かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

わが家の営業ツール

2014年04月28日 | 暮らしのしつらえ

ネタばらしをあまりしたくない気持ちがないわけではありませんが、

これからの時代のスタンダードスタイルだと思うので、この程度のことは公開します。

 

今日は、これからの仕事の営業打ち合わせを、わが家でしました。

どんな仕事かは、1年後の公開お楽しみとして、

以下の写真には、たくさんの営業ネタが入っています。

 

 

エイジング効果を出す塗装。

エアコン隠し。

インテリアとして自由にレイアウトできる棚。

歴史的価値がこれから上がるテーマの本。 

 

 

生命力のある絞り込んだ食材の活かし方。 

 

障子の意匠デザイン 。

 

ひとつひとつは、どうってことない工夫の数々ですが、プロの建築デザイナーなど使わずに、お金ばかりかけた高級料亭や茶室の「しつらえ」に勝る効果をねらってます。

今日は説明する前に、かなりの部分にクライアント側が反応してくれたので、とても嬉しかった。

 

これからの仕事は、なにを攻めるにも、

「本」だけ、

「食」だけ、

「住」だけ、

「衣」だけ、

では真の価値が伝わらない時代になりはじめているのだと思います。

 

それは、必ずしも「総合的」という意味ではありません。

 

日々の営みのなかで、何に価値をおいて「暮らし」「働き」「楽しむ」かということです。

まだ、多くの人には信じてもらえないでしょうが、年金暮らしの近所のじいちゃん、ばあちゃんでも、収入の少ない若年層でも、実現可能な豊かな暮らし。

そんなことが可能な時代になってたことを立証していく仕事ができてほんとに嬉しい。

これらの発想は、あと20年くらいのうちには、普通の和風住宅建築の世界でも常識になっていくことと思っています。

 

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日常のなかの「安心」

2014年04月22日 | 無償の労働、贈与とお金

毎週日曜の朝は、月夜野から渋川へ向かう出勤途上、妻を渋川の家におくりとどけています。

この事情を詳しく説明するのはやっかいなので、ここでは省きます。

いつもその道は国道17号を使わず、景色の良い三国街道、高山村を通っていきます。

先日のその車中での会話、大事な話をしたような気がするけど、早くも忘れそうなので、記憶のあるうちに書きのこしておくことにします。

 

 

どこからどうなってこの話になったかは覚えていませんが、「石の上にも三年」のことに話がおよんだ。

なにがあっても「石の上にも三年」。我慢する意義を妻が語った。

多くの苦労を経験している妻は、それが自分の糧となり肥やしとなっている自負がある。

わたしも妻のそうした面は、見かけの華奢な体からは想像つかない内に秘めた強さのあらわれとして、とても頼もしく、また心強く感じています。

 

かたや私の方はといえば、これといった苦労はほとんど経験することなく、

困ったことがあっても、ほとんど自分の都合の良い方に流れる「運の良さ」のみに救われっぱなしで、この年まで「のほほん」と生きてきてしまった。

この話題、どうもこっちの分が悪い。

 

でもね。(形勢を立て直さねば)

同じ「石のうえの3年」でも、その過ごし方でまったく違ってくるんじゃないかな。

ただひたすら我慢して、しかめ面で耐える3年とでは。

耐える力を訓練する意義は間違いなくあるけれど、

それが良い方に活きるかどうかは気持ちの持ち方の問題が大きい。

 

3年間はその場を逃れられないと腹をくくり、すべてを受け入れ、

笑顔でいられれば、運命は間違いなく良い方向に流れる。

それが出来れば文句はないが、たしかに普通はなかなかそこまでは出来ない。

そうまではしなくても、自分の今を受け入れ、他人のせいにしないだけで

まったく違った価値の3年の過ごし方にはなる。

 

でも、まだ余裕があるときはそんなこと言ってられるけれど、

えてしてたったひとつのつまずきが、

まわりのなかのたった一人との関係のゆがみが、

自分の体のほんの一部分の不調が、

まったく違う世界に落とし込んでしまうもの。

 

たったひとつのことが。

 

冷静に考えれば、その問題以外の

残り99の問題はスムーズに運んでいるのに。

10人中9人との人間関係はうまくいっているのに。

体の他のすべての機能は健康にはたらいているのに。

 

問題がおきても、他の圧倒的部分は、問題なく動き、機能していると

気づくことができれば解決、回復への展望は持てそうなものだけど、

えてして誰もが、たったひとつのつまずきに、

すべてが不安、絶望の世界に入ってしまったかのように思ってしまう。

 

こころの動かし方ひとつで、人はなんとも逞しくも情けなくも変わりうるものだ。

 

車中での妻との会話は、だいたいこんなところまでの内容でした。

 

 

ふりかえってみるととても大事な話であったと思うので、ここから先は、その後の補足になります。

 

東日本大震災と福島の原発事故があってからか、自分たちの暮らしの「安全」や「安心」とは何だろうかといったことは、たしかにかつてなく意識するようになった気がします。

 

ちょっと言葉を整理してみると、

「安全」というのは、文字通り「全て」が保証されることを前提にした表現で、

「99%の安全」とはなかなか言わないし、これは説得力がない。

10分の1だろうが、100分の1だろうが、1000分の1だろうが、

「完全(すべて)」でないと「安全」とは言い切れないのがその言葉の特質。

 

他方、「安心」の場合は、数字の問題ではない。

 

先の安全の確率が、99%であろうが、97%であろうが、

60%であろうが、さらには30%であろうが、

「信頼」できるかどうか、「信じる」ことができるかどうかが鍵になる。

 

「安全」は「全て」かどうかの問題。

「安心」は「心」の持ち方、ありようの問題であるといえます。

 

多くの企業は、「安全」を保証するためにものスゴイ努力を重ねて、事故の「確率」を限りなくゼロに近づける努力をしています。

にもかかわらず、相次ぐ不祥事をみると、いかに高度な「安全」が保証されていると言われても、それを信じるに値する数字として額面通りに受け取ることはできない。

 

原発の安全性や放射能被曝の問題などは、まさにそれで、

どのくらいのレベルであれば安全なのか、どんな基準値を示されても、今のわたしたちに「安心」をもたらすものではありません。

低線量被曝の問題、日常あふれる他の発ガンリスクとの比較の問題も同じに見えます。

数値の確率を上げることは、もちろん必要不可欠ですが、それだけでは「安心」できない、「信じる」ことができない。「信頼」することができないまぎれもない現実があります。

近代社会は、あまりにも「安心」を数字や量だけにやよりすぎてきたように見えます。

 

数字、確率の裏付けがなければ安心できないのは事実であるかのようですが、実態をみると何か違うだろう、と思っていたところ、この気持ちをといてくれる表現に出会いました。

 

小林秀雄の『学生との対話』(新潮社)のなかに

「信ずるということは、責任をとるということです。」

「信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。

 そうすると人間は集団的になるのです。」

といった表現がありました。

 

かつてどこかに「信じる勇気」のことを書いたことがありますが、どれだけの裏付けがあれば、わたしたちは「信じる」ことができるのでしょうか。

「近代科学」という新しい宗教にどっぷり浸かって生きて来たわたしたちは、あまりにも数字と論理にたよることに慣れすぎたように思えます。

99%の確率なら大丈夫なのか、

96%では不安なのか、

99.9% 99.9999%なら安心なのか。

立証する論理の緻密さ、論文の不備のない完璧さこそが保証なのか?

 

 

どんなにこれらを突き詰めても、到達できないゴールがあることを、現代の多くの企業や組織が気づいていないように見えます。

 

それは「信じる」勇気と「覚悟」の問題です。

 

先の妻との車中での会話でみると

10のことがらの内、ひとつがうまくいっていないと不安になる心と、

10のことがらの内、9もうまくいっているのだから大丈夫だと思えることの違いです。

このふたつのギャップは、確率を上げることでは解決しません。

 

どんなに数値や論理を突き詰めても、

どこかで「信じる」勇気をもつこと、

「覚悟」を決めることを抜きには、「責任」をもった仕事には至れないのではないでしょうか。

 

確かに企業や組織にとってリスク管理はとても大事です。

でもそこで最も重要なのは「責任」の所在だと思います。

それが明確でないまま数字を突き詰めていても信頼には至れません。

 

 

ここに大きな思考と心の「飛躍」があることを多くの人は気づきません。

昔の人は「背負うこと」の価値、重みを知っていたのだと思いますが、

現代人は「背負わず」に、

ただひたすら「論証」することを大真面目に追求しています。

 

わたしたち見ている側からすると、「背負わず」にひたすら「論証」する説明とは、どう譲っても「言い訳」にしか見えません。

 

この話、通じるでしょうか。

 

「信じる」こと

「覚悟」すること

「責任」を負うこと

 

「安心」というものは、これらの意識を取り戻さない限り

今の社会にうまれるものではないと思うのです。

 

が、今の公務員や、経営難に追い込まれている企業の中の社員の姿をみると・・・

 

 

そういう私自身、

やはりサラリーマンという立場でいたときは、どんなに自由、勝手きままにさせてもらっていたとはいえ、この「責任」と「覚悟」、「信じる勇気」からは遠いところにいたことが、今になってよくわかります。

 

 

 

 

 

 

 

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多様で厚みのあるはずの私たちの「心の習慣」

2014年04月16日 | 暮らしのしつらえ

先日、筑波山へ登った帰りに筑波山神社に立ち寄り、その立派な山門にまず驚かされました。



本堂もとてもデカイ。 

家内と手を合わせようとしたとき、 
あれ?ここは神社?お寺? 
と思わず聞いてしまった。 

筑波山神社。 



でっかく書いてある。 

でも、つい普通の神社の社や拝殿のイメージではないので 
手を合わせるのか、パンパンとたたくのか、ふと迷ってしまう。 



そう、ここもかつては修験道の寺であったのでしょう。 

明治政府の修験道廃止令によって強制的に神社に看板をかえさせられた寺だと思われます。 

仏教、神道とともにかつて修験道は同等の勢力を持っていましたが、今は、限られた伝統行事などを通じてしかその姿をみることができなくなっています。 

歴史的役割を終えている信仰の姿なのかもしれませんが、長い歴史を持つ信仰が、強制的に抹殺されたままになっている現実は、やはりなんらかの心のアンバランスをその後の日本人のくらしにもたらしているのではないかとも思います。 

それは修験道が良い信仰だから単純に守り復活させましょうというようなことではなく、ひとつの心のありようが、政府の強制で一元的な国家神道のもとに、いとも簡単に(実際にはそう簡単でもなかった)葬り去られたままに異常さを問い返したいのです。 

八百の神の例を出すまでもなく、私たちのくらしは多様な層が折り重なった豊かな心の営みに支えられているものです。 

所属の宗派を問う西洋とは異なり、一見、矛盾だらけのように異なるさまざまな信仰を場に応じて使い分けることを、わたしたち日本人は普通の「心の習慣」として持っています。

それが、明治政府による天照皇大神を筆頭にする一元的な信仰形態に、あまりにも強引にまとめられたままに今もなってしまっているのです。

アマテラスやイザナギ信仰がいけないというのではなく、それも古代から脈々と国家の中心に息づいてきた信仰なので大事なものです。

しかし、明治政府の宗教諸政策は、敗戦後の戦後民主主義の改革と経済成長の間も実態は受け継がれました。

お伊勢参りや善光寺参りなどの講庚申信仰など道教系の民間信仰、竃の神、厠の神、稲荷神社や太子信仰、天神様・・・など、交錯したあまたの日常の神々とともにあった私たちの「心の習慣」。

それは葬式や結婚式に接する商売としての儀式ではなく、文化財としての建築でもなく、たくさんの自主的な習慣に支えられた「日常の祈り」の世界でした。

 この巨大な寺院建築をみたときに、私たちが文化財に接することだけではなく、気づかない間に失われた「心の習慣」のあまりの大きさに、いまさらながら気づかされるのです。

 

 

 かつて修験道が栄えていたのは、一方では加持祈祷や薬売りなど、現実に多くのビジネスが成立してからでもありますが、この立派な寺院建築の今の姿は、私にはあまりにも巨大に「空洞化」した語られることのない大きさとしてしか見ることができませんでした。

参拝者が多く繁盛していれば、いいじゃないか・・・ では、

ちょっと納得がいかない姿を感じてしまいました。

 

 

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未だ米のなる木を知らず

2014年04月03日 | 歴史、過去の語り方

鈴木牧之の『秋山紀行』のなかには、
深く閉ざされた山奥で暮らす人びとの、
おれは未だ米のなる木をみたことがない、
といったような縄文時代さながらの暮らしが描かれています。

「米のなる木をみたことがない」という表現は、
こうした山奥の暮らしを象徴する言葉と思っていました。

ところが森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー)のなかに、

「わたしゃ備前の岡山育ち 
 米のなる木はまだ知らぬ」

という唄のことが紹介されていました。

これは子を孕んだ女が監獄に入ってそこで子を産んだ、
その子は監獄で成長したから米をみたことがない、
ということを唄ったものだそうです。

はたして、どちらが先なのか。


しかし、この言葉の生まれる背景から考えると、それは重要な問題ではない。

米を見たことが無い
米を食えない、
ということがどういうことなのか、

その現実を森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』は、
さらに深く見事に描いています。

 

それは明治から昭和初期にかけての日本の姿ですが、
小作農の多くは米が食べられないばかりか、
麦飯すら容易には食べられない生活をしていました。

二毛作が可能な温暖な高知ですら、
農民はトウモロコシをすり潰したものを食べていた。

いや、日本中、多くの農民は稗、粟、雑穀を日常食にしていた。

そうした貧しい農民が炭坑に働きにくると、
ぷーんと米炊く匂いが流れてくる。
それが、胸にずうんときた。という。

落盤や爆発事故などで多くの命が消えて行く危険な仕事でありながら、
そこでは米が食えるということがどれだけ得難い喜びであったか。

かつての貧農史観の多くは見直されて来ている現代ですが、
こうした厳しい現実が日本各地にあったことも事実です。

 

現代から振り返ると、なぜそれほど過酷な環境下から逃れることなく、

人々はその土地で暮らしていたのか疑問に思えることが多いものですが、

多くの場合は、それ以上過酷な環境からそこに逃れてきた人たち、

以前の場所には戻ることのできない事情をかかえた人たち、

その場から逃れる自由を持ち得ない人たちなど、

様々な「そうすることしか出来ない」人びとであったことが見えてきます。

 

 

他方、現代では残念ながら、

いつでも腹一杯お米を食することのできる都会人が、


その米がどのようにして作られているのか知らない喩えのように


「いまだ私は米のなる木をみたことがない」と


使われだしている悲しい現実があります。

 

日本のお米も、いつになってもなかなか報われず、苦労しますね。

 

 

 

蛇足だながら、「米」の字源は以下の解釈が正当なのでしょうが、

http://gogolesson.jugem.jp/?eid=41

この話の流れだと「木」という字の上に点々がついて出来た字に思えてくる。

 

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