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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

師(もろ)の金山(かなやま)

2014年11月27日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

師の龍谷寺東方に、松に覆われた円形の小山が見えます。

これが師の金山です。

 

『古馬牧村史』から概要説明を以下に転記させていただきます。

 

この金山には、金鉱を採掘した三十余の坑道があり、人間がやっと這い込める程度の細いのや、運搬車の楽に入ることのできる大きなもの、垂直に掘られた竪坑、斜めに掘られた斜坑等様々なものがある。

何時の頃から掘られたかは不明であるが、享禄三年ー天文元年(1530ー1532)三浦沼田勘解由左衛門顕泰(万鬼斎)が、沼田築城に使用した金は、この金山から採ったと言伝えられて居る。

また天和元年加沢平次左衛門著の「上野国沼田領品々覚書」の中、師の金山が戸神山、東小川と共に出ていることから、沼田領内の金山としては古くから知られていたものと思う。

 

 この山の南麓からは、昔金鉱石を粉砕するのに使われた石臼が、多数発掘されているからかなり古くから原始的方法で産金されたのであろう。

また江戸時代の初期キリスト教弾圧の際には、難をのがれた切支丹の指導者東庵も鉱夫としてこの金山に潜んだとも伝えられている。

 

 この金山の特徴は、金鉱脈が全面的には無く、点々として有り、時には鉱石1トンあたり百グラムに及ぶ含金量があったと言う。普通5グラム以上あれば企業として採算がとれたのである。しかしこうした良質の鉱脈を持ちながらもその量が少ないため、企業としてはなりたたず、昔から多数の鉱山師が入り代わり立ち代わりして掘ったが、成功したものは少なかった様である。

                (引用ここまで)

 

 前に、みなかみ町のまちづくり協議会の師さんから、子どもの頃はここへ遊びに行ってよく金塊をとってきて、ちょっとした小遣い稼ぎをしたなどという話を聞いたので、早速、協議会会長の馬場さんに案内していただき、金山に行ってみることにしました。

 馬場さんも、すぐに行って来れる場所だから、いつでも案内できるとのことでしたので私も気安くお願いしてしまいました。

 ところが、後に知ったのですが、馬場さんが前日に行ってみると、久しく行っていない場所だったので、薮がひどく生い茂り、相当な草刈りをしないととても入れるような状態ではなくなっていたらしいのです。

 馬場さんには、前日に鉱山跡につながる山道の草刈りをしていただき、大変な苦労をおかけしてしまいました。

 

いたるところにイノシシの掘り返した痕があります。

業者が捕獲檻を設置したりしているそうですが、ほとんど効果はないとこのこと。

右側はずっと沢になっていて、そこはかつて田んぼ(長い棚田)として利用していたようです。

田の石組みがずっと続いていました。 

 

 しばらく進むと、ガレ場があり、

鉱山から掘り出した大量のズリを捨てた場所に出ました。

このズリの量からも、相当掘ったことが想像されます。

 

 

今でも、下を掘れば鉱石は出てくることでしょう。

 

 

左側は、鉱石を運び出したトロッコのレール跡。

薮が無ければ今でも道として使えそうなルートになってます。

 

ここも坑道の穴があった場所だと馬場さんが教えてくれましたが、今は完全に埋まっています。

 

 

右の方をあがっていくと、やっとひとつの坑道跡の穴が見えてきました。

 

のぞき込むと、奥は塞がっているように見えましたが、こうした穴にはよくコウモリが棲みついて、夏でも冷たい風が奥から出てくるといいます。 

 

このような坑道が、大小三十余りもあったという。 

 

 

鉱山の歴史をみるのはとても面白いものです。

大まかに歴史を振り返ると、奈良の大仏建立の時代、日本全国から銅、鍍金のための金や水銀が大量にかき集められました。

その頃、都の支配が日本全国にゆきわたることと同時に、全国各地から金や銅、水銀、鉄などをはじめとする資源がかき集められるようにもなりました。

以来、金を産出するところを持つ奥州藤原氏などは栄華を誇り、その噂はシルクロードを通じて遠くヨーロッパにまで伝わったほどです。

やがて戦国の時代になると武田信玄をはじめ勢力拡大のための軍資金として鉱山開発の重要性はさらに増しました。

戦国から江戸初期にかけては、鉱山開発のひとつのピークにあったと思います。

戦国時代にそれほど大きな勢力を持っていたとはいえない沼田藩が、五層の天守を持っていたことなどは、おそらく地元に豊富な金などを算出する鉱山を持っていたことも大きな要因だったのではないでしょうか。

しかし、その勢いも鉱山を掘り尽くし、奥へ奥へ、地中のより深くへ進むにしたがって、排水などの労力が要るようになり、採算をとることがどこも難しくなっていきました。

そこで安い労働力として罪人などを使うようになっていったようですが、たとえ安い労働力でも過酷な労働条件、作業環境のままでは結局生産性は上がらず、結局、多くの鉱山は衰退もしくは閉山への道をたどりました。

ところが、また明治時代になると、富国強兵政策のために資源開発は不可欠となり、さらにそこに近代技術が導入されることで、第三の隆盛期をむかえることになりました。

近代技術の導入による隆盛もありながら、他方、戦争という過酷な環境が突きつけられると、それまで見捨てられていたような鉱山にも、再び開発の波が押し寄せてきます。

それが昭和初期の姿で、群馬では太子などの草津方面や、この師の金山などが再び注目され出しました。

しかし、どこも効率は悪く、その多くが終戦とともに閉山の道をたどりました。

 

鉱脈をみつけられるかどうかは、いつの時代でも博打のようなものです。

一攫千金を夢見て、山を探索し続けた人、どれだけ採れるか確証はないまま、莫大な投資をして大損をした人、また歩合払いの賃金に憧れて、短い生涯を終えていったあまたの鉱夫たち。

どこも悲しい物語にはこと欠きませんが、狭い谷あいや穴の中での人びとの息吹をみると、一般の農村風景以上に、とても濃い人間社会があったことがわかります。

 

この師の金山に、どのような人間ドラマがあったかまではわかりません。

でも、『古馬牧村史』には、以下のような鉱山開発にかかわった人たちのことが記されています。

 

 明治四十年(1907)頃、下川田の人 平井新吉が師の高橋太市等と共に山の北面に新坑道を掘り、これを長峯下に、水車による砕石精錬工場を設けて採金したが、採算が合わず二年程度で閉鎖したという。 

 更に昭和四年(1929)後閑の人 石川実が鉱区試掘権を得て、静岡県の人 笠原某と共同経営で採掘し、鉱石を日立鉱業へ売却したが、昭和六年太田の中島商事会社に権利を譲渡、更に昭和十一年には、東京の人 高橋喜一に譲り、東京のホテル千代田館主笠原賢蔵に依って、通称千代田坑が掘られ、昭和十三年には後閑入河原に製錬所が設けられ、日産八トンの鉱石が処理された。

このころは、支那事変(ママ)も拡大の一途をたどり、軍需物資購入のための金の需要もまた増大し、国庫補助により採算を度外視しての事業が続けられた。

しかし人手不足のため、生産の合理化の必要に迫られ、一年ほどで製錬所は閉鎖され、再び日立へ鉱石のまま送られることになった。

 更に戦局の進展に伴い、昭和十六年(1941)には企業整備により、国策会社に本産金振興会社に統合されて発掘が続けられたが、昭和十八年船舶の不足と共に航海の自由も束縛され、金に依る貿易が不可能になると共に、他の軍需物資の国内生産が緊迫化したので、金産業は国策により棚上げ状態になり、遂に中止された。


 昭和二十四年終戦後の復興機運が高まるにつれて、また金産業も復活し、足尾の鉱山師仁平豊松により東西に大切り坑が掘られ、間もなく権利を山師某、更に沼田の星野宏に譲り、昭和二十八年ごろまで掘られたが、何れも採算が合わないのか、その後休止されている。

 こうして数世紀に亘り発掘された金山ではあるが、これにより採算の合った者は少なく、昔僅に下師の馬場弥吉(年代不詳)が、拾った金を売って、“大分限”になったとか言う話が語り伝えられている程度である。


 余録として、昭和二十八年ごろ掘られた坑道から多量の湧水があり、極く近くの水田では冷水と弱い鉱毒のため稲の生育が悪いが、下師方面の水田は、従来四ヵ村堰の流末のため、非常に水不足していたのが、この水のお陰で田植も他地区より早くできる様になり夏の渇水期でも大変助かっていると言う。


                             以上『古馬牧村史』より


今度は師の師さんに会って、清水の流れ出たルートのことなど教えてもらってから、北側の様子を見に行ってみようと思います。


参考brog 群馬の金山   http://www12.wind.ne.jp/tensyo/gh03/kinzan/kinzan.htm

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稗(ヒエ)を食べて雑穀文化を知る

2014年11月16日 | 暮らしのしつらえ

稗(ヒエ)を食べてみました。

 

私は、30年近く前、盛岡へ仕事で行ったとき、駅近くのお店のメニューに「稗飯(へめし)」があったのをみて食べてみたいと思いましたが、寄ることができずに帰ったことを悔やんだ記憶があります。

その後、観光地の高級田舎料理を食べさせる店のメニューのなかにあるのを見たりもしましたが、それ以来、未だに食べる機会に恵まれませんでした。

それが、最近、古代史や縄文文化、東日本文化といったくくりでいろいろ考えることが増えるにしたがって、どうしても、クリやトチの実の食文化と「雑穀(一般に米と麦を除く穀物)」の食文化は、しっかりおさえる必要を感じ、実際に食べてみたい気持ちがとても強くなっていました。

 ほんとうは、稗と粟、両方手に入れてみたかったのですが、検索すると粟の方は鳥のエサの情報ばかりだったので、今回は稗のみを入手してみました。

 

食べ方を調べると、塩を入れて炊くことが出ているたので、まず味付け面が心配され、おかずとして何か塩辛のような塩分の強いものがないと、食べにくいことが予想されました。

そこで私自身は、まずお粥か雑炊で食べる準備をしていました。

 

ところが、そんなことを考えていたときに別宅の妻がちょうど家に来てくれて、喜んでアイデアをふるって料理してくれました。

 

妻は、最初は鍋のなかに入れてみることからはじめました。

 結果的にはこれが、稗の特色を知るには大正解でした。

 

上の写真の鍋を楽しんでから、途中で稗を入れて食べたのですが、

この時は、十分に煮立った他の具材の味と稗の味が、まったく混ざりませんでした。

米のようなカロリーは、まったく無さそうな食べ物。

ものの本には、米より栄養価は高いとあるが、米のように噛んでも味わいはない食べ物。

それが、おいしい鍋の様ざまな具材のなかにいっしょにあるだけの料理、といった感じでした。

 

感動するほどの味ではなくても、もう少しは風味のようなものが感じられることを期待したのですが、このヒエに限ってそうした感じはほぼゼロに等しいものでした。

 

 昔の人が、稗一升に米一合も入ればとても贅沢に思えたという。

でも、山仕事をするときは米を食わないと力が出ない、と。

 

そんな気持ちが「この食感」なのかと、とてもよく理解できました。

 

年寄りから聞く話でよく

敗戦後は、芋ばかりの飯にはうんざりした、とか

白いご飯に梅干し一個あれば、飯は3杯は食える、

とかいった話の実感もこの稗の味を知ることで、とてもよくわかります。

 

白米の前には、まず玄米があり、麦飯があります。

しかし、その次の稗飯(ヒエメシ、へメシ)、粟飯との間にはずいぶん開きがあるような気がします。

 

現代の私達の食生活では、美味いのもと不味いものの区別はよくしますが、

このように、これといった味もなく、

これといった満腹感にもつながらない食品というものは、

ダイエット目的のような食べ物ですらなかなかないものです。

 

ただ、ここからだ大事なのですが、

そんな食べ物であるにもかかわらず「五穀」として、長い日本の歴史を通じて大事にされ続けてきたヒエやアワです。

 

日本人は古来より五穀豊穣を神に祈願してきましたが、「五穀」とは

古事記によれば、稲・麦・粟・大豆・小豆

日本書紀によれば、稲・麦・粟・稗・豆です。

 

「五穀」として大事にさた歴史がありながらも、稗、粟だけは、現代ではほとんど需要がなくなってしまいました。

 

痩せた土地でも育ち、冷害や干ばつにも強いから昔は大切にされたのでしょうが、

今では代替作物も増え、そうした心配がほぼなくなったからなのでしょう。

稗がそれほどまでに重視された理由は、

まず第一に、やせた土地でほたらかしでも育ち、冷害や病気に強いこと。

第二に、ビタミン豊富で米より栄養価が高く、米に比べて味落ちもせずに5~6年持ち、10年以上の保存にも耐えること。

 

 

でも、もう飢饉の心配はない時代だから、需要はないし消えてしまっても当然ということではなく、もっと日本の歴史を知る文献以外の貴重な手がかりとして、なにか大事な役割があるように思えてならないのです。

 

私は、万葉の時代の文化をあるホテルのロビーに設置したライブラリーを通じて、ひとつのコンセプトを提案させていただいている都合もあり、ヒエやアワ、雑穀文化はもっと様ざまな角度から掘り下げなければなりません。

さらに、天皇の大嘗祭(新嘗祭)は稲の祭祀かの印象がありますが、行事内容をよく見ると粟と稲の祭祀であ流ことがわかり、加えて粟のほうが先になっていることからも、歴史的に格別の位置付けがあることを改めて考えなければなりません。

 

ちょっと考え始めると、米をはじめとする食文化自体あまりにもたくさんの日本の歴史と文化、あるいは政治に翻弄された庶民の暮らしが見えてきます。 

 

【参照リンク】

稗めしの思い出(その1)
http://www.shokokai.com/ninohe/kinsyoko/mukashi/rekisi/20.html

近世農民の食生活
http://www.city.yamato.lg.jp/web/content/000002028.pdf

http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun15-3/09uehara.pdf

日本人は何を食べてきたか
http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/50113366.html

 

 

 稗を知るには、ヒエそのもののその不味さ、味のさなを知ることも重要ですが、

ヒエの理解の入口としては、やはり、こんな美味しい食べ方があるという面も見せることが、どうしても大事かと思います。

お米に玄米、稗を混ぜ、菊を添えた雑穀ご飯。

とくに稗の味が引き立つわけではありませんが、こうした雑穀ご飯こそが一般的な食の姿なのかもしれません。

 

稗の歴史上の食べ方については、野本寛一『栃と餅』(岩波書店)に、以下のような詳しい記述がありました。

まず稗の食法は、①稗飯、②稗粥、③団子、④粉餅、⑤ネバエ(味噌汁に稗粉を入れて練ったもの)、⑥炒り粉、⑦濁酒と、石川県白山麓の焼畑の調査から整理しています。

具体的には、

「稗飯を白く炊くには一升に二合の割で粟を混ぜるとよい」(本川根町長島・滝口さな・明治二七年生まれ)

「五升釜の底にエマシ麦を入れ、その上に米三合を敷く。さらにその上にまたエマシ麦を敷く。米の分だけの水を入れて炊き、火を引く時に稗の粉を湯で掻いてその上に乗せ、しばらく蒸す。蒸し終えて櫃に移す時に全体をかきまわす」(川根町倉平・柿本とめ・明治三八年生まれ)

「鍋で稗を炒り、石臼で碾いて皮を簸出す。できた稗の粉を湯で掻き、それに大根の干し葉を入れて食べた」 (中川根町壱町河内・吉川美智雄・明治二九年生まれ)

「皮つきの稗を鍋で炒り、石臼で碾いてから皮を簸出し、糠と粉の混ざったものを練って塩味をつけて食べた。これを稗餅または糠餅と呼んだ」(本川根町池ノ谷・大村真一・明治三六年生まれ)

などの例があげられています。

 

 

そんな意味でも翌日の妻のつくってくれたみそ汁は、そうした期待に十分こたえる、とてもおいしいものでした。

油揚げが入ったことが良かったのかもしれません。

このみそ汁にはヒエがとてもよくとけ込んだ味をしていました。

なんとか、この両極の味わい方を演出のなかに入れてみたいものです。

 

 以前、このブログで『フードトラップ』という本を紹介したときに、塩分、糖分、脂肪分の三つが現代人の人工的な旨味、味覚をつくっていることを書きました。

 食べ物が本来の「生命」を自然からいただく営みである原点に立ち返るときに、はじめて気づくほんとうの「味」「うまみ」を知るには、このヒエは格好の食材です。

おそらく、多くの人にこれまで経験したことのない「食」を知る、他には例のない学習材料であるのではないかと思うのです。

 

  

 雑穀には、鉄や亜鉛などのミネラルやビタミンB1、食物繊維、ストレスを緩和するパントテン酸が豊富なので、近年は、健康食品として需要が増えています。

 でも、そんなこととはまったく関係なしに、日本の食文化の歴史を知る大事な手がかりとして、一度食べてみることを皆さんにおすすめします。

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「暮らし」と「地域」をささえる様々な働き方

2014年11月15日 | 無償の労働、贈与とお金

現代は、極端に「賃労働」か「ボランティア」に二分される労働の時代です。

ようやくソーシャルビジネスが、急速に広がりはじめていますが、まだまだ実態は公的な性格が強い労働であっても、「公務員労働」か「ボランティア」に二分されてしまう傾向がとても強いものです。

また、考え方においては、「お金」「賃金」「雇用」だけが、労働の交換条件として支配する社会です。


それに対して、このたった半世紀以外の長い労働の歴史は、

賃金」や「雇用関係」だけに左右されない、とても多様な働き方によって地域は支えられていました。

 

これまで「結い」のような関係が見直されていることは意識していましたが、その「結い」以外にも、実にたくさんの「恊働」のかたちがあることを都丸先生の本を読んで知りました。

 

都丸十九一『消え残る山村の風俗と暮し』高城書店(昭和34年)絶版

 

上記本を参考に、通常の労働以外のスタイルを上げると以下のようなものがあります。


1、個人では対応できない大規模労働 =「結い(エー)」

    労働力不足を補う賃金の介在しない労働の交換=貸し借り

      田植え、稲刈り、屋根ふき替え、脱穀、除草、桑摘みなど

       借りただけの仕事は返さなければならない「エーゲーシ」「エーガワリ」

       「結い(エー)」の関係を結ぶのは、実利ばかりではなく「ハリエー(張り合い)が

      悪いから」といった、一人で作業するのは寂しく、猛獣や毒蛇に会う危険を避ける

      性格もあった。

写真は、福島県の大内宿の屋根吹き替え作業


2、共同作業  =「モヤイ」

         数軒の家が共同で出資して、山持ちから薪炭材を立木のまま購入して、共同作業に    

     よって伐採し、マキとボヤに束ねて、それを自家用にし、また売却するような作業。

         総じて、利益は各人に帰ってくる。


3、金を払うべきものを手間で返す  =「テマガエ」


4、援助労働  =「スケゴー」

    労働に対する手当は出る  恒常的な雇用関係はない


5、半強制的な労働 = 「テンマ、オテンマサマ」

          江戸時代の無料人足のお伝馬からきている

    上からの強制である場合が追い  多くは無償労働、義務人足

         神仏祠堂の修理や屋根替え、道普譜、堰普請など公共の作業にあてられる傾向がある


6、頼まれていない勝手な労働「オッカケ」


7、自主的な「出稼ぎ」労働

    現金収入を目的に他所へ出る


8、義務や責任観念の伴わないもの=「手伝い」「助けっこ」


9、家事・育児などの生活していくために欠かせない日常労働


もちろん、こうした分類だけで現実の労働が行われているわけではなく、田植え稲刈り、養蚕などの作業では「結い」の労働に新潟からの出稼ぎ労働も加わったりして、必要に応じて組み合わせて行われます。

 

 

 民俗学的な歴史表現で語ると、つい昔のつながりは良かったと単純に考えてしまう傾向もありますが、これらの多様な働き方そのものは、現代でも無くなってしまったわけではなく、こうした言葉は使われなくなっても、似たような作業は今でも行われています。

 

 

しかし、「雇用」と「賃金」を主軸にした労働観でみてしまう限り、どうしても昔の姿とは異なる「働き方」になってしまう傾向が強いのです。

その最たる例が、「多様な働き方」の保証、イコール「派遣労働」の増加にみられる、より「移転しやすい」=「売買しやすい」労働を増やす一連の政策です。


 よく誤解されやすいことですが、「多様な働き方」=「派遣労働」が増えるような実態を支持するものではありません。

  ここで求められているのは、必ずしも「雇用形態」の多様化ではありません。

 現代の、「より交換しやすい労働」「金銭で売買しやすい労働」へ一直線に進化する経済ではなく、地域性や人的つながりなどの制約もある「交換しにくい労働」こそ、価値が保持されるという、もうひとつの価値観の問題です。



  そのような時代になると、会社も、ふたつの方向で進化、脱皮していくことと思います。

  (1)、利益や市場をささえている、より幅広い環境にアクセスしていく姿勢

  (2)、個別労働の対価としての「賃金」ではなく、人間と自然の生命の再生産に必要な、

           労働報酬だけにとらわれない互恵関係の構築 

         (右肩上がり時代の思考からの脱却)



それは、一元的な会社や特定の組織とだけの「雇用」支配・従属の関係ではなく、

また、「仕事」で稼いだお金のみで成り立つ、「買う」ことで成り立つ「くらし」ではなく

   地域の柔軟なつながりを軸にした多元的な関係=「くらし」の体系のなかに

      「労働」や「仕事」が包まれていく時代へ、再び組み直すことを意味しています。


「賃労働」として「お金」で交換することがすべて悪いわけではありません。

あまりにも、「賃労働」のみに偏った労働観が今の異常な社会構造をうんでいるのではないかと感じるのです。

「お金」を使わなくても、豊かなくらしを実現できる様々な方法があることに気づくことが必要な時代になっていると思うのです。


今、長引く不況で経営が苦しいから、

 「そんな悠長なことは言っていられない」ではなく、

経営が苦しいからこそ、

より明るい幸せな未来を展望できる「労働観」や「生活観」を取り戻さなければならないのだと思います。


      

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閏月のことと「後の十三夜」

2014年11月08日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

私は今まで閏年のことはわかっても、旧暦の閏月(うるうづき)のことは、どのように調整されるのかはよくわかりませんでした。

閏月があるといっても、はたしていつどのように1ヶ月足されるのだろうか。

12月の次に13月という話は聞かないし、2月の次にでもはさまれるのか、まったくわかりませんでした。

ところが、今年2014年、171年ぶりの「ミラクルムーン」があり、特別の閏月を体験することができました。

 

旧暦を太陽暦にあわせるには3年に一度の閏月を入れて調整するのですが、今年(2014年)は、171年ぶりに9月の後に“閏9月”が挿入されるため「十三夜」が2度訪れることに。

2014年は9月8日が中秋の名月。10月6日が「十三夜」。

このどちらか一方のお月見しかしないことを片見月(かたみづき)と呼んで、縁起が悪いと嫌われました。

それが今年は「後の十三夜」としてもう一度「十三夜」が11月に、旧暦の閏9月として観ることができるのです。

 閏月は必ずしも9月の後に挿入されるわけではなく、2012年には、3月と4月の間に閏3月が挿入されました。

 

 

かくして2013年のミラクルムーンの「後の十三夜」楽しみにしていたのですが、あいにくの曇り空で観ることはできませんでした。

下の写真は前日に撮影したものです。

 

 

上毛高原駅の下で、三峰山から出る月を待っていたら、するするっと車が横に寄って来て「おい、何してるんだ」と見た顔が声をかけてくれました。

その人は私と違って、プロのカメラマン。

「いや、あそこから出る月を待っているんだ」

というと、私の持ってるカメラに興味を持ってどれどれと見てくれました。

素人の私は、露出やシャッタースピードはいつも思い通りに操作できず、ほとんどが自動モードでの撮影。

したがって夜の月や星空、街明かりの入った夜空などは、ほとんどうまく撮れません。

そんな悩みを解決するには、いつもこのTさんが手っ取り早い先生になると前からあてにしていました。

 

Tさんは、私のそんな事情を知ると私のカメラを持っていろいろ写してみてくれました。

パシッ

「こりゃアンダーだな」(?)

パシッ

「ふむ」

パシッ

「ダメだ」

 

ん、ん

やっぱ、よくわかんない。

 

 

 

プロでも馴れないカメラは操作しにくいようで、

まあ、しろいろな設定で試して、意図した映像に近づけるというのがプロでも同じだということがわかった。

 

ちなみに師匠の撮ってくれた写真は、彼の名誉のためにアップはひかえておきます。

 

 

 

 

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魔除けのゾウリ、ワラジ、「八丁じめ」

2014年11月06日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

リンゴ園や稲刈りの風景を撮影していたときに、田んぼの角にワラゾウリがかけてあるのを見つけました。

伝染病などをもたらす疫病神を退散させるのだと言われますが、地域によって様々ないわれがあるようです。

 

このあたりのこうした習慣について、塩崎昇『上州のくらしと民具』煥乎堂のなかに、以下のような詳しい記述がありましたので転記させていただきます。

みなかみ町上牧では、葬式に棺をかつぐ人たち(四人)の履くワラジを「棺係のワラジ」と呼んだ。

良い縁起かつぎにした。

葬式の帰り道、棺係四人は村の辻にワラジを脱ぎ捨ててくる。

これを村人が拾って履くと、「アギレがきれない」とされた。

アギレとは足に生じるアカギレのこと。

素足でワラジを履き、長道中をすると足に傷がつく。この傷がアギレだ。

しかし、縁起かつぎに棺係のワラジを使っても、アギレが治らないとのことである。

 

水上町小仁田では、この棺をかつぐ人たちが履くワラジを「ガンガンワラジ」と言い、同じように辻に捨てる。

これを拾って使えば「蛇にかじられない」と言った。

今はワラジではなく、ゾウリを辻へ捨ててくるが形式だけになってしまった。

ワラジは今は魚とりに使うぐらいになった。

 

県内各地で、葬儀の連絡や通知をして回る人のことを「ツゲ」と呼んでいる。

近所の人のうちから一組二人のツゲを選ぶ。

ツゲはおむすびを弁当に、ワラジ履き、さらにワラジ一足は腰にぶらさげて出かけた。

近親者の家は、ツゲに対して昼飯と酒を出してもてなした。

 

また安中市ではオビンヅル様にワラジを供える。願かけで足、目の悪いのが治れば、そのお礼としてワラジを進ぜたという。

中之条町や勢多郡北橘村などでは、二月一日がデカワリ(出替り)で奉公人は帰省する。この日のために、後任の作番頭(年傭いの作男)が困らぬようにとワラジ、馬のクツなどをいっぱいつくっておいたともいう。

         (以上、塩崎昇『上州のくらしと民具』煥乎堂(昭和52年)絶版より)

 

 

 

同書のゾウリについての以下の記述をみると、さらによくわかります。

 

利根郡月夜野町大沼(旧町名表記)では、六月中旬。村境の山道の真ん中に大きなゾウリをつり下げた。

「魔除けのゾウリ」とか「八丁ジメ」とか呼ばれるこのゾウリ、長さ四十センチ、幅二十センチもあって、村人が共同でこしらえた。山道の両端の雑木を結んでシメを張り、その中央に下げるから、村に入る者はだれも大ゾウリを見上げ、その下をくぐることになる。

本来は左よりのシメ縄も、ここで使う品に限っては右よりになった。

ゾウリの緒は左よりになう。左よりは作りにくいそうだ。

村境は西が上牧、東が沼田市佐山である。

 同町上牧○○○○、石井周治さん(明治三十五年六月六日生まれ、七十三歳)は、「この村には、こんな大きなゾウリを履く人間がいるのだぞ———と脅したわけだろう」と言う。

ぶら下げたのはゾウリ片方分のみである。

八丁シメは「法度(はっと)ジメ」がなまったもの(八丁ジメは村の中心から八丁さきは村の内という考えがあり、村はずれという意味である。八丁ジメは村はずれに飾られる。)で、夏の疫病神除けの祈りが込められている。七月の農休み前にたてた。

ゾウリの真ん中には、天台宗の坊さんに拝んでもらい、書いて頂いた梵字の短冊が三、四枚下がっている。

                                 (ここまで引用)

 

私が見た写真のワラゾウリにも、ビニールの袋が括り付けられていました。

もしかしたら、この中に梵字の短冊でも入っていたのでしょうか。

 

ほとんど引用ですませてしまいましたが、ふと出会った風景のなかにある歴史文化の由縁を、運良く読んでいた本で知ることができてとても嬉しく思いました。

 

 

 

また、八丁じめは

「八丁じめの外に出てけんかをするな」

「八丁じめの内で生意気いうな」

などと、村内を表現する日常言葉として使われていたようです。

この記事を書いて意識するようになったら、結構、みなかみ町に限らず広い地域で見られるようになりました。
 
 みなかみ町下津の三重院手前の橋沿い
 
 
塚原宿の双体道祖神と草鞋
 
 
 
 
 
 
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