど、それならば「帰るほうがよい」という解釈も成り立つ、と一度は納得しかけたのですが、用例でよく使われるの「百聞は一見に如かず」で考えると、「百聞は一見には及ばない」でも「百聞よりも一見のほうがよい」でも矛盾しない同じ意味になり、決して逆の反転した意味にはなりません。

百聞(A)は一見(B)には及ばない
百聞(A)より一見(B)のほうがよい

解釈のどこがどう間違っているのでしょうか。漢文は難しいですね。

どうやら漢文では、Aに対してBを強調することこそが真意で、それが「帰りたい」か「帰りたくない」かは、文脈によって決まるようです。

つまり「一見」や「帰」の字を強調することだけがポイントで、その字を修辞する表現がどうなるかは文章の流れで決めなさいということのようなのです。これは漢文そのものは矛盾を感じず、それを日本語に訳すことからおこる問題なのでしょうか。曖昧な表現が多いのは日本語の際立った特徴かと思っていましたが、どうやらそうとも限らないらしいですね。


以上は、高校の漢文授業上の解釈で、ホトトギスという鳥の名前の歴史からの正しい説明は、以下のサイトを参照してください。

    トトギスの凋落(3)〜「不如帰」、帰ることが出来なかったのか?

 

こうした漢文と日本語の違いに気付かせてくれる次のような興味深い逸話があります。

日本に留学した魯迅が、中国で見かけない四書五経などの古典を、日本の学生たちが読み下し文で学び理解していることに驚愕したそうです。
文法があいまいな漢語ではさまざまな文意にとれてしまうため、論語などはそれまでさまざまな注釈が加えられ、さらにその注釈に注釈を付け加えるということが行われ、しかもその注釈もさまざまな解釈があり、わけのわからない状態になっていたのです。

魯迅は、日本語による読み下し文によって、それまで漢文では理解できなかった四書五経の内容をようやく理解できたといいます。

よく日本語は、主語がはっきりしない曖昧さばかりが指摘されますが、意外とその表現の正確さにおいて優れた面があることをこの逸話は私たちに気付かせてくれます。

考えてみると、インド仏教は鳩摩羅什が中国語に翻訳したことで、インド以上に仏教の理解を深めることができ、その漢文の様々な仏教経典は、日本語に置き換えられることで、さらにその理解を深めることができた歴史があるのかもしれません。

 



話を戻しますが、このことに私たちがこだわるのは、渋川市の鳥としてホトトギスが選ばれた理由が、徳富蘆花の小説「不如帰」の冒頭の大事な場面で伊香保温泉が使われていることによると思われることで、さらにこの小説のストーリーとタイトルからは、伊香保から帰る旅人を白いハンカチを振って別れを惜しむイメージも連想できるからです。

これに「帰りたい」などというイメージが割り込んでしまったら困る。
もっとも、その帰る先も、自分の家なのか、再び伊香保温泉に帰ることなのか、どちらの解釈もあるのですが。

そんなこともあって、いろいろな参考書を妻と真剣に見比べてみたのですが、今の高校生は、こんな説明でよく理解できるものだとつくづく感心させられました。

妻はこのやっかいな説明のことや、私からいろいろ面倒な仕事を頼まれたりして、とうとう機嫌が悪くなってしまいました。


ああ、不如帰。

ほんとうのところは帰りたいの?
帰りたくないの?

どっちよ。     



帰りたいのか
帰りたくないのか
はっきりしないなら、もう一泊していけ
ほととぎす

このままでは伊香保温泉のキャッチコピーも
こんなふうになってしまう。


追記

漢文で「不如」の説明をいろいろ見てみましたが下記の説明が一番誤解をうまないよい例に見えました。

「AはBに如かず」」は多く「BはAよりも優れている」という意味にとりがちだが、
優劣に関係なく「Bの方がAよりも程度が激しい」という意味。

        『一問一答ハンディスタイル!漢文』 学研
              高橋浩樹 著

 

 

また、「ホトトギス」は「時鳥」といった表記にも見られるように、春を告げる鳥、時を告げる鳥でもあります。

万葉の語句のひびきでは、そうしたことから「時すぎる」「過ぎる時」などの意味にも饗応します。

春のウグイスなどに比べると、ホトトギスは、来るのが待ちこがれるとともに、その場に長く滞在することなくあっというまに過ぎさってしまうイメージがあります。

先の「帰りたいのか」「帰りたくないのか」の解釈にも、つきまとう悲しさとともに、判断をもたもたしていたならばあっという間に過ぎ去ってしまうかのスピード感が、ホトトギスのイメージにはつきまとっている気がします。

 

     ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたもすべなし    

                         巻15 3785

 

関連記事  一声月が啼いたかホトトギス
http://tsukiyono.blog.jp/archives/1077444470.html

 

 

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