かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

今のところ、寸分のすきも見せない月の顔

2014年05月31日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

お月さまは、いついかなるときでも、地球の方に正面(?)の顔を向けています。

満月や三日月と姿かたちは変えながらも、

決して横向きになったり、裏側を見せたりすることはありません。

寸分の狂いも無く、常に地球の方に顔(?)を向けています。

相当な恥ずかしがり屋なのか、

どんなことがあっても裏側は見られたくない相当な事情があるのか。

 

現代科学は、そのあたりの研究が未だにちっとも進んでいません。

 

寸分の狂いも無くと書きましたが、

実際には「ひょう動」といわれる揺れがあり、

首を上下・左右に振るように見えるため、

59%くらいの表面は、地球側から見ることができるようです。

 

ということは、何十億年という間、正確にまわっているとはいえ、

必ずしも同じ状態が続いているわけではないということです。

実際に、月は少しずつ地球から離れていくわけだし、

他の天体の影響も無いわけではない。

 

意地になって地球には絶対裏側は見せないと言い張ってきた月も、

もしかしたら、

ちょっとした気のゆるみで、

少しだけ・・・

 

てな日もあるかもしれません。

もちろん、何億年もの間、信念を貫いてきた月ですから、

安易に油断することなど、滅多にあるものではありません。

 

 

 

私たちは気づいています。

満月や三日月など、世の人びとが美しい月に注目しているときになんて

絶対にそんなすきを見せることはありえません。

新月のような誰も気づかないようなときでなければ、

長い緊張を解いてくれることなどありえないのです。

 

しかも、私たちは、そのときを真剣に注視して見続けたりしてはいけません。

誰も注目などしていないよう月に思わせ続けなければならないのです。

それはとても根気のいることです。

 

それでも、月からすれば、

万が一にもそんな油断した瞬間を見られてしまったなら、

もう何億年来、守り通した立つ瀬がなくなってしまうわけですから、

あたし、もう金輪際「地球とはツキ合わない」

といって火星あたりに飛んでいってしまうかもしれません。

 

そんなことになったら大変です。

我われはもう、うまい酒が呑めなくなってしまいます。

 

ですから、わたしたち月夜野町の住人は、

決して月に悟られることのないように、

静かに、

静かに、

休むことなく

月をながめ続けるのです。

 

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さまざまな異質な生命と共存している幸せ

2014年05月12日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

最近、たて続けに子ギツネに出会ったせいか、身近に様々な動物たちが生き続けていることを感じられる喜びをひしと感じています。

そんなことを思い出しながら、朝、車で仕事に向かっていると、外から聞こえる小鳥の鳴き声のひとつひとつが心にしみる。

日ごろは意識もせず、目にも見えないけれど、この地上にはわれわれ以外のたくさんの生命にあふれている。

 

今朝の車中で、妻とこんな話をした。

たくさんの異質な生命に囲まれていることで、このように心がなごむことを思うと、

未来の理想の人間社会は、このような社会なのではないかとふと思えた。

つまり、現代のわがままで頑固なオヤジ、騒音の固まりとなって襲いかかってくる主婦の集団、自分の世界にのめり込み社会性を喪失した若者、敬語で会話し子どもの天分を喪失したような小学生など、わたしの理解に苦しむ人間たちが、先の理想の自然界を思うと、これら異質と思える人間たちがみな、異質であるほどそれが心なごむ人間に見えてくるのが、未来の理想社会像なのではないかと。

こんな話をしたら、妻は、自然界の動物たちで感じられる気持ちが、どうして人間では感じられないのかという一点にこだわっていた。

動物たちに対するような気持ちを、人間に対して持てない様々な理由、人間の存在そのものの業のようなものを含めた問題について話し続ける。

 

他方、私の方は、自分にとって異質に感じられる存在が、自分の価値観にあわせることなく、それぞれの存在が「あるがままで心がなごむ」ということにこだわる。

そもそも自然界は、個々の存在からはコントロールの及ばないもの同士の共存環境で成立っている。

それはとても微妙なバランスのうえに成立った奇跡の連続のようなものだけれども。

たとえ正義であろうが、人間であろうが、自分の側の価値観で統一管理する発想ではなく、異質で多様なもののバランス、共存のうえでこそなりたっている。

これこそが、明るい未来社会像の鍵なのではないかと思う。

 

あたかも病原菌を駆除すればするほど、免疫力が衰え、より大きな被害を被る弱い存在になっていくのと同じように、「より良い」を狭い思考でとらえてしまうと、正しいことを追求しているようでいながら、豊かな幸せからは遠ざかってしまうのではないだろうか。

かつて脅威の存在であった熊やオオカミが、同時に神として崇められていた。

それだけの存在の価値を感じていたということは、単なる信仰の問題ではない。

 

 異質性や多様性の問題が、人間と他の生物との関係でだけはなく、人間社会内部でも、あるいは自分の身体内部、精神内部の異質性の許容まで含めて考えることがどれだけできるだろうか。

私の一貫したテーマでもあるけれども、モノを計るには「量」によってしか、計れないかのようになってしまった現代に、「質」や「価値」による表現こそ、ものごとのはじめであることをふまえ、たくさんの異質なものの存在の認め方のなかにこそ「豊かさ」の大事な鍵が潜んでいるように思えてならない。

人を育てることが上手い人をみると、なんかこんな思考ができている未来の人のお手本のようにも見えます。 

 

 

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異質なものを寄せつけるために必要な美しさ

2014年05月06日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

このところ電子書籍(青空文庫)の利便性をとても感じています。

出かけたときなどは特に便利で、車のオイル交換の待ち時間に、家で読みかけの続きをタブレットですぐに読める。主だった古典は、ひとつの端末を持っていれば、かなりのものがいつでも開くことができる。

 

岩崎灌園『本草図譜』にも感激しましたが、牧野富太郎の『植物知識』も最近、電子書籍で読んだもののひとつです。

その冒頭で、蘭学者の宇田川よう庵の著書を引用して、

「すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器をは雲泥の差があり、とても比べものにならない。」と言っています。

私の家も春になると、ほとんど手入れもしていない庭にもかかわらず、次々といろいろな花が咲きだします。

それらの花々が「露出した性器である」ことは、バラの花ビラの妖しい美を写し撮った写真家の大野純一さんも言っていました。

 

あまりにも日常に目にしている世界のなかにある、非日常の表現にびくっとしますが、この牧野富太郎の表現によってさらに、植物と動物の差異について、びくっと考えさせられます。

 

動物の生殖器は、なぜ美しくある必要がないのか、

なぜ露出する必要がないのか。

まあ、なんという問いだろう。

 

同じ生命の核心部分の営みであっても、植物と動物とではまったく生殖の方法が異なることの意味。

それはすぐに気づきます。

自ら動かす身体を持たない植物は、受粉、受精を、昆虫や鳥など他の生き物の力を借りなければなりません。

他方、動物は同一種内であれば、同じ行動生活圏のもの同士が出会い、自らの力でほぼ自由にSEXできる。

 

つまり、植物は異質なものの力を借りるがゆえに、より目立つ生殖器であることが必要となる。

動物は同一種内で自ら動くことが可能なので、ひと際目立たせる必要はない。

 

ここにただ興味、感心をひくことと「美しい」と感じるかどうかの分かれ目もある。

同一種内の合意記号のみではなく、異質なものをも説得できる力のあるものが

「美しい」

ということか。

同質なものの間では、コミュニケーション、記号は発生しても「美しさ」は磨かれないということか。

 

このところ、地域づくりの関係で地元の人たちへの説明の仕方で、

「他所の人たちからみて分かりにくいものは、

地元の人にとっても多くの場合、よくわからないものである」

といったことを、

説明文のまとめ方、チラシのデザインなどで如何にわかってもらえるか、ずっと考えています。

 

そんなせいか、文章のことはとても人に言えた立場ではありませんが、

妙にこの植物と動物の生殖の違いにこだわってしまいました。

 

 

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