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かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

深い課題ほどわかりにくく誤解も生みやすいけれど

2023年01月30日 | 歴史、過去の語り方
久しぶりに異次元高校生の二人と遅くまで話をした。

日ごろ私は、大切な本を彼らか教えてもらうことも多い。
そこで、それぞれの推し本や萌え作家は誰かといった話題になり、いろいろ出し合った。
 
宇佐美りん
鈴木涼美
S・ソンタグ
ユク・ホイ
ドストエフスキー
ニーチェ  など
 
とりあえず #石牟礼道子 に勝る萌え作家はいないということに話は落ち着いたのだけど、振り返ると、そうしたところに名前の出る作家は皆、書いてることの1割もこちらが理解出来ないことが多い。
(1割も理解出来ないというのは、そこの3人のなかでは私だけで、彼ら高校生は、私よりずっと正確に理解して、記憶もしている(^_^;))
それにも関わらず、それらの作家の本で私たちは、たった一行にも満たない表現で、まるで世界が分かったような気になってしまう。
誤解を生んだり、正しく理解されていないことが多いのも、そうした作家に共通している。
では、表現が下手だから誤解を生んだり正しく読まれないのかというと、決してそうではない。
深いところを指し示しているから、容易には届かないのだ。

「大切なことは、そっちではない」
「行くべき方向はこっちだ」
と強烈なメッセージを投げかけるので、誰もが右往左往しながら訳もわからないままどこかに導かれていく。
歴史を振り返ってみると、芭蕉が旅に出るとき、ガイドブックも紹介映像もない時代、ひたすら先人西行らの短い言葉だけでイメージを膨らませ、そこまで行かずにはいられない気持ちを湧き起こした。

そのような力が優れた作家や思想家の文章に共通してある。
大事なこと、深い問題ほど、誤解も生みやすい。間違いも起こしやすい。
悲しい現実だけど、優れた人ほど影響力が大きいがために、誤解や間違った行動を導きやすいのも事実。
その最たる例が、マルクスである。

マルクス自身は、常に具体的歴史状況を精緻に記述しながら語っていても、後世の人々は安易にテーゼとして形式化してしまい、果ては独裁や虐殺にまで至ってしまう。
その種はマルクス自身によりものなのか、誤解・曲解する側が悪いのか。
 
他にダーウィン、ニーチェなども同じ運命をたどっている。
ドストエフスキーの深さもそうした類い。
 
日本では、折口信夫が鋭い直感からその論理の先にある世界を指し示してくれる存在として思い浮かびますが、凡人が容易にその全容を感じ取ることは難しい。
そもそも古くから折口学(縦書きで哲学)などと言われるほどだからw
 
でもそれでも行く価値のあるところこそ、恐れずに踏み込むべきなんだと改めて気付かせてくれたとても楽しい夜だった。
 
 
 

おかげでこの日わたしは、お金の起源が物々交換ではなく、借用書=負債に始まるというデヴィッド・グレーバーの『負債論』と、贈与による負い目こそが、贈与交換の核心であるとのマルセル・モースの『贈与論』。それと中沢新一の自然からの純粋贈与との関係を整理することができました。
 


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決まった目標やプロセスを極める道(どう)と、未知の世界を踏み固めていく道(みち)

2022年04月05日 | 歴史、過去の語り方
しばらく前から、地域学がふたたび盛んになりました。
それは、江戸、明治の郷学から始まり、戦後の郷土史ブームなど何度かの波があります。

ただ、江戸後期から盛んになった郷学が、中央の儒学、朱子学に対抗する「実学」志向が強かったのに比べると、最近の地域学は、地元の歴史を掘り起こす郷土研究の志向がやや強いような気がします。補助金もその方が出やすい。

どちらにも、かけがえのない意義があるのですが、私は、それを群馬学とか東北学とかの○○学としてしまうことに、どうもいつも違和感を感じていました。
かつて、学問の世界は○○学としてしまうから教条に陥るのだと、日本本来の○○道とすべきだとこだわった時期がありました。
柔道、剣道、茶道等々。
ところがこの○○道も、結構、型に徹することを重視するあまりに、教条化が免れない。
本来は、公式主義を徹底することでこそ、本当の個性が育つというのが伝統芸能などの素晴らしさと言われ、私もそれは正しいと思っています。

でも、地域学では少し話が違うだろうと。

そんな違和感を解決してくれたのが、○○道(どう)ではなく、道(みち)と読む視点でした。
道(みち)には、人間一人一人が踏み固めてつくるものといったニュアンスがある。迷いながら、時に踏み外しもしながらです。

この点が、出来上がった道を極めるのと随分違います。
これは、どっちが正しいかの問題ではなく、どちらに重きを置くかの問題です。
あるいは皆んなで歩き考える時と、一人で開拓していく時の差かもしれません。

さらには、そうした出発点の差ばかりでなく、ゴール設定の差も見えてきます。
私は学生時代に、社会科学的認識は文学的表象にまで高められなければならない、としきりに叩き込められました。
つまり、概念的認識を個別具体的な特定の人間の姿(映像)で語らなければならないということです。

それをこの道を、(どう)ではなく(みち)とする視点が示してくれました。

白洲正子は、お嬢様育ちながらも、道(どう)を極めながらも意外と(みち)を探求していて、
それが彼女の文章の輝きをとても増している気がするのです。
それと山田宗睦は、一貫して歴史文化的、哲学的「道」をを探求し続けた人です。
 
 
みちは、未知でもありますが、未知の世界に踏み込む覚悟をもって、手さぐりでひとつひとつ自分の足で踏み固めていく基本姿勢です。

これはドキュメンタリーの手法にも通じます。

最近、NHKなどで市井の人びとの日常を取材するドキュメンタリー型の連続企画が急に増えたような気がします。
「ガイロク(街録)」や「駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」など。
他に鉄道で旅をしている人の取材番組も何かあった気がします。
 
これらを通じてみる市井の人々のドラマには、「普通」ではない体験も多く、演出されている面も少なくないかもしれませんが、それでも、世界にはこれほど様々な生き方や体験をしている人々がいるのだと感動を覚えます。
これも時代の軸足が変わってきていることの現れのように感じます。
 
もちろん、個別、具体的なものが特殊な形態、分類を通じて普遍的なものに通じていく循環は基本です。
でも今の時代は、○○学より、○○道より、道(みち)こそが何より求められてるような気がしてなりません。
 
つまり、ゴールやプロセスが決まったものを極めていく「道(どう)」ではなく、まだゴールも見えない、プロセスもわからないような道(みち)を、その都度迷いながら踏み固めていき、後から通る人が、少しだけ歩くのが楽になるような道をつくることこそが、生きていくことのベースなのではと感じるのです。
 
 あくまでも、道(どう)がいけないということではなく、ものごとの優先順位の話です。
 すべての道(どう)は、最初は道(みち)からつくられたものだからです。
 世の中が「進歩(人工社会化)」したおかげで、この順番が逆転してしまっているのではないかと思います。
 
 
 
 
 
 と、本来はここで話は終わらせておいた方がよいのかもしれませんが、道(どう)の問題には、もうひとつやっかいな問題があります。
 それは「天道」といった、先天的なもの、人間の意志にかかわりなく存在する「ものごとの道理」の世界です。
 
 中国の皇帝や日本の天皇は、この天の道、道理にしたがっているかどうかでその存在価値や地位の保証が約束されるというもので、これは通常の人びとが努力の積み重ねだけでは容易にたどりつくことは出来ない世界です。
 老荘思想などは、こういった視点とも交わっています。
 「天の理」や「天の道」と必ずしも同じではありませんが、「無為自然」の姿でもあると。
 
 これはとても説得力があり、納得もいくのですが、それが常に具体的な人間の存在を通じてしか表現できないので、いつでもそのときの皇帝次第、天皇次第であるという現実が避けられません。
 また「無為自然」の道理であっても、特定の人間の理解や解釈に依存しているので、これもまた容易ではありません。
 
 したがって、人間を理解の主体として前提にする限り、絶対的な何かをおくことはとても危険な道であると言わざるをえません。
 
 それでも私たちは「究極の〇〇」を、どうしても求めてしまいがちです。
 その強い探究心があるからこそ、前進していけるのですが、絶対的な何かを固定した瞬間に進歩は止まり「教条」への道がはじまってしまいます。
 
 兎角、この世はやっかいなものです。
 
 だからこそ、
 
 「学」や「道(どう)」も大いに活用しながら、迷いながらも、たとえ時間はかかっても、自分の足で少しずつ踏み固めていく道(みち)こそが何よりも大切なことと思います。
 
 
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今あらためて滝川事件に学ぶ

2022年01月29日 | 歴史、過去の語り方
 今日、ZOOMで昭和八年に起きた滝川事件のことを少し話しました。
 戦時下の厳しい思想統制が始まりだした時のことです。
 
 それまで、左右の過激思想につながる動きが監視され、そうした行動をとる組織などが弾圧されたりしていましたが、この事件を境にして、実際にそうした思想や行動とは全く関係のない立場の人でも、そうした考えにつながるような表現を使った、あるいは「考えていると思われる」というだけで、弾圧をうけるようになりました。
 
 この時、京大は学問の自治や研究の自由は、いかなることがあっても守りきらなければならないと言って、かなり頑張って京大の大学自治の基礎が作られるのですが、結局滝川教授とそれを支持する京大法学部の主要教授たちは京大を去る(辞めた教授のほとんどは立命館大学に拾われた)ことになりました。
 京大法学部の地位が落ちて立命館大法学部の地位が急速に上がり、結果、帝大(東大)法学部の突出が顕著になりました。
 
 
 同じ法律でも、解釈や運用によってどんどん変わりうるということなのですが、決定的に大事なのは、内容の正しいかどうかではなく、どんな内容であろうが研究すること、調べること、知ろうとすることは、いかなることがあっても規制の対象にしてはいけないということです。
 
 いつの間にか、大手メディアとネット社会では、現代でも簡単にそうした規制がされる時代になってしまいました。今のところ幸いなことに出版業会だけは、その自由がかろうじて守られていることに、逆にその責任の重さを感じています。
 
 戦時中、そうした規制の対象は✖︎✖︎✖︎✖︎✖︎とか墨塗りで消されましたが、戦後GHQによる規制は、どこが削除されたのか、何がダメだったのかも分からないような方法が取られました。
 
 これは、今まで考えられなかったことが次々に起こる時代、予想もきなかった変化が身の回りでどんどん起きる時代に入っているからこそ、前例やそれまでの常識、平均値からはみ出した自由な思考を育てなければならない時に、完全に逆行した発想です。
 
 すでに世界は、100点満点をとることよりも、120点とか、300点とか、採点者の想定を超えたような答えを出すことこそが求められる時代に入っているのです。
 
 世間がどうであれ私たちは、現実には起こり得ないこと、あり得ないようなことも、自由な情報環境の中でどんどん出す側にならなければいけないと改めて感じた1日でした。
 
 実際の話は、日本がアメリカから独立するなんてあり得ない?という話の流れで、フツーの国が考える真の独立(主権の獲得)を得るにはどうしたら可能なのかを、考えることすら放棄したような状態で、環境問題、食糧自給、食の安全、経済の復活、国民福祉の向上はないだろうとの話でした。
 
 黙ってはいられません。
 
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「国体」と「天皇制」の関係を考える 

2021年11月01日 | 歴史、過去の語り方

WEB上で取り上げるのは、とても勇気のいるテーマです。

 

「国体」の定義ってなに?

最近、とてもお世話になっているKさんが、SNSのあるリレー企画のなかで、『国体の本義・精解』三浦藤作(昭和12年初版15年110版!)という本を紹介していました。

そこで、チャットで

「国体って、文脈としてはなんの疑問もないほど普通に使われるけど、明確な定義ってどこかに書いてあるの?」
と聞いてみました。

すると、Kさん
「この本に、定義、歴史、意義、特色などなど全て記述されています。

古事記から神皇正統記などに至る経緯、まあ、基本は水戸学なんですが、このその思想としては、体系的になってますね。北一輝もそうだけど、昭和の国家主義的右翼は、基本、マルクス主義の影響が強く、目指す理想は、ソ連型、北朝鮮型社会主義国家ですな。」

 
(私)古事記から神皇正統記などに至る経緯、まあ、基本は水戸学とかの説明はわかるのですが、たとえば、極東軍事裁判がまともな裁判になったと仮定して、日本側弁護団が真面目に裁判に勝つことを目標にして判事側に理解できるように戦争の大義を「国体」から説明するとしたら・・・
どう「国体」を表現するのでしょうか。
 

(Kさん)東京裁判の日本側主張は基本、資源確保の防衛戦、植民地解放、有色人種への差別解消、みたいなところじゃないかな。その場合、日本は普通の国民国家で、普通に国際法にあるような戦争しました、別に特殊な国じゃないよ、という立場だったと思う。

    •  

といったやり取りがその後も続き、結局、この対話は結論には至らずに終わりました。

私のなかでは、「国体」について皇統のことや思想背景だとかいろいろ説明はできるだろうけれども、外国人にも理解できる「国体」の定義とはどのようなものなのだろうかということがその時はどうしてもわからなかったのです。

その後ひとりで長い間、悶々と頭のなかを整理していたら、次第に次のようなイメージが浮かんできました。

 

通常、国家は「国民の生命と財産を守る」ために存在するものと思いますが、それに対して「国体」は、「国民の生命と財産を犠牲にしてでも守るものがあるとするなんらかの価値の体系」と言えるのではないかと思えました。

そのためには、国家や軍隊どころか町内会までもが動員されていったわけです。

「国体」という表現を外国語ではなんと翻訳するのか知りませんが、誰もがこれは日本独特の国家観に由来するものと考えていると思います。しかし、だからといって皇統の継続性や水戸学由来の説明だけでは、戦時中の特別な「国体」像と、それ以外の古代以来の長く様々な変節を経てきた天皇制や国体概念の明確な説明にはなっていない気がしてなりません。

それだけに、外人に対して明確な説明表現が求められると思うのですが、不幸なことに同じ敗戦国でも、戦前と戦後の歴史観のドイツやイタリアと日本では以下のような相違があります。

 

日本だけが戦時の政体が継続

ドイツで終戦協定を結んだのは、敗戦したナチ政権ではありません。
イタリアもムッソリーニではありません。

  新しいところでは、アフガニスタンもタリバンではありません。
  イラクもフセイン政権ではありません。

日本だけが、戦中から敗戦後へ政権、国家体制の継続性があったわけです。しかも、明確な政権交代があったわけでもありません。

もちろん、大日本帝国憲法は廃され、国民主権と象徴天皇の戦後憲法に変わり、戦犯の処刑も行われましたが、その他の政治指導者たちの多くはそのままで、「政体」そのものは継続しました。

これは、必ずしも日本側の意向が強く働いたことによるわけではありません。
圧倒的理由は、占領軍、マッカーサー側の意向です。
占領軍側からすれば、カミカゼ、玉砕突撃などを繰り返した日本軍が、占領後もゲリラなどの反乱なく統治することは、マッカーサーが厚木に到着するまで容易でないと想像されていたからです。

加えてGHQ側も日本の占領統治が、ドイツのような直接統治ではなく間接統治であったことも忘れてはなりません。

陸軍省、海軍省、軍需省のような軍需面の中央行政機関はすぐに解体されましたが、大蔵省、文部省、内務省などの中枢行政省は継続しています。これが、「戦後日本」を語るときの日本独特のわかりにくさを生んでいるのではないかと思います。

それだけに、この問題は時の政権政府以上に、戦時の重い責任を負っていた天皇ただ一人が一貫して最も明確に深く自覚して戦前のそれとを区別しようとしているのを感じます。

当事者であった昭和天皇を筆頭に、平成天皇しかり。
(令和天皇はまだよくわかりませんが、おそらく平成天皇の姿勢を受け継がれていることと思います)

 

継続したからこその天皇のこだわり

戦後の象徴天皇という立場は、ただ国民統合の象徴という意味だけでなく、
自らの身体が、いかなることがあっても戦前のように「国民の生命・財産を守る」ことより優位の立場に置かれてはならない、という点にこそ力点がおかれていると思われます。

このことが、戦後天皇の言葉のひとつひとつ、行為のひとつひとつに強くあらわれているのを感じます。
「象徴天皇」として憲法に特別な立場として位置づけられ、国民から広く尊敬され敬われている存在であるけれども、いかなることがあってもそれは「国民の生命・財産を犠牲にして」まで守られるようなものではないということです。

戦後天皇のゆるぎないこの姿勢こそが、世界に例をみない「皇統」や権威などのことよりも、国民の心からの敬意を生んでいるものと思います。

私は、戦後天皇が沖縄、広島、長崎をはじめとして、硫黄島、サイパンなど激戦地への慰霊、訪問を続けていること、自らの体調がすぐれない時でも各種災害時の被災者へのお見舞いを優先していること、1975年を最後に靖国神社を訪れなくなったことや、それぞれの場で簡潔に話される言葉すべてにそれを感じます。

他方、宮中祭祀は、戦前戦後とも何も変わること無く継続性を持って行われています。
「天皇が統治権の総覧者から象徴へと憲法の上では変わったわけですが、言葉が変わっただけで、本質はそんなに変わったわけではない。陛下は同じですよ。」(『侍従長の遺言』朝日新聞社 1997)との見方も歴然とあります。
このお堀の内側の継続性とお堀の外側の変容については後ほど触れます。

個人的に私は、制度としての天皇制には必ずしもすべて同意できるものではありません。
むしろ戦後、何らかの責任を昭和天皇が負ってけじめをつける方法もあったのではないかとさえ思います。
それは、東京裁判の場に立つかどうかより、たとえば中世の天皇がしたように自ら出家するとか、退位するとかの選択肢はあったのではないかといったイメージです。

事実、昭和天皇自身、退位することを考えて口にもしていました。

 

最後の1年に犠牲者が集中した責任

戦争責任ということでは、開戦責任、継続責任、敗戦責任、人道的責任などいろいろありますが、国体という問題を議論するうえでは、以下の1944年から終戦に至る最後の1年間の問題を強調しなければなりません。

1944年6月のマリアナ沖海戦以後に日本人は、なんと200万人が死んでいます。

第二次世界大戦の死者の3分の2近くが最後の一年で亡くなっているのです。

しかも戦死者の6割は、餓死・戦病死です。

もともと、短期戦でなければ勝てる見込みはほとんどないことを軍部も認めていた戦争が、グアム、サイパン、テニアンを落とした時点で制空権、制海権ともに失い、軍事的に勝てる見込みはほぼゼロになっていました。にもかかわらず、止めることを考えずに200万人が死んでしまっているのです。

1944年 6月15日:米軍サイパン島上陸、日本軍7月7日玉砕

      6月19日:マリアナ沖海戦に日本敗れ西太平洋に制空権・制海権を喪失
      7月4日:日本、インパール作戦中止
      8月2日:テニアン島の日本軍玉砕
                8月11日:グアム島の日本軍玉砕

戦略的に勝てる見込みが立たないのに戦争を継続して、異常な死者を出し続けてしまった原因は、指導部から現場に至まで「国体」の概念が大きく意思決定に影響していたことは否めないと思います。

確かに日本政府内部でも、終戦への努力はされていました。
原爆投下後、8月15日に至る数日間の攻防ですら、関係者は誰もが命がけであったことからも、1年前の時点で終戦の決断を遂行することがどれだけ困難なことであったかは、容易に想像できます。

でも、だから仕方がなかった、と言えるでしょうか。

もちろん、仮に日本が早く白旗をあげたとしても、アメリカの中枢部は原爆を使用することこそが最優先目的であったため、広島、長崎に原爆を落とすまで日本の降伏は認めなかった可能性が高かったとは思います。

だからこそ、手が打てなくなってしまう前に、一人ひとりが、責任を負う者としての決断と行動の積み重ねのあり方が大事だと思うのです。ここに昭和天皇の戦争責任につながる重い問題もあります。

 

しかしアメリカ側からしても、日本に武装解除を徹底できるのは「天皇」しかいないことはわかっていました。また占領政策をスムーズにすすめるためにも、天皇の存在は必要であると認識していました。

GHQの意向もありましたが、「象徴天皇」というかたちでの継続性が前提にされたからこそ、天皇自身の中では、何を持って戦中の立場との区切りをつけるかということには、戦後の自らのあり方として厳格に一線を引くことを強く意識していたことと思われます。

それこそが、天皇制が継続されたとしても、そこに国民の生命・財産を犠牲にしてまで守るような優位な価値観があってはならないという立場へ、戦後の昭和天皇、平成天皇へ徐々に変化しながら明確化していった面であると言えます。

私もこの一点で、制度としての現行天皇制に同意できない部分があっても、戦後天皇の平和を願う姿勢や厳しい制約下の行動やお言葉には、100%の信頼と尊敬の念を持っていられるのです。

 

「国体」と「天皇制」は同じか?

このような意味で私は、戦前・戦後の天皇を通して見たときに、「国体」とは必ずしも「天皇制」とイコールではないといったようなイメージで考えていました。このブログ記事もここで終わる予定でした。


ところが、最近になって保阪正康さんの2018年の日本記者クラブでの講演をみて、「国体」「政体」といった分け方で戦前・戦後の日本史を見事に保阪さんが整理されているのを知り、我が意を得たりと思いつも、自分の考えが未整理であったことにも気づかされました。

「平成とは何だったのか」(1) ノンフィクション作家・保阪正康氏 2018.5.16

Masayasu Hosaka, Nonfiction Writer 「平成時代は、天皇、政治、災害の3つの組み合わせで語ることができる」...

youtube#video

 

この講演は、まったくメモも原稿も見ることなく理路整然と的確な事例をひきながら、保阪さんの歴史に対する強い思いを戦後に生きる私たち日本人に訴えるとても重要なものです。

 

保阪さんの講演では、以下のように語られています。

敗戦までは「政体」の上に「国体」がありました。

政治的になにかを決めたり行ったりすることは「国体」の下でのみ、自由であったわけです。

それが戦後になってからは、「国体」の上に「政体」は位置づけられ、「政体」は「国体」に左右されずに決めたり行うことができるようになりました。

しかしこの20年ほどの間に国は「国民の生命・財産を守る」という原則に、様々な理由で制限が付けることが多くなってきました。

「テロとの戦い、自由主義社会を守るための「世界」が行っている戦いに、日本だけが参加しない、またはお金を出すだけではすまされない」

「中国や北朝鮮の軍事的脅威が増すなか、日本の軍事予算やアメリカ軍駐留への思いやり予算の増額は避けられない」

「膨らむ国の財政赤字の現状を考えれば、高齢者の医療・福祉や教育予算の削減はやむを得ない」

もちろん現実は、様々なパワーバランス要因のなかで起きているので、どんなことがあっても無条件にすべて保証されるべきものではないかもしれません。

 

 しかしGDP世界3位、対外純資産ではダントツの世界1位の日本が、なぜこうした理由で先進国最低レベルの教育・福祉・国民生活水準の国になってしまったのでしょうか。

 

「公共」のための「犠牲」?

 こうした政治の動きに対して、保阪さんが指摘しているように天皇は極めて慎重に言葉を選びながら、かなり踏み込んだ言葉を発せられるようになってきています。

 つまり、「国体」は「政体」の下にあることを自らに厳しく科す身でありながら、「政体」が間違った方向に進んでしまったときでも「国体」は「政体」の下のままでいられるのか、といった問題です。

 国民の生命・財産を犠牲にしてでも守る何かが現れたとき、

 それが「公共」という言葉でくるめられたとき、

 私たちは十分に注意しなければなりません。

 明治天皇、大正天皇が「創られた伝統」として一定の距離をおいた宮中祭祀が、昭和天皇以降はお堀の内側で厳格に守られ継続しています。そこで「政体」に関わることはありません。
 他方、お堀の外側での天皇の戦没者慰霊や災害被災地訪問などの活動が増えるにしたがい、「政体」と無関係とは言えない領域が否応にも増えてきているのも紛れもありません。
 このあたりを天皇は極めて慎重に、言葉も選びながら行動されています。

 たしかに、子どもが危機に瀕したときに自らのいのちもかえりみずにわが子を守る母親のように、生命・財産を犠牲にしてでも守ることは、現実にはあることと思います。
 でもそれは、あくまでも生命主体である個人が個人の価値判断で選択するものです、
 他人によって、あるいは国家によって安易に強制されるものではありません。

 でもそれが、やむをえずの選択であるとか、背に腹は替えられないなどといった言葉とともに出てくる場合は、特に要注意です。

 いざ自分がその立場になったら、どれだけのことができるのかは確かにそれは私にもわかりません。

 でもだからこそ、どうにもならない状況に追い込まれる前に10分の1でも、100分の1でも、日々の努力の積み重ねと自分の覚悟をもつように心がけたいと思うのです。

   「生とはこれすべて、自己自身たるための戦いであり、努力である」 オルティガ

 

 とかく誰もが目の前の問題に追われ、より大切なことを見失いがちなものですが、10年、100年、1000年というスパンでものごとをとらえ考えてくれる「天皇」という存在が、ひとりその道理を貫いていてくれるだけで、私たちが多少道を踏み外してもすぐに気づき戻ってこれる社会にいる幸せも感じています。

 それは、国民が天皇にこうあってほしいと望むような筋合いのことではありません。

 日本のなかで最も地位が上にある天皇自身が、自らが国民の生命財産を犠牲にしてまで守られるような地位ではないことを、その行為と姿によって示し続けてくれることが、私たちの尊敬と信頼をもたらすのだと思います。それは、公益を優先し、豊かな国民こそが国家の財産であると、安定成長と国際協調を願うの立場を示し続けてくれることです。

 もちろん、なかには自分の命をかけてでも天皇を守りたいと純粋に思う人はいることと思います。でも、天皇自身は、そうあってはいけないのだよ、との姿勢を示してくれることが尊敬される由縁でもあると思います。

 

 このような意味からもあらためて、世界標準の言葉で「国体」とは何かを説明するならば、中国や北朝鮮のように、国民の生命・財産・信条の自由を犠牲にしてでも守ろうとするなんらかの優位の価値を掲げた国家観であると言ってよいのではと私は確信します。 したがって「国体」と「天皇制」を同じとして語ることは、とてもできません。(もちろん保阪さんも、区別はされているでしょうが)

 定義を語る場合、私は万世一系や皇統の継続などの説明も必要でしょうが、この一点こそが「国体」定義の核心であると思います。とりわけ、世界の中でも日本だけが戦時と戦後の間で、軍部の解体、戦犯の処刑、戦後憲法の制定以外、国家中枢にいた人間の大半に継続性がはかられた国であるだけに、とても大事なポイントであると思います。

 

天皇が天皇たる由縁はどこに

 

 では、天皇が天皇たる由縁はどこにあるのでしょうか。

 当然、皇統や三種の神器の問題になってきます。詳しいことは私の手に負えるようなことではありませんが、歴史的経緯では以下の点だけは押さえておきたいと思います。

 

 1910年の国定教科書『尋常小学校日本歴史』の教師用教科書発行をきっかけに、いわゆる南北朝正閏(せいじゅん)論争が起こった。南北朝時代については南北朝を対等に扱い、両朝のうちどちらが正統かは論ずるべきでないとする執筆者の喜田貞吉に対して、11年、南朝正統論社から非難の声が上がり、桂太郎内閣が喜田を休職処分にして南朝正統の採用を閣議決定するとともに、南朝を正統とする勅裁まで下された。これにより南北朝時代は「吉野朝時代」と改められ、北朝の天皇の存在はいっさい認められなくなった。(略)

 けれども、天皇家は南朝ではなく、北朝の血統を継いでいた。にもかかわらず南朝が正統とされたことで、天皇家は血統に代わる正統性の根拠を見出さなければならなくなった。そこで浮上してきたのが、1392年の南北朝合一のさい、南朝から北朝に譲り渡されたとされる「三種の神器」であった。

 後に昭和天皇の侍従武官長となる本庄繁の35年3月29日の日記には、「自分の如きも北朝の血を引けるものにて」という天皇自身の言葉がある。それとともに、当時の宮内大臣であった湯浅倉平の次のような言葉が書き留められている。

 御血統は南北何れにしても同一にして、只皇統は三種の神器を受け継がれたる処を正しとす、即ち北朝の天子が南朝の天子より神器が引嗣かれたる後は、其方を正統にせざるべからず。(『本庄日記』原書房 1989)

            以上、原武史『昭和天皇』岩波新書 2008より

 以降、「三種の神器」は「万世一系の皇統」を担保する神聖なものとなりました。

 

 明治天皇の場合にしても、国体の根幹とみる伝統的祭祀に対して、後期水戸学の影響のもとに「創られた伝統」と見なしてどこか冷めた対応をしているのは、まだ東京を正式な首都と認めたくなかった背景があるばかりではなかったようにも見えます。

 このように、それぞれの時代の天皇は、個々の置かれた環境やそれぞれの考えに応じて、単純に伝統や法規範だけに基づいて規程しきれるものではないと思います。

 

 

 昭和天皇は、その当事者として時代とともに迷いながらも自らのとるべき立場を定めていきました。

 平成天皇は、その昭和天皇の姿から多くを学び、美智子様とともに立派な姿勢を貫かれました。

 令和の天皇は、まだ具体的な発言や行動から十分読み取ることはできませんが、平成天皇の姿勢をきちんと受け継がれ自らが現代のあるべき姿を模索し決断されていくことと思います。

 

 天皇の立場は、憲法や皇室典範で明確に規定されているようでありながら、それぞれの時代によって、それぞれの立場によって変わらざるを得ない面、違う面が自ずとあるものです。

 思いつくままに書き出してしまいましたが、予想外にどの側面をとっても深い問題につながるので、文を整理できないままです。

 随時、書き足し校正をこれから重ねていく予定ですのでご了承ください。

 

 

 

 よってわたしは「国体」とは明確に決別した「戦後天皇」のそれぞれの自ら問い続ける姿勢をこそ、制度としての天皇制よりも世界から尊敬されるに値する天皇の姿として限りなく尊敬するものです。

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こよみと伝統行事

2019年04月26日 | 歴史、過去の語り方

 祭りや伝統行事は、どれも長い歴史を通じてつちかわれてきたものですが、今日の姿のすべてが古来の姿であるとは限りません。
 とりわけ明治から昭和にかけての間に、そのかたちを変えてきた祭りや行事は少なくありません。

 黒い喪服姿で葬儀を行うようになったのは明治以降のことで、それ以前の葬儀は白装束でした。


 そして多くの祭りや行事は旧暦で行われており、それは庶民の季節感と密接に結びついたものでした。

 昭和の中ごろまで生きた明治生まれの古老は、昨日の晩というとそれは一昨日の夜のことを指していました。
それは1日の始まりが日没後の夜からはじまるという習慣があったからです。

 事実、祭りなどの行事で前夜祭として行われるものは、本来一日の始まりが夜からであったことの名残りです。そして行事が何月何日に行われるかということは、どれも暦上のとても大事な意味があるものでした。旧暦で月の中旬や15日に行われる行事というのは、それが満月の日であることに意味がありました。月のはじめの行事といえば新月の日にやることに意味がありました。

 月夜野の祗園祭(おぎょん)も、今では7月末から8月頭にかけての土日に行うようになってしまいましたが、当初は旧暦8月の1、2、3日に行われていました。
 それはただ月の初めというだけではなく、新月、つまり太陽と月が重なり、受けるエネルギーも倍加している時期であることに意味があったわけです。 


 ところが、先の東京オリンピックのころから専業農家の人口の比率がどんどん減りはじめると、地域の祭りや行事が暮らしや生産と密接に結びついた切実な祈りをともなったものから、ただ伝統保存のための大変な努力を伴わないと維持することがとても難しい時代になりだしました。

 そこでは暦の意味が失われるだけでなく、地域内よりも外で稼いでくるサラリーマンの比率が増えてきて、人を集めやすい土日でないと行事が行えないようになってきました。

 こうした時代とともに移りかわる祭りや伝統行事の姿は、伝統文化の保存如何の問題ばかりでなく、地域の暮らしのあり方と密接に結びついたものであることがうかがえます。

 

写真はいずれも『我がふるさと写真集 月夜野町』企画・発行 月夜野町(昭和62年)より

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旧山古志村の中山隧道以外の手掘り雪中トンネルのこと

2018年06月30日 | 歴史、過去の語り方

中越地震の被害で有名になった旧山古志村には、手掘りトンネルでは日本一といわれる有名な中山隧道とは別に、昭和の時代につくられた手掘りトンネルがいくつかあります。

    

今回私たちは、それを探しに行ってきました。

探しているそのトンネルの長さ632m。


昭和の時代に、なぜそのようなことが行われたのかを知ってビックリ!...



昭和47年3月、小松倉にあった山古志中学校芹坪校舎(芹坪分校)が廃止され、村内の他の3校舎(分校)とともに、竹沢地区にあった本校へ統合されました。

その結果、小松倉に住む中学生は、遠く約6kmも離れた山古志中学校へ通うことになりました。

さらに昭和52年には、中学校に続いて小学校も統合の対象になりました。

旧東竹沢村内にあった芹坪小学校と梶木小学校の2校が廃止され、中学生に続いて小学生も遠くへ通学をよぎなくされることになりました。



すると豪雪地帯で急峻な山間部を通う子供たちは冬の間は絶えず雪崩の危険にさらされながら学校に行かなければならなくなり、実際にその地を通行中の小松倉住民が2人が命を落としていました。

全国の山間部のなかでも、この山古志村周辺の地形には、独特のものがあります。

山といってもほとんどが1000m以下の丘陵部なのですが、その丘陵部高地から急激に切れ落ちた沢の部分が、いく筋もの谷あいを形成しています。

しかも、その斜面は岩盤部がほとんどなく、粘土層のような崖で成り立っているために、どこも高地からは一気に切れ落ちているのが特徴です。

先の中越地震でもっとも多くの被害がこの山古志村でおきたのは、ただこの地が山間部であったというだけでなく、こうした地形によるところがとても大きかったと思われます。

そんな地形の場所がさらに、全国屈指の豪雪地帯でもあるわけです。

雪崩の危険は、尋常ではありません。


そこで村の大人たちは、子供たちが冬でも安全に通学できるようにと自主的に手掘りでトンネルを村のいたるところに掘ったというのです。

それがどのようなものなのか、かつて震災被害の実態を見に行った際に手掘りの中山隧道には立ち寄ったのですが、他にこのような手掘りのトンネルが多数あることなど、当時は全く気づきませんでした。

 

今回、一度、旧道のそれらしい場所を通ったのですが、見つかりませんでした。

 

通りがかりの人やおばあちゃんに聞いても、こちらが方言を聞き取れないためか、会話そのものがなかなか通じませんでした。

そこで、震災復興資料館ならわかるだろうと、先ほど寄ったばかりのところへ戻り説明を聞いて走っていると、その説明された先に近づくとどうも中山隧道のことと勘違いされていたらしいと気づきました。

そして、その後一人のおじさんに出会い、私たちはようやくその場所へたどり着くことができました。

 

 これは確かに、説明を聞かなければ見落としてしまいそうな場所です。

 

 

縦横の大きさは中山隧道よりも少し小さいものです。

写真では明るく写っていますが、実際は何の照明もないので、中はほぼ真っ暗です。 

  

 

気づけば、先ほど通ってきた道に、このような横穴出入り口がいくつもありました。 

 

 

 

 

一本の長いトンネルの間に、このような横穴出入り口が何カ所もあるのです。 

  

 

私たちが、これらのトンネルの価値が中山隧道以上に価値があると思うのは、これが遠い昔に隔絶された山村の生活を守るために掘られたものではなく、昭和の時代に学校の統廃合が進んだ結果、親たちが子供の通学の安全を守ることを第一の目的として作られたということです。

その親たちの大変な労力と子供たちへの思いには、ただ頭がさがるばかりです。

 

ここで、決してその話に水を差す意味ではないのですが、そうした作業を可能にしたと思われる背景に触れさせていただきます。

それは、私も妻も別の立場で幼いころ新潟県の南魚沼地方や十日町市方面にそれぞれ家庭の事情で縁がありました。

そのころの思い出話を互いにしていると、山へ登ったり泥んこ道で転んだ時の記憶に、必ず粘土質の滑りやすい土の記憶が一緒についているのです。群馬で山に登ったり里で遊んだりしているときには、赤土の粘土で足を滑らせるという記憶はあまりありません。群馬は結構かたい岩盤質が多いのです。そして土も粘土質のものはほとんどなく、さらさらした砂がほとんどです。

もちろん、同じ新潟でも湯沢から八海山の方へいたる山間部はまた違った固い岩盤地質なのですが、そうした地形地質は、スキー場が続く南魚沼から小出にいたる区間、ずっと続きます。

何年か前にトンネル工事の最中にガスが発生し事故につながってしまったことがありましたが、そうした事故も多分に柔らかい地盤によることが想像されます。

妻と十日町のビエンナーレや棚田を見にいく時によく冗談として言っているのですが、
「このあたりのトンネルは鼻くそほじくるよりも簡単に掘れるんだ 」
などと不謹慎なことを言っていました。 

この冗談の深い意味に改めて気付かされたのですが、こうした柔らかい粘土質の地盤という特殊な条件こそが、まず第一に、子どもたちの通学路を守るためだけに作られた手掘りトンネルを可能にさせたのだと思われます。

もちろん柔らかいと言っても、何百メートルも機械を使わない手掘り作業をしたわけですから、どんなに甘く見ても簡単な作業でなかったことに変わりはありませんが、少なくともノミで岩盤を砕くような作業の連続ではなくツルハシなどで掘り進めることが可能であったからこそ、着手することができたのだと思われます。

 

そして、そうした柔らかい粘土質の多い地形がまた、先の中越地震の被害をこの旧山古志村で一層拡大してしまうことにもつながってしまったのではないかと感じました。

事実、新潟県は全国の土砂災害の2割を占めるといわれるほど地盤のゆるい土地です。

 

 

 

 

 すべては、この1冊の本との出会いから始まりました。

平沼義之著『廃道踏破 山さ行がねが 伝説の道編』じっぴコンパクト文庫

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「自然(天円)に包まれた人間界(地方)の力学」 旅のイメージ(覚え書)

2017年10月14日 | 歴史、過去の語り方

 毎年わたしは、ゴールデンウィーク明けの新緑の季節に妻と二人でまとまった旅に出ることにしています。

今年は京都でした。

京都は奈良以上に様々な歴史の舞台が積み重なっているため、訪れていないところがまだ限りなくあります。

あまりにもいろいろな時代の史跡が積み重なっているので、どちらかというと奈良の方が落ち着いた旅ができて好きなのですが、それでも歴史を語るうえでは外すことの出来ない場所がたくさんあるので、これからも何度となく訪れることと思います。

前回は、南の宇治平等院、醍醐寺、伏見と少し離れた浄瑠璃寺などをまわってきましたが、今回の京都旅行は、風水の方位にこだわった旅で、北東方面の鯖街道から入って寂光院へ。物語の舞台としてよく登場する仁和寺、下鴨神社のみでまわっていなかった上賀茂神社から始めました。

そして対角線上の裏鬼門、南西方向の石清水八幡宮、後鳥羽院や百人一首の面影を求めて水無瀬神社。

北西からは、明恵上人の栂尾高山寺から空海の神護寺。嵯峨野の大河内山荘。

南東は、泉涌寺と東福寺。

と、移動効率は良くありませんが、京の四隅を攻める旅をしてきました。

 

私たちはこれら京都、奈良に限らず、どこへ旅をしても一貫して日本の文化や歴史の大きな流れや時代のうねり、風土の起伏などを見ると、何か月の引力の影響のような目立たないながらも確実な法則のようなものがあるのではないかといった印象を、いつも漠然と感じています。

それが何なのかなどということは、とても私に語る力はありませんが、 能登半島から金沢、近江、京都、奈良、尾張、伊勢、吉野、紀州、熊野といった、日本列島の横ではなく縦の線の中に蓄積しているように思えてなりません。

そのまとめようがないテーマを最近意識しているキーワードなどを手掛かりに、以下に無謀にもまとめてみようと思います。

まだ随所が書ききれていない文章ですが、この「〆」を日本列島になぞらえたネタは、よく使う機会があるので、まだ未完の記事ですが先にアップさせてもらいます。ご了承ください。

 

 

1、青龍・白虎・玄武・朱雀 と「結界」 

 まず、最初に踏まえておかなければならないのは、風水につながる見方です。

 

 

画像は「ラージスケールの風水」より
http://www.nikkenkyo.jp/before/4joho/fusui/3large/large.htm

 

 

 青の矢印は逆向きにしたほうが良かったかもしれません。

 

 都に限らず大自然のなかに人間が家をつくり、やがて集落から徐々に発展していった都市社会は、四方を結界で区切り、その領域を地鎮祭のような小さな空間から、徐々に広げていっていったものです。

 これはなにも「結界」といった意識に限らなくても、自然界に対する人間の日常の意識に根ざしたものであるといえます。

 柳田国男は「サカ(坂)」「サキ(崎)」「サク」「サケ」を同義とみなしています。

 「サキ」は境界をあらわし、ものごとが異質なものに変わる場所であり、空間と時間の違いはあっても原理は同じであるとしています。

 

 京都や奈良の都のような巨大な姿は、人間界と自然界の結界を最大限にまで広げたものといえるかもしれませんが、むしろその姿は、特殊な例であって、本来は大自然につつまれた人間社会の営み自体が、常にこうした構図のなかにあるのだということが、以下に示す「天円地方」の思想があらわしてるものであると思うのです。

 

 

 

2、「天円地方」の思想

「天円地方」という言葉の通常の解説は、Wikipediaなどによると、

天は円く、地は方形であるという古代中国宇宙観である。中華文化圏の建築物や装飾のモチーフとして用いられる。天が円で表されるゆえんは、星の運行が円運動で表されるためである

となっています。

「天円」をもっぱら天体、星の運行、円運動などによってとらえられています。

 また「円形の天空」とは、「回転」つまり「動」を表していて、これに対する「方形の大地」は「不動」であって、「静」をあらわすともいわれます。


 しかし、歴史をみるとどうも私には「天円」は、天体や星の運行などに限定される概念ではなく、人間界と区別される、あるいは人間界の外側を包摂する「自然界・宇宙・異界」などといった広義の概念でとらえるべきことのように思えます。

 陰陽五行説をはじめ、古来、人が天を意識するのは、何よりも王権君主や天皇が天の意を正当に代弁していることの証しを求めていたからであり、その天とは決して天体宇宙といった自然科学的な対象ではなくて神・宇宙・自然の同体としての天であったはずです。

 

「円においてあらゆる対立は止揚される。あらゆる力は円の内に包括される。その単一性と完全性において、円は、神や宇宙や人間に関するあらゆる観念が合流する幾何学図形であり、つまりは存在のもっとも内的な構成原理であり万有の秩序の規範となる神聖なる核の象徴である。」
      マンフレート・ルルカー『象徴としての円』法政大学出版局 

 

 こうした広義の概念でとらえると、良く知られた「足るを知る」の意匠の天保銭が、単なる欲を捨てる戒めの意味だけなのではないということが見えてきます。

つまりこの「吾ただ足るを知る」のかたちが、「天円」につつまれた人間界(地方)方形の社会が、豊かな自然・天界の恵みになんら不足することなく満たされているのだという「天円地方」の思想そのものであるということです。

余計な物を持たなくても足りていることの自覚を促す「清貧のススメ」の考えとは、まったく違う、大自然の豊かな恵みによって十分に満たされているから足りていることを知るのだという考えがここに浮かび上がってきます。

 

「足るを知る」は清貧のすすめではなく「天円地方」の思想
http://tsukiyono.blog.jp/archives/1044729036.html

 

 

 天円地方の構図を逆にしたのが、相撲の「土俵」です。

 

 

画像は「相撲の概要」より
https://www.e-shiki.jp/sumogaiyo.htm 

 

ここには、人間界(地方)から神域である自然界・異界へ立ち入るための儀式の構造がつくられているのがわかります。 

南東や南西の角に水おけや塩がおかれているのは、決して角でスペースがあるからではありません。

「地方・人間界」から神域である自然界・異界へ通じる出入り口にあたる場所であるからそれらがおかれているわけです。

 こうした構図からも「天円」が必ずしも天体に限定されるものではないということがうかがわれます。

 

 方形の人間界(地方)を内側へ守り固める力が、白虎・青龍・朱雀・玄武によって四方ではたらいて安定した社会をつくるということで、その四方を突き破る力は、対角線上に走っているわけです。

 

 



3、「鬼門」、方位としての「丑寅」と「八瀬の童子」のことなど

 

 以上の考え方にもとづくと、風水で語られる白虎・青龍・朱雀・玄武の方位と鬼門、裏鬼門といった見方も、「鬼門」だからといってそれが必ずしも「悪い」方角を指しているのではなく、人間界(地方)から豊かな恵みのもとである自然界、天界、異界に踏み入るときは、人間界(地方)の感覚そのままで踏み込んでは危険なほどの強い力(恵み)があるから、心して入るようにとの分別を説いたものであると見えてきます。

 だからこそ、比叡山や石清水八幡宮は、その後背に豊かな自然(山や川)がひかえているのです。

 驚異であるとともに恵みのもとでもある大自然こそが、古代からの世界観の基調であったはずです。 

 

  このような風水地理学から振り返ると、京の都の南に位置していた広大な小椋池を埋めてしまったことは、都の風水にとってとてもマイナスであったことがうかがわれます。

 小椋池が埋め立てられたのは、ごく最近のことで、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えたそうです。

 明治維新で都に天皇がいなくなり、さらに都の南の広大なデルタ地帯が埋めたてられたことで、京の都は観光によってしかその存在価値は保てなくなってしまいました。

 小椋池に接した伏見や宇治の地理的価値が高かったのはわかりますが、今回の旅で石清水八幡宮や後鳥羽院の水無瀬離宮の跡地などを道に迷いながら車で走り回っていたときに、桂川、宇治川、木津川などが合流するこの一帯が、およそ川筋など定まらない、川とも池とも湖とも湿地帯とも本来区別のつけようのない土地柄であったことが十分想像されました。

 後鳥羽院が目をつけた水無瀬の風景が、今の姿とはかけ離れた姿があったに違いないことを思うと、ふと広い熊野本宮跡地の河原にあった光景とダブって想像されました。

  

 

 そもそも神社の多くは、山、石、水(滝・涌き水、川)などを御神体として崇めるための拝殿であるわけです。 

 神奈備(かんなび)、磐座(いわくら)、神籬(ひもろぎ)などから次第に進化していった拝殿のほうに、つい私たちの意識はかたよってしまいがちですが、いつも立派な神社や仏閣を訪ねるたびに、私たちはそれらの建物以上に、その場所、空間の自然の豊かさに圧倒されるのも事実です。

 


今回訪れた「栂尾高山寺、神護寺、石清水八幡宮」

https://photos.google.com/share/AF1QipN0FgWGbmfbC-ZWfbvPEWxHpODCHag_OjqGvZpNF3RlsHVkdtnH1jza3Qx3_TrMcQ?key=eWVac3BkUURpZ2h5RHJwU2RUNXZCNHZmSktqVV9B

 

 

 

 

 

 この四方の固めを破って、対角線上に貫く力というのは、都などの都市づくりの世界ばかりでなく、もっと広い世界でも様々な領域でも見られる力学であると思います。

 それをわたしは、「〆(しめる)」という文字のなかに感じました。

 〆(しめる)」という文字は、締めるという意味では否定的な意味にとらえられがちですが、この文字は同時に「束ねる」という意味ももちます。

北東から南西にかけて貫き、人間社会をも貫くような強い自然のエネルギーを、同時に西北から南東へ斜めに突き抜くエネルギーが、逆に束ねる役割りを果たすわけです。

  

 

 

 

 


 

 

 

 

この力学が、日本列島そのものにあてはまります。 

 

 

日本列島のかたちそのものが、北東から南西にむけてズバッと、自然界のエネルギーを貫き通したかたちになっています。

 

それが、いったん朝鮮半島や大陸に跳ね上がるエネルギーを必然的に持ちえていた。

というよりは、他の方向へ向かう必然性を持ち得なかった日本列島の構造が、風水的な理にかなった恵みをもたらしたとも言えます。

 

そして一度大陸や朝鮮半島へ跳ね上がったエネルギーが、ふたたび日本の日本海側の出雲や若狭湾から能登半島にかけて入り込み、そのまま本州の中央部を貫いて、吉野から熊野に至る紀伊半島へ、あるいはさらに大雑把には伊豆や房総半島へ貫くエネルギーがあらわれているわけです。

 

 この、南東に抜けるベクトルのみが、その先へは抜けない、まさに「〆」止め、留めになっています。

これだけが、折れ曲がることもなく、反転することもない行き止まりのベクトルです。

 

また、この締める、束ねる部分(能登半島から紀伊半島)に重なるようにして、日本列島最大の「くびれ」部分も、ここに存在します。

若狭湾から近江、琵琶湖を挟んで伊勢湾に至る部分です。

東西交通の要として信長が注目した場所です。

これはまた横道にそれるので、ここでは深入りせずに先に進みます。 

 

熊野信仰で、南の海へ旅立つ補陀落渡海の思想がありますが、南の海であっても思想は西方浄土を求めたものかと思われます。

この力が動く時は、必ず東西の流れに変わります。

  

 

 

 このような対角線上のエネルギーの流れに比べると、一般的に言われる太陽の動きに対応した東西のエネルギーの流れというのは、自然界では必ずしも強いものではなく、むしろ自然界ではない人間界(地方)内部固有の力学として意味付けられている場合が多いのではないかと思われます。

 もちろん、地球の自転から惑星の運行まで、基本は東西の流れのなかで気象の変化も含めておきています。

 しかしそれが、天文上の必然の流れの法則であるだけに、「不変」とも解釈できますが、同時に「自明」とも言えるほどの摂理になっているわけです。

 こうした意味において、古代、あるいは縄文時代の人びとは、確かに太陽の高さや出る方位は大事ですが、それらには必ずしも現代人が想うほど意識はしていなかったのではないでしょうか。

 縄文や古代遺跡の解釈のなかには、確かにやたら太陽信仰に基づいたものと言われる遺跡や構造物が見られる気もしますが、それらの多くは、むしろ現代人の尺度で見てしまうことによってゆがめられた解釈なのではないかとも思えるのです。 

 

 

4、先天易(大自然の東西論理)と後天易(人間と自然の南北論理)

 

  

太陽と月

 太陽は常に同じで、それ自体不変であり、およそ「生成」というものを知らない。それに反し、月は満ちたり、欠けたり、見えなくなったりする天体で、この天体の「生」は、生成、誕生、死の普遍的な法則に従っている。人間とまったく同様に、月は悲劇的な「歴史」をもつ。というのは、月は凋落して、人間の場合と同様、ついに死をもって終わるからである。三晩の間、星空には月が出ない。だが、この「死」のあとに、再生が来る。つまり「新月」である。月が闇の中に、「死」の中に姿を消すのは、決して決定的ではない。シンSin神にささげられるバビロニアの讃歌によれば、月は「それ自体からなりでる果実」である。月はみずからの運命のより、それ自身の本体から再生するのである。

      (ミルチャ・エリアーデ『豊穣と再生』せりか書簿より)

 

 

 

東西の動きというのは、政治や経済、さらには戦争などにおいては中心となる力学です。

地球の自転にそった動きの方が、物体の移動は影響されやすいからなのかもしれません。

対する南北の動きというのは、上下の動きとも言えますが、おもに精神上のことであったり生命上のことにおいておもに働く力学です。

 

 

 

 

多くの未開民族は、性交が子供の誕生につながることを知らない。(中略)しかし、「どこから」という問いは、つねに変わらず「子宮から」と答えられるにちがいないし、また答えられていくことであろう。新生児がみな子宮から生まれるというのは、人間の原体験だからである。神話の「丸いもの」もまた子宮と呼ばれるが、この起源の場所は具体的な場所と受け取られてはならない。すべての神話が繰り返して述べているのはまさに、この子宮がイメージであり、女性の子宮は人間がどこから来たかを示す原シンボルの中の一つにすぎないということである。

      (エーリッヒ・ノイマン 林道義訳『意識の起源史』紀伊国屋書店  
            大島直行『縄文人の世界観』国書刊行会より孫引)

 

 そしてこの子宮・母体の再生思想にとって鍵をなるのは、決して太陽ではなくて「月」と「水」であるわけです。

上の図でいえば、地方の南には、必ず川が流れ出る水の領域があります。

 

 

 

 

 

  マザーネイチャー


 5、アマテラス偏重から「再生思想」復権のために

 

 

 

 古墳などの入口の向きが、古いものほど南向きになっていると言われます。

古墳の多い奈良、大阪、群馬などの地図をみると、古墳のつくり方は必ずしも東西南北にはこだわらず、けっこうばらばらな向きに作られているようです。

それが時代を下るほどに、東向きのものが増えてくると聞きましたが、それを立証するほどの資料を私はまだみていません。

しかし、古い古墳や墳墓をみると意外と南向きに入口がつくられているのを見ます。

先日、上野三碑を東京の〈月〉の会の皆さんと訪ねた時にみた古い山之上の碑横の古墳も南向きの入口でした。

 

 

 

それから熊野信仰など、原始信仰

 

 

 

 

 

 

(前略)彼の上には空以外何もなかった―澄んではいないが、それでもやはり、はかりしれないほど高くて、灰色の雲が静かに流れている、高い空以外。

〈なんて静かで、落ち着いていて、おごそかなんだろう。おれが走っていたのとはまるで違う〉

 アンドレイは思った。

〈おれたちが走り、わめき、取っ組み合っていたのとは、まるで違う。憎しみのこもった、おびえた顔で、フランス兵と砲兵が砲身掃除棒を奪い合っていたのとはまるで違う―まるで違って、この高い果てしない空を雲が流れている。どうしておれはこの高い空が見えなかったのだろう?そして、おれはなんて幸せなんだろう〉

             トルストイ『戦争と平和』より

 

 

 

 以上、わたしの「旅のイメージ」として日ごろ思っていることを図式しながら、思いつくところをつらつらまとめてみました。

 全く体系的な説明にはなっていませんが、北海道からとりあえず今の所本州、四国のはずれまで旅をした時に、なんとなくこんなようなことをいつも意識しているのです。

 

 結局、整理しきれたとはいえないものになっていますが、風水的発想に絡めて整理したかった点を強いてまとめるとすれば、ざっと以下のようなことでしょうか。

 

1、神社などの神様の古来の実体は、決して拝殿などの建物の中にあるのではなく、その背後にある人間の目には見えないもの、自然界の力や現世の人間の力を超越したものへの畏怖、畏れ、敬いなどの気持ちのなかにこそある。

 もちろん、秀吉や家康などの時代から、祟る神となった人間ではなく権威・尊敬の対象としての神や神像などを御神体として敬うかたちも、実体として歴史が下るほどに増えてはいます。

 

2、自然、生命の力、生命再生の思想こそが、古来縄文の時代から脈々と今日にまで生き続けているものですが、長い歴史のなかでは、時代ごと常に人間界「地方」の側の論理に偏ることがあり、その度に「天円」につつまれていることを忘れて神や人に権威や序列をつける傾向がある。

 

3、本来、「太陽も月もあまねく隔てることなくこの世を照らす」(聖徳太子)ものであるにもかかわらず、太陽(アマテラス)ばかりに偏り、月を忘れてしまった歴史が長く続いていることに、生命の本来の輝きを喪失してしまっている姿をみてとれる。

 

 

 

 

関連ページ 「地方」の本来の意味は「天円地方」?

http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/81d0a6e954233dbf780299c2afa81694

 
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毛沢東の贈物。

2017年10月14日 | 歴史、過去の語り方

 「毛沢東の贈物」をネットで検索すると、日本の誰それに毛沢東から送られた贈物が、偽物であったという話が出てきます。

 中国の財宝のほとんどは蒋介石が持って行ってしまったために、中国本土には偽物しか残っていなかったという事情によるようです。

 でも、ことを正すとすれば、中国側の事情がどうであれ真贋の見分けがつかないことこそ、第一の問題であると思います。

 ですが、

 そんなこと以上に、毛沢東が日本にしてくれた遥かに大きな贈物があります。

 それを私は、アレックス・カーの本によって知ることができました。

 

 と言いながら、その出典を私は確認できません。

 てっきり、アレックス・カーの『犬と鬼』という本のなかで、それは書かれていたと思っていたのですが、この本を薦めて読んだばかりであるはずの知人から、そんな話が書かれていたことの記憶がないと言われてしまったので、私の記憶に確信は持てなくなってしまいました。

 まあ、いずれにしてもアレックス・カーがどこかで書いていたことには間違いないと思います。

 

 

それは、

 今になって中国が日本市場を脅かし、日本経済に大きな脅威を中国市場が与えているかのことが言われていますが、そもそも、戦後の歴史をグローバルに見るならば、毛沢東が中国を共産主義化してくれたことによって、日本がどれだけ西側諸国の市場をアジアで独占して成長することができたであろうかということです。

 もともと古代からいついかなる時代でもアジアの中では大国であり続けた中国です。その人口規模、市場規模から考えたら、いついかなる時代においても中国はアジアのなかの大国であり続けています。

 それが、毛沢東が革命を起こし、社会主義化してくれたおかげで、資本主義市場に対しては沈黙を守り続け、アジアではほぼ日本のみが、戦後のアジアの資本主義市場を独占して発展させることができたのです。

 敗戦後、アメリカの政策や朝鮮戦争特需による戦後の復興は語られていますが、中国は資本主義陣営に敵対すると言いながら、日本経済にとってはアジアにおける日本の独占を中国がなによりも一番保証していたということを見落としていないでしょうか。

 それをアレックス・カーは、「毛沢東からの贈物」と評しました。

 

 日本が敗戦の焼け野原から立ち上がってくるときに、もしもその時から中国が市場開放していたとしたら・・・

 とても今の日本の復興や高度経済成長などはありえなかったのではないでしょうか。

 もちろん、それは今ほどの脅威ではなかったかもしれませんが、戦後、早くから中国が市場開放していたならば、少なくとも今よりももっと早く中国の経済成長が始まっていたことは間違いないでしょう。

 それだけ中国が、日本に半世紀にもおよぶアドバンテージを与えてくれて戦後の復興を助けてくれていたにもかかわらず、日本はそれに気づかず、目先の数字ばかりを追いかけてしまいました。

 毛沢東が日本へ途方も無い贈物をしてくれている間に、日本は「大人」の経済や「大人」の国家になれれば良かったのですが、残念ながら市場の拡大にしか目がいかず、今の有り様になってしまったというわけです。

 

 周辺諸国とのつき合い方をイデオロギーや敵か味方かの判断ではなく、いついかなる時代においても折り合いをつけて付き合い続ける覚悟を、島国日本は長い歴史の間ずっと鍛えられていません。

 長い歴史の間ずっとフランスやイギリスと敵対し続け、ナチスの時代の残虐から隣国ポーランドなどからは「怨念」を突きつけられ続けているドイツに比べたら、日本の韓国や中国をはじめとするアジア諸国との関係は、あまりにも「ゆるい」。

 かといって「ゆるい」からといって無理に「シビア」に方向転換する必要もないと思いますが、必要なのは、日本の恵まれた環境を自覚して、何事も他人のせいにしない「大人」になることだと思います。

 

 私は保守主義ではありませんが、

 社会主義中国や旧ソ連、ロシアの脅威を感じるのであればあるほど、アメリカなどの大国に頼らずに独自の中国やロシアとのつき合い方を模索するのが「大人」の国の振る舞いであり、敗戦と占領のジレンマから脱することの出来ない環境があればあるほど、国際社会のあるべき常識、自主、独立、平等への道を真剣に模索するのが「大人」の国への道であると思います。

 

 ほぼ半世紀にも及ぶ「毛沢東からの贈物」を無駄にしてしまった日本ですが、明日のことを考えるならば少なくとも、他国のことを非難する前に、自国の有りようを先に正す姿勢をもつべきだと思います。

 考えてみれば、毛沢東からの贈り物だけではなく、敗戦後は、周恩来が日本に対して戦後賠償を一切求めなかったことや朝鮮戦争特需など、同じ敗戦国ドイツに比べたら異常に恵まれた環境下で戦後復興をなした国であったことがわかります。

 東西合わさったドイツでさえ、人口は8千万人レベルで、国土面積は日本より小さいのです。

 日本人が勤勉であることに異論はありませんが、こうした異常に恵まれた環境を見れば、特別に日本がすぐれているわけではないことはもう少し自覚できるのではないでしょうか。

 

 バブル崩壊後の失われた10年、20年の問題ではなく、半世紀にもおよぶ「毛沢東からの贈物」の恩恵を活かしきれなかったツケが、今の日本に現れているのだと思います。 

 デフレ脱却を至上命題にしたさらなる「成長」のための戦略ではなく、「大人」の経済、「大人」の国家への道を、遠回りはしましたが、これから少しでも前へ築いていきたいものです。

 

 

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旅の拾いもの ④ 穴太(あのう)衆の里

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方

 日本という国は、基本は木と紙の文化の国であるといえます。

ところがそこに、本来、日本には異質ともいえる石の文化がおもに渡来人らによってこつ然と芽生えた、
かのような痕跡があります。

その代表が近江にある石の文化であり、またそれらの技術を最高度にもっていたと思われるのが、
穴太衆(あのうしゅう)といわれる職人集団です。

わたしは二十数年前、白洲正子の『かくれ里』を読んですぐにそうした近江の地を見てみたくなり、ひとり車を飛ばして行ったことがありますが、そのときは湖北や湖東方面のみで、この穴太の里がある坂本方面まではまわれませんでした。

かくれ里
クリエーター情報なし
新潮社

以来、ずっと気になっていたので、安土城址に行くたびにその石垣に穴太組みの石積みはないかと、石垣を目を凝らしてはみたものでした。

関西方面へ車で出かけるたびに、何度、穴太の坂本がすぐ近くにあると思いながら大津を通り過ぎたことでしょう。

毎度のことながら、何度出かけても京都の地図の縮尺と近江の地図の縮尺の違いが頭に入らず、滋賀県内の移動はつい距離を甘くみてしまうものです。

それが、今回の京都旅行は、二日宿を大津市にとったので確実に坂本へ足を伸ばすことができました。といっても、それは半分偶然だったのですが。

 

今回の旅の目的のひとつは、都の鬼門の意味を確認することでした。

そのため私たちは北東から都入りすることにこだわり、大津から琵琶湖沿いを一旦北上してから京都方面に入ろうと考えました。

どうせならその途上の日吉神社にも寄りたいので、とりあえずナビ上でみたら穴太という地名が見えたので、厳密にどこというわけもなくただその穴太を行き先として設定してみたのです。

すると、どんどん道は住宅街の狭い路地に入り込み不安になってきましたが、穴太の地域に入るとたちまち周囲の住宅の石垣が、まさに穴太積みの美しい石垣で、右をみても左をみても、いたるところに穴太積みの石垣を見ることができました。

残念ながら、狭い住宅街の路地を出口もわからないまま車で走行していたため、止まって写真を撮る余裕がありませんでした。

下の写真は、日吉神社の境内の石垣です。 

 

まさにこうした不規則な石を組み合わせて積み上げるのが穴太積みの特徴で、不規則な石を組み合わせるからこそ、強度が増すものです。

江戸時代になると、方形にきちんとカットした石を積み重ねることが主流になりますが、直線の組み合わせだと、どうしても構造的には縦の重みだけで支えるようになってしまい横の力には弱くなってしまいます。 

ただし残念ながら、この度の熊本地震で崩れた熊本城の石垣も穴太衆が築いたといわれるものですが、百年千年に一度の地震には耐えられませんでした。
 
石垣 (1975年) (ものと人間の文化史)
クリエーター情報なし
法政大学出版局
 
あらためて穴太衆の石組みを見ると、天然の石の形をそのまま活かした不規則性というものが、とても美しいことを感じます。
 
時代が進み技術が進歩したり合理的思考がすすむと、どうしても効率のよい方法へ流れていきますが、ブロック積みのいかなるものよりも、こうした自然石のかたちを活かした積み方には、積み上げることの難しさにプラスされた造形の美しさそのものがとても大きな魅力になっているものです。
 
この自然素材をいかに活かすかということが、翌日から入った京都の寺社の造りをみる視点の大きなベースとなりました。

 

 

 

 

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旅の拾いもの ①「飛行神社」

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方


今回の大事な行き先のひとつ、石清水八幡宮へナビをたよりに向かっていたら、すぐ近くに「飛行神社」があることを知りました。

 


ライト兄弟が世界初の飛行機を飛ばす12年前の明治24年に、独自の構想で航空機を考案した二宮忠八を祭った神社です。



事故のあるたびに、取り返しのつかない責め苦を背負う人びとを受け止め、航空安全への願いを受け入れてき大事な場所です。


吉村昭「虹の翼」を読んで以来、二宮忠八とともにずっと気になっていた場所に立ち寄ることができました。

虹の翼 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


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旅の拾いもの ②「天龍寺百花苑」

2016年05月31日 | 歴史、過去の語り方


念願の大河内山荘へ宿からは近いからと道を確認せずに向かったら、天龍寺に一旦入らないと大河内山荘へは至れないことがわかった。(帰りに桂川沿いの道があることを知る)
いつも混んでいる天龍寺は、必ず避けて通る観光スポットベスト5(清水寺、金閣寺、竜安寺、紅葉シーズンの京都)みたいな場所。
あきらめて庭園参拝コースのチケットを買って北門を目指すことにした。

すると、北門になかなかたどりつけずに歩いていた庭園「百花苑」の草花があまりに凄いのに驚かされました。
よくある万葉植物園のたぐいよりも遥かに充実した庭園でした。

(残念ながら、ここは当初の目的には考えていなかった場所なので、写真を撮る意識がなく、適切な説明になるような写真が残っていません。)

 

 


和花の種類が豊富なのに加え、その草花の名前の表示が、日本名に加えて中国名まで併記されてるのです。

しかもそれがアクリルやプラスチックのプレートなどは使わず、すべて木の立て札に墨書きされているのです。



たとえばウツギは、万葉表記で宇能花、宇乃花、宇乃波奈、宇能婆奈、干花などとなる。
これに中国名が加わるとまったく違う花のイメージもわいてくる。

もっとも、これをみると中国名の表記は、外国人観光客が増えてからの新しい札のみで、それも英語やハングル語表記とあわせてあるので、古来の中国名であるとも限らないかもしれない。



それほど見事な庭園だったので、売店でこの植物園の植物図鑑のような本でも売っていないかと妻が聞いてみたが、残念ながらそのようなものは作られていないとのことでした。

市販の植物図鑑でも、和花についてこれほど良い情報が書かれているものはなかなかないと思います。


月夜野所縁の源順が、アジサイをまったく違う中国の花の呼び名「紫陽花」と名付けてしまった事情などがよくわかる。

余談ながら以下はアジサイについての妻の書き込み情報の転載
「紫陽花」日本語漢字は唐の詩人白居易がライラックに付けた名で、源順がこの漢字をあてたことから誤って広まった。草冠の下に「便」を置いた字や(新撰字鏡)、「安知佐井」「止毛久佐(しもくさ)」。紫陽花の葉が便所で使われる地域もあったことや止毛久佐はトモクサと読めるがシモクサと読んだ。また別名として「またぶりぐさ」とも。そういえば小学校の頃トイレの裏や古い大きな家のそこも紫陽花の花が植えてあったのを思い出します。この風習の名残かも...一寸余談。


ものの見せ方、伝え方がいかに大事かと、とても良い勉強をさせてもらいました。

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気になる地名、太子(おおし)(たいし)大子(だいご)、太子信仰のことなど

2015年10月27日 | 歴史、過去の語り方

「かみつけの国 本のテーマ館」のなかの「戦争遺跡と廃墟の美学」でも触れていますが、

群馬県の長野原から先に、廃線となった太子線という鉄道があります。

義父からそれが、太子と書いて(おおし)と読むのだと聞きました。

              (長野原ー太子線 太子駅跡 )

 

戦争中、金属不足を補うために急きょ、突貫工事で作られた路線で、

鉱山跡があることから太子信仰がらみの地名と思ったのですが、

読み方が違う。

いったいどういう意味なのかと思いました。

 

さらに紛らわしいのは、数年前、茨城県の袋田の滝へ行ったとき、

その土地が大子(だいご)と読むのを知りました。

ここは、吉村昭の水戸天狗党の乱を描いた「天狗争乱」や「桜田門外ノ変」などで、

水戸藩士の逃亡先などとして、やたら出てきた地名。

小説を読んでいたときは、おそらく意識していなかっただろうから、

ルビがなかったら勝手に太子(たいし)と勘違いしていたのではないかと思います。

 

また、群馬の長野の県境にまたがる熊野神社へ行ったとき、

太子信仰の石碑を見て、そういえば長野の方が太子信仰が盛んであることを

思い出しました。

 

結構、あちこちでみられる地名の太子と太子信仰の関わりは、

いったいどんなものなのだろうか。

 

 

しばらく、そんな疑問も忘れていたのですが、かつて読んだ

五木寛之・沖浦和光『辺界の輝き』が文庫化されたので、

大事な本なので再読してみました。

すると、タイシ、ワタリについてや周辺の話題がやたら出てきました。

 

 

 「ワタリ」「タイシ」については、井上鋭夫『一向一揆の研究』での論及が大きな影響力を持ってるようです。

この本は、分厚く入手しにくいらしい。

「あっ、それ持ってる」と思ったら、

私の棚にあるのは笠原一男の『一向一揆の研究』(山川出版)でした。

 

 

写真は、現在入手可能な井上鋭夫の代表的著作『山の民・川の民』(ちくま学芸文庫)

 

 

行商人、船運に従事する人たちや金堀り、木地師、大工などに広く信仰される太子信仰が、

次第に親鸞などの浄土信仰に吸収されていく。

いや、おそらく後先は地域によって必ずしも時代通りとは限らず、

浄土真宗のなかに後から太子信仰がくっついてきた場合もあるかもしれない。

 

信仰していた人びとでも、上記の行商人や船運に従事する人びとと、

金堀りや大工などの職人たちとは、ちょっと分類が違うような気もしますが、

大きくは「雑種」というくくりでまとめて良さそうです。

 

いわゆる「士農工商」に入らないエタ、をのぞく人びとで、

「工」や「商」のようであっても、定住性のない人びと、

あるいは人別帳に載らない人びとなどが中心。

ここには農業を兼ねていない林業、漁業の人びとも、かなり含まれてくる。

もちろん、明確な線引きは難しい世界。

でも、どうやら職種で判断するより、「定住性のないこと」が

意外と大事な目安になるような気がしました。

 

となると、サンカやマタギが当然思い浮かぶ。

山伏や乞食僧らもからんでくる。

 

こんなふうに思いつくままあげてみると、人口構成比のなかで

意外と多くの人びとが「雑種」といわれるなかにいたのではないだろうか。

これから近世の歴史などをみるときに、私たちはもっと「士農工商」以外の

人びとの実態を含めて考えていかなければなりません。

 

これらはきちんとした研究ではなく、数冊の本を読んだだけの私の印象にすぎません。

ちょっと心細いので、ググってみると、

「忍の道」なるサイトにここにかかわることが詳しく出てました。

http://members3.jcom.home.ne.jp/1446otfh/ban1000/dusto/ninj/nin-2.htm#3

 「井上の一向宗研究は、一向宗そのものよりも、原一向宗とでもいうべき一向宗 以前の姿を、太子信仰のなかに探ったというべきものである。井上によると、 山伏修験者たちは蔵王権現はじめ大日・阿弥陀・薬師・観音・地蔵・不動など の諸仏菩薩を信仰した。一方、彼らに使役された金堀りたちは諸仏菩薩より一 段低い信仰対象を与えられた。山王にたいする王子のようなもので、信仰にも 階層差別があったことになる。従って、太子信仰は元は王子信仰にあり、金堀 りは太子信仰であったがゆえに後にタイシあるいはワタリと俗称されるように なったという。 」

 

「太子信仰は元は王子信仰にあり」ということがそのまま、

太子を(おおし)と読むことにつながるわけではありませんが、

このサイトはとても参考になりました。

 

柳田国男は「太子講の根源」という項で以下のように述べてます。

「すなわち我々の迎えて祭った神々は、常に若々しい姿をもって信徒の前に出現なされ、
人はそれを天つ大神の御子と思っていた故に、通例は大子と呼んだことがあるらしいのであります。
後世漢字の用法が厳格になってからは、天つ日嗣(ひつぎ)の御子に限ることになりましたが、
その以前久しい間、田舎ではこう書いてオオイコもしくはダイシと称えることが、
広く名門の家庭までも及んでいた証拠があります。
神にはなおさらのことで、それが一方には弘法大師となり、他の一方には聖徳太子諸国御遊歴の
話ともなったかと思います。
そうして東国には別に仏法とは縁のない太子講が、現在もなお行なわれているのであります。

      柳田国男『女性と民間伝承』角川文庫 

 

また、『日本の伝説』の「大師講の由来」では、

だいしはもし漢字をあてるならば、大子と書くのが正しいのであろうと思います。もとはおおごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音でよぶようになってからは、だんだん神と尊い方のお子様のほかには使わぬことになり、それも後にはたいしといって、ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。」

さらに、

「また大工とか木挽きとかいう、山の木に関係ある職業の人が、いまでも太子様といって拝んでいるのも、仏法の方の人などは聖徳太子にきめてしまっておりますが、最初はやはりただ神様の御子であったのかもしれません。古い日本の大きなお社でも、こういう若々しく、また尊い神様をまつっているものがほうぼうにありました。そうしていつでも御身内の婦人が、かならずそのおそばについておられるのであります。それから考えてみますと、十一月二十三日の晩のおだいし講の老女なども、のちにはびんぼうないやしい家の者のようにいい出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母(おんおば)というような、とにかくふつうの村の人よりは、ずっとそのだいしにしたしみの深い方であったのではないかと思います。」

 

 

今回は、何も結論を出すような内容はありませんが、

・ 太子信仰と浄土真宗の相関

・ 雑種という階層の人びとの実態

・ タイシ、オオシという地名の由縁

とても興味深いところなので、頭の片隅に残して継続して追っていきたいと思ってます。

 

              2013年10月5日     (2014年12月30日更新)

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戦争を止めること、語ることの難しさ

2015年07月12日 | 歴史、過去の語り方

 今、戦後70年の節目に戦争を考える複数の企画にかかわらせていただいています。

 どの企画をとっても「戦争」という大きなテーマに戦後70年を経てどう切り込むのか、切り込み口が豊富なだけに、的を絞ることは容易ではありません。加えて世の中の右傾化が進んでいる現在、憲法を語るにも、沖縄や基地問題を語るにも、それぞれの議論の立ち位置をきめることもなかなか簡単にはいきません。

 そんな折り、戦時中に暗号将校であったある戦争体験者の講演会を開くことになり、企画の持ちかたをどのように提案したらよいのか、とても苦慮してます。

 そのかたは、暗号通信兵という立場から、それほど激戦地での戦いを経験してきているわけではありません。
 おもに中国、満州、朝鮮半島を渡り歩いて終戦をむかえた体験談になります。
 ひとつひとつの移動日時から出来事の記憶がとても鮮明で、話しもとても上手な方なので、その話を聞けるだけでも十分と言えるかもしれませんが、この戦後70年という節目を、その方の体験を聞くだけで、ひとつの講演会を終わらせてしまうことにはとても抵抗を感じます。その方の体験から教訓として、シビリアンコントロールがとても大事であるとも強調されていましたが、話しがそれまでになってしまって良いのでしょうか。
 もしそれだけで企画を終わらせてしまったら、今、いったい何を問いかける講演会になるといえるのだろうかと思わずにはいられません。
 いかなる立場であれ、当時のリアルな体験というのは今やひとりひとりがかけがえのない貴重な証言者となっています。 それらを今こそもらさず発掘して後世に伝えていかなければならないのですが、私たちがそこから何をつかみ取るのかを抜きに、いまそれを語ることはできません。
 地元ではとても知名度はある方なので、企画を準備しているその周辺の皆さんにどう提案するべきか、あれこれ考えているのですが、いまだに考えがうまくまとまりません。

 

 戦後70年を考えるとき、まず第一に大きな壁となることは、圧倒的多数の人びとがいまや「戦争」の現実そのものを知らない、直接的に体験していないということです。

 戦争の現実そのものも、個々の戦地の様子、闘い方の問題、一兵士の重い体験、国際情勢のもとでの政治家や指導者たちの判断の問題、時代毎の特徴、銃後の暮らしの様子、国家総動員態勢の下での様々な変化・・・等など、きりなく課題があります。 

 それらのどこを切り込み口にしてもよいと思うのですが、どうも傾向として、なんであんなバカな戦争をしてしまったのか、こうすれば戦争は避けられた、あるいは今こそ平和をといった論調が、戦争や平和を語る人たちの間で、あまりにも噛み合ない現実に私たちはどう対峙したら良いのでしょうか。

 あの時代に比べたら、民主主義のレベルも進歩したかに見えますが、あのだれも止められなかった戦争をおこしてしまった環境、とても勝てそうにない状況に追い込まれていたにもかかわらず、それを早く止めることができずに多くの犠牲を膨らませてしまった現実、それらの構造は未だになにも変わっていません。

 

 

 その時代のまっただ中にいるときには気づいていなかったことを、後世の人びとはたくさん見て反省しているはずですが、まだ戦争の記憶も生々しいときに起きた朝鮮戦争のとき、私たち日本人はどう行動したでしょうか。

 ベトナム戦争のとき、反戦運動は今に比べたらはるかに大きなうねりとなっていました。
 でも、沖縄の問題、米軍基地の問題をその時どう解決してきたでしょうか。

 遠いアフガンやイラクへの侵攻がはじまるとき、日本はいったいどういう行動をとったでしょうか。

 戦後のどの時期をとってみても、あの大戦の経験があるから日本が再び戦争をおこす心配は無いなどといえる姿ではありません。そこが未だに浮き彫りにならないまま、もはや時代が変わり国際社会の一員としての責任を果たすには、血を流す覚悟なしには国を語ることはできないといった論調が加速的に増えてきてしまいました。

 

 戦争。

 それは、何を語ってもあまりにもインパクトの強い話題になるので、どの部分をついてもそれぞれが本質的論議の性格をもってしまうのも事実だと思います。

 でも今こそ、それで終わってはいけないと思うのです。 

 ではどうしたら良いのか、まだ結論を出せるわけではありませんが、
 まず以下のようなことが思い浮かびます。

 

1、様々な紛争を目前にして憲法九条の平和精神が大切であることに私は異論はありませんが、
 「九条」があれば平和が無条件に保証されるというほど現実は簡単なものではありません。

2、平和や独立を守るために一定度の「軍備」というものが必要であることも間違いないかも
  しれません。しかし歴史をみると、十分な軍備があれば、あるいは敵より強い装備さえあれば、
  必ず平和が守れるというわけでもありません。

3、軍の暴走を避けるためにも、「シビリアンコントロール」は不欠ですが、歴史をみると
  「制服組」ばかりが戦争に走るとも限りません。文民・官僚や国民、あるいはマスコミが
  まっ先に戦争をあおることもとても多いものです。

4、過去を振り返って反省される戦争であっても、その多くは「多数決」で国民の支持をえて
  始まりました。

5、自分の信条や考えにかかわらず「組織」の一員として「戦争」の現実に立たされたとき、
  暴走する上官の命令に直面した場合に自分がどう対応できるか。

6、政治的、あるいは組織的「権限」さえあれば戦争も止められるとも限りません。
  天皇ほどの立場であっても、終戦の決断と玉音放送の録音に至るまでは命がけのことでした。

7、国を守る強い精神と肉体をもった若い兵士であっても、「戦場という過酷な現実」のなかに
  入ると、普通の精神状態を保つことが難しくなるだけでなく、運良く生還した場合でも極めて
  厳しい精神状態におかれることになります。
      (戦場での戦死者の数よりも、生還した兵士の自殺率の方が多い時代)  

8、 戦争か平和か以上に世の中が、「不安定」であることによってこそ利益を得る人たち
  そして現代では、彼らこそが大きな影響力を持っているということを忘れてはなりません。                 (じっくり考えていくとまだまだ他にもありそうです)

 

これらのどれを取り上げても、とてもやっかいな問題ばかりです。

まさにとても「やっかい」な問題だからこそ、「戦争は政治の延長」なのであり、
対話や交渉で解決できないとき、「戦争」という力のの解決策にゆだねてしまうわけです。 

だとすれば、対話や交渉能力の欠如と諦めこそが「戦争=暴力(ゲバルト)」の最大原因ともいえます。

話しがここにくるとまたそれは、国の指導者や外交官、あるいは軍の指揮官の能力の問題としてとらえられがちですが、そうした要因もあることは事実でしょうが、その枠にとどめた話しになってしまうところが、まさに「戦争」問題の解決から遠ざけてしまっている大きな原因があるように思えます。

ちょうどそんなことを考えていたときに、エリック・C というフランス人の以下のような言葉を目にしました。

「日本の民主主義は未熟だと日本人に話すと、優秀な政治家がいないからだと言う人がいるから愕然とする。
民主主義が未熟だということの意味は優秀な人物がいるとかいないとか全然関係ない。政治に関心がない無関心層が多いか多くないかというだけのことだ。」 

 

  現代の政治の問題であっても、過去の戦争の問題であっても、それは無謀な戦争を推し進めた「彼ら」の問題として語るのではなく、「彼ら」を説得することも、止めることもできなかったそのまわりの人間=「私たち」の問題なのです。

 それを実行することが確かに容易ではないことは、誰もがわかると思います。

 しかし、それぞれの現場で、それが戦場であっても、指揮官の作戦本部であっても、議会であっても、マスコミであっても、知識人・研究者の立場であっても、会社などの組織内であっても、住民の隣近所のつきあいであっても、まさにそこに居合わせた自分(あなた)こそが歴史をつくっているまぎれもない当事者なのです。

 目の前の人間の無謀な判断や言いにくい雰囲気、あるいは言うことで自分の身の危険が増す恐れがある場合でも、自分が為せたこと、為せなかったことの積み重ねで、間違いなく歴史はつくられてきたのです。

 

 このことは、戦争にしても平和にしても、それはどこかの指導者に要求することとしてではなくて、自分がその現場で為せることの責任において、それはまさに首をかける、あるいは命をかける覚悟をともなってこそ、一歩前に進みうる問題であると思います。

 現実には、そんなことを言っていたら首(命)はいくつあっても足りないだろう、ともよく言われます。

 でも、それは戦争とまではいかなくても、私たちの職場においてもまったく同じ構図で、日々至るところでいいわけとして使われています。

 まえにも書いたことがありますが、ある教育関係者の会合に私が参加させていただいたときに、教師の責任を問うといった話しになり、それはなによりも自分の教え子たちがおかれている立場を守るためには、教師が職員室で首をかけて闘う覚悟をみせることなのではないかと初対面の先生達に恥も外聞もなく詰め寄ったことがありました。

 そのとき、会合の進行役をしていた先生が、首をかけてやめてしまっては元も子もなくなってしまうので、辞めないように努力し続けているのだといったようなことを言って、その場の空気をすこし和らげようとしてくれたのですが、私はそこでどうしても妥協することができませんでした。

 まず、首をかける覚悟のできていない腹では、いかにテクニックを駆使したところで、子どもには道理が通じないからです。
 逆にその腹=覚悟が決まった先生の行いであれば、仮に首になったとしても、それを見ていた子ども達には、それがたとえ小学生であったとしても、自分の先生のとった行動として深く心に刻まれることと思います。さらには、その先生自身もそのことによってこそ必ず次の活躍の場に出会える可能性が高くなるはずだからです。(公務員の枠内では、確かにこの次の道を求めるのは険しいかもしれませんが)

 そもそも普通の生活や仕事においては、首をかけるようなことなどということは、そう頻繁に起きることではありません。多くの場合は、10年に一度もあればよいくらいなのではないでしょうか。

 それが頻繁に起きるように見えるのは、その首をかけるような出来事にチャレンジせずにずっと持ち越し続けているから絶えずふりかかるように見えるのであるのだと思われます。

 さらに、その首をかけるようなことに出会えるときこそ、自らの真の力を試し成長できる素敵なチャンスであるわけですから、それを逃す手はないでしょう。 

 

 いかに平和のためといえども、決して命であっても首であっても阻末にしてよいものではありません。

 そもそも人の命の重さを比較などできるものではありませんが、その場において指揮官の責任と現場兵士たちの命の重さは、まず等価であるわけです。

 教師の責任と自殺に追い込まれる子どもの命の重さは、少なくとも等価であることで実態が見えるわけです。

 

 

 そもそも、戦争や平和は、あらゆる現場において首(命)をかける覚悟を伴わずに、責任を全うすることは難しいものであるはずです。
 それが難しい覚悟であるのは、まさに自分の首(命)をかけるからであり、他人の(首)命の問題になった瞬間から重い責任と覚悟は多くの人の場合、見えなくなってしまいます。 

 これを理屈で説明しつくすことはとても難しいのですが、世の母親だけは、自分の子どもを守るためには無意識に自分の身を投げ出して守ろうとする覚悟のようなものを、無条件に持っています。

 それが単純に本能といってよいものかわかりませんが、元をただせば、生命を守るということこそ、あらゆる人間や自然界の生物の基本原理であるはずです。

 この意味で、首(命)をかける覚悟のない責任は、もともと何より大切な原理=生命に基づかない反生命的行動とでも言えるような価値と実態を喪失したものと言い切ってもよいのではないでしょうか。

 

 

 私たちが歴史を語るとき、それはあまりにも政治経済史としての部分のみに目がいってしまっています。

 これまで述べたように、それは戦争に限らず、歴史とはまず何よりも

「命を受け継ぐこと」

「自然と人間社会の数多の命の再生産の歴史であること」

 が実態の圧倒的部分を占めているはずです。

 

 この命を受け継ぐこととは、そもそも

個体レベルで常に命がけの行いで成り立つものなのです。

その命を自分自身が担っている主体として背負い考えること抜きに

他人のこと、あるいは社会一般のこと、国家レベルのことに安直に置き換えてしまうことが、

わたしには民主主義の形骸化の最大原因に思えます。

 

こうしたことは当然、誰にとっても容易いことではありません。

私自身、こんなことを書いていながら、無責任ながらほとんどが敗北の歴史そのものです。

でも、だからといって「覚悟」を放棄することはできません。

首をかける覚悟に挑み続けるしかありません。

とっさに身を挺してわが子を守る母親の姿には、とても及ばないのが現実かもしれませんが、
だからこそ、その時こそ「命」の実態を知る大事な「今」に直面しているといえるわけです。

 

個人では太刀打ちできない困難に直面したとき

「だからどうすることもできない」

「仕方がない・・・」

の繰り返しでずっとやり過ごし続けるのではなく、

その個人では太刀打ちし難い現実に

3回に1回でも、

10回に1回でも、

年に一度でも、

いや100回に一度でもいいから

流れに身をまかせ続けるのではなく、立ち止まって

他人に要求することではなく自分がなすべきことで、

その困難な現実にチャレンジする勇気が欲しい。

 

答えは出せなくてもいい。

真剣にチャレンジすれば、少なくとも今までにはふれることのできなかった

沢山のものが見えてくるはずです。

 

「止められない戦争」といいのは、

それは正しいか間違っているかの問題ではなく、

こうした私たちの日々の覚悟や判断の積み重ねのうえに成り立っているものだと思います。

 

 

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上野国分寺と橘諸兄  ~紫陽花万葉歌に想う~ 

2015年02月09日 | 歴史、過去の語り方

万葉集のなかで紫陽花がうたわれているのは、次の二首だけです。

 

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを

     いませわが背子 みつつ偲はむ

                橘諸兄 (巻二十 4448)

 

 あじさいが幾重にも群がって咲くように変わりなく、

 いつまでもおだやかでいてください。

 わたしはこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。(大意)

 

 

 

  言(こと)問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが

       練りのむらとに詐(あざむか)えけり

                                       大伴家持 (巻四 773)

  物言わぬ木でさえ、あじさいのような移りやすいものがあります

  諸弟らの巧みな占の言葉に私はだまされました。  (大意)

 

 

紫陽花の折り重なる様子、移ろいやすさをそれぞれうたっています。

 

「万葉集」は橘諸兄と大伴家持、このふたりの力によって編纂されたともいわれます。

紫陽花の歌で、このふたりが共演していることも面白い。

いや、万葉集編さんの中軸ふたりだけが紫陽花をうたっていることには、何か深い意味もありそうな気もしてきます・・・

百人一首が、ただ名歌を集めただけでなく、ひとつひとつの選択に深い意味が込められているのと同じく、万葉集編さんの中心人物であるこの二人だけが紫陽花という題材を選んだことは、憶測かもしれませんが、推測研究の価値は十分あるかと思います。

まして藤原氏圧政の下で、ひと際苦労を分かち合っているこの二人のことですから。

 

橘諸兄と紫陽花については、様々な考察ができそうですが、
以下のような興味深い仮説のサイトもありました。 
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-604.html?sp

 

 

 

まだ、これほど目立つ花が、歴史のなかでは『源氏物語』にも『枕草子』にも、

まったく取り上げられていません。

   その後、あらわれてくるのは芭蕉句(発句編・夏)でやっと現れます。

 

アジサイは渋川市の花ですが、この町だけはいつの時代になっても変わること

なくその魅力を伝え続けたいものです。

 

天皇と藤原氏を中心に律令制度を軸としたこの国のかたちがようやくできはじめた天平時代。

災害や疫病とともに、その中枢を担っていた藤原四兄弟をはじめとする多くの議政官が次つぎと亡くなってしまいました。

そんなときに藤原氏以外から聖武天皇を補佐し、大変な国分寺政策の責任者に抜擢されたのが橘諸兄です。

多くの人びとが苦しみのなかにあるときに、仏教による救済を求めて聖武天皇は、東大寺をはじめとする巨大寺院や仏像の建立に人々をかりたてたのです。

そんな無謀な計画は、決して長く続くものではありませんが、その責任を担わされた橘諸兄のこころの内はどのようなものであったでしょうか。

 

「万葉集」は「遷都と仏教支配に失敗した橘氏が仲麻呂勢力に対して行なった文化的戦い」(梅原猛「天平の明暗」中央公論社)との見方もある。

 

この史跡にたって橘諸兄の紫陽花の歌をよんでみると、

日本をおおう大きな政治のうねりと、その職務を背負ったひとりの人間の苦悩の姿、

またそこにかり出された幾多の人びとや高度な技術をもった名もなき職人たちの息吹を感じることができます。

 

 

天平一三年(741)多くの災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、東大寺建立をはじめとする国分寺を国ごとにつくることを命じました。

上野国の国分寺は、750年頃に主な建物が完成したようです。

僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60mにも及ぶ七重塔が建てられていました。

 奈良県で一番高い興福寺の五重塔でも50.1メートル。木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8メートル。

五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはありません。各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図によってつくられていたようですが、上野国分寺は早い時期につくられたこともあり、全国でも規模ともに整ったものだったようです。

 

東大寺の七重塔の推定高100メートルには及びませんが、

おそらく当時は上野国のかなり広いエリアからその姿をみることができたことでしょう。

          

                                   (以上、万葉紫陽花歌手作り栞普及チラシ下書きより)

 

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赤城山、赤城神社のネタと言えば・・・

2014年08月03日 | 歴史、過去の語り方

大事な記事は、私の別のブログのものでも、転記することが多いのですが、

これはこちらのブログにはなかったようです。

リンクのみあげておきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/32845363.html?fb_action_ids=827273300617090&fb_action_types=og.likes

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