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旅の拾いもの ④ 穴太(あのう)衆の里

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方

 日本という国は、基本は木と紙の文化の国であるといえます。

ところがそこに、本来、日本には異質ともいえる石の文化がおもに渡来人らによってこつ然と芽生えた、
かのような痕跡があります。

その代表が近江にある石の文化であり、またそれらの技術を最高度にもっていたと思われるのが、
穴太衆(あのうしゅう)といわれる職人集団です。

わたしは二十数年前、白洲正子の『かくれ里』を読んですぐにそうした近江の地を見てみたくなり、ひとり車を飛ばして行ったことがありますが、そのときは湖北や湖東方面のみで、この穴太の里がある坂本方面まではまわれませんでした。

かくれ里
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新潮社

以来、ずっと気になっていたので、安土城址に行くたびにその石垣に穴太組みの石積みはないかと、石垣を目を凝らしてはみたものでした。

関西方面へ車で出かけるたびに、何度、穴太の坂本がすぐ近くにあると思いながら大津を通り過ぎたことでしょう。

毎度のことながら、何度出かけても京都の地図の縮尺と近江の地図の縮尺の違いが頭に入らず、滋賀県内の移動はつい距離を甘くみてしまうものです。

それが、今回の京都旅行は、二日宿を大津市にとったので確実に坂本へ足を伸ばすことができました。といっても、それは半分偶然だったのですが。

 

今回の旅の目的のひとつは、都の鬼門の意味を確認することでした。

そのため私たちは北東から都入りすることにこだわり、大津から琵琶湖沿いを一旦北上してから京都方面に入ろうと考えました。

どうせならその途上の日吉神社にも寄りたいので、とりあえずナビ上でみたら穴太という地名が見えたので、厳密にどこというわけもなくただその穴太を行き先として設定してみたのです。

すると、どんどん道は住宅街の狭い路地に入り込み不安になってきましたが、穴太の地域に入るとたちまち周囲の住宅の石垣が、まさに穴太積みの美しい石垣で、右をみても左をみても、いたるところに穴太積みの石垣を見ることができました。

残念ながら、狭い住宅街の路地を出口もわからないまま車で走行していたため、止まって写真を撮る余裕がありませんでした。

下の写真は、日吉神社の境内の石垣です。 

 

まさにこうした不規則な石を組み合わせて積み上げるのが穴太積みの特徴で、不規則な石を組み合わせるからこそ、強度が増すものです。

江戸時代になると、方形にきちんとカットした石を積み重ねることが主流になりますが、直線の組み合わせだと、どうしても構造的には縦の重みだけで支えるようになってしまい横の力には弱くなってしまいます。 

ただし残念ながら、この度の熊本地震で崩れた熊本城の石垣も穴太衆が築いたといわれるものですが、百年千年に一度の地震には耐えられませんでした。
 
石垣 (1975年) (ものと人間の文化史)
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法政大学出版局
 
あらためて穴太衆の石組みを見ると、天然の石の形をそのまま活かした不規則性というものが、とても美しいことを感じます。
 
時代が進み技術が進歩したり合理的思考がすすむと、どうしても効率のよい方法へ流れていきますが、ブロック積みのいかなるものよりも、こうした自然石のかたちを活かした積み方には、積み上げることの難しさにプラスされた造形の美しさそのものがとても大きな魅力になっているものです。
 
この自然素材をいかに活かすかということが、翌日から入った京都の寺社の造りをみる視点の大きなベースとなりました。

 

 

 

 

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