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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

鶴舞う姿に込められた「上毛かるた」の熱い思い

2020年01月01日 | 鶴舞うかたちの群馬県・広域情報

ある本でお能の舞いや謡に関する文を読んでいたら、ふと気になったことがありました。

群馬県人なら誰もが知る「上毛かるた」のことです。

有名な最初の札は、単なる「鶴のかたち」の群馬県ではなく、「鶴舞う」かたちの群馬県となっています。

冷静に地図を見れば、群馬県の形は「舞う」というより、ただ「飛んでる」形にしか見えません。

 

鶴が「舞う」というならば、こんな形でしょう。 

 

まあ、地図の向きを変えれば舞っているように見えなくもありませんが。

ただ、このときに私が気づいたのは、

単に「鶴のかたち」の群馬県とせずに「鶴舞うかたち」とした「上毛かるた」選者のセンスのよさです。

はじめは、言葉の響きや語呂からそのようにアレンジされたものではないかと思っていたのですが、このことをきっかけに「上毛かるた」の制作経緯を見てみたら、そこにはとんでもない制作者の熱い思いが込められていることを知りました。

 

実は、「上毛かるた」の最初の案では、実際に「つるの形の群馬縣」となっていました。

 

鶴舞う形の群馬県という表現になる元は、古くは明治時代の石原和三郎作の小学校唱歌に 

「晴れたる空に舞う鶴の姿に似たる上野は」と唄われていたようです。

いつの間にかこの唱歌は歌われなくなり、忘れられてしまったようですが、
やがて戦争が激しくなると、戦意高揚のために群馬県の形は、
「ワシ」や「タカ」に見立てられたりもしたようです。 

このような群馬のイメージがあるなか、上毛かるたが制作されたのは、昭和22年のことです。

この上毛かるたの企画・構想を中心になってすすめた浦野匡彦(まさひこ)は、戦時中は公職で満洲にいました。
押し寄せるソ連の侵攻から多くの同胞を失いながら、やっとの思いで祖国に帰ったとき、そこには、
焼け野原からの復興を願う思いと、シベリア抑留者をはじめとする帰国を待ち望む同胞たちへの思いがありました。

そんな思いは自ずと、遠い異国から日本へ飛んでくる鶴のイメージはダブって見えたことと思われます。

私は、その浦野匡彦という制作者のことを
西片恭子『上毛かるたのこころ 浦野匡彦の半生』(中央公論事業出版)
ではじめて知ることができました。  

満洲、中国で大使館員などをしていた浦野は、帰国後、外務省には復職せずに、戦争犠牲者救援活動などを行いながら、出身地の群馬県庁に身をおき、まだ敗戦間もない時期に文化課を置き「こんなときだからこそ」と児童福祉法の制定に尽力し、その精神の中核として子ども達にも親しめる「いろはかるた」の構想を始めます。

このとき、日本はまだ敗戦直後の米軍の厳しい占領下にありました。

経済的にも厳しいなか、かるた制作の紙も入手できないような時代です。
浦野はGHQからの支給に頼るという方法もありましたが、独自財源を確保すべく「はらから飴」の企画販売を行うなどして、独自にその準備をはじめていきました。

「上毛かるた制作主旨書」には、

ここに本会が「上毛かるた」を発行せんとするのは、我等を育んだ郷土の風物、先駆者、歴史等から幾多の希望と教訓を汲みとり、祖国再建の原動力となさしめんとするものに他ならない。
然して、その発行による収益は、戦争の打撃に依って窮乏の生活にあえぐ多くの犠牲者に更生の機会と意欲を与えるべき援護資金に充当し、より平和な郷土を、ひいては新しき日本の建設に役立たしめ様とするものである。

と表現してます。 

そして群馬文化協会を立ち上げ、民営軌道にのせて、歴史教育家の丸山清康、絵を担当する県立前橋工業高校美術教師の小見辰男と作業がすすめられ、上毛新聞に「上毛かるた」に取り上げる人物、史跡名勝、社寺、物産などの募集告知をしました。

 

そこでようやく、私が長い間、なんでこの人が上毛かるたに載らなかったんだだろうと長年疑問に思っていたことが、やっと解明できたわけです。 

まず本来、上毛かるたにのっていて良さそうな人物に以下の4人がいます。

① 国定忠治

② 小栗上野介

③ 高山彦九郎

④ 上泉伊勢守信綱

この他にも欲をいえば、群馬県下各地のその書が残り天皇にも書を教えた角田無幻、有名な八甲田山行軍の惨事の時、別ルートで見事に生還していた福島大尉、上毛かるたは必ずしも群馬生まれにこだわっていないので所縁の深い人として若山牧水とか、まだ新しくてダメだったのか萩原朔太郎とか、アメリカのコロンビア大学に日本学を築いた無名の巨人、角田柳作とか、いろいろ出てきますが、やはり上記の四人は比較的異論なく名前が出る人物です。

この4人の中でも、戦後の脱軍国主義、脱国家主義をかかげる米軍GHQ監視下という条件で考えれば、当然、高山彦九郎は脱落させられるのはわかります。

次に国定忠治も、米軍からしたらサムライ、ヤクザとして除外の対象に見られるでしょう。

わからないのは小栗上野介です。
旧幕府内にあって、最も合理的で開明的な立場にあった小栗がなぜ入れられなかったのか。
浦野も最も尊敬すべき人物として、西郷南洲と小栗上野介の二人をあげていたほどです。
残念ながら、この点は占領軍とのやり取りも想像がつきません。

最後の上泉伊勢守は、剣豪といえば講談で語られるような有名人に比べて実力はありながら、当時の知名度があまりに低かったのか、投票でもかろうじて名前が出ていた程度だったようです。 

 

結果として、国定忠治、高山彦九郎が外された分に、杉木茂左衛門と船津傳次平が入ったようです。

でも、そこで、GHQにダメと言われても、あっさり引き下がるような浦野ではありませんでした。

その外されることになった国定忠治、高山彦九郎などのイメージを

「雷と空風、義理人情」の表現のなかに込めたのです。

それだけではありません。

実は私もずっと妙に思っていながら、深く考えず気付きませんでしたが、
「上毛かるた」 には、赤札というのが2枚だけあります。
その2枚だけの赤札が、上毛かるたの箱を開けた時に、一番上になって見えるのです。

もちろん、伊香保温泉日本の名湯が一番上になるのは、イロハの「い」だからわかります。
でも雷と空風の「ら」が赤色になる理由、一番上に来る理由はなんでしょう。

ここに浦野が、GHQへの反骨精神を込めた強い思いが隠されていたのです。 


外された国定忠治や高山彦九郎、小栗上野介などの名前を、いつか復活できる時が来ることを願って、最も忘れられないように目立つ方法として仕掛けられたものだったのです。 

私もよく誤解されますが、これは何も国粋主義や国家主義の復活を願うものではありません。

確かに浦野も靖国への思いなどをめぐって、周囲で物議をよんだ側面もありました。

しかし、おのれの信じる道を懸命にいきた偉人として、立場を超えて学ぶものは多いものです。

 

詳しくは、ぜひ『上毛かるたのこころ』を手に取って読んで欲しいのですが、残念ながら絶版のようなので、図書館などで探してみてください。群馬県下の図書館ならば、かなりの確率であることと思います。

 

このような「上毛かるた」制作の経緯を知るほどに、ただ「鶴のかたちの群馬県」であってはいけない

「鶴舞うかたちの群馬県」

の表現に込められた制作者の熱い思いというのを感じます。

それは必ずしも群馬県の知名度を上げることばかり考えて、ガツガツと攻めたりプロモーション活動を行うこととは限りません。

鶴のように自らが美しく舞い羽ばたくことへの願いが、私たちに託されたものであると思います。


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