陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「体験談」は役に立つか

2012-09-12 22:31:28 | weblog
大津のいじめ事件の影響だろうか、さまざまな人が自分の「いじめ体験」を語る文章を目にする機会が増えた。正確には自分がいじめられた体験だから、「いじめられ体験」というべきなのかもしれないが。

たいていは、それがどのように始まり、自分がどうされ、そのときどのような気持ちだったか、と続いていく。自力で克服した場合もあれば、年長者の助けがあったり、転校や卒業など、環境の変化で終止符を打ったりと、「解決編」はいくつかのバリエーションがあるが、いずれにせよ、いつかの段階でその状況は好転し、最後は過去の自分と同じように、いまいじめられている子供たちへの呼びかけで終わる。「たいていは」と書いたけれど、実際のところ、それ以外のパターンをわたしは知らない。

おそらくこうした体験を掲載している側は、いままさにその渦中にある子が、それを読んで、自分だけじゃなかったんだ、と慰められたり、いつか終わるんだ、自分もこんなふうに語ることができる日が来るんだ、と勇気づけられたりすることを期待しているのだろうけれど、わたしは読むたびに変な気がする。

幸か不幸か、自分も含め、身近にいじめる-いじめられる、という関係がなかった(もしくは気がつかなかった)わたしがこんなことを思うのは的外れかもしれないのだが、こうした「体験談」というのは、しょせんは誰かの「うまくいった」体験にすぎないのではないか。

「体験談」を依頼されるのは、有名人だったり、しかるべき地位にあったりする人なのである。そんなきつい体験があったにもかかわらず、逆境をはねのけ、「いま」があるのだ。そんないわば「勝ち組」の人の、「うまくいった」体験が、どれほど他人の役に立つものなのだろうか。ちょうど、他人の合格体験記が自分の受験勉強の役には決して立たないのと一緒だ。自分を励ましたり勇気づけたりできるものは、いつも自分自身の中にしかない。

もうひとつ奇妙に思うのは、これだけ多くの人が「自分のいじめられ体験」を語っているにもかかわらず、「自分がいじめた体験」を語っている人がいないことだ。これまたわたしが知らないだけなのかもしれないのだが、皆無と言えないまでも、圧倒的に少ないのはまちがいないだろう。

けれども「いじめ」が根本的に、一対多という構造を持っていることを考えると、いじめられた経験を持つ人より、いじめた経験を持っている人の方が、数倍から十数倍はいるはずなのだ。「私は昔、クラスの子全員に無視されたことがあります」という文章の背景には、「私(ぼく)は昔、クラスの子を無視したことがあります」という四十人ほどの体験がなくてはならない。

まあ考えてみれば、それも当たり前のはなしで、いじめた経験は人に聞かせたくなるようなものではないし、大人になっていろいろわかってくればなおさら、できることなら忘れたい、なかったことにしたい過去なのかもしれない。けれども、仮にこうした「体験談」が「いじめ」問題の解決の一助になろうとして「体験談」の掲載を企画しているのなら、「いじめ」に関わっている子供たちの相対的多数、いじめた側や、そこまではいかなくても無視に同調を余儀なくされたり、傍観を余儀なくされたりした側の「体験談」の方が、よほど必要なのではあるまいか。

確かに、いじめた経験や傍観した経験は、いじめられた体験のように、「自分は間違っていなかった」「自分は悪いことなどひとつもしなかった」という文脈では語れない。「仕方がなかったんだ」と思おうとしても、かつての自分を正当化することはできない。愚かな弱い自分を振り返ることは、恥ずかしさや痛みをともなう行為だろう。けれども、その恥ずかしさや痛みこそ、いま、そのさなかにいる子供たち、実際にいじめられている子の数倍はいるであろう同調者や傍観者と共有できるものなのではないのだろうか。