陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「学歴」の違和感

2012-09-21 23:51:29 | weblog
ちょっと前に自民党の総裁選のニュースを見るともなしに見ていたら、各候補者の顔写真の下に、元ナントカという「経歴」、その下に「学歴」が表示してあった。さらにその下には「選挙区」「派閥」と続いていき、この「経歴」やら「派閥」やらというのはどれほどわたしにとっては関心のないことでも、現在の日本の政治情勢から不可欠(笑)であるのだろうと思ったのだけれど、改めて、この「学歴」というものだけは、何のためにあるのかよくわからないものだな、と思ってしまった。

考えてみれば、選挙の立候補にしても、組閣人事の発表の時も、プロフィールの欄にはかならず「学歴」の項目がある。あることは知っていても、たいていは気にもとめずに流し読みするだけで、記憶にも残らない。これまでずっと、その人がどこの大学を出ていようが、興味を引かれることもなかった。けれど、ニュースの先日のニュースのときに引っかかったのは、おそらく安倍さんの下に「成蹊大卒」という文字があったからにちがいない。

もし、そこに「慶大卒」とか「早大卒」とか「東大卒」と書いてあれば、何で「学歴」の欄があるのだろう、とあらためて疑問に思うこともなかったろう。もしかしたら、カタカナの「ハーバード大院卒」という文字を見て、「おっ、すげえ(笑)」ぐらいのことは思ったかもしれないが。それにしても「学歴」欄の違和感、というのとはちがう。逆に考えれば、政治家の欄にはだいたい「東大」とか「慶応」とかいった名前が書いてあるもの、と、無意識に思い込んでいるからにちがいない。とはいえ、わたしたちはほんとうに政治家にそういう学歴を求めているんだろうか。

政治家と学歴というと、思い出すのは、こんなことだ。
アテネが最も繁栄を遂げた時代の政治家に、ペリクレスという人物がいた。この人は、古代民主制を完成させたともいえる人で、同時に長らく戦争状態にあったアケメネス朝ペルシャと和平を結んだという外向的手腕のもちぬしでもあった。

このスーパー政治家ともいえるペリクレスについて、少し時代が下ってプラトンが、彼が議会政治家として成功することができたのは、哲学者アナクサゴラスの下で、「高遠な思索を十分に吹き込まれ」たからだ、と『パイドロス』でいっている。「高遠な思索」というのは、言葉を換えれば、「教養」、もうちょっと下世話な言い方をすれば、いったい何の役に立つのかよくわからないような勉強をした、ということだろう。つまり、プラトンの考える立派な政治家というのは、単に政治的手腕があるとか、経験を積んでいるとか、実際的な知識を持っているとかだけではなく、こうした非実際的な学問を身につけてこそ、なのである。

プラトンのいうことは、それはそれでもっともだとは思うのだけれど、かといって、わたしたちは政治家に「教養」のしるしとしての学歴を求めるのだ、というわけでもあるまい。「東大卒」「慶大卒」ならば、「高遠な思索を十分に吹き込まれ」ているはずだ、と思うほど、わたしたちはもはやナイーブではないだろうし、そもそも「教養」なるものの価値も、ずいぶん下落してしまっている。以前、とある首相が漢字の読み間違いをしたとかでずいぶん話題になったが、それは「東大卒」とか「早稲田卒」ばかりの大手マス・コミがおもしろがって騒ぎ立てただけで、わたしたちが首相に「教養」を期待しているわけではあるまい。

ただ、そうした大学名が並んでいても、ありがたみすら感じないくせに、見慣れない名前が混ざっていると、「ん?」と思う。まるで、ビールの陳列棚に発泡酒がまぎれこんでいるのを見つけたときのように(ちょっとちがうか。わたしはアルコール類を飲まないので、ここらへんの感じはちょっとわからないのだけれど)。別に自分に不都合があるわけではないのだが、「あれあれ、ここにちがうものが紛れ込んでるぞ」と思うのである。どうも「学歴」という項目は、そうした「異物」のあぶりだしとして、機能しているのではあるまいか。

「学歴」や「教養」の価値を信じているわけでもない。だが、そこに暗然と存在するよくわからない「規準」は知っている。期待はしていないくせに、「規準」に外れた人には気がつく。

なにもペリクレスのような立派な政治家を求めているのではない、もうちょっとましな政治家を求めているだけだ、と思いながら、「東大卒」や「早大卒」ではない学歴に深く考えることもなく違和感を覚えるわたしたちは、ある意味で自分たちにふさわしい政治家を戴いているということなのだろう。