かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

風と土と汗と涙の大地 その3

2010年02月25日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
函館駅について、すぐにこの重い荷物を減らすために、必要なものだけを残し札幌へ送ろうと宅急便の受付窓口を探した。
ところが、駅にある宅急便のノボリの出ているところは、店で購入した商品のみしか受けてくれないという。

ホテルまで行けば宅急便は頼めるだろうとは思ったが、小さなホテルでは適切な箱が手に入るか心もとないと思ったので、タクシーで宅急便の集配所を経由してホテルにまわってもらうことにした。

不案内な街の移動は、特に2人ともなればタクシーがことのほか便利。
観光案内や地理の説明などしてもらえると、時には観光バス以上にマンツーマンでのやり取りが出来る分、とても密度の濃い観光が可能になる。


荷物を減らし、だいぶ身軽になったうえに残りの大半の荷物もホテルにおいて、市内へ出ることにした。
まずは五稜郭へ行くつもりでいたが、タクシーの運転手によると、この時期の五稜郭は雪に埋もれていて、なにも見るところはないですよ、と言われてしまった。
こうした場合、たいていはこちらの見たいところが相手に想像がついていない場合が多い。

お堀も建物も全部雪に埋もれてますよ、というが、私たちは、それこそ一番見たい景色だということがなかなか理解してもらえない。

この時期に北海道のなにを一番見にきたのかといえば、なによりも冬の北海道だ。

雪の五稜郭、吹雪の街中。
それが見たいんだ。

私たちは五稜郭タワー前で、なんとなく不安そうに見送る姿のなにかと親切にしてくれたタクシーを降りた。

ガイドブックを見たときは、どうしてこんなタワーなんぞ作ってしまうのだと思ったが、入ってみると結構それなりに楽しめる内容だった。
なにか意地悪な質問でもぶつけたくなるような、折り目正しくきっちり教育されたエレベーターガールに案内されて上に上がる。
すると眼下にミニチュア模型をそのまま展示したような光景が開けていた。

おそらくこの写真も模型のように見えることと思います。

やはり高い場所から街を一望することで、函館戦争の土方歳三の奮戦ぶりや函館湾での攻防がよりリアルに目に浮かぶ。
五稜郭の中をゆっくり散策しようかと思ったが、雪がだんだん激しくなってきたので、先に薬屋を探して痛み止めを買うことにした。

歩いて中心街へ向かうときは正面から吹きつける雪で、顔を伏せるか後ろ向きでやっと歩くほどだった。

こうでなくてはいけない、北海道は。

北海道に着いてからずっと感じていたことだが、本州の地方都市に比べるとどこに行ってもあるようなナショナルチェーンの店の看板が少ない。
地元資本が頑張っているのかもしれないが、なんとなく街中の活気にも欠ける。
もちろん雪の吹きまくる冬のことなのだから、人出が少ないのは当然とも思うが、それだけではなく、街のロケーションにギラギラした商売っけがどうも感じられない。
良くいえば、落ち着きのある街並みだ。
それはちょっと立ち寄ったデパートでも感じた。
群馬などの主要都市よりも人出はある。
しかし不思議と落ち着いた感じで、攻めるような売り込みムードはあまりない。

(このことについては次回にまた詳しく書きます)

懐かしい味のスパゲティーを食べて再びタクシーを拾い、市内観光めぐりをしながらホテルへ向かう。
途中、弁天崎の砲台跡に寄って欲しいと頼んだが、無線で問い合わせてもらいながら探したが、観光コースとしては知られていないらしくたどり着けず、その付近で降りて港を見た。

この景色もすばらしい。
夜景ともなれば、確かに一層のことと思われる。

港と坂がつくるロケーションが、神戸と比べても劣らない街並みをつくっている。

驚いたのは、街中を走っていると至る所に古い建物が点在しており、神戸のように観光場所が集中していない分街全体をゆっくり楽しめる感じがする。

もちろん、今のままではその財産を十分活かしているとはいえない苦しい状況かもしれないが、あるものを活かす文化が活発になれば、イタリアの地方都市のような魅力が育つことが想像されるすばらしい街だ。

とても味のある街、函館。
街に魅力を感じた地方都市に出会ったのは久しぶりのような気がする。
翌日寄った小樽も素敵な街でしたが、
お金をかけずに、行政主導でもなく、基幹産業や先端企業の誘致にも頼らない街づくりを目指すには絶好の場所だと感じました。

                  つづく
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黙ってはいられない!「銀花」の休刊

2010年02月24日 | 気になる本
とっても残念なニュースです。
黙ってはいられないので、お店のブログ「正林堂店長の雑記帖」に書いた内容同文をこちらにも転載します。
「季刊銀花」が2月26日発売の4月号で休刊になります。

最近相次ぐ雑誌の休刊は、時代の流れで、その多くは避けられないものです。
しかし、この「季刊銀花」に限っては、そうした時代だからこそ、ネット情報にはない紙の媒体のすぐれた表現力をもつものとして、大半の情報がネットに移行していくなかで、こうした雑誌だけは生き残る価値があるのだと立証するためにも、是非、存在し続けて欲しかった雑誌です。

そもそも、このような密度の濃い情報を提供してくれる雑誌が今まで生き延びてくれたこと自体が、雑誌出版業界からすると異例のことだったのかもしれません。
それはおそらく、この文化出版局というところが、純粋な出版社というよりは、学校法人文化学園の事業として位置づけられた特殊性によるものだったのでしょう。

ピーク時には9万部を発行していたものが、直近の平均発行部数は2万5000部だったといいます。
同社では、休刊の理由を、「情報ソースの多様化や市場環境の変化により、学校法人として新年度の予算を編成するなかで、2誌(「ハイファッション」と「銀花」)の売上げとコストのバランスを保つことが、将来的に見込めなかったため」と説明していますが、あれだけポリシーあるすぐれた雑誌を刊行し続けてきた組織の言葉とは思えません。

「銀花」は、すぐれた編集者に支えられていたことは間違いないのですが、その刊行を続けてきた文化学園にも、それだけの十分な意義を持った位置づけがされていたからこそ出来たことだと思うのですが、内部の詳しい事情まではわからないので、ただ残念としか言えません。

でも本誌に限っては、多くの読者から「はい、そうですか」とは引き下がれない、なんらかの次の動きが出てくるのではないでしょうか。
青山ブックセンターが、店の経営問題以外の会社事情で危機に瀕したときのように、
多くの熱烈なファンからの声が、これから文化出版局に届くことと思います。

一企業の経営判断として、決して軽いものではありませんが、
この雑誌の存続は、出版業界全体の流れにとっても、
また日本文化をどのように守り育てていくのかといった観点でも、
とても大きな問題だと思います。

ちょいと代々木まで一読者として、また一販売書店の立場として、一言伝えに行ってきましょうか。

確かに今まで通りのやり方で存続することは、難しい時代です。
だからこそ、この雑誌の特徴を活かしながらも、もっと売り方、伝え方を変える努力をしてみてから判断しても良いのではないでしょうか。

これからこのようなケースが続くことも予想されるだけに、
ネットか紙かの選択肢ではなく、
数千から2万人程度の市場規模の顧客で採算ととっていくビジネスモデルというものを真剣に考えていきたいと思うのです。
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「風と土と汗と涙」の大地 その2

2010年02月14日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
(忘れかけていた北海道旅行記、岩田さんから督促もきたので、また続きを書きます。)


そんなわけで私たちは、大宮を3時間ほどの遅れで出発したことで、真冬の函館駅に朝の4時に放り出されることだけは、運よく避けられそうになりました。

待合室からやっとたどり着いたホームにようやく入ってきた列車を見るや否や、ホームにいる人からため息がもれるようなリゾート気分あふれた室内を窓越しに見せて車両が通過していく。
私たちが乗り込んだのは最後尾の車両。
簡単に取れるはずがないと言われながらも幸運に取れたチケットは、ちょっと高いスイートクラス。
そんな予定はなかったのだけど、ビュープラザのお姉さんが善意でやってくれて取れてしまったのだから良しとする。

早速、乗り込んだ車内。
2階部分がバスルーム付きのリビング。1階部分が寝室になっている。

このところずっと車での旅ばかりしていたので、もう何もせずに食って飲んでくつろいで寝るだけの解放感は最高!

じきにウェルカムドリンクがアイスペールとともに運ばれてきました。ワインと日本酒の小瓶とウィスキーのミニボトル。
早速、ワインの小瓶からあけて飲む。

出発が遅れた分、窓からの景色は夜景からのスタートになってしまったけれど、部屋のテレビにナビ画面が出ていて、今走っている場所が随時表示されている。
ただ表示エリアが狭すぎて、地理に詳しくないと出てくる地名がどのへんなのか理解できない。

食事はラウンジでする方が豪華な気分を増すことと思われましたが、部屋でずっとくつろげることも嬉しかったので、部屋に届けてもらう食事にした。

この食事が届いたころから、なんとなく腰がやめるようになり、いろいろと姿勢を変えないと、じっとしていられなくなってくる。

大宮駅で長い距離を無理して重い荷物を担いだことが響いてしまったのか。せっかくの豪華なご馳走を存分に満喫して食べることができない。

 食事をすると腹圧が増すからなのか、一段と腰がいたくなってきた。
 なんとなく、この辺からこの痛みがどうやら腰痛ではなくて、昨日から始まった結石による痛みらしいことを悟る。

 実は、今回の旅に出る前日の朝、風呂に入っていたら過去何度か経験している結石の痛みが出て、慌てて病院に行きレントゲンとエコー検査で複数の石を確認して痛み止めと溶かす薬、座薬をもらってきたのです。
 旅先の発病でなく、出発前でほんとに良かったと思いました。

 薬をもらってあるのでもう安心とばかり思っていたのですが、どうも怪しい。
 もちろん昨日医者でもらった痛み止めの薬はきちんと飲んでいる。
 今回は過去の結石に比べると、ガツンと激痛が突然襲ってくるタイプではなく、痛いには痛いものの通常の痛みに比べると7割くらいの痛みなので、のたうち回って病院に駆け込むほどではなかった。
 しかしこれが、のちに予想外に痛みが長引く原因だったのかもしれない。

 食事を終えると痛みは更に増してきて、腹圧を下げようと何度もトイレで頑張るがなにも出てこない。
 次第に痛みに吐き気が加わりだし、トイレに入っている時間が長くなる。
つくづく部屋にバスルーム付のスイートで良かったと思った。
しかも看護婦付き添いで・・・

 こういうのをほんとうに「贅沢な旅」というのだろう?
 痛みのおかげで函館までの旅の時間が、一層長く感じられ、これもラッキーなこと。
(ただ残念ながら、このすばらしい車内の写真を撮る余裕がなかったのが心残り)

 仙台、盛岡を過ぎたあたりから窓の外は、冬景色が厳しくなりだしてくる。
 もがきながら窓の外をずっと見ていたら岩手あたりから夜中なのに除雪車が走っている。
 
 雪の重みで線路脇の木々が倒れかかり、車体をしきりにゴリゴリとこする音がする。
 青森で進行方向が一度逆になるので、機関車が今まで最後部だった私たちのいる車両に連結される。
 すると車体から落ちる雪の音が一層激しく聞こえる。
 前の機関車から飛んでくる氷雪もしきりにぶつかる音がする。
 少し痛みが落ち着いたので下の寝室に移ると、位置が低い分より一層車体をこする氷雪の音が激しくなる。

 青森からかなり長い距離を走ってようやく青函トンネルに入る。
 一度、トンネルに入ったら、海底を走っているといった雰囲気はなにもなく、かなり長い時間を覚悟していたが、景色の変化もないので長かったのか短かったのかもよくわからない。

 しばらくして急に明かるくなったと思ったら、そこは北海道。
 長い列車旅のおかげで、夜とはいえ、宮城までののどかな雰囲気と、岩手から青森にかけて冬らしい厳しい景色の差を感じることが出来たが、北海道に入るとさらにその差を感じた。

 妙に青森までの冬景色にはない、針葉樹を中心とした景色が印象深い。
 雪が降りつもったばかりであるため、葉の落ちた広葉樹よりも、針葉樹の方がたくさん枝に雪をためていることで目立つのだろうか。

 いいぞ、いいぞ北海道。

 もう函館はすぐだと思ったら、到着時間を聞くと青函トンネルを抜けてからもまだ結構走るようだ。
 思い出した、北海道は広いのだ。

 ふと思えば、青森を通過するのも長かった。
 岩手も長かった。宮城も長かった。福島も長かった。栃木も長かった。
 これが列車旅というものだ。

(この頃から小康状態はあっても、なかなか薬だけでは痛みが治まらないので、函館で一度病院に駆け込むことも考えはじめる。)

 山間部から平野が見えるようになり、いよいよ函館も近いかと思われたとき、雪によるダイヤの乱れの時間調整のため1時間あまりさらに停車で待たされる。

 そんな経過でようやく函館の駅にたどりついたのは、定時からは4時間遅れの朝8時。

 このようにして私たちの「風と土と汗の涙の大地」北海道への旅は、脂汗と痛みの涙とともに始まったのでした。

                                    つづく
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歩く人びと (郷土史講座より)

2010年02月12日 | 上野国「草の者」研究所
 渋川市立図書館主催の郷土史講座、大島史郎さんの「渋川び江戸時代における庶民の旅」についてふたたび書いておきます。

 庶民の旅をテーマにした講演でしたが、私にとっては「歩く」ということに関した内容のものとして格別の興味がわく内容でした。


 講演資料のメインは渋川村木暮家に残っていた伊勢参りの記録です。

「伊勢  天保十三年
   日記
  大々   寅正月吉日」

といった表紙のついた立派な記録です。

一部抜粋すると、

正月九日 一 安中宿 金井宗助  泊り
  十日 一 追分宿 越後や   泊り
 十一日 一 上田宿       泊り
 十二日 一 坂木(ママ)宿 平林惣右衛門 泊り
 十三日 一 善光寺 藤や平五郎 泊り

   (略、須原、松坂などを経て)

二月一日 一 伊勢地 紅や    泊り
  二日 一 なはり 休
  二日 一 長谷 ごまや    泊り
  三日 一 なら 小乃や善助  泊り
  
 (略 吉野、高野山、大坂、ひめじ、あかし、西ノ宮、大坂、宇治、京都、大津、等をへて)

三月五日 一 飯田 亀や小兵衛  泊り
  六日 一 いるべ 大和や   泊り
  七日 一 平井出 休
  同  一 諏訪 かめや    泊り
     中仙道飯田道追分アリ
  九日 一 塩名田 万や惣左衛門 泊り
  十日 一 坂本  松葉や   泊り
 十一日 一 松井田 休
  同   一 高崎 さかへや  泊り


 お伊勢参りとはいうものの、善光寺を経て、奈良、吉野、高野山、姫路までまわって二カ月半にものぼる旅をしています。

 随分贅沢な旅をしているように思えますが、
天保年間にお伊勢参りをした人の数は、500万人とも言われ、宝永年間にも350万人もの人が行っていたというから、当時の人口からしても相当な数の人がこうした旅をしていたことになります。

これらの数字から当時の庶民の暮らしは、かつての封建時代といった圧政のイメージとはだいぶ違う、意外と豊かな暮らしがあったことが想像されます。

現実には、講の仲間の間で積み立てを行い、くじ引きで当たった人が行っていたそうです。
それで当たった人は、借金をしてでも行った記録があるようです。

 ちょうど昨年に、あかぎ出版から『祈りの道 善光寺』(1,800円)という本が出ています。この本を見て、上州から善光寺参りが格別盛んであったのかと思いましたが、大島先生に聞いてみたところ、必ずしも善光寺参りが突出していたのではなく、お伊勢参りのコースに善光寺も入っていたため、それだけ盛んであったのであろうということでした。

 こうした人が歩いて移動すること、街道を旅することなどについては、「かみつけの国 本のテーマ館」のなかで、上州の古道・諸街道のページなどで追っていることですが、
個人的に「上州草の者研究所」の活動、大疾歩(おおのり)などとともに大変興味を持っていることです。

 真田氏の領地、沼田から上田までを限りなく最短距離で走破する企画、この春こそ成し遂げなければなりません。
 そうした人が歩くことの実態を、ちょうど最近読んでいた、池田弥三郎著『日本故事物語』上巻(河出書房新社)のなかに、興味深い記述をみることができたので、ここに一部紹介させていただきます。


 江戸時代の公儀の飛脚なども、最も速いものは、江戸京都間を東海道経由で二十九時(58時間)で走っている。これは「無剋」といって、文字通り昼夜兼行で、途中の訊問もなく、大井川などの渡しにも渡河の優先権をもっていた。東海道百二十五里二十丁をマラソン選手の半分位のスピードで走破している勘定になる。記録的なのは、京都と静岡との間を往復した飛脚で、1日に八十里歩いたことになるそうだ。

民間の三度飛脚だと、並便は京より江戸への片道に三十日を要するが、その上に十日限り(ぎり)といって、片道十日に出発・到着の日を入れて十二日かかるもの、六日限り(定六)といって、大体七日で到着するもの、さらに確実に六日という保証付きの正六、もと速いものになると四日限りや三日限りの仕立飛脚があった。

もっとも別仕立てとなると、速いことも速いが、料金のほうも三日限りで三十両、六日限りでも金八両という莫大なものであたらしい。

 元禄十四年三月十四日、浅野長矩の刃傷を国許に報ずるため、藩士速水藤左衛門・萱野三平の両名は巳の刻に江戸を出立、早駕籠を乗り継いで五日にして播州赤穂に到着したという。これなど相当な速さであるが、

   大急ぎ三枚

などという三枚は三枚肩のことで、かごかきが三人ついて急行したものから生じたことばである。しかし、私が子どもの時分に聞いた「大急ぎ三枚」「三枚で頼むぜ」なども、もう聞かれない。ものごとの移り変わりこそ、韋駄天より早いかもしれない。

 もう一人付け加えると、例の俳人松尾芭蕉である。「奥の細道」でみても、その旅行の第一日は、千住まで舟で行き、午前十一時頃にあがってここで昼飯をすまし、人々に別れ、午過ぎから歩きだして、その日は粕壁に泊っている。千住粕壁間は曾良は九里と記している。街道の里程で七里たらずである。大へんな健脚であって、この旅行中、長い時は一日に十三里も歩いている。超人的だが、伊賀出身の芭蕉は、忍者の歩行の術を心得ていたのであろうと言われている。
(ここまで引用)

 今、はじまったオリンピックなどの競技としての特殊技能ではなく、人々の日常の姿としての「歩く」力、あるいは職業としての「歩く」「走る」力。これらを私たちの基礎身体能力として取り戻すことにどれだけ重要な意義があるか、繰り返し時間をかけて追及していきたいと思っています。
 体力の衰えた子どもたちには、「歩育」などという言葉もあるようです。
 安全のための車での送迎もやむをえない実情もあるかもしれませんが、学校帰りに道草を食いながらあちこちイタズラをしながら帰ることが、どれだけ身体能力と感性を鍛えることか、また意義のあることか、いくら強調してもしたりない思いがあります。

人間は、考える「足」ですから。

 みなさん、健康な人間を目指すなら、30kmくらいはいつでも歩けるようになりましょう。
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修験道のカスミ

2010年02月11日 | 上野国「草の者」研究所
先月、渋川市立図書館主催の「郷土史講座」で大島史郎先生の「渋川の江戸時代における庶民の旅」についての講演を聞いてきました。

その講演のなかで、ふれた話題で格別興味がわいた一言がありました。

それは、修験道の檀家のことを「カスミ」というのだ、ということです。


これまで私は修験道には檀家はいない、
檀家のようなしくみはないものとばかり思っていたのですが、それを根底から覆す言葉でした。

検索してみると、
「霞」とは、修験道の本山派において用いられた地域ごとの支配・管轄のこと
とある。

この表現だと、必ずしも「霞」=檀家、ではない。
支配領域、エリアを表すもので、結果として檀家の意味も含まれるのかもしれないが、同じではなさそうだ。

でも、修験道でその支配・管轄のことを「霞」と呼ぶこと自体、とても言いえて妙な表現であると感じます。
いかにも実態をぼやかしたような、または表向きは隠したような表現です。
私も「霞」になりたい。

かつて修験道の忍びの仕事領域が重なっていたことも、こうした表現から納得がいく。

月夜野の三重院の円信さんに早速聞いてみよう。
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軍艦「回天」と「甲鉄」、既にあるものを使いこなす力

2010年02月07日 | 歴史、過去の語り方
先月、北海道へ行く時、吉村昭の『幕府軍艦「回天」始末』(文春文庫)を再読して行きました。
同時に安部公房の『榎本武揚』も読みたかったのですが、実家にあるはずの本がみつからず、それはあきらめました。

これらの舞台となった函館という街や五稜郭をこの目で見ることができることは、とても楽しみなことでした。



榎本武揚は、新政府に引き渡しを命じられた軍艦を様々な口実をつけて確保し、品川沖を脱出する。
構成は、「開陽」「回天」「蟠龍」「千代田」の四艦と「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美嘉保丸」の輸送船。
乗員総数二千余人。
途中、艦隊は暴風雨に遭遇し、輸送船「美嘉保丸」は岩礁に吹きつけられ大破。多量の軍需品とともに海中へ沈んだ。

また「蟠龍」と「咸臨丸」も伊豆半島の先に漂着。
両船は清水港へ。やがて「蟠龍」は修理して出港するが、「咸臨丸」は、そのまま清水港に留まっていたところ、新政府軍の攻撃にあい激しく抵抗したが、十余名が死亡。新政府軍はこれらの遺体を放置したが、侠客清水次郎長がすすんで丁重に埋葬した。

函館へ向けて北上する途中で寄港する港のなかでも宮古では、新政府と旧幕軍の地元への対応の差が歓迎され、後にそれがまた役立つことにもつながる。
なんとか函館までたどりついた榎本艦隊であったが、最新鋭の軍艦「開陽」をここでまた座礁させ失ってしまう。

「開陽」は、オランダの民間造船所で建造された、当時世界でも最新鋭の戦艦で、入港する諸外国の軍艦でも「開陽」に匹敵する軍艦はなく、幕府自慢の1隻であった。
それを失ってしまった榎本武揚らの落胆と、その後の戦略への影響は大変なものであった。

このことで完全に不利な状況に陥ってしまった榎本軍。
追ってくる新政府軍の艦隊は、「甲鉄」を旗艦とし、「春日」「丁卯」「陽春」の4艦。
「甲鉄」は、排水量1,358トンの蒸気艦で、船体に鋼鉄板が張られている。
装備は、前部にアームストロング300ポンド砲1門、後部に70ポンド砲2門と24ポンド砲6門、それに1分間に180発連射可能のガットリング機関砲が据え付けられていて、装備全体の威力は「開陽」よりもすぐれていた。
「開陽」と「回天」は、排水量こそほぼ同じであったが、「回天」は一時は廃艦とされたほどの老朽艦で、「甲鉄」の戦闘力にははるかにおよばない。

すでに勝ち目はほぼ無くなったかに見え、悲壮な空気が榎本らに漂うなか、日頃口数の少ない「回天」艦長甲賀源吾から、よどみない口調で秘策を打ち明ける。

新政府軍が刻々と函館へ向っている情報がくるなか、新政府軍の艦隊のなかではただひとつ「甲鉄」のみが圧倒的脅威をもつ軍艦である。
そこで甲賀は、起死回生の策として新政府軍の「甲鉄」一隻の乗っ取りを提案する。

北上する新政府軍の艦隊の航路を予測して迎え撃つ場所の特定は困難を極めるが、榎本艦隊が自身が寄港した宮古は、良港でもあり、南下する時間も含めて迎え撃つにはほぼ間違いのない場所とみて、陸地の諜報活動と連携し、宮古で「回天」の乗っ取りを計画する。

攻撃乗っ取りは「回天」「蟠龍」「高雄」の三隻で向かう。
函館で土方歳三らは、「回天」に乗り移り奪取する訓練を何度も繰り返し行った。

ところが、三陸沖を南下する途中、またしても暴風雨にあい三隻はばらばらにはぐれてしまう。
「回天」は、マストが折れたりかなりの損傷を受けたが、航行は続けることができた。
通信設備などない当時のこと、互いの情況を確認することもできず、「回天」は単独で計画を実行するか、他の二隻を待ってから計画に入るか内部で激論が交わされる。

時間が経てばたつほど攻め入る側が不利になる。
結局、「回天」は単独で「甲鉄」奪取に向かうことになる。

ところが、いざ攻め入ると「回天」の甲板の高さとから「甲鉄」の甲板は、はるか下になり、容易に飛び移れない。
意を決して飛び降りると、たちまちガトリング銃の餌食に。

結局、「回天」は目的を果たさないまま、引き上げて函館に帰る。

そして再び、函館湾で「甲鉄」などの新政府軍艦隊と「回天」ほかの榎本艦隊は最後の闘いをすることになる。



この攻防を榎本軍「回天」の側から吉村昭が『幕府軍艦「回天」始末』として書いたのに対して、
中村彰彦が新政府軍「甲鉄」の側から書いた小説が、『軍艦「甲鉄」始末』としてこのたび新人物文庫として文庫化された。

吉村昭ほどの筆致は、そう誰もが書けるものではないが、私も好きな中村彰彦もなかなかの実力作家。
まだ読んでいない本の紹介で申しわけありませんが、吉村昭の作品と対のものとして中村彰彦も意識していないはずはないので、期待がどうしても高まる作品です。



と、以上は本の紹介をかねて店のブログに書いた内容。

ここまでの流れをみて第一に印象に残るのは、座礁などによる損失率の高さです。
通信技術や気象予報技術のない時代とはいえ、こんなに高い頻度で船を失っていたのかと驚きます。

もともと江戸時代は鎖国政策のもとにあったので、外洋航海そのものが禁止されていて、そうした操船技術の経験が衰退していたことも予想されます。

更には造船も外洋航海出来るような大型船の建造は幕府から硬く禁じられていたため、わずかな嵐ですぐに難破、漂流することになる悲劇をもたらす環境にありました。

その多くは海の藻屑と消えた悲しい結末っであったことでしょうが、他方、ものすごい人数の漂流民が、ロシア、カムチャッカ半島や遠くアメリカにまでたどり着き、鎖国下での貴重な文化交流をきずいていたことが見逃せません。

なにかにつけてペリーの黒船から開国の歴史を語りがちですが、そうした漂流民も活躍もあり、ペリー以前150年くらい前から、ロシアは極東に日本語学校を開き、日本との国交を見すえていました。

またアメリカは、正式ルートではなくも日本近海への捕鯨船が多数出向いており、水、食料、燃料の補給先としての要求は、頻繁に突きつけられていたようです。

たしかに決定的なきっかけはペリーの黒船来航であったことに違いありませんが、それに至る情報は決して無かったわけではありません。

にもかかわらず、成すすべもなく時間延ばししか出来ずに、国内で尊皇攘夷の嵐に翻弄されてしまいました。
果たして、明治維新は、これらに対して見事な決着であったといえるのでしょうか。

外から迫られる開国要求と、国内秩序の維持存続の選択は、何度も繰り返し歴史に現れてきます。

それは蒙古襲来にはじまり、ペリー来航、第二次大戦の敗戦とその後の占領下での独立の模索と安保、グローバル化と金融・市場開放圧力など。

常に圧倒的な力の差、技術の差を見せつけられてそれに屈する経緯をたどったようでありながらも、意外と国内にある既存の情報や技術をうまく活用しきれてさえいれば、必ずしも太刀打ち出来ない現実ではなかったことも感じさせられるものです。

外国の優れた何々を導入すれば解決する、ではなく、
それを使いこなす力、さらにはその前に自分たちが持っていた技術や、その時につかんでいた情報をきちんと活かしていれば、外圧に慌てる必要はない確かな文化を常に日本人は持っていたのではないかと思えてなりません。

と簡単に言ってしまうと尊王ナショナリズムとなんら変わらないことになってしまうかもしれませんが、「回天」「甲鉄」などの軍艦の戦闘史をつぶさにみると、何々が無くても常に突破口はある、また、どんなに優れた何々があってもそれは保障にはならない、と感じずにはいられません。

今の私たちのまわりにあるデフレ危機?
不景気?
政治不信?
衰退する地域?
崩壊する自然?

いえいえ、必要なものはすべてもう揃っているのだと。

情報はある。
金は足りないことはない、必要であれば必要なだけ集められる。
いや、多くのことはお金がなくても出来てしまう。
スポーツマンほどの力持ちではないかもしれないが、必要なだけは十分働ける体は持っている。

やっとホンモノの時代が眼の前に現れたのです。
そう感じずにはいられません。
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