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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

新緑の季節。 生命の誕生が緑色であることの意味

2018年04月06日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

  

 現代では、「西暦」の問題に象徴されるように、あまりにも世界観が、光、陽、太陽、あるいはアマテラスの側に偏り過ぎていています。夜や影、あるいは月の存在は、影の側だから仕方がないといい捨られがちですが、なぜか現代日本ではひと際、虐げられた存在になっています。

 そんな時代に、月夜野から「夜」や「暗いこと」、さらには「ツクヨミ復権」の意味や価値を発信することの難しさをいつも感じています。

 

光と影

陰と陽

月と太陽

月暦(旧暦)と太陽暦

 

本来、両者は一体不可分な関係であり、また互いを必要とした表裏半々の関係であるはずです。確かに、ものごとなんでも明るい方が良いに決まっているといわれれば、反論はできないのですが、私たち月夜野タヌキ自治共和国にいる者は必ずしもそうは考えません。

このことを現代人にどう理解してもらえるかを、ずっと考え続けています。

それが最近ようやく、光と影を軸にそこから色彩(生命)が誕生する原理を考えることで、もう一つの分かりやすい視点を見出すことができました。それはゲーテの『色彩論』に出てくる以下の説明です。

  

光のすぐそばには我われが「黄」とよぶ色彩があらわれ、

闇のすぐそばには「青」という色があらわれる。

この黄と青が最も純粋な状態で完全な均衡を保つように混合されると、

「緑」と呼ばれる第三の色彩が出現する。

          (ゲーテ『色彩論』より)

 

 

これは聞き慣れた「光の三原色」、「色材の三原色」との関係はどうなのかというと、

 

物質界を物理学から捉えたのが光の三原色で、化学面から捉えたのが色材の三原色。

それぞれの三原色を混ぜ合わせた中心が、

光の場合は「白」になり、

色材の場合は「黒」になります。

厳密には、ここでいう光の白は白色ではなく無色

同じく色材の「黒」も色材という意味では確かに黒色ですが、本当は色の黒ではなく無色の闇ということのはずです。

まさに、この物理法則、化学法則両方の中心、無色の極みの「白」「黒」こそが自然全体の出発点であるわけで、先のゲーテ『色彩論』の説明がこの図を見ても成り立っているわけです。

 

つまり、

「白」=光の一番近くにある色が「黄」

「黒」=闇の一番近くにある色が「青」

 

この無色である光りの代弁者である黄色と、無色の闇の代弁者である青を混ぜると

「緑」が生まれるわけです。

 

 

 

こんな素敵な絵本も出ています。

 レオ・レオーニ・作 藤田圭雄・訳 『あおくん と きいろちゃん』至光社ブッククラブ国際絵本 

 

 

自然界にはたくさんの色彩が溢れています。

ところが鮮やかな色彩の代表のような草花を見ると、赤や黄色、青や白の花はあっても、なぜか緑色の花というのは見ません。

かたや秋の紅葉シーズンには、鮮やかな赤や黄色を見せる木々ですが、春の草花は艶やかに赤や黄、白の花を咲かせているとなりで、新緑の葉っぱは、なかには赤や黄色に色づく木があっても良さそうなものですが、色鮮やかな花が咲いている隣りで木々の葉は緑のみです。 

自然界に葉っぱとして緑色はこれほど溢れているのに、これは一体どういうことなのでしょうか。

 

先日、桜を見にドライブしていたら、ふと桜の木の間に薄緑色の綺麗なサクラのような花が見えました。

 

ところが、よく近づいてみると

それはやはり白い花ビラに新緑の葉が並んでいることによる錯覚でした。

花と同時に葉が出るヤマザクラなどの特徴です。

 改めて緑色の花は、自然界にはないのだと思いました。

自然界にたくさん色彩は溢れているのに、ほんとうに緑色は植物の葉のみなのでしょうか。 

厳密には無いわけではなさそうですが、大半は葉っぱや花のガクの新芽などの若い時期の姿に過ぎない気がします。また、花屋さんでつくってもらった花束には、緑色のカーネーションがあったので、人工的な園芸植物の世界には、緑色の花というのはすでに存在するようです。

それでもやはり緑は、他の色彩とは別次元の何かがあると思えてなりません。

 

 

染織の世界を極めている志村ふくみが、植物は緑であり、緑は植物であるといいたいほどの植物から、なぜ直接緑が出ないかということを繰り返し語り問い続けています。

今では、草木染めで緑色を出す技術はあるようですが、それでも自然界に緑色がこれほど溢れていながら、その色を単純に緑の葉っぱから取り出すことはできないのです。

 

緑はまさに「光」と「闇」の間に、不可視の世界と現界の間に、

「緑はその両界に、生と死のあわいに明滅する色であり、

この世にあっては生命の色、

みどり児の誕生の色なのである。

 

 志村ふくみ『母なる色』求竜堂 (1999年)

 

別のところでこうもいってます。

(草木染めの場合)私たちは、どうかしてその色を生かしたい、その主張を聞きとどけたいと思う。
その色と他の色を交ぜることはできない、梅と桜を交ぜて新しい色をつくることはできない。
それは梅や桜を犯すことである。色が単なる色ではないからである。

また宇佐美英治との共著『一茎有情』(ちくま文庫)のなかでは、とさらに具体的に述べています。

あのとき私は黄色の糸が、藍甕の中にひそみ、藍分を吸い込んで緑に生まれ変わって出てきたことが光と闇、その中間の生、束の間のいのちこそ緑だと、嬰児こそ闇から光をうけて誕生したことの意をそのまま表しているのだと思いました。

 

なるほど、色彩を無理に交ぜるから黒に近くなっていってしまう。色彩は、本来、その色固有の存在。なかでもまた緑は格別の存在のようです。

 

まさに緑色は、「生命誕生」の色なのです。

むしろその本質は、色彩ではなく「生命」そのものなのです。

 


奥四万湖の新緑

 


青い(緑の)地球が、いまだ宇宙において奇蹟の星であるのは、
きっとこうした意味があるのでしょう。

 

緑=生命というものが、光と闇(影)の両者の存在あっての世界であり、またその奇蹟のバランスの瞬間にのみ生まれるものだということが、いかなる生命科学の説明よりも根源にあることだと知ることができました。

ただ明るいばかりでなく、半分の暗さがあってこそ生命(新緑)の鮮やかさと輝きは増すのであり、また、半分の暗さを自然のままに残してこそ未来は明るくなるものと思います。

 

 

 

 

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コメント (3)
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