かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

脱落したページは気づかれない

2017年03月31日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

今や世界中がSNSなどで、自分や相手がどこにいるかを意識することなく簡単につながってしまう時代です。

そのためか、相手との間での自然や季節のギャップを否応なしに感じさせられることも少なくありません。

 

私のいる群馬で言えば、早くも2月には渋川市の方から福寿草の開花が伝えられ、月夜野歳時記の3月の写真で福寿草を使ったことに無理があったかと一時は心配しましたが、今年の月夜野では3月末になっても福寿草はまだ真っ盛りです。

また3月末ともなれば桜の開花が伝えられる時期ですが、これも月夜野ではようやく梅が咲き始めたところ。

今年に限らず、梅と桜は北へ行くほど、ほぼ同時期に咲きます。 
 

 

しかし、こうした地域による季節のギャップ以上に深刻に感じられるのが、一見、同じような自然風景を見ていながら、そこにある自然そのものに都会と田舎では、たいへんな次元の差があり、同じ言葉を交わしていながらも、また同じ写真や映像を見ていながらも、そこには大きな感覚のギャップがあることを屢々感じてしまうことです。

 そんなことを言っても、実際には久しぶりに群馬の山奥から東京に行って、都会にある公園や庭園などを歩いたときは、都会生活をしていながらも東京のど真ん中にこれほど豊かな自然があるのかと驚かされたりもします。

まして明治神宮や皇居の森のホンモノ度は、群馬の自然と比べても決して遜色どころか、その完成度の高さには驚かされるほどです。

  

 

 

それにもかかわらず多くの人びとには、都会から群馬の山々を見れば、そこには羨む自然が溢れているように見えます。

また、その同じ群馬の中でも、高崎、前橋の都会に比べたら、渋川市や沼田市へ入った途端により山々が近づき、より豊かな自然に近づいたことを感じます。

さらにそこからこの月夜野の地へ来れば、いっそう山々がせまり、都会では味わえない田園風景を目にすることができます。

それでも、そこで目にしている風景は、まだ「里」の風景です。

ここからさらに藤原や片品などの方面へ向かえば、圧倒する自然を目にすることになります。
 

 都会の公園であろうが、里の風景であろうが、山深い森林であろうが、普段私たちが目にする自然は、どれも私たちの心を圧倒する豊かさを持った崇高な世界であると感じるのは事実です。
 

ところが、そのどのレベルの美しく豊かな自然の中にも、大事な欠落したものがあることを一体どれだけの人が感じることがあるでしょうか。

目に見えているものの中に欠落したものは、見ることができません。

なかなか気づくことはありません。

 

それは何も絶滅したニホンオオカミやニホンカワウソなどのことを言っているわけではありません。

 

 

ほんの30〜40年前の日本の風景の中に、当たり前のようにあったもの。

一体どれだけたくさんのものが、この目の前の風景の中から消えていることでしょうか。

それは先の東京オリンピックの頃まで、日本中どこにもあった風景や自然のことです。

 

私の記憶にかすかに残る昭和30年代。

昭和40年代もなんとかその範囲に入れることができるでしょうか。

 

学校の行き帰りに田んぼの畦道を通れば、その脇の堰や小川でゲンゴロウ、タガメやイモリ、メダカなど至るところで見ることができました。

畑の横を通れば、モンシロチョウ、アゲハチョウ、てんとう虫などは、たくさん見ることができました。 

おそらく、それら以外に名も知らない昆虫や微生物を含めたら、一体どれだけの生き物たちが姿を消していることでしょうか。

運良く、絶滅危惧種に指定され保護の対象になった生き物などは限られています。

それらの消えた存在の多くは気づかれることないまま、公園や観光地の周辺で私たちは、何とか「豊かな」自然を取り戻す活動を精一杯行ってきました。

この月夜野に限らず、各地で行なわれている「ホタルの里」づくりなども、貴重なホタルの生息域を取り戻すことに計り知れない意義はあるものの、その周辺の田畑の自然環境の中にいたその他の昆虫たちを含めた生態系を取り戻すような活動ができている地域はとても限られています。

 

ここで安易に自然農法の復活だけを呼びかけてしまうと、「人権問題」とまで言われる現実の農作業現場の切実な問題を圧殺することになりかねません。

かといって減農薬技術も進んだいま、人体に影響のない範囲だからといって、虫の食べない、寄り付かない農産物を人間が食べることは俄かには同意しがたいものがあります。

 

大切なのは、いまの農薬の安全基準や環境基準値をクリアしているかどうかではなく、そこに本来の健全な生命の連鎖が維持されているかどうかということです。

生命の連鎖に必要なものが、欠けることなく揃っているかどうかということです。

産業としての農業との折り合いを考えれば、それは確かにどこでもすぐに出来るようなことではないかもしれません。

しかし、健全な生命をひとたび想定することが出来さえすれば、それが昆虫の保護であるのか人間の保護であるのか、さらには経済活動の保護であるのかを問わずに、共通の課題として解決のためのプログラムが日程に上がってくるものと思います。

 

 

1856年3月23日

ぼくは「自然」と昵懇(じっこん)になりたいーーその気分や習慣を知るために。

原始の自然がぼくにはいちばん興味がある。

ぼくはたとえば春のすべての現象を、ここにこそ完璧な詩があると考え、限りない努力を尽くして知ろうとする。

そのあげく口惜しいことに、ぼくが所有し読み終えたのは落丁本でしかなく、ぼくの祖先たちが初めのほうのページやもっとも荘重なくだりをいくつも破りとり、台なしにした箇所も多かったことを悟る。

神にも比すべき超人がぼくより先に現われて、星のなかでも極上のものを、いくつか抜き取ったなどと思いたくはない。

ぼくが知りたいのは、欠けることのない天空と欠けることのない大地。 

 

文−ヘンリー・ディヴィッド・ソロー  選及び写真−エリオット・ポーター
『野生にこそ世界の救い』
山と渓谷社 1982年 定価4,900円+税 絶版
 

 

目の前にある大自然の風景パノラマのひとつひとつにちゃんと通し番号やページがふってあれば、どのページが欠けているのかは、容易に気づくことができます。

ページのふられていない本に欠けたページがあることに気づける条件は、そこに書かれた文章の文法の正しさではありません。

どんな大事な文章が欠けていても、全く違和感なく読めてしまうことは決して珍しいことではありません。

欠けているかどうかわからない普通の文章は、よほど注意深く見つめ読んでいる人でなければ気づかないものです。

もしも、欠けていない文章と比較することができれば、それはいとも簡単に発見することができるものですが、 まだそれを見たこともない場合には、その文脈のなかに流れている生命力の美しさをよほど注意深く観察しなければ、気づくことはありません。

 

でもここに至ってようやく、私たちは「美しさ」という主観領域の何たるかという実像にも少しだけ迫れたかに思えます。

 

 

 

 

 

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紙の辞書も必要ですか?(2017年版)

2017年03月30日 | 渋川の本屋「正林堂」
 高校では既に9割以上が電子辞書の時代になりましたが、毎年のことながら、「紙の辞書はなくても大丈夫なのか」、「両方持っていた方が良いのか」、様々な問い合わせをいただきます。
 電子辞書の普及度は年々、状況が変わりますが、今年は以下のようにインフォメーションさせていただくことにしました。
 
 
Q&A 紙の辞書も必要ですか?


A1、くらいなら両方持たれることをおすすめします。

   
紙の辞書は、電子辞書に比べて故障や電池切れなどの心配がないばかりか、
  10年、20年たっても使える「タフで頼もしい」決して損することのないものです。
   それだけでなく、捨てがたい紙そのものの質感も大きな魅力です。

A2、かといって予算は出来るだけおさえたい多くの人,
   電子辞書だけでも大丈夫

   すでに世の中はデジタルの時代です。
   かつて紙の辞書にこだわっていた先生でも、電子辞書を否定する先生はなくなりました。
   電子辞書のみで、紙の辞書を持っていなくても心配はいりません。
   受験などの学習効率、とりわけ英語学習では圧倒的に電子辞書が有利です。

A3、学校としてよりも担当の先生ごとに考えは違います。
  担当の先生がきまってから,購入しても遅くはありません

   K高校のある先生は、生徒ができるだけ違う辞書を持っていたほうが
   授業が面白くなるといいます。
   またT高校のある先生は、『新明解国語辞典』の魅力を
   とことん引き出す授業をしてくれます。
 
   こちらにおかれている辞書はどれも実績のある間違いのない辞書ですが、
   どんな先生につくかがわかってから購入されても遅くはありません。
 
 
 
 
 
といった表現でこれまでずっとお店では案内させていただいてきたのですが、
実は、この3番目のことが年を経るほどにひと際大事なことだと思われてきました。
 
繰り返される電子辞書の議論も、すでに実績と機能から言えば、紙の辞書では太刀打ちできないほどの差がついて勝負はあったかのように見えます。
 
ところがその議論のなかには、辞書を引いて調べることの面白さ、学び身に付けるべきことの大事なことがすっぽり抜け落ちているように思えてなりません。
 
それをまさに、
K高校のある先生の、生徒ができるだけ違う辞書を持っていたほうが授業が面白くなるという例や、T高校のある先生のように、『新明解国語辞典』の魅力をとことん引き出す授業をしてくれる例のなかにあらわれています。

ネット社会、いつでもどこでも調べれば何でもわかるような時代ですが、 調べて比べることの面白さや、一つの解説表現の奥の深さは、先のK高校やT高校の先生の授業を体験してこそ学べるものです。
 
どんなに優れた辞書であってもネット情報であっても、その使い方、活用方法をしっかりと学び体験しないと、その場で出くわした疑問の答えを、目にした説明だけで、あたかもすべて諒解したかの誤解をしてしまうような姿が想像されます。
 
要は紙の辞書であれ電子辞書であれ、先生がその活用方法を十分熟知し、その先にはメディアリテラシーを身につけるようなことが、ひと際重要な時代になってきています。
 
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物語のいでき始めのおや 〜私たちの「ものがたり」の育て方 〜  

2017年03月11日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

私たちは「月夜野百景」https://www.tsukiyono100.com などの活動で、地域固有の「ものがたり」が生まれ育つ環境づくりを目指していますが、ここでいう「物語」には、3つの顔があります。

第一の顔は、文字通り漢字で表記された「物語」です。
これは通常の「ドラマ」「文学作品」「情景描写」などに描かれた世界です。

私たちは、月夜野で生まれ育った物語がどのようなものなのか、この地に眠る物語の発掘や、月夜野という地名、土地柄が導き出してきた過去の「物語」の蒐集などから初めてみました。 

月夜野に関わる三十六歌仙の二人 〜凡河内躬恒と源順〜
http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/7126dd5075be149f5a7be232e27eec70

そしてこの土地に関連付けられる歴史上の文学以外にも、広く短歌・俳句から始まり、川柳はもとより江戸端歌、童謡など様々なところに残っている名文を蒐集し始めています。 

「月夜のものがたり」
 http://tsukiyono.blog.jp/archives/cat_1151346.html

ところがこうした物語が現代では、知識や教養にはなっても、それだけでは現代の自分たちの暮らしの中に何かストンと落ちない場合が多いと感じられ、それは当初から予想したことではありながらも、決して後回しにはできない課題であると思い始めました。

その原因の一つは、現代人は「世間」の物語は語れても「自分」の物語を語ることがとても苦手なひとが多いということです。

このことは、以下のような例に見られますが、これ決して特殊な人物像ではなく、現代人の姿を深く投影しています。

「いい物をじっくり選んで買う。そこに個性が出ると思うんですよ。他人が同じ物を持っていても気にしませんよ。そりゃ、中には流行で買うやつもいるかもしれませんけど、僕の場合、自分のポリシーがありますからね。まあ、安月給なわけで・・・・。そうですよ、僕たち働いた分の半分ももらってない感じですからね。自分を殺して殺して安月給。なさけないですよ、っていうのはマア冗談で、本当は全然気にしてませんけど。とにかく、安月給叩いてけっこう高いやつ買うんだから、ポリシーなくっちゃ駄目なんです。」

       大平健『豊かさの精神病理』岩波新書

つまり、モノを選ぶポリシーの中にこそ、自らのアイデンティティーがあるのだと。

それは、モノを通じてしか自己を語り表現をすることができなくなってしまった人間像です。

 

ポリシーのあるなしは、言われてみればよく聞く言葉です。

でも、これら多くの「ポリシー」も、「モノ」の選択・購入の範囲内でしか語られていません。

一見若者にこうしたことが顕著に見られるようにも思えますが、年配の人たちの中にも、自分を語れないこの若者と同じ人たちは少なからずいます。

それは、学歴、肩書き、人事や資格、あるいは所得の大小などばかりにこだわる人たちです。

 

またこんな例もありました。
地域の歴史の掘り起こし作業で、戦争体験の聞き書きをしていた時に、意外と戦地の全体の話は語ってもらえても、肝心なそのひと個人の体験部分は、なかなか語ってもらえなかったのです。
確かにとてもツライ体験、人には話せないような体験をしているからこそとも思えますが、まさにその部分こそが、で、その背負ってる苦悩の姿も、子や孫たちにどう伝えるのか、あるいはどうしても伝えられないのか、生きた証人の一番大事な部分なのですが、この人たちも、また自分を語れない人びとです。

 

さらに、次のような視点も〈モノ〉がたりに含まれます。

私たちのまちには、これといった基幹産業や目立った観光資源もないからといって、環境破壊リスクの高いおまけ付録のつく企業誘致に依存したり、一発ヒット狙いで、大河ドラマブームにあやかったり、世界遺産登録などの看板頼みにしたがる発想です。
どれも必ずしも全てが悪いことではありませんが、自分たち自身で地域に根付いた豊かな財産を守り育てあげる手間を抜きに、よそから安易に何かを取り込んだり、買ってきたモノだけでの一発逆転に頼る世界です。

確かに各分野で活躍されているプロや有名人の力、権威づけがされる既存のシステムに頼るのも、決して間違ったこととは言えません。
しかし、そこにはどうしても自分たちの「ものがたり」を生み育てる努力を省略してしまっている部分があることを否めません。 

これらも含めた人たちが、現代的な第二のタイプ〈モノ〉がたりの世界を担っています。

世界中が消費社会にどっぷりと浸かってしまった現代で、日常のこうした感覚からの脱却の意味を伝えることは、かなり難しく感じられるものです。

 

 

したがって、現代の圧倒的部分を占めるこうした〈モノがたりの世界から脱するには、文学的能力云々ではなく、私たちの暮らし方働き方から見つめ直していかなければなりません。

そして、そうした自らの物語を発見し創造する世界として第三の物語、ひらがなで表記した生(ナマ)の〈ものがたりを発見し、創造していかなければなりません。 

もちろん、このナマの〈ものがたりは、日々の暮らしの中で生まれる個人的体験や地域固有のものであるだけに、そのままでは必ずしも優れた〈物語〉として文学や商品になるわけではありません。

でも、その「ナマ」であることは、必ずしも「未熟」ということにはなりません。
以前このブログで 
  「うた」や「ものがたり」が「文学」になってしまう時
   http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/b63314289855bd8c7d545558fbfd9a38 

作品になったものよりも、暮らしの中で生きた作業歌、労働歌として歌われているもの、母と子どもの関係のような絶対的信頼関係のもとで語られる「読み聞かせ」などのほうが、むしろ実態としては価値が高い場合すらあるということを書きました。

 だからこそ、ここからが大事なのですが、プロのデザイナーやコピーライターにお任せしてかっこいい文句を考えてもらうのではなく、さらには、識者会議などで簡単なアンケートだけを頼りにその場でひねり出すものでもなく、住民の間で日常的に語られる環境の中から、時間をかけて積み重ねて生れ出るようなものにしなければならないはずです。

 

 以下に、いま私たちが提案していることで直面している問題をひとつ紹介させていただきます。

 こうした「ここはカミの依り代 住むひと、来るひと、みなカミの里」といったキャッチコピーも、私たちが勝手に始めると、すぐに地域を代表するような表現を勝手に決めて使用することへの危惧がどこかの関係スジから言われたりします。

また、きちんとした手順を踏まないと「良い」モノでも後で使えなくなることがあるとも警告されたりもします。

それは確かにそうした場合があると私も思います。

 確かに「公」=「行政」のお墨付きを得たモノでないと、地域で公認されることは難しい場合があります。

ところが、その肝心な「公」が、どれだけ住民に開かれ根付いたプロセスでものごとが決定されるかというと、どちらかというと「深く根付く」ことよりも「お墨付き」であるための手続きの方が重要である場合がほとんどです。

私たちが「地域づくり」として考えるのは、結果として「お墨付き」がつく分には良いことですが、地域の人びとの暮らしの中でより広く、より深く根付く環境づくりに軸足を置いてるので、たくさんの切り込み口で地域に眠っている「ものがたり」 から発掘、蒐集し、表現し、伝えていく運動を、時間をかけて行うことこそを大切にしたいと考えています。

 この私たちが大切にしているナマの〈ものがたりは、公認、非公認を問わず、時間をかけて積み重ねることにこそ意義のあるものです。

 決してアンケート結果の多数決で決めたり、数十人が参加する会議の場で決定されるような〈モノ〉がたりではありません 。

 

 

三峯神社縁起 資料 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/53249d31a77f10dfb4dd13ac417b519b

 

こうした運動が小さな活動として始まることに「物語のいでき始めのおや」としての意味があるのです。

実は源氏物語に出てくる「物語のいでき始めのおや」という「竹取物語」を表したと言われるこの表現自体も、こうしたことの大事なヒントなのですが、本当の「ものがたりのいでき始めのおや」はどこから生まれ、育つのか。

この問いかけこそが私たちの運動の中心課題なので、これから大事に時間をかけてみなさんとともに育てていきたいと思います。

 

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農は国の大本なり

2017年03月02日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜

農は國の大本なり


犬の朝の散歩コースにある碑です。


ほんの4、50年前までは、国民の八割方が農家だった時代、信念を持ってこの言葉は響いていました。


今や農業など第一次産業のGDP比率は、1.5%

大真面目にたった1.5%の農業を守るために他の産業を犠牲にしていいのかと言う政治家もいます。

そう言いながら
、貿易立国を看板に国が力を入れてきた家電や自動車などの耐久消費財のGDP比率は、1.6%

毎度、経済対策の話などを聞くとき以下のGDP構成の内訳のことは、頭に入れておいた方が良さそうです。

(紙上講座「5 分でわかる経済統計の見方」の第 2回「GDPとは?」より )
 http://www.energia.co.jp/eneso/keizai/research/pdf/MR1407-2.pdf


かといってこれは、決して経団連と農協の力の差の問題ではありません。

また農協の近代産業化や輸出の拡大をはかれば解決する問題でもありません。

端的に言えば、単一量産型近代化政策と無限複合型大自然の恵みの闘いです。

貿易黒字が出るたびに、アメリカから高額兵器や国債、詐欺まがいの金融商品や余剰農産物を買い続けてきた日本ですが、いついかなる時でも、第一次産業、大自然の恵み、食のあり様が「国の大本」であることに変わりはありません。


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