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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

決まった目標やプロセスを極める道(どう)と、未知の世界を踏み固めていく道(みち)

2022年04月05日 | 歴史、過去の語り方
しばらく前から、地域学がふたたび盛んになりました。
それは、江戸、明治の郷学から始まり、戦後の郷土史ブームなど何度かの波があります。

ただ、江戸後期から盛んになった郷学が、中央の儒学、朱子学に対抗する「実学」志向が強かったのに比べると、最近の地域学は、地元の歴史を掘り起こす郷土研究の志向がやや強いような気がします。補助金もその方が出やすい。

どちらにも、かけがえのない意義があるのですが、私は、それを群馬学とか東北学とかの○○学としてしまうことに、どうもいつも違和感を感じていました。
かつて、学問の世界は○○学としてしまうから教条に陥るのだと、日本本来の○○道とすべきだとこだわった時期がありました。
柔道、剣道、茶道等々。
ところがこの○○道も、結構、型に徹することを重視するあまりに、教条化が免れない。
本来は、公式主義を徹底することでこそ、本当の個性が育つというのが伝統芸能などの素晴らしさと言われ、私もそれは正しいと思っています。

でも、地域学では少し話が違うだろうと。

そんな違和感を解決してくれたのが、○○道(どう)ではなく、道(みち)と読む視点でした。
道(みち)には、人間一人一人が踏み固めてつくるものといったニュアンスがある。迷いながら、時に踏み外しもしながらです。

この点が、出来上がった道を極めるのと随分違います。
これは、どっちが正しいかの問題ではなく、どちらに重きを置くかの問題です。
あるいは皆んなで歩き考える時と、一人で開拓していく時の差かもしれません。

さらには、そうした出発点の差ばかりでなく、ゴール設定の差も見えてきます。
私は学生時代に、社会科学的認識は文学的表象にまで高められなければならない、としきりに叩き込められました。
つまり、概念的認識を個別具体的な特定の人間の姿(映像)で語らなければならないということです。

それをこの道を、(どう)ではなく(みち)とする視点が示してくれました。

白洲正子は、お嬢様育ちながらも、道(どう)を極めながらも意外と(みち)を探求していて、
それが彼女の文章の輝きをとても増している気がするのです。
それと山田宗睦は、一貫して歴史文化的、哲学的「道」をを探求し続けた人です。
 
 
みちは、未知でもありますが、未知の世界に踏み込む覚悟をもって、手さぐりでひとつひとつ自分の足で踏み固めていく基本姿勢です。

これはドキュメンタリーの手法にも通じます。

最近、NHKなどで市井の人びとの日常を取材するドキュメンタリー型の連続企画が急に増えたような気がします。
「ガイロク(街録)」や「駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」など。
他に鉄道で旅をしている人の取材番組も何かあった気がします。
 
これらを通じてみる市井の人々のドラマには、「普通」ではない体験も多く、演出されている面も少なくないかもしれませんが、それでも、世界にはこれほど様々な生き方や体験をしている人々がいるのだと感動を覚えます。
これも時代の軸足が変わってきていることの現れのように感じます。
 
もちろん、個別、具体的なものが特殊な形態、分類を通じて普遍的なものに通じていく循環は基本です。
でも今の時代は、○○学より、○○道より、道(みち)こそが何より求められてるような気がしてなりません。
 
つまり、ゴールやプロセスが決まったものを極めていく「道(どう)」ではなく、まだゴールも見えない、プロセスもわからないような道(みち)を、その都度迷いながら踏み固めていき、後から通る人が、少しだけ歩くのが楽になるような道をつくることこそが、生きていくことのベースなのではと感じるのです。
 
 あくまでも、道(どう)がいけないということではなく、ものごとの優先順位の話です。
 すべての道(どう)は、最初は道(みち)からつくられたものだからです。
 世の中が「進歩(人工社会化)」したおかげで、この順番が逆転してしまっているのではないかと思います。
 
 
 
 
 
 と、本来はここで話は終わらせておいた方がよいのかもしれませんが、道(どう)の問題には、もうひとつやっかいな問題があります。
 それは「天道」といった、先天的なもの、人間の意志にかかわりなく存在する「ものごとの道理」の世界です。
 
 中国の皇帝や日本の天皇は、この天の道、道理にしたがっているかどうかでその存在価値や地位の保証が約束されるというもので、これは通常の人びとが努力の積み重ねだけでは容易にたどりつくことは出来ない世界です。
 老荘思想などは、こういった視点とも交わっています。
 「天の理」や「天の道」と必ずしも同じではありませんが、「無為自然」の姿でもあると。
 
 これはとても説得力があり、納得もいくのですが、それが常に具体的な人間の存在を通じてしか表現できないので、いつでもそのときの皇帝次第、天皇次第であるという現実が避けられません。
 また「無為自然」の道理であっても、特定の人間の理解や解釈に依存しているので、これもまた容易ではありません。
 
 したがって、人間を理解の主体として前提にする限り、絶対的な何かをおくことはとても危険な道であると言わざるをえません。
 
 それでも私たちは「究極の〇〇」を、どうしても求めてしまいがちです。
 その強い探究心があるからこそ、前進していけるのですが、絶対的な何かを固定した瞬間に進歩は止まり「教条」への道がはじまってしまいます。
 
 兎角、この世はやっかいなものです。
 
 だからこそ、
 
 「学」や「道(どう)」も大いに活用しながら、迷いながらも、たとえ時間はかかっても、自分の足で少しずつ踏み固めていく道(みち)こそが何よりも大切なことと思います。
 
 
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