陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日本で一番?遅い年頭のごあいさつ

2013-01-09 23:16:35 | weblog
年が明けて十日あまりが過ぎて、いまさら年頭の挨拶というのも奇妙な話ですが、懸案のアリス・マンローが一区切りついたので、やはりここから始めましょう。

あけましておめでとうございます。

旧年中は、できるだけ毎日更新しようと思ってはいたものの、なかなかまとまった時間がとれず、更新もとぎれがちになっていたんですが、それでも訪問してくださって、ほんとうにありがとうございました。



シモーヌ・ヴェーユの『ヴェーユの哲学講義』のなかに、

「時間は、人間存在にとっての気がかりのなかでもっとも深刻でもっとも悲劇的なものです。あるいは唯一の悲劇的なものだと言えるかもしれません」

という一節があります。

わたしがヴェーユを最初に読んだのが、二十歳前だったということもあって、当時は「時間が悲劇的」ということが、どうにもピンと来ませんでした。その頃、寮の隣の部屋の子が、ユーミンの「時はいつの日にも 大切な友だち 過ぎてゆく昨日を 物語に変える」という歌を毎日聞いていて、なるほど、〈昨日〉を〈物語に変える〉というのはうまい言い方だなあ、と感心していましたから、それもあって、「大切な友だち」の時間が、そんなに悲劇的なものだとは思えなかったのです。



暮れに、映画の『レ・ミゼラブル』を観に行きました。
感動的な歌が続くなかで、登場人物の一人、マリウスが "Empty Chairs At Empty Tables" という歌を歌う場面に、ことのほか深く胸を衝かれました。

六月蜂起がバリケードの陥落とともに終焉し、パンや職が平等に分け与えられる世界を求めて立ち上がった同志は、みんな死んでしまいます。けれども、ジャン・ヴァルジャンのおかげで生きながらえたマリウスは、曲のタイトルの通り、空っぽのテーブルや空っぽの椅子を見て、悲しみの涙を流しながら、生きている自分を許してくれ、と歌うのです。

机や椅子ばかりでなく、本来なら何でもないただの物が、その物とは不釣り合いなほど、強い感情を引き起こすことがあります。本の間にしおりがわりに挟んでいた一枚の葉っぱや、服から落ちたボタン。そうしたただの「物」が悲しいのは、思い出の引き金になる、というだけではない。小学生のまだ低学年の頃だったけれど、幼稚園にあがる前の夏に着ていた、薄い青緑色のワンピースがタンスの底から出てきて、自分がどれだけこの色が好きだったかを思い出し、自分がもう二度とこの服が着られないことに感じた、身を圧倒するほどの悲しさを、いまでもよく覚えています。一枚の服がどうしてこんなに悲しいのか、不思議でしょうがありませんでした。

やがて、わたしはこう思うようになりました。
「物」は、ただ物としてあるだけではなく、いつだって自分を含めた「人」と結びついたかたちで存在します。

そうしてまた、そこに「ある」物や「いる」人をわたしたちは見ることができます。けれども、わたしたちは「いない」人を直接に知覚することはできません。

ところが「物と結びついた人」の「物」だけが残っているのを見たとき、わたしたちは初めて、それまでそこにいたはずの人が、いまはもういない、ということを、直接、まのあたりにしている。その「物」と結びついていたときの自分や誰かはもういないのだ、ということを、「物」を通じて、はっきりと「見て」しまうのです。
ほんとうは「物」が悲しいのではなく、悲しいのは「そのとき」にはそこにいた人が、「いま」はもういないことが悲しいのだけれど、実際、わたしたちには、その「不在」をそういうかたちでしか認識できない。そうして、この「不在」とは、時が過ぎた、ということにほかなりません。

その意味で、「時間」は「唯一の悲劇的なもの」なのでしょう。

時は、いやおうなく過ぎていきます。わたしたちがいま、ばくぜんと「自分のもの」と信じている、さまざまなものや人間関係や自分自身のありようも、いつかはまちがいなく自分から切り離されてしまい、取り戻そうと思っても、二度と自分のものにはならない。この自分自身さえ、いやおうなく変わってしまい、決して過去の自分には戻れません。

なのに。

なのに、わたしたちは誕生日が来ると、おめでとう、と言い、年が改まると、おめでとう、と言います。悲劇的なもののはずなのに、時間が過ぎていくことを、どうして喜ぶのでしょう。

それは、おそらく何かを失う、ということは、別の新しいものを手に入れる、ということだから。過去の自分を失う、ということは、新しい自分を手に入れる、ということだから。

竜宮城に行った浦島太郎のように、過ぎてゆく時間に目をつぶり、何か、それを忘れさせてくれるものに夢中になる、というやり方もあります。けれども、時間の過ごし方はそれだけではありません。過ぎてゆく時間のなかで、何かを続けていくこと。積み重ねていくこと。そうすれば、何ものかは残っていきます。

未来は、先にあるものではありません。未来は、足下にある。たとえ、今日手に入れたものを、明日、失うことになるにせよ。手に入れた記憶は確かにわたしのうちに刻まれていきます。

がんばっていきましょう。
どうか今年も 「ghostbuster's book web.」 とブログ「陰陽師的日常」よろしくお願いします。

いや、今年はもうちょっと更新します(笑)。

あけまして おめでとう
あたらしいとし おめでとう
きょうも あしたも あさっても
ずっと ずっと 1ねんじゅう
300と65にち
よい日でありますように


なかがわりえことやまわきゆりこ
『ぐりとぐらの1ねんかん』