かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

こよみと伝統行事

2019年04月26日 | 歴史、過去の語り方

 祭りや伝統行事は、どれも長い歴史を通じてつちかわれてきたものですが、今日の姿のすべてが古来の姿であるとは限りません。
 とりわけ明治から昭和にかけての間に、そのかたちを変えてきた祭りや行事は少なくありません。

 黒い喪服姿で葬儀を行うようになったのは明治以降のことで、それ以前の葬儀は白装束でした。


 そして多くの祭りや行事は旧暦で行われており、それは庶民の季節感と密接に結びついたものでした。

 昭和の中ごろまで生きた明治生まれの古老は、昨日の晩というとそれは一昨日の夜のことを指していました。
それは1日の始まりが日没後の夜からはじまるという習慣があったからです。

 事実、祭りなどの行事で前夜祭として行われるものは、本来一日の始まりが夜からであったことの名残りです。そして行事が何月何日に行われるかということは、どれも暦上のとても大事な意味があるものでした。旧暦で月の中旬や15日に行われる行事というのは、それが満月の日であることに意味がありました。月のはじめの行事といえば新月の日にやることに意味がありました。

 月夜野の祗園祭(おぎょん)も、今では7月末から8月頭にかけての土日に行うようになってしまいましたが、当初は旧暦8月の1、2、3日に行われていました。
 それはただ月の初めというだけではなく、新月、つまり太陽と月が重なり、受けるエネルギーも倍加している時期であることに意味があったわけです。 


 ところが、先の東京オリンピックのころから専業農家の人口の比率がどんどん減りはじめると、地域の祭りや行事が暮らしや生産と密接に結びついた切実な祈りをともなったものから、ただ伝統保存のための大変な努力を伴わないと維持することがとても難しい時代になりだしました。

 そこでは暦の意味が失われるだけでなく、地域内よりも外で稼いでくるサラリーマンの比率が増えてきて、人を集めやすい土日でないと行事が行えないようになってきました。

 こうした時代とともに移りかわる祭りや伝統行事の姿は、伝統文化の保存如何の問題ばかりでなく、地域の暮らしのあり方と密接に結びついたものであることがうかがえます。

 

写真はいずれも『我がふるさと写真集 月夜野町』企画・発行 月夜野町(昭和62年)より

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旧山古志村の中山隧道以外の手掘り雪中トンネルのこと

2018年06月30日 | 歴史、過去の語り方

中越地震の被害で有名になった旧山古志村には、手掘りトンネルでは日本一といわれる有名な中山隧道とは別に、昭和の時代につくられた手掘りトンネルがいくつかあります。

    

今回私たちは、それを探しに行ってきました。

探しているそのトンネルの長さ632m。


昭和の時代に、なぜそのようなことが行われたのかを知ってビックリ!...



昭和47年3月、小松倉にあった山古志中学校芹坪校舎(芹坪分校)が廃止され、村内の他の3校舎(分校)とともに、竹沢地区にあった本校へ統合されました。

その結果、小松倉に住む中学生は、遠く約6kmも離れた山古志中学校へ通うことになりました。

さらに昭和52年には、中学校に続いて小学校も統合の対象になりました。

旧東竹沢村内にあった芹坪小学校と梶木小学校の2校が廃止され、中学生に続いて小学生も遠くへ通学をよぎなくされることになりました。



すると豪雪地帯で急峻な山間部を通う子供たちは冬の間は絶えず雪崩の危険にさらされながら学校に行かなければならなくなり、実際にその地を通行中の小松倉住民が2人が命を落としていました。

全国の山間部のなかでも、この山古志村周辺の地形には、独特のものがあります。

山といってもほとんどが1000m以下の丘陵部なのですが、その丘陵部高地から急激に切れ落ちた沢の部分が、いく筋もの谷あいを形成しています。

しかも、その斜面は岩盤部がほとんどなく、粘土層のような崖で成り立っているために、どこも高地からは一気に切れ落ちているのが特徴です。

先の中越地震でもっとも多くの被害がこの山古志村でおきたのは、ただこの地が山間部であったというだけでなく、こうした地形によるところがとても大きかったと思われます。

そんな地形の場所がさらに、全国屈指の豪雪地帯でもあるわけです。

雪崩の危険は、尋常ではありません。


そこで村の大人たちは、子供たちが冬でも安全に通学できるようにと自主的に手掘りでトンネルを村のいたるところに掘ったというのです。

それがどのようなものなのか、かつて震災被害の実態を見に行った際に手掘りの中山隧道には立ち寄ったのですが、他にこのような手掘りのトンネルが多数あることなど、当時は全く気づきませんでした。

 

今回、一度、旧道のそれらしい場所を通ったのですが、見つかりませんでした。

 

通りがかりの人やおばあちゃんに聞いても、こちらが方言を聞き取れないためか、会話そのものがなかなか通じませんでした。

そこで、震災復興資料館ならわかるだろうと、先ほど寄ったばかりのところへ戻り説明を聞いて走っていると、その説明された先に近づくとどうも中山隧道のことと勘違いされていたらしいと気づきました。

そして、その後一人のおじさんに出会い、私たちはようやくその場所へたどり着くことができました。

 

 これは確かに、説明を聞かなければ見落としてしまいそうな場所です。

 

 

縦横の大きさは中山隧道よりも少し小さいものです。

写真では明るく写っていますが、実際は何の照明もないので、中はほぼ真っ暗です。 

  

 

気づけば、先ほど通ってきた道に、このような横穴出入り口がいくつもありました。 

 

 

 

 

一本の長いトンネルの間に、このような横穴出入り口が何カ所もあるのです。 

  

 

私たちが、これらのトンネルの価値が中山隧道以上に価値があると思うのは、これが遠い昔に隔絶された山村の生活を守るために掘られたものではなく、昭和の時代に学校の統廃合が進んだ結果、親たちが子供の通学の安全を守ることを第一の目的として作られたということです。

その親たちの大変な労力と子供たちへの思いには、ただ頭がさがるばかりです。

 

ここで、決してその話に水を差す意味ではないのですが、そうした作業を可能にしたと思われる背景に触れさせていただきます。

それは、私も妻も別の立場で幼いころ新潟県の南魚沼地方や十日町市方面にそれぞれ家庭の事情で縁がありました。

そのころの思い出話を互いにしていると、山へ登ったり泥んこ道で転んだ時の記憶に、必ず粘土質の滑りやすい土の記憶が一緒についているのです。群馬で山に登ったり里で遊んだりしているときには、赤土の粘土で足を滑らせるという記憶はあまりありません。群馬は結構かたい岩盤質が多いのです。そして土も粘土質のものはほとんどなく、さらさらした砂がほとんどです。

もちろん、同じ新潟でも湯沢から八海山の方へいたる山間部はまた違った固い岩盤地質なのですが、そうした地形地質は、スキー場が続く南魚沼から小出にいたる区間、ずっと続きます。

何年か前にトンネル工事の最中にガスが発生し事故につながってしまったことがありましたが、そうした事故も多分に柔らかい地盤によることが想像されます。

妻と十日町のビエンナーレや棚田を見にいく時によく冗談として言っているのですが、
「このあたりのトンネルは鼻くそほじくるよりも簡単に掘れるんだ 」
などと不謹慎なことを言っていました。 

この冗談の深い意味に改めて気付かされたのですが、こうした柔らかい粘土質の地盤という特殊な条件こそが、まず第一に、子どもたちの通学路を守るためだけに作られた手掘りトンネルを可能にさせたのだと思われます。

もちろん柔らかいと言っても、何百メートルも機械を使わない手掘り作業をしたわけですから、どんなに甘く見ても簡単な作業でなかったことに変わりはありませんが、少なくともノミで岩盤を砕くような作業の連続ではなくツルハシなどで掘り進めることが可能であったからこそ、着手することができたのだと思われます。

 

そして、そうした柔らかい粘土質の多い地形がまた、先の中越地震の被害をこの旧山古志村で一層拡大してしまうことにもつながってしまったのではないかと感じました。

事実、新潟県は全国の土砂災害の2割を占めるといわれるほど地盤のゆるい土地です。

 

 

 

 

 すべては、この1冊の本との出会いから始まりました。

平沼義之著『廃道踏破 山さ行がねが 伝説の道編』じっぴコンパクト文庫

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「自然(天円)に包まれた人間界(地方)の力学」 旅のイメージ(覚え書)

2017年10月14日 | 歴史、過去の語り方

 毎年わたしは、ゴールデンウィーク明けの新緑の季節に妻と二人でまとまった旅に出ることにしています。

今年は京都でした。

京都は奈良以上に様々な歴史の舞台が積み重なっているため、訪れていないところがまだ限りなくあります。

あまりにもいろいろな時代の史跡が積み重なっているので、どちらかというと奈良の方が落ち着いた旅ができて好きなのですが、それでも歴史を語るうえでは外すことの出来ない場所がたくさんあるので、これからも何度となく訪れることと思います。

前回は、南の宇治平等院、醍醐寺、伏見と少し離れた浄瑠璃寺などをまわってきましたが、今回の京都旅行は、風水の方位にこだわった旅で、北東方面の鯖街道から入って寂光院へ。物語の舞台としてよく登場する仁和寺、下鴨神社のみでまわっていなかった上賀茂神社から始めました。

そして対角線上の裏鬼門、南西方向の石清水八幡宮、後鳥羽院や百人一首の面影を求めて水無瀬神社。

北西からは、明恵上人の栂尾高山寺から空海の神護寺。嵯峨野の大河内山荘。

南東は、泉涌寺と東福寺。

と、移動効率は良くありませんが、京の四隅を攻める旅をしてきました。

 

私たちはこれら京都、奈良に限らず、どこへ旅をしても一貫して日本の文化や歴史の大きな流れや時代のうねり、風土の起伏などを見ると、何か月の引力の影響のような目立たないながらも確実な法則のようなものがあるのではないかといった印象を、いつも漠然と感じています。

それが何なのかなどということは、とても私に語る力はありませんが、 能登半島から金沢、近江、京都、奈良、尾張、伊勢、吉野、紀州、熊野といった、日本列島の横ではなく縦の線の中に蓄積しているように思えてなりません。

そのまとめようがないテーマを最近意識しているキーワードなどを手掛かりに、以下に無謀にもまとめてみようと思います。

まだ随所が書ききれていない文章ですが、この「〆」を日本列島になぞらえたネタは、よく使う機会があるので、まだ未完の記事ですが先にアップさせてもらいます。ご了承ください。

 

 

1、青龍・白虎・玄武・朱雀 と「結界」 

 まず、最初に踏まえておかなければならないのは、風水につながる見方です。

 

 

画像は「ラージスケールの風水」より
http://www.nikkenkyo.jp/before/4joho/fusui/3large/large.htm

 

 

 青の矢印は逆向きにしたほうが良かったかもしれません。

 

 都に限らず大自然のなかに人間が家をつくり、やがて集落から徐々に発展していった都市社会は、四方を結界で区切り、その領域を地鎮祭のような小さな空間から、徐々に広げていっていったものです。

 これはなにも「結界」といった意識に限らなくても、自然界に対する人間の日常の意識に根ざしたものであるといえます。

 柳田国男は「サカ(坂)」「サキ(崎)」「サク」「サケ」を同義とみなしています。

 「サキ」は境界をあらわし、ものごとが異質なものに変わる場所であり、空間と時間の違いはあっても原理は同じであるとしています。

 

 京都や奈良の都のような巨大な姿は、人間界と自然界の結界を最大限にまで広げたものといえるかもしれませんが、むしろその姿は、特殊な例であって、本来は大自然につつまれた人間社会の営み自体が、常にこうした構図のなかにあるのだということが、以下に示す「天円地方」の思想があらわしてるものであると思うのです。

 

 

 

2、「天円地方」の思想

「天円地方」という言葉の通常の解説は、Wikipediaなどによると、

天は円く、地は方形であるという古代中国宇宙観である。中華文化圏の建築物や装飾のモチーフとして用いられる。天が円で表されるゆえんは、星の運行が円運動で表されるためである

となっています。

「天円」をもっぱら天体、星の運行、円運動などによってとらえられています。

 また「円形の天空」とは、「回転」つまり「動」を表していて、これに対する「方形の大地」は「不動」であって、「静」をあらわすともいわれます。


 しかし、歴史をみるとどうも私には「天円」は、天体や星の運行などに限定される概念ではなく、人間界と区別される、あるいは人間界の外側を包摂する「自然界・宇宙・異界」などといった広義の概念でとらえるべきことのように思えます。

 陰陽五行説をはじめ、古来、人が天を意識するのは、何よりも王権君主や天皇が天の意を正当に代弁していることの証しを求めていたからであり、その天とは決して天体宇宙といった自然科学的な対象ではなくて神・宇宙・自然の同体としての天であったはずです。

 

「円においてあらゆる対立は止揚される。あらゆる力は円の内に包括される。その単一性と完全性において、円は、神や宇宙や人間に関するあらゆる観念が合流する幾何学図形であり、つまりは存在のもっとも内的な構成原理であり万有の秩序の規範となる神聖なる核の象徴である。」
      マンフレート・ルルカー『象徴としての円』法政大学出版局 

 

 こうした広義の概念でとらえると、良く知られた「足るを知る」の意匠の天保銭が、単なる欲を捨てる戒めの意味だけなのではないということが見えてきます。

つまりこの「吾ただ足るを知る」のかたちが、「天円」につつまれた人間界(地方)方形の社会が、豊かな自然・天界の恵みになんら不足することなく満たされているのだという「天円地方」の思想そのものであるということです。

余計な物を持たなくても足りていることの自覚を促す「清貧のススメ」の考えとは、まったく違う、大自然の豊かな恵みによって十分に満たされているから足りていることを知るのだという考えがここに浮かび上がってきます。

 

「足るを知る」は清貧のすすめではなく「天円地方」の思想
http://tsukiyono.blog.jp/archives/1044729036.html

 

 

 天円地方の構図を逆にしたのが、相撲の「土俵」です。

 

 

画像は「相撲の概要」より
https://www.e-shiki.jp/sumogaiyo.htm 

 

ここには、人間界(地方)から神域である自然界・異界へ立ち入るための儀式の構造がつくられているのがわかります。 

南東や南西の角に水おけや塩がおかれているのは、決して角でスペースがあるからではありません。

「地方・人間界」から神域である自然界・異界へ通じる出入り口にあたる場所であるからそれらがおかれているわけです。

 こうした構図からも「天円」が必ずしも天体に限定されるものではないということがうかがわれます。

 

 方形の人間界(地方)を内側へ守り固める力が、白虎・青龍・朱雀・玄武によって四方ではたらいて安定した社会をつくるということで、その四方を突き破る力は、対角線上に走っているわけです。

 

 



3、「鬼門」、方位としての「丑寅」と「八瀬の童子」のことなど

 

 以上の考え方にもとづくと、風水で語られる白虎・青龍・朱雀・玄武の方位と鬼門、裏鬼門といった見方も、「鬼門」だからといってそれが必ずしも「悪い」方角を指しているのではなく、人間界(地方)から豊かな恵みのもとである自然界、天界、異界に踏み入るときは、人間界(地方)の感覚そのままで踏み込んでは危険なほどの強い力(恵み)があるから、心して入るようにとの分別を説いたものであると見えてきます。

 だからこそ、比叡山や石清水八幡宮は、その後背に豊かな自然(山や川)がひかえているのです。

 驚異であるとともに恵みのもとでもある大自然こそが、古代からの世界観の基調であったはずです。 

 

  このような風水地理学から振り返ると、京の都の南に位置していた広大な小椋池を埋めてしまったことは、都の風水にとってとてもマイナスであったことがうかがわれます。

 小椋池が埋め立てられたのは、ごく最近のことで、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えたそうです。

 明治維新で都に天皇がいなくなり、さらに都の南の広大なデルタ地帯が埋めたてられたことで、京の都は観光によってしかその存在価値は保てなくなってしまいました。

 小椋池に接した伏見や宇治の地理的価値が高かったのはわかりますが、今回の旅で石清水八幡宮や後鳥羽院の水無瀬離宮の跡地などを道に迷いながら車で走り回っていたときに、桂川、宇治川、木津川などが合流するこの一帯が、およそ川筋など定まらない、川とも池とも湖とも湿地帯とも本来区別のつけようのない土地柄であったことが十分想像されました。

 後鳥羽院が目をつけた水無瀬の風景が、今の姿とはかけ離れた姿があったに違いないことを思うと、ふと広い熊野本宮跡地の河原にあった光景とダブって想像されました。

  

 

 そもそも神社の多くは、山、石、水(滝・涌き水、川)などを御神体として崇めるための拝殿であるわけです。 

 神奈備(かんなび)、磐座(いわくら)、神籬(ひもろぎ)などから次第に進化していった拝殿のほうに、つい私たちの意識はかたよってしまいがちですが、いつも立派な神社や仏閣を訪ねるたびに、私たちはそれらの建物以上に、その場所、空間の自然の豊かさに圧倒されるのも事実です。

 


今回訪れた「栂尾高山寺、神護寺、石清水八幡宮」

https://photos.google.com/share/AF1QipN0FgWGbmfbC-ZWfbvPEWxHpODCHag_OjqGvZpNF3RlsHVkdtnH1jza3Qx3_TrMcQ?key=eWVac3BkUURpZ2h5RHJwU2RUNXZCNHZmSktqVV9B

 

 

 

 

 

 この四方の固めを破って、対角線上に貫く力というのは、都などの都市づくりの世界ばかりでなく、もっと広い世界でも様々な領域でも見られる力学であると思います。

 それをわたしは、「〆(しめる)」という文字のなかに感じました。

 〆(しめる)」という文字は、締めるという意味では否定的な意味にとらえられがちですが、この文字は同時に「束ねる」という意味ももちます。

北東から南西にかけて貫き、人間社会をも貫くような強い自然のエネルギーを、同時に西北から南東へ斜めに突き抜くエネルギーが、逆に束ねる役割りを果たすわけです。

  

 

 

 

 


 

 

 

 

この力学が、日本列島そのものにあてはまります。 

 

 

日本列島のかたちそのものが、北東から南西にむけてズバッと、自然界のエネルギーを貫き通したかたちになっています。

 

それが、いったん朝鮮半島や大陸に跳ね上がるエネルギーを必然的に持ちえていた。

というよりは、他の方向へ向かう必然性を持ち得なかった日本列島の構造が、風水的な理にかなった恵みをもたらしたとも言えます。

 

そして一度大陸や朝鮮半島へ跳ね上がったエネルギーが、ふたたび日本の日本海側の出雲や若狭湾から能登半島にかけて入り込み、そのまま本州の中央部を貫いて、吉野から熊野に至る紀伊半島へ、あるいはさらに大雑把には伊豆や房総半島へ貫くエネルギーがあらわれているわけです。

 

 この、南東に抜けるベクトルのみが、その先へは抜けない、まさに「〆」止め、留めになっています。

これだけが、折れ曲がることもなく、反転することもない行き止まりのベクトルです。

 

また、この締める、束ねる部分(能登半島から紀伊半島)に重なるようにして、日本列島最大の「くびれ」部分も、ここに存在します。

若狭湾から近江、琵琶湖を挟んで伊勢湾に至る部分です。

東西交通の要として信長が注目した場所です。

これはまた横道にそれるので、ここでは深入りせずに先に進みます。 

 

熊野信仰で、南の海へ旅立つ補陀落渡海の思想がありますが、南の海であっても思想は西方浄土を求めたものかと思われます。

この力が動く時は、必ず東西の流れに変わります。

  

 

 

 このような対角線上のエネルギーの流れに比べると、一般的に言われる太陽の動きに対応した東西のエネルギーの流れというのは、自然界では必ずしも強いものではなく、むしろ自然界ではない人間界(地方)内部固有の力学として意味付けられている場合が多いのではないかと思われます。

 もちろん、地球の自転から惑星の運行まで、基本は東西の流れのなかで気象の変化も含めておきています。

 しかしそれが、天文上の必然の流れの法則であるだけに、「不変」とも解釈できますが、同時に「自明」とも言えるほどの摂理になっているわけです。

 こうした意味において、古代、あるいは縄文時代の人びとは、確かに太陽の高さや出る方位は大事ですが、それらには必ずしも現代人が想うほど意識はしていなかったのではないでしょうか。

 縄文や古代遺跡の解釈のなかには、確かにやたら太陽信仰に基づいたものと言われる遺跡や構造物が見られる気もしますが、それらの多くは、むしろ現代人の尺度で見てしまうことによってゆがめられた解釈なのではないかとも思えるのです。 

 

 

4、先天易(大自然の東西論理)と後天易(人間と自然の南北論理)

 

  

太陽と月

 太陽は常に同じで、それ自体不変であり、およそ「生成」というものを知らない。それに反し、月は満ちたり、欠けたり、見えなくなったりする天体で、この天体の「生」は、生成、誕生、死の普遍的な法則に従っている。人間とまったく同様に、月は悲劇的な「歴史」をもつ。というのは、月は凋落して、人間の場合と同様、ついに死をもって終わるからである。三晩の間、星空には月が出ない。だが、この「死」のあとに、再生が来る。つまり「新月」である。月が闇の中に、「死」の中に姿を消すのは、決して決定的ではない。シンSin神にささげられるバビロニアの讃歌によれば、月は「それ自体からなりでる果実」である。月はみずからの運命のより、それ自身の本体から再生するのである。

      (ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』せりか書簿より)

 

 

 

東西の動きというのは、政治や経済、さらには戦争などにおいては中心となる力学です。

地球の自転にそった動きの方が、物体の移動は影響されやすいからなのかもしれません。

対する南北の動きというのは、上下の動きとも言えますが、おもに精神上のことであったり生命上のことにおいておもに働く力学です。

 

 

 

 

多くの未開民族は、性交が子供の誕生につながることを知らない。(中略)しかし、「どこから」という問いは、つねに変わらず「子宮から」と答えられるにちがいないし、また答えられていくことであろう。新生児がみな子宮から生まれるというのは、人間の原体験だからである。神話の「丸いもの」もまた子宮と呼ばれるが、この起源の場所は具体的な場所と受け取られてはならない。すべての神話が繰り返して述べているのはまさに、この子宮がイメージであり、女性の子宮は人間がどこから来たかを示す原シンボルの中の一つにすぎないということである。

      (エーリッヒ・ノイマン 林道義訳『意識の起源史』紀伊国屋書店  
            大島直行『縄文人の世界観』国書刊行会より孫引)

 

 そしてこの子宮・母体の再生思想にとって鍵をなるのは、決して太陽ではなくて「月」と「水」であるわけです。

上の図でいえば、地方の南には、必ず川が流れ出る水の領域があります。

 

 

 

 

 

  マザーネイチャー


 5、アマテラス偏重から「再生思想」復権のために

 

 

 

 古墳などの入口の向きが、古いものほど南向きになっていると言われます。

古墳の多い奈良、大阪、群馬などの地図をみると、古墳のつくり方は必ずしも東西南北にはこだわらず、けっこうばらばらな向きに作られているようです。

それが時代を下るほどに、東向きのものが増えてくると聞きましたが、それを立証するほどの資料を私はまだみていません。

しかし、古い古墳や墳墓をみると意外と南向きに入口がつくられているのを見ます。

先日、上野三碑を東京の〈月〉の会の皆さんと訪ねた時にみた古い山之上の碑横の古墳も南向きの入口でした。

 

 

 

それから熊野信仰など、原始信仰

 

 

 

 

 

 

(前略)彼の上には空以外何もなかった―澄んではいないが、それでもやはり、はかりしれないほど高くて、灰色の雲が静かに流れている、高い空以外。

〈なんて静かで、落ち着いていて、おごそかなんだろう。おれが走っていたのとはまるで違う〉

 アンドレイは思った。

〈おれたちが走り、わめき、取っ組み合っていたのとは、まるで違う。憎しみのこもった、おびえた顔で、フランス兵と砲兵が砲身掃除棒を奪い合っていたのとはまるで違う―まるで違って、この高い果てしない空を雲が流れている。どうしておれはこの高い空が見えなかったのだろう?そして、おれはなんて幸せなんだろう〉

             トルストイ『戦争と平和』より

 

 

 

 以上、わたしの「旅のイメージ」として日ごろ思っていることを図式しながら、思いつくところをつらつらまとめてみました。

 全く体系的な説明にはなっていませんが、北海道からとりあえず今の所本州、四国のはずれまで旅をした時に、なんとなくこんなようなことをいつも意識しているのです。

 

 結局、整理しきれたとはいえないものになっていますが、風水的発想に絡めて整理したかった点を強いてまとめるとすれば、ざっと以下のようなことでしょうか。

 

1、神社などの神様の古来の実体は、決して拝殿などの建物の中にあるのではなく、その背後にある人間の目には見えないもの、自然界の力や現世の人間の力を超越したものへの畏怖、畏れ、敬いなどの気持ちのなかにこそある。

 もちろん、秀吉や家康などの時代から、祟る神となった人間ではなく権威・尊敬の対象としての神や神像などを御神体として敬うかたちも、実体として歴史が下るほどに増えてはいます。

 

2、自然、生命の力、生命再生の思想こそが、古来縄文の時代から脈々と今日にまで生き続けているものですが、長い歴史のなかでは、時代ごと常に人間界「地方」の側の論理に偏ることがあり、その度に「天円」につつまれていることを忘れて神や人に権威や序列をつける傾向がある。

 

3、本来、「太陽も月もあまねく隔てることなくこの世を照らす」(聖徳太子)ものであるにもかかわらず、太陽(アマテラス)ばかりに偏り、月を忘れてしまった歴史が長く続いていることに、生命の本来の輝きを喪失してしまっている姿をみてとれる。

 

 

 

 

関連ページ 「地方」の本来の意味は「天円地方」?

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/81d0a6e954233dbf780299c2afa81694

 
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毛沢東の贈物。

2017年10月14日 | 歴史、過去の語り方

 「毛沢東の贈物」をネットで検索すると、日本の誰それに毛沢東から送られた贈物が、偽物であったという話が出てきます。

 中国の財宝のほとんどは蒋介石が持って行ってしまったために、中国本土には偽物しか残っていなかったという事情によるようです。

 でも、ことを正すとすれば、中国側の事情がどうであれ真贋の見分けがつかないことこそ、第一の問題であると思います。

 ですが、

 そんなこと以上に、毛沢東が日本にしてくれた遥かに大きな贈物があります。

 それを私は、アレックス・カーの本によって知ることができました。

 

 と言いながら、その出典を私は確認できません。

 てっきり、アレックス・カーの『犬と鬼』という本のなかで、それは書かれていたと思っていたのですが、この本を薦めて読んだばかりであるはずの知人から、そんな話が書かれていたことの記憶がないと言われてしまったので、私の記憶に確信は持てなくなってしまいました。

 まあ、いずれにしてもアレックス・カーがどこかで書いていたことには間違いないと思います。

 

 

それは、

 今になって中国が日本市場を脅かし、日本経済に大きな脅威を中国市場が与えているかのことが言われていますが、そもそも、戦後の歴史をグローバルに見るならば、毛沢東が中国を共産主義化してくれたことによって、日本がどれだけ西側諸国の市場をアジアで独占して成長することができたであろうかということです。

 もともと古代からいついかなる時代でもアジアの中では大国であり続けた中国です。その人口規模、市場規模から考えたら、いついかなる時代においても中国はアジアのなかの大国であり続けています。

 それが、毛沢東が革命を起こし、社会主義化してくれたおかげで、資本主義市場に対しては沈黙を守り続け、アジアではほぼ日本のみが、戦後のアジアの資本主義市場を独占して発展させることができたのです。

 敗戦後、アメリカの政策や朝鮮戦争特需による戦後の復興は語られていますが、中国は資本主義陣営に敵対すると言いながら、日本経済にとってはアジアにおける日本の独占を中国がなによりも一番保証していたということを見落としていないでしょうか。

 それをアレックス・カーは、「毛沢東からの贈物」と評しました。

 

 日本が敗戦の焼け野原から立ち上がってくるときに、もしもその時から中国が市場開放していたとしたら・・・

 とても今の日本の復興や高度経済成長などはありえなかったのではないでしょうか。

 もちろん、それは今ほどの脅威ではなかったかもしれませんが、戦後、早くから中国が市場開放していたならば、少なくとも今よりももっと早く中国の経済成長が始まっていたことは間違いないでしょう。

 それだけ中国が、日本に半世紀にもおよぶアドバンテージを与えてくれて戦後の復興を助けてくれていたにもかかわらず、日本はそれに気づかず、目先の数字ばかりを追いかけてしまいました。

 毛沢東が日本へ途方も無い贈物をしてくれている間に、日本は「大人」の経済や「大人」の国家になれれば良かったのですが、残念ながら市場の拡大にしか目がいかず、今の有り様になってしまったというわけです。

 

 周辺諸国とのつき合い方をイデオロギーや敵か味方かの判断ではなく、いついかなる時代においても折り合いをつけて付き合い続ける覚悟を、島国日本は長い歴史の間ずっと鍛えられていません。

 長い歴史の間ずっとフランスやイギリスと敵対し続け、ナチスの時代の残虐から隣国ポーランドなどからは「怨念」を突きつけられ続けているドイツに比べたら、日本の韓国や中国をはじめとするアジア諸国との関係は、あまりにも「ゆるい」。

 かといって「ゆるい」からといって無理に「シビア」に方向転換する必要もないと思いますが、必要なのは、日本の恵まれた環境を自覚して、何事も他人のせいにしない「大人」になることだと思います。

 

 私は保守主義ではありませんが、

 社会主義中国や旧ソ連、ロシアの脅威を感じるのであればあるほど、アメリカなどの大国に頼らずに独自の中国やロシアとのつき合い方を模索するのが「大人」の国の振る舞いであり、敗戦と占領のジレンマから脱することの出来ない環境があればあるほど、国際社会のあるべき常識、自主、独立、平等への道を真剣に模索するのが「大人」の国への道であると思います。

 

 ほぼ半世紀にも及ぶ「毛沢東からの贈物」を無駄にしてしまった日本ですが、明日のことを考えるならば少なくとも、他国のことを非難する前に、自国の有りようを先に正す姿勢をもつべきだと思います。

 考えてみれば、毛沢東からの贈り物だけではなく、敗戦後は、周恩来が日本に対して戦後賠償を一切求めなかったことや朝鮮戦争特需など、同じ敗戦国ドイツに比べたら異常に恵まれた環境下で戦後復興をなした国であったことがわかります。

 東西合わさったドイツでさえ、人口は8千万人レベルで、国土面積は日本より小さいのです。

 日本人が勤勉であることに異論はありませんが、こうした異常に恵まれた環境を見れば、特別に日本がすぐれているわけではないことはもう少し自覚できるのではないでしょうか。

 

 バブル崩壊後の失われた10年、20年の問題ではなく、半世紀にもおよぶ「毛沢東からの贈物」の恩恵を活かしきれなかったツケが、今の日本に現れているのだと思います。 

 デフレ脱却を至上命題にしたさらなる「成長」のための戦略ではなく、「大人」の経済、「大人」の国家への道を、遠回りはしましたが、これから少しでも前へ築いていきたいものです。

 

 

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旅の拾いもの ④ 穴太(あのう)衆の里

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方

 日本という国は、基本は木と紙の文化の国であるといえます。

ところがそこに、本来、日本には異質ともいえる石の文化がおもに渡来人らによってこつ然と芽生えた、
かのような痕跡があります。

その代表が近江にある石の文化であり、またそれらの技術を最高度にもっていたと思われるのが、
穴太衆(あのうしゅう)といわれる職人集団です。

わたしは二十数年前、白洲正子の『かくれ里』を読んですぐにそうした近江の地を見てみたくなり、ひとり車を飛ばして行ったことがありますが、そのときは湖北や湖東方面のみで、この穴太の里がある坂本方面まではまわれませんでした。

かくれ里
クリエーター情報なし
新潮社

以来、ずっと気になっていたので、安土城址に行くたびにその石垣に穴太組みの石積みはないかと、石垣を目を凝らしてはみたものでした。

関西方面へ車で出かけるたびに、何度、穴太の坂本がすぐ近くにあると思いながら大津を通り過ぎたことでしょう。

毎度のことながら、何度出かけても京都の地図の縮尺と近江の地図の縮尺の違いが頭に入らず、滋賀県内の移動はつい距離を甘くみてしまうものです。

それが、今回の京都旅行は、二日宿を大津市にとったので確実に坂本へ足を伸ばすことができました。といっても、それは半分偶然だったのですが。

 

今回の旅の目的のひとつは、都の鬼門の意味を確認することでした。

そのため私たちは北東から都入りすることにこだわり、大津から琵琶湖沿いを一旦北上してから京都方面に入ろうと考えました。

どうせならその途上の日吉神社にも寄りたいので、とりあえずナビ上でみたら穴太という地名が見えたので、厳密にどこというわけもなくただその穴太を行き先として設定してみたのです。

すると、どんどん道は住宅街の狭い路地に入り込み不安になってきましたが、穴太の地域に入るとたちまち周囲の住宅の石垣が、まさに穴太積みの美しい石垣で、右をみても左をみても、いたるところに穴太積みの石垣を見ることができました。

残念ながら、狭い住宅街の路地を出口もわからないまま車で走行していたため、止まって写真を撮る余裕がありませんでした。

下の写真は、日吉神社の境内の石垣です。 

 

まさにこうした不規則な石を組み合わせて積み上げるのが穴太積みの特徴で、不規則な石を組み合わせるからこそ、強度が増すものです。

江戸時代になると、方形にきちんとカットした石を積み重ねることが主流になりますが、直線の組み合わせだと、どうしても構造的には縦の重みだけで支えるようになってしまい横の力には弱くなってしまいます。 

ただし残念ながら、この度の熊本地震で崩れた熊本城の石垣も穴太衆が築いたといわれるものですが、百年千年に一度の地震には耐えられませんでした。
 
石垣 (1975年) (ものと人間の文化史)
クリエーター情報なし
法政大学出版局
 
あらためて穴太衆の石組みを見ると、天然の石の形をそのまま活かした不規則性というものが、とても美しいことを感じます。
 
時代が進み技術が進歩したり合理的思考がすすむと、どうしても効率のよい方法へ流れていきますが、ブロック積みのいかなるものよりも、こうした自然石のかたちを活かした積み方には、積み上げることの難しさにプラスされた造形の美しさそのものがとても大きな魅力になっているものです。
 
この自然素材をいかに活かすかということが、翌日から入った京都の寺社の造りをみる視点の大きなベースとなりました。

 

 

 

 

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旅の拾いもの ①「飛行神社」

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方


今回の大事な行き先のひとつ、石清水八幡宮へナビをたよりに向かっていたら、すぐ近くに「飛行神社」があることを知りました。

 


ライト兄弟が世界初の飛行機を飛ばす12年前の明治24年に、独自の構想で航空機を考案した二宮忠八を祭った神社です。



事故のあるたびに、取り返しのつかない責め苦を背負う人びとを受け止め、航空安全への願いを受け入れてき大事な場所です。


吉村昭「虹の翼」を読んで以来、二宮忠八とともにずっと気になっていた場所に立ち寄ることができました。

虹の翼 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


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旅の拾いもの ②「天龍寺百花苑」

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方


念願の大河内山荘へ宿からは近いからと道を確認せずに向かったら、天龍寺に一旦入らないと大河内山荘へは至れないことがわかった。(帰りに桂川沿いの道があることを知る)
いつも混んでいる天龍寺は、必ず避けて通る観光スポットベスト5(清水寺、金閣寺、竜安寺、紅葉シーズンの京都)みたいな場所。
あきらめて庭園参拝コースのチケットを買って北門を目指すことにした。

すると、北門になかなかたどりつけずに歩いていた庭園「百花苑」の草花があまりに凄いのに驚かされました。
よくある万葉植物園のたぐいよりも遥かに充実した庭園でした。

(残念ながら、ここは当初の目的には考えていなかった場所なので、写真を撮る意識がなく、適切な説明になるような写真が残っていません。)

 

 


和花の種類が豊富なのに加え、その草花の名前の表示が、日本名に加えて中国名まで併記されてるのです。

しかもそれがアクリルやプラスチックのプレートなどは使わず、すべて木の立て札に墨書きされているのです。



たとえばウツギは、万葉表記で宇能花、宇乃花、宇乃波奈、宇能婆奈、干花などとなる。
これに中国名が加わるとまったく違う花のイメージもわいてくる。

もっとも、これをみると中国名の表記は、外国人観光客が増えてからの新しい札のみで、それも英語やハングル語表記とあわせてあるので、古来の中国名であるとも限らないかもしれない。



それほど見事な庭園だったので、売店でこの植物園の植物図鑑のような本でも売っていないかと妻が聞いてみたが、残念ながらそのようなものは作られていないとのことでした。

市販の植物図鑑でも、和花についてこれほど良い情報が書かれているものはなかなかないと思います。


月夜野所縁の源順が、アジサイをまったく違う中国の花の呼び名「紫陽花」と名付けてしまった事情などがよくわかる。

余談ながら以下はアジサイについての妻の書き込み情報の転載
「紫陽花」日本語漢字は唐の詩人白居易がライラックに付けた名で、源順がこの漢字をあてたことから誤って広まった。草冠の下に「便」を置いた字や(新撰字鏡)、「安知佐井」「止毛久佐(しもくさ)」。紫陽花の葉が便所で使われる地域もあったことや止毛久佐はトモクサと読めるがシモクサと読んだ。また別名として「またぶりぐさ」とも。そういえば小学校の頃トイレの裏や古い大きな家のそこも紫陽花の花が植えてあったのを思い出します。この風習の名残かも...一寸余談。


ものの見せ方、伝え方がいかに大事かと、とても良い勉強をさせてもらいました。

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気になる地名、太子(おおし)(たいし)大子(だいご)、太子信仰のことなど

2015年10月27日 | 歴史、過去の語り方

「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「戦争遺跡と廃墟の美学」でも触れていますが、

群馬県の長野原から先に、廃線となった太子線という鉄道があります。

義父からそれが、太子と書いて(おおし)と読むのだと聞きました。

              (長野原ー太子線 太子駅跡 )

 

戦争中、金属不足を補うために急きょ、突貫工事で作られた路線で、

鉱山跡があることから太子信仰がらみの地名と思ったのですが、

読み方が違う。

いったいどういう意味なのかと思いました。

 

さらに紛らわしいのは、数年前、茨城県の袋田の滝へ行ったとき、

その土地が大子(だいご)と読むのを知りました。

ここは、吉村昭の水戸天狗党の乱を描いた「天狗争乱」や「桜田門外ノ変」などで、

水戸藩士の逃亡先などとして、やたら出てきた地名。

小説を読んでいたときは、おそらく意識していなかっただろうから、

ルビがなかったら勝手に太子(たいし)と勘違いしていたのではないかと思います。

 

また、群馬の長野の県境にまたがる熊野神社へ行ったとき、

太子信仰の石碑を見て、そういえば長野の方が太子信仰が盛んであることを

思い出しました。

 

結構、あちこちでみられる地名の太子と太子信仰の関わりは、

いったいどんなものなのだろうか。

 

 

しばらく、そんな疑問も忘れていたのですが、かつて読んだ

五木寛之・沖浦和光『辺界の輝き』が文庫化されたので、

大事な本なので再読してみました。

すると、タイシ、ワタリについてや周辺の話題がやたら出てきました。

 

 

 「ワタリ」「タイシ」については、井上鋭夫『一向一揆の研究』での論及が大きな影響力を持ってるようです。

この本は、分厚く入手しにくいらしい。

「あっ、それ持ってる」と思ったら、

私の棚にあるのは笠原一男の『一向一揆の研究』(山川出版)でした。

 

 

写真は、現在入手可能な井上鋭夫の代表的著作『山の民・川の民』(ちくま学芸文庫)

 

 

行商人、船運に従事する人たちや金堀り、木地師、大工などに広く信仰される太子信仰が、

次第に親鸞などの浄土信仰に吸収されていく。

いや、おそらく後先は地域によって必ずしも時代通りとは限らず、

浄土真宗のなかに後から太子信仰がくっついてきた場合もあるかもしれない。

 

信仰していた人びとでも、上記の行商人や船運に従事する人びとと、

金堀りや大工などの職人たちとは、ちょっと分類が違うような気もしますが、

大きくは「雑種賤民」というくくりでまとめて良さそうです。

 

いわゆる「士農工商」に入らないエタ、非人をのぞく人びとで、

「工」や「商」のようであっても、定住性のない人びと、

あるいは人別帳に載らない人びとなどが中心。

ここには農業を兼ねていない林業、漁業の人びとも、かなり含まれてくる。

もちろん、明確な線引きは難しい世界。

でも、どうやら職種で判断するより、「定住性のないこと」が

意外と大事な目安になるような気がしました。

 

となると、サンカやマタギが当然思い浮かぶ。

山伏や乞食僧らもからんでくる。

 

こんなふうに思いつくままあげてみると、人口構成比のなかで

意外と多くの人びとが「雑種賤民」といわれるなかにいたのではないだろうか。

これから近世の歴史などをみるときに、私たちはもっと「士農工商」以外の

人びとの実態を含めて考えていかなければなりません。

 

これらはきちんとした研究ではなく、数冊の本を読んだだけの私の印象にすぎません。

ちょっと心細いので、ググってみると、

「忍の道」なるサイトにここにかかわることが詳しく出てました。

http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-2.htm#3

 「井上の一向宗研究は、一向宗そのものよりも、原一向宗とでもいうべき一向宗 以前の姿を、太子信仰のなかに探ったというべきものである。井上によると、 山伏修験者たちは蔵王権現はじめ大日・阿弥陀・薬師・観音・地蔵・不動など の諸仏菩薩を信仰した。一方、彼らに使役された金堀りたちは諸仏菩薩より一 段低い信仰対象を与えられた。山王にたいする王子のようなもので、信仰にも 階層差別があったことになる。従って、太子信仰は元は王子信仰にあり、金堀 りは太子信仰であったがゆえに後にタイシあるいはワタリと俗称されるように なったという。 」

 

「太子信仰は元は王子信仰にあり」ということがそのまま、

太子を(おおし)と読むことにつながるわけではありませんが、

このサイトはとても参考になりました。

 

柳田国男は「太子講の根源」という項で以下のように述べてます。

「すなわち我々の迎えて祭った神々は、常に若々しい姿をもって信徒の前に出現なされ、
人はそれを天つ大神の御子と思っていた故に、通例は大子と呼んだことがあるらしいのであります。
後世漢字の用法が厳格になってからは、天つ日嗣(ひつぎ)の御子に限ることになりましたが、
その以前久しい間、田舎ではこう書いてオオイコもしくはダイシと称えることが、
広く名門の家庭までも及んでいた証拠があります。
神にはなおさらのことで、それが一方には弘法大師となり、他の一方には聖徳太子諸国御遊歴の
話ともなったかと思います。
そうして東国には別に仏法とは縁のない太子講が、現在もなお行なわれているのであります。

      柳田国男『女性と民間伝承』角川文庫 

 

また、『日本の伝説』の「大師講の由来」では、

だいしはもし漢字をあてるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音でよぶようになってからは、だんだん神と尊い方のお子様のほかには使わぬことになり、それも後にはたいしといって、ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。」

さらに、

「また大工とか木挽きとかいう、山の木に関係ある職業の人が、いまでも太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかもしれません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しく、また尊い神様をまつっているものがほうぼうにありました。そうしていつでも御身内の婦人が、かならずそのおそばについておられるのであります。それから考えてみますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、のちにはびんぼうないやしい家の者のようにいい出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母(おんおば)というような、とにかくふつうの村の人よりは、ずっとそのだいしにしたしみの深い方であったのではないかと思います。」

 

 

今回は、何も結論を出すような内容はありませんが、

・ 太子信仰と浄土真宗の相関

・ 雑種賤民という階層の人びとの実態

・ タイシ、オオシという地名の由縁

とても興味深いところなので、頭の片隅に残して継続して追っていきたいと思ってます。

 

              2013年10月5日     (2014年12月30日更新)

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戦争を止めること、語ることの難しさ

2015年07月12日 | 歴史、過去の語り方

 今、戦後70年の節目に戦争を考える複数の企画にかかわらせていただいています。

 どの企画をとっても「戦争」という大きなテーマに戦後70年を経てどう切り込むのか、切り込み口が豊富なだけに、的を絞ることは容易ではありません。加えて世の中の右傾化が進んでいる現在、憲法を語るにも、沖縄や基地問題を語るにも、それぞれの議論の立ち位置をきめることもなかなか簡単にはいきません。

 そんな折り、戦時中に暗号将校であったある戦争体験者の講演会を開くことになり、企画の持ちかたをどのように提案したらよいのか、とても苦慮してます。

 そのかたは、暗号通信兵という立場から、それほど激戦地での戦いを経験してきているわけではありません。
 おもに中国、満州、朝鮮半島を渡り歩いて終戦をむかえた体験談になります。
 ひとつひとつの移動日時から出来事の記憶がとても鮮明で、話しもとても上手な方なので、その話を聞けるだけでも十分と言えるかもしれませんが、この戦後70年という節目を、その方の体験を聞くだけで、ひとつの講演会を終わらせてしまうことにはとても抵抗を感じます。その方の体験から教訓として、シビリアンコントロールがとても大事であるとも強調されていましたが、話しがそれまでになってしまって良いのでしょうか。
 もしそれだけで企画を終わらせてしまったら、今、いったい何を問いかける講演会になるといえるのだろうかと思わずにはいられません。
 いかなる立場であれ、当時のリアルな体験というのは今やひとりひとりがかけがえのない貴重な証言者となっています。 それらを今こそもらさず発掘して後世に伝えていかなければならないのですが、私たちがそこから何をつかみ取るのかを抜きに、いまそれを語ることはできません。
 地元ではとても知名度はある方なので、企画を準備しているその周辺の皆さんにどう提案するべきか、あれこれ考えているのですが、いまだに考えがうまくまとまりません。

 

 戦後70年を考えるとき、まず第一に大きな壁となることは、圧倒的多数の人びとがいまや「戦争」の現実そのものを知らない、直接的に体験していないということです。

 戦争の現実そのものも、個々の戦地の様子、闘い方の問題、一兵士の重い体験、国際情勢のもとでの政治家や指導者たちの判断の問題、時代毎の特徴、銃後の暮らしの様子、国家総動員態勢の下での様々な変化・・・等など、きりなく課題があります。 

 それらのどこを切り込み口にしてもよいと思うのですが、どうも傾向として、なんであんなバカな戦争をしてしまったのか、こうすれば戦争は避けられた、あるいは今こそ平和をといった論調が、戦争や平和を語る人たちの間で、あまりにも噛み合ない現実に私たちはどう対峙したら良いのでしょうか。

 あの時代に比べたら、民主主義のレベルも進歩したかに見えますが、あのだれも止められなかった戦争をおこしてしまった環境、とても勝てそうにない状況に追い込まれていたにもかかわらず、それを早く止めることができずに多くの犠牲を膨らませてしまった現実、それらの構造は未だになにも変わっていません。

 

 

 その時代のまっただ中にいるときには気づいていなかったことを、後世の人びとはたくさん見て反省しているはずですが、まだ戦争の記憶も生々しいときに起きた朝鮮戦争のとき、私たち日本人はどう行動したでしょうか。

 ベトナム戦争のとき、反戦運動は今に比べたらはるかに大きなうねりとなっていました。
 でも、沖縄の問題、米軍基地の問題をその時どう解決してきたでしょうか。

 遠いアフガンやイラクへの侵攻がはじまるとき、日本はいったいどういう行動をとったでしょうか。

 戦後のどの時期をとってみても、あの大戦の経験があるから日本が再び戦争をおこす心配は無いなどといえる姿ではありません。そこが未だに浮き彫りにならないまま、もはや時代が変わり国際社会の一員としての責任を果たすには、血を流す覚悟なしには国を語ることはできないといった論調が加速的に増えてきてしまいました。

 

 戦争。

 それは、何を語ってもあまりにもインパクトの強い話題になるので、どの部分をついてもそれぞれが本質的論議の性格をもってしまうのも事実だと思います。

 でも今こそ、それで終わってはいけないと思うのです。 

 ではどうしたら良いのか、まだ結論を出せるわけではありませんが、
 まず以下のようなことが思い浮かびます。

 

1、様々な紛争を目前にして憲法九条の平和精神が大切であることに私は異論はありませんが、
 「九条」があれば平和が無条件に保証されるというほど現実は簡単なものではありません。

2、平和や独立を守るために一定度の「軍備」というものが必要であることも間違いないかも
  しれません。しかし歴史をみると、十分な軍備があれば、あるいは敵より強い装備さえあれば、
  必ず平和が守れるというわけでもありません。

3、軍の暴走を避けるためにも、「シビリアンコントロール」は不欠ですが、歴史をみると
  「制服組」ばかりが戦争に走るとも限りません。文民・官僚や国民、あるいはマスコミが
  まっ先に戦争をあおることもとても多いものです。

4、過去を振り返って反省される戦争であっても、その多くは「多数決」で国民の支持をえて
  始まりました。

5、自分の信条や考えにかかわらず「組織」の一員として「戦争」の現実に立たされたとき、
  暴走する上官の命令に直面した場合に自分がどう対応できるか。

6、政治的、あるいは組織的「権限」さえあれば戦争も止められるとも限りません。
  天皇ほどの立場であっても、終戦の決断と玉音放送の録音に至るまでは命がけのことでした。

7、国を守る強い精神と肉体をもった若い兵士であっても、「戦場という過酷な現実」のなかに
  入ると、普通の精神状態を保つことが難しくなるだけでなく、運良く生還した場合でも極めて
  厳しい精神状態におかれることになります。
      (戦場での戦死者の数よりも、生還した兵士の自殺率の方が多い時代)  

8、 戦争か平和か以上に世の中が、「不安定」であることによってこそ利益を得る人たち
  そして現代では、彼らこそが大きな影響力を持っているということを忘れてはなりません。                 (じっくり考えていくとまだまだ他にもありそうです)

 

これらのどれを取り上げても、とてもやっかいな問題ばかりです。

まさにとても「やっかい」な問題だからこそ、「戦争は政治の延長」なのであり、
対話や交渉で解決できないとき、「戦争」という力のの解決策にゆだねてしまうわけです。 

だとすれば、対話や交渉能力の欠如と諦めこそが「戦争=暴力(ゲバルト)」の最大原因ともいえます。

話しがここにくるとまたそれは、国の指導者や外交官、あるいは軍の指揮官の能力の問題としてとらえられがちですが、そうした要因もあることは事実でしょうが、その枠にとどめた話しになってしまうところが、まさに「戦争」問題の解決から遠ざけてしまっている大きな原因があるように思えます。

ちょうどそんなことを考えていたときに、エリック・C というフランス人の以下のような言葉を目にしました。

「日本の民主主義は未熟だと日本人に話すと、優秀な政治家がいないからだと言う人がいるから愕然とする。
民主主義が未熟だということの意味は優秀な人物がいるとかいないとか全然関係ない。政治に関心がない無関心層が多いか多くないかというだけのことだ。」 

 

  現代の政治の問題であっても、過去の戦争の問題であっても、それは無謀な戦争を推し進めた「彼ら」の問題として語るのではなく、「彼ら」を説得することも、止めることもできなかったそのまわりの人間=「私たち」の問題なのです。

 それを実行することが確かに容易ではないことは、誰もがわかると思います。

 しかし、それぞれの現場で、それが戦場であっても、指揮官の作戦本部であっても、議会であっても、マスコミであっても、知識人・研究者の立場であっても、会社などの組織内であっても、住民の隣近所のつきあいであっても、まさにそこに居合わせた自分(あなた)こそが歴史をつくっているまぎれもない当事者なのです。

 目の前の人間の無謀な判断や言いにくい雰囲気、あるいは言うことで自分の身の危険が増す恐れがある場合でも、自分が為せたこと、為せなかったことの積み重ねで、間違いなく歴史はつくられてきたのです。

 

 このことは、戦争にしても平和にしても、それはどこかの指導者に要求することとしてではなくて、自分がその現場で為せることの責任において、それはまさに首をかける、あるいは命をかける覚悟をともなってこそ、一歩前に進みうる問題であると思います。

 現実には、そんなことを言っていたら首(命)はいくつあっても足りないだろう、ともよく言われます。

 でも、それは戦争とまではいかなくても、私たちの職場においてもまったく同じ構図で、日々至るところでいいわけとして使われています。

 まえにも書いたことがありますが、ある教育関係者の会合に私が参加させていただいたときに、教師の責任を問うといった話しになり、それはなによりも自分の教え子たちがおかれている立場を守るためには、教師が職員室で首をかけて闘う覚悟をみせることなのではないかと初対面の先生達に恥も外聞もなく詰め寄ったことがありました。

 そのとき、会合の進行役をしていた先生が、首をかけてやめてしまっては元も子もなくなってしまうので、辞めないように努力し続けているのだといったようなことを言って、その場の空気をすこし和らげようとしてくれたのですが、私はそこでどうしても妥協することができませんでした。

 まず、首をかける覚悟のできていない腹では、いかにテクニックを駆使したところで、子どもには道理が通じないからです。
 逆にその腹=覚悟が決まった先生の行いであれば、仮に首になったとしても、それを見ていた子ども達には、それがたとえ小学生であったとしても、自分の先生のとった行動として深く心に刻まれることと思います。さらには、その先生自身もそのことによってこそ必ず次の活躍の場に出会える可能性が高くなるはずだからです。(公務員の枠内では、確かにこの次の道を求めるのは険しいかもしれませんが)

 そもそも普通の生活や仕事においては、首をかけるようなことなどということは、そう頻繁に起きることではありません。多くの場合は、10年に一度もあればよいくらいなのではないでしょうか。

 それが頻繁に起きるように見えるのは、その首をかけるような出来事にチャレンジせずにずっと持ち越し続けているから絶えずふりかかるように見えるのであるのだと思われます。

 さらに、その首をかけるようなことに出会えるときこそ、自らの真の力を試し成長できる素敵なチャンスであるわけですから、それを逃す手はないでしょう。 

 

 いかに平和のためといえども、決して命であっても首であっても阻末にしてよいものではありません。

 そもそも人の命の重さを比較などできるものではありませんが、その場において指揮官の責任と現場兵士たちの命の重さは、まず等価であるわけです。

 教師の責任と自殺に追い込まれる子どもの命の重さは、少なくとも等価であることで実態が見えるわけです。

 

 

 そもそも、戦争や平和は、あらゆる現場において首(命)をかける覚悟を伴わずに、責任を全うすることは難しいものであるはずです。
 それが難しい覚悟であるのは、まさに自分の首(命)をかけるからであり、他人の(首)命の問題になった瞬間から重い責任と覚悟は多くの人の場合、見えなくなってしまいます。 

 これを理屈で説明しつくすことはとても難しいのですが、世の母親だけは、自分の子どもを守るためには無意識に自分の身を投げ出して守ろうとする覚悟のようなものを、無条件に持っています。

 それが単純に本能といってよいものかわかりませんが、元をただせば、生命を守るということこそ、あらゆる人間や自然界の生物の基本原理であるはずです。

 この意味で、首(命)をかける覚悟のない責任は、もともと何より大切な原理=生命に基づかない反生命的行動とでも言えるような価値と実態を喪失したものと言い切ってもよいのではないでしょうか。

 

 

 私たちが歴史を語るとき、それはあまりにも政治経済史としての部分のみに目がいってしまっています。

 これまで述べたように、それは戦争に限らず、歴史とはまず何よりも

「命を受け継ぐこと」

「自然と人間社会の数多の命の再生産の歴史であること」

 が実態の圧倒的部分を占めているはずです。

 

 この命を受け継ぐこととは、そもそも

個体レベルで常に命がけの行いで成り立つものなのです。

その命を自分自身が担っている主体として背負い考えること抜きに

他人のこと、あるいは社会一般のこと、国家レベルのことに安直に置き換えてしまうことが、

わたしには民主主義の形骸化の最大原因に思えます。

 

こうしたことは当然、誰にとっても容易いことではありません。

私自身、こんなことを書いていながら、無責任ながらほとんどが敗北の歴史そのものです。

でも、だからといって「覚悟」を放棄することはできません。

首をかける覚悟に挑み続けるしかありません。

とっさに身を挺してわが子を守る母親の姿には、とても及ばないのが現実かもしれませんが、
だからこそ、その時こそ「命」の実態を知る大事な「今」に直面しているといえるわけです。

 

個人では太刀打ちできない困難に直面したとき

「だからどうすることもできない」

「仕方がない・・・」

の繰り返しでずっとやり過ごし続けるのではなく、

その個人では太刀打ちし難い現実に

3回に1回でも、

10回に1回でも、

年に一度でも、

いや100回に一度でもいいから

流れに身をまかせ続けるのではなく、立ち止まって

他人に要求することではなく自分がなすべきことで、

その困難な現実にチャレンジする勇気が欲しい。

 

答えは出せなくてもいい。

真剣にチャレンジすれば、少なくとも今までにはふれることのできなかった

沢山のものが見えてくるはずです。

 

「止められない戦争」といいのは、

それは正しいか間違っているかの問題ではなく、

こうした私たちの日々の覚悟や判断の積み重ねのうえに成り立っているものだと思います。

 

 

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上野国分寺と橘諸兄  ~紫陽花万葉歌に想う~ 

2015年02月09日 | 歴史、過去の語り方

万葉集のなかで紫陽花がうたわれているのは、次の二首だけです。

 

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを

     いませわが背子 みつつ偲はむ

                橘諸兄 (巻二十 4448)

 

 あじさいが幾重にも群がって咲くように変わりなく、

 いつまでもおだやかでいてください。

 わたしはこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。(大意)

 

 

 

  言(こと)問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが

       練りのむらとに詐(あざむか)えけり

                                       大伴家持 (巻四 773)

  物言わぬ木でさえ、あじさいのような移りやすいものがあります

  諸弟らの巧みな占の言葉に私はだまされました。  (大意)

 

 

紫陽花の折り重なる様子、移ろいやすさをそれぞれうたっています。

 

「万葉集」は橘諸兄と大伴家持、このふたりの力によって編纂されたともいわれます。

紫陽花の歌で、このふたりが共演していることも面白い。

いや、万葉集編さんの中軸ふたりだけが紫陽花をうたっていることには、何か深い意味もありそうな気もしてきます・・・

百人一首が、ただ名歌を集めただけでなく、ひとつひとつの選択に深い意味が込められているのと同じく、万葉集編さんの中心人物であるこの二人だけが紫陽花という題材を選んだことは、憶測かもしれませんが、推測研究の価値は十分あるかと思います。

まして藤原氏圧政の下で、ひと際苦労を分かち合っているこの二人のことですから。

 

橘諸兄と紫陽花については、様々な考察ができそうですが、
以下のような興味深い仮説のサイトもありました。 
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-604.html?sp

 

 

 

まだ、これほど目立つ花が、歴史のなかでは『源氏物語』にも『枕草子』にも、

まったく取り上げられていません。

   その後、あらわれてくるのは芭蕉句(発句編・夏)でやっと現れます。

 

アジサイは渋川市の花ですが、この町だけはいつの時代になっても変わること

なくその魅力を伝え続けたいものです。

 

天皇と藤原氏を中心に律令制度を軸としたこの国のかたちがようやくできはじめた天平時代。

災害や疫病とともに、その中枢を担っていた藤原四兄弟をはじめとする多くの議政官が次つぎと亡くなってしまいました。

そんなときに藤原氏以外から聖武天皇を補佐し、大変な国分寺政策の責任者に抜擢されたのが橘諸兄です。

多くの人びとが苦しみのなかにあるときに、仏教による救済を求めて聖武天皇は、東大寺をはじめとする巨大寺院や仏像の建立に人々をかりたてたのです。

そんな無謀な計画は、決して長く続くものではありませんが、その責任を担わされた橘諸兄のこころの内はどのようなものであったでしょうか。

 

「万葉集」は「遷都と仏教支配に失敗した橘氏が仲麻呂勢力に対して行なった文化的戦い」(梅原猛「天平の明暗」中央公論社)との見方もある。

 

この史跡にたって橘諸兄の紫陽花の歌をよんでみると、

日本をおおう大きな政治のうねりと、その職務を背負ったひとりの人間の苦悩の姿、

またそこにかり出された幾多の人びとや高度な技術をもった名もなき職人たちの息吹を感じることができます。

 

 

天平一三年(741)多くの災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、東大寺建立をはじめとする国分寺を国ごとにつくることを命じました。

上野国の国分寺は、750年頃に主な建物が完成したようです。

僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60mにも及ぶ七重塔が建てられていました。

 奈良県で一番高い興福寺の五重塔でも50.1メートル。木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8メートル。

五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはありません。各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図によってつくられていたようですが、上野国分寺は早い時期につくられたこともあり、全国でも規模ともに整ったものだったようです。

 

東大寺の七重塔の推定高100メートルには及びませんが、

おそらく当時は上野国のかなり広いエリアからその姿をみることができたことでしょう。

          

                                   (以上、万葉紫陽花歌手作り栞普及チラシ下書きより)

 

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赤城山、赤城神社のネタと言えば・・・

2014年08月03日 | 歴史、過去の語り方

大事な記事は、私の別のブログのものでも、転記することが多いのですが、

これはこちらのブログにはなかったようです。

リンクのみあげておきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/32845363.html?fb_action_ids=827273300617090&fb_action_types=og.likes

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誤解された岡倉天心の思想

2014年07月20日 | 歴史、過去の語り方

1903年、日本が大陸へ徐々に手を伸ばしはじめていた頃、岡倉天心が『東洋の理想』の冒頭で、「アジアは一つである」といったことが多くの誤解を生みました。


しかし、天心の真意は、以下の言葉のなかにこそあると思います。

 

「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸にふけっていたとき、野蛮国とみなしていたものである。

だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。

・・・もしもわが国が文明国となるために、身の毛もよだつ戦争の光栄に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。

われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう。」

 

いま読むと、なんとすばらしい予言の言葉でしょう。

いまだに「文明国」となるために必死の安倍内閣。

 

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未だ米のなる木を知らず

2014年04月03日 | 歴史、過去の語り方

鈴木牧之の『秋山紀行』のなかには、
深く閉ざされた山奥で暮らす人びとの、
おれは未だ米のなる木をみたことがない、
といったような縄文時代さながらの暮らしが描かれています。

「米のなる木をみたことがない」という表現は、
こうした山奥の暮らしを象徴する言葉と思っていました。

ところが森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー)のなかに、

「わたしゃ備前の岡山育ち 
 米のなる木はまだ知らぬ」

という唄のことが紹介されていました。

これは子を孕んだ女が監獄に入ってそこで子を産んだ、
その子は監獄で成長したから米をみたことがない、
ということを唄ったものだそうです。

はたして、どちらが先なのか。


しかし、この言葉の生まれる背景から考えると、それは重要な問題ではない。

米を見たことが無い
米を食えない、
ということがどういうことなのか、

その現実を森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』は、
さらに深く見事に描いています。

 

それは明治から昭和初期にかけての日本の姿ですが、
小作農の多くは米が食べられないばかりか、
麦飯すら容易には食べられない生活をしていました。

二毛作が可能な温暖な高知ですら、
農民はトウモロコシをすり潰したものを食べていた。

いや、日本中、多くの農民は稗、粟、雑穀を日常食にしていた。

そうした貧しい農民が炭坑に働きにくると、
ぷーんと米炊く匂いが流れてくる。
それが、胸にずうんときた。という。

落盤や爆発事故などで多くの命が消えて行く危険な仕事でありながら、
そこでは米が食えるということがどれだけ得難い喜びであったか。

かつての貧農史観の多くは見直されて来ている現代ですが、
こうした厳しい現実が日本各地にあったことも事実です。

 

現代から振り返ると、なぜそれほど過酷な環境下から逃れることなく、

人々はその土地で暮らしていたのか疑問に思えることが多いものですが、

多くの場合は、それ以上過酷な環境からそこに逃れてきた人たち、

以前の場所には戻ることのできない事情をかかえた人たち、

その場から逃れる自由を持ち得ない人たちなど、

様々な「そうすることしか出来ない」人びとであったことが見えてきます。

 

 

他方、現代では残念ながら、

いつでも腹一杯お米を食することのできる都会人が、


その米がどのようにして作られているのか知らない喩えのように


「いまだ私は米のなる木をみたことがない」と


使われだしている悲しい現実があります。

 

日本のお米も、いつになってもなかなか報われず、苦労しますね。

 

 

 

蛇足だながら、「米」の字源は以下の解釈が正当なのでしょうが、

http://gogolesson.jugem.jp/?eid=41

この話の流れだと「木」という字の上に点々がついて出来た字に思えてくる。

 

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昭和の時代区分(メモ)

2014年01月23日 | 歴史、過去の語り方

 

「昭和ラヂオ」で昭和についていろいろ話すようになったけれど、
毎度、テーマの選定には苦慮をしています。

 

ひと口に昭和といっても、あまりにも様々な異なる時代を包摂しているからです。

 

そこで、大まかな時代区分と節目の出来事をメモしておきます。

項目の優先順位は、まったく主観的な印象によるものです。

 

 

1、大戦に至る不穏な時代       人口およそ6千万人

   1923(大正12)年 関東大震災

   1930(昭和5)年 昭和恐慌  (自殺者1万5千人)

   1932(昭和7)年 『のらくろ上等兵』島崎藤村『夜明け前』

   1936(昭和11)年 二・二六事件  吉川英治『宮本武蔵』

   1937(昭和12)年 日中戦争開始

   1938(昭和13)年 火野葦平『麦と兵隊』M・ミッチェル『風と共に去りぬ』

   1941(昭和16)年 治安維持法、真珠湾攻撃 三木清『人生論ノート』

2、太平洋戦争~敗戦

   1942(昭和17)年 食料管理法

   1943(昭和18)年 ガダルカナル島撤退

   1944(昭和19)年 東京へ初めての空爆

3、敗戦、焼け野原、占領下、復興

   1945(昭和20)年 ポツダム宣言受諾 農地改革  

             8月敗戦の翌月9月15日発売『日米会話手帳』3ヶ月余りで360万部

   1946(昭和21)年 労働攻勢  サルトル『嘔吐』

   1947(昭和22)年 二・一ゼネスト中止 日本国憲法公布

   1948(昭和23)年 帝銀事件 東京裁判 A級戦犯25被告に有罪判決

   1949(昭和24)年 下山・三鷹・松川事件 1$=360円 湯川博士ノーベル物理学賞 

   1950(昭和25)年 朝鮮戦争 谷崎『細雪』ローレンス『チャタレー夫人の恋人』

   1951(昭和26)年 サンフランシスコ講和条約、旧安保条約調印、マッカーサー解任

   1954(昭和29)年 ビキニ水爆実験 菊田一夫『君の名は』

   1955(昭和30)年 55年体制 神武景気 三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)

   1956(昭和31)年 日ソ国交回復 国連加盟

   1957(昭和32)年 ソ連人工衛星打上げ成功 深沢七郎『楢山節考』

   1958(昭和33)年 五味川純平『人間の条件』井上靖『氷壁』 

 

4、成長期

   1959(昭和34)年 皇太子婚礼  (かみつけ岩坊誕生)

       1954(昭和29)年~1973(昭和48)年 高度経済成長

          まだ日本製品も、安かろう悪かろうの時代  団地族

         1954(昭和29)年~1961(昭和36)年 設備投資主導の時代

         1962(昭和37)年~1965(昭和40)年 転換期

         1965(昭和40)年~1973(昭和48)年 輸出・財政主導型 

                             GNP世界第2位に

      60年安保   巨人・大鵬・卵焼き

   1961(昭和36)年 松本清張『砂の器』 小田実『何でも見てやろう』

   1963(昭和38)年 日本初の原子力発電 ケネディ暗殺

   1964(昭和39)年 東海道新幹線開通、東京オリンピック

   1965(昭和40)年 赤字国債発行開始 ジョンソン北爆指令(ベトネム戦争)

   1967(昭和42)年 美濃部東京都知事 小笠原諸島返還 第3次中東戦争

   1968(昭和43)年 三億円事件、ベトナム反戦運動

   1969(昭和44)年 東大安田講堂事件 水俣病、四日市ぜんそく、エコノミックアニマル

      拡大する需要にエネルギー資源が国内供給の拡大では追いつかない不安拡大

          人口 1億人突破

      70年安保

   1970(昭和45)年 大阪万博 光化学スモッグ 三島由紀夫自殺 高田好胤『心』『道』

   1971(昭和46)年 ドルショック I・ベンダサン『日本人とユダヤ人』

   1972(昭和47)年 札幌オリンピック あさま山荘事件 日中国交回復 沖縄返還 

             有吉佐和子『恍惚の人』田中角栄『日本列島改造論

   1973(昭和48)年 第一次オイルショック 小松左京『日本沈没』

   1975(昭和50)年 ベトナム戦争終結 有吉佐和子『複合汚染』

   1976(昭和51)年 ロッキード事件 村上龍『限りなく透明に近いブルー』

   1978(昭和52)年 日中平和友好条約 イラン・イスラム革命 第2次石油ショック

   1979(昭和53)年 サッチャー政権発足 スリーマイル島原発事故

   1980(昭和54)年 イラン・イラク戦争 光州事件 山口百恵『蒼い時』

   1981(昭和56)年 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』田中康夫『なんとなくクリスタル』

   1982(昭和57)年 ホテル・ニュージャパン火災 フォークランド紛争

             森村誠一『悪魔の飽食』鈴木健二『気くばりのすすめ』

   1983(昭和58)年 土光改革と官業民営化 東京ディズニーランド開園 大韓航空機撃墜事件

     1979(昭和54)年~1985(昭和60)年 技術主導型イノベーションの時代

     サラ金地獄、家庭内暴力、カラオケ、インベーダーゲーム

 

5、バブル期  1986(昭和61)年~1991(平成3)年

   

   1985(昭和60)年 筑波万博 日本航空123便墜落事故 プラザ合意 ウインドウズ

   1986(昭和61)年 チェルノブイリ原発事故 スペースシャトル「チャレンジャー」爆発

   1987(昭和62)年 国鉄分割民営化 日米半導体摩擦 俵万智『サラダ記念日』

   1988(昭和63)年 リクルート疑惑 村上春樹『ノルウェイの森』

   1989(昭和64)年 昭和天皇逝去 消費税スタート 天安門事件 ベルリンの壁崩壊

   1990(平成2)年 バブル崩壊 イラク・クエートへ侵入 東西ドイツ統一

 

 

 

   1995年 阪神淡路大震災 地下鉄サリン事件

  (1996年 経済統計数値のピーク 右肩下がりへの転換点)

 

ふりかえって見れば、今でこそ日本製品は高品質で信頼性が高いなどと言われますが、

今、中国製品に対して騒がれているような国際市場で粗悪品と言われるような商品は、

昭和30年代までは日本が言われていたことです。

北朝鮮の信じがたい国内統制や国際社会からの孤立は、昭和10年代の日本の姿でもある。

 

昨日の自分の姿を忘れて、安易に他人を批判するよりも、

自分が経験したこと、それをどう乗りこえ解決したのか、

または未だに解決できないのかをしっかりと見据えることが大事ですね。

 

また、世の中の変化のスピードがどんどん早くなっているような気はしますが、

戦前・戦中・戦後の30年、

焼け野原、復興、高度経済成長、バブルとその崩壊、

いつの時代でも10年もたてば、まったく違う時代の中に生きていることを痛感させられます。

 

「昭和ラヂオ」への出演させていただくことで、とてもいい勉強ができました。

 

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當麻寺 梅原猛に学ぶ世阿弥の世界(ノート)

2013年12月13日 | 歴史、過去の語り方

2013年5月に行った当麻寺、高野山、斑鳩の里の雑感は以前書きました。

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/ecec0200b5904f93c63e75178042a321

そこでは当麻寺についてはほとんど詳しく触れなかったので、ここにおさえておきたい資料と

梅原猛の世阿弥観にでてくる「当麻」の関連事項を、ちょっと面倒な引用が続きますが、

大事なところなので書き記しておきます。

 

 

『当麻曼荼羅縁起』 二巻本 鎌倉市光明寺蔵

 

一、「大炊天皇(淳仁天皇)」の御代、「よこはきのおとと」という人の姫、

  深く仏の道を尋ね、仏法の悟りを求む。

  それで「称讃浄土教」一千巻を書いて当麻寺に納める。

二、姫、出家。天平宝字七年(七六三)六月十五日のことである。

  そして生身の阿弥陀如来を拝したいと切に願うが、六月二十日、一人の老尼(化尼)が現れて、

  それならば、その御姿をお見せしよう、と言い、まず蓮の茎百駄を集めよと言う。

  姫は忍海連(おしぬみのむらじ)に命じて近江国からそれを集めさせる。

  老尼はその蓮の茎をたちまち糸とする。

三、初めて井戸を掘る。すると水が満ち、そこへ糸を浸すと糸は五色に染まった。奇瑞である。

  またこの地の奇瑞といえば、天智天皇の御代、井戸のほとりに、夜な夜な光を放つ石あり。

  その石の形、仏に見える。刻すると弥勒三尊であった。

  それで精舎一堂を建立、糸を染めた井戸の奇瑞によって、寺の名を「そめ(染)寺」とした。

  またそこにはかつて役行者が植えた一本の桜があった。

  その桜は霊木であったが、世々を経て朽木となった。

  しかしその霊験は残って種を残して花を咲かせる。

四、四月二十三日、若い女(化女)がやって来た。天女の如く美しい。

  この女は、灯火や織機を要求した。

  そして戌の時(午後七時)より始まり寅の時(午前三時)までのたった八時間で、

  縦横一丈五尺の曼荼羅を織り上げると、たちまちに、五色の雲に乗って去って行った。

五、そこには「九品浄土」の有様が見事に描かれていた。

  姫は、老尼に「あなたはいったい誰ですか」と喜びの涙を流しつつ聞く。

  老尼は、「我こそは西方極楽の教主(即ち阿弥陀如来)と言い、曼荼羅を織った織姫は、

  私の弟子の観音菩薩である」と言う。

  そして姫の涙もかわかぬうちに老尼も姿を消す。

六、それから十三年後、光仁天皇の御代、宝亀六年(七七五)三月十四日、姫往生す。

  そして姫を迎えに現れた二十五菩薩が、歌舞を披露しながら、姫を「極楽」へ連れてゆく。

 

これが「当麻寺建立縁起」の大まかなストーリーである。神仏の申し子である姫が、

念仏に依って往生したという奇瑞が哀しく美しく描かれている。

             (以上、梅原猛『世阿弥の神秘』角川学芸出版より)

 

 

「当麻」も「西行桜」と同じく甚だ花やかな美しい曲であるが、

    「西行桜」よりはるかに宗教性が深い。

「西行桜」を美の夢物語とすれば、「当麻」は美と宗教が一体となった夢物語と言えよう。

                                     梅原猛

 

 

役行者この仏庭に、末代の法苗のため一本の桜樹をうへられたり。

人みな霊木といへり。花のいろ芬ぷくせり。

そののちおほくのよよをへて、かけのくちきとなれり。

しかれともそのたねおひかはりて、はるやむかしのいろをのこせり。

かの霊地にあひあたりて、この井をもほられたるにや。

         (光明寺本『当麻曼荼羅縁起』)

 

ワキ 〽げにありがたき人の言葉、即ちこれこそ弥陀一教なれ

   「さてまたこれなる花桜、常の色には変わりつつ、

    これもゆえある宝樹と見えたり

ツレ 〽げによく御覧じ分けられたり、あれこそ蓮の糸を染めて

シテ 「懸けて乾されし桜木の、花も心のあるゆえに

   〽蓮の色に咲くとも言えり

ワキ 〽なかなかなるべしもとよりも、草木国土成仏の、色香に染める花心の

シテ 〽法(のり)の潤ひ種添へて

ワキ 〽濁りに染まぬ蓮の糸を

シテ 〽濯(すす)ぎて清めし人の心の

ワキ 〽迷ひを乾すは

シテ 〽ひざくらの

地  〽色はえて、懸けし蓮(はちす)のいとざくら、懸けし蓮のいとざくら、

    花の錦の経緯(たてぬき)に、雲のたえまに晴れ曇る、

    雪も緑も紅も、ただひと声の誘はんや、

    西吹く秋の風ならん、西吹く秋の風ならん

 

 

                 梅原猛『世阿弥の神秘』角川学芸出版

梅原猛のうつぼ舟シリーズ。

この『世阿弥の神秘』は、秦河勝をめぐる『うつぼ舟、翁と河勝』『うつぼ舟 観阿弥と正成』ほどのダイナミックな論理展開はないけれど、読んで良かった。

これまでの能楽の専門家たちが語ってこなかった世界。

お能についての専門書を何十冊読むよりも、このシリーズを読む方がずっと広く深く理解できる。

 

 

 

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