かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

市場規模で支えられる「国民文学」からの脱却

2009年01月26日 | 出版業界とデジタル社会

前に紹介した水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税
この本が、あまりにも多岐にわたって示唆に富んだすばらしい著作なので、数回にわたって本書を通じて考えたことを書いてみたくなりました。

 以前、アメリカドルの力が衰退したことで、世界の多極化が進行すること。
アメリカの圧倒的優位は無くなるものの、大国として、アメリカ、中国、ロシア、インドの優位とその覇権争いは残ること。
 日本はそれらの国々のような広大な国土こそ無いものの、生産力人口の規模などにおいては、先進国のなかでは1億人以上もいる国であることを考えると、日本が決して小さな国ではなく、もともと大国といってもよいほどの力を持っていることなどについて書きました。
  http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/5fbd81f2711d41f01c6a5aad127a9fc1

 この印象を、水村さんの著作では言語の問題を通じて、一層明確に感じることが出来ました。
 英語と中国語、ロシア語を除いたならば、世界中の様々な言語で、一億人以上が使用している言語は、いったいどれだけあるものでしょうか?
 植民地時代のフランス語圏、スペイン語圏を除いたならば、一億どころか、世界の国ぐにの圧倒的多数の言語は、5~7千万人以下の需要しかない国ぐにのなかで使われているのが実体のようです。

 それだけに、普遍語、公用語としての英語が広まるにつれて、それらの僅かな需要しかない国語、現地語は、いかに国家の保護のもとにおかれたとしても、多くの国では瀕死の状態にあるといえるのではないかと思います。
 この問題には、今回はこれ以上深入りはしません。
 今日は日本の問題に限定します。

 わたしたち出版業界が、1996年頃をピークとして、この10年間でおよそ二割、市場が縮小してきたこと、さらにこれからの10年でピーク時の半分以下にまで縮小することが必至であることを私はこれまで何度か書いてきました。
 ところが、この深刻な事態も、水村さんの本で世界の国ぐにの国民文学の実体を見ると、まだまだ贅沢な悩みであるように思えてくるのです。

 水村美苗さんは、英語の堪能な小説家として文学関係の国際会議に出ることが多く、そこで出会う世界各国の文学者、小説家の実態を現実に知る機会もとても多いようです。
 そうした国際会議で同席する各国の小説家は、国民文学作家として活躍する場合、その国の言語の使用者の数の大小にかかわりなく、自国の民族語を使用して書くことそのものを誇りとしている場合が多い。

 ということは、
 英語、ロシア語、中国語を除いたならば、
 世界の圧倒的多数の国ぐには、
日本が日本語の使用者を1億2千万人以上持っていることに較べたならば、
日本語の使用者人口の半分以下の規模の言語利用者しかない国ぐにであるとういことを再認識するべきだと知りました。

 主要先進国のなかでも、ドイツですら人口は8200万人程度、イタリアが5800万人、フランスが6800万人といった程度(いずれも旧植民地諸国は除く)で、圧倒的多数の国ぐには、日本の半分以下の市場規模です。

 生産力人口の規模を考えたら、日本の製造業以外の生産性がいかに低いかということを私たちはもっと自覚しなければなりません。

 今、国際的な不況で外需の落ち込みが深刻な問題であるといわれていますが、これまで経済発展に出来ることはなんでもしようとする姿勢自体は問題ではないとしても、外需に依存しなければ国が支えられないという発想は、これらの数字からいかに根拠のないことであるかはわかるのではないかと思います。

 つい経済問題に話が広がってしまいますが、世界の国ぐにの国民文学作家たちは、そのほとんどが、日本の半分以下の規模の言葉の通じる読者しかもっていない環境で活動しているということを知らなければなりません。
 半分とか3分の1どころか、世界に存在するあまたの少数民族からすれば、数千から数十万人しか、その民族の言葉が通じない社会で活動している作家も少なくないのです。

 日本のように、有名作家でなくとも、なんとか自国の言語で小説を書いて食っていけるなどという環境は、国際社会のなかではむしろ異例のほうの部類に属するのだと思います。

 こうした国際的な前提にたったとき、
もちろん、だから誰もが英語で書いたほうが得であるとか、国民に英語教育を徹底したほうが良いなどということになるのではない。
そもそも、潜在的な利用者、あるいは読者規模に左右される構造そのものに依拠した発想そのものが、「不合理」であると考えることが、これからの国民文学の復興を議論するうえでは大事なのではないかと考えるのです。

 3,000人しか利用者がいない少数民族の言語と8,000万人が利用している言語の間に、数の大小で優劣があるわけではない。
 このことは、比較的誰もがすんなりと理解してくれることだと思います。

 ところが、3,000人にしか読まれない小説と20万部売れた小説とを比較した場合には、
どうしてもそれは作品の力の差として受け止めてしまいがちなものです。

 これに断固、ノー!と言える社会のしくみや考え方が、これからの時代は大事になってくるのではないでしょうか。

 3,000人の市場では食べていけないから、外需を拡大するとか
 よりマス市場が期待できる英語圏に参入するとか、といった発想では、
そもそも世界中の国ぐには成り立たないのです。

 世界の圧倒的多数の国ぐにから較べたなら、はるかに有利な条件に恵まれた日本です。
水村さんの『日本語が亡びるとき』とは、だいぶ論点は異なりますが、日本語という1億人以上が利用しているメジャー言語の国の出版業は、ピーク時の半分以下にまで市場が縮小したとしても、世界の国ぐにの標準サイズにやっと近づいた程度の問題なのです。

たしかにこれから多くの書店や出版社が潰れていくことは間違いありません。
だからといって、やっていけないという理由にはならないのです。
「わたしたち」は、これからもやっていきますから。

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昏迷する時代に勃興する強硬派には気をつけよう

2009年01月16日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
難しい中東問題が、さらに深刻なことに


「3,000年昔、私たちの祖先がここに国を建てた。私たちは歴史的な郷土に帰ってきたのだ」
とヨーロッパから来たユダヤ人はいう。

冗談じゃない。世界中の人々が3000年前の古証文を持ち出して領土の要求をしはじめたら、この地球はどうなるのだ」
とイスラエルから追い出されたパレスチナ人はいう。

1948年にユダヤ人の国「イスラエル」が建国された。
ここから中東戦争は続き、占領地や入植地は、戦争や調停のなかで様々な変遷をたどってきました。

難民となった大量のアラブ人(パレスチナ難民)が、イスラエルに対して無力闘争を行ったのがPLO(パレスチナ解放機構)

1994年にガザとイェリコにパレスチナ暫定自治区がつくられ、95年には暫定自治政府を樹立した。


これまでは、ガザのハマスこそ、過激な悪者であり、
中東諸国のなかで、イスラエルこそ唯一の近代民主国家であるといったイメージで、アメリカ中枢への影響力の強いのユダヤ人と密接な関係を保ってきました。

ところが、ここに来て急速に、
これまで国際社会で悪者扱いにされてきたガザのハマスが、イスラエルの過激な封じ込め攻撃にあい、アメリカでさえも、イスラエルの肩ばかりもつことが出来なくなってしまいました。



イスラエル人は、ゲットーやナチスの強制収容所からの解放を目指して戦ってきたはずなのだが、今のイスラエルは「ナチスと戦う人々」から「ナチスそのもの」へと、「正義」から「悪」へと転換してしまっている。

ワルシャワのゲットーから脱出してイスラエルを建国した人々が、もともと住んでいたパレスチナ人をガザに押し込め、ガザにゲットーを作ってしまった。
              田中 宇「ガザ戦争で逆転する善悪」


さらに昨日のニュースで
イスラエルの極右党首が、
「ハマスを日本のように屈服させよ」
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_int&k=20090114020727a
アメリカが日本を黙らせたように、イスラエルはハマスを黙らせるべきだ、
といったことまで言い出した。

これは、敗戦占領下の日本の様を言っているだけではなく、
明らかに核保有国イスラエルとしての脅し文句と受け取れる。
広島・長崎のようにしてハマスを屈服させるのだと。

アラブ社会で唯一の近代民主主義国家であるとの過保護な環境にあったことで、核査察も受けずにやりたい放題になっていたイスラエルが、ここまで強行姿勢になってしまったのは、国内統治能力の弱体化が背景にあるようです。

ハマスからチクチクと攻撃を受けていたイスラエルは、政権が弱くなるほど、強行姿勢を見せないと支持が得にくくなってしまう。
かといって、一挙に正面から戦って勝てる自信があるわけではない。
なんとなく、どうしようもない混乱状態に持ち込んで、国連、ロシア、EU、アメリカなどの管理下においてもらうしか手が無いような気になってしまっているような感じもする。

こうした構図は、人ごとではありませんね。
社会が昏迷を極めると、やたら強行姿勢を見せないと国民の支持が得にくくなってしまうことが多い。
これからの時代、このことをよーく気をつけなければいけませんね。



オバマが、イスラエルだけの肩を持たない多極主義政策ここでも生きてくるのだけど、
戦争が絶えず隣接する地域への拡大の危機をはらんでいて、各国の利害調整は簡単にはいきそうにありません。

さらにイランに飛び火したら、また石油が高騰する。

私たちには、どうすることも出来ない危険が拡大しているのだけど、
化石燃料からの脱却を加速しないといけない気がします。

宗教紛争は、まだまだ世界各地で起きるでしょうが、被害にあっている民衆は、必ずしも信仰だけで命を張っているわけではないと思います。

いつの時代でも、どこの国でも、時の政府が正当性を持つ根拠として、宗教が利用されているに過ぎないのではないかと思います。

政府に騙されない
宗教に騙されない
そんな逞しさがこれから求められるのではないかと感じます。
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年頭所感メモ

2009年01月07日 | 言問う草木、花や何 〜自然・生命の再生産〜
やっぱりこれを書いておかないと1年が始まらない。

アメリカの金融危機に端を発した世界的な不況。
希望的観測で1年から2年で回復できれば、などど経済人は述べているようです。

100年に一度の大変化といわれてますが、他の場でわたしは、100年どころかこれは有史以来の価値観の転換のはじまりであると書きました。

今、見えている範囲で当面先のことを含めておおまかに書き出してしてみよう。

この転換のパラダイムは90年代からずっとはじまっているもので、サブプライム問題にはじまるリーマンブラザースの破綻はそのきっかけにすぎない。

アメリカでは、オバマ新大統領への期待が高まるものの、ブッシュのしかけた時限爆弾がたくさん控えており、ブッシュ時代以上に困難な時代の船出になることは間違いない。

このたびの金融危機の次に確実にやってくるのが、地価の下落。
株価は下がりながらも乱高下が日常化する時代なのだろうけれども、地価はそういうレベルの問題ではない。一度下がると資産、担保価値は下がったままになり、他への価値移転もされにくい構造になる。これは経済全体に一層重くのしかかってくる。

こうした環境下でさらに、確実にドルの基軸通貨としての地位が崩壊する。
これはすでに見えていることなので、すぐに手をうつべきなのだろうが、この数ヶ月以内にドル以外の基軸通貨体制ができないと手遅れになることが確実であると様々な機関から指摘されている。

これまで、ドルが暴落して紙くずになる日を予言し続けたエコノミストは少なくない。今、それが現実のものとなろうとしている。
私たちの日常にはそれほど関係ないように見えるかもしれませんが、少なくともドル建て決済の原油、食料、金などの国際取引は今でも莫大なものだ。

危機を乗り越えられるかどうかはわからないが、オバマも一応こうした流れは見越して多極化する世界体制を目指してしる。
日米機軸同盟あってこそ、などと思っているのは日本の政治家だけで、多極化の流れはブッシュ時代からはじまっている。
アメリカは、日中韓が連携を強化してくれた構造と関係を持ちたいと考えている。

当面アメリカ、ロシア、中国などの覇権主義の残存勢力と、真の多極化社会を目指す勢力とのせめぎ合いが続くことと思う。

こうした世界を経済から見れば、まず第一に、輸出依存型の産業構造からの脱却が緊急の課題であるはずだと思うのだけれど、政治はそんな議論にはなっていない。
これまで輸出型の基幹産業が日本経済を引っ張ってきたことは、個人的には反対でも、これまでそうすることしか出来なかった判断自体はやむをえなかったと思う。

でもこれからは、国を問わず国際協調路線を維持するためにも、バランスよく自立した経済政策を取ることが求められている。

日本は国力においては、低下の懸念はありながらもまだなんとかなるレベルだと思われる
が、この「自立」した国づくりということに関しては、最も遅れているだけでなく、脱却への道のりが険しい国だといえる。
とりわけ食料・資源、軍事・政治において。

北欧やキューバなどの事例を見れば、決して不可能なことではないはずだけれども、政治をみているとまったく期待できそうにない。

そんな環境下で、いよいよ政権交代が起きそうな様相。
自民党政権が下野することは、戦後史上大きな変化に違いないけれども、その移行先が小沢民主党である限り、新しい政治が行われるとはとても思えない。

民主党に変われば、とりあえず八ツ場ダムが中止になることなど、確実な成果も出るだろうけれども、麻生・小沢の国会論戦を見ても、これだけ大変化の時代に直面しても小沢代表が、二の矢、三の矢を次々にだしてくるような政治家にはとても見えない。

政権交代よりも、過去の失敗例はあるが、世代交代を徹底して欲しい。

こうした流れからみると私の感じる今年のキーワードは
「多極化と自立」
といったところになります。

国家も企業も、規模の拡大に頼るところは行き詰まり、それぞれが自立したサービス
やモノを提供出来ないと勝ち残れない時代になる。

力が弱いから、軍事同盟にすがる。勢力が弱いから大きいところに組する。
今までは、確かにこうした方策を取ることしか出来なかったかもしれない。

でも、これからはそうした選択は信用されないだけでなく、現実の競争力も弱くなっていく。

これは個人の場合も同じ。

雇用不安は一層高まるでしょうが、雇われる側、雇う側を問わず、どこに所属していれば大丈夫ということはない時代。

もともと誰しも生涯をかけて考えていくことですが、自分が他人に対して、社会に対して何をすることができるのか、この基本問題を新権に考えることがより一層大事なことであると気づく時代だと思う。
手取り収入に対する損得で物事を考えているうちは、いくら努力を重ねても報われない。

思いつくところを、つらつら書き出してみただけですが、
こう考えると、確実に世の中は良い時代に向かっていると感じます。

「量」「お金」に換算することでしか「価値」や「質」を表現できない時代から、ようやく無限の交換の渦に巻き込まれない、確たる「価値」や「質」が問える時代に向かい出したのだと思うのです。

経済ばかりでなく個々人も、必ずしも右肩上がりの成長が実現できなくても、
より深く個々の存在の足場を深く掘り下げることで、より幸せになれるような社会、
それがようやく目の前に展開しはじめたとは感じませんか?

懸念する右肩下がりの社会という意味ではなく、
根本的に、お金のかからない社会へ向かいはじめた、
良い意味でのデフレ社会の到来です。


こうした流れを見据えても、きんちゃんなどとやっている私の手作り本などの活動は、時代の流れにつくづくマッチした活動に思えるので、
がんばるぞ、と。

たしかに、とてものん気に楽観論を言っていられるような時代ではありませんが、大きな流れではこんなふうに感じます。



以上、思いつくままに、
年頭所感メモでした。
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