前回は、読書の「たて糸」と「よこ糸」のことを書きました。
前の文を読んでいただいた方には、おそらく次に書くことはだいたい想像がつくと思いますが、
また長くなりそうなので、暇で死にそうな方だけ読んでください。
この半世紀あまりの経済は、ひたすら「たて糸」のしがらみを断ち切り、可能な限り、
あらゆるところから「よこ糸」をかき集めることで、めざましい「成長」を勝ち取ってきた社会
であるといえます。
この半世紀に限定すれば、それは正しいかどうかの問題よりも、
「そうすることしか出来なかった」現実があり、
その流れに乗ることがむしろ合理的であったとも言えます。
資本主義の経済社会がもたらす基本的な性格として、
お金が、しがらみに囚われずに、より移動しやすく、集めやすくなること、
商品も、しがらみに囚われず、より移動しやすく、集めやすくなること、
労働力も、しがらみに囚われずに、より移動しやすく、集めやすくすること、
さらには都合に応じていつでも切り捨てやすくなること、
そのようにしてあらゆる「たて糸」のつながりを断ち切ることこそが、より大きな経済を
つくるための必須条件でした。
こうした流れは、まさに昭和の「東京オリンピック」や「大阪万博」のころから、日本の隅々にまで広がりはじめました。
まず第一に、もともとあった何にも換えがたい自然景観などの資産を破壊し、
先祖から受け継ぐことで再生産し続けてこれた建物や土着の技術などを捨て去り、
さらには、暮らしや子育てなどの生活の知恵も身近なものではなくなってしまいました。
千年、万年、それどころか億の単位の年月をへて踏み固められてきた大地。
その上を半世紀にも及ばないほんのここ数十年の間に、私たちはコンクリートで蓋をしてしまいました。
コンクリートで塞がれ呼吸することのできない土の声を、私たちは聞くことができません。
そのコンクリートの大地の上で、生活に必要なあらゆるものは、かつて自分たちが持っていたもの
ではなく、外から買い続けることによってしか成り立たない社会をきずいてきました。
現代社会は、むしろそれを良いこととして目指してきた社会だったのです。
長持ちせずに、次々と買い替えてもらえる商品、飽きやすい商品を大量に供給することが、
経済発展の条件でした。
それを疑うことはあっても、多くの経営においてそれはタブーでした。
まさに「東京オリンピック」のころから私たちはこの道を一直線に突き進んできたのです。
おかげさまで、どこの町へ行っても同じようなチェーン店が立ち並ぶロードサイドの景観、
地域づくりに至っても「◯◯カルチャーセンター」、「ふれあい◯◯」といった共通の
行政サービスがあふれ、かたちあるものばかりか、言葉や心の習慣までもが、
判で押したように同じ姿が全国津々浦々に浸透、定着しました。
背景には、技術革新や人口爆発があったものの、そこに「たて糸」のしがらみがあったならば、
決してあのような高度経済成長やバブル経済は起こりえなかったのではないかとさえ思います。
ところが、やがてバブルもはじけて人口減少社会になった今、
未だに、この「たて糸」を喪失したままで、「よこ糸」のみをかき集める経済成長を
期待し続けている人たちがたくさんいます。
今の政府頼み、行政頼み、業界頼みの発想は、どれもこの傾向を強く感じます。
なにごとでも徹底すれば、それなりの結果はついてくることとは思いますが、
長い歴史でものを考えれば、それはあまりにも目先の利益しかみない発想であることは
明らかです。
では、「よこ糸」のみに依存しない「たて糸」を活かす経済とはどのようなものでしょうか。
私はそれは、有形無形の「資産形成」こそを第一の目標にした経済だと思います。
「資産」というと、どうしても「お金」を貯めることのように思われがちですが、
「お金」が「資産」形成のプロセスで大事なことは事実ですが、「お金」ほどはかなく消えやすいものもありません。
多くのお金持ちは、このことをよく知っていて、「お金」をいかに「資産」に変えるかこそ
最大の知恵の出しどころと心得ています。
私のような貧乏人には、如何なる資産よりも、さしあたっての10万、100万のお金ほうが
どんなにありがたいかと思ってしまいますが、たくさんのお金を長く持っている人ほど、
恐慌や戦争などの度に、お金が紙くずになるリスクの高いものであることをとてもよく熟知しています。
まさに、こうした「お金」を「富」や「資産」に変えることの難しさを、私たちはバブルで経験しました。
今、思えば・・・ですが、
あれだけお金があった時期に、なかにはいい思いをできた人もいたかもしれませんが、
日本の後世の歴史に残るようなものを当時の人たちは、ほとんど何もつくれなかったのです。
「土地」や「マンション」こそが間違いのない「資産」と勘違いしたのはバブルならではだった
かもしれませんが、ごく一握りの人でも、奈良や京都の寺院が千年を超えて日本人の
文化遺産として残っているように、なにか他のもので百年でも、千年でも残るような
「有形無形の資産」を少しでもつくったでしょうか。
「お金」が「お金」をうむときに、私たちは「資産」を何もつくってこなかったのです。
そればかりか、限りある貴重な「資産」すらもことごとく手放してきたのです。
新しい「商品」=「よこ糸」を次々に生産してかき集めることよりも、
この「たて糸」である「資産」を形成することの方が 、長いスパンでものを考えると、
ずっと効率が良いことにそろそろ気づいてもよいのではないでしょうか。
「資産」とは、単純にお金を貯めることではなく、長く生き続けて活用できる財産を
つくることです。
自分の胸のうちに残る資産。
子どもや孫に遺せる資産。
会社の経営を支える資産。
地域に根ずく資産。
これらは皆、自分ひとりの占有物になるのではなく、隣りの人と、子や孫たちと、地域の人たちと
共有しあえるものです。
先の東京オリンピックの頃までは、一家というと三世代くらいが同居することが当たり前の社会でした。
それが急速に、親子二世代の社会になり、今では単身、独居世帯の比率が急速に増してきました。
かつての三世代同居時代には、無条件に親は、子供に残せる資産を守り増やそうと、土地を耕し家屋敷を守りそだててきました。
それが単身世代が増えるに従って、自分自身や子供に資産を残すということは、すなわち「現金」をより多く残すことこそが優先されるようになってしまいました。
親が大切に守り育ててきた田畑や屋敷は、子供にとってはタダでさえも欲しくはない、現金であれば歓迎する社会になってしまったのです。
地域資産が疲弊減少するのは当たり前です。
もう一度、現金よりも信頼に値する「資産」とは何か、
真剣に考え直す必要があると思います。
こうした「たて糸」=「資産」をふやすことこそが、人が育つ真に強い社会をつくることにつながる
のだと思います。
では、書店にとって「たて糸」に相当する「資産形成」とは具体的に何なのかを
次回に書いてみます。
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