かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

核の下で自然の生命について思う その2

2011年08月24日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

先週、なんとも忘れがたい風景に出会ってしまった。

それは本来はあたりまえの風景なのですが、街道を車で通り抜けるほどに、今では見る事の少ない貴重な光景であることに気づきました。

那須ICから茨城県の大子町を経て袋田の滝に抜ける途中、栃木県の県堺を越える手前の光景です。

その町?村?の名前はなんというところだったのだろうか。

走行しているうちに、妙に山林がよく整備された風景だなと思いました。

林業といえば、かつて群馬も自慢の産業で、昔はいたるところに貯木場や木工所があり、材木やチップを積んだトラックが、ひきりなしに走っていました。

そうした風景に比べるとこの栃木の村の光景は、決して急峻な林業の山々に囲まれているわけでもないので、そもそも林業の町とは思えないような土地柄でした。どちらかといえば、小高い里山ばかりで小規模に行われる林業です。

ところが、それが小規模であるがゆえか、急峻な山ではなく、すぐに作業に取り掛かれる身近な山林であるためなのか、実によく整備されているのです。

日本中に見られる廃れた林業の町の風景とはおよそ異なる、静かながら落ち着いた美しい景観でした。

どの山林も枝打ちがきちんとされていて、林道周辺の下草もよくかられている。

きちんと手がかかっている。

そうした光景が田舎の道路沿いの町並みにもあらわれていて、貯木場も材木の積み方も実に整然としています。

今になって写真を撮ってこなかったことをとても後悔しているのですが、大規模林業とは思えないので、決して豊かな地域であるとは思えないのですが、隅々まで人の手のかかった美しい田園風景、山林風景が目に付いて忘れられません。

はたして、私たちの小さいころに見ていたまわりの田舎風景とはこんなものだったのだろうか。

気になってしかたがない思いでいたところ、ふと最近通りながらまわれなかった十日町の棚田のことを思いだしました。

たしか富山和子の「日本の米カレンダー」で知ったその光景は、千枚田といわれるような光景とは違って、なだらかな斜面に水田、木々が美しいバランスで配置されている風景でした。

思い立ったらじっとしてはいられず、週末に小雨降るなか行ってきました。毎度の実力ながら十日町に入ったら雨もやみ、六日町周辺とはまた異なる独特の光景が目に入ってきました。

最近の集中豪雨でどこも土砂崩れの痕だらけ。岩盤の多い群馬の地形とは異なり、粘土質の山が多いので、どこからでも崩れておかしくなさそうな地形でした。十日町から松代へ抜ける山は長いトンネルが続く。

こんな粘土質の土地であれば、きっとトンネル掘るのは鼻くそほじるよりも簡単なことだろう。

現地に近づくと、棚田案内の看板があるので、いくつかの撮影スポットへは、思ったよりは迷わずにたどりつくことができました。

最初の棚田に着くやいなや、そこにはため息の漏れる世界が広がっていた。

能登地方や四国?の一気に急勾配を攻める棚田とは異なり、山の谷あいのゆるやかな傾斜に広がる風景は、棚田と立ち木や山林が絶妙の調和を保っていました。

この美しさは、いったいなんだろうと思いながら、いくつかの棚田を捜し歩いて回りました。

撮影場所を求めて狭い農道を車で登り降りしていると、カーブの脇の小さなスペースにナスなどを作っている野菜畑がある。貯水池には蓮が植えられている。

    

升目に整備された魚沼地方の田と違って、隙間、空き地、斜面あらゆる条件を活かしながら、水はけや日当たり良し悪しを加味しながら、適正条件が長い年月で見極められていったのだろう。

行き届いた林野や農道、あぜ道の整備、こうしたことは決して兼業農家ではできない。

それが決して裕福な暮らしでないことは想像つきますが、日々の営みがとても豊かな時間の流れのなかで行われていることが想像つきます。

棚田を見に来てくれる人がいるからといって、それが観光収入に結びつくわけではありません。

でも一日一日の豊かさは、どんな観光地にも勝る時間の流れのなかですぎている。

自分が子どもの頃の田舎の風景は、はたしてどこもこんなだったのだろうか?

同じ山村風景でも、すさんで荒れ果てただけの景色のなかに、観光地だけが派手な看板とともに人ごみをつくっている風景しか最近は見る事ができない現代では、こうした景色を見れるのはきわめて希なことです。

田舎に住んでいながら、ほんとうにこうした景色に出くわすことは滅多にない。

何を作れば食っていけるか、どんな仕事なら食っていけるかという発想ではなく、そこには自分に与えられた条件すべてを活かして、コツコツと長い年月を通じて積み重ねて築かれたものがある。

そんな簡単には誰も真似することのできない時間の蓄積をへた美しい光景がここにある。

すべての仕事、すべての生活は、こういった方向にこそ向かっていきたい。

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核の下で自然の生命について思う その1

2011年08月22日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

 

まずルソー『エミール』のなかの、よく引用されるらしい以下の文をご覧ください。

 

太陽は先ぶれの火矢を放ってすでにそのあらわれを予告している。

朝焼けはひろがり、東の方は真赤に燃えて見える。

その輝きをながめて、太陽があらわれるにはまだ間があるころから、人は期待に胸おどらせ、いまかいまかと待っている。

ついに太陽が姿を見せる。

輝かしい一点がきらめく光を放ち、たちまちのうちに空間のすべてをみたす。

闇のヴェールは消え落ちる。

人間は自分の棲処(すみか)をみとめ、大地がすっかり美しくなっているのに気がつく。
緑の野は夜のあいだに新しい生気を得ている。

それを照らす生まれいずる日、金色に染める最初の光線は、それが目に光りと色を反射して見せてくれる。

合唱隊の小鳥たちが集まってきて、一斉に生命の父へ挨拶を送る。

このとき黙している小鳥は一羽もいない。

小鳥たちのさえずりは、まだ弱々しく、一日のほかの時刻にくらべてもっとゆっくりとやさしく聞こえ、安らかな眠りから覚めたばかりのものうい感じを感じさせる。

そうしたあらゆるものが集って、感官にさわやかな印象をもたらし、それは魂にまで沁みわたっていくように思われる。

それはどんな人でもうっとりとせずにはいられない恍惚の三十分間であり、そういう壮大で、美しく、甘美な光景にはだれひとりとして無関心ではいられない。

            (ネット用に見やすくするため行間をあける表記に直させていただきました)

 

 

太陽がもたらす自然の生命の息吹きを見事に美しくあらわした一文です。

ところが、酔いしれた心地に水をさして申しわけありませんが、この太陽も水爆と同じ核融合のエネルギーであることを忘れてはなりません。

そればかりか、天体に輝く満点の美しい星たちも、この太陽と同じ恒星、つまり核爆発による輝きです。

そもそも、無限に広がるこの宇宙空間は、原子の核の融合と分裂の世界であり、そのとてつもないエネルギーの放射は、およそ生命の存在とは相いれない世界です。

とてつもない熱エネルギーの場と、とてつもない闇黒の空間が広がっていて、そのような広がりのなかのある一点に一見偶然のような現象として、生命の奇跡が必然としてここに起きたのです。

わかりきったことかもしれませんが、わたしたちのいる地球とは、そのような存在であることを、原発事故後の社会は、あらためて考えさせてくれます。

核分裂や放射能といった、私たちの生命を脅かす存在は、そもそも宇宙空間では自然な姿であるということ。

もちろん、だからといって人間が作り出した放射性物質を同類のものとして、あっても当然なものと認めるわけでは決してありません。

再度強調したいのは、そうしたそもそも生命とは相いれない空間のなかに、奇跡の存在として生まれた地球生命を、今、人間自身の手によって自らの奇跡の存在を否定する、自然な宇宙空間レベルに近づけようとしている、そんな時代に直面してしまったということです。

誤解を恐れずに書きますが、原発や放射能が悪いのではなく、この奇跡の生命を自ら否定するような人間の意志の表れこそが問題なのです。

自然と生命の再生産の構造は、まさにこの宇宙空間のなかの奇跡の一点でのみ営まれているものです。

これまでの生命は、そんなこと考える必要もなくひたすら生きてこられたものが、今、それをわたしたちが判断し、行動することなしには維持できないところにまで来てしまったのです。

「人間的自然」という言葉がありますが、これまで使われていたこの言葉の解釈は、何と軽い理解であったことだろうと思わずにはいられません。

自然とは何か、この単純な問いが今までとはまったく別の次元でとらえ直すときがきています。

 

 高木仁三郎 著 『いま自然をどうみるか』 白水社 2,000円+税

内山 節 著 『「里」という思想』 新潮選書 1,100円+税

 

 

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ゴジラが日本へ上陸した年(1954年)

2011年08月07日 | 歴史、過去の語り方

映画「ゴジラ」の第1作が上映されたのは、1954年のことです。

その年3月1日早朝、中部太平洋のビキニ環礁で、米軍の実験用水爆「ブラボー」がきのこ雲をあげ、空を真っ赤に染めました。

そのとき爆心から160キロメートル離れたところを航行していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」に死の灰が降り注ぎ、乗組員23人全員が被爆。
無線長の久保山愛吉さんは半年後に死亡。

翌55年に第1回原水爆禁止世界大会が開催され、反核平和運動が大きな広がりをみせました。

これらは、先立つ53年にアイゼンハワー大統領が国連総会で「原子力の平和利用」(アトムズ・フォー・ピース)を訴えた演説をしたばかりのことであり、アメリカは全世界から非難を浴びました。

第五福竜丸の被曝事件は、アメリカにとって“ラッキードラゴン”の衝撃として大きなダメージとなっていたのです。

広島・長崎の原爆投下、日本の敗戦からまだ10年という時期のことです。


こうした時期に、日本の原発政策ははじまりました。

1954年3月3日、中曽根康弘衆議院議員らが中心となって、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。
ウラン235からとったと言われるその原子炉築造予算は、2億3500万円。

第五福竜丸の被曝事実が暴露される約2週間前のことです。

原爆反対運動の盛り上がりを打ち消すには、まさに“毒をもって毒を制す”の諺どおりに、原子力の平和利用を大々的に謳いあげることが必要だと、あからさまに正力松太郎らは考えていました。

このような路線のもとに被曝国日本へ、アメリカからの濃縮ウランや原子炉の提供がはじまったのです。


水爆実験によって生まれたゴジラは、何を目的に日本に上陸してきたのでしょうか。
特撮アクションエンターテイメントとしてシリーズ化されたその後の作品と比べて、はるかに重いテーマを背負って登場した「ゴジラ」第1作は、東宝の歴史を塗り替え『七人の侍』『生きる』を上回るほどの「空前の大ヒット作」となりました。

映画のラストで山根博士(志村喬)は、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」とつぶやいて終わる。

今、あらためて観なおすべきすばらしい作品であったことに気づかされます。

隔週刊東宝特撮映画DVDコレクション全国 2009年10月27日号

     (創刊特別号990円は、まだ入手できます)

 

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原爆と原発の日

2011年08月06日 | 歴史、過去の語り方

今日、広島原爆の日と9日の長崎原爆の日を迎え、福島第一原発事故の問題とあわせた核・原子力論議が盛んに行われています。

世論の多くは、速やかな原発廃止よりも、段階的な脱原発、つまり原子力への依存度を徐々に下げていく考え方が多いように聞こえます。
その理由は、再生可能な自然エネルギーなどへの転換をはかるにしても、現状のすべての原子力エネルギーを他のエネルギーに転換するには時間がかかることやコストの問題などがあげられています。

聞かれるかでもないことかもしれませんが、わたしは明確に、すぐにすべての原子力エネルギーを他の自然エネルギーに転換することはコストの問題があったとしても(それらの問題をクリアすることは現状でも可能だとも思っています)、今の原発は、即刻すべて停止させ、未だ技術的問題をたくさんかかえている「廃炉」にむけた努力を速やかにはじめるべきであると思っています。

「かもしれない」の議論は、双方の立場で、様々な言い分があることと思います。
しかしわたしは、あらゆる領域で「かもしれない」の問題が多いからこそ、議論のわかれることは、生命の安全を最優先させることが不可欠だと考え、それはゆずりません。

すみやかな廃炉で予想される電力不足とは、いったいどの程度のものなのか。
深刻な電力不足、節電が呼びかけられる夏も半ばにきている今、もう少し具体的にその見通しを推測することが可能な時期にきているように思えます。

前にも書きましたが、緊急に切実で大事な点は、総電力の抑制ではなくて、需要の跳ね上がるピーク電力のカットです。
この点に政策や技術を優先的に振り当てれば、目の前の問題はそれほど困難なことではないのではないでしょうか。

今日の本題はこのことではありません。
広島・長崎の日にあらためて原爆の問題と原子力の平和利用の問題は、あくまでも別の問題として考えるべきたという人たちと、「広島の原爆ドームの向こうに福島第一原発の破壊された建屋が見える」(佐野眞一)といった核問題として同根の問題としてとらえる人たちに分かれます。

わたしは後者の立場なので、その観点でいくつかのことを今日は書いておきたいと思いました。


原子力の平和利用として、とりわけオイルショックを経験してからは、石油に替わるエネルギーとして原発に大きな期待が持たれたこと自体は、歴史の必然の部分もあったと思います。
しかし、他方、核保有の口実としてそれがなされる危険を、私たちは北朝鮮の事例をみて身近な問題として知っています。
それでも、北朝鮮のような特殊な国の問題とは別だと言う人もいます。

原発と核兵器開発が、どの程度密着しているのかということについては、1974年のインドの例をあげなければなりません。
インドは1974年5月18日、研究用の原子力施設としておもにカナダから導入したサイラス炉というのを使ってプルトニウムを作り、再処理をしてプルトニウムを取り出して、そのプルトニウムを使って核実験に成功したのです。このときにインド政府は、「ブッダは微笑む」という暗号で実験の成功を伝えたといわれます。

このときのインドは、いわゆる平和利用のための施設、まったくの研究施設から核爆発装置を作り出して核実験を成功させたわけで、世界中、とくにアメリカにとっては大変なショックでした。(のちにアメリカの重水が冷却水として使われたこともわかり、アメリカは二重のショックをうける)

もちろん、だからといってどの国の原子炉も簡単に核兵器に転換できるわけではありませんが、無関係、別物であるといえる根拠はきわめて希薄であることは確かです。

http://vimeo.com/23185260


ここに、ごく一部の人たちではありますが、先進国としての国力を持つためには日本の原子力技術開発は、絶対に不可欠であると考える人たちの根拠があります。またアメリカは、その他の一般諸国とは異なり、日本に対してはそれを容認して支援し続けた様々な背景もあります。
皮肉にも、アメリカ国内で原発がそもそもコストにあわないことが明るみになって、米国内の新規原発開発がとりやめられてから、その技術を海外に売ることで利益を確保しようとしだし、もちろんそれだけが理由ではありませんが、日本の原発開発も加速しています。

原発推進政策を、明確な意図をもって推進してきた人たちに石原慎太郎や、わが郷土の中曽根元首相などがいますが、彼らに共通しているのは、「国民(個人)」よりも「国家」を上におくという姿勢です。

先進国として対等に他国とわたりあうには「核」の保有は絶対条件であるという考えは、口に出せる人と思っていても口には出せない人の差はあっても、根強く一定層の人たちの間に存在し続けています。
「核」の力なくして対等な国際協調など、絵空事にしか過ぎないとの論理は、身近な人たちの間にも広く流布しています。
おまえらそれで何が守れるのだと。

これは、今のエネルギー問題の議論の構造でも同じです。
古くは産業革命後の世界が直面した人口爆発や食糧問題にはじまり、最近では水問題でも同じ構造が持ち出されます。
軍事だけではなく食料、エネルギーを含めた安全保障の根幹の問題が、ここにあります。

そこで今日こそあらためて問いたいと思います。
ふたつの世界大戦の惨劇を経験して、広島・長崎の悲劇を体験して、私たちは何を学んできたのか。
もう一度、考え直すべきではないでしょうか。
歴史から世界が学んだことはなんだったのか。

ふたつの世界大戦から、人類はその教訓を学びその後の世界は、ようやく最近再評価されだした戦勝国たちの横暴はありながらも、確実に一歩前に平和への決意を踏み出したことは間違いないと思います。

それでも世の中には、「核」の力なくして、アメリカの「核の傘」なくして、おまえら現実になにが守れるのだ!
同じように「原子力」への部分依存なくして、生活や産業の安定は、どう実現できるのだと声を荒げて主張する人たちがいます。

わたしは、それも現実には決して難しいことではないと考えているのですが、その議論はおいても、それらの考えの先に実際におきているのは、「国家」の利益を優先して「国民(個人)」の犠牲は当然のこと、あるいは多少は避けられないといった論理であり、また「より強い」国家があってこそ、国民の平和は保障されるものとの論理のもとに、それが「弱い国(者)を力で捩じ伏せる論理」であることを見逃してはなりません。

必ずその後に残るのは、広大な焼け野原であり、不毛化された大地と取り返すことのできない傷を負った人びとの姿です。

国を主語にした「力」によってだけ守られる「平和」は、私たちの「力」によってその欺瞞を暴露し続けなければなりません。

現実に「力」がなければ守れないではないか、という人たちの「狭い」力観。
「正義」のためには、他国の犠牲、自国民の多少の犠牲はやむをえないという「正義」がこれまでもたらしてきたことを、この時期は思い起こすべきでしょう。

もちろん、いかなる場合でもこうすれば絶対安全などという方法はありません。だからこそ、今、どちらの方向に向かうべきなのかを真剣に問わなければならないのです。

取り返しのつかない犠牲を避けることのできない実質の「弱い」力は、私たちの力でなんとしても押しとどめなければならないことを発信し続けたいと思います。

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